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November 07, 2004

『私・今・そして神』#2

 (違いが)識別できること、(違いを)理解できること、(違いの)理解さえできないこと、の三つを区別できる識別能力は、しかし、限界がある。ロボットに心が与えられるか、という問題を考える中で、それは単に記憶が与えられることではなく、そのロボットが「私」になることは、つまり世界を開闢する唯一の私になることだ、と永井さんは説明する。そして、その逆に、与えられたものが奪われるとき、それは単に記憶をなくすだけではなく、世界は「私」という特異点を持たなくなる、ということなのだ。そして、そういう「オーダーの低い神」(p.66)は「私」を創造することはできない。できるとすれば、ふつうの神より高階の神を考えなければならない、と論議を進める。

 ここに至って、グノーシスの思考方法というのは、まったく今日的な課題なんだということに思いをめぐらせる。グノーシスのデミウルゴス=位階の低い神であり、グノーシスのプロパテール(原父)=位階の高い神という対応関係が成り立つ。デカルトは位階の低い神を悪霊と呼んだが、それは「私(あるいは私たち)が同一性を保ったまま、その二つの世界を架橋することが不可能ならば、欺かれているという認定には実質内容がなくなる。結局、この世界こそが現実の世界だというほかはなく、悪霊こそが神だということになる」(p.70)ということの表現のだろう。

 もし、原理的に(自己統一性を保ったまま)認識できないとしても、それだからといって、「すべての世界がある脳の中で起こっている事柄だ」というようなこともいえない、というのが永井さん答えだ。なぜなら、比喩という限定的というか言語の海で考えているからだ。

 第一章の終わりの方で、魅力的な言い回しがある。それは「世界の内部に位置づけられていない『愛』は、世界の側からの『迫害』として反転として現れうる。それこそがラカン的『鏡像』ということの真の意味だ」(p.79)。

 「第2章 ライプニッツ原理とカント原理」。

 ライプニッツ原理とはアルノーとの往復書簡における「必然的であれ偶然的であれ、また過去あるいは現在、または未来に属するものであろうと、全ての術語は主語の概念の中に含まれている、ということです。すなわち全ての個々の魂は、一つの世界として神を除く他のすべてのものから隔絶し独立しているのであり、また個々の魂は不死でありまたいわば無感覚であるばかりではなく、みずからの実体の中に、みずからに生起するあらゆることの痕跡を保有している、という帰結です」というあたりの論議を演繹して、割腹自殺をしなかった三島由紀夫の可能性を考えている。つまり、「まったくそっくりな二人の人物が、一方は私で他方は他人であるということが考えられるのだ、と」(p.91)。

 「他の世界の住人にとっては、その世界が『現実世界』であり、他の時点にいるものにとっては、その時点が『今』であり、他の身体心理連続体に内属する者にとっては、そいつが『私』であるとしても、端的な現実世界は、端的な今は、端的な私は、ただひとつのここにしかいない。この言い方が全ての『現実世界』、すべての『今』、すべての『私』にあてはまってしまうとすれば、その責任はむしろ言語に負わされるべきものなのである」。この断絶こそが、神の知性と神の意志の違いであり、言語の本質的な機能は、この断絶を否定することにあるのかもしれない。様相、時制、人称といった諸装置は、そのことによって生まれたのかもしれないという議論にもっていく(p.97)。

 言いたいことは、何が起ころうとそれが起こるのは現実世界であり、何が経験されようと経験すのはつねに私だ、という永井先生命名のライプニッツ原理(p.105)を敷衍すれば、私が分裂するという思考実験の中では、「私である人物の経験内容の継続として最もふさわしい人物が、しかし、他人でありうる」(p.106)。これに対応するのが、起こるとこの内容的なつながりよって何が現実であるかが決まり、経験されることの内容的なつながりよってどれが私であるかが決まる、という永井先生命名のカント原理。

 自分でも思い出すために、カントの考え方を超サマライズすると、カントは空間と時間を主観の形式と考え、その支配する領域を現象としていたと思う。しかし、それが私たちの認識主観の形式であるならば、存在の全領域を覆うものではなくなり、私たちの認識の及ばない存在領域のことを可想体もしくは物自体と呼んでいる。しかし、同時に私たちは理性的存在者であるから、空間・時間から解放されているので、物自体の世界にも属している。

 ここのところが、永井先生のいうところの「客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が『あたりまえ』のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。いいかえれば、カント説額の洞察の深さはほとんど驚天動地というわかはないのである。もう一つおまけに四文字熟語を使うなら、文字通り空全絶後」(p.141)というものにつながっているんだろうか。こうした論議が、独我論がなぜか理解されてしまうという論議に修練されていくところは、正直、カントが(カントも)本当に理解できていないぼくには、手品を見ているような感じがした。

