February 19, 2020

『江南の発展 南宋まで(シリーズ中国史第2巻)』

Kisou-oum

 中国の古典国制が、分裂国家から郡県制へ一本化されていく中で、一君万民思想が浸透していくが、底辺においては「規制もないが保護もない」社会が生み出され、人々は「個人間の信頼関係」=「幇(ぱん)の関係」で身の保全を図っていく、という流れがよく理解できた一冊。

 それぞれの時代に対応する日本史の出来事にもふれているのは東アジア史として大陸、半島、列島を見る際にも役立つな、と。

 目次に沿って、箇条書き風にまとめていきます。

[はじめに]
 
 中国は東南アジアの北部と内陸アジアの東部が出会う場所で、12-13世紀の金・宋時代を含む10-13世紀を第二次南北朝時代と呼ぶこともある。

 中国の民は日本に比べて流動的でアウトロー化した浮浪の存在感が大きい。日本や西欧は国家と民衆の間に領主がいたが、中国には官僚がいた。宮崎定市は官僚を皇帝の意思を末端に伝える電線に喩えたが、だから官僚たちは横のつながりが認められない。一方、民衆は人と人のつながりである「幇(ぱん)」の世界に住んだ。

 中国の民衆反乱はほとんど南方で起こったが、全土を統一するケースは少なく、あっても短命に終わった。また、日本で三国志の人気が高いのは帰依できる指導者への渇望が高いから?という指摘は面白かった。

第1章 「古典国制」の外縁―漢以前(長江流域の諸文化;「楚」の血脈;「古典国制」と対峙する人びと)

 《始皇帝による郡県制一本化、項羽による封建制一本化、劉邦による郡県制・封建制折衷》というまとめは目から鱗が落ちるほど見事でした(p.21)。
 
 春秋・戦国時代まで分裂「国家」が並立していた中国で、一君万民を目指した秦は地方を一元支配しようとしますが、地域社会からの反発から陳勝・呉広の乱などで倒れます。項羽は十八ヵ国の封建制に戻しますが、ライバル劉邦は秦の統治制度の優秀さを認識しており、咸陽を落とした際に蕭何を使って秦の統治制度を支える図籍・文書を抑えます。そして、帝位に就いた後は長安のある帝国の西半分は郡県政、東半分は封建制とする現実主義的な郡国制をとります。旧六国への配慮から、功臣たちをそれぞれの国の王として処遇したものの、徐々に勢力を削ぎ(狡兎死して走狗煮らる)、劉一族を王に据える、と。やがてその王たちも封土を減らされ、反発した諸侯は呉楚七国の乱を起こす、という流れが分かりやすかった。

第2章 「古典国制」の継承―六朝から隋唐へ(南からみる『三国志』;江南の「中華王朝」;六朝の貴族たち;隋唐帝国と江南)

 孫権は《西の蜀のみならず、北は遼東・高句麗、南は東南アジア、さらに東にも連携先を模索するなど、呉を中心するまことにスケールの大きい全方位外交を積極展開していた。これは「江南立国の王道パターン」として、東晋南朝、五代の呉越国、南宋、さらには南京国民政府などに継承されていく(海禁を徹底した明初南京政権は例外的)》という視野は深くて長いな、と(p.47)。

 また、一君万民体制の下にある農村では小農民のプレゼンスが大きく、豪族といえども一方的な領域支配は樹立できなかった、という見方もなるほどな、と(p.63)。

 《六朝期とは、「中原に遊牧系の政権ができるなか、江南の人々が中華文化の継承者を自認する」という構図が初めて生まれた時代》というのもわかりやすい(p.70)。そして600年に倭国は120年ぶりに隋へ使節を派遣するのですが、《倭国にとって、北朝系の王朝に朝貢する史上初めての経験だった》というのも、初めて気づきました(p.73)。隋の天下は短命で、唐の三代高宗の時代(649-683)になると半島では新羅が唐と連携を強化して統一。倭国は白村江の大敗(663)で拠点を失うとともに、朝貢も40年間中断せざるをえなくなった、と(p.81)。

第3章 江南経済の起動―唐から宋へ(運河と海;文臣官僚の時代;花石鋼)

 北宋の趙匡胤は歴代王朝の火種だった「地方軍団の兵権回収」を、有力節度使を招いた酒宴で巧みに同意させ(杯酒釈兵権=杯酒、兵権をとく)、軍事力を集中させた、と。これは北宋の文治王朝ぶりを示す、と(p.98)。

 趙匡胤は酔い潰れて寝ている間に幼帝に不安を覚えた部下が勝手に黄色の上着を着せて禅譲を迫ったというエピソードがあるほどの大の酒好き。この酒席でも、元同僚たちに「皆の部下が皇帝の印である黄色の上着を着せて即位を迫ったら、いつまでも国が治まらない。首都である開封に豪勢邸宅と恩寵金を与えるから」と言いいくるめたと伝えられています。

 北宋では日本の奈良東大寺の僧であったちょう然を謁見した太宗(趙匡胤の弟)が易姓革命の起こらない訳を聞いて興味を示したとされていますが(p.97)、ひるがえって日本の場合、天皇はこうした問題意識を持ったのかな、とも感じました。天皇が武士の兵権回収に乗り出したのは後醍醐と明治の2回だけなのかな?後醍醐も兵権回収というよりも、単に服従だけ求めたわけで、防人以来となる一君万民による兵役が問題されたのは明治維新だけなのかな、とか。

 水滸伝などで暗君の代名詞となっている徽宗(1100-1126)ですが、王安石以来の新法の推進に意欲を持ち、御筆手詔で直接、指令を下したり、身寄りのない者たちの共同墓地をつくったりしていたというのは初めて知りました。日本で言えば後鳥羽上皇(1180-1239)並みの文系カリスマかつ亡国の名君だったんですかね。中国では12世紀、日本では13世紀に文化のチャンピオンとも言うべき王が現れ、その王朝を崩壊させた、という見方もできるかな、と。ちなみに日本にある『桃鳩図』は国宝です。

第4章 海上帝国への道―南宋(金・モンゴルとの対峙;江南の繁栄;海上帝国の形成)

 《宋以降の科挙官僚は「官僚・地主(資本家)・読書人の三位一体構造」と言われる-中略-中華帝国では官僚になれば政治力・経済力・文化力すべての社会的威信を総取りすることができた。しばし用いられる「昇官発財」という言葉には、中国において政治的成功と経済的成功が密接にリンクしていたことがよく表れている》という構造は、富商たちに国家機構内で上昇する方向に向かわせ、国家権力を掣肘する動機は生まれなかった、と(p.145)。

 日本でも学者が比較的尊敬されているのは、こうした基層があるからなのかな。米国のノーベル賞受賞者は伴侶を弟子の異性に求めることが多いといのとは違う感じ。光格天皇以降の劣等感もあるかもしれないけれど。

第5章 「雅」と「俗」のあいだ(俗―地域社会の姿;雅―士大夫のネットワーク)

 画期的なのは5章。《「船の世界」を主旋律、「民の世界」「官の世界」を副旋律として、モンゴル帝国以前の「中国」史を概観してきた。中原に生まれた「古典国制」が広がり、長江流域や大運河沿いの「船の世界」を取り込んでいくプロセルについては、時代を追ってたどって》きたが、5章は1980年代以降に解明されてきた副旋律である民衆や士大夫について深掘りしている。

 [俗 地域社会の姿]日本の静嘉堂文庫に一部が伝えられていただけの南宋時代の上級地方官による判決集『名公書判清明集』が北京と上海で発見されたことによって、地域社会の実相が明らかになりました。

 当時の南宋江南の地域社会にはボスである豪民、官庁の末端実務を担う下級役人「胥使(しょり)」が有力でしたが、清明集ではそうした豪民、胥吏たちを地方官が裁判にかけて処罰する過程が詳しく書かれています。しかし、実際にはもちつもたれつの関係であり、歴代王朝は一君万民の統治システムを採用しながらも、「小さな政府」だったので、地方官は地域の有力者の協力なしには実務を遂行することさえできなかった、と(p.164)。

 そこから浮かび上がるのは、家、村、ギルドなどの中間的な社会集団が中国においては「法共同体」としての自律性を持たなかったのではないか、という議論。清明集では家庭内の些末ないざこざが役所に持ち込まれており、家父長制よりも、国家権力が家の内部まで介入する国制がうかがえる、と。日本のムラは日常の農作業からインフラ保守、冠婚葬祭まで、構成員の生活を丸ごと面倒見ますが、中国ではピンチになると逐電する、と。つまり、中国では家、村、ギルドなどの中間的な社会集団が固定的で安定した枠組みを持たなかった、と。科挙に受かればオールマイティという「昇官発財」の広い門戸が開かれている一方、中間団体に属する人々は垂直・水平方向に激しく動くわけです(p.167)。

