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July 17, 2004

『福音書=四つの物語』

『福音書=四つの物語』加藤隆、講談社選書メチエ

 なんと、六本木ABCには、この新刊は1冊しか配本されてこなかったそうだ…。取次から干されていたんだな、と改めて思った。久々の人文関係の期待の本なのに。というわけで、ちょっと長めに書くことにする。

 新約聖書には4つのイエス伝が収められている。それぞれ伝統的に作者といわれてきた人物の名前をとって、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネによる福音書という表題が後世につけられた。なぜ4つもイエス伝が必要だったのか?それは最初に書かれたマルコ伝にマタイ、ルカ、ヨハネが不満を持っていたからだ、ということで『福音書=四つの物語』では、それぞれの福音書がなぜ書かれた、それぞれの拠るべき立場を分析していく。加藤先生にとって講談社選書メチエは『「新約聖書」の誕生』に次ぐ二冊目。中沢新一先生の『カイエ・ソバージュ』のようにシリーズ化されることを望みたい。

[マルコ]
 加藤先生の専門はルカだが、この本ではマルコに最も力が入っている。日本の新約聖書学のマルコ研究というと、ここでも紹介した田川健三御大の影響からか、十二使徒に対するアンチテーゼという反権力志向で書かれているとか、女性など社会的弱者に対する視線がマタイと比べて優しいみたいな、やや時代がかった主張がなされることが多いと思うのだが、『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(1999、大修館書店)で「マルコ福音書の成立は、ギリシア語の読み書きのできる者が、そうでない者に対して権威をもつという構造を生み出しと考えるべきである」(p.267)と主張した加藤先生は、こうしたマルコは貧者に優しい視線を送っているみたいな主張に対して冷や水を浴びせかける。

 田川御大は『原始キリスト教史の一断面』で「マルコの描く民衆の姿には敵意がない」「真にイエスの家族であるのは、イエスを取り囲んでその話に夢中に聞き入っている群集である」としてοχλοs(オクロス=群集)を賞賛するが(pp.118-123)、加藤先生は「『オクロスは有象無象の集まり』といったニュアンスがあり」(p.119)、五千人の供食(マルコ6.30-43)で群集に与えられるのは食料だけであり、「イエスたちの最低限の事情も無視して、群衆がイエスのところに集まる」が「食料のレベルが満たされるならば、人びとは満足する」レベルであり、「群集への教えについて何も記されていない」ことは「彼らは神の言葉と直接に関係のない状態にとどまっていることを意味しているのかもしれない」(pp.118-120)とまで言及する。

 痛快だ。当たりさわりまない本を読まされるよりも、「まちがった思想でも、大胆にそして明晰に表現されているのなら、それだけでじゅうぶんな収穫といえる」(ウィトゲンシュタイン「反哲学的断章」青土社、p198)だと普段から思っているし、しかも加藤先生の主張は間違っているとも思えない。

 まあ、それはおいといて。

 マルコではペトロをはじめとする十二使徒に対して厳しい批判が加えられるが、これは十二使徒に対抗する存在であったヘレニスト(ギリシア語をしゃべるユダヤ人)の流れをくむ集団が、自分たちの立場をより有利にするために十二使徒の権威を貶めるものだと考えれば、マルコは共同体内部での反権力の書というよりも、非常にセクト的な書物であることがよく理解できる。実に、イエス以外の登場人物をすべて否定的に描くマルコが意図していたのは「聖霊を受けて『神の子』となるのでなければ、イエスに従うことができない」とする非常に主観的な主張なのかもしれないからだ(p.131)。

 こうしたマルコのような主張を行う背景には、使徒行伝に描かれている使徒フィリポの娘たちのような人々がいるのかもしれない。自分たちはイエスと同じように聖霊を受けていると主張し(マルコではイエスしか聖霊を受けていない)、「他の者にはよくわからないところの多い預言の言葉を述べるだけ」(p.91)のような。

 そしてマルコにイエスの誕生物語(馬小屋とか)がないのは、「イエスが本来的に他の者とはちがっているとはされていないことを示唆している」(p.142)のかもしれないというところはこれまで読んだ本の中では最も合理的な指摘だと思った。

 しかし、マルコでイエス以外の登場人物がすべて批判されてしまったことによって、いわば神に見捨てられてしまった人々は、放置されたままでいいのだろうか?あるいは批判されっぱなしの状況を甘んじて受けていたのだろうか?そんなわけがない。なぜなら、こうした人々はイエスが新しい律法を与えたという形で救いの道を示したり(マタイ)、新しいキリスト教世界の構想を提案して対抗した(ルカ)のだから。

[マタイ、ルカ]
 聖霊を受けていない信者は見捨てられてしまうみたいなマルコの福音書の主張を受け入れなかったマタイは、一般的な信者が教会という指導者たちのもので、しかるべき行動規範に沿った日々を送れば救われる、という物語を書きたかったとしている(p.153)。

 加藤先生は、新しく与えられたと主張する律法はとても守れるようなものではないし、律法を守れば救われるという枠組みはユダヤ教的すぎるとしているが、ここの部分で一番面白かったのも、実はマルコ批判。

 あまりにも有名なマタイ5.1「霊において貧しい者は幸いだ、天の国は彼らのものである」(人口に膾炙されている訳では「心の貧しい人々は、幸いである」)は、「聖霊を受けることになる者たちだけが肯定的に評価されていることへの反論になっている可能性が大きい」(p.180)というのは初めて読んだし、新鮮な視点だと思う。

 マルコでは「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(3:29)というところが、なんで急にこんな強い調子になるんだろうと不思議だったが、その理由もよくわかる。また、マタイとよく調和しているカトリックにおいては、守れるはずのない新しい律法(単に姦淫するなではなく、淫らな思いで他人の妻を見るな、みたいな主張)を告解によって補完することによって、共同体として生き永らえることができているのではないかと思った。

 また、ルカでは使徒行伝と一気通貫で読めば、イエス以外にもペトロ、パウロと次々と聖霊が下っていき、世界の果てまで神の計画が伝わっていくという構想で書かれたというのも驚くべき主張だ。

 ただ、ルカと最後のヨハネは、量的な問題もあり、マルコとマタイの概観がが素晴らしすぎるということはあっても、やや物足りなかったのは残念だ。次は、特にルカについて、もっと詳しい主張を読みたいと思った。

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