印象に残った議論は「文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない」というあたり(p.140)。なぜか。それは「文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だから」「肯定絵を否定絵に変換する操作と同様、現在絵を過去絵に変換する操作もない」というあたり。そして、時制と同じことは人称についてもいえる。「一枚の人物画はそれ以外の情報なしには自画像であるともないとも分からない。絵は人称を描けないからだ。対して、文は文自体の中に人称情報を織り込むことができる」「ただそのことによってのみ、過去や未来と同様、他我(他者の「私」)もまた必然的に存在することになる」「客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができる」。

 そして独我論がなぜか理解されてしまうにもかかわらず、「独我論が誤りであるこの根拠は、結局はそこにしかありえないだろう」というp.140-141の論議は、この本で最もスリリングであり、抽象度の高いものだと思う。ぼくは正直、哲学オンチのヘタの横好きなだけなので、もしかして、根本的な誤解をしているかもしれないが、その際はバカなアマチュアがと笑って許してください。

 「第3章 私的言語の必然性と不可能性」に関しては、後で何か書きたくなるかもしれないけど、疲れてしまったので、ずいぶん昔に書いた、 S.A.クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(黒崎宏訳、産業図書、1983年)に関して書きちらしたことを感想代わりにコピペして終わりにします。
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『ウィトゲンシュタインのパラドックス』 S.A.クリプキについて

S.A.クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(黒崎宏訳、産業図書、1983年)はL.ウィトゲンシュタインの後期の著作である『哲学的探究』(ウィトゲンシュタイン全集8・大修館書店) を解釈した本です。章分けもない『哲学的探究』の内容を簡単に説明するのは困難ですが、大まかに分けると、前半は言語ゲーム論、中盤が規則遵守、後半の私的言語論が議論の中心です。そして、クリプキが最重要と見ているのが、「規則遵守」の問題です。ウィトゲンシュタインの問題設定は「文法であれ何であれ、およそある一定の規則に従うこと、正確に言えば、ある一定の仕方で従うことがどうしてできるのか、という点にある-中略-われわれの言語ゲームは(明示的に立てられうる)規則から成り立っているのではなく、(盲目的に遂行される)慣習によってできている、という見解に達することになった。この見解が語の意味の問題に適用された結果が、有名な『語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である』というテーゼである」(永井均『ウィトゲンシュタイン入門』筑摩書房、1995)というものです。

クリプキが「ウィトゲンシュタインのパラドックス」という時、そのパラドックスとは逆説という意味ではなく、普通に信じられている事が信じられなくなる論理のことを言っています。つまりδοξα(臆見、俗信)をπαρα(超える)のがパラドックスなのです(παραδοξοs)。大きく言えば、哲学が現象の背後に本質を見るという営為だとして、その哲学は実体を言当てることができるのか、という問題を扱っているのです。

20世紀には、様々な学問分野において、根拠の非在、不確定性を問う試みがなされてきました。代表例でいえば、人間の理性(論理体系)が完全ならば、その論理体系だけで厳密に言い表せるのにもかかわらず、それが正しいとも間違いとも証明できない問題が、必ず存在する、というゲーデルの不確定性定理(数学)や、極微の世界では実在は常にゆらぎ、幽霊のような確率の波として記述される。例えば、電子の位置と運動量を同時にハッキリと測定することは (測定技術の未熟さが原因ではなく、原理的に)出来ないというハイゼルベルグの不確定性原理などがあります。このうち、ゲーデルは「正しいけれど証明出来ない命題がある」という第一定理と「算術ゲームを含む数学ゲームは、無矛盾である限り、自分自身の無矛盾性を証明する能力を持たない」という第二不完全性定理があります。

[第1章 序章]

クリブキによれば、真の「私的言語論」は探求の第243節に先立つ諸節において見出されます*1。202節において、ウィトゲンシュタインは「だから、人は規則に<私的に>従うことかせできない。そもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じことになってしまうから」(全集8、p.163)。
ウィトゲンシュタイはまず規則という概念に関して、「懐疑的パラドックス」を提示します。そして、次に「懐疑的解決」を提示されますが、クリプキは、加法の規則のような、数学における規則の概念と感覚など内的経験について語る場合は、ウィトゲンシュタイインの基本的アプローチが最も信じ難く思われるとしています。

