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September 10, 2004

『アフターダーク』

『アフターダーク』村上春樹、講談社

 一気に読める、まるでライトノベルのような小説だった。『海辺のカフカ』の時にも感じたのだが、ぼくなんかが言うのは問題ありすぎかもしれないけど、文章がうまくなっている。特に主人公らしき人々というか自分自身を幾分か投影している人物以外の人びとの会話が素晴らしい。『海辺のカフカ』でいえば、星野君のような元女子プロレスラーのホテルの管理人カオルの会話が冴えていた。

 驚いたのは、なんといっても一人称複数形の採用。作品の短さからして実験的な意味合いが濃いかもしれないが、これまでの「ぼく」から一人称複数形「私たち」を中心に書いていくのかもしれない、とフト思った。英訳のWe、仏訳のNousともカッコいい感じがするし、これぞジャパニーズクールなんて、またも向こうでもてはやされるのかもしれない。

 以下、ネタバレも含むので、それでもいいという方は続きをぜひ。
afterdark.jpg

 『アフターダーク』は「私たち」が純粋な視点となって都市に降り立ち、そして街を移動するという形で進展する。

 一人称複数形という奇妙な形式で成功している作品を思い浮かべると、ハンガリー生まれの女性作家アゴタ・クリストフの『悪童日記』堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫だろう。原題はLe grand cahier(大きなノート)。語り手である双子の兄弟「ぼくら」はナチス支配下のような東欧をおもわせる場所で、小さな町に住む祖母のところへ疎開するところから始まり、過酷なサバイバルを日記であるLe grand cahierにつけるという設定だ。

 これは物語の構造そのものが一人称複数形にあっているという例だが、通常、一人称複数形というのは非常にあいまいさをもつ。つまり「私たち」に聞き手を含む場合と、含まない場合がある。話し手である「私」は不変要素だが、「私たち」がその「私」と聞き手である読者を含むのか、それとも含まないかのか。村上春樹はその隠れた要素をコントロールしながら読者の視点と作者の視点を使い分けて物語を進めていく。ここはこの作品を分析する文芸評論家たちの腕の見せどころだと思う。

 『悪童日記』には固有名詞はいっさい登場しないが、『アフターダーク』も地名は明かされない。新宿っぽい感じもするし、渋谷っぽい感じもするし、まるで六本木のような描写もある。登場人物が「タカハシ」から「高橋」に変化したりするのも、最初から最後まで、作者である村上春樹と登場人物との距離感を意識し、計算しているからだと思う。

 実体のない純粋意識がひたすら観察するというのは『ヘビトンボの季節に自殺した五姉妹』ジェフリー・ユージェニデス、ハヤカワepi文庫にも似ているかもしれない。

 とにかく、村上春樹の「私たち」は、日本の論文の「われわれ」のように、無意識に仲間を要求しているような甘えは感じられない。しかし、主体の意識が「ぼく」という個人に限らないということを強く主張し、「ぼく」から脱皮を図っているように感じる。

 村上春樹はノモンハン事件を描いた『ねじまき鳥クロニクル』から社会へのかかわりを深めている。それが『アンダーグラウンド』『約束された場所で』にもつながっているのだが、安直に社会とのかかわりが一人称複数を選ばせたとはいえないまでも、これまでの歩みの中での必然ではあったんじゃないかと思う。

 『白雪姫』を感じさせる主人公マリの姉エリが昏々と眠る描写はすばらしい。モデルで人づきあいもいいという彼女が、ある日を境に眠り続けるという設定は、誰でも内的な成長をとげる時には一度他者との人間関係を遮断して、自己の深い内面の部分と向き合っうことが必要だということだろう。『ねじまき鳥クロニクル』の登場人物が行う井戸に入るという行動が、この作品ではコーマのような状態で眠り続けることに対応している。

 中国人娼婦を暴行する「白川さん」が、自分の内面と向き合おうとしないのとは対照的だ。

 最後の中国人マフィアからの「でもね、逃げられない。どこまで逃げても逃げられない」という脅しのメッセージは「私たち」にも向けられている。その「私たち」に読者が入っていなければ、意味が消失してしまうので、ここの部分に関しては聞き手である読者を含む一人称複数なんだと思う。

 最後はとりとめなくなってしまったが、まあ、以上で。

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Comments

『アフターダーク』は、まだ読んでいないのですが、pataさんのコメントで早く読みたくなりました。
カーティス・フラー「ブルースエット」のアルバムは、ぼくが最初に買ったアルバムなのです。
“five spot after dark”は本文で、どのように使われているのだろうか…。

Posted by: 葉っぱ64 | September 14, 2004 at 11:01 PM

葉っぱさん、PCも復帰されて、なによりです。“five spot after dark”に関しては、なかなか素晴らしい使われ方をしていますよ。お楽しみに。

うーん、しかし、ADは村上さんの作品としては、軽すぎる感じがしますねぇ。というか、あまりにも翻訳されることを前提に書かれているような感じも受けるし。

ぼくは、これを書いている村上さんが、どこで自己慰安を感じたんだろうかな、と読み終わって何日かたって考えてしまいました。やっぱり、書き手が自己慰安を感じていないと、ちょっと寂しい感じはしますよね。今回は実験的というか、一人称複数視点の導入とそれを自由自在に使いこなすだけに終ってしまったような…。

Posted by: pata | September 15, 2004 at 09:56 AM

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