 中間団体に依存できない中国の場合、世間の荒波から保護してくれるのは「個人間の信頼関係」=「幇(ぱん)の関係」だったというのが著者の立場。アウトロー化した人々は都市・農村で日雇い労働の資源となり、兵の供給源になったのですが、このような兵士が多かったため、「武」は常に卑しまれる結果にもなった、と(p.169)。

 中国の歴代王朝は武力革命で、最初は優遇された開国の元勲たちは粛清の対象となり、安定期に入っても「内部に芽生えた攪乱要因の除去」を対外防衛より優先させるため、弱兵ぶりをさらけだすようになり、こうした傾向は蒋介石にも引き継がれます。そして、武力そのものについては制度化の契機すら備えられなかった、と(p.171)。

 [雅 士大夫のネットワーク]

 科挙が拡大し、合格を目指す受験生が多くなると、未合格者の数も増え、「満たされぬ思い」をくすぶらせた青年・壮年が地域社会に厚く累積しはじめます。彼らの教養は儒教ですが、こうした官僚予備軍というか浪人に対して「汝かくあるべし」という指針を示してくれませんでした。しかし、朱子学は身近な修養の指針と、その延長線上に天下国家を見据える展望を提供し、多くの共感を勝ちとった、と。しかも、朱熹の活動拠点である福建は科挙合格者ランキングで常に一位の座を占め、しかも出版業の中心地だったことから、西欧のルターのように読者を獲得していき、地域指導者としての自覚を高めていった、と。

 中華帝国は一君万民の専制国家だが、外形的な一元制にはこだわるものの、人々の日常への関心はなく、行政機能も極小化し、基層社会からは遊離する「専制と放任が併存する」社会だった(桑弘羊や王安石の政策は民事不介入の原則から批判を浴びたほど)。人々は法共同体として自己完結していない中間団体である村やギルドにも身を任せることができず、社会の流動性も増す中で、人々を支えたのが「幇の関係」だった、と(p.179)。

 幇は互助的な組織・結社・団体で秘密結社を指す場合もあるが、人々は信頼の置ける仲間を頼り我が身を守ったことが、中国史を学んでいく際の重要ポイントだ、と。

[おわりに]

 基本的人権や所有権、法治主義などは複数の法共同体間で協議・調整が行われた上で決定される合意形成過程が必要。西欧において議会制民主主義の基礎となった議会は、身分制に基づく団体が集まったものであり、身分制と議会制は相性が良かった。しかし、中国では世襲的身分制の解体が戦国時代から始まっていた。これが日本や西欧と近代化の分岐の違いを生んだ、と。

 科挙は「誰でもなれる」「なれば万能」だが、当事者内部からはその仕組みを解体する動機は生まれず、21世紀の中国でもエリートによる支配と民間社会での「人つなぎの論理」も変わらない、と(p.186)。

[あとがき]

 「幇の関係」によって、中国人とふれあえば皆が感じるであろう「不羈の気風」や「友を大切にする熱さ」と「規制もないが保護もない」中国社会との関連性が見えやすくなったのではないか、と。

| | Comments (0)

February 13, 2020

『独ソ戦』余滴

『独ソ戦』大木毅、岩波新書が新書大賞に選ばれて様々な書評が再掲されていますが、スターリングラード以降のソ連軍の見事な連続縦深打撃について書いているのは少なかったので、独ソ戦の終わりの始まりとなる「バグラチオン」作戦についても触れてるのをどうぞ、とだいぶ前に書いた自分のブログをツイッタランドに投稿したら岩波新書編集部の方から「もしまだお読みでなかったら、大木先生のこのエッセイもご一読ください。バグラチオン作戦の完成形としての「満洲国」侵攻作戦について簡潔に述べられています」と返信をいただき、朝から有益な時間を過ごすことができました。

『独ソ戦』では個人的に塩野七生さんが『ローマ人の物語』のカエサル篇で、会戦に勝利するためには敵を包囲殲滅することだ、と看破していますが、ソ連軍も最初はドイツ前線に猛攻撃をかけて、それを救援に行った後詰めの部隊もろとも大きく回り込んだ機動部隊で包囲殲滅する、という正攻法の作戦を見事に連携して行ったのかな、と思っていました。

 大木毅先生の「日本と独ソ戦(新書余滴)」によると、満州国を蹂躙した際にも、ソ連軍はザバイカル正面軍に機械化部隊を投入し、関東軍の後方、長春や奉天までも長駆進撃、北方から西方に進出した第一極東正面軍ならびに第二極東正面軍と挟撃して包囲殲滅する、という見事なカエサルルーティンを展開していました。これではいくら無能とはいえ無傷の関東軍もひとたまりもありません。

《ソ連軍の砲爆撃が「満洲国」の日本軍陣地に叩きこまれる。侵攻するソ連軍の前に、日本軍は局地的には激しい抵抗をみせたが(たとえば、「満洲国」東部国境に建設されていた虎頭要塞が陥落したのは、停戦後の8月26日であった)、作戦的には、ほとんど無意味だった。ソ連軍部隊は、抗戦を続ける日本軍拠点を迂回して、突進し、戦略的な要点をつぎつぎに占領していったからである。かくて、極東ソ連軍の対日作戦は、まで研究の対象となるほどの教科書的連続縦深打撃となった》と。

ロシア・ソ連の陸軍というと、カレルの本や司馬遼の小説などによって、退却戦術で敵をおびきよせて、補給線が延びきったところを人海戦術で叩くという守備的で古いイメージだったけど、『独ソ戦』を読むと、火力集中で前線を叩いた後に機動部隊で包囲殲滅するという近代的な「攻撃サッカー」に変わっていたことがわかるな、と。

 このほか、ヴァシリェフスキー元帥が、ソ連最初の「戦域軍」司令官に任命されたというのも初めて知りました。

 さらには独ソ戦について石原莞爾がトンチンカンな和平工作を展開していたことや、確実に死刑が求刑されていたであろう大島大使がヒトラーの伝声管として日本の対ソ参戦を求めるなど敗戦必至の中でも政府がねじれた対立を示していたこと、731部隊の北條圓了によるベルリンの陸軍軍医学校での講演など、新たな発見がありました。

ヒトラーが独ソ戦を開始したのはイギリス上陸作戦が第一次大戦敗北後の再建途上のドイツ海軍では不可能なので、空軍力に頼った力押しをしていたのが失敗したことが遠因。この時点で、リッベントロップはモロトフに日独伊ソ四国同盟によるイギリス解体をソ連に提案したんですが、にべない反応だったので、独ソ戦を決断するという乱暴な判断、というのが『独ソ戦』で書かれていたんですが、最近、読んだ加藤陽子先生の『天皇と軍隊の近代史』では
1)ヒトラーは日本に冷淡だった
2)しかしヒトラーからの和平提議を英国が拒絶したことでヒトラーの態度が急変、スターマーを来日させて三国同盟を模索
3)日本側もすでにドイツに負けていた仏印、蘭印を円滑に植民地化するための好機ととらえ、米英戦を誘発するという危惧を押し切って調印
4)その裏でリッペントロップはモロトフに日独伊にソ連も加わる四国協商を持ちかけたが、フィンランドからの撤退、ブルガリア~ボスポラス~ダーネルス海峡にわたる安全保障の確約、北樺太におる日本の石炭・石油利権の放棄などを含む過大な要求をしてきた
5)しかし、蒋介石も日本がロシアに譲歩して山東半島を返還した過去もあるので、日本との講話も可能と考え始める
6)ハシゴを外されそうになった毛沢東がコミテルンのディミトロフ書記長に蒋介石が日本に投降しようとしていると報告
7)しかし、松岡は蒋介石との交渉を打ち切り汪兆銘政権を承認。「破産したイギリスの総資産」を山分けする方向に舵を切った
などによって破綻した結果なんだな、とさらに細かいところがわかりました(pp276-283)。

大木毅先生の「日本と独ソ戦(新書余滴)」のURLは以下です。

https://www.iwanamishinsho80.com/post/japan_easternfront

| | Comments (0)

February 09, 2020

『天皇と軍隊の近代史』加藤陽子、勁草書房

Tennoh-militia

 《四〇〇ページ近い本書の「あとがき」までとどりついてくれた読者には、感謝の言葉しかない》

 アンソロジーの論文集から加藤先生の担当分を抜き出して編んだだけに、新書的な読みやすさがなく、専門性も増して、固有名詞などを検索しながら読んだので、思ったより時間がかかってしまいました。

 呉座勇一先生*1による朝日新聞書評では《明治の軍人勅諭で政治への介入を厳しく戒められた帝国陸軍がなぜ昭和期に政治化したのか》ダニ・オルバフの『暴走する日本軍兵士』も含めて《正直なところ、これらの本の説明を受けても私にはまだ釈然としない気持ちが残る》と書いています。