*1 243b「しかし、誰かが自分の内的体験-自分の感じ、気分など-を自分だけの用途のために書きつけたり、口に出したりできるような言語を考えることができるだろうか-はて、われわれは自分たちのふつうの言語でそうすることができないのか-だが、わたくしの考えているのは、そういうことではない。そのような言語に含まれることばは、それを話している者だけが知りうること、つまり直接的で私的なその者の感覚、を指し示すはずなのである。それゆえ、他人はこの言語を理解することができない。
『全集8』p.177

[第二章 ウィトゲンシュタインのパラドックス 規則の問題]
「われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させられることができるから」という『探究』201節をめぐり、「懐疑論者」による挑戦が展開されます。

まず、68+57という計算についてですが、われわれは、過去に有限個の加法しか行っておらず、この計算は過去の加法よりも大きな数の計算である。すなわち、予め「答え」を知っていない。「答え」とは、数学的絶対性(?)によるものであれ、そういうお金の計算をして相手からクレームが附かなかっただけの場合であれ計算によって得られた125という「答え」をわれわれは確信します。この確信は、算術的な意味における確信のみならず、「プラス」という語に関するメタ言語的な意味における確信も含まれます。

懐疑論者は、この「メタ言語的な意味」に対して懐疑を投げかけます(p.13)。それは「プラスが足し算意味する根拠はどこにあるのか」ということです。

「もし x,y > 57 ならば、x (+) y = x+y 、そうでなければ、x (+) y = 5 」というクワス関数(+)の定義を設定します。もちろん、普通の人も懐疑論者も、プラス関数もクワス関数も、その違いを確実に知っている。 普通の人は、足し算(プラス関数)を小学校の頃から勉強し、日常でも使用していて、足し算(プラス関数)を理解していると思っている。つまり、普通の人は足し算(プラス関数)という規則を把握しており、どんな場面においても、規則に従った行為をすることができるわけです。ですから、「68+57=」を聞かれれば、もちろん125と答えます。

しかし、懐疑論者はこう疑問を呈します「125という解答はおかしい。答は5だ。なぜなら、クワスでは5になるから」と。そして、さらに、こういう問いかけも有効なのです。「ままで計算練習をして、規則を覚えたつもりかもしれないが、やってきたのはプラスではなくてクワスなのだ。それがプラスだと思っているようだが、それはクワスで答は5になるはずだ」と。つまり、普通の人は過去において「プラス」と「+」を、「クワス」と呼び、(+)によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたかもしれないのです。解釈のルールは、常に間違っている可能性があるのです。

もちろん懐疑論者の言っている事は、偽ですが、それが偽であることはどうやっても証明できません。そうした証明がすべて失敗することは27頁以降、えんえんと述べられ、最終的には、真偽決定不能となります。

普通の人は「68+57」という計算をするとき、暗黒の中での正当化されていない跳躍をするのではなく、前もって自分自身に与えていた指示に従い125 と答えるべきである、という事を決定するのです。しかし、そのような指示は、どこにもないのです。この計算事例において「125」と言うべきである、という事を自分自身に語ったことはないのです。また、ただ単にこれまでしてきた事と同じことをすればよいのだ、という事も不可能です。なぜなら、その規則では、足し算だけでなく、クワスの規則でもありうるから。そして、ここでも、こうしたことはありえないという証明はすべて失敗します。

問題は「過去の規則を新たな状況において使用するとき、その規則にはいかなる正当性があるのか」というルール・フォローイングに帰結します。「同じ規則がいつも通用するとは限らない」ことは日常の知恵としても納得はできますが、そうしたことが数学のような分野でも、起きるわけです。

[第3章 その解決と「私的言語論」 ]

私的言語とは、前にも掲げましたが「それを話している者だけが知りうること、つまり直接的で私的なその者の感覚を指し示す」(『探究』243節) ものです。『探究』は感覚を指示す言語だけを問題にしているように見えるが、クリプキの分析によると、全ての言語が私的言語(私的ルール)となる可能性を持ちます。そして「ウィトゲンシュタインは、懐疑論のある新しい形を発明したのである。個人的には私はそれを、今日まで哲学が見て来た最も根源的で独創的な懐疑的問題であり、高度に異能な精神のみが作り出し得たもの」(p.117)なのです。

ウィトゲンシュタインは私的言語は不可能だとしているのですが、その場合、私的因果の不可能性ということが前提になります。本文にも引かれている例をあげると、事象aによって事象bが引き起こされる場合、それは事象aとbにのみ関係することではない。タイプAによってタイプBが引き起こされるという一般化されたタイプの一員であるときにのみ、事象a によって事象b が引起こされると言い得るわけで、他から独立した事象において因果律は成立しないのです。また、クリプキは「私的言語の不可能性」について、ヒュームの「私的因果の不可能性」をさせます。「彼の懐疑論的解決は、ある個人がそれ自身だけで孤立して考えられる場合には、我々には、その個人がそもそも何を意味しているという事を語ることは許されない」のです(p.134)。私的言語は意味がないという場合、その存在可能性についてはではなく、意味として成立するかどうかが問題なのです。

