April 12, 2021

『南北朝武将列伝 南朝編』亀田俊和、生駒孝臣(編)、戎光祥出版

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『南北朝武将列伝 南朝編』亀田俊和、生駒孝臣(編)、戎光祥出版

 「あとがき」にもあるように、一般にはあまり知られていない南朝の人物を含む31人を12人の研究者が最新の研究を踏まえて分担執筆したアンソロジー。花粉症に悩まされつつ、拾い読みを続けましたが、無類に面白いし、勉強になりました。

 例えば、南部氏。南北朝時代に南朝にかなり肩入れしていたということ自体、知りませんでした。南朝が劣勢になる中で最後は幕府側の足利直義と和議を結んでいるのですが、それまでの頑なさというか、融通の効かなさ加減は、幕末の貧乏くじまで引き継がれる感じがしました。

 この本は、月組公演『桜嵐記』の予習としても読んでいたのですが、上田久美子先生のつけた『桜嵐記』というタイトルは、南朝の盛衰と後南朝を扱った軍記『桜雲記』にインスパイアされているのかもしれないということを北畠親房編で知ることもできました(ちなみに成立は江戸時代前期で物語的要素が強いようですが)。

 また、北畠顕家が後醍醐の前で、陵王の入綾を舞ったということも初めて知りました。これだけで、いろんな妄想が沸き立ちます。蘭陵王は眉目秀麗な名将で兵士たちの支持は集めていたと思われるのですが、それを考えると増鏡の著者が顕家に仮託するものがみえてきそうです。それにしても北畠顕家が後醍醐の前で、陵王の入綾を舞ったというのは胸熱です。なにせ蘭陵王ですよ!

 「音容兼美」と史書に明記される美貌が敵を威圧するのに足りないことを嫌って、木面をつけて戦いに臨んだなどのエピソードとともに、主君に妬まれて悲劇的な最期を遂げたわけですから。どんな気持ちで舞ったんでしょうか。信長が敦盛を舞うシーンは様々な映像作品で描かれていますが、今後、顕家が描かれる時には蘭陵王を舞うシーンをぜひ観たいと思います。

 顕家は二度にわたって陸奥、出羽の武将を引き連れて近畿への大行軍を行うのですが、単にぼくの知識がないだけなのかもしれないけれど、陸奥、出羽から九州をまたにかけての騒乱の地理的規模の大きさと重要人物の移動の激しさは、「日の本」をかたちづくったというか、室町時代をその後の日本の原型とした要因のひとつなんじゃないのかな、と改めて感じました。

 南北朝武将列伝 南朝編』では、ありがたいことに父である楠木正成と嫡男正行、正行亡き後に楠木氏棟梁を継いだ三男の正儀(まさのり)の章がそれぞれ立てられています。

 戦前の気色の悪い皇国史観に厚塗りされていた感じもする正成ですが、最近の研究によれば、実は鎌倉幕府関係者であったことは疑いないとのこと。楠木氏は駿河で得宗家の代官をしていたという説もあるそうですが、永仁三年(1295)に父祖らしきものが乱暴を播磨ではたらいたという記録があるので、それ以前に一族は河内に拠点を移していたと考えられる、と。さらに、正成が「悪党」とし活動していたかどうかは不明であるものの、鎌倉幕府の御家人としての側面もあるなど、多面的な顔を持つ存在で、後醍醐との関係は天皇の笠置籠城の前には成立していた、と。鎌倉幕府を倒した尊氏や義貞も御家人だったので、正成が御家人であっともまったく不思議ではないという指摘にはなるほどな、と。

 また、尊氏とほぼ同格の破格な厚遇を受けたにもかかわらず、正成に後醍醐に対する「忠」が存在したかは疑問であり、不安定な建武政権を立て直すためには人望の厚い尊氏が不可欠だと考え、後醍醐に批判的だったことも『梅松論』から読み解けるとも。正成は様々な葛藤を抱きながら湊川の戦いで尊氏・直義軍に敗れて自害しますが、尊氏はいったんその首を六条河原にさらしたあと、子の正行に送ったことには、共感が読み取れる、と。正成は特殊な存在だったが、それは「忠臣」だからではなかった、と結ばれます。

