June 20, 2025

『社会学の歴史II』奥村隆

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『社会学の歴史II』奥村隆、有斐閣アルマ

 知り合いの子が大学生になったら、サル学の本か長谷川宏訳の『法の哲学』ヘーゲルを贈っていたんですが、『社会学の歴史I 社会という謎の系譜』奥村隆、有斐閣アルマは「次からはこれにしよう」と思うほど感銘を受けました。そのIIなんですが、積読状態からやっと読み出したものの、なかなか前に進まず、最後まで読んでからまとめたのでは忘れてしまいそうなので少しずつまとめてきたのですが、ようやくひと段落しました。

[9章 シュッツとガーフィンケル]
 皆さまは哲学の分野で現象学はお得意ですか?勤めていた頃、まだ土曜日は半ドン勤務の後、ランチを一緒に食べて解散みたいなことをやっていた時、学部の卒論で現象学について書いたという後輩と話した時にも、「ひと言ではいい表せない」と逃げられ、まあ、そうだなと思って、ずっと苦手なままですごしていました。
 フッサールの着想は学問の基礎である直接体験が失われつつある中、自然的態度をストップさせる「判断停止(エポケー)」が重要だと説きます。こうした普段は意識されないものを主題化することが現象学なんだ、と。「体験の流れ」の中で素朴に生きていては「意味」は生まれず、そうした純粋持続流から外に出て意味を獲得することが重要だ、と。しかし自己の体験流を自己解釈によって理解した「意味」に他者は接近できません。
 ただし、一緒に年をとることは可能で、それをシュッツは「我々関係(Wirberziehung)」と呼びました。その中で人は類型として他人の行為などを把握する、と(個人的にはヴィトゲンシュタインの言語論にも通じるのかな…)。
 社会は異なる体験流を生きる人間がつくる「複数の体験の空間」ですが、そこで人は「私はいずれ死ぬ」という怖れをいだきつつ「希望と怖れ、欲望と満足、好機と危機」の中で計画を立てたり実現している、と。
 ところが複数の現実を行き来しながら生きている人もいます。例えば同じキリスト教会でも、信仰のリアリティをもっている人もいれば、それは虚構の演技にすぎないと思っている人、儀式を運営する労働の現実しか見えない人もいて、そうした人たちが対立・葛藤してダイナミックに共存している。

 「エスノ」という言葉がある社会のメンバーが「属する社会の常識的知識」をなんらかの仕方で利用できることを指すことから「エスノメソドロジー」という概念を生み出したのがガーファンケル。
 私たちは「言葉を正確に定義した合意」で秩序をつくっているのではなく、気づかれない基盤によって安定させており、家族なども規則によって成り立っているのではなく、「家族をする実践」を一瞬一瞬行っている、と。
 ここから、家族の中で急に堅苦しい受け答えをすると、他の家族が唖然としてショックを受けるという有名なテストが行われます。

[10章 アーヴィング・ゴフマン]

 ゴフマンの自伝を書いたヴァンカンによると、ゴフマンは「社会的上昇の独習者」 だった、と。

 《農村地帯のユダヤ人のプチブル層を帰属集団とする彼が、都会の知的ブルジョワ層を準拠集団にする(さらに、 最上層家庭の女性と結婚する)。このとき「あるべき」自己へと訓練するために手引きが必要となります。彼はゴフマンがつねに「参加する観察者(participant observer)」 だった》と。

 なんか米副大統領のバンスのことを考えてしまいました。《集団の中にはいるが、そこから一歩退いている。しかし自分が必要と決めれば戻ってくる。自分で発言するよりも、観察している」。出身階層や職業や学問分野や伝統の「内と外とにどのようにして同時にい ることができるのか」という問いがゴフマンの軌跡にはつねに存在 したのではないか。社会的上昇者はいつも「居心地の悪さ」を感じ、 彼の目には「日常」が謎として浮かび上がります》というあたりでは、ゼレンスキーとトランプの会話に割って入ったあたりを思い出しました。

 《東欧からのユダヤ系移民の子でありなが ら、アメリカの名家の一員である。大学教授でありながら、株とギャンブルの名手》だったというゴフマンは、貧しいヒルビリーに生まれ、自力でイェールを卒業し、金持ちのインド系の妻と結婚したバンスと重なります。バンスの奥さんは自殺しそうなタイプとは思えないので、そこは違いますが…

 それにしても10章のゴフマン面白いなぁ…ゴフマンの対人関係ごとの演技する自分って、吉本隆明さんの関係の絶対性なのかな、などと思いつつ読み進めました。基本的な社会学の文献が邦訳されていない中で、人間は玉ねぎみたいなもので、本当の自分などはなく、家族、友人、社会との関係ごとの自分がいるだけ、みたいなことをマタイ伝から読みといた吉本さんは凄いな、と改めて思いましたが、同時にこうした社会学的な常識がない中で、日本の言論界はいろいろやってきたんだな、と寂しさも。

 さらに、ある社会の中で求められる「しぐさ」を外した場合、わざと周りが気づかないフリをしつつ、軌道修正を促すなどの高度で稠密なコミュニケーションが存在するみたいなところまで研究しているのが凄いな、と。我々は毎日の日常をショーのように過ごし、そこから逸脱する場合は、ショーを救わなければならないというのは凄いな、などと考える。

 この本の副題は「他者への想像力のために」だけど、SNSをみても「感受性が鈍すぎ、機転に乏しすぎ、自尊心や思慮がなさすぎる者」は「仲間はずれにされてしまう」というのがよくわかる。そうしないと秩序が維持されないからな、などとも考えながら。

[11章 フーコー]

 カトリックが懺悔を年一回の義務としたのは1215年のラテラーノ公会議から。「告白させる権力」によって人は主体となり、服従する,というのはボルシェビキ以降の総括みたいな作風に通じているんだな…

 国家や領土ではなく、人間も統治しようという考え方はギリシア的ではなく、ヘブライ含むキリスト教における東方にある、と。王・神・首長が牧者で、人間たちは群れという喩えは新訳からのもの。しかし、ギリシアの神は人間をどこかに連れて行かず、都市を囲む城壁の上に現れるが、ヘブライの神は移動する神であり、人が城壁を出たところに現れる、と。

