« 東京B級グルメ#91「永楽」 | Main | 『私・今・そして神』#2 »

November 06, 2004

『私・今・そして神』#1

『私・今・そして神』永井均、講談社現代新書

 永井先生は、大学院の授業でも原著でテキストを読むことなどしない。こういった授業の進め方に対して、批判的というか、「いやはや」的な反応をする教授連もいるようだが、永井先生は哲学を研究するというよりも、自分でトコトン考えることを重視しているから、一向に気にしない。

 でも、「はじめに」で、これまで否定してきた「○○期××の△△の概念について論文」を書くような「彼らこそが哲学の本当の意味を理解している可能性は十分にある。逆に出来合いの哲学的練習問題集に収められている『哲学問題』をどんなにスマートにとくことができても、それはじつはちっとも哲学ではない可能性はきわめて高い」(p.7)と書いている。そして、こうした哲学観の変化は、この本を書いている最中におこったとしている。

 しかし、いまひとわからないのは、「ついて論文」派の肩を持つようなことを書いていながら、初学者というか哲学を志す若い人たちにプラトンやアリストテレスなどの仕事を「勝手に使って、そこから直接問題そのものを書いたらどうか」と勧めていること。そして、本書でも、ライプニッツの文章を勝手に改竄して利用している。もちろん、誰にでもわかるようにはやっているわけだが、ぼくみたいな凡人には、ここらへんのつながりは、正直、よくわからないので、「いずれ機会があればくわしく書く」(p.6)のを楽しみに待ちたいと思う。

 本来ならば「語りえないことについては、沈黙しなければならない」のかもしれないが、まあ、ヘタの横好きということで、「第1章 開闢の神をめぐってたゆたう序章」から。

 いきなりラッセルの超有名な「五分前世界創造説」*1に関する考察である。これは「出来合いの哲学的練習問題集に収められている『哲学問題』をスマートにとく」人たちへのあてつけなのか、それとも、スマートじゃないかもしれないけど、自分の言葉で解くんだ、という意志表示なのか、よくわからない。単に、ぼくの勘違いあるいは学のなさなんだろうか。ま、いいが。

 この問題に対して、永井先生は「私の記憶だけが五分前につくられたという想定では」ダメだという。それは「いまつくられたばかりの私の記憶が、いまつくられたばかりではない他人たちの記憶と一致しているという事実が、説明がつかないからである」と。記憶が一致した場合には、いま生じたという事実には何の意味もないからだ、と(pp.20-21)。

 さらに「だれも覚えていない過去」は全能の神であっても作れない、とこの問題をさらに発展させる。それは、神が作ったということを我々が理解できないからである。「それ」はわれわれの言葉で表現されているものだから、「神の全能でさえ、この壁は打ち破れない。なぜなら、この壁は神の側からは存在せず、われわれの側からだけて存在する壁だからだ」(pp.27-28)と。

 そして、すべての記憶がそのつどつねに贋物だという場合についての考察が続き、さらには『マトリックス』(あるいはデカルト『省察』)のような「五十センチ先世界創造説」の可能性にもふれていく。「五分前」と「五十センチ」の違いはいろいろあるが、五分前は客観的な時間点だが、五十センチ先は客観的空間ではなくなり「世界がつねに新しくつくられていることと同じ問題が生じてしまう」(p.40)ことが最も問題だという。それは感覚質(クオリア)の逆転、私的言語の論議へとつながる(p.36-37)。

 こうした論議を通じて、しかし「われわれは(違いが)識別できること、(違いを)理解できること、(違いの)理解さえできないこと、の三つを区別して」おり、「それによって、われわれはある種の超越性を容認している」(p.47)という結論にもっていく。

 この識別能力は、中沢新一さんの言うところの、新石器時代に起こった、大脳の革命に起因しているのかもしれない。中沢先生によると、人間の脳は新石器時代に言語、動き、技術などを個々、別々に扱っていた諸領域を横断的に結ぶ「流動的知性」が生まれたという。ここから比喩や連想が生まれ、飛躍的に思考対象が拡大し、超越的事柄についても考察することが可能になった*2、としているが、永井先生は「自分(たち)が識別できない違いを、識別できないにもかかわらず理解はどきることは、だから、必然性がある。自分(qa)が識別できることによって獲得した概念の適用範囲を拡張し、とりわけそれを自分(たち)自信にも遡及的に適用すること、これがわれわれま世界把握の基本的なあり方だからである」(p.55)と表している。

まだ、1章の途中までだけど、とりあえず、このぐらいで。
watashi_ima_kami.jpg

*1 「論理的に言えば、記憶されている出来事が実際には起こっていなくとも、そのような記憶の信念は生じうる。そもそも過去がまったく存在していなくとも、記憶の信念は生じうるのである。世界が五分前に、まさに五分前にそうあったとおりの状態で、そして人々もまたまったく非現実の過去を『覚えている』状態で突然存在し始めたのだという仮説を立てても、この仮説は論理的に不可能ではない。異なった時点の出来事の間にはなんら論理的必然的関係はありはしない。それゆえ、現在および未来において起こるいかなることも、世界が五分前から始まったという仮説を反証しえない。かくして、過去についての知識と呼ばれるものの成立は過去とは論理的に独立であり、全面的に現在の内容に分析可能なものなのである。そしてその現在の内容は、理論的には、たとえ過去が存在しなかったとしても、いまわれわれが手にしているとおりの内容でありうるだろう」
『心の分析』B・ラッセル著 竹尾治一郎訳 勁草書房

*2 『人類最古の哲学』

|

« 東京B級グルメ#91「永楽」 | Main | 『私・今・そして神』#2 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/1880340

Listed below are links to weblogs that reference 『私・今・そして神』#1:

« 東京B級グルメ#91「永楽」 | Main | 『私・今・そして神』#2 »