October 17, 2018

『リスク・オン経済の衝撃』

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『リスク・オン経済の衝撃 日本再生の方程式』松元崇、日本経済新聞出版社

 松元崇さんの本をnoteにまとめておこうと思ったら、これをアップしていないことに気付きました。FBのnoteにはあげていて、複数のに書いておくリスクテイクは大切だな、とw
 
 大蔵官僚出身の元内閣府次官、松元崇著の本ですが、近著である『「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか』(中公文庫)と内容的にダブルところが多いので、簡単に紹介します。

 一番、納得したのが《先進国の中央銀行が新たに行うようになった「最後の買い手」としての業務》を「金融資産管理業務」と名付け、従来の「銀行券発行業務」と共に中央銀行の業務の柱として位置づけたことです。ヘッジ・ファンドなどの暴走によって金融市場の秩序が破壊され、実体経済に悪影響を及ぼすことがないように金融資産を買い入れ、増減をコントロールすることによって安定化を図るのが目的。

 グローバル経済が発達する前は、「銀行券発行業務」を運用することによってインフレを防止することが中央銀行の役割でしたが、発展途上国からの安価な製品の輸入によるデフレ圧力が加わった現在、新たに「金融資産管理業務」が必要になった、と。

 経済が好調さを取り戻し、中央銀行の放出する資産がヘッジ・ファンドに購入されていけば、マーケットに悪い影響を及ぼすことはない、と(出口戦略)。

 日本でもプラザ合意後、投資が期待されたような収益を生まなくなり、やがてバブルも崩壊し、地価と株価の下落スパイラルがとまらなくなりました。日本ではBIS規制も導入されたばかりだったので、銀行の貸し渋り、貸しはがしが行われるようになりましたが、今から振り返れば米FRBのような非伝統的な金融政策を断行すべきであった、と。

 当時恐れられていたのがインフレ懸念。しかし、ヘッジ・ファンドと同じように中央銀行が金融資産を買い入れたからといってインフレにならないことは、戦時中の日本銀行による国債の直接引き受けがハイパー・インフレを引き起こしたという誤った歴史認識によるものだった、と。敗戦直後のハイパー・インフレは米軍の絨毯爆撃によって生産設備が潰滅し、通貨と現物の需給関係が乖離したためで、有名なドイツのハイパー・インフレも戦後5年目にフランスとベルギーがルールを占領したことに対抗してゼネストが行われ、それによって生産がマヒしたためだった。

 実際、ドイツも第一次大戦直後は、激しい戦場がドイツ外だったので戦禍を受けず、物の供給がすぐに回復していた(ヒトラーによる速やかな再軍備が可能になった理由もこれ)。日本でもインフレが起こったのは軍票を大量発行した占領地域だけだった。

 こうして米FRBは日本のバブル崩壊を参考に、「銀行券発行業務」については市場との対話を進めるとともに、非伝統的な「資産管理業務」を新たに組み入れ、実行しました。

 しかし、日本にとって不幸なことに、リーマン・ショックによる日本の損失額は欧米と比べて極めて軽微だったために「金融資産管理業務」を行うタイミングが遅れ、それによって円の独歩高となり、企業の海外移転という最悪の結果を招くことになてしまいました。それは一国のファンダメンタルズに基づかない為替の変動が、ファンダメンタルズに大きな影響を与えることになった時代を象徴しており、42%も対円で下落した韓国ウォンの前に日本の電機メーカーはなすすべを失い、国土の均衡ある発展を目指して整備された地方の工場が閉鎖された、と。

 さらに、リーマンショック前の02~08年(小泉首相時代)は低いながらも日本経済は成長していたが、国内での賃上げは見送られ、消費拡大には結びつかなかった。

 黒田日銀は非伝統的な対策を果敢に打って出ているが、それは日銀DNA。

 第一次大戦期に日本経済は飛躍的に拡大し、貿易は4倍、工業生産高は5倍、GNPは3倍になったが、その反動恐慌に救済融資を実施。設立時にも通貨の制限外発行を認められるなど柔軟な体制だった。

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October 16, 2018

『近代と現代の間』三谷太一郎対談集

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『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版、2018

 物故者2人を含む6人との対談で、古いものも多いが、全く色褪せていないことに驚く。無産政党を含めたオポジションがなくなった時点で昭和陸軍の暴走を止める勢力がなくなってしまったということで、アジアで唯一といっていいほど長い複数政党による政党政治の意義を改めて見直す、みたいな論議が基層をなしているんでしょうか。

 ただし、これまでも、様々な利益は政党によって代表されてきたものもの「公共の利益」だけは代表されてこなかった、と。それはカントの『判断力批判 上』で書かれている《首尾一貫する考え方の格律に達することは最も困難である》(岩波文庫、p,231)ということなんでしょうか。

 敗戦後、日本人が必ずしも十分に考えてこなかった脱植民地帝国化(ディコロナイゼーション)の問題が問われているという視点も大切だな、と。

 韓国で三・一独立運動(1919年)が起きた時、日本の当局者に非常な衝撃を与え、伊藤博文が併合までは反対していたということも改めて議論されたそうです。欧米とは違って、かつての先進国である朝鮮を植民地化するという違いがあった、と(p.18-)。

 その結果、寺内正毅の武断支配が見直され、原敬の文化統治に移り、朝鮮語新聞の東亜日報の発行も認められた、と(p.21)。原敬はサハリンも陸軍直轄から内務省の管轄に変えるなどシビリアンコントロールを追求した、と。三・一独立運動後は日の丸掲揚も強制されなくなり、台湾でも教育勅語による教育方針をうたった文言が削除された、と(p.23)。

 衆議院議員で初めて首相になったのも原敬(p.35)。

 明治十年代に自由民権運動というオポジションが出来たということは、日本の複数政党制成立の前提となった(p.39)が、満州事変(1931年)前後で空気が変わり、新聞の熱狂が始まり、大政翼賛会につながり、戦争を終結させる反戦論がなくなっていく、と(p.41)。

 張作霖爆殺事件では田中義一を辞任させ、海軍軍縮条約の批准に枢密院が反対すると、枢密院首すげ替えを決意した浜口雄幸を昭和天皇は支持するが、満州事変ではクーデターも起こりかねなかった(p.45)。

 河本、板垣、石原らの満州事変の動機は、権益維持ではなく体制への朝鮮で、反体制のモデルを提示すること(p.61)

 昭和天皇にとって最大のショックは、統帥権干犯となる朝鮮軍の独断越境問題。すでに天皇をもってしても、如何ともし難い状況になっていた、と(p.65)。

 そうした中、無産政党の社会大衆党は第三党になり、2.26事件の将校たちの危機感を煽った、と(p.68)。

 戦前、マルクス主義に接近した部分ほど大政翼賛会に行ってしまったのは、ソ連による一党独裁を無産政党がモデルにしていたから、というあたりは膝を打ちました。

 実は、右派の無産政党を束ねようとしていたのが吉野作造。戦後の片山内閣は首相、西尾以下吉野の影響下にあった人間だった、というのはなるほど、と。同時に、祖母からは「片山内閣ほど嫌いなのはなかった」みたいな話しを何回も聞かされたこともあって、今のリベラルの不人気ぶりも昔からかな、とか…。

 第二次大戦後、太平洋諸島に張り巡らされた沖縄も含む基地網があればソ連の対日侵攻は阻止できるとケナンは考え、日本本土には大規模な軍事力は不要と考えたというあたりも面白かった。同時に日本を輸出経済で再建し、原料は非ドル地域のアジアから調達することで地域の共産化も防止できると考えた、と(p.81-)。