 考えてみれば出エジプトだけでなく、パウロも道の途中でイエスに会い、ヤコブたちの原始母教会やユダヤ共同体の外に出て布教して、人々を司牧しようとするもんな、細々と手紙書き送って…と思いつつ、Παρρησία(パレーシア=率直さ)について、p.166に書かれている
《キリスト教以前のユダヤ・ヘレニズム的テクストでは、パレーシアは「大胆さと勇気という形態における(真なることを語ること)」 を意味し、古典期ギリシアの用法と近いものでした。ですが、七十人訳聖書ではこの言葉は「神の視線に自らを差し出す心の開示」、「魂の透明性」といった「神との関係という垂直軸」に位置づけられるようになり、魂は「透明になって神に開かれ」るものとなります。そして新約聖書でパレーシアは「言語を用いた活動」ではなくなり、「言説や発言のなかで自らを表明する必要のない心の態 度」 = 「神への信頼」という意味になっていく。神の意志に適うこと以外を神に願うことのないキリスト教徒に神は耳を傾けてくださるという「神の愛への信頼」、これが新約聖書における「パレーシア」であり、ここには「服従の原則」による「循環」が見られます。
 紀元後最初の数世紀の修徳テキストにおいて、パレーシアは「両義的な価値」をもち始めます。ポジティブな価値を帯びたパレーシアは、キリスト教徒の「人間たちに対する態度」と「神に対する存 在の仕方」のあいだの「蝶番的な徳」として現れます。人間たちに対するパレーシアは「自分が証言したいと望む真理を、あらゆる脅威にもかかわらず主張する勇気」です(迫害の前の「殉教者」のような)。ただしこの対人間パレーシアは「神への信頼」から切り離せない。ソクラテスの勇気は「他の人々に言葉を向ける一人の人間の勇気」でしたが、キリスト教殉教者の勇気は「神への信頼」、「魂と 神との直接のコミュニケーション」をよりどころにするのです。ところがキリスト教のなかで「震えおののく服従の原則」が明確になってくると、「人間の自分自身に対する信頼感」》は曇り、信頼できるのは髪だけになるため、心の開示としてのパレーシアが傲慢なものとみなされてくる、という書き方なんですが、第一感「ちょっと短絡しすぎ」と感じるんですよね…

 日本語の簡単な新訳ギリシャ語事典を調べただけでもΠαρρησίαで最初に示さ:れるのは古典な1)(話しの)あけっぱなしな事、腹蔵のない事、率直さ=ヨハ7:13、行2:29 2)公然たる事=マコ8:32 ピリ1:20 3)(態度・行動における)率直さ、無遠慮、大胆さ=行4:13、IIコリ7:4 であり、フーコーがキリスト教によって(おそらくパウロ書簡後のことだと思いますが)意味が変わったというほど変わっていないのかな、と(使徒教父文書の使用例までは調べていませんが)。

 プラトンは『国家』(557B)で自由(エレウテリア)を基本とする民主制の特徴として「放任」(エクスーシア)と「言論の自由・率直さ」(パレーシア)をあげています(岩波文庫、下巻、p.204の注から)。しかし、パウロ文書のフィリピ人の手紙1:20《そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています》の「恥をかかず」もΠαρρησίαです。

 恥をかかずは意訳気味ですが、パウロお得意のフレーズである「福音を恥とせず」に合わせて日本語ではそう訳されることが多く、公然たる事である、という意味となります。

 フーコーはパレーシアを意見や考えを公に正直に述べるディスクールの方法として重視したというのはわかりますが、かといってキリスト教のテキストで意味が変わってきたというのはどうなのかな…と思ったのですが、フーコーの『安全・領土・人口』の邦訳はバカ高いから(8万!)、フランス語のKindle版で読むかな…と。

[14章、ブルデュー]

 12章、13章はジェンダーと周辺の社会学。じっくり学ばせていただきたいところですが、飛ばしてブルデューへ。

 そのブルデューも後半の『国家貴族』について重点的に書かことにします。12章から14章前半の『ディスタンクシオン』については各自、お読みくださいませ。

 とは言うものの「知識人は人類の公務員でなければならない」と語っていたあたりはいいな、と。また、『ディスタンクシオン』についても「身体化された階級」という視点が大切だというあたりも、なるほどな、と。庶民階級が力を誇示するボディービルに打ち込みがちになるのに対し、エリートたちは「健康な肉体」ぐらいしか期待せず、それはジスカール・デスタンのスリムな体型と好対照だ、なんてあたりも思い出し、ブルジョワ階級のゆとりについて「ゆとりというには、他者の客観化する視線にたいする一種の無関心であって、その視線の力を骨抜きにしてしまう」なんてところも痺れました。芸術作品の購入は個人趣味の客体化された証拠であり、真似することのできない貯蓄様式だ、というあたりも。

 さて、『国家貴族』では、ブルジョワジーの子息たちに裏口的な学歴保証を与えるような存在だったエナ(国立行政学院)が、その「実家力」を活かしてグランゼコールの〈界〉全体に君臨するようになり、高等師範学校を教授や知識人を再生産するだけの学校に格下げした、なんていうあたりは全く知らなかったので新鮮でした。こうしたエナのエリート主義は批判され、2019年にマクロンはエナを廃止します。

 なぜ、問題かというと、経済資本継承者にも学歴が求められてグランゼコールに入ることが求められるようになり、最初は裏口だったにせよ、そうしたブルジョワ子息のエナ(国立行政学院)卒業者数が増えていくと、家柄の良い既得権者が、国家の枢要な位置にテクノクラートとしてつくようになってしまった、と。

 例えば、テニスをやる姿がエレガントだったジスカールはエナ(国立行政院)出身で、中世以来の貴族エスタン家の出身だそうですが、こうして経済資本と学歴資本の両方を相続した「国家貴族」たちが支配階級の〈界〉を統一した、と。さすがにマクロンもエナを廃止するのも無理はないな、と。

 と、同時にこうしたことって、アメリカでもブッシュ一族やクリントン夫妻が大統領選にでずっぱりになったことに形は少し違えど対応しているのかな、と。そうなると、トランプ支持者は、こうした「国家貴族」への反発なのかも…などと考えてしまいました。

[15章 ルーマン]

 いよいよ最後はニコラス・ルーマンです。個人的なことですが、修論にルーマンの社会学を反映させたいと思ったこともあったものの、歯が立ちませんで、まったく触れることさえできませんでした。難しいんですよね…

 今回も社会学の学説史を読んできて、最後にルーマンでしめくくるという構成でもどこまで理解できたか分かりませんので、そんな時には箇条書きで…カッコ内は個人的な感想です。

・パーソンズが論じた人間と人間の「合意」や「共通価値」が社会を支えるというのではなく、ルーマンは人間を中心としない社会学を試みた(コミュニケーションそのものが支える?)

