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September 11, 2004

『漱石の巨きな旅』

『漱石の巨きな旅』吉本隆明、NHK出版
 ぼくたちがこうして、様々な問題に対して、自由に書きたいことを書けるのは、夏目漱石のつくりだした文体があったこそだと思う。Blogや2chを見ても、スポーツ、グルメ、育児、文系の学問、理系の学問に関して、かなり自由に、しかも自分の感情を込めて論評できるし、情景を写生できている。それは、かなりの部分を夏目漱石のあみだした文章に負っていると思っている。また、そうした文章を駆使して夏目漱石が追求したかったことは美ではなく、真である、みたいなことを誰かが書いていたと思うが、現象を押さえつつ、その奥にある真実に迫るという場合には、気取らない誰にでも読みやすい口語体の文章が必要だった、ということにもつながると思う。そうしたことを夏目漱石はやってくれたわけで、時々、読み返すのは悪くないと思うし、今でも読者を獲得できているということは、彼の書いてきたことが、現代にも届いている証拠だと思う。近代の日本文学で、いまだに文庫本が売れているのは夏目漱石、芥川龍之介それに太宰治ぐらいになってしまったのではないか。

 その夏目漱石のことを、最近、よく吉本隆明さんは書いている。ぼくは良い読者ではないので『夏目漱石を読む』で、これまで読んだことのなかった『虞美人草』や『彼岸過迄』などに関して知識を得られたのはありがたかった。『虞美人草』に関してはいえば、漱石の漢文学の教養がいかにすごいかということが分かるし、『彼岸過迄』という作品が探偵小説だというのも知らなかった。『虞美人草』には「春はものの句になり易き京の町を、七条から一条まで横に貫ぬいて、煙る柳の間から、温(ぬく)き水打つ白き布を、高野川のかわらに数え尽くして、長々と北にうねる路を、大方二里余りも来たら、山は自から左右に逼って、脚下に奔る潺湲(せんかん)の響きも、折れる程に曲る程に、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る」という一節があり、この「脚下に奔る潺湲の響き」というのは楚辞の中にあるというのだが、吉本さんは、この漢字は「僕らの教養では読めないのです」と正直に語っている(『夏目漱石を読む』pp.95-96)。

 だいたい漱石というペンネームの元になっている「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という言葉さえ、漱石の存在がなければ知らなかったろう(『晋書列伝第二十六巻孫楚伝』から。残念ながら現代日本語訳はない)し、今では房総半島へ旅行したときのことを綴った漢文作品『木屑録(ぼくせつろく)』などもほとんど読む人はいないはずだ。

 さて、前置きが長くなってしまったが、『漱石の巨きな旅』NHK出版だ。漱石は正則中学からから「好きな漢学や漢詩を教える三島中洲主宰の二松学舎に転学した」(p.26)という。その後、さらに成立学舎に転じるだが、二松学舎で漢詩文に熱中したことが、ロンドン留学中に西欧文学との文学概念の違いを自覚させた、としている。漢文学は人間が自然とどれだけ融和していかに主眼があり、西欧の近代文学は人間関係の葛藤を主眼とするからだ(p.27)。

 そして東大を主席で通し、ロンドンに留学。様々な経験を重ねるうちに「ここは一番、文学とは何か、西洋における文学の概念と東洋(日本)における文学の概念との違いを、はっきりと取り出さなくてはならい」と一念発起し、留学期間が残り一年と迫っていたこともあり「解決は生涯の問題として」「書物を買いあつめ、ノートたくわえ」る生活に没頭することになる(p.61)。そうした生活は、周りからも自分さえも「てつきりキ印になつたのだ」(p.64)と思われるようなものだった、と。

 漱石はしばしば妄想にとりつかれることがあったが、それは「倫理的な窮迫感に追いつめられたとき」であり、逆にいえば「漱石が倫理的にじぶんを追いつめたとき妄想の方に逃れるよりほか方法がなかった」のであり、夫人が書いているように机の前でメソメソ泣いているようなことは「漱石の倫理的な文学観が、わたしたちにある狭苦しさをかんじさせるとはあるが、病的に掘りさげられることで、この狭さに世界を与えようとするときの漱石には共感いがいのものを感じない。なぜなら倫理的な狭さが悲劇にまで高められているからだ」(pp.81-83)としている。

 そうしたものが、漱石の主題ともいえる「親友とひとりの女性を奪い合う三角関係」にはあると思う。

 『漱石の巨きな旅』はこのロンドン留学体験と、もうひとつ成立学舎時代の悪友で満鉄総裁となった中村是好の招きによって中国を旅した記録についても書かれている。『満韓ところどころ』という紀行文があるのも知らなかったが、その背景には最初期の作品集で『倫敦塔』なども収められている『漾虚集』の一篇『遺伝の趣味』に描かれた日露戦争における「浩さん」の戦死の場面を確認しておきたかったというモチーフがあるのではないか、という内容だった。
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