 「あとがき」では32年に発生した血盟団事件と5.15事件の首謀者だが、事件に参加することなく2月に上海事変で戦史した藤井斉の文書をたどると、軍人勅諭の組織的な読み替えが軍の中で進行していった端緒が見られ、それは東條英機がサイパン陥落の責任をとって首相を辞任する時に訓示した「陛下ノ御命令ナレバ何事デモ絶対服従シナケレバナラナイガ、広義ノ解釈デハ、国家の為ニナラヌ場合ハ、上命ニ背イテモ良イ」という発言まで浸透するとしています(p.306)。

 昭和天皇は終戦の"聖断"の際、表面上は軍人たちを米軍の裁判にかけるのは忍びないと泣くのですが、軍はポツダム宣言の条件である武装解除と犯罪人処罰を回避しようとしていただけと見ていて、そうした私心を「拙い」と後に批判しています(p.318)。

 呉座先生の書評に沿っていけば、この「私心」が出てきた理由が分からない、ということなんでしょうが、長州閥を廃そうとした永田鉄山らの陸軍グループらの野望がもたらした、ということなのかな、と思いながら読んでいました。そうした野望を研究として説き起こすのは難しいかもしれないけど、永田グループと付かず離れず大陸進出を果たした石原莞爾が、武士の伝統に根ざす軍内部の合議制と平等意識を批判していたことなども加藤先生はあげています(p.360)。

 ただし、加藤先生が「あとがき」で武士の発生から説き起こしている合議制と平等意識は、果たして、今の日本中世史研究からは、そう言えるのか…などと考えると、呉座先生の批判は、こうしたあたりがポイントになっているのかな、とか。

 ま、とりあえず、最初の方から。

 共著『天皇はいかに受け継がれたか』と同様、長い『総論』が刺激的。

 【総論 天皇と軍隊から考える近代史】 上海事変の意義を満州事変から国際社会の目をそらすためという通説を見直し(p.46)、青年将校が積極的に極左派に指導されていた当時の日本共産党と連携を図り(p.28)、政党政治の存立基盤を危うくするとともに、列強経済に出血を強いることで、日本への干渉から手を引かせることにあったとしています。
 著者自ら《陰謀史観と見まがうような筆致》(p.44)と書きつつも、元老西園寺が陸軍を極左が動かしている、という観察を的確だと仮定。
 西園寺はこうした観察の上で、昭和天皇が求めた戦争の芽を鎮静化させるための御前会議開催を「会議の決定に従わない軍人が出たら、天皇の権威が決定的に失われる」として反対します。西園寺にとっては、国外紛争の悪化よりも、東久邇宮や伏見宮を推戴した内閣、秩父宮の内大臣就任による天皇親政という名の元による昭和天皇の無力化の方が悪夢だった、と判断した、と(p.45)

 第一章の《国家の運命を左右する外交交渉に、譲れない条件=「この国のかたち」として、累積された戦争の記憶が重要な要素として浮上している》(p.60)という言い方は素晴らしい。国家の譲れない条件=この国のかたち、という言い方は、アイデンティティ=心の拠り所という言い方を思い出させる表現。

 【第二章 軍国主義の勃興】は一番、読み応えがありましたので、少し詳しく。

 [はじめに] 日本の古代国家は、隋・唐などの中華帝国の周辺部にあって文化的に遅れた国として誕生した。こうした日本が国家としてのアイデンティティーを確保し、国内支配のための権威付けを行うためには朝鮮半島の王朝(新羅など)を日本が従属させているとの虚構、また、中国の歴代王朝と対等の関係を築いているとの虚構が必要だった。『日本書紀』も、天皇に服属している国として朝鮮半島の国々を描いており(神功皇后の新羅征伐点、三韓朝貢)、このような虚構や創作が国内支配にとって不可欠だった、と。天皇の支配が確立し始めた古代日本においては、朝鮮と中国を関係づけることで、自らの国内支配上の権威付けが行われており、昭和天皇もポツダム宣言受諾から1年経った日に鈴木貫太郎、吉田茂等を招いた茶話会で、白村江の戦いで負けて半島から手を引いて引いて大化改新が行われたと、1300年前の戦いを引き合いに出しているほど。天皇をいただく古代国家は、中国の柵封体制に入ると朝鮮と日本が同等になってしまうため、朝貢使節を送りながらも柵封体制には入らないようにしていただけでなく、天皇と言う称号を生み出した動機も、「東夷の小帝国」をつくる意思からだった。それは朝鮮半島に求めるしかなく、天皇が天皇たるためには朝貢国が必要不可欠だった、と。木戸孝允は征韓論に反対したが、明治維新直後の日記では、対馬藩が送った使節に対して、王政復古を認めないのは無礼であると攻撃すべきと書いているほど後世にも影響を与えます。木戸は王政復古がなされたならば、朝鮮は日本に服属すべきと言う認識を持っていたわけです。時の政府は、攘夷論者から欧米を討てと攻撃されており、王政復古の理念によって国内世論をまとめる手段として朝鮮の服属と言う古代の神話に依拠した虚構で国内をまとめる必要があったわけです。日本の朝鮮、中国観は通称上の利益や領土獲得といった問題ではなく国内向けのアイデンティティーの問題として用いられてきた、と。

[2 政軍関係の特質と構造] 西郷隆盛下野後の政府による征台湾論、征韓論は長州系を中心とする内治派に、薩摩と土佐を出身母体とする郷党グループが対抗するため、兵権掌握の機会を外征で得るためのものだった。また、同時期に佐賀の乱が発生したため、東京在住の旧薩摩藩出身者が敢えて台湾出兵を強行した。統帥権は1889年には確立されていたのですが、統帥権の独立による弊害が起こり始めるのは政党、官僚、軍閥の三勢力が元老から自立化した後。伊藤博文は憲法を君主権を制限するものと正しく理解していた。議会は長い戦争が特別会計として処理されるために軍事問題に関与しうる範囲は極めて限定されていた。日露戦争当時の政府と軍の関係は極めて円滑だった。それは伊藤、山形有朋などが政府と軍をまとまめていたから。

 [3 日清日露開戦の過誤と正当化の論理] 日清日露戦争が戦われたのは日本が国家としての安全感を確保するためには、朝鮮半島が他国の支配下に入らないようにする必要性があると為政者たちが一致していたからに他ならない。山形有朋は日清戦争開戦直後の日記で日本の敵は揚子江の利権を狙うイギリス、雲南を狙うフランス、蒙古を狙うロシアであると記している。それなのに中国はますます衰退しているため、日本は機会があれば進んで利益を収める準備が必要だとしている。山形は列強との紛争に巻き込まれないように注意するとともに自らもその機械に乗じて利益を上げるべきだとしている。興味深いのは山形の警戒の対象が英仏露に向けられていたこと。
 日清戦争開戦時の伊藤首相は朝鮮半島男を日本と中国で共同して改革する案を李鴻章が飲むと見ていた。伊藤と陸奥宗光は戦争にはならないという楽観に支配されて交渉に臨んだ。戦争が避けられなくなった時、日本側は正当性を主張するために朝鮮の内政改革を推進する日本、これに反対する文明の清国というイメージをつくった。日清戦争の結果、朝鮮国王は親ロシア路線を選択することになった。また、ロシアが遼東半島まで鉄道を敷設する権利を獲得した事、旅順に海軍根拠地が築かれる事は日本の脅威となった。山形有朋はこの時点でもロシアとの戦争には反対し、桂太郎が寺内正毅陸相を従えて説得しなければならなかった。桂太郎は朝鮮問題をロシアが聞かないときには戦争に訴えるしかない、と考えていたが、アメリカの世論を味方につけるため世界が無関心な朝鮮問題ではなく、満州の門戸開放を前面に打ち出した。また、日本の輸出比率は12.8%まで上昇していたが、輸出相手地域は朝鮮と満州しかなかった。満州地域での門戸開放を認めなかったロシアに非文明というレッテルを貼ることで、英米の支持もとりつけようとした。
 日露戦争で日本軍の砲弾はクルップやアームストロンに依存しており、砲弾による殺傷率も14%と低く、国内工業力の低さも相まって費用対効果が悪いと判断され、陸軍は白兵突撃主義という時代に逆行する思想が生まれてきた。また海軍もバルチック艦隊を壊滅させたのは大艦巨砲によるものとの虚構を描き(実際にトドメを刺したのは水雷艇と駆逐艦)、過信を生じさせた。石原莞爾は幼年学校時代から陸軍、海軍の総括に疑問を抱き、留学先のドイツでデルブリックに出会う。ドイツは、敵主力を短期に包囲殲滅できなかったことに第一次大戦大戦の敗因をみていたが、デルブリックは戦争には決戦と持久の二つがあると考え、ドイツ参謀本部は経済封鎖や国民動員への対応に不備があったとしていた。石原莞爾は資源の乏しい日本に敵国が消耗戦を採ってきた場合に、経済封鎖に負けない体制をつくるべきだと考え、陸軍の中堅幹部らと議論していく。