・コミュニケーションが社会システムで、その外にいる人間は環境

・パーソンズは社会システムにおける相互作用の中で、個人の選択が他者の選択に依存するのをダブルコンティンジェンシーとしていて、そうした自分と相手の行為の選択がお互いに依存し合う状態は「合意」で解決できるとしていますが、ルーマンは互いに時間をかけた手探りの中で収斂していくものだと言います。

・そうしたコミュニケーションでは互いを完全に理解できることは難しく、他者はブラックボックスのままですが、付き合っていくには十分な透明性があればよく、繰り返す時間が秩序を成立させる。しかし「信頼は、過去から入手しうる情報を過剰利用して将来を規定するというリスク」なので、未来は予想できない、と。

・つまり、社会システムはコミュニケーションからなり、それが行為へと単純化して帰属されることで操作可能になる。コミュニケーションは単なる伝達の営みではなく、コミュニケーションそのものが社会システムの要素。個人が行為するのではなくコミュニケーションが接続することで社会システムは生成される(ここでもウィトゲンシュタインの言語論を思い出してしまいます)。

 以下はそうした中でも進行する格差拡大についての説明。

・近代社会では様々な機能が分化され、重要な機能は分化した機能システムの中のみで満たされるようになる。

・例えば環境問題が全ての問題の中で一番の喫緊の課題だとしても、個々の機能システムの中でしか問題は処理されず、社会全体の操舵中枢はない。

・各システムはそれぞれの機能について高度なパフォーマンスを示すように進歩するが、環境問題のように個々のシステムでは統制できない大きな問題による変動が突き付けられると、システム間に過剰共鳴が引き起こされず、小さな刺激によって崩壊するかもしれない。

・キリスト教化されたローマでは、異端者は破門=コミュニケーションから排除され、帝国の外部に広がる居住不可能な荒地に追放されました。今日の社会でも、ひとつの機能システムに関与できないと、他の多くのシステムからは排除される。排除は包摂よりも強い結合をもたらすので下層はより強く統合され、全体としては上層の包摂によって社会は統合されていた。

・包摂領域において人間は人として扱われるが、いったんでも小さな機能システムから排除されると、単なる身体として放置されることになる。全ての人間を人間として包摂していた機能分化した社会において、各機能システムに関与できないと事態が連鎖し、排除されてしまう。

・王や貴族など少数者の意思で動かされていた社会では、問題を名指し批判できるが、革命と民主化によって市民が個々の意思で行動できる社会になると、それを誰も制御できなくなる。

【目次】
講義再開にあたって――中間考察
第9章 シュッツとガーフィンケル――他者という謎
第10章 アーヴィング・ゴフマン――日常という謎
第11章 ミシェル・フーコー――権力という謎
第12章 ジェンダーと社会学――性という謎
第13章 周辺からの社会学――世界という謎
第14章 ピエール・ブルデュー――階級という謎
第15章 ニクラス・ルーマン――ふたたび,社会という謎

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『社会学の新地平 ウェーバーからルーマンへ』佐藤俊樹

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『社会学の新地平 ウェーバーからルーマンへ』佐藤俊樹、岩波新書

 ジムでエアロバイクを漕ぎながらAudibleで聴きました。『社会学の歴史II』奥村隆、有斐閣アルマが難航していて、特に最後のルーマンは本当に難しいな、と思ったので、その理解の助けになればいいな、と。

 分量的にはウェーバー:ルーマン=8:2ぐらいな感じですかね。あとがきで、ルーマンの社会学についての入門書を、という岩波からの依頼に対して著者がウェーバーからの流れで書きたいと逆提案して書かれたとしていますが、もう少しルーマンの比重を重くしてほしかったと思いますが、それは次のルーマンに関する著書に期待します。

 ぼくも著者が批判する大塚久雄訳で読んだのですが、プロテスタントの禁欲的職業倫理が資本主義のエ-トスとして重要とされてきたものの、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)』でも「資本主義の精神」が何かを明確にはできておらず、資本主義的会社の組織、意志決定システムの重要性を指摘し、その問題意識がルーマンの社会システム論に継承された、みたいな流れでしょうか。

 ウェーバーがプロ倫で参考にしたのは叔父の繊維会社「ウェーバー&カンパニー」で、中興の祖となるカール・D・ウェーバーは大量の外国製品に押され、存亡の危機に陥ったビーレフェルトの繊維産業を守り、発展させた人物であることが強調されています。よく考えてみれば「ウェーバー」という姓もドイツ語で「織り手」を意味しているんすもんね…(にしても、今の米国による中国のデカップリングも同じような洪水的輸出の対抗に起因しているのかも)。

 とにかくウェーバーが資本主義の精神の事例としていた十九世紀半ばのウェーバー&カンパニーの組織形態は個々の労働者が自ら判断していく自律分散型ネットワーク組織で、そこでは信者が行動を自ら決定する自由が義務化されるというプロテスタントの禁欲倫理が自律分散型ネットワーク組織に適合していた、みたいな。

 そこで発揮された資本主義の精神とは「自由な労働の合理的組織」で、それによって産業資本的企業は「水平的協働が可能な自由な労働の合理的組織」になっていった、と。そうやって、生産と流通のプロセスを直接管理することで、より高品質の製品をより安く供給しる仕組みをつくり、「得られた利益の多くを再投資して企業規模を拡大し、さらに厳しい競争にも耐えられるようにした」と。

 「プロテスタンティズムの倫理」はカルヴァン派の予定説を想定していますが、著者が戯画的に書いている「天国株式会社の永久見習い社員」のような生活態度は必ずしも資本主義の精神に不可欠なものではない、とも指摘しています。

 イスラム経済や中国経済が近代資本主義を生み出せなかったのは西欧のように法人組織を生み出せなかったからで「プロテスタンティズムの倫理」がなかったからではない、と(もっともイスラムはそもそも法人を認めませんがw)。

 さて…。

 社会を一定の価値観を共有・内面化した人びとの集まりと考えて、その人びとの行為のネットワークをシステムとして捉えることから社会のメカニズムを分析しようというのがーソンズの社会システム論だと思います。

 ルーマンが自己産出系論(オートポイエティック・システム)の考え方を導入したシステムとは、複数の要素が互いに相手の同一性を保持するための前提を供給し、相互に依存し合うことで形成されるループであり、システムは自己の内と外を区分(境界維持)することで自己を維持する、みたいな。

 個人的にはルーマンは本当に難しく、人間の共通価値が社会を支えるのではなくコミュニケーションが成立することが「社会」であり、そうした機能は代替可能であることだけが求められる、それをとりあえず信頼することで社会は成り立っているみたいなところは凄いな、と思っています。