 あと、日露講和成立直前の桂・タフト協定では、アメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮支配を相互に認めあい、その財政的裏付けとして東拓米貨社債が発行されたというのは知りませんでした。しかし満洲支配のため井上準之助らが求めた満鉄米貨社債は米国が認めず、つまり、それは米国は日本の満洲支配を認めなかったことになるが、日本側はその意図を十分に理解できといなかったのかも、と。

 歴史認識問題の日韓共同研究での《韓国の学者は基本的にナショナリズムなのです》《非常に残念なのは、韓国の社会では反日的ではないと生きていけない》《個人レベルでは理解できるとは言うのですが、社会に向かってはそう言えないのです》というあたりも、なるほどな、と。

 そういえば、自衛艦の旭日旗掲揚問題で、寡聞ながら韓国の学者さんの意見というのはあまり読んだことはない。本来ならば、ナショナリズムに酔う人たちに待ったをかける役割が期待されると思うのだけど。コーランを文献学的的に研究ではないイスラム学者と同じで、韓国の歴史学者は勇気がないのかな、と。

 自民党政権は歴史問題は国家間で解決済みという立場なので、日本側が何かサービスするということはないから、韓国内で植民地となってしまった歴史的経緯、なぜ防げなかったのかなどの問題、日本の社会政策が与えた影響などについて議論してもらうしかないんだろうなと暗澹たる気持ちに。

 以下は箇条書きで。

 挑戦使節使は江戸まで来るのは1764年で終わっている(p.12-)
 外債を抑えるということは、経済面でのナショナリズムの現れ(p.15)。

 山県有朋のロシアに対する危機感は対馬占領(1861)が原点になっているが、日清戦争まではロシアの南下政策はそれほど具体的なものではなかった(p.28-)。

 明治天皇が帝国憲法体制をつくるプロセスに関与し、憲法発布で明治維新をひと区切りとして、西郷隆盛の名誉も回復、伊勢神宮などに勅使を派遣し、伊藤博文にだけ勲一等を授けた(p.31)。大名の政治参加を求める公議輿論からスタートした長い明治維新というステート・ビルディングのフロセスの到着点が明治憲法だった(p.33)。
 
 連合国が昭和天皇の責任を追及した場合、髪をおろして仁和寺に入って退位、裕仁(ゆうにん)法皇と名乗る計画もあった(p.57)。
 
 日本占領は米国国務省の中国派のイニシアチブで運営された(p.62)。

《総論、ジェネラル・セオリーの哲学的部分から素人は影響を受けるわけで、それが重要なことだと思うのですけれど、そういうものに対する関心がなくなってきています》《プロフェッショナルのアマチュアに対する影響力は細分化した分野の研究では生じない》なんて言葉も印象に残っています。
【主要目次】
I 日本の近代を考える
1 明治150年―どんな時代だったのか(×御厨貴)
一 3.11まで続いた戦後70年の「富国」路線
二 政治過程における明治天皇/国民国家形成の任務
2 日本の近代をどう捉えるか(×松尾尊兊)
はじめに――なぜ近代史を問題にするか
一 植民地とは何だったか
二 明治憲法とオポジション
三 対外侵略と天皇制
四 可能性としてのデモクラシー

II 政治と経済の間で
1 戦争・戦後と学者(×脇村義太郎)
はじめに
一 石油と戦争
二 人との出会い
三 財閥解体
四 石橋内閣のこと
2 財政金融・政治・学問(×神田眞人)
一 国際金融と世界秩序、そして内政
二 権力と知識人――時代との向き合い方
三 学問と現実との相克

III 吉野作造と現代
1 吉野作造の学問的生涯(×岡義武)
一 吉野における啓蒙の意味
二 吉野の講義
三 吉野の研究指導
四 教官食堂の吉野
五 晩年の吉野
六 人間と学問
2 戦後民主主義は終わらない――吉野作造の遺産を引き継ぐために(×樋口陽一)
一 吉野作造についての思い出と「憲政の本義」
二 ポツダム宣言にみる「民主主義的傾向の復活・強化」
三 憲法へのコンセンサスと緊急事態条項
四 日本政治の不安定要因

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October 13, 2018

『磁力と重力の発見 1~3』 山本義隆

『磁力と重力の発見 〈1〉 古代・中世』『磁力と重力の発見 〈2〉 ルネサンス』『磁力と重力の発見 〈3〉 近代の始まり』山本義隆、みすず書房

 noteで読書記録をまとめているんですが、山本義隆さんの科学史三部作のうち、後半の『一六世紀文化革命』と『世界の見方の転換』については、こちらで書いていたのですが、残念ながら、『磁力と重力の発見』が刊行された03年当時は、まだ読書の記録は分散してつけていました。PCのログを検索したのですが、部分ごとにしか見つけることができませんでした。

 以下は、一巻をある程度読んだ後に書いたものです。

 《この著者をみなさんご存知でしょうか?知っている人は動揺するでしょう、知らない人は興味もないかもしれません。東大全共闘(死語)の委員長をやっていた人です。当時、博士課程に在籍していた山本義隆さんは、本来なら世界の物理学をリードするような人だったともいわれています。
 安田講堂の攻防戦を最後に闘争は下火となり、69年の1回だけの入試中止しか「成果」はありませんでした。山本さんは指名手配され、逮捕、拘留を経て中退。なんと駿台の先生となりました。ぼくは文系でしたが、一度、講義を受けに教室にもぐりこんだことがあります。ミーハーっすね。でも、敬愛するヘーゲル研究者の長谷川宏さんといい、全共闘組で大学からおん出た人たちは、塾やったり予備校の先生になってたんですよね。
 その山本さんが近代物理学成立のキーとなった重力の発見について、磁力の認識から説き起こしているのが、この本です。キーワードは「遠隔力」。唯一、実感でるき磁力から、誰も実感することができなかった重力までの観念のジャンプを全3巻で説き起こすそうです。とりあえず1巻買ってきました。
 なぜ西洋にだけ近代科学が発達したのか、という問題を「アリストテレス的な不活発な塊」という認識から、ギルバートによる、多少オカルティックながら「自己運動を有する生命のある霊的存在である地球」という認識が、ケプラーの重力論へと道を開いたというのは、門外漢ながら目うろこでした。
 これなら、アリストテレス哲学の精緻化という方向に進んだアラブ社会で近代科学が構築されなかった、というのがうまく説明できるわな、とこれまた門外漢ながら感じます。にしても、これだけの本を独力でまとめあげた山本さん。20年かかったということだけど、久々に背中をどやしつけられたような気がしました》。

 そして、山本さんには、今も背中をどやしつけられている気がします。

 個人的に3巻にわたる本書のキーパースンはギルバートだったと思います。

 近代物理学はケプラーやフックの業績を引き継いだニュートンによる万有引力の法則ですが、ティコ・ブラーエの精緻な惑星の位置観測の記録から火星の公転軌道が楕円であることを導いたケプラーは、磁力に公転運動の理由を求めます。

 古代ギリシャでは力が生じるのは「近接」だとされていて、遠隔力である「磁力」は魔術師たちに親しまれていました。ギルバートの地球が巨大な磁石であるという発見は、職人による磁針の北が水平より下を向くという「伏角」の発見とその測定によるものでした。そして、地球が不活性で賤しい物質ではなく、能動的な活性原理を持つ物質であることを示した衝撃だったと思います。

 実際、1巻は古代ギリシャから中世キリスト教世界までの磁石に関しての記述に多くを割いています。1巻ではフリードリヒ2世を近代的な科学者である位置づけるあたりも驚きました。