 [4 植民地帝国日本の権益と国際情勢] パリ講和条約で日本の外交は反省を強いられた。原内閣はワシントン会議で主力間の比率を6割とする条約に調印し、日英同盟を終了させ、国際連盟とアメリカを中軸とするヴェルサイユ=ワシントン体制との協調を選択した。しかし、国際的な中国投資の窓口として設けられた四国借款団で日本は満蒙を投資対象外とすることを主張し、辛うじて認められたものの、陸軍はたった150人しか影響がなかった移民法について、日本人を中国人と同等に扱うのは、中国からあなどられ、戦争の機会が増すと主張。帝国国防方針の仮想敵国は、ロシアから中国、さらにはアメリカに変えられていった。

 以下は印象に残ったところを中心に。

 旧日本軍に欠けていたのは「国民国家や社会は真空のなかで生きているのではなく、欲すると否にかかわりなく、ひとつの国際的システムにしばられている」という視覚だった、と(p.193)というあたりは、今の北鮮、イランなども同じかな、とか。

 有田外相は《軍部があそこまでやれたのは、結局外国に軍隊をやいていたから》と、閣議決定が必要な参謀総長の奉勅命令が無視されたと書いていているのですが、ここで満州事変の時に朝鮮軍を越境させた林銑十郎、事後追認した金谷範三参謀総長と南次郎陸相はみんな長男じゃないことに気づきました。さらにバーデン・バーデンの密約を交わした陸軍三羽烏の永田鉄山も三男、小畑敏四郎は男爵の四男、岡村寧次は旗本の次男。みんな長男じゃない。旧帝国陸軍になんとなく感じるバカっぽさ、軽さは長男としての教育を受けた人物が少なかったから、とかいう研究はないのかな、とまで思いました。ちなみに石原莞爾も三男ですが、長男と次男は幼くしてなくなっています。当時の幼児死亡率の高さを考えると長男としての教育を受けなかったから…という言い方も難しいかもしれませんが、誰か書いてくれないかな、と。

 山本権兵衛内閣が現役を削った事で、陸軍は大臣の権限縮小に動き、参謀総長と教育総覧との合議制へと舵を切ったのですが、それが真崎罷免問題→相沢による永田暗殺→2.26→東條へと続く悪夢になったのかな…。悲しい(p.208-)。

 陸軍が社会大衆党の支持を、経済政策の違いから失ったことは、近衛が親軍的新党への参加意欲を失う結果となり、庶政一新策の実現を困難にした、というのは新しい視点かな、と(p.211)。

 1940年春夏にオランダ、フランスが敗退したことは、当時の人々には「世界史的転換点」と捉えられた、という視点も新鮮でした。これによって近衛内閣のナンバー委員会が復活し、蘭仏のアジア圏植民地の処遇を対処することになります(p.229)。

 日独伊三国同盟は、仏印、蘭印が戦勝国ドイツに占領されることを防ぎ、ドイツの影響力を東南アジアから排除する意味を持っていた、という見方はあるんだな、と。植民地宗主国を抑えたドイツによる東南アジア植民地再編成を、まだ参戦してない日本が封じ、しかも参戦義務も自主判断が担保された、と(p.276)。

 ヒトラーは当初、日本に冷淡だったが、和平提案を英国が拒絶したことから、スターマー訪日を決定すめことになります。ドイツ側の要求は米国牽制と米国の欧州戦線参戦阻止で、ドイツはシンガポールへの米国艦隊入港なども日本の参戦条件に入れようとするなど粘るも、拒絶されることになります。松岡洋右は大局は見失っていたものの、局面、局面では確かによくやっていたのかもしれません。

 

*1   世間では「過去は変わらないのだから、歴史は暗記ものだ」という印象が強い。受験勉強の名残だろうか。しかし歴史学界では新しい研究成果が不断に生み出され、通説は日々塗り替えられていく。作家や評論家がしたり顔で語る史論が、学界ではとっくの昔に否定された説に依拠していることも珍しくない。
 近代史においては、歴史像が更新されていくスピードが特に速い。司馬遼太郎の『坂の上の雲』や『この国のかたち』で理解が止まっている人が本書を読んだら驚くだろう。
 たとえば日清戦争については、当時外相だった陸奥宗光の戦後に発表された回顧録『蹇蹇録(けんけんろく)』に引きずられて、日本側が意図的に戦争に持ち込んだとかつては考えられてきた。だが近年の研究では、清国に対する強硬な外交姿勢は開戦決意に基づくものではなく、戦争にはならないという伊藤博文らの根拠のない楽観が背景にあることが解明されている。
 日露戦争に関しても、日本の世論は戦争を支持していたというのが古典的な理解だったが、以後の研究では日本国民のかなりの部分は厭戦的だったことが指摘されている。三国干渉への怒りに燃えた日本国民が臥薪嘗胆(がしんしょうたん)してついにロシアに勝利するという「物語」は日露戦勝後に生み出されたという。
 このように興味深い論点が多数見られるが、やはり最重要なのは表題通り、天皇と軍隊の関係であろう。明治の軍人勅諭で政治への介入を厳しく戒められた帝国陸軍がなぜ昭和期に政治化したのか。「天皇の軍隊」であるはずの彼らがなぜ昭和天皇の非戦の意思をふみにじったのか。これは古くて新しい問題で、昨年邦訳が出たダニ・オルバフの『暴走する日本軍兵士』も同じテーマに挑んでいる。正直なところ、これらの本の説明を受けても私にはまだ釈然としない気持ちが残る。今後も考え続けるべき難題なのだろう。

| | Comments (0)

February 06, 2020

『菅原伝授手習鑑』道明寺の歌舞伎的工夫

 

二月大歌舞伎の昼の部は十三世片岡仁左衛門追善興行で『菅原伝授手習鑑』の加茂堤、筆法伝授、道明寺の通し狂言。

よく飽きもせず毎年かけるなと思うような寺子屋とは違って五年に一度ぐらい通しの中でかかるぐらいの段ですが、様々な歌舞伎的工夫がみえるな、と改めて思ったのでチラッと。

菅丞相(菅原道真)は81年の国立劇場と88年の歌舞伎座が十三世片岡仁左衛門(苅屋姫は玉さま、秀太郎)、95年の歌舞伎座からは孝夫丞相で02年、10年、15年、20年とほぼ松嶋屋の家の狂言のような形で上演されています(苅屋姫は孝太郎、玉さま、孝太郎、壱太郎、千之助)。

歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』の菅丞相は十三世と十五世の仁左衛門親子が演じ、苅屋姫も秀太郎、孝太郎、千之助という伯父、親子の松嶋屋で40年近く上演されてきたんだな、と改めて驚きます。

スッキリした二枚目の菅丞相は仁左衛門親子のハマリ役だし、ちょっと長くて通しの中でかけられてきたことを考えると、高麗屋兄弟などがやたら寺子屋をやりたがる気分のもわからないではないかな、とも思えるほど(正直、迷惑ですが)。

ここで考えたいのは苅屋姫。

歌舞伎の「道明寺」は、文楽では二段目の杖折檻、東天紅、丞相名残の段をまとめたもの。杖折檻と東天紅はあまり変わってはいませんが、丞相名残の段は相当、変えられています(81年の時や66年に十七世の勘三郎が菅丞相を演じた時までは「河内国道明寺」と題されていて、その動画は観ていないのですが)。

文楽の方では覚寿が丞相に配所での寒さしのぎにと伏籠に掛かった小袖を送ろうとして、その中に苅屋姫が隠れているという処理で、苅屋姫も最後の最後に出てくるだけですが、生身の人間が演じる歌舞伎ではかなり早くから苅屋姫が姿を現します。

そして、歌舞伎では苅屋姫が養父である菅丞相に恋しているんだろうな、というつくりにしているんじゃないかな、と。それが叶わないから斎世親王との逢瀬にいってしまったんだろうけど、その科で菅丞相が太宰府に流されることとなって、自分の心を知った、みたいな。

『摂州合邦辻』の玉手御前が本当に自分の義理の息子に恋したように拡大解釈したように、菅丞相の出立を見送るシーンの苅屋姫は義理の父親に恋しているようにも見えるように変えているんじゃないかな、と。

苅屋姫は赤姫のつくりだし、八重垣姫のように柱抱きをして丞相をみているし、さらに丞相が苅屋姫を懐手にして渡す笏は、どちらもファルスを表しているんだろうな、と。

そう考えてみると、孝夫は玉さま、自分の息子である孝太郎、孫の千之助相手にこんな役をつとめたのは凄いw

しかも、今回は玉さまを三婆の覚寿に配して、中川右介さんのいうマスタースクールで鍛えてもらうということまでやっているし、40年近く家の芸としてやってくると、様々な工夫が目にみえてくるのかな、と。

