『社会学の歴史II』奥村隆
『社会学の歴史II』奥村隆、有斐閣アルマ
知り合いの子が大学生になったら、サル学の本か長谷川宏訳の『法の哲学』ヘーゲルを贈っていたんですが、『社会学の歴史I 社会という謎の系譜』奥村隆、有斐閣アルマは「次からはこれにしよう」と思うほど感銘を受けました。そのIIなんですが、積読状態からやっと読み出したものの、なかなか前に進まず、最後まで読んでからまとめたのでは忘れてしまいそうなので少しずつまとめてきたのですが、ようやくひと段落しました。
[9章 シュッツとガーフィンケル]
皆さまは哲学の分野で現象学はお得意ですか?勤めていた頃、まだ土曜日は半ドン勤務の後、ランチを一緒に食べて解散みたいなことをやっていた時、学部の卒論で現象学について書いたという後輩と話した時にも、「ひと言ではいい表せない」と逃げられ、まあ、そうだなと思って、ずっと苦手なままですごしていました。
フッサールの着想は学問の基礎である直接体験が失われつつある中、自然的態度をストップさせる「判断停止(エポケー)」が重要だと説きます。こうした普段は意識されないものを主題化することが現象学なんだ、と。「体験の流れ」の中で素朴に生きていては「意味」は生まれず、そうした純粋持続流から外に出て意味を獲得することが重要だ、と。しかし自己の体験流を自己解釈によって理解した「意味」に他者は接近できません。
ただし、一緒に年をとることは可能で、それをシュッツは「我々関係(Wirberziehung)」と呼びました。その中で人は類型として他人の行為などを把握する、と(個人的にはヴィトゲンシュタインの言語論にも通じるのかな…)。
社会は異なる体験流を生きる人間がつくる「複数の体験の空間」ですが、そこで人は「私はいずれ死ぬ」という怖れをいだきつつ「希望と怖れ、欲望と満足、好機と危機」の中で計画を立てたり実現している、と。
ところが複数の現実を行き来しながら生きている人もいます。例えば同じキリスト教会でも、信仰のリアリティをもっている人もいれば、それは虚構の演技にすぎないと思っている人、儀式を運営する労働の現実しか見えない人もいて、そうした人たちが対立・葛藤してダイナミックに共存している。
「エスノ」という言葉がある社会のメンバーが「属する社会の常識的知識」をなんらかの仕方で利用できることを指すことから「エスノメソドロジー」という概念を生み出したのがガーファンケル。
私たちは「言葉を正確に定義した合意」で秩序をつくっているのではなく、気づかれない基盤によって安定させており、家族なども規則によって成り立っているのではなく、「家族をする実践」を一瞬一瞬行っている、と。
ここから、家族の中で急に堅苦しい受け答えをすると、他の家族が唖然としてショックを受けるという有名なテストが行われます。
[10章 アーヴィング・ゴフマン]
ゴフマンの自伝を書いたヴァンカンによると、ゴフマンは「社会的上昇の独習者」 だった、と。
《農村地帯のユダヤ人のプチブル層を帰属集団とする彼が、都会の知的ブルジョワ層を準拠集団にする(さらに、 最上層家庭の女性と結婚する)。このとき「あるべき」自己へと訓練するために手引きが必要となります。彼はゴフマンがつねに「参加する観察者(participant observer)」 だった》と。
なんか米副大統領のバンスのことを考えてしまいました。《集団の中にはいるが、そこから一歩退いている。しかし自分が必要と決めれば戻ってくる。自分で発言するよりも、観察している」。出身階層や職業や学問分野や伝統の「内と外とにどのようにして同時にい ることができるのか」という問いがゴフマンの軌跡にはつねに存在 したのではないか。社会的上昇者はいつも「居心地の悪さ」を感じ、 彼の目には「日常」が謎として浮かび上がります》というあたりでは、ゼレンスキーとトランプの会話に割って入ったあたりを思い出しました。
《東欧からのユダヤ系移民の子でありなが ら、アメリカの名家の一員である。大学教授でありながら、株とギャンブルの名手》だったというゴフマンは、貧しいヒルビリーに生まれ、自力でイェールを卒業し、金持ちのインド系の妻と結婚したバンスと重なります。バンスの奥さんは自殺しそうなタイプとは思えないので、そこは違いますが…