 その子、正行は南朝の河内国司・守護として活動を開始。所領の安堵や給付の発給文書も残っていますが、北畠親房などによる主戦派に組み込まれ、挙兵の準備を進め、幕府方の隅田一族が籠もる隅田城(和歌山県)を攻め、紀見峠から南河内に入り、北上を続けます。幕府側も正成の進軍ルートを再現しようとする正行を恐れて細川顕氏、畠山国清を派遣しますが、これも撃破。幕府側はさらに山名時氏を加勢させオールスター軍団を編成しますが、正行はこの住吉合戦にも勝利します。これを受けて直義は幕府軍のエース、高師直・師泰兄弟軍の派遣を決定。

 正行は『太平記』のように死を決して四條畷の戦いに臨んだというより、若さ故の連戦連勝を過信して師直の首だけを狙って突撃するもあっけなく自害した、と。この結果、南朝は危機に陥りますが、勝った幕府側も最大の難敵を討ち果たした師直が増長することで、観応の擾乱を招く、というあたりは面白いな、と。

 亀田和俊先生の『観応の擾乱』では正行はわずかp.33-38の「四條畷の戦い」で描かれるだけです。安定した幕政を運営していた幕府にとって、正行の挙兵と細川、山名に対する連戦連勝は青天の霹靂で、師直と師泰を投入。正行は圧倒的な戦力差にもめげずに、四条隆資に師泰軍を牽制させつつ、湿地帯に尖鋭部隊を自ら率いて師直だけを狙って死闘するも敗れる、という部分。師直は後村上天皇が逃れた吉野を焼き払い、師泰は楠木一族の拠点に城をつくり残党を掃討する、みたいな。

 『南北朝武将列伝 南朝編』では、兄正行の死後、楠木氏の棟梁となった正儀(まさのり)も独立して取り上げられています。正儀は南朝の軍事責任者となるとともに、北朝・室町幕府との和平交渉担当者となります。幕府側も観応の擾乱で混乱し、かろうじて師直との抗争を制した直義は南朝との講和を望む時期でした。しかし、北畠親房らの主戦派によって講和交渉はちゃぶ台返しされ、この後、京都を四度、奪還するも、結局、正儀は南朝に見切りをつけて幕府に帰順。その後、再び、南朝側に寝返ったりしましたが、正儀が南朝大将軍を降りた時に南朝も終焉を迎えた、と。

 四條畷の戦いで正行と共闘した四条隆資編では、源氏物語などで有名な頭中将が、いまでえば大蔵省と防衛省の次官を兼務するような実質的にもの凄く偉い官職だったのを知りました。しかも、天皇の腹心が任じられるのか、と。

 このほか、[西国武将編編]で、なるほどなと思ったのは《南朝・幕府いずれに与しても一方からは攻撃を受ける以上、より優勢な側や好条件を提示した側に所属しようとするのは当然の判断》(p.295)というあたり。また、九州の南朝勢力が強く、特に菊池氏が最後まで支えたのは「中の関白家」の末裔という家伝を信じ、全九州に号令することが「歴史的使命」だったと考えていたから、だということも知りました(p.367)。さらに少弐・大友両氏が共闘の約束を果たさずに単独で九州探題を急襲して武時が討死したことへの怨念もあったろう、と。

 5月から公演が始まる月組公演『桜嵐記(おうらんき)』作・演出/上田久美子では、《南北朝の動乱期。京を失い吉野の山中へ逃れた南朝の行く末には滅亡しかないことを知りながら、父の遺志を継ぎ、弟・正時、正儀と力を合わせ戦いに明け暮れる日々を送る楠木正行。。度重なる争乱で縁者を失い、復讐だけを心の支えとしてきた後村上天皇の侍女・弁内侍。生きる希望を持たぬ二人が、桜花咲き乱れる春の吉野で束の間の恋を得、生きる喜びを知る。愛する人の為、初めて自らが生きる為の戦いへと臨む正行を待つものは…。「太平記」や「吉野拾遺」などに伝承の残る南朝の武将・楠木正行の、儚くも鮮烈な命の軌跡を、一閃の光のような弁内侍との恋と共に描く》とのことで、ぜひ、予習にお役立てください。