「なけばこそ 別れを急げ とりの音の 聞えぬさとの 暁もがな」

| | Comments (0)

January 25, 2020

『初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制』日本史史料研究会監修・亀田俊和編、歴史新書y

Shoki-muromachi

 残念ながらヘイト本なども出すようになってしまった、かつてのサブカルの雄、宝島社に買収されることになり、歴史新書yはいったん姿を消すことになりますが、日本史史料研究会によると別の版元からの再版も検討されているようでホッとしています。

 ぼくは共通一次で世界史と日本史を選択していたんですが、その頃の中世史というか鎌倉幕府滅亡から織豊政権までの期間は、足利幕府の成立と義満の時代、義政と応仁の乱ぐらいしかないようなイメージでした。その頃から、今に伝わる文化・習慣などはほとんど室町時代が紀元となっているということは言われていましたが、一般の読書人が手に入る良質な歴史書や資料も少なく(ということは、そうしたものを元に二次創作する歴史小説も少なく)、暗黒時代というイメージでした。その後、網野善彦先生の著書などは面白く読ませてはもらいましたが、ニッチな対象を無理矢理拡大したような印象といいますか、全体像がクッキリつかめなかったかな、と。

 ですから、最近の呉座勇一先生と亀田俊和先生の新書でようやくコンパクトに知識を広げてもらえたという感じです(個人的には岩波の全集でわけも分からず読んでいたヘーゲルの著作が長谷川宏訳でようやく分かった感じに似ています)。

 その亀田・観応の擾乱・俊和先生が中心となってまとめられたのが『初期室町幕府研究の最前線』。

 目次をみれば、内容も自ずからわかる、という編集方針なので、いつものように面白かったところを箇条書きで。

 新田義貞・北畠顕家らに敗れた足利尊氏が九州への下向を決めたと伝わる室津会議では、敗軍の将から将兵が去っていく中で最後まで従ったり、しんがりで戦ってくれるのは一門だろうというというリアルな考えを元に、一門大将を外様の守護に派遣した、と佐藤進一以来の通説を批判するあたりからスリリング(p.35)。

 「中世文書の当事者主義」は中世史研究者の常識、というあたりも単なる本好きにはありがたい指摘(p.40)。

 室町幕府の安定期に斯波、畠山、細川、一色、山名など足利一門以外に在京して幕政に参画しているのは赤松、京極、土岐という指摘もなるほどな、と(p.43)

 朝幕関係の研究史は国家論と密接に関わりながら進展というあたりも(p.62)。

 義満の公家化が進んだのは、南北朝の混乱の中で践祚した北朝の後光厳天皇を支えていくため、というのも分かりやすい(p.72)。これに関連して、最近の研究では、北朝が能動的に将軍を公家社会に引き入れて権力基盤の強化を図った側面が注目を集めている、と(p.115)。また、義満にも守護との差別化を図るという目的があった、とも(p.177)。

 室町幕府は九州統治に苦労し、直冬や島津氏に暴れられたりして、最終的には実質的な統治を諦めるんですが、複雑すぎるその過程を描く『鎮西管領・九州探題-九州統治に苦戦した初期室町幕府の対応とは?』は最高に面白かったです。『中世島津氏研究の最前線』が早く別の版元から再出版されることを望みます。

 南北朝時代は朱元璋が明を建てた時代と重なりますが、それは倭寇の活動が活発だった時期でもあって、そんな大切な時期に九州には南朝の懐良親王が支配していて、日中の外交が混乱するんだな、と(p.190-)。

 義満は北山殿(金閣寺)に隠居して政治を操るんですが、御賀丸の居所もあって愛童も侍らせたりフリーダムだな、と(p.204。出家したいので衆道か)。子どもの義持や義教もハンサムな家系の赤松家の男を愛しまくっているし、欲望に忠実な一族なのかも。

 それにしても日野業子、富子など娘が足利将軍家の正室になりまくっている日野家は義教に弾圧されたりしたけど、徳川家の家臣になったりして生き延びたり、一族から親鸞を出したり面白い一家だな、と。もっといえば、足利将軍家は日野家から正妻を娶り、赤松家から愛童を抱えるというか。室津会議では赤松則村の勧めに従って九州への下向を決めたと言われるけど、赤松家は美男の家系だったんでしょうか。

[目次]

はじめに─なぜ今、草創期の室町幕府なのか?

第一部 初期室町幕府の政治体制
軽視されてきた軍事史研究-初期室町幕府には、確固たる軍事制度があったか?
主従制的支配権と統治権的支配権-足利尊氏・直義の「二頭政治論」を再検討する
南北朝初期の公武関係-直義・義詮が担った北朝と初期室町幕府との関係とは?
二つの有力被官一族-高一族と上杉一族、その存亡を分けた理由とは?)

第二部 有力守護および地方統治機関
初期室町幕府と幕政改革-脚光を浴びつつある「観応の擾乱」以降の幕府政治
三管領の研究史-研究対象は、細川・畠山・斯波氏だけでいいのか?
室町幕府と鎌倉公方-幕府は、鎌倉府・東国社会をいかに制御しようとしたのか?
鎮西管領・九州探題-九州統治に苦戦した初期室町幕府の対応とは?

第三部 室町殿・足利義満の位置づけ
室町殿の研究史-過大に評価されがちな「義満権力」を再検討する
義満と東アジアの国際情勢-「日本国王」号と倭寇をめぐる明皇帝の思惑とは?
「北山殿」としての義満-義満はなぜ京都西郊に「北山殿」を造営したのか?

第四部 初期室町幕府の寺院・宗教政策
初期室町幕府と禅律方-禅院・律院を体制仏教の中心とした幕府の宗教政策
室町将軍家の菩提寺ー室町仏教を代表する官寺、相国寺創建の意義とは?
義満と護持僧たち-初期室町幕府の「武家祈祷体制」を検証する

あとがき

| | Comments (0)

January 16, 2020

『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』の影の主人公はジミー

Once-jimmy

雪組公演『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』を見て、セルジオ・レオーネ監督の原作映画の謎が個人的に解け、この作品はユダヤ人ギャング団の話しではなく、もっと大きな全米トラック運転手組合(Teamsters)の話しだったんだ、と勝手に理解しました。John Rogers Commonsの米国労働史の資料などを雑に読みながら、日本の港湾労働と893の関係と同じというか、日本の893映画も実は港湾労働や炭鉱労働などの現場を背景に描かれているのと似ているんだろうな、とも感じました。

チームスター(Teamsters)は1903年に発足した全米最大手の労働組合のひとつで、Teamsterは元々、荷車の御者の意。正式名称、International Brotherhood of Teamsters(IBT)でインターナショナルが付いていますが、腐敗した組織としてチームスターと並んで有名な国際港湾労働者協会(ILA)もインターナショナル付き。なんかあるんでしょうか。

創生期のチームスターは米国労働史においては、ほとんど犯罪集団と位置づけられていますが、やがてルーズベルト大統領が大会で演説するほどの組織に発展します。

そんな中でも暴力沙汰は絶えず、さらには二代続けての汚職による会長辞任でAFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)からチームスターは除名されるほど。その後に就任したのが『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』で労組委員長のジミーのモデルとなるジミー・ホッファ。

ホッファの前会長は全ての輸送網を傘下におさめようとして港湾労働者労組のILAを襲撃したりしましたが、ホッファは逆に資金援助したりするなど政治的な動きを示します。しかし、ソフト的な対応だけでなく、禁酒法時代に最も儲かったアルコール輸送を製造元から抑えるため醸造所労働組合も合併しようとして、反対派を襲撃したりするモンスターぶりもみせます。

あまりにも襲撃事件が頻発したことからAFL-CIOは襲撃禁止の協定を結ばせることに(893の手打ちか…)。

ホッファは均一労働条件のマスター契約を拡大するなど、労働者の権利拡大と組織拡大に成功しますが、50-60年代のラスベガス開発期(映画『ゴッドファーザー』の背景)にマフィアへの資金援助を行い、これが致命傷となり、Netflixの『アイリッシュマン』で描かれているようにマフィアによって殺されたと推定されます。

日本でもY組のT岡組長が「日本は貿易で生きていくしかない。その貿易の貨物を船舶から港湾倉庫まで運ぶ港湾労働者を抑えれば、大きな力が生まれるとともに、最悪だった港湾労働者の労働条件も改善される(←これ重要)」と考え、港湾に食いこんでいったのと似ているでしょうか(日本の場合、陸上の長距離輸送は国鉄が1960年代まで握っていたため、トラックは大きなファクターにはなりえませんでした)。

宝塚版の『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』では主人公ヌードルスの父が港湾ストで殺されたという設定を加えられます。さらにギャング仲間で最後には商務長官となるマックスにも「親父は病院で狂い死にしたんだ」という映画にもなかった説明が効いて、狂ったような計画を立てて実行するものの、最後はより大きなモンスターの餌食になるという流れもスムース。