 2巻では、大航海時代に羅針盤の「北」が北極星から地球上の点へと変化し、偏角の発見に続いく羅針儀製造職人ノーマンによる伏角の発見によって、地球認識の転換、地球が磁石であるという認識への道が切り開かれた、と。さらにデッラ・ポルタによる「力の作用圏」という概念により、力が数学的関数で表される端緒が開かれた、と。2巻では教会法で有名なニコラウス・クザーヌスを磁力を定量的に測定しようとしたと評価しされていたのにも驚きました。

 そして、3巻は最初の方で述べたように、ギルバート、ケプラー、ボイル、フックがニュートンの万有引力の法則を準備する過程が描かれます。そして電磁気学の味も素気もないクーロンの法則も見つけるには大変な努力がいった、と。

 すでに本書は大学においても科学史の教科書として使われているそうで、山本さんの歩みを仄聞する身としては時代の流れを感じます。

 中山茂先生の科学史『一科学史家の自伝』作品社によると、《日本で西洋の科学史家として知られたのは、圧倒的にマルキストであった。中略 正統派は大学のスコラの伝統の上にガリレオ、ニュートンも位置づけるのに対し、マルキストは職人の伝統の貢献を強調》するという指摘にはハッとしました(p.136-)。これって山本義隆さんの史学そのものだな、と。

 3巻ではイギリス人が大活躍するのですが、ヘーゲルの『哲学史講義 中』長谷川宏訳で《イギリス人は実験物理学や実験化学を哲学と名づけていて、そうした研究にたずさわり、化学や機械装置の理論的知識をもっている人が哲学者です》(p.29)という一節も思い出しました。

第1章 磁気学の始まり―古代ギリシャ
第2章 ヘレニズムの時代
第3章 ローマ帝国の時代
第4章 中世キリスト教世界
第5章 中世社会の転換と磁石の指向性の発見
第6章 トマス・アクィナスの磁力理解
第7章 ロジャー・ベーコンと磁力の伝播
第8章 ペトロス・ペレグリヌスと『磁気書簡』

第9章 ニコラウス・クザーヌスと磁力の量化
第10章 古代の発見と前期ルネサンスの魔術
第11章 大航海時代と偏角の発見
第12章 ロバート・ノーマンと『新しい引力』
第13章 鉱業の発展と磁力の特異性
第14章 パラケルススと磁気治療
第15章 後期ルネサンスの魔術思想とその変貌
第16章 デッラ・ポルタの磁力研究

第17章 ウィリアム・ギルバートの『磁石論』
第18章 磁気哲学とヨハネス・ケプラー
第19章 一七世紀機械論哲学と力
第20章 ロバート・ボイルとイギリスにおける機械論の変質
第21章 磁力と重力―フックとニュートン
第22章 エピローグ―磁力法則の測定と確定

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September 24, 2018

『ファーストエンペラーの時代 秦漢帝国』

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『ファーストエンペラーの時代 秦漢帝国』鶴間和幸、講談社

 普段はTwitterで読んでいる本の気に入ったところをつぶやき、読み終わったらFacebookでまとめ、それをブログにあげていたが、noteにも書けばと言われて、見直してみると、まとめてなかった本があった。それが「中国の歴史」シリーズの3巻『ファーストエンペラーの時代 秦漢帝国』。

 中国でも竹簡が近年、いっぱい発掘されて、史記の記述だけしかなかった漢以前の世情が行政面だけにせよ見直されているという。中国史の多様さに圧倒される。

 漢字文化圏の東アジアでは中国の律法を国家の基本法として受け入れ、官僚は法に基づいて行政を行い、社会は法によって秩序を維持する。日本が受け入れたのは唐の律法だが、淵源は秦漢の律法。秦律は六篇、漢は九章律。基本法である律の中に刑法も行政法も入っていたというのには、人間の思考の根源に迫っている感じがする。

 周王朝以来の太陰暦の話で、金星に次いで明るい木星は、明け方に東方に出て、黄昏に西に入るので観測しやすく、十二年で天を一周するので(実際は11.86年)、12年をスパンとする時間の意識を生んだというのを、本書で初めて知る。今さら自分の無知には驚かないが、こんなことも知らなかったのか、と。

 漢では儒家が重用され、貧困対策で実施されたのは、土地制限を制限する名田政策。東洋的デスポチズムでは、必ず土地公有の公田制に戻ろうとするが、日本も含めて必ず失敗するな、と。失敗するけど精神的平等性が強調されて、儒家は「負けて勝つ」戦略で生き残ったのか(p.252)。

 しかし、儒教の受容はエリート層に留まっているという指摘もあり、「中国の歴史」シリーズの第7巻『中国思想と宗教の奔流』を読むのが楽しみになってきた。

 後漢時代に儒教が国家イデオロギーになった背景には、郷里や家族内の秩序が戦乱や自然災害がもたらす貧困や流民化によって崩壊し、子殺し、売子、奴婢売買、飢餓時の食人などが行われていたため、という指摘もなるほどな、と思うが(p.402)。

 前漢から皇帝を簒奪した王莽は華夷秩序を厳格化しようとして、冊封していた周辺諸民族の支配者を王から候に格下げし、それに反撥した匈奴、高句麗などが離反、一代で滅んだ、と。後漢書東夷伝、魏志倭人伝で倭を遇したのは、この失敗を反省したからなのかな?もちろん、呉と倭が連携されて挟撃されてはかなわないということで魏が倭に「親魏倭王」という最上級の地位を与えたんでしょうが。

 夏殷周三代は女食で、秦は暴虐な政治で、前漢は外戚で、後漢は宦官で国が傾いた。後漢の指摘は曹操が宦官の養子だったことを非難するという意味もあるが、幼帝が続き、皇后の力が強くなると、後宮に自由に出入りできる宦官の発言力が強まった、と(p.407)。

 秦の始皇帝は人質の子から中国の支配者になったが、儒教が国教的になって以降、夷狄からは人質とらなかったのかな…とふと思う。人質取ればあそこまでやらられなかったんじゃ…騎馬民族は末子相続とか、嫡男の母親を外戚が猛威を振るうので殺すとかの奇習は人質を取られないためのだったのかな…。

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September 21, 2018

『三国志の世界』

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『三国志の世界』金文京、講談社

 講談社「中国の歴史シリーズ」の第四巻『三国志の世界』。

 『三国志演義』は中国だけでなく、朝鮮半島、日本でも大人気で、日本に翻訳された初の海外小説だと言われています。しかし、もちろん、それはフィクションであり「史実は三割、七割が創作」と言われているそうです。明代になって書かれた『三国志演義』は正史を元にしてはいますが、同じ明代の朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことに影響を受けているため、最も国力が劣り、最初に滅んだ蜀を中心に描かれることになります。これは、金などの"夷狄"によって南に押し込まれた明代の朱熹が主張した正当性を巡る観念的な議論を反映したものですが、観念的であるということは、それだけ現実を無視して伝播するわけで、日本、朝鮮、ベトナムにも大きな影響を与えました。また、三国志のリアルタイムの時代史も、日本、朝鮮、ベトナムにミニ中華意識を与えることにもなりました。

 陳寿の正史『三国志』に付けた裴松之の註を基にした羅貫中の『三国志演義』は、湖南文山によって元禄期に和訳され、それは完訳され出版された初の外国小説であり、世界でも満州語訳に続くもので、日本人に最も親しまれている小説なりました。また、歌舞伎などに出てくる「白浪五人男」は5人組の盗賊ですが、「白浪」という言葉も『三国志』にも出てくる「黄巾賊」に由来しています(黄巾の賊張角の残党が西河の白波谷こもり白波賊と呼ばれた)。

