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August 09, 2004

『蒙古襲来―転換する社会』

ぼくが鎌倉時代ということで思い浮かべることは3つ。

 ひとつは、司馬遼太郎さんがどこかで語っていたことだが、独立自作農である武士たちが、自分たちの土地を一所懸命に守り、そこで労働などしていない貴族たちからの課税を拒否したというリアリティが日本という国を中国文化圏から独立させた、ということ。そこで培われた「名こそ惜しめ」という思想が日本人のモラルになっていったということも司馬さんは強調していたと思う。

 もうひとつは吉本隆明さんが『源実朝』に関して語っていたとで、鎌倉武士というのは、いったん謀反を疑われると、いくら弁明してもムダでいつの間にか、家の周りを取り囲まれて、一族もろとも殺されてしまうというような凄惨な一面を持っていたという指摘。

 そして、三つ目は、網野善彦さんの描く、軍事力を背景に権力を奪取した最後の天皇である後醍醐天皇の『異形の王朝』ぶりだ。

 どれも、これも、まだ現代日本においても解決されていない問題を含んでいる。鎌倉時代に形成された、やや息苦しくもある人と人との付き合い方、社会集団と個人とのあり方というものが、日本人の深層に深く根付いていることのあらわれだと思う。

 浅学菲才のアタシは中沢新一、赤塚憲雄『網野善彦を継ぐ』(講談社、2004)を読むまで、網野さんの処女作『蒙古襲来―転換する社会』小学館文庫を知らなかったと書いた。それを深く反省し、自分としては時間をかけてゆっくり読んでみた。以下、感想を書いてみる。

飛礫・博奕・道祖神―はじめに
「撫民」と専制
二つの世界、二つの政治
「蒼い狼」の子孫
文永の役
建治元年―日本
弘安の役
弘安の「徳政」と安達泰盛
百姓と「職人」
訴人雲霞のごとし
転換する社会
鎌倉幕府の倒壊
13世紀後半の日本
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 中沢新一、赤塚憲雄さんが強調していた「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」という一節がでてくるのはp.30だった。「飛礫・博奕・道祖神―はじめに」は、情報がまったく整理されていない。自分の言いたいことのために集めた資料をぶちまけて、どうだ!と息を荒くしているような網野さんの気負いを感じる。しかし、いくら整理されていなくても、寛喜の大飢餓で人々が打ちひしがれている様子、それを見て絶対他力に改めて自己を追い込んでいく親鸞の姿、怒りのやり場のない民衆が飛ばす飛礫(つぶて)、禁止にも関わらずやめさせることができない芸能としての賭博、異界とのつながりを意識させる道祖神の祭りなどが列挙されることで、「日本人の野生が、なおそれ自身、社会のいたるところに横溢しえていた」この時代に、前近代における最大にして唯一の外寇が日本の社会・政治にどういうような影をおとしたかを明らかにする、と網野さんは宣言する。

 「撫民と専制」は承久の乱に勝利して幕府が確立した政道にもとづき人民を支配するという方針が、野生の横溢していた日本の社会においてはいささか窮屈に感じられたのではないか、という論証がメイン。『徒然草』第215段の味噌を酒の肴にして酒を酌み交わす倹約家時頼の姿は「ある種のきびしさと堅苦しさ」があったとする(p.50)。時頼は名越光時の乱、宇治合戦で有力御家人たちを粛清し、大量の流血によって北条氏による執権政治の基盤を固めていった。そして撫民もこうした執権独裁のための政策だったのだ。それは御家人を代表する執権職でありながら、それが北条氏一門の家督である「得宗」でもあることで世襲され、将軍職が有名無実化するのと平行して執権職よりも得宗が実力を持ってしまうという矛盾を生むにいたる。しかし、時頼はその分裂までも見ずに生涯を終えることができた。それは、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂する前の最後の実力派上皇であった後嵯峨帝の死の場合も同様だった。これ以降、鎌倉と京都の権力は内部分裂と互いの闘争を生んでいく。