映画では、なんでマックスだけ助かったか、その理由と顛末は説明されてないというか、全部、マックスが仕組んだこと、みたいな感じになっていて「さすがにその設定は無理があるんじゃ」という批判もありました。映画は最後、ヌードルスが阿片窟で高笑いして強引に終わるんですが、マックスがたまたま生き残って労組委員長のジミーに助けを求めたという宝塚流の方がスッキリします。大やけどを治療するために、労災事故で死んだものの、親類縁者がなかったために放っておかれた組合員の名前で保険証をつくるという下りは、古い言い方をすればアトム化した労働者という存在を意識させてくれます。そこには東欧からのユダヤ系移民という共同体もないわけで、そんな労組を仕切るジミーはどこか甘いところもあったマックスたちより一枚上手なわけです。

ジミーにはラスボス感が増し、アメリカに徒手空拳で立ち向かったユダヤ人ギャングは破滅したけど、ニューディールの波に乗って合法的な労組という新しい組織を立ち上げた者が勝つというか、新しい体制になる、というのは映画より、よほど素晴らしいオチ。

そしてギャングが破滅するキッカケとなった禁酒法廃止と労働者の権利拡大を進めたニーディール政策をともに決めたのはチームスターの大会で挨拶までしたルーズベルトでした。ギャングたちは禁酒法を逆手にとってのし上がるけど、ルーズベルトが禁酒法を取りやめたら、途端に行き場を失うわけです。

映画では、なぜレオーネが途中で組合のボスを出したか分からなかったのですが、舞台ではルーズベルトが強調されており、それを補助線として意識すると、ニューディールでのし上がる民主党支持の労働組合と禁酒法撤廃で破滅すらギャングを対照的に描きたかったかったからなんだろうな、と。といいますか、義兄弟のように描かれるヌードルスとマックスの役は二人で一人のジミー・ホッファそのものなのかも。実際のホッファも組合員拡大のため、暴力沙汰は厭わず、対立組織に爆弾投げ込んだりしてたから、歴史上のジミー・ホッファの表の顔がジミーで、裏の顔がマックスなのかも…でも組合モノではヒットしないから、ギャングモノにしたんだろうなレオーネは。

そして底辺の人々は、左派的政策でも、やはり救われない部分があるじゃない、という悲しみなんだろうな、と。それはワンスアポンアタイムインアメリカじゃなくて、今もなんだよ、みたいな。

| | Comments (0)

『小数と対数の発見』山本義隆、日本評論社

Yamamoto-shousou-1
 正直、対数については、大航海時代に需要のあったサインやコサインのかけ算と割り算が面倒で、ネイピアが三角法の式を利用して積を和に直す方法を考えだしたあたりから発達した…ぐらいの理解が精いっぱいなのですが、前半の10進小数が以外と新しく、今は当り前に使っている小数が長い年月をかけ、多くの先人によって発明、改良されて来たという事実は衝撃的でした。

 小数点(.)を使う表記はネイピアが対数を生み出す過程で考え出した副産物で、普及していった、というのが全体の流れでしょうか。

 科学史三部作の掉尾を飾る『世界の見方の転換』では古代天文学の精緻さに驚いたのですが、それを打ち破るためには数学の転換が必用だったという流れで予告されていた本でしたが、文系のぼくにはムズカシ的すぎて無理かも…と思って購入していませんでした。でも、kindle unlimitedに無料枠で収録され、しかもiPadに最適化されていたので、なんとか最後まで読むことができました(理解したとは言いませんが)。

 理系の方々のように内容の説明は遠慮させていただきますが、文系的に面白かったところを、箇条書き的に。

 古代から中世にかけて、言葉だけの定性的なアリストテレス的宇宙論が、定量的測定によって判断されるプトレマイオス的宇宙論より優れているとみなされていたのは、それが全体を説明できるパラダイムだったからなのかな、とか。結局、多くの理系の方もパラダイムに沿ってしか考えられないわけだし(p.6)。

Yamamoto-shousou-2

 で、イデア論で特別な地位を与えられていた「1」について、ステヴィンの「1は数である(L'UNITE EST NUMBER)」という主張は、プラトン流のイデア論を粉砕した、みたいな(p.79)

 ヴェーバーのプロ倫では、プロテスタントに資本主義の精神が宿ったとしているけど、合理的な判断力の基礎となる数学は、宗教改革の両派とも盛んになっていた、と(p.101)。

 「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムが遺産でつくったカレッジでは、常用対数を誕生させたブリッグスは初代幾何学教授。当時、オックスブリッジでは数学、自然科学、技術は重視されていなかった、と。

 『科学革命の先駆者シモン・ステヴィン―不思議にして不思議にあらず (科学史ライブラリー)』ヨーゼフ・T. デヴレーゼなど著、山本義隆約、朝倉書店も理解できるかわかりませんが、読みたい本がなくなったら読んでみようかな、と。

| | Comments (0)

January 10, 2020

『候景の乱始末記』吉川忠夫、志学社

Koukei

 南北朝時代は中国も、日本も複雑で捨てキャラのような人物が多数出て、混乱を増すので、全体像を描きにくいと感じます。しかし、南北朝時代という混乱の時代区分は日中両国の歴史認識に深く根を下ろし、アメリカのCivil Warも「南北戦争」と思いっきり意訳しつつ、その本質をズバリと言い当てています。必ず勝つのは軍事力に秀でた北朝であり、南朝は日米中とも大義名分を唱えるだけで敗れさります。しかも文化、経済の画期となる分水嶺でもあり、事実上の今につながる領域での国家統一も南北朝と南北戦争はなしとげています。

 やがて中国は鮮卑族の北魏の将軍から身を起こした楊忠の子、楊堅が隋を建て、黄巾の乱以来と405年ぶりに統一を果たすのですが、『候景の乱始末記』はそうした主要な政治勢力となる北朝から簒奪を受ける南朝の話し。特に梁が中心となっています。

 梁の武帝はヤル気にあふれて善政を敷きますが、仏教に溺れるという残念なところがあり、やがて政治も放縦に流れていきます。貨幣経済が発達した中で、無価値な鉄銭を鋳造して貨幣価値を暴落させるという致命的な経済的失策を重ね、そこに発生したのが候景の乱。北魏で立場が危うくなった候景が梁の武帝に帰順しますが、そこでも居場所をなくして破れかぶれで反乱。少人数による反乱だったにもかかわらず弛緩しきっていた都「建康」を落とし、なんと皇帝に即位しますが、すぐに敗北。無残な死を遂げます。

 中国本土で失われ、雅楽にだけ残っている同時代の「蘭陵王」のようなアナーキーな世界。

 しかし、複雑すぎる中国の南北朝をドライブさせた推進力が、少なくとも著者である吉川忠夫先生は分かっていると確信して書いてるような説得力があります。今は多少、疑問視されている「南朝は貴族の時代」だったことを前提にしているのは、昔の本(元は新書)なので仕方ないんでしょうけれど、そんなことはどうでもよくなる。

 第二章の徐陵も面白い。徐陵は南朝文化の象徴。武帝の皇太子である昭明太子が長命を得ていれば、歴史は変わったかもしれませんが、昭明太子の死後、こんなにも早く梁は瓦解してたのか、と驚きます。昭明太子が編纂した『文選』に対抗して、簡文帝が皇太子時代、徐陵に編纂を命じたという恋愛詩の集大成『玉台新詠』も読んでみるかな。徐陵は文化的に進んでいるとみられていた南朝文化を代表し、梁の武帝の親善使者として東魏の首都に派遣されるのですが、候景の乱によって帰国ではなくなり、さらには東魏も滅んで北斉となり、候景の乱が終わって梁に戻ると、梁を滅ぼした陳に仕えることになるという数奇すぎる運命を生きます。

 第三章は後梁。中国の南北朝、ホント、混迷の度合いが深すぎですが、後梁がこんなに重要な役割を果たしていたとは、全く知りませんでした。文化的にも、南北統一に果たした江陵の地政学的な役割にしても、非常に大きいものがあるな、と。

 補章の「史家范曄の謀反」では《上昇のモメントもなければ下降のモメントもなく、あるのはただ均衡と調和と平静のみ》という退屈な貴族の生活の中で、范曄(はんよう)は南朝宋で意味もないクーデターを起こそうとして失敗、一族もろとも刑死します。仏教に溺れた梁の武帝、昭明太子と対照的に、後漢書をまとめた范曄は無神論者で刹那的。そうした出口のない気分が南朝を覆っていた、ということなんでしょうか。