 室町前期というか南北朝時代は本当に複雑なので、もっと分かりやすいものを…ということであれば『講談社学習まんが日本の歴史(8)ふたつの朝廷』呉座勇一(監修) と先ほど紹介した亀田和俊先生の『観応の擾乱』中公新書の正行の部分だけでも読むと物語の背景が理解しやすいと思います。さらにもっとということであれば、『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで 』呉座勇一編集、朝日文庫あたりでしょうか。

第一部[東国武将編編]
南部師行―陸奥将軍府で重用された八戸家当主 滝尻侑貴
南部政長―糠部を支配する北奥の雄 滝尻侑貴
北畠顕家―若くして散った悲劇の貴公子 亀田俊和
伊達行朝―北畠顕家とともに転戦した奥州軍の中心 駒見敬祐
結城宗広・親朝・親光―信任厚い南奥の名門 駒見敬祐
宇都宮公綱―〝坂東一の弓矢取〟と言われた名将
北畠親房―後醍醐・後村上を支えた南朝の指導者 大薮海
小田治久―親房を助けた常陸南朝方の名族 中根正人
春日顕国―東国に散った村上源氏の血流 中根正人
新田義貞―運命を決めた三つの選択 谷口雄太
新田義顕・義興・義宗―義貞の恐るべき子どもたち 谷口雄太
余録 新田嫡流を支えた脇屋義助・義治 谷口雄太
宗良親王―東国各地を転戦した後醍醐の分身 牡丹健一
北条時行―南朝に投じた北条氏嫡流 牡丹健一
諏訪直頼―小笠原氏打倒にかけた生涯 花岡康隆
第二部[西国武将編編]
護良親王―尊氏打倒に燃える悲劇の親王将軍 牡丹健一
楠木正成―後醍醐忠臣という虚像 生駒孝臣
楠木正行―〝悲劇の武将〟の実像 生駒孝臣
楠木正儀―〝南朝将軍〟の虚実 生駒孝臣
四条隆資―各地の南朝方と天皇を取り次ぐ公家武将 花田卓司
千種忠顕―六波羅を落とした官軍の総大将 花田卓司
名和長年―三木一草最後の生き残り 生駒孝臣
大内弘世―防長を支配した中国地方の重鎮 萩原大輔
懐良親王―九州を席捲した征西将軍府の首領 三浦龍昭
菊池武光―征西府軍の中心となった〝九州将軍〟 三浦龍昭
恵良惟澄―分裂した阿蘇大宮司家 三浦龍昭

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"The Last Warrior: Andrew Marshall and the Shaping of Modern American Defense Strategy"(邦題『帝国の参謀』)

 

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"The Last Warrior: Andrew Marshall and the Shaping of Modern American Defense Strategy"Andrew Krepinevich, Barry Watts(邦題は『帝国の参謀』)

 ジムの有酸素運動でエアロバイクをこぎながらAudibleで「聞いた」本。

 "The Last Warrior"(邦題は『帝国の参謀』)の主人公、アンドリュー・マーシャルは孤児の移民からの叩き上げで、大恐慌時にはデトロイトの育ちます。ブリタニカ百科事典を購入するためにお金を節約したエピソードなどは印象的ですが、軍務を経て入ったランド研究所で22年間シンクタンクの戦略研究ディレクターとなったアンドリューW.マーシャルは、CIAの報告に不満を持ったキッシンジャーによって外部専門家として雇われ、以降、ずっとペンタゴンで過ごすことになります。