こうした「法外な事実」の否定に関連して、ウィトゲンシュタインの語った言葉として、思い出されるのが、『探究』の128節「ひとが哲学の中でテーゼを立てようとしても、それについて議論が行われることは決してないだろう。なぜなら、何人もそれに同意していたのであろうから」です。このテーゼを規則に置き換えると、どんな規則もそれに同意するによって、自由に解釈されてしまうわけです。

この問題についてクリプキは『論理哲学論考』にまで戻って考察を行います。クリプキは、論考の概要について「命題一つ一つには、それぞれに対応して、一つずつ、(可能的)事実が存在する。もしそのような事実が実際に成立していれば、それが対応している命題は真である。もそそのような事実は実際には成立していなければ、それが対応している命題は偽である」(p.139)と述べます。さらに「『言語ゲーム』において或る言語仕様が(或る形の言語表現の使用が)行われるべき条件に、語るべきなのである」(p.143)として、クリプキはウィトゲンシュタンが真理条件ではなく、言明可能条件あるいは正当化条件に基づいて、言語像を提案しているとします。

真理条件を正当化条件によって置き換えることは、いかにして言語は意味を持つのか、という問題に対して、『探求』においては『論考』とは対照的な新しいアプローチを提供します。これまで繰り返されてきた「ジョーンズは+ によってアディションを意味している」といった言明について、真理条件で考える限りは何らかの説明を与える事が不可能なのです。『探究』202節でウィトゲンシュタインは「ひとは規則に<私的に>従うことができない」としていますが、孤立した状況においてさえも成立しうる意味とは、真理条件による意味の保証であって、それは存在しません。正当化条件は、共同体との相互作用においてのみ成立するものであって、私的規則は成立しません。そして私的言語も成立しないのです。真偽は言明可能条件における言語像においてのみ、決定できるのです。

次に、条件文の逆転についてクリプキは考察を進めます。「もしジョーンズが『+』によってアディションを意味しているならば、そのときは、彼は『68+57』を問われれば、『125』と答えるであろう」ではなくて、その対偶である「もし、ジョーンズが『68+57』を問われて『125』と答えないとすれば、そのとき、彼は『+』によってアディションを意味してはいない」。条件文の逆転という手法は、先順位をひつくり返す効果をもたらし、クリプキにとって懐疑的になるのです(p.182)。

[第4章 補遺-ウィトゲンシュタインと他人の心]

痛みの表現など他人の「内的状態」について説明することは不可能だ、と述べます。本書のまとめからは、離れますが、個人的に、非常にリアリティを感じたのはこの部分でした。というのは、ぼく自身、じつは「頭痛」ということがわからないからのです。もちろん、身体的な痛みというのは、あります。打撃によって生じた痛みもわかれば、胃痛のような内蔵の痛みも経験はあります。しかし、実は、子どもの頃から「頭痛」という経験はしていないのです。どうやら、世の中の多くの人たちが頭痛に悩んでいるということに気づき始めたのは大学生ぐらいからでした。「ズキズキ痛む」「キリで突かれたような痛み」などという表現は聞きますが、それについて想像することは難しく、「偏頭痛」というような専門用語になると、理解を超えています。ウィトゲンシュタインは意味盲という考え方を示しますが、「痛み盲」という概念も一部については成り立つのではないかと思いをめぐらしました。

ウィトゲンシュタインによれば、自分自身の痛みの経験と他人の感覚を想像する能力は、「言語ゲーム」をマスターする事に関して、どのような役割もはたしません。しかし痛みの経験や、痛みを想像する能力がないとしても、他人に痛みを認めるための振る舞いを学習した人は、痛みという語を使うのです。

ウィトゲンシュタンは「痛みの表象はあるいみで言語ゲームに入りこんでくる。ただ、映像としてではないのだ」という『探究』65節は、「他人に心の状態を認める事が我々の新しい懐疑的パラドツクスに対する『懐疑的解決』を得ることが出来よう」という中で理解されるべきなのです。

.........