 ということで東アジアの歴史全体に三国志は大きな影響を与えたのですが、本書の特徴は以下の三点を重視して書かれたことだと思います。

・日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性
・呉の重要性
・中華意識の日本と朝鮮半島への影響

[日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性]

 後漢時代から、大学に学んで儒教的教養を身につけた豪族と官僚が一体となった存在が進み、それが支配層の門閥貴族になっていたことが三国志の時代背景となります。さらに、後代の隋唐時代に門閥貴族制が機能しなくなると、科挙に合格した士大夫が現れますが、そこでも実体は地方勢力でした。しかし、この過程で儒教的な父権的家族制度の普及で外戚勢力は姿を消すそうです(p.33-)。つまり儒教倫理の進展で、母系の重要性が中国では薄れていったわけで、この点が、儒教を表面的にしか受容しなかった朝鮮、日本との違いでしょうか。

 だいたい日本は宦官が存在しなかったし、朝鮮は導入したものの政治的に大きな問題を起こしたことはありません。しかし、外戚はどちらも重要な勢力であり続けました。輸入された儒教の父権的な家族制度は、日本と朝鮮の母権的家族制度を変えるほどの影響力を持たなかった、というのはクリアカットな言い方だな、と(p.38)。

 日本は科挙制度を導入せず、中国の士大夫が文士なのに対し、日本の士は武士です。朝鮮は高麗時代に科挙が同されましたが、両班は世襲的性格が強く、中国の六朝以前の門閥貴族に近いとのこと。つまり、日本も朝鮮も中国の政治制度を導入したが皮相的レベルだった、と(p.39)。

 しかし、中国でも母系の基層は残っていたかもしれません。例えば曹操の娘、何晏(かあん)は金郷公主と結婚したのですが、その母は何晏自身の母。つまり同母兄妹。儒教倫理が伝来する以前の朝鮮半島の王族や日本の天皇家では、近親婚がむしろ原則で、儒教というベールをとってしまえば、中国と朝鮮、日本には多くの共通性があるのかもしれない、と(p.223)。

 ちなみに曹操は三国志の中で最も魅力的な人物だと思います。

 曹操の墓と遺骨が2009年に見つかった件について、つい最近、河南省文物考古研究院が墓の建築構造などから遺骨はほぼ間違えなく曹操であると発表したそうですが、本人の曹操は宦官の養子の息子です。

 後漢の権力は宦官、外戚、豪族知識人が対立しましたが、曹操は漢王朝最後の皇帝となる献帝に娘を嫁がせて外戚となり、才能本位の人材登用で知識人も味方につけ、三つの相反する勢力全てを手に入れたたそうで、後漢王朝の簒奪こそ息子の曹丕の時代を待たなければならなかったものの、三国志の勝利者となったのは必然だと本書ではしています(p.46)。

[呉の重要性]

 『三国志演義』では最も軽い扱いの呉ですが、現在の「政治の中心は黄河流域の北部、経済の中心は揚子江流域の南部」という中国の国のかたちをつくったのは呉です。

 呉の孫権は夷州と亶州を探検させ失敗に終わっているのですが、夷州は台湾、亶州は倭国のどこかであった可能性がある、と。魏志倭人伝で魏が倭国に格別の対応をしているのは、万が一にも呉と倭国から挟み撃ちにされたらかなわん、という思惑があったハズという説は読んだことあるのですが、呉の影響は日本にも及んだ可能性はあるんだな、と(p.155)。

 呉の孫権は南方の山越(さんえつ)討伐に悩まされました。魏にいったんは臣従したり、その後の魏との対決では蜀との共同作戦を十全に行えなかったのもこれが原因。呉の軍隊に編入された山越の兵士は15-6万人に登るそうです。山越の同化は唐代までにほぼ完了し、江南地方は穀倉地帯だけでなく、文化的先進地帯になっていった、と(p.194)。

 著者が最初の方で、三国志演義では魏と蜀の対決がフィクショナルに語られるが、真に重要なのは呉だったというのが、ここら辺でやっとわかりました。孫権は南方を開拓し、海を通じて倭国と交流しようとした結果、中華が拡大。五胡十六国時代を経て隋唐の統一まで向かうわけですから。

 ちにみに、当時の「世論」は名士たちのネットワークで決まっていて、劉備も数少ない名士を優遇したが、名士たちは軍人を軽んじ、張飛などとは口も聞かなかったという話しは有名。漢代に官吏を曹と言ったのは曹氏が天下を取る予兆というような予言も出て(現在の日本でも「法曹」に曹の名残りが)、国力を削いだ、というのは知りませんでした(p.211)。

[中華意識の日本と朝鮮半島への影響]

 中華思想は「夜郎自大的に」華夷秩序を強調し、夷狄にけものへんの漢字をあてたりしますが、ブッダへの浮屠というのは強烈だな、と改めて感じました(p.265)。おそらく「日の巫女」を卑弥呼にしたのも、ヤンキー漢字並の知性だと思いますし。

 五斗米道を起こした張魯の母は「鬼道」をよくした、ということですが(p.103)、こうしたところでも卑弥呼といいますかアミニズムの残滓を感じます。辺境の地の益州で「鬼道」などは大目に見られていた、とのこと。

 ちなみに五斗米道の創始者、張魯の子孫は張天師を名乗って、中共成立後は台湾に移り、64代に。孔子の子孫も77代が台湾に移った。中国は革命の国で王朝は長続きしないが、宗教指導者は万世一系だとしています(p.260-)。天皇家も特に今上陛下の光格天皇系は傍流と言うこともあり自覚的に学問に専念している感じですかね。

 中国は東と南に大海が広がり、北と西は砂漠と山脈によって遮られています。中華思想はこうした外部世界から隔絶した地理環境から生まれた、というのが著者の見立て。そうした中、朝鮮とベトナムは比較的簡単に到達できましたが、このうちベトナムからはインド文化の仏教が入ってきたりしますが、東はそれに匹敵する文化はなく儒教が進出した、と。

 中国皇帝は唯一無二の支配者なので外国の君主とは対等の関係はありえなかったので、朝貢を求めることで平和な外交関係を築きます。朝貢は正統な皇帝の証として重要で、向こうからやってこなければ、中国側から働きかけることも辞さなかったそうです(p.319)。

 現代でも、どんな小国の元首であっても、中国の指導者との会見はトップで報道されるそうで、ひとつの中国を巡って中共と台湾の激しい外交戦も、唯一無二の皇帝への朝貢が重視された伝統による、と。朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことは日本、朝鮮、ベトナムにはミニ中華意識を与えることにもなります。朝鮮では清朝に朝貢しつつ夷狄視し、韓国は中共をオランケ(韓国語で夷狄)と呼ぶなど自家撞着的な対応をみせますが、とにかく互いに相手を見下す態度となっていった、と(p.354)。

 卑弥呼に与えられた親魏倭王は外夷の称号としては最高のものです。倭が魏、晋と親密な関係だったのは呉との対立、朝鮮半島情勢から利用されたもので、朝鮮半島の三国時代、日本での畿内政権の成立に発展していきます。これが現代の中国と台湾、南北朝鮮と日本との東アジア情勢にもつながる、と(p.340-)。

 世界で最も長い交流の歴史を持ち、漢字も共有する日本、朝鮮・韓国がEUのような連合化に進まない理由は日中戦争、朝鮮の植民地化などではない《問題の根は、それほど浅くはない。1800年前の三国時代の歴史を、今日的な視点からもう一度見つめ直す必要がある》というのが結語(p.357)。