 著者はAI化も組織無しにはありえないとしていますが、次のルーマンに関する本が楽しみです。

 以下の引用は印象に残りました。

 《優れた社会科学者は経験的な事態を親察するなかで「何か」を見つけ出す。むしろそういう資質と能力をもった人間が、優れた社会科学者になれる。ただ、そこで何を見出したのかは、本人にもはっきりとはわからない。わからないまま、既存の術語や喩えに抗いながら、その「何か」を少しずつ言葉にして論文を書いていく。社会科学というのは、そういう思考と表現の作業である。
ウェーバーもそうやって考えていったのだと思う。亡くなる直前の倫理論文でも、「資本主義の精神」とは何かを明確には示せなかったが、十分な手がかりは残してくれた。その後の経営学や社会学の組織研究、さらにそれらを理論化したルーマンの組織システム論をふまえていえば、「資本主義の精神」とは、決めなければならない自由を生きることであり、それが水平的な協働ができるような形に自分や他人の働き方を組織することにもなった》(p.249)

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『自分を傷つけずにはいられない』と『叫びとささやき』

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『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』松本俊彦、講談社

 『身近な薬物のはなし タバコ・カフェイン・酒・くすり』が面白かったので、松本俊彦さんの『自分を傷つけずにはいられない』をいつものように、ジムの有酸素運動の間にAudibleで聴きました。

 正直、自傷行為はあまり理解できなかったんですが、自傷は「心の痛み」に対する「鎮痛薬」として機能し、安堵感をもたらす、という説明でなるほどな、と。それは脳内麻薬が分泌されるからだ、と。

 あと、自傷は周りをコントロールするためにやる場合もある、みたいなところで、昔観たベルイマンの『叫びとささやき』で同じようなことをする場面の意味が初めて分かったような気がしたので少し書いてみます(念のため言っておきますが、自傷行為をするような人は「かまってちゃん」だと言いたいわけではありません…)。

 『叫びとささやき』は日比谷みゆき座のロードショーで観ました。ベルイマン作品をロードショーで観たのは初めてだったかな。新春第二弾の封切だったらしく、それを考えると中学生の時でした。

 映画の中心はイングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルソン、リヴ・ウルマンが演じる三姉妹のカーリン、アグネス、マリア。

 女中アンナと今も真っ赤な装飾の屋敷に暮らす次女アグネスは未婚で末期ガン。それを看取るために姉カーリンと妹マリアが屋敷を訪れ、アグネスの葬儀が終わり、残ったカーリンとマリアと女中アンナが別れていくまでを描きます。

 で、当時、どうしてもわかんなかった場面があったんですよね(その場面だけじゃなかったけどw)。

 長女カーリンは歳の離れた外交官と結婚していたんですが、食事を終えると夫が口にするのは「もう遅いからベッドに入ろう」という強蔵の台詞。そんな関係に悩んでいたカーリンは割れたグラスの破片で大事なところを傷つけ、夫ににそれを見せるというシーンがありました。で、松本先生によると、自傷は周りをコントロールするためにやる場合もあるという説明で、あれはそうした段階のことだったのかな、と。

 松本先生によると自傷経験者は、人生の早い時期から問題を抱えている場合が多いそうで、もし自傷を告白された場合は肯定的に評価し、冷静に対応することが重要としていますが、あの外交官の夫にそんなことができるか不安ですし、自傷にはアディクションの側面もあるということなので、イングリッド・チューリンのことが心配になってきます。

『叫びとささやき』はスウェーデン語の原題"Viskninger Och Rop"も「叫びとささやき」なんですが、自傷行為も「叫びとささやき」なのかもしれません。

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April 29, 2025

『舞台が幕を開けるまで 演劇のつくり方、教えます』おーちようこ

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『舞台が幕を開けるまで 演劇のつくり方、教えます』おーちようこ、大修館書店

 読んでいて、本当に楽しかったし、演劇に関する理解がより深まりました。高校時代に文転してヤクザな社会科学の方向なんかに歩まず、もっと文系文系した演劇をやればよかったな…中学で映画を撮ったり、高校一年の前半では脚本・演出で芝居をかけたんだよな、とか詮方ない事を思いながら…まあ、なるようにしかならなかったでしょうがw

 この本を知ったのは著者紹介もかねた日経の書評欄の記事。《劇作家、演出家、プロデューサー、美術、衣裳、ヘアメーク、照明、音響……本書は16人へのインタビューを通じて、企画段階から脚本の決定、チケット販売、演出の具現化、稽古、そして初日の幕が開くまでの、それぞれの役割を紹介する〝舞台づくりの教科書〟》《一般にはイメージのしにくい職種に「制作」がある。取材窓口を担い、チラシや公式サイトの作成、チケット販売実数の管理など職務範囲は広く、責任は重い。本書がスポットライトを当てた女性は「すべて稽古場で起きていることが舞台になっていく」と考え、できるだけ長く稽古場に身を置く。「誰がどんな表情をしているのか? など現場の空気をどれだけ感じ取れているかが非常に大切」との矜持を持つ》なんていうのを読んで、即、購入。

 この制作の部分の話しは関根明日子さんですかね。チケットに関わる業務全般を「票券」といいますが、大きな制作会社は企画、キャスティング、票券、宣伝などの部署に分かれているといいます。そして、芸術とお金をすりあわせることでクオリティや舞台に関わる人の士気に関わるとか、なるほどな、と。

 舞台制作ということとは直接、関係ないけど、人を動かして舞台も含めて何かをつくろうという時の今の世相についての鴻上尚史さんのインタビューが印象的でした。

 《昭和の時代に紅白歌合戦の視聴率が70%を超えている時代は、なんとなくみんな同じだと思われて、言わなくても分かるよねというモラルを守ることで社会が成立していたと思うんです》《でも、今は、モラルではなくルールを学ぶ必要が出てきた。だって、多様性の時代ってことは、みんなが違ってきている》《言わなくてもモラル、分かるよね、っていう時代じゃなくなった》(p.18)

 このほか、知ったことは

・脚本は1分間に300~400文字の台詞量
・舞台監督は建て込みの手順に合わせて大道具の搬入、証明さん、音響さんが機材を入れる時間に合わせて、どこへトラックを向かわせて積み込み作業をすればいいのかも段取りする
・だいたい仕切っているのは舞台監督
・俳優座は閉館したけど、大道具をつくる俳優座舞台は健在というか、第一人者
・商業演劇だと衣装だけで100人が関わる
・衣装の部分がひとつ取れて奈落に落ちても舞台機構がおかしくなることをアタマにいれてつくらなくてはならない
・衣装付稽古という稽古がある
・立ち稽古は「ミザンス」
・男子校は夕暮れ時に静かになる
・BGMは夏と冬で聞こえる音量が違う
・大きくなっていく劇団は、劇団員の将来を考えている

 それにしても小劇場は一週間単位の貸借りとは…。月曜日に大道具を入れて火曜日までに組み立てて、照明の当たり具合を確かめて、水曜にゲネプロと初日、日曜日に千穐楽というスケジュールなのか、と(宝塚は大したもんです)。