それにしても10章のゴフマン面白いなぁ…ゴフマンの対人関係ごとの演技する自分って、吉本隆明さんの関係の絶対性なのかな、などと思いつつ読み進めました。基本的な社会学の文献が邦訳されていない中で、人間は玉ねぎみたいなもので、本当の自分などはなく、家族、友人、社会との関係ごとの自分がいるだけ、みたいなことをマタイ伝から読みといた吉本さんは凄いな、と改めて思いましたが、同時にこうした社会学的な常識がない中で、日本の言論界はいろいろやってきたんだな、と寂しさも。
さらに、ある社会の中で求められる「しぐさ」を外した場合、わざと周りが気づかないフリをしつつ、軌道修正を促すなどの高度で稠密なコミュニケーションが存在するみたいなところまで研究しているのが凄いな、と。我々は毎日の日常をショーのように過ごし、そこから逸脱する場合は、ショーを救わなければならないというのは凄いな、などと考える。
この本の副題は「他者への想像力のために」だけど、SNSをみても「感受性が鈍すぎ、機転に乏しすぎ、自尊心や思慮がなさすぎる者」は「仲間はずれにされてしまう」というのがよくわかる。そうしないと秩序が維持されないからな、などとも考えながら。
[11章 フーコー]
カトリックが懺悔を年一回の義務としたのは1215年のラテラーノ公会議から。「告白させる権力」によって人は主体となり、服従する,というのはボルシェビキ以降の総括みたいな作風に通じているんだな…
国家や領土ではなく、人間も統治しようという考え方はギリシア的ではなく、ヘブライ含むキリスト教における東方にある、と。王・神・首長が牧者で、人間たちは群れという喩えは新訳からのもの。しかし、ギリシアの神は人間をどこかに連れて行かず、都市を囲む城壁の上に現れるが、ヘブライの神は移動する神であり、人が城壁を出たところに現れる、と。
考えてみれば出エジプトだけでなく、パウロも道の途中でイエスに会い、ヤコブたちの原始母教会やユダヤ共同体の外に出て布教して、人々を司牧しようとするもんな、細々と手紙書き送って…と思いつつ、Παρρησία(パレーシア=率直さ)について、p.166に書かれている
《キリスト教以前のユダヤ・ヘレニズム的テクストでは、パレーシアは「大胆さと勇気という形態における(真なることを語ること)」 を意味し、古典期ギリシアの用法と近いものでした。ですが、七十人訳聖書ではこの言葉は「神の視線に自らを差し出す心の開示」、「魂の透明性」といった「神との関係という垂直軸」に位置づけられるようになり、魂は「透明になって神に開かれ」るものとなります。そして新約聖書でパレーシアは「言語を用いた活動」ではなくなり、「言説や発言のなかで自らを表明する必要のない心の態 度」 = 「神への信頼」という意味になっていく。神の意志に適うこと以外を神に願うことのないキリスト教徒に神は耳を傾けてくださるという「神の愛への信頼」、これが新約聖書における「パレーシア」であり、ここには「服従の原則」による「循環」が見られます。
紀元後最初の数世紀の修徳テキストにおいて、パレーシアは「両義的な価値」をもち始めます。ポジティブな価値を帯びたパレーシアは、キリスト教徒の「人間たちに対する態度」と「神に対する存 在の仕方」のあいだの「蝶番的な徳」として現れます。人間たちに対するパレーシアは「自分が証言したいと望む真理を、あらゆる脅威にもかかわらず主張する勇気」です(迫害の前の「殉教者」のような)。ただしこの対人間パレーシアは「神への信頼」から切り離せない。ソクラテスの勇気は「他の人々に言葉を向ける一人の人間の勇気」でしたが、キリスト教殉教者の勇気は「神への信頼」、「魂と 神との直接のコミュニケーション」をよりどころにするのです。ところがキリスト教のなかで「震えおののく服従の原則」が明確になってくると、「人間の自分自身に対する信頼感」》は曇り、信頼できるのは髪だけになるため、心の開示としてのパレーシアが傲慢なものとみなされてくる、という書き方なんですが、第一感「ちょっと短絡しすぎ」と感じるんですよね…
日本語の簡単な新訳ギリシャ語事典を調べただけでもΠαρρησίαで最初に示さ:れるのは古典な1)(話しの)あけっぱなしな事、腹蔵のない事、率直さ=ヨハ7:13、行2:29 2)公然たる事=マコ8:32 ピリ1:20 3)(態度・行動における)率直さ、無遠慮、大胆さ=行4:13、IIコリ7:4 であり、フーコーがキリスト教によって(おそらくパウロ書簡後のことだと思いますが)意味が変わったというほど変わっていないのかな、と(使徒教父文書の使用例までは調べていませんが)。
