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April 13, 2004

『徴候・記憶・外傷』を読んで#2

 本全体の構成は1)徴候2)記憶3)外傷4)治療5)症例6)身体-とはなっているが、「徴候」論は哲学的エッセイという感じだし、「記憶」論も短い。結局、この本の中心は外傷=トラウマ論であり、しかも、後半は講演や対談のテープ起こしのような文章が続く。『治療の聲』までは追いかけるけど、大学の紀要までは手が回らないというぼくのような専門外の人間にとって、後半の収穫はpp.305-328「『踏み越え』について」だった。ぼくのような中途半端な精神分析の本のファンにとっては、どこかで社会批評なんかに逸脱してもらいたい、という著者をおとしめかねないような密かな願望があるが、中井さんは学問的な忠実性を自らの意思で乗り越えていくような軽やかな印象がある。

 さて、中井さんによると「二十一世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目だつ」という。元々「イデア」にはいきなり行動に入ることがあるからだ。

ここで中井先生はイデア(ιδεα)という言葉を使っているが、これでは「概念」と混同される恐れがある。いまではειδοsという言い回しをする人が増えているようだが、元々、意味は同じだ。高尚ぶったりせず、卑近な日本語を使えば「顔つき」だろう(元々は「見る」とか「知る」という意味の動詞ειδωから作られた名詞)。つまり、ιδεαは顔つきなどに、すでに出てしまっているものなのだ。

 中井先生は、行動に説明責任(Acountability)がはたせない例が多いのは「よかれと思った」ことのように言語化、表象化される前に行動にうつる場合があるからだ、という。だが、考える前に行動が「出て」しまうというのは、自然なのかもしれない。とにかく「そもそも、人生に不可避的で大きな決定を指す『企投』『アンガジュマン』という言葉はこれを指す」。そして、「戦争こそ、明確な言語化やイメージ化を経由ぜすに行動化されるものの最たるもの」だ、と。

 凶悪犯罪を裁く裁判において、「心の闇」が語りえないのは、まさにこうした構造があるからだ。裁判においては「行為はすべて因果論的、整合的なナラティブ(語り)で終わらなければならないという社会的合意」が裁判の前提であるからだ。しかし、人間は必ずしも合理的に行動するものではない、密かな自己破壊的衝動が常に出動の機会を待っている。「それに、ある程度、先が見えないから人生を何とか生きていけるものだという面もある」。

 では、どうやってこうした破綻を防ぐことができるのか。いつまでという期限がないメンテナンスを続けるのか。

 中井先生はハッキリとは書いてないが、そういったことは不可能だといっていると思う。そして、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行してから0.5秒後であるという神経生理学者リベットの見解を引き合いに出しながら「意識による『自己コントロール』は、まちがって踏み始めたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる」としている。

 そして、「脳生理学は、1100万ビット/秒の感覚器に振り祖族情報を、どのようにしぼりこんで行動の開始を決定するか、そしてどの部分がどの形で意識の10ビット/秒にまわされるのかを明らかにしてほしい」と最後に書いている。

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