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August 18, 2004

『歴史哲学講義』

『歴史哲学講義』ヘーゲル、長谷川宏訳、岩波文庫 
だいたいニッパチは人文系の本だけでなく、出版界全体も低迷するものだが、特にこの夏は、久々の「六本木ABCのない夏」になっているので、ネットで山口瞳さんのエッセイをあさって読んだり、古い本を読み直したりして過ごしている(今日も六本木ABCの前には行ってみたが、動きはなかった)。

 ヘーゲルの『歴史哲学』を最初に読んだのは岩波の全集版の武市健人訳だった。講義を元にした本なので、論理学や精神現象学などと比べれば、まだ理解しやすかったが、哲学的難文であることには間違いなく、楽しみとしてヘーゲルを読むなどということは考えられもしなかった。

 改めて読んで考えたのは上巻では「ペルシア的」ということ。ヘーゲル、マルクスは旧世界を世界史の枠外において、それを「アジア的」「アフリカ的」と呼んでいたが、もうひとつ、ペルシャ的ということも考えられるんじゃないかと思った。「歴史哲学講義 上巻 第3篇 ペルシャ」では、こんな感じで思いっ切り評価しているのが印象的。


.........Quote...........

ゾロアスターの光は意識の世界に属するものであり、他とかかわる精神の存在をしめしています。ペルシャ帝国には純粋で崇高な統一がみられ、特殊なものの自由な存在をゆるす共同体があって(中略)太陽は正しいものにも正しくないものにも、高貴なものにも低劣なものにも、光りをあて、万物に同等なめぐみと反映をもたらします。

光は、もっとも一般的な物理現象としての光をさすだけでなく、同時に、精神の清らかさ、ないし、善も意味します。

ペルシャでは、こうした階級差別(pata註:中国やインドのような)をこえるものとして光の清らかさ(善)が存在し、それには何人がおなじように近づくことができ、それによって万人がおなじように聖化される。

王は、故郷にあるときは、友だちのなかの友だちであり、みんなと肩をならべてくらす人であり、故郷の外では、万人を支配下におき、服属のしるしに税をおさめさせる頭領でした。

王家の墓はペルシャの故地にあり、王はときどきその地の百姓たちのものとをおとずれて、きさくなつきあいを楽しみました。王は百姓におくりものをもってくることもあった。

 ペルシャの支配は、世俗の面でも宗教の面でも、けっして抑圧的なものではありません。ヘロドトスによると、神を人間のすがたであらわすことを嘲笑するペルシャ人には、偶像などといったものはなく、かれらはどんな宗教でもうけいれる。

ペルシャにおいてはじめて、自然と対立する自由な精神の原理があらわれたので、そうなると、自然の存在はさかりをすぎ、凋落していく。ペルシャ帝国には、自然を離脱していく原理があって、それは自然に埋没した世界よりも高い位置にある。その原理こそ前進の必然性を切りひらくもので、ここに精神がすがたをあらわし、自己の実現へとむかうのです。

ペルシャ人の光の直感と並んで、シリア人の欲望と快楽の生活、金もうけに長け、海の危険をものともしないフェニキア人の勤勉と勇気、ユダヤ教の抽象的な純粋思考、エジプト人の内面的な衝動、などがならびたち、それらを理念として統一する力がもとめられていますが、それらは自由な個人の登場を待ってはじめて統一される。精神が自分の内部にわけいり、その特殊性を克服して自由になることによって、これらの要素もたがいに浸透しあうことが可能であって、それをおこなう民族がギリシャ人です。
(『歴史哲学講義』長谷川宏訳、岩波文庫、pp.281-)
..........End of Quote..........

ペルシャ的世界から刺す一条の光は、やがて中国を経由して、一神教的な日本の浄土系思想にも影響しているが(弥勒菩薩は「人の子」の化身だ)、これは初期のユダヤ教にも確実に影響を与えていると思う。

 あと、これは雑学に類する話だが、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で「ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として」(伊藤新一、北条元一訳、岩波文庫、p.17)と書いているが、マルクスが自由に引用した箇所は、この『歴史哲学講義』の中にある。

 長谷川宏訳でオリジナルを引用すると「そもそも国家の大変革というものは、それが二度くりかえされるとき、いわば、人びとに正しいものとして公認されるようになるのです。ナポレオンが二度敗北したり、ブルボン家が二度追放されたりしたのも、その例です。最初はたんなる偶然ないし可能性と思えたいたことが、くりかえされることによって、たしかな現実となるのです」(ヘーゲル『歴史哲学講義』下巻p151-152 長谷川宏訳)となる。