 ちなみに、篆書、隷書は木簡、竹簡用で、行書、楷書は紙の文字。初期の紙は表面がなめらかではなく物を包むためものだったが、書写に適したなめらかなものがつくられたそうで、紙の普及で手紙も頻繁にやりとりされるようになり、筆跡の認識により手紙の偽造も始まったとのこと(p.310-)。

 紙の発明で書物や手紙が普及したことによる情報革命で、社会全体の構造的変革が起こった、とも考えられるわけです。中国社会では唐宋交代期による印刷術の発明、清末の西洋印刷術の導入によっても知識が普及したが、三国時代は情報革命が政治革命をもたらした初めての時代だった、と(p.314-)。

 このシリーズは本当に面白い。

 出て10年ぐらいたちますが、中国本土でも翻訳されるほどだそうで、こうした本をじっくり読むことができるのは、リタイアできたことの特権かな、と。

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あさ沼の「合い盛りそば」

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「あさ沼」 山形県新庄市大字仁間33 0233-22-5538

 北海道旅行を計画していたのですが地震と停電で中止して、東北で蕎麦なんかを喰ってきました。

 最初に訪問したのは新庄。

 駅から「さぶん」まで歩いて、念願の鴨南蛮をいただいた後、旧新庄城跡の戸澤神社などをめぐり、そのまま半分、ランニングしながら庄司そばまでたどり着いたら臨時休業。

 しかし、「あさ沼」もそんなに遠くないところにあるので、さらに速歩で訪問しました。

 二時前ぐらいに着いたんですが、民家のようなお店は地元の方で賑わっていました。

 さっそく出羽桜の冷やで喉を潤したんですが、おおぶりの片口になみなみと注がれてきて感激。

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 蕎麦には皮の薄い丸茄子の漬物がついてきました。

 ちょっと塩っぱくて、最高の酒のつまみにもなりました。

 お声かかりでもってきてもらった「合い盛りそば」は田舎蕎麦に驚きました。

 こんなのみたことありません。

 蕎麦の香りたっぷりの蕎麦を堪能しました。

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September 20, 2018

『初期仏教』

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『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書

 夏前に、特に読みたい新刊もなくなったので、ヘーゲルの『哲学史講義』を再読しているのですが、その上巻を読んで、あっさり触れられているインド哲学に関しても、ほとんど知らないな、と感じました。

 例えば、ヘーゲルは『哲学史講義 上』のなかで、ガウタマとカナーダの遵守する規則はヴェーダの一節に、教育と研究のために必要なあゆみとして示唆されている言表、定義、探求の三つであり、インド哲学にとって大切なのは、霊魂の自己内集中、自由な境地への高揚、自力でつくりあげる思考なんて書いてますが、このガウタマはニヤーヤ学派の祖でアクシャパーダ・ガウタマだったりします。シッダールタではありません。

 『哲学史講義』の再読は中巻まで進んで、プラトン、アリストテレスと佳境に入ってはいるんですが、ほとんど意識したことない古代インドに関して何か読んでみるか…ということでヘーゲルを中断して『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書を読み始めたら、面白い。

 いきなり

・初期仏教の神々は寿命の長い天界の住人にすぎないので祈ることはしない
・宇宙原理も説かない
・生の不確実性を見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く

 というあたりから書き始めています。

 そしてパーリ語の仏典からの引用を中心に後世の諸教団(小乗、チベット)の解釈などは排除して解説、と原典主義を宣言しているのが潔い。

 読書量の少なさ、知識の欠如は自覚していますが、仏教が誕生した当時のインドの社会、経済的背景もほとんどしらなかったな、と。当時はヴェーダを基礎としたアーリア人社会なんですが、元々アーリア人は遊牧民。衰退したインダス文明の先住民と交流・対立しながらガンジス川流域に拡大していったのがアーリア人だ、と。

 ちなみにカーストの4階級のうち人間扱いされている上の3つはアーリアで、下層は先住民だろうと。

 また、当時は富を長期的に蓄積する思考は見えなかった、というあたりも面白かった。

 ヴェーダを通してみえる当時のアーリア人社会は、祭官に対する贈与と、儀礼における富の消費を中心とした威信経済で成り立つ部族社会だった、と。時代が下るにつれて王権の強大化が進んだが、高度な官僚機構と強力な軍隊に支えられた専制政治ではなく、部族王制に留まった、と。

 威信経済という言葉を初めて読んだんだけど、これはポトラッチなんかを含む新しい言い方なんでしょうか。富を長期的に蓄積する手段がないので、そうした思考も持たなかったので、富を発作的に消費する、みたいな。とにかく、インドに関する学問は急速に発達しているという著者の言葉に納得。読み進めていきます。

 仏教成立前のインドはキリスト教出現前のユダヤ教と似ている感じがするし、仏典の成立過程は新約聖書の成立過程とパラレルのような感じもして興味深い。

 ちなみに、仏陀が悟りを開く前にも、悪人正機説みたいなのを唱えていたプーラナ・カッサパなどがいて、こうした六師外道の唯物論者たちはギリシャ哲学の先駆者のような感じ。ただし、その背景は全て輪廻。輪廻を前提としているか、それを否定しているかの違いのような。

 仏典で、仏陀と祭官との問答がさかんに行われるのも福音書と似ていると改めて感じる。

 アケメネス朝ペルシャを滅ぼしたアレクサンドロスはインドのナンダ朝とは一戦を交えずインダス川を下って帰還。ナンダ朝を倒したマウリヤ朝のアショーカ王は法(ダルマ)による統治を目指したが、これはいち早く中央集権体制をつくっていたアケメネス朝の影響。

 当時の出家集団は遊行生活を送っていたが、紀元前1世紀に季節風「ヒッパロスの風」が発見されてローマとの海上交易が隆盛(『後漢書』西域伝に大秦王安敦=マルクス・アウレリウス・アントニヌスの使が日南=ベトナム北方のユエ付近から入貢したことがみえるのも、これが原因だったか!)。

 出家集団にも富んだ商人などからの定期収入が入ることなり、恒常的な運営が行われる組織へと変貌。

 出家者が遊行している状態では仏典の写本を持っていくのは不便だったが、恒常的な僧院が運営されれば、そこに口頭伝承されていた仏典の写本を置くことは重要になってくる、

 この時期は紀元前後。

 さらに、写本を前提とした個人の作品も著されるようになるが、これは福音書がユダヤ教に染まったキリスト教からのギリシャ語とヘレニズム文化を前提としたキリスト教の「離脱」を進めるために、ギリシャ語で書かれた、みたいなのを連想させるし、地域ごとに成立した教会で、福音書を前提に使徒たちが手紙を書き始めて、それが正典になっていった、みたいなのとパラレルのような気がする。

 あと、般若経、法華経など大乗仏典には、それ自体を書写するよう勧める箇所があり、それだけで初期仏教とは異なることが端的にわかる、と。

 インドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、と。

 これは凄いな、と。

 実はユダヤ教徒もユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書かれていたけど、それは、例えば古典を読むような感じで読まれていて、ローマ時代などでも話し言葉はアラム語だというのが有力で、ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われているので、本当に胸熱。

 実は仏教、ユダヤ教、キリスト教の基層はササン朝ペルシャだったんじゃないのかな…その上にきたヘレニズムによって仏教では仏像がつくられたり、仏典が新しくつくられたり、キリスト教がユダヤ教から離脱したんじゃないか、みたいな。さらに、神殿を中心としたユダヤ教はそれ以上のグローバリズムに耐えられず、ローマに対して無謀な戦いを起こして離散した、みたいな。