 当時、ホワイトハウスはソ連との競争を評価するための信頼できる方法を模索していました。マーシャルはその真っ只中で、内部シンクタンクような立場でデータ分析を担当。Office of Net Assessmen(総合評価局)の初代局長となり、半世紀以上にわたってアメリカの防衛戦略に微妙だが消えない影響を与えてます。仕えたのは12人の国防長官と8人の大統領。

 以降、ソ連のGDPをどう評価し、それと軍事費との関係で、軍事力をどう見積もるか、みたいな話しが続きます。CIAからはソ連の経済力を過大評価する資料が出され続いていましたが、マーシャルはソ連GDPが従来考えられていたよりもはるかに低く、その割には高い割合のGNPを防衛費にあてており、継続性に疑問があるとみなします。ソ連の防衛費の過大負担と社会への影響を看過しなかったことは、冷戦の最後の10年間の最も重要な貢献だったようで、これによりレーガン政権は「競争戦略」を仕掛けることで冷戦に勝利することができた、と。その手法は「ネット評価(net assessment)」と呼ぶ米国とソ連の長期的な軍事競争を理解するための新しい分析フレームワークです。それにしても、本書では主人公がマーシャルだから、民間セクター出身者は意外と硬直的にみてるみたいに描いてる感じで描かれていました。

 さらに冷戦が終結するとマーシャルは「軍事技術革命」(MTR)から「軍事革命」(RMA)と呼ばれるようになった概念を提唱。これは、たとえばドイツがそれまでの騎兵隊を無意味にして、電撃戦が静的防御よりも優れていることを証明したことや空母が戦艦を時代遅れにしたときのように根本的な変化をもたらした、と。こうした考えによって一時期はお払い箱になりそうだったB-1やB-2などの爆撃機は開発が続けられました。マーシャルの観点では、陸海空などの個別システムごとに相手と対応するよりも、米国が有利であるか敵が弱点を持っている領域に努力を集中することが望ましい、と。

 この時、フォード政権下でマーシャルのONAに感銘を受けていたドナルド・ラムズフェルドが国防総省に戻ったことは幸運だった、と。戦略的バッファーと海外の同盟国を維持する「アドバンテージ主導戦略」によって、将来のアメリカの戦争を小さくし、イラクとの戦争がその正しさを証明した、と(しかし、失敗に終わったベトナム戦争や9/11後のアフガン・イラク作戦についての議論はほとんどありません。また、ワインバーガーはマーシャルの仕事をほとんど評価しなかったようです)。

 彼は中国がおそらく次の大きな敵であるという考えから、ペンタゴン語で中国の「アクセス禁止、エリア拒否戦略(A2/AD)」への対策も担当したようです。マーシャルたちは2000年ぐらいから対中戦略というか太平洋への戦力投射の強化戦略を考えていたんだなということはわかりましたが、オバマ政権でのその詳細は明らかにされていません。

 この本は加藤陽子先生の『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』朝日出版で紹介されていたので興味を持ちました。ペンタゴンのヨーダと呼ばれたアンドリュー・マーシャルは1)ドイツ軍はなぜ開戦当初。兵力で上まわる英仏連合軍に電撃戦で圧勝できたのか2)なぜ日米双方とも暗号を読み合っている中、真珠湾攻撃をふせげなかったのか、という二つの問題を考え続け、現実のソ連や中国の評価にフィードバックしていたそうです(p.279-)。ということでThe Last Warrior(邦題は『帝国の参謀』)をエアロバイクで有酸素運動しながらAudibleで「聴いて」みようと。

 マーシャルが最初につとめたランド研究所のウォルステッターは真珠湾攻撃を予測できなかったことについて『パールハーバー 警告と決定真珠湾の警告と決定』を描いています。米国側が真珠湾攻撃計画の警告サインを認識できなかったのは不要な情報ノイズか多すぎて、リーダーが情報を使用できなかったことが原因だとされています。様で不可解な状況を考慮し、偶発的な出来事に幅広い目を向けるためには、「ネット評価」のような大まかな方針こそが政策立案者に求められるのかもしれません。