プラトンは『国家』(557B)で自由(エレウテリア)を基本とする民主制の特徴として「放任」(エクスーシア)と「言論の自由・率直さ」(パレーシア)をあげています(岩波文庫、下巻、p.204の注から)。しかし、パウロ文書のフィリピ人の手紙1:20《そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています》の「恥をかかず」もΠαρρησίαです。
恥をかかずは意訳気味ですが、パウロお得意のフレーズである「福音を恥とせず」に合わせて日本語ではそう訳されることが多く、公然たる事である、という意味となります。
フーコーはパレーシアを意見や考えを公に正直に述べるディスクールの方法として重視したというのはわかりますが、かといってキリスト教のテキストで意味が変わってきたというのはどうなのかな…と思ったのですが、フーコーの『安全・領土・人口』の邦訳はバカ高いから(8万!)、フランス語のKindle版で読むかな…と。
[14章、ブルデュー]
12章、13章はジェンダーと周辺の社会学。じっくり学ばせていただきたいところですが、飛ばしてブルデューへ。
そのブルデューも後半の『国家貴族』について重点的に書かことにします。12章から14章前半の『ディスタンクシオン』については各自、お読みくださいませ。
とは言うものの「知識人は人類の公務員でなければならない」と語っていたあたりはいいな、と。また、『ディスタンクシオン』についても「身体化された階級」という視点が大切だというあたりも、なるほどな、と。庶民階級が力を誇示するボディービルに打ち込みがちになるのに対し、エリートたちは「健康な肉体」ぐらいしか期待せず、それはジスカール・デスタンのスリムな体型と好対照だ、なんてあたりも思い出し、ブルジョワ階級のゆとりについて「ゆとりというには、他者の客観化する視線にたいする一種の無関心であって、その視線の力を骨抜きにしてしまう」なんてところも痺れました。芸術作品の購入は個人趣味の客体化された証拠であり、真似することのできない貯蓄様式だ、というあたりも。
さて、『国家貴族』では、ブルジョワジーの子息たちに裏口的な学歴保証を与えるような存在だったエナ(国立行政学院)が、その「実家力」を活かしてグランゼコールの〈界〉全体に君臨するようになり、高等師範学校を教授や知識人を再生産するだけの学校に格下げした、なんていうあたりは全く知らなかったので新鮮でした。こうしたエナのエリート主義は批判され、2019年にマクロンはエナを廃止します。
なぜ、問題かというと、経済資本継承者にも学歴が求められてグランゼコールに入ることが求められるようになり、最初は裏口だったにせよ、そうしたブルジョワ子息のエナ(国立行政学院)卒業者数が増えていくと、家柄の良い既得権者が、国家の枢要な位置にテクノクラートとしてつくようになってしまった、と。
例えば、テニスをやる姿がエレガントだったジスカールはエナ(国立行政院)出身で、中世以来の貴族エスタン家の出身だそうですが、こうして経済資本と学歴資本の両方を相続した「国家貴族」たちが支配階級の〈界〉を統一した、と。さすがにマクロンもエナを廃止するのも無理はないな、と。
と、同時にこうしたことって、アメリカでもブッシュ一族やクリントン夫妻が大統領選にでずっぱりになったことに形は少し違えど対応しているのかな、と。そうなると、トランプ支持者は、こうした「国家貴族」への反発なのかも…などと考えてしまいました。
[15章 ルーマン]
いよいよ最後はニコラス・ルーマンです。個人的なことですが、修論にルーマンの社会学を反映させたいと思ったこともあったものの、歯が立ちませんで、まったく触れることさえできませんでした。難しいんですよね…
今回も社会学の学説史を読んできて、最後にルーマンでしめくくるという構成でもどこまで理解できたか分かりませんので、そんな時には箇条書きで…カッコ内は個人的な感想です。
・パーソンズが論じた人間と人間の「合意」や「共通価値」が社会を支えるというのではなく、ルーマンは人間を中心としない社会学を試みた(コミュニケーションそのものが支える?)