 しかし、匈奴系の宇文泰も北周の基礎を築いたものの、楊堅に男系は根絶やしにされてしまいます。遊牧民も漢化されて徳治を目指しますが、宇文泰の時代ではまだ早く、子孫である唐の第2代皇帝李世民をまたなくてはならなかった、と。しかし、これによって中国は、それまでの中原に加え、経済の発展した揚子江以北と遊牧民の住む北方も領土となっていった、みたいな。

第1章 南風競わず―侯景の乱始末記(白日黯し朔北の嵐、蕭衍老公を縛取せん ほか)
第2章 徐陵―南朝貴族の悲劇(江南の使臣 公宴)
第3章 後梁春秋―ある傀儡王朝の記録(江陵の陥落 長子に利あらず 竜躍の基趾 ほか)
補章 史家范曄の謀反

| | Comments (0)

January 03, 2020

『楽天の日々』古井由吉、キノブックス

Rakuten

 《記憶とは自分を相手にした八百長みたいなものだ》(空白の一日)

『楽天の日々』古井由吉、キノブックス

 デビュー当時は「内向の世代」の代表と言われた筆者が、老いをテーマとして書き始めたのは1992年の『楽天記』あたりからでしょうか。この前年に椎間板ヘルニアで2ヶ月間入院しています。

 《人は生涯がだんだんに詰まるにつれて、何かの折りに、境遇によっては自分がだどることになったかもしれない別の生涯を想って、ほんのつかのま、それに惹かれることがあるものらしい。かならずしも一生の後悔の念からではない。想うところの生涯も、現に自身が歩んできたのよりも、華々しいものとはかぎらない。むしろ何ということもない人の姿や情景を目にした時に、「生涯の郷愁」のごとき情は起こるという。これだけのことに生涯を尽くしたという無言の感慨に触れた、と想ったのだろう、この自分だって似たようなものなのに》(辻々で別れ別れて)

 みたいな老いの実感から人生を振り返るようなエッセイによく書くようになり、それと同時に幼児期に遭遇した東京大空襲のことをトラウマのように何回も触れたりしはじめたような印象を受けます。また、青年期にまだ死の病だった結核の長い影を投げかけているな、とも。

 そうした死の影を意識してきた人生を隠しているうちに病を得て、到達したのが「楽天」の境地なんでしょうか。

 《悲観に付くほどには、物事をきびしく見る人間ではない。楽天に付くほどには、腹のすわった人間でもない。いずれ中途半端に生きてきた。それでも、年を取るにつれて、楽天を自身に許すようになった》と本来の意味である「天ヲ楽シミテ、命ヲ知ル、故ニ憂ヘズ」という中国の古典にあるような境地には至らないまでも、と(「開店休業」のかなしみおかしみ)。

 『楽天記』新潮文庫解説には《僕は悲観論が大好きなのね(笑)悲観論をしまくるの。なぜかというと、どこかで楽天に転じる場面がある。現に書いているのは楽天だ。もう少し正しくいえば、今書いているという楽天をどうやって裏付けるか、それをやるには悲観論をしまくるに限る(笑)》とも語っておられるようですが。

 また、トラウマについて《古傷というものは心の内にもあり、その意味では誰しも脛に傷もつ身であり、この心の傷のほうは冬よりもむしろ春先の、寒さにこわばっていたからだのほぐれかかる頃になり、ふっと疼くのではないか》《これが間違いのもととなる》と書いてあるところにも唸りました(鳥は羽虫、人間は裸虫)。

ますかがみ そこなる影に むかひ居て
見る時にこそ 知らぬおきなに 逢ふここちすれ
『拾遺和歌集』旋頭歌

 について《鏡に向かって座り、そこに映る姿を見る時こそ、見知らぬ翁に逢う心地がすることだ、というほどの意味である》と解説するあたりの老いの実感も素晴らしい(知らぬ翁)。

 古井由吉さんは一年に一作のペースで本を出していて、申し訳ないけど小説はあまり読んでいないんですが、漱石の漢詩とかマラルメの訳詩とかエッセイは欠かさず読ませてもらっています。今回も年始の旅行に持っていき、豊かな時間を過ごすことができました。

 幕末から維新の頃に、日本人が西洋を訪れて、街の風景を墨筆でとらっと写していると、西洋人が感嘆の声をもらしたという、日本人には写実とは違った活写のたくみさがあるのか、というあたりも面白かった(写実という底知れなさ)。

 インドあたりの洪水は水と空ばかりになってしまう、というのも初めて知りました(水)。

 眼は恐怖を対象化するが、耳は受け身であり、恐怖に押し入られるままになる、というのもわかるな(耳の記憶と恐怖)。

| | Comments (0)

December 22, 2019

今年の一冊は『文選 詩篇 全六巻』川合康三など訳注、岩波文庫

Monzen-1-to-6-1_20191222151801  

 ずっと続けているので「今年の一冊」を今年も選びたいと思います。

 最近の人文書では日本の中世史が活況を呈しているな、と。ヘイト本も出すような宝島社に買収されて新刊が出なくなる歴史新書yシリーズや、ちくま新書の『中世史講義』『考古学講義』などのアンソロジーも素晴らしい。中井久夫先生が《日本の組織は軍でなくとも、たとえば私の医局でも私がいない時は誰、その次は誰と代行の順序がわざわざいわなくとも決まっている。これは日本の組織の有機性という大きなすぐれた特徴であると思う》と『災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災50日間の記録』で書いておられますが、チームワークで力を発揮する日本人的な特性が出版の世界でも発揮されているのかな、と。

 今年の一冊もそんなチームワークの力を感じる『文選 詩篇 全六巻』川合康三など訳注、岩波文庫。今年完結したので「今年の一冊」とさせていただきます。

 文庫本で2553頁という文選詩篇は足かけ2年でスケジュール通り刊行されました。詩経などは〈よみびと知らず〉の詩がほんどでしたが、曹丕『典論』を経て作者の個性が認識され、表現も洗練の度を加えて「作者の誕生」につながっていく、という流れが理解できるとともに、六巻の付録の年表によって、秦から南北朝時代時代にかけての主な出来事と、士大夫らがどう動き、詩を書き、それが文選のどこに収められているかが分かり、漢詩の作り手は大状況に対応していたことが改めて実感できます。

 五巻の「はじめに」で《叙情や人生のはかなさから生じる悲しみと満たされない恋の悲しみ-中略-それは日本や中国に限らず、どの国の叙情詩においても見られるものでしょう。ただ中国の士大夫の文学はそうした感傷に浸ることなく、悲しみを乗り越え、人間の力を肯定し、生きる意欲をうたおうとする、そこに中国古典詩の特質があるように思われます》と書かれているのには蒙を啓かれました。それぞれの詩の最後に《『詩品』上品》とか書かれているのを素人なんで、最初は何だろうと思ってたけど、梁の鍾嶸が編纂した文学評論なんすね。『詩品』では曹植が上品、曹丕が中品、曹操が下品。

 四巻では楽府第の「長歌行」に《百川東至海(すべての川は東に流れ海に注ぐ)》とあって、中国の河川は東流して海に注ぐだけの一方通行なんだな、と思いました(p.368)。インドも南流、ロシアは北流するだけなのに対して日本や欧米は東西どちらにも流れる川が多いのは示唆に富む対照かな、とか。解説では「過ぎ去った歳月が二度ともどらないことをたとえる」としているのですが、日本の時間感覚が一方通行ではなさそうなのは、そうしたことからなのかも。

 文選には三国志から八王の乱など中華が大いに乱れた時代の作品が多く収められていますが、この時期は「中華」の範囲が経済活動を中心に南方に広がっていき、それは「呉」出身の官僚たちの詩の多さにも現れていると思ったのが三巻。そして詩をつくる中心だった官僚たち、あるいは曹植など皇帝の親族でさえも激動の時代に翻弄され、彷徨い、激しい政争の中で殺されていきます。

 二巻の途中で、詠史から哀傷に移ってきます。中国史批判みたいな詠詩から隠遁願望みたいなのが多くなり、感情移入しやすくなり、じっくり味わって読みました。

 一巻は難儀しました。歴史、故事を知らないのでなかなか読み進めませんでしたが、強調されていたのは、当時の詩が《他者との関係性を持つ開かれた場で書かれ、社会性をもっていたこと》(p.394)。曹丕の建てた魏王朝から司馬氏が晋を建国したものの、北方民族によって崩壊し、東晋から南宋に変わった時代を背景にしていたというあたり。

 永井荷風は一時期、文選だけを読みながら日を送っていたらしいのですが、詩経の透明な詩を読んでいると、こういうのしか受付られなかったような時期もあったのかな、と感じます。もっとも荷風はおそらく白文で読んでたんでしょうけど、学のないぼくは解説に助けられながら、やっと読みすすめられたことは本当に有り難いことだったな、と思うと同時に、まだ『文選』は日本に受容されていないな、とも感じます。