 最後に…ぼくは、新しい職種の話しが出ると、よくぺりかん社のシリーズ「なるにはBooks」を読むんです。「なるにはBooks」は中高生向けにゲームやアニメ業界で働くにはどうしたらいいのかを、それぞれの職種のプロの人たちにインタビューしてまとめている本なんですが、舞台を含めてこうしたのは、やっぱインタビューをまとめると分かりやすいな、と改めて思いました。

【目次】

まえがき

絵で見る「舞台が幕を開けるまで」

★インタビュー

鴻上尚史(作家・演出家) 相手の心を想像する心を育てる、それが演劇のすごさ

[1]公演の企画  企画を立案する

★インタビュー

岡村俊一(プロデューサー) 主演は決める、のではなく、決まるもの

早乙女太一(劇団座長) 昔の大衆に向けた演劇を、今の大衆に向けた演劇へ

[2]脚本・演出の決定

オリジナルの脚本を書く、あるいは原作から上演台本を書く

出演者と役を決める

脚本をもとに演出のプランを立てる

★インタビュー

中島かずき(脚本家) 僕は例えるなら「注文住宅」なんです でも予想外の家を建てることが楽しい

石丸さち子(演出家) 演劇とは見知らぬ誰かと出会うこと

[3]公演の宣伝・チケット販売

宣伝材料/パブリシティを作成し、広く告知するために

チケットを販売するために

★インタビュー

関根明日子(制作) 稽古場で起きていることが舞台になる

[4]演出計画の実現

作品世界にそった舞台美術の計画を立て、形にする

衣装を借りる、あるいは作る

作品世界に沿ったヘアメイクを考える

★インタビュー

小林奈月(舞台美術家) 演出家が想像するその先へ

金安凌平(舞台監督) 「それはできない」と言いたくない

藤江修平(大道具製作) 舞台を通して人の心を豊かにする

黒澤花如(大道具製作) ひとつとして同じことがない仕事です

及川千春(舞台衣裳家) 衣裳が彩る世界観で作品によりそいたい

伊藤こず恵(ヘアメイク) このヘアメイクで役になれた、その言葉がうれしい

[5]稽古開始

稽古する

照明プランを考える

音をつくる

★インタビュー

一色洋平(俳優) 舞台と客席にある透明な壁を破る、それが役者のおもしろさ

松本大介(舞台照明家) 照明は角度と高さの芸術です

佐藤こうじ(舞台音響家) その音は、いつ、どこで、誰のために鳴るのか

[6]小屋入りから初日へ

建て込みをする

場当たり・ゲネプロをする

本番中

千穐楽を迎えて

★インタビュー

本多愼一郎(劇場支配人) 劇場は真っ白であるべきです

あとがき

演劇キーワード索引

【Column】

演劇を続けるために、「劇団」という形があります

インティマシー・コーディネーターの導入やハラスメント防止ガイドラインの公開も

制作は公演の最初から最後まですべてを支えるプロフェッショナル

舞台が事故なく怪我なく進むようすべてのチームをつなぐ要、それが舞台監督だ

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『はじめての構造主義』橋爪大三郎

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『はじめての構造主義』橋爪大三郎、講談社新書

 1988年というレヴィ・ストロースの主著もまだ翻訳されていない時期に、レヴィ・ストロースの仕事にフォーカスしながら構造主義を西洋哲学史の中で説明しようとした本です。

 なんで、今さら「読んだ」のかというと、ジムで聴くAudibleを探していて、面白そうなのがなくて、「ま、橋爪さんの構造主義の本ならいいか」と選んだから。あと、スマホのAudibleの検索では出版年数とか出てこない場合があって…。でも、ま、改めて復習も出来たし、アルチュセール、フーコー、バルトなど、随分この手の本は読んできたな、と懐かしかったです。

 この本の特長といえば、近代西欧哲学の流れの中で、構造主義がどういう意味を持っか、みたいなことを書いているところなんですかね。デカルトは知覚の基礎に自己を置いたのですが、バラバラな近代の個々人が理性的に追求した先にも真理があるとした近代市民社会の価値観に合致したカントの後、モノの見方としての西洋絵画における遠近法、証明の基礎となるユークリッド幾何学が解体されるなかで知への不信感が高まる、と。いったん歴史の進歩というマルクス主義というドグマに収斂されるものの、ソ連などの明らかな失敗からまた不信感が蔓延したところに、将来の歴史は見通せないものの人間は生き方を自分で決める自由と責任があるのだから現存在を歴史に投げだそうと実存主義がすくい上げた、みたいな流れの果てに構造主義を置いたこと。

 レヴィ・ストロースが分析した親族の基本構造や神話の構造、あるいはそもそも言語の構造などに現れる構造に人間は支配されているんだから、価値とかはありないわけで、まず、そうした構造こそを解き明かすことから始めよう、みたいな。だいたい、女系の交差イトコ 婚で一族の輪を広げるなんていう、高等数学がやっと解き明かせるような仕組みを、西洋が「未開」としてきた人たちが「野生の仕事」でやってきたんだし、と。

 面白かったのはジュリア・クリステヴァを含めた構造主義のグループと数学のブルバキ集団とのつながり。どっかの本で(レヴィ=ストロース『遠近の回想』?)シモーヌ・ヴェイユはフランスに亡命していたトロツキーとバカンスに訪れた地で会っているみたいなのを読んだ時「勝てねぇ…」と思ったんですが、構造主義グループとブルバキ集団にもつながりがあるなんて、もっと「勝てねぇな…」と。

 レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』を「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」と締めくくっていますが、そんなのも思い出しました。

【目次】
●『悲しき熱帯』の衝撃
●天才ソシュール
●レヴィ=ストロースのひらめき
●インセスト・タブーの謎
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April 26, 2025

『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』内貴健太

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『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』内貴健太、風媒社

 小牧・長久手の戦いのハイライト、池田恒興、森長可らの三河中入り軍を家康軍が破ったのは4月でしたが、外出するときにカバンに入れて読んでいた『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』をそろそろ紹介します。

 花粉の季節で目が効かず、集中力もない中、移動中の無聊をなぐさめてくれました。いつか、春の季節にこの本を片手に羽黒城から小牧山城、長久手城あたりを歩いてみたいと思います。

 日本史は(も)素人なので羽黒城が梶原景時の孫・影親が、一族を滅ぼされた後、頼朝の愛馬「麿墨(するすみ)」を伴って落ちのびた先に築かれたというのは知らず、本当に驚きました。羽黒城はその子孫の景義が信長に仕えて三千石の領主となった時まで居城だったとのこと。しかも、その景義は本能寺の変で殉死したとは(p.57)。