・コミュニケーションが社会システムで、その外にいる人間は環境
・パーソンズは社会システムにおける相互作用の中で、個人の選択が他者の選択に依存するのをダブルコンティンジェンシーとしていて、そうした自分と相手の行為の選択がお互いに依存し合う状態は「合意」で解決できるとしていますが、ルーマンは互いに時間をかけた手探りの中で収斂していくものだと言います。
・そうしたコミュニケーションでは互いを完全に理解できることは難しく、他者はブラックボックスのままですが、付き合っていくには十分な透明性があればよく、繰り返す時間が秩序を成立させる。しかし「信頼は、過去から入手しうる情報を過剰利用して将来を規定するというリスク」なので、未来は予想できない、と。
・つまり、社会システムはコミュニケーションからなり、それが行為へと単純化して帰属されることで操作可能になる。コミュニケーションは単なる伝達の営みではなく、コミュニケーションそのものが社会システムの要素。個人が行為するのではなくコミュニケーションが接続することで社会システムは生成される(ここでもウィトゲンシュタインの言語論を思い出してしまいます)。
以下はそうした中でも進行する格差拡大についての説明。
・近代社会では様々な機能が分化され、重要な機能は分化した機能システムの中のみで満たされるようになる。
・例えば環境問題が全ての問題の中で一番の喫緊の課題だとしても、個々の機能システムの中でしか問題は処理されず、社会全体の操舵中枢はない。
・各システムはそれぞれの機能について高度なパフォーマンスを示すように進歩するが、環境問題のように個々のシステムでは統制できない大きな問題による変動が突き付けられると、システム間に過剰共鳴が引き起こされず、小さな刺激によって崩壊するかもしれない。
・キリスト教化されたローマでは、異端者は破門=コミュニケーションから排除され、帝国の外部に広がる居住不可能な荒地に追放されました。今日の社会でも、ひとつの機能システムに関与できないと、他の多くのシステムからは排除される。排除は包摂よりも強い結合をもたらすので下層はより強く統合され、全体としては上層の包摂によって社会は統合されていた。
・包摂領域において人間は人として扱われるが、いったんでも小さな機能システムから排除されると、単なる身体として放置されることになる。全ての人間を人間として包摂していた機能分化した社会において、各機能システムに関与できないと事態が連鎖し、排除されてしまう。
・王や貴族など少数者の意思で動かされていた社会では、問題を名指し批判できるが、革命と民主化によって市民が個々の意思で行動できる社会になると、それを誰も制御できなくなる。
【目次】
講義再開にあたって――中間考察
第9章 シュッツとガーフィンケル――他者という謎
第10章 アーヴィング・ゴフマン――日常という謎
第11章 ミシェル・フーコー――権力という謎
第12章 ジェンダーと社会学――性という謎
第13章 周辺からの社会学――世界という謎
第14章 ピエール・ブルデュー――階級という謎
第15章 ニクラス・ルーマン――ふたたび,社会という謎
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