 うーん、いいですねぇ、長谷川さん。
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Comments

■ヘーゲルの「歴史哲学講義」に、<ペルシャ的>なるもの触れられているなんて思いもしなかった。それも「光」。これは、キリスト教徒の「光」のイメージそのものではないか。天空からの「光」を受けることに差異があってはならない、それが「世界布教」の精神ではなかったか。

固定観念か、マルクスの「アジア的」なものが、ヘーゲルを踏襲したモノと勝手に思いこんでいた。それにしても、いまさらなんだが、「空白・A」「空白・B」、Aが、イスラーム、Bが、アフリカ。プローデルあたりをなぞるわけではないが、「もうひとつの、地中海」が必要。未読か、再読。■1260年のバクダット・80万人の大虐殺。「蒙古襲来」と同じ時期のフビライ・カーンのスザマシサ。善悪を超えた歴史。

Posted by: tabaccosen | August 21, 2004 at 11:16 PM

気合の入ったふたつのコメントありがとうございます。

ぼくがペルシア的ということを意識したのは、浄土系の仏教思想、特に親鸞なのですが、キリスト教の影響を直接的に受けているのはほぼ間違いないんじゃないか、という吉本隆明さんの指摘でした。

いま、良心的な浄土系の仏教思想家たちがいるとすれば、景教(中東を経由して中国伝わったネストリウス派キリスト教)の中国語訳聖書と親鸞の著作との、文献学的比較なんかをぜひやってほしいと思うのですが、寡聞にも、そういった試みに接したことはありません。

そして、そうした景教の聖書との親和性を親鸞にもたらしたのは、浄土系思想そのものが、ベルシアの地ではじまった一神教的な思想の東側への広がりの最終到達地点が比叡山の書庫で、そこで法然が"発見"したものこそ、旧約聖書のダニエル書に出てくる「人の子」に酷似しているようにも見える、阿弥陀如来ではないでしょうか。まったく、この方面では勉強不足なので、アタマがグチャグチャなのを承知で付け加えますと、56億7000年後にやってくる如来としてのはたらきは『無量光仏』『無碍光如来』とさえぎるものがないことをあらわしていると思います。

 そして、こうしたものが、ペルシャ的世界から刺す「光」からきているとすれば…というのは、吉本さんや中沢さんなどからの断片的な知識しか得ていないものの、興奮できるものだと思っています。

そういえば、江上波夫先生を最後にある図書館でお見かけしたときに、書いていらしたのが『モンゴル帝国とキリスト教』でした。この本では、モンゴルの遺跡から発見された景教の教会址や遺物の問題を扱っていたと思います。最後の著作だったと思うのですが、いつか読んでみたいと思っています。

Posted by: pata | August 22, 2004 at 09:28 AM

■なるほど、吉本氏などの、浄土真宗とキリスト教の類似、共通性を指摘するヒトはあっても、「ペルシアの光」へその源流(ダニエル、& IMAGE,)を求めてはいない、ということでしょうか。「あの地」は、三蔵法師が一番苦労する、イラン高原です。インド=アーリア人の根拠地とされる地であり、・・・・インド仏教の西進のときに、地中海までの経路にあたり、その中継として、「修道院」があった。→ネストリウエ派、というのは、瞑想や戒律を重んじた、community-修行のウエイトの高かった「派」だと思います。ここらあたりのことは、「イエスは、仏教徒だった。」(独・エルマー・R・グルーバー)に記されています。貴兄の刺激からの着想です。(また、お願いします)

Posted by: tabaccosen. | August 22, 2004 at 11:38 AM

●参考資料:です。

エリザベス・クレア・プロフェット『イエスの失われた17年』(立風書房)(版元在庫切れ)
エルマー・R・グルーバー『イエスは仏教徒だった?―大いなる仮説とその検証』(同朋舎/角川書店(発売))(版元在庫切れ)
ユベール・モンテイエ『ネロポリス』(中央公論社)(版元在庫切れ)
加藤隆『『新約聖書』の誕生』(講談社選書メチエ)

※版元在庫切れの本は図書館を利用してみてください。なかなか、おもしろそうな感じです。

Posted by: tabaccosen | August 22, 2004 at 11:51 AM

プロフェットのは、やや電波系かと。グルーバーの本は最近の評価は存じ上げていないのですが、翻訳者をチラッと知っていて、その時は「なんでそんな本訳したのかな」と思っていました…(確か博士課程のときにヒマにあかせて訳したんじゃないかと思いました)。
加藤先生の本は全て読んでいます。『ネロポリス』は、こんどみてみますね。ありがとうございました。

Posted by: pata | August 22, 2004 at 02:46 PM

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