 大留城もぜひ訪ねてみたい城です。大留城は足利義輝配下の村瀬氏が築城したとされ、合戦当時は信雄・家康側のつくのが筋だったが、池田恒興らの大軍を前に受け入れます。しかし、裏では小牧山にいる家康に三河中入り軍の行軍状況を報告、正確な状況把握に協力したとのこと。城跡碑しかないとのことですが、どこか詰めの甘い池田恒興、大軍相手に玉砕するのではなく、裏で敵方にも通じるという当時の武士のあり方、それを活用する家康の度量とか、いろんなものを感じることができそう(p.91)。

 長久手の戦いで敗走した池田・森軍の兵士が落ちのびたのは大草城。家康は大草城の攻撃を命じますが、秀吉の大軍が接近しているとの報告を受けて攻撃を中断。小幡城に引上げます。家康が攻略できなかったということで、徳川家によって大草城の跡は抹消されたかのように残っていないとのことですが、籠城していた侍大将たちは大草村で帰農したとのことで、なんとなくホッとさせられます(p.103)。

 池田・森軍が敗北したのは信雄に従っていた丹羽氏重が守る岩崎城を攻め落としたものの、首実検をしながら食事をとっていた最中に秀次敗走の知らせを聞き、あわてて長久手へ引き返したことにあるといいます。氏重が池田・森軍による城攻めで時間を稼がなければ、家康はたとえ池田・森軍を打ち負かせたとしても、追ってきた秀吉に追いつかれて粉砕させられていた可能性があり、家康は氏重こそ武功一番であると称えた資料もあるそうです。そうしたことから空堀を含めて良好な状態で残っているとのこと(p.135-)。大草城との対比は、まさに歴史は勝者によって書かれるし、残されるんだな、と。

 長久手の戦いの後、秀吉は信雄の本拠地に近い蟹江城を奪うことで信雄と家康の連絡船を分断しようとします。調略によって蟹江城に入った滝川一益は、家康が総動員した諸将を前に二週間足らずで城を明け渡し、怒った秀吉によって追放されます。江戸前期に書かれた『老人雑話』の《賤ヶ岳の戦いは太閤一代の勝事、蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり》という言葉がうなずけます(p.173)。

 小牧・長久手の戦いは、そのダイナミックさ、残されたエピソードの豊富さを考えると、本当に天下分け目の戦いだったんだな、と改めて感じます。

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April 23, 2025

『身近な薬物のはなし タバコ・カフェイン・酒・くすり』松本俊彦

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『身近な薬物のはなし タバコ・カフェイン・酒・くすり』松本俊彦、岩波書店

 

 松本さんが話題になったのはストロング系のチューハイの危険性とアルコールと自殺の関係性を説いたからではないかと思うのですが、「ほぼ日」で糸井さんが褒めて、シンポジウムなんかも開いたということで、読んでみよう、と思った本です。

 

  目次が素晴らしく、こうした本を読んだことのある方なら、目次だけを読んでも、大まかな流れを掴めると思います。

 

 著者の伝えたい最も重要なメッセージは人類に最も大きな健康被害をもたらしている薬物はアルコール、タバコ、カフェインがビッグスリーで、それほど深刻な問題をもたらしていないにもかかわらず、厳しい規制の対象とされてきたのがアヘン(オピオイド類)、大麻、コカのリトルスリーだ、ということだと思います。

 

 近代以降の世界では《コーヒーや茶、カカオ(チョコレート) に砂糖を添加することによってカフェインの消費量は増えますし、タバコはカフェインの代謝を早めるので、これもまたカフェインの消費を促進します。そして、カフェインの摂り過ぎで興奮した脳を冷却して眠りにつくには、大量のアルコールが必要となり、さらに翌朝、二日酔いのぼんやりした脳を覚醒させるためにカフェインが必要となる……。まさに「濡れ手に粟」のアディクション・ビジネス》(k.158kkindle番号)が展開されることになった、と。

 

 それにしても思うのは、アメリカはいつも極端から極端に世論が振れるな、ということ。米国民は建国以来、ラム酒やウィスキーで日がな一日酩酊するという自由を謳歌していたのですが、ドイツ憎しの機運が高まった第一次世界大戦では、当初のビール禁止から禁酒法まで行ってしまったそうです。そして、大恐慌に際して政府支出を増やそうにも酒税収入が途切れて有効手段が打てずに、そうした状況はルーズヴェルトがニューディールやるために禁酒法を撤廃するまで続いた、と。

 

 ロシアはイワン雷帝がウォッカの酒税を収入の柱にしたため浴びるように飲む習慣が蔓延。それを嘆いたニコライ二世は禁酒法を施行したが、やはり税収不足に見舞われてロシア革命を引き起こしてしまうあたりは、アルコールと政治の関わりの深さを思い知りました。ちなみに、レーニンは過度な飲酒癖を持つものをボルシェビキに入れなかったが、それを解禁したのはアル中のスターリン、みたいな感じらしいです。

 

 こうしてみると日本の国税庁がビール会社の発泡酒に執拗な攻撃を仕掛けたわけがわかりました。酒税が絶たれると国が揺らぐことを知っているんだな、アイツら、とw

 

 医療用麻薬フェンタニルはヘロインの数十倍も強力なオピオイド(アヘン)で健康被害は爆発的に拡大していますが、米国が最初にオピオイド危機を体験するのは南北戦争。《自身もモルヒネ依存症に陥った元南軍兵士にして薬剤師ジョン・ペンバートン(一八三一~八八) が、自身と人々をモルヒネ漬けの生活から脱却させるべく、様々な香辛料とともにコカインを混ぜて開発した薬用飲料が、コカ・コーラの始まり》(k.211)というのは知らなかったです。

 

 第三章はアルコール禁止の難しさだったんですけど、日本でもコロナ禍で菅政権が飲食店でのアルコール販売自粛を打ち出して、内閣支持率が激減して交代させられたのを思い出します。まさにアルコール規制は為政者の失脚を招くな、とw

 

 市販薬の過剰摂取について書かれた7章は衝撃的でした。

 

なぜ若年層、特に女性に市販薬の過剰摂取が起こっているのか?

ドラッグストアが毎年、10001500軒ずつ増えて市販薬にアクセスしやすくなったから

なぜドラッグストアがこれだけ増えても潰れないのか?