 それを考えると、仏教の弥勒も、キリスト教の「人の子」もゾロアスター教の影響とかいう話しが凄く現実味を帯びてくるような(床屋政談ですが)。

  当時、仏典は口承伝承で伝えられ、知識も師から直接学ぶべきものと考えられていた。また、最初期の仏典はアーリア語で口誦されていたが、各地に伝播するにつれて、パーリ語、ガンダーラ語、サンスクリット語でまとめられていった、というのが前提。

 仏陀が没した後、弟子たちが仏典をまとめたという結集の意味は「共に唱えること」。マハーカッサパ(大迦葉)が各出家教団に法と律を唱えるためにラージャガハ(王舎城)に集まることを提案、実行された、と。

 出家者の規律である律はウパーリ(優波離、シュードラの出身)、教えである法はアーナンダ(阿難、仏陀の世話係)が答えてまとめられた、と(漢訳経典の冒頭の「如是我聞」は「我はこのように聞いた」という意味で、その我は多くがアーナンダ)。

 こうして、いったんまとめられると分裂していくのが世の常で、出家集団が各地に展開していく過程で「部派」が出現。紀元後4~5世紀まで「上座部大寺派」など五派が、結集された仏典の伝承を担っていると主張。「法と律」の枠組みから「律蔵、経蔵、論蔵」の三蔵の枠組みを作り出す、と。

 インド本土で仏教が滅んで以降、スリランカや東南アジアに伝承に伝承されるパーリ仏典の三蔵は、もともとスリランカの上座部大寺派が伝承。

 パーリ三蔵は1)出家者の生活規律と出家教団の運営方法を示した「律蔵」2)仏陀や弟子の教えを示した「経蔵」3)教理要綱の「論蔵」から成る。

 このうち、最初にまとめられたのは「律蔵」の経分部(出家者の生活規律)とけん度部(出家教団の運営方法な衣・薬などの使用方法)、「経蔵」の四部(経典)で、他の部派とも共通するので、ほぼインド本土で成立されたのは間違いない、と。その後に「論蔵」や付属する文書が追加された、と。他の部派でも似たような成立過程を経て、最後に「経蔵」へ小蔵を付け加えていった、と。

 教えである法に、各部派が付け加えていった小部に収録されている仏典は《もともと結集仏典に位置づけられなかったことを示している》(p.70)。こうした小部は基本的に韻文仏典であり、権威を持っていない、と。例えば、自己犠牲の話しなどは、他の伝承説話と共通するものが認められ、布教のために有効だと判断されて取り入れられた、と。
 
 これなんかは新約聖書でも、福音書の他に、いわゆるヨハネ教団が独自の書簡や黙示録をまとめたり、使徒の中でも別格の地位を占めていたパウロやペトロの名前をつかって新たな文書を各地の教会がつくっていった、という流れと似ているな、と。

 とにかく、こうしたことを前提に「仏陀が教えた」と初期仏教が伝承した思想に本書は焦点を当てていきます。キリスト教の世界では、一時「史的イエス」の再構築が盛んに行われました。様々なパピルスが残っていたことなどから、比較検討が可能と考えられたのですが、多くは「私的イエス」の造詣に終わっています。

 仏教の場合、数十年にわたるこうした「史的イエス」の試みの失敗を見ていたのか、最初から「仏陀の肉声を復元しようというのではなく」という姿勢なんでしょうかね(p.78)。学問の進歩を感じます。

 とにかく、そうなると教えである四部(四阿含)と経分部、けん度部が原型になる、と。

 四阿含に収録されている仏典は如是我聞という定型句から始まり、こうした仏典の名称としてサンスクリット語、漢訳、チベット語訳では阿含(伝承の意味)が使われている、と。

 にしても、仏陀の前世の物語として、自己犠牲を払った動物の話などが残されている、というあたり(p.72-)。現代において、数少ない経験ではあるのですが、インドの方々と接すると自己犠牲という言葉は全く感じられないのは、やはり仏教を放逐したからでしょうか(んなわけないかw)。でも、そのコントラストは実に見事だな、とw


 白眉は三章で文献学的研究の紹介するところですが、前提となるさわりを。

 19世紀に古くなった書物を捨て置く跡などから多くの写本が発掘されるなど、新約聖書の写本はパピルス断片を含めて膨大な数となり、それを元に本文批評が進みました。例えば割とフツーの人たちも感動してSNSなどでも引用されるぐらい有名な「罪のない者だけが、この女に石を投げなさい」は後世の付け足しです。カトリックと多くのプロテタントが共通して使用している新共同訳はヨハネによる福音書8章のこの部分を[]でくくって、オリジナルのテキストでないことを一般信者にもわかるようにしているぐらい(原理主義的な福音派などはそうした処理はやっていません)。

 こうした聖書の研究は、近代とともに始まりましたが、当初は死をも覚悟しなければならない作業でした。しかし、地道なテキスト探索(中東の古い修道院巡り)、市場の確立(こうした断片は高く売れますから)などにより、膨大な数のパピルス断片、写本などが集まり文献学的研究が進んだことが聖書学を学問として成り立たせる基礎となり、西欧社会を古い軛から解き放ちました(コーランの研究も進めば、同じようになることでしょうが、勇気ある研究者は少ないんですかね)。

 仏教は国家宗教とはならなかったので、弾圧・迫害に抗するようなドラマは生んでいないようですが、文献学的には同じような変化が150~200年遅れぐらいで起きているようです。それはアフガニスタン内戦がもたらしたものらしいというのが、死海文書が中東戦争の最中にもたらされたことに類似していて心が痛みますが。

 内戦で流出した仏典写本の中には日本画家、平山郁夫さんが手に入れたものもあります。

 なぜガンダーラ写本が重要かというと、ネパールや中央アジアのサンスクリット写本が7-8世紀につくられたのに対して、紀元前後から3~4世紀にさかのぼることができるから。死海写本はそれまで最古だったレニングラード写本を1000年ほどさかのぼるものでしたが、それ匹敵するような証拠となります。

 というあたりまでのことを頭に入れておいていただくと、以下の『初期仏教』第三章の意義がより深く理解できると思います。

 上座部大寺派、化地部、法蔵部、説一切有部、大衆部の五派が、法(ブッダの教え)と律(出家集団の規律)をそれぞれ再構成した三蔵を比較すると、四部(四阿含)と経分部、けん度部が結集につながる原型として考えられる、というのが前回までの話しでしたが、仏典結集の物語は「律」の末尾に置かれていた可能性が高い、と筆者はしています。

 また、律で興味深いのはブッダの伝記が含まれていること。

 本来、法(ブッダの教え)に仏伝は収められていてもいいと思うのですが、各派の四部=四阿含には様々な人物がやってきてブッダと言葉を交わして、ブッダが説法するというのが基本となっており、ブッダの生涯を追う記述はありません。

 そうした仏伝的記述が、戒律を示す「律」に収められているのは《出家集団が大規模となって受戒の制度が確立するまでの経緯を説明するために、「律」に仏伝的記述が組み込まれた》からではないかという平山彰の研究を本書では紹介しています(p.86)。

 五派の仏伝的記述を比較検討すると共通しているのは、悟りを開いた後の梵天勧請、転法輪、ヤサの出家、カッサパ三兄弟の回心、ビンビサーラ王の出迎え、舎利佛と目連の回心。

 これは新約聖書に喩えると、最初に成立したマルコによる福音書が、イエス伝をヨハネによる洗礼から十字架刑の後の女たちによる空墓の発見までしているという抑制された内容だったことに対応していると感じます。

 マルコに対応するのは仏教の場合、上座部大寺派のパーリ律なんでしょうかね。他の部では、化地部、法蔵部には釈迦族の系譜、誕生、成仏(悟りを開くこと)を付け加えたり、説一切有部、大衆部では人間界の誕生が加わります。