 「二つの世界、二つの政治」では、やがて農業国家になっていく日本ではあるもの、鎌倉時代までの農民は必ずしも一ヵ所にずっと定住しているものではなかったし、海に生きる人々、交易によって生きる人々のような流動性も持っていたことが明かされる。そして実は、こうした流動性は武士たちも持っていたという。そして分業体制の確立が進むにつれて、こうした流動性は「悪」として非難されていくわけだ。

 「蒼い狼の子孫」から「弘安の役」は網野さんの筆がいちばん軽やかに滑っている、モンゴルに英雄チンギス・ハンが立ち、フビライ・ハンが南宋を滅ぼし元を建国、高麗をも征服して日本征服を図り、失敗するまでが描かれている。書かれていることで新鮮だったのは「日本征服にあたるべき用意されたモンゴル軍は、草原の騎馬部隊ではなく、鍬を持ち、種子を携えた屯田兵であった」(p.180)というところ。すでに、モンゴル軍はワールシュタットでチュートン騎士団を圧倒して西欧を震撼させた騎馬部隊ではなくなっていたのだった。

 また、領地を失った御家人竹崎李長の抱腹絶倒ともいえるような奮闘振りの描き方も、次の「弘安の徳政と安達泰盛」への有機的なつながりを生むという意味で興味深かった。九州の御家人竹崎李長は人が止めるのも無視をするような先駆けや、だまして船に乗せてもらって蒙古軍の残党狩に向かうなどメチャクチャな「活躍」をしたが、功績を鎌倉幕府に認められず、何の褒章の音沙汰がなかったことに「これでは面目丸つぶれ」ということで、九州から無一文になって鎌倉までやってきて安達泰盛に訴えたという人物。こうした事の顛末の一切を絵師に書き残させたのが有名な『蒙古襲来絵詞』だという。この竹崎李長の戦いは、蒙古襲来にはせ参じた御家人たちは国土の防衛といった意識からではなく、恩賞を得て「無足」の境涯を脱し、惣領から自立したいという生活そのものから生まれた勇敢さであった(p.231)というのは納得的だ。

 また、蒙古軍敗北の一因が「専制的な強制によって建造された船、とくに江南軍の船は、中国人の船大工が手を抜いたといわれるほど弱かった」(p.293)というのも面白かった。そして網野さんは「この外寇が、一夜の暴風によって終わったことは、はたして本当の意味で、日本人にとって幸せだったろうか」「不徹底な結末は神風という幻想を遺産としてのこし」「七百年前の偶然の幸せに、つい五十年まえまで甘えつづけていた」のだから、と疑問を呈する(p.295)。

蒙古襲来時の執権、時宗は夭折したが、その原因は有力者安達泰盛と平頼綱の対立による心労ともいわれている。時頼の「撫民」政策を強力に推し進めようとした安達泰盛は「弘安の徳政」と呼ばれる政治を行おうとするが、鎌倉武士お得意の内輪もめによって、平頼綱によって滅ぼされ、またその頼綱もヤル気のなさを嫌われて殺されてしまうという血塗られた歴史の中で、得宗独裁が強まる。しかし、それは権力者の弛緩を生み、やがて14代高時で滅亡を迎えることになる。

 こうした中で網野さんは、武士は遍歴するのが特徴であり、特に西国ではこのような性格が強かったということを折口信夫の『無頼の徒と芸能』などを引き合いにだして強調したり(p.377)、民俗学者である宮本常一氏の「東国は父系的、西国は母系的な親族結合の原理を持つ」(p.358)ことを紹介している。一方、日本の社会構造も、農業民と非農業民との並存という未開の野生が残っていた社会から、貨幣に侵食され、文明に引き込まれるようになっていく(p.499)。そして浮浪性をもっていた農民を定着させることを目的としていた「撫民」政策は農民の定住化促進によって必要がなくなり、安定した社会構造をつくりあげるために、社会は内部に「差別」を抱え込むようになった-というのがおおまかな流れだろう。

 そして、そうした方向に向かい始めた社会に対して、差別される側となった「悪党」どもが、天皇制権力と結びつき、いったんは権力奪取に成功したのが、後醍醐天皇だった、というわけだ。そして、こうした結論じみたことは最後の「13世紀後半の日本」に書かれている。

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