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June 24, 2005

『幼年論―21世紀の対幻想について』

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『幼年論―21世紀の対幻想について』吉本隆明、芹沢俊介、彩流社

 吉本さんと、吉本さんの家族論のお弟子さんである芹沢さんによる対談。これまでも、お腹にいる間のお母さんの精神的な安定、そして1歳までの間の精神的な安定がその後の人としての安定感を決定する、ということを繰り返し語ってきた吉本さんだが、柳田国男の「軒遊び」概念をつかって、この時期に関する考察を行っている。「軒遊び」という言葉が出てくるのは『ハイ・エディプス論:個体幻想のゆくえ』言叢社以来のことじゃないかな。

 その問題意識がよく出ているのが吉本さんによる「まえがき」。

 「幼年期の内働きの主役であった母親の授乳と排泄から学童期にいたる間に、とくに「軒遊び」の時期を設定してみせた柳田国男の考え方は、たんに民俗学や人類学の概念の基礎を与えただけではない。存在論の倫理としていえば、母親による保育とやがて学童期の優勝劣敗の世界への入り口の中間に弱肉強食に馴染まない世界が可能かも知れないことを暗示しようとしているともいえる。そして誰もが意識するか無意識であるかは別として、また文明史がそれを認めるか認めない方向に向うかは別として、この中間をもつことは人間力の特性につながっていると思える」。

 そして対談を経ての結論がよく出ているのが、芹沢さんによる「あとがき」。

 「幼年とは、私たちの定義からすると、母親が傍にいることが必要な時期である。母親の存在を傍らに感じているとき、子どもは安心して、安定的にひとりになることができる。ひとりになれるということは、「軒遊び」の時間を過ごすことができるということを意味する。
 だが現在、子どもたちは社会においても家族においても、このような幼年期の核となる軒遊びの時間を生きることが困難になってきている。子どもは生まれて間のない時期から〈ある〉ことだけでは許されず、いつも教育のまなざしのもとで何か〈する〉ことを求められるのだ。幼年という子どもの時間が子どもたちに保証されがたくなったのである。極端にいうと、幼年という概念はいまや消滅寸前である。
 それほどまでにないがしろにされている幼年期が、人が人間になっていくためにいかに大切かということをめぐって、対談はおこなわれている。そして一言付け加えるなら、この幼年についての議論は、対幻想論の新しい裾野に確実に触れているはずである」

 「軒遊び」とは具体的には母親が側にいる段階での一人遊びのことだが、もちろん、子供は不安になってくずったりする。その時にうけとめてくれるのは母親の乳房だ、という話にはちょっと感動。いまは消え去った風景だが、子供がくずったりすると、母親は胸をはだけて母乳を与えるというよりも、乳房を与えていた。それは、ここまでは書いていないんだけど「ちゃんとつながっているだ」という感覚を子供に与えることができ、それが精神の安定を生むのだろと思う。

 また、本論とは直接関係ないが、いまは奥さんの実家に旦那さんが入るという形のマスオさん型の家族が増えてきているように思うけど(また、そうした形態が「大丈夫なんかいな」と端からの心配をよそにうまくいっているケースが多い)、それは、日本の社会は古代から女系社会であり、男は通い婚をして、妻の父が後見人となったという形態の安定感に由来する、という論議も面白かった。母親と娘はいつまでも仲がいいし、そうしたことが「女系的なほうが親密な氏族の集団を続けやすい」(p.184)という指摘は納得的。

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