薬九層倍で利益率が高く、コンビニでも売っているような生活用品をより安く販売でき、客を集め、安いコスメも売って若い女性を来店させるようにしているから

さらに政府は医療保険の増加を防ぐため、市販薬の購入を推奨し、ドラッグストアなどで殆どの薬(95%)を薬剤師なしで販売できるようにして、税金も控除するようになったから

 

 という「物語」は怖い。

 

 喫煙者を徹底的に糾弾する正義の禁煙ファシズムは、そもそも健康志向がファシズムなど富国強兵から始まったから、狂気のようになる、みたいなあたりも面白かった。

 

 哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスも政務の苛立ちを日々アヘンによって鎮めていたといわれているそうですが、著者の結論は以下の3点です(k.3897-)。

 

・第一に、 薬物の違法/合法は医学的にではなく、政治的に決定される、ということ

・第二に、「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは「よい使い方」と「悪い使い方」だけ、ということ

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・最後に、「悪い使い方」をする人は何か別に困りごとを抱えている、ということ

 

[目次]

 

第1章 本当に有害な薬物とは?

 最大規模の害を引き起こす薬物

 嗜好品と文化

 薬物文化のグローバル化と「サイコアクティブ革命」

 米国が体験した二つのオピオイド危機

 わが国の医薬品乱用・依存

 医薬品乱用の背景にあるもの

 

第2章 アルコール(1) ストロング系チューハイというモンスタードリンク

 ストロング系チューハイへの警鐘

 ストロング系とは?

 なぜストロング系は危ないのか?

 なぜストロング系は愛されるのか?

 アルコールによる健康被害

 アルコールによる他者・社会への害

 

第3章 アルコール(2) 人類とアルコールとの戦い

 理性を曇らせる飲み物

 ジンとの戦い――ジン・クレイズとジン規制

 米国におけるアルコール規制

 他の国々におけるアルコール規制

 なぜアルコール規制はむずかしいのか

 

第4章 アルコール(3) 人間はなぜ酒を飲むのか?

 生き延びるためのアルコール

 アルコールのために集い、つながる人々

 なぜ一部の人は飲みすぎるのか?

 アルコール問題の背後にあるもの

 

第5章 カフェイン(1) 毒にして養生薬、そして媚薬

 「不自然」なドラッグ

 不思議と非難されない依存性薬物

 カフェインの薬理学

 エナジードリンクをめぐる問題

 毒にして養生薬

 媚薬としてのカフェイン

 

第6章 カフェイン(2) 人類とカフェインの歴史

 ヨーロッパに「近代」をもたらした薬物

 カフェインの起源と人類との出会い

 カフェインに対する社会の反応

 カフェインが引き起こした悲劇

 人が集える場所をつくる薬物

 

第7章 市販薬 セルフメディケーションは国民の健康を増進したか?

 市販薬乱用・依存の現状

 なぜ若者たちは市販薬にアクセスするようになったのか?

 市販薬は本当に安全なのか?

 「濫用等のおそれのある医薬品」指定をめぐる諸問題

 「モノ」の管理・規制だけでなく、痛みを抱える「ヒト」の支援も!

 「ダメ。ゼッタイ。」はもうおしまいにしよう

 

第8章 処方薬 医療へのアクセス向上が作り出す依存症

 「選択的に」忘れられる薬害

 睡眠薬・抗不安薬依存症とは?

 睡眠薬・抗不安薬依存症の周辺

 なぜベンゾ類はかくも問題となったのか

 対策の功罪と精神科医療の課題

 本当に解決すべきなのは「不安」なのか?

 

第9章 タバコ(1) 二大陸をつないだ異教徒の神器

 近年とみに立場が悪くなっている薬物

 タバコとは――その薬理作用と有害性、依存性

 タバコの起源と文化的意義

 タバコへの弾圧と抵抗

 タバコ嫌悪に底流する差別意識

 

10章 タバコ(2) 社会を分断するドープ・スティック

 人を怠惰な馬鹿にする薬物?

 社会システムによるタバコ依存症の拡大

 タバコの衰退

 健康ファシズムの暴走なのか?

 公衆衛生政策は現代の「異端審問官」なのか?

 

11章 「よい薬物」と「悪い薬物」は何が違うのか?

 「ビッグスリー」と「リトルスリー」

 薬物を使う人類

 「身近な薬物」と「身近ではない薬物」の違いとは?

 なぜ大麻は違法化されたのか?

 国際的潮流の大転換

 「よい薬物」も「悪い薬物」もない

 

 あとがき

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April 18, 2025

『木挽町のあだ討ち』永井紗耶子

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『木挽町のあだ討ち』永井紗耶子、新潮社

 松竹創業百三十周年「四月大歌舞伎」の昼の部で上演されている新作歌舞伎『木挽町のあだ討ち』の原作。

 舞台は齋藤雅文さんの脚本が好調で「久々の新作の傑作!『NINAGAWA十二夜』以来なんじゃないの」と感じたので、さっそくAmazonで物理的な本を購入したものの、来ないあいだに、Audibleで聞いたんですが、これまた凄かったので一気に聞き通してしまいました!

 まずは舞台の感想から。

早い展開だけど、ぐんぐん引き込まれます。菊之助の母親を演じる芝のぶ素晴らしい!相変わらずチラシにも出さない松竹の扱いが信じられない…本を読んでいる中で、菊之助を助ける役者ほたるが、名題になれないという話しが出てきましたが、いまだに理不尽が続いているな、と。

 ほたるの壱太郎、木戸芸人の猿弥、殺陣師の又五郎、小道具方久蔵の彌十郎、その女房の雀右衛門など脇が豪華!

 そして染五郎はこれまでの中で一番の役かも!そして下男作兵衛の中車は、これほど筋に引き込む役者はなかなかいないな、と。

 これは再演必至!ということで、さっそく原作も読んでみよう、と相成った次第。

 原作は、木戸芸者一八、立師与三郎、ほたる、小道具方久蔵女房の与根、戯作者の篠田金治という関係者の一人称の一人語りで進むんですね。

 それぞれ良かったんですが、一番読ませたな、と感じたのはほたる。舞台はほたるを女形の壱太郎が演じているので、観ている時には「ん?女性」と勘違いしていたのですが、よく考えてみれば、衣装の繕いをやりつつ舞台にも立っているので、身体的には男の女形なんだな、と改めてわかりました。

 壱太郎のほたるは二代目で、初代は芳町(日本橋)の陰間茶屋あがりの男娼。二代目ほたるは浅間山噴火で一家離散し、母親が焼かれたところの隠亡(おんぼう、火葬場の労働者)に育てられた、という壮絶な人生。針がもてるということで引き取られた寺から仕立屋に奉公に出されますが、そこでも隠亡に育てられた奴に晴れ着などは扱わせてもらえず、死に装束の経帷子ばかり縫わされるという仕打ちを受け、母親のとむらいにカネを出してくれた初代ほたるを頼って芝居小屋にたどり着きます。

 さすがに、ここら辺は舞台では省略され、壱太郎の台詞もさほど大きくはありませんでしたが、原作では真ん中にズドンと座る重い役でした。

 舞台は1回しか観ていないので、もしかしたら聞き逃していたかもしれませんが、原作を読んで、幸四郎扮する元は旗本の戯作者篠田金治と菊之助の母親を演じた芝のぶは、いいなづけだったというのに、なるほどな、と。

 それにしても一人称で語られる原作を、うまく台本にした齋藤雅文さんは大したものだし、あだ討ちの場面の演出も原作を変えて、ケレンミたっぷりに描いたところは素晴らしかった。

 まだ1回聴いただけなのでうろ覚えですが「酒というのはありがたい、理由もなく笑える」というあたりの台詞も印象に残っています。

これって、真景累ヶ淵みたいに落語で何日もかけて噺家が語るみたいなやり方で口演するみたいなやり方でも聞いてみたい!