 このほか、冬休みなどでに読むのにお勧めしたい2019年の書評年度に刊行された本は以下の通りです。

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』加藤陽子責任編集、歴史学研究会編、績文堂出版
『独ソ戦』大木毅、岩波新書
『人生で大切なことは泥酔に学んだ』栗下直也、左右社
『中世史講義 院政期から戦国時代まで』高橋典幸、五味文彦(編)、ちくま新書
『考古学講義』北條芳隆(編)、ちくま新書
『行動経済学の使い方』大竹文雄、岩波新書
『フランス現代史』小田中直樹、岩波新書
『武器としての世論調査』三春充希、ちくま新書
『玉三郎 勘三郎 海老蔵』中川右介、文春新書

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』加藤陽子責任編集、歴史学研究会編、績文堂出版
このアンソロジーも日本史研究者の方々のチームワークの良さを感じさせる一冊。列島では古来から比較的王殺しが少なく、禅譲=上皇が突出して多いというのは、例えば総理大臣など政治のトップの逮捕・起訴などが少ないというのにも通じるかな、と。殺害される王が稀で譲位する王がこれほど多いのは珍しいとのこと。また、欧州の王政は世襲と選挙があるが、日本は世襲を疑わなさすぎだ、という指摘も新鮮。禅譲システムは皇位を簒奪する名目なのに、日本では天皇家を王家として強化するシステムとして幼帝を践祚させて、自分は上皇となって自由に遊びまくるとアレンジするのは凄いのも。また、今年行われた譲位は昭和天皇崩御時の混乱とローマ法王の生前退位(これも驚愕だった)を受けて実現したんだろうな、と改めて思います。

『独ソ戦』大木毅、岩波新書
従来は軍曹あがりで軍事的に素人のヒトラーが無理難題を押しつけたため、優秀なドイツ軍が目的を達することが出来ず、人海戦術のソ連に押されてしまったという認識だったんですが、スターリングラードの独第6軍を逆包囲して殲滅してからは、ソ連軍が見事な連続打撃による有機的な大作戦をみせことに驚く。無傷の日本軍もソ連軍には鎧袖一触で粉砕されるんですが、それはソ連軍の見事なまでの有機的で連続的な作戦にあったんだな、と分かりました。また、補給が伸びると現地調達に走るというのは機械化されたドイツ軍も、戦国大名も同じだな、と。

『人生で大切なことは泥酔に学んだ』栗下直也、左右社
今年一番、読書の愉しみを味あわせてくれた本。河上徹太郎、小林秀雄の屈折した酔っ払いっぷりには筆者ならずとも《「ごめんなさいもいえないのか」と叱ってやりたい》と思うばかり。連載時から好きだった筑摩書房・古田晁社長のエピソードは《ある日、馴染みの居酒屋でできあがっていた古田は店の前を屋台のラーメンが通ったので外に出た。酔っ払っていたとはいえ、腹が減っていたのだろう。食べながら、しばらくすると、一緒に出ていた板前に紙を要求する。口の周りでもふくのかと我々のような凡人は思うし板前も想像したのだが、古田は紙を腰より下に持っていく。どうしたのだろうか。のぞいてみると何と脱糞していたのだ。ラーメン食いながらクソである》という酔い潰れてズボンを濡らしてしまうようなありがちなエピソードのはるか上空、成層圏を超音速で翔け抜けるような見事さ。

『中世史講義 院政期から戦国時代まで』高橋典幸、五味文彦(編)、ちくま新書
白眉は[室町幕府と明・朝鮮]。日本史は東アジア史とリンクさせないと実相はみえてこないな、と改めて感じました。また、1590年に秀吉が150年ぶりに朝鮮に使節を送った時、李氏朝鮮はそれまで通交を続けてきた大内氏、少弐氏など諸大名の滅亡を知ったそうで、今の時代にも「近くて遠い関係」なんだな、と。それにしても宋も明も漢民族の王朝は弱すぎるな、と。漢民族が統一しても、だいたいすぐに騎馬民族にやられてしまう。結局、各地で実質的に面倒をみる官僚層が民衆から尊敬を受ける基盤がつくられていくんじゃないのかな…どうなんでしょ。

『考古学講義』ちくま新書、北條芳隆(編集)
 全体の責任者である北條芳隆さんによる最後の14講義「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」が抜群に面白く、まとめてみると以下のようになります。1)前方後円墳を国家形成過程での「王陵」とみると、徐々に大きくなっていくのはおかしい。なぜなら、先代墓より大きなものをつくるのは祖先の神格化を阻害するから2)秦の始皇帝と同規模の墓をつくるのは当時の経済力からして不釣り合いにすぎる浪費3)厚葬は富の消費で、国家ならば治水や利水などの公共事業に傾注すべき4)前方後円墳で基本構造が似ているものがつくられたのは部族集団が優劣を争ったからではないか5)巨大墓の造営は蓄財の完全放棄による身分の平準化志向がうかがえる-という5つの疑問を呈し、そこに1)東アジア一帯を襲う寒冷化と乾燥化2)後漢王朝の滅亡から魏晋南北朝期に至るまでの中国大陸における南北分断国家群の興亡3)高句麗の南下による朝鮮半島の流動化および朝鮮三国間の緊張関係という条件を考えると、それは巨大な前方後円墳の造営は「ポトラッチ」ではなかったか、というんですね。倭の大王は世襲された可能性は皆無に等しく、新たに擁立された大王の権威は、血のつながらない先代との比較優位を目指すために、ポトラッチのような競争が生まれたんじゃないか、という推測は納得的でした。

『行動経済学の使い方』大竹文雄、岩波新書
金銭的なインセンティブや罰則付きの規制を使わないで人々の行動をよりよいものにするのが行動経済学の目的。人間は確率0%の状況から小さい確率でも発生する可能性が出てくる思うとそれを過大評価し、100%から僅かに下振れのリスクが生まれると確実性が大幅に低下すると感じるというあたりはワクチン忌避や放射脳など社会的な脅威を生む素地になっているのでしょうか。現状維持バイアスの強さも納得できる。

『フランス現代史』小田中直樹、岩波新書
黄色いベスト運動の抗議デモの広がりを受けてマクロン政権は燃料税増税の棚上げや最低賃金を月額100ユーロ引き上げることなどを発表しましたが、フランスの為政者は民衆蜂起に弱いな、と改めて思いました。ルイ16世以来の伝統なのかな、と思ったんですが、もっと根源的な問題として、安全保障としてドイツと組んだEUから抜けられないから、ハイパーインフレにトラウマを持つドイツが求める緊縮的な経済政策というEUのコルセットを外せないという問題があるかな、と。だから財政出動という庶民に優しい政策も取れず、基本的には抜本的な対策を先送りし、目新しい政治家が現れて改革を進めようとすると庶民が暴動を起こして引っ込めさせるということを繰り返してきたのかな、と。

『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』小熊英二、講談社現代新書
日本型雇用は「企業のメンバーシップ型」、欧米は「職種のメンバーシップ型」。この違いは長期雇用や安定した賃金を「社員の平等」で実現するか「職務の平等」を通じるかの違い。日本で企業別労組が発達したのは大平洋戦争後、食糧難の中で、疎開にも行けずに荒廃した都会に残された、帰るべき田舎を持たない工場の従業員が互助的に工場内の土地や物資を使って自活するなどの経験が大きかった。工場は配給ルートとしても重要だった、というあたりはハッとさせられた。《どこの社会の労働者も、雇用や賃金の安定を求めるし、経済状況が許せばそれが可能になる》(p.205-)わけだが、日本の非正規の問題は、グローバル化にフィットした「職務のメンバーシップ」が不況期に拡大して、日本国内でも改善される見込みがないことなんだろか、と考えさせられました。

『武器としての世論調査』三春充希、ちくま新書
面白かったのは東西で与党列島と野党列島に分けられるという指摘。これは佐藤進一先生以来の日本中世史の東国国家論を現在も反映しているとも言えそう。元々、三春充希さんは理系の研究者だったらしいけど、データ分析を進めると、東大史学の日本中世史の東国国家論が浮かび上がるというのは凄いな、と。

『玉三郎 勘三郎 海老蔵』中川右介、文春新書
泣いても笑っても2020年には十三世團十郎の襲名披露興業がやってきます。十一代目は早世し、十二代目は器ではなかったので、今の海老蔵は劇聖と言われた九代目團十郎以来の帝王にして改革者となるわけで、それは《初代市川團十郎が始めたものが現代に続く歌舞伎であり、代々の團十郎がそれぞれの時代の歌舞伎を作ってきた。今後は十三代目團十郎の歌舞伎が歌舞伎となる。それを認めたくない人は、別の歌舞伎を作るしかない》という時代の幕開けにもなります。

 このほか、シリーズアメリカ合衆国史やシリーズ 中国の歴史は全巻が完結した時に書きます。

| | Comments (0)

«『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』西股総生、学研