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August 12, 2004

『いまこそ読みたい哲学の名著』#3 了

 それぞれの中身については、ぜひ、読んで欲しいとしかいえないけれど、個人的に一番懐かしかったのはフォイエルバッハの『キリスト教の本質』だった。この本は

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 若きカール・マルクスが「ドイツでは宗教の批判は本質的な面ではすでに終了した」といい、「天上の批判にかわって地上の批判が、宗教の批判にかわって政治が登場してくる」といったのは、『キリスト教の本質』の刊行後三年目のことだった。(p.180)

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というキリスト教批判の書だ。宗教を神学的に考えたヘーゲルの立場を超えて、人間の自己意識が生み出した至上物と考えることに道を切りひらいたわけた。この『キリスト教の本質』は大学1年生の時に読んだのだが、その学問としての精密さに驚くとともに、着想の見事さにうなってしまったことを今でも思い出す。

 そして、このフォイエルバッハを通して、人間というのは家族の一員としての自分もあれば、国家の一員としての自分もあるし、市民社会の一員といの自分もあるし、それぞれは異なった現われ方をするんだ、というヘーゲルの考え方に驚き、人間というのは経済社会の共同体、家族、自分自身への「関係」としてしか現われないんだ、という考え方は本当にそうだな、と思うようになっていった(さらに個人的な話をすれば吉本隆明さんの『共同幻想論』も、ヘーゲルの方から入っていったので分かりやすかった)。

 しかし、フォイエルバッハの「ただ神だけがキリスト教徒が欲求するものである。キリスト教徒はそのために必ずしも人類や世界を必要としない。すなわちキリスト教徒には、他人に対する内的欲求が欠けているのである」のような言葉は厳しすぎるというか、ちょっといい気になっているのかな、と思うようなところもある。

 そうしたところを

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 が、批判するフォイエルバッハの立場そのものに目をむけると、それは、それほど根拠のあるものには思えない。フォイエルバッハの立場とは、類としての人間が無限で完全であるとする立場だが、無限で完全な人間がだれかを、あるいはなにかを愛するとはどういうことか。人間が人間にとって神であるとするなら、そのとき、人間が信仰を持つことはもはやなかろうが、同時に人間は愛ももたないし、もつ必要がないのではなかろうか。相が対等な人間のあいだになりたつというのはその通りだが、そこで対等にむかいあう人間は、無限で完全な人間ではなく、有限で不完全な人間ではないだろうか。

 神を人間の全体世界にまるごととりこむの、一つの背理であり、逆説であるほかない。天上の批判のおわりは、おわりに見えて、その実、地上の批判のはじまりにすぎないのである。(pp.191-192)

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 と長谷川さんがまとめるのは、日本語でかかれたフォイエルバッハに関する文章で、もっとも美しく、わかりやすく、鋭いもののひとつだと思う。
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