 そして…これって宝塚でミュージカル化してもいいんじゃw和物の雪組で、カセキョーの東上作品ぐらいにしたらどうかしらん!

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『炎と怒り トランプ政権の内幕』マイケル・ウォルフ

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『炎と怒り トランプ政権の内幕』マイケル・ウォルフ、早川書房

 エアロバイク漕ぎながら聴いていたAudibleはトランプ政権一期目の1年弱を扱った『炎と怒り』でした。

 トランプの大統領個人の資質としては、やたら友人たちに夜の電話をしまくり、会議での長時間のブリーフィングには耐えられず、資料も読まないという感じの描写が続きます(マクマスターなどはパワーポイント将軍と嫌って解任)。トランプの基本のモチベーションは皆んなから愛されたいという欲求だけど、それがかなわないと反動で攻撃的にでる、みたいな感じで、ま、予想通りであまりビックリすることはありませんでした(本当は衝撃を受けなければならないのかもしれませんが)。

 メラニア夫人については、誰もトランプとメラニアの私生活については知らず、トランプ自身の結婚観については「所詮は他人だ」と言っていたというのが面白かった。

 主に描かれているのはクシュナーとイバンカ夫妻vs選挙戦を立て直して主席戦略官となったスティーブ・バノンの主導権争い。

 バノンは就任1年目の夏場には政権を去り、クシュナーとイバンカ夫妻の勝利となります。著者の見立てではトランプ現象を新たに率いるのはオルタナ右翼のバノンのハズでしたが、現在ほとんど影響力を失っています。

 この本で激しく批判されたクシュナーとイバンカ夫妻は2次政権ではホワイトハウス入りはせず、親しいスージー・ワイルズ大統領首席補佐官を通じて影響力を行使する、というスタンスになっているようで、結局トランプ1.0の主要人物で生き残ったのはトランプ本人だけだった、という感じです。

 「この本でトランプ政権は終わるだろう」とインタビューに答えていた著者の予想も外れてバイデンを挟んでまさかのトランプ2.0がスタートし、関税で世界経済を大混乱に陥れるとは、いくら政治の世界は「一寸先は闇」とはいっても、誰も予想できないことだったようです。

 細かなところで印象に残ったのはトランプがマクドナルドを好むのは、衆人環視で調理されるマクドナルドのハンバーグを食べていれば毒殺されにくいからとか、やはり毒殺を恐れてホワイトハウスでも歯ブラシには誰も触らせなかった、というあたりでしょうか。

 にしても、イーロンは一時政権の経営者フォーラムから離脱してるんだな…と。そして、イーロンも長く政権に留まることはないとトランプ本人からもアナウンスされましたが、歴史は二度繰り返すというのは、トランプ政権の場合、一次のバノンと二次のイーロンなんだろうな、と。

 政治はトランプが現れる前は企業間取引のB to Beみたいに一般人には理解不能になっていたから、分かりやすい言葉で語ってくれるトランプはMAGA支持層から熱狂的に受け入れられたんだろうな、と。

 この本は第一次トランプ政権の発足前から、夏の終わりぐらいの1年弱ぐらいのことを書いているんですが、襲撃事件も描いてほしかったな。

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March 24, 2025

『われもまた天に』古井由吉

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『われもまた天に』古井由吉、新潮社

 古井由吉さんは小説よりもエッセイが好きというと、ファンには怒られそうですが、お亡くなりになってから出た『われもまた天に』を久々の紙の本で読みました。

 古井さんはコロナがいよいよ問題になってきた20年2月に肝臓癌でお亡くなりになっているんですが、その前年まで「新潮」でエッセイを連載していたんです。

 老いの繰り言というか、足腰が弱くなり、あまり外にも出られず、さらには多少アルツも入っているんじゃないかとハラハラするような内容が胸に迫ります。

 痛々しい感じもして、最後の絶筆は途中までしか書けなかったみたいですけど、あそこまで肉体が衰え、精神も落ち込んでいても、ここまで書けるというのは凄いな、と。

 老人特有の中途覚醒の時に感じる朦朧とした感覚と記憶の混濁を描いていているような内容が多く、こうした感覚の文章というのは、個人的にあまり読んだことがなかったです。

 コロナ前年は割と寒い気候だったのかな、なんてことも思い出しながら読みました。

 以下は、一番印象に残ったのは、父親の顔を思い出すところ(p.98)。

........Quote..........

浮世の果ては皆悪尉なり、と戯れに詠んだことがある。芭蕉の名付句と言われる、浮世の果ては皆小町なりの、捩りである。六十代のことだった。あの父親の息子であれば、自分の内にも悪尉の面相がひそんでいて、さらに老いるにつれてあらわになるのではないか、と未明の寝覚めに手洗いに立ったついでに鏡をのぞけば、それらしい面相が浮かびかからないでもない。それでそんな悪戯に思いついたものらしい。まだ壮健の内の諧謔ではあった。

 自身いよいよ老いて入退院を繰り返し、高齢の病人たちの様子にも接するようになるにつれて、今の世の年寄りこそ老病について、もしかすると生死についても、昔の人間よりはよほど、おのれのつましい分をおのずとわきまえさせられているのではないか、と考えるようになった。看護婦に文句をつけてからむ病人もあることはあるが、宥めるのにさほど手間がかかるようでもない。夜更けに声を立てる病人は毎度あり、人の気を引くような、厭がらせでもするような口調で言いつのりかけるが、そこで抑制がかかり、自嘲めいたつぶやきになり、まもなく止む。

........End of Quote..........

 悪尉(あくじょう)というのは能の恐ろしげな表情の老人の面で、父親がその悪尉のような顔になってしまったということは、自分もそうなるかもしれないわけで、《浮世の果ては皆悪尉なり》というのは、自分の行く末もみているのかな、と。

 

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