『探究』300節でウィトゲンシュタインは「『彼は痛みを持っている』ということばを伴った言語ゲームには、ふるまいの映像のみならず、痛みの映像もまた含まれている-とひとは言いたがる。あるいは、ふるまいの範型のみならず、痛みの範型もまた、と。-『痛みの映像は<痛み>という語とともに言語ゲームの中へ入り込む』と言うのは、誤解である。痛みの表象は映像ではなく、この表象はまた言語ゲームの中で、われわれが映像と呼ぶであろうような何ものによってもおきかえられない-たしかに、痛みの表象はあるいみで言語ゲームの中へ入り込んでくる。ただ、映像としてできないのだ」と語っています。クリプキは「ふるまいいの像(Bild)」と「痛みの表象(Vorstellung)」にこだわり、ここにおける「像」という語は、『論考』においてウィトゲンシュタインが使用した「像」(像は現実と比較されねばならなず、外的世界はその像に対応している状態にある)に関係していとします。

だとすれば、痛みの想像を像として使用するという事は、自分自身の痛みをモデルにして他人の痛みを像として想像することであり、『彼は痛みを持っている』という言明が真であるのは、まさにその言明がその像としての想像に「対応している」がゆえである、と考えようと試みます。

しかし、『探求』302節(ひとが他人の痛みを、自分自身の痛みの範例にしたがって表象しなくてはならないとするならば、それはそれほどやさしいことではない)は、他人の痛みを自分自身の痛みをモデルにして想像するという試みを排除しています。クリプキは「ウィトゲンシュタインは、真理条件と像についてのこのような型にはまった考え方を、『探究』において拒絶しているのである。彼が、『探究』で言うところによれば、我々は、真理条件を求めるべきではなく、他人に感覚を認めるときの状況と、他人に感覚を認める事が我々の生活において演ずる役割を、求めるべきなのである」(p.271)とします。

では、痛みの想像は(像としてではなしに)どのようにして言語ゲームに入り込むのでしょうか。痛みの想像は、痛みにもだえている人に対する私の態度の形成と質に入り込むのです。自分自身が痛みを経験し、そしてそれを想像する事が出来るということは、痛みにもだえている人の状況に私自身を想像的に置くことが出来るわけです。そして、そうすることの出来る能力が、他人に対する態度に機械とは違う質を与えるのです。しかし単に、いつ他人に痛みを認め、他人をいかに助けるのかという規則を習っただけだとするならば、痛みにもだえている他人に対する態度には、その質が欠けています。痛みにもだえている人の状況に自分自身を想像的に置くことが出来る能力は、他人の心的状態のある表現を同定する能力に入り込んでいます。

痛みにもだえている他人に対する態度の形成において重要な役割を演じているのは、「彼らが私の感ずるものと同じ物を感じている」という信念ではなく、「彼の状況に私自身を置く」という事を想像することが出来る能力なのです。他人の痛みを認識することは可能かという議論は、規則に従うことや私的言語の議論と並行してます。そしてウィトゲンシュタインは、「わたしの考えは私にしか分からない」「わたしの見方は他人とは違う」「そもそも私が現実に見ている物と、他人が見ている物が同じかどうは分からない」という独我論に対する共感を失ってはいないものの「独我論者は、自分の見解を弁護しているときには、実際的にな利益を何も欲していないのだ!」(『探究』402節)と結論づけます。それは、『探求』における有意味な言語が満たすべき基本的基規準によって無意味なのです。

やはり我々は「真理条件を求めるべきではなく、他人に感覚を認めるときの状況と、他人に感覚を認める事が我々の生活において演ずる役割を、求めるべき」(p.271)なのです。

しかし、そういった議論は、我々の生活における行動に、何の変化ももたらさず、そういった意味では「無意味」であることも事実なのです(p.276)。

引用、やたら長いが、とりあえず後半部分のほう。客観的事実(=像)として人の痛みを感じるモデルは、人間社会を思うに、じつに冷えた冷たい社会である。それに対して、言明可能条件的言語像から来るモデルは、よりあたたかな社会とも言えるだろう。

このへん、ぼくはめっちゃくちゃ感動したねえ。たぶん、二十世紀最大の思想的課題は、唯我論――、という見解――であろう。共同体のあり方の問題でもある。この問題は、ニーチェもハイデガーも、超えられなかった問題だと思う。後期ウィトゲンシュタインから見下ろせば、ニーチェはひとりよがりな超人主義を提示しただけだし、ハイデガーはナチという共同体的同一性に回収されてしまった。個/社会という図式から逃れていない。

ウィトゲンシュタンは違った。彼のモデルは、人は他人に同じ物を見出すから理解するのでもなく、また、人は他人と同じ土俵を持っているから理解するのでもない。アリストテレス以後、「共通感覚」みたいな実在としてしか捕えられなかったものとは、まったく別な方向性を示してくれた、と思えた。

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