 新約聖書でも、マルコを参考にして後に書かれたマタイ、ルカではイエスの系譜、誕生物語、幼少期の奇跡などが加わり、さらにその後に独自展開をみせるヨハネ教団による福音書では有名な「初めに言があった」と原初までをも語るまでになってしまうことが似ているな、と。

 さて、共通する仏伝的記述では、ゴータマが悟りに達してブッダとなった(成仏)後に教えを説き始めているので、何を認識して悟ったのかは重要になってきます。

 それを成仏伝承としてみると1)四聖諦2)縁起3)五蘊・六処を認識することで悟った、と語られている、と。四聖諦は「この世は苦であり、苦の原因は煩悩だから執着を断って解脱する」みたいな話し。

 しかし、ガンダーラ写本には三蔵がまとまった形で存在していたことを示す写本はみつかっていません。

 でも、2世紀に安世高によって訳出された漢訳仏典や1~2世紀に著されたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)の『ブッダチャリタ(仏所行讃)』にも、四聖諦、縁起、五蘊・六処などの教えはみられるので、紀元前、大乗仏教の隆起以前に存在してただろう、というのが著者の立場です。

 『初期仏教 ブッダの思想をたどる』の目次は以下の通り。

はじまりの仏教
第一章 仏教の誕生
第二章 初期仏典のなりたち
第三章 ブッダの思想をたどる
第四章 贈与と自律
第五章 苦と渇望の知
第六章 再生なき生を生きる
ひろがる仏教
あとがき

 面白かったのは三章まで。それまでは初期の出家集団がまとめたと考えられる最古層のテキストはどう確定できるか、という方法論で、四章以降は、その教え。

 哲学も進化していくので、2000年前のナイーブな教えそのものにいま見るべき内容はあまりないのですが、それを書かないでおくのも不完全なので、まとめてみます。

[第四章 贈与と自律]

 当時の社会は輪廻思想を前提にしており、祭官への贈与で輪廻から脱出できるというバラモン教、苦行の末に脱出できるというジャイナ教の中庸を行け、みたいなのがブッダの教えだったと思われます。《仏教以前から存在していた先天信仰を、祭式から切り離し、贈与と良い習慣をその条件とすることによって「倫理化」した》(p.117)もので、《仏教の輪廻思想は先行する輪廻思想を継承したものであり、善悪の基準も、古代インド社会で広く認められた道徳と大差はない》(p.121)。

 仏教の独自性は行為(サンスクリット語ではkarman、パーリ語ではkamma、漢訳では業)を意思(サンスクリット語、パーリ語ともcetana)と定義したこと。意思を核にして行為論を組み立てたために、仏教は生命の範囲を植物には広げていません。また《自らの心を正すことで行為を正すことを目指しており、共同体の秩序に従うとか神の命令に従うといった他律ではない》ことも特徴でしょうか(p.123)。

 また、社会の混乱を回避するために合意により為政者を立てたという仏教的社会倹約論は北畠親房にも影響を与え、『神皇正統記』で仏陀も言及しているマハーサンマタ王を平等王と呼んでいます。マハーサンマタは大(マハー)衆によって認定された(サンマタ)という意味。また、法と貧者への施しを行った輪転王伝説を理想の為政者としていますが、日本でも徳川家康の日光の寺院は輪王寺と名付けられている、と。

[第五章 苦と渇望の知]

 仏教は輪廻の《主体としての「自己」を否定するいっぽう、諸要素の集合としての「自己」の存在は認め》ます(p.143)。

 生まれ死ぬ個体を「存在」(サンスクリット語ではsattva、パーリ語ではsatta、漢訳では衆生、有情)とし、個体は認識器官の束=六処(眼耳鼻舌身意)、身体と諸機能の合奏=五蘊であると理解します。

 つまり人間は六処などを離れて世界を認識できない、と。存在するのは個々の認識器官だけだが、しかもそうした器官は永遠ではなく、思い通りにはならず、自己ではないし、自己と思われている身体と諸能力も思い通りにはならない、と。

 さらに、執着することも苦であり、その原因は誕生で、繰り返される生存の原因として渇望を発見。つまり、主体としての自己の不在と諸要素としての自己の再生産という概念を打ち出した、と。

[第六章 再生なき生を生きる]

 本来は不在である自己なのに、さらに不確定な未来の自己のために今という時を使って行動すること=自己の再生産という運動は現代社会で全面展開され、生で唯一確実な死が無限に遠景化されている、と。

 それに対して仏教が究極の目的とる涅槃は自己を作り上げることの停止です。

 涅槃(サンスクリット語ではnirvana、パーリ語ではnibbana)は「消滅する」という意味の語根(va)から派生しているそうです。執着も元々は燃料であり、火を消すようにそれをなくせば自己の再生産は停止できるし、再度の死もないから涅槃は「不死」とも呼ばれる、と。

 そして渇望の停止は知的な認識=悟りによって実現し、それは欲望・生存・無知からの心の解放だ、と。

 将来に対する不安にかられている限り、再生産活動を続けることが求められ、アショーカ王の碑文には「未来恐怖経」という経典があるそうです。
 
 ちなみにカート・コバーンの「ニルヴァーナ」もここからとられていますが、英語では「ナヴァーナ」と発音されていて、どんなバンドなんだろ、と思ったこともありましたが、それも、もう30年近い前なんですね。諸行無常。

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August 29, 2018

『松竹と東宝』

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『松竹と東宝』中川右介、光文社新書

 これまでの劇評は役者や演出家中心だったけど、普通の劇評から見えない政治を描いてきた筆者が、ついにプロデューサーというか資本の立場から描いたのが本書。芝居はカネがかかるから客を呼ばなくては続けられない。江戸三座もゴーイングコンサーンに問題を抱えていた。個々の小屋では「大当り」「不入り」で不安定だった経営を地域独占にして役者のワガママを許さず、何が当たるかわからないので、出し物を常に提供して実入りをならしたのが松竹の兄弟。

 個々の小屋が独立して経営していると、手っ取り早く当てるためには人気役者の奪い合いになる。しかし地域独占で京都と大阪の小屋全てを傘下に収めれば役者の出演交渉は不要になる。やがて東京の歌舞伎座だけでなく全国の小屋も系列にして喜劇、文楽、新派も全部押さえた松竹兄弟は凄い。芝居小屋は役者が座主だったり、好き者の素人が乗り出してきたりして、プロの経営ではないから赤字に悩んでいた。そこに定時開幕、チップ不要など観客優先の松竹兄弟が現れ、赤字に悩んでいた芝居小屋の持ち主が我先にとばかりに松竹兄弟に小屋を売りまくり全国制覇するダイナミズム。小林一三はさらにその先を行こうとした。

 松次郎、竹次郎兄弟と小林一三は、水物だった芝居にゴーイングコンサーンの考え方を入れ、不要な支出を押さえ(経費削減)、観客優先で考え(収入確保)、役者のワガママを許さなかった(労務対策)。学のない松竹兄弟は無意識にやったことだけど、小林は資本も持つ大経営者。後の勝負はついていた。

 小林一三は鉄道経営に沿線開発、末端での娯楽施設と商業施設の建設という海外でも例のない「需要創造」をやってのけたが、経営不振に陥っていた東京電燈(後の東電)の再建でも電力需要を増やすために、後に昭和電工となる昭和肥料を設立している(p.282)。無から有を生む凄い経営者。

