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August 12, 2004

『いまこそ読みたい哲学の名著』#1

『いまこそ読みたい哲学の名著』長谷川宏

 長谷川宏さんに対する語らぬ感謝の気持ちをいつか書きたいと思っていたので、新刊が出たのを期に、ちょっと長めに書いてみる。

 ヘーゲルの著作を次々と目がさめるような訳文で訳してくれている長谷川宏さんの『哲学史講義』の上巻が出たのは1992年だった。

「フランスの哲学はもっと生き生きし、運動があり、機知に富んだもの、いや、むしろ、機知そのもののあらわれです」『哲学史講義 下巻』p354

 など、「ですます」調で普通に語ってくれるようなヘーゲルなんて、それまで読んだことがなかった。

 それまでのヘーゲルといえば「しかしながら、奉仕する意識がかく己れのうちに還帰するには、両方の契機ともども、即ち造形と同じく、畏怖一般及び奉仕一般もまた必要であり、しかも両契機とも普遍的な仕かたおけるものであることが必要である。もしも奉仕と服従との訓練がないと、畏怖は形式的なものであるにとどまって定在の意識された現実にはひろがり、行きわたらないし、もし、造形がないと、畏怖は心胸のうちにとどまって唖であって、意識は自ら自覚的とはならない。しかし若し意識が予め最初に絶望的な畏怖を感ずることなしに形成したとすれば、意識はただ虚しい我意にしたがっているにすぎぬ」『精神の現象学』金子武蔵訳、岩波書店、p196

 みたいなわけわからない訳しかなかった。昔はこんなんで、みんな訳わかったような顔をして議論していたわけだ。ここは、有名な「主人と奴隷」のところなのだが、長谷川訳ではこうなる。

「こういうふうに自己へと還ってくるには、恐怖と従属の二要素と、加えて、物の形成というもう一つの要素が必要であり、しかもそれらが奴隷の生活を広くおおっていなければならない。従属と服従を強いられることがなかったら、恐怖は形式的なものにとどまり、意識的な生活の現実へと広がっていくことがない。また、物の形成がなかったら、恐怖は静かに内にこもるだけで、意識がそれを明確に意識化することはない。さらに、最初の絶対の恐怖なしいに意識が物を形成するとすれば、意識はただ自分の虚栄心を満足させるだけでおわってしまう」『精神現象学』作品社、長谷川宏訳、p.138

 一気に空が開けるような気がしたものだった。

 その長谷川さんは、東大哲学課の博士課程に在学中、いわゆる東大闘争の処理に納得がいかず、自らアガデミックな世界でのキャリアに終止符を打ち、学習塾を開くかたわら、市民というか一般の人たちを集めて哲学の研究を続けるという道を進む。そのヘーゲルを原典講読する会は「野球同好会みたいなヘーゲルを読む会をつくりたかったんだ」と朝日新聞に書いておられたが、なんと自由で、しかも実際に歩もうとしたら厳しい道なんだろうと思う。

 バブル崩壊直後というのはフランシス・フマヤマ -> コジェーブ -> ヘーゲルという流れの中で歴史哲学が見直された時期とも重なり、また、もちろん長谷川さんの訳がすばらしかったということで、売れたということもあり、『美学講義』『歴史哲学講義』『精神現象学』『大論理学』と主著の訳がほぼ出版されたということは、本当によかったと思う。

 2chの哲学板で「いま営業車の中で原典読んでます」みたいな書き込みをみることがあるが、学生だけでなく、そうした全ての哲学を志す人たちにとって、長谷川さんというのは、大きな希望だと思っている。
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