 いま日比谷にある東京宝塚劇場は東京電燈がNHKに売ろうとした土地。歌劇団としては浅草に建てるべきだったし、阪急としては東京に建てる必要もなかった。しかし小林は新しい「劇場街」をつくり、勤め人が仕事を終えて行きやすくした。複数の劇場を建てれば相乗効果で郊外の客も呼べると判断したという凄味。

 小林一三が文学青年だったのは知っていたが、慶應の学生時代、新聞にミステリーを連載するほどの腕前を持っていたとは(p.31)。裕福な小林一三に比べ松次郎と竹次郎の松竹兄弟は小学校から親の芝居小屋で働き、最初の旅興業で酷い目にあう。まさに対比列伝。

 小林一三の歌舞伎論も分かりやすすぎて痛快。歌舞伎に人気があるのは1)音楽を伴い2)唄いを伴い3)踊りがあり4)台詞も唄いもの的にメロディがあり5)動作と衣装、化粧が絵画的で6)題材が豊富で世界が広く7)全てが娯楽雰囲気にあること-の7点をあげており、見事に本質をつかまえている。

 宝塚も歌舞伎も子供の頃から見物していたのですが、宝塚に関してだけでも認識を新たにしたことはいっぱいあります。
・パラダイス劇場となった室内プールは傾斜がつけられており最初から冬場は興業を打つ構想だったこと(通説では小林一三が失敗を華麗に成功に逆転させた)
・1914年の宝塚第一回公演は「婚礼博覧会」の余興で「タダにしては面白い」という評価だった
・14-18年の64公演中、逸翁作は22作と1/3を超えるほどの熱中ぶり
・すぐに飽きられた歌劇団の救いの手は大阪毎日新聞とのチャリティーコラボ

 歌舞伎のこと知ってるようで知らなかった。
・息子を水難事故で失った大谷竹次郎は、一歳違いの児太郎を可愛がったが早世(その実子六世歌右衛門は長く歌舞伎の女帝に)
・兄の松次郎は鴈治郎と終生の同盟関係にあったこと(残念ながら映画初期に撮影した鴈治郎の舞踏は現像の失敗で残らず)
・松竹は東西の成駒屋(五世歌右衛門、初代鴈治郎)で持ったいたこと

 松竹はそれまで劇場に巣くってチップをせびっていた茶屋や案内役を廃し、役者には開幕時間を守らせるなど合理的な経営を進め、同時期に開業した帝劇は客席での禁煙を初めて実施とか、今では当たり前の劇場システムが確立されたのは、大正期だっかのかな。

 このほか、面白かったところを箇条書きで。

 小林一三先生が宝塚少女歌劇団のヒントとした三越少年音楽隊に、最年少の十歳で田谷力三がいたとは(p.128)。

 片岡仁左衛門が上方に居づらくなったのは、五世歌右衛門襲名問題で東京の福助に味方したから、というのも初めて読んだ。松嶋屋はこれで上方の役者連中から疎まれて東京に本拠地を移したらしい。孝夫さんあたりからかな、と思っていた自分が情けないw

 日本映画やハリウッドもダメになるときは一発勝負の大作で失敗した。映画でも松竹と東宝は、そんな一発勝負の大作を作ってないと思う。寅さん、マンガ祭りなどのシリーズで映画でも地道に稼ぐ感じ。ワガママを監督にも許さないから、競争率100倍の難関を通ってきた黒澤も干す。

 218頁からの小林一三先生の白井松次郎への公開書簡が面白かった。逸翁は長すぎる上演時間を短縮させ、安価に見せることが重要だとして、劇場の大型化と、それに伴う上演システムの変更を提案するが、松竹兄弟の会社は21世紀になっても長時間、役者を拘束し続けている。海老蔵がぶっ通しの上演に異を唱えて、1回は休みを入れているが、こうした反逆がどうなるか。

 松竹は映画製作にも乗り出すが、映画を完成させるまで社員や俳優に給料を払わねばならず、幕さえ開けば日銭が入る演劇とは違い収入にタイムラグがあって五世歌右衛門から撤退したらどうかと言われていたとは(p.215)。演劇部門は合名会社のままだったが、松竹キネマを株式会社にしたのは負債が膨れ上がっていたから(p.233)。

 小林一三先生が乞われて東京の電力会社再建に乗り出したのは、電力の鬼・松永安左エ門の東邦電力が殴り込みをかけてきたからだが、逸翁と松永は箕面有馬電気軌道が開業する際、大阪市議会に贈収賄まがいのことをして、共に逮捕されたという、臭い飯を食った仲だったとは(p.278)。

 最後の方でも長谷川一夫があんなに歌舞伎に出ていたとは知らなかった。初代鴈治郎の芸は名ばかり高く実際どういうものか分からないのだが、長谷川一夫に継承されたのかも、というあたりに膝を打つ。

 それにしても鴈治郎と長谷川一夫が両社にとっていかに大きなものだったか。しかし、松竹は鴈治郎に金銭的に報いることはせず、長谷川一夫もそうした理由で東宝に移るが顔を切られてしまう。宝塚起死回生の舞台となったベルばらの演出快諾は長谷川一夫が傷つけられても契約してくれた逸翁への恩義だったとは。

 小林一三先生が古川ロッパも後援していたとは知らなかった。都会的で新しいものには支援していたのかもしれない。
【い】いつも初舞台の気持ち
【ろ】論より稽古
【は】はね太鼓を聞いて帰る
などの「ロッパいろは歌留多」
 は現在でも宝塚音楽学校でも教えてるし、人材発掘とその活用策が凄い。

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August 25, 2018

とらきち家のチャーシュー麺

Torakichi_1

「とらきち家 」 横浜市神奈川区西神奈川3-1-1 045-491-5953

 激しい運動の疲れをとるために長く泳いで、いつものように家でプロテインを飲むかと思ったけどお腹空きすぎて「とらきち家」でチャーシュー麺をいただきました。

 チャーシューでタンパク質を取ればいい作戦。

  「とらきち家」はかつての家系の名店「六角家」の隣に開店した挑戦的な店です。

 結局、六角家は末廣家、とらきち家に挟まれて閉店。

 子供の頃からのジャイアンツファンだけど阪神は昔から鷹揚に許していたし、今や阪急HD傘下で宝塚と同格というか従姉妹同士みたな関係になったので無問題。

 今時の家系の暴力的なまでに端正なスープはかえしの強さが特徴でしょうか。

Torakichi_2

 チャーシューはスモーキー。

 肉厚で豚肩を使っている感じ。

 分厚い海苔、スープによく合うほうれん草も家系の証。

 大満足の一杯でした。

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August 18, 2018

末廣家の大盛りラーメン

Suehiroya_1
末廣家 横浜市神奈川区六角橋1-14-7 045-642-3400

 ジャンクフードはなるべく食べないようにしているのですが、夏の終わりも予感させるような空になってきて「そういえば泳いだ後のラーメンを今年はやってないな」と思いたちました。

 行列ができないうちに、と11時開店の5分前ぐらいに着くように、2000メートルぐらい泳いでから六角橋の「末廣家」へ。

 六角橋は閉店してしまった六角家、とらきち家など家系ラーメンが立ち並ぶところ。

 この末廣家は創業者である吉村氏から免許皆伝を許された者だけが許される直系店を名乗っています。

 スープは最近の家系らしくワイルドながらも雑味のない味。

 チャーシューはでかいのでモモ肉でしょうか。

Suehiroya_2

 それを薄く一枚載せています。

 麺は酒井製麺が家系ラーメン店に卸している約3種類のうち吉村家および直系店だけに卸している特注麺みたい。

 など、うんちくを語るまでもないんまいラーメンで、大盛り(麺硬め、味濃いめ、油少なめ)のスープも完飲しました。


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