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『新説の日本史』亀田俊和、河内春人ほかSB新書

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『新説の日本史』亀田俊和、河内春人、矢部健太郎、高尾善希、町田明広、舟橋正真、SB新書

 

・薬子の乱は太上天皇の乱で以降「太上天皇+天皇」ワンセットの統治から「お飾り天皇+摂関家」の摂関政治となった
・豊臣秀次は秀吉に抗議の自殺をしたから秀吉は一族を公開処刑にしなければならくなり政権基盤が弱まった
・関ヶ原が天下分け目の決戦というのは徳川史観、など

後半でも日米修好条約からの条約関連が最高でした。ハリスはキリスト教的倫理で幕府に対して色々アドバイスして、幕府も当時の状況を考えて起こり得ないところは大幅に譲歩して色々締結したけど、長州の攘夷実行で原資のない幕府が輸入税を20%から5%に下げて、結果、維新政府も苦しむとか。

元禄文化は上方だが、化成文化は大江戸の文化と書いていたけど、鶴屋南北の世界はなんとも不安な江戸末期の気分を表現しているのかも、と『桜姫東文章』を観て思いました。

紹介されていた資料の中で、すぐに手元におきたいとおもったのが『熈代勝覧』。日本史は素人だけど、良い本は紹介されている資料でわかる感じ。こんなに生々とした江戸の姿が1995年に再発見されるなんて…ありがたい限りということで『『熈代勝覧』の日本橋』小学館も購入しました。

以下は箇条書きです。

【第1章古代河内春人】

[新説1倭の五王は五世紀の「天皇」に特定できない]

父親から息子へという直系継承が強く意識されるようになるのは、七世紀後半から八世紀の初頭にかけて、天武天皇の皇統が直系継承を志向した時代と考えられています。つまり、実際には直系継承はこの時代の産物と考えた方が合理性が

まず「讃」について。訓読みでは「ホム(誉む)」と読みますが、これは記紀で応神のことを「ホムダ」(記では品陀、紀では誉田)と記すのと一致することから、「讃」は応神天皇を指すのだろうと考えられました。

「済」の音読みは「セイ」になりますが、これに当てはまる天皇の名前がありません。そこで、「済」という文字の字義が「(海や川を)渡る」であることから、港を意味する「津」の字が用いられている允恭に比定する考え方があります。允恭は記では「男浅津間若子宿禰」、紀では「雄朝津間稚子宿禰」と表記されています。

倭の五王もまた、高句麗や百済の影響を受けて対中国外交において「一字名」を用いたのだろうと理解できる

漢字の訓読みというのは、漢字の意味を理解したうえで同じ意味の和語を当てた、その和語の読みです。それが五世紀の倭国で成立していたとは、現在の研究水準では考えにくいところです。

新説2「薬子の変」は「平城上皇の変」だった

かつて「薬子の変」と呼ばれていたこの事件は、現在では「平城太上天皇の変」と呼ばれるようになっています。これは事件の首謀者が誰であったか、言い換えれば事件の本質はどこにあったかをめぐり、認識の変化があったことを意味しています。

律令などを読むと、天皇と太上天皇は区別されていないのです。

これは律令国家の成り立ちに由来します。律令国家で古代天皇制が成立したとき、天皇だけだと力不足だという局面があった。そこで前天皇である太上天皇が後ろから天皇を支えるという構造ができたのです。 言い換えれば、権力者を二人作ることで天皇という制度を支え、天皇権力が何らかの理由で不安定になる時期も、それを維持しようとした

七世紀までの王権において、大王の即位はおおよそ四十歳以上であり、それが適齢期と考えられていた

孝謙の場合、藤原仲麻呂という権力者との関係から、直系ではないが仲麻呂との関係が深い淳仁に譲位して太上天皇となりました。しかし、のちに孝謙と淳仁の関係は悪化し、仲麻呂が反乱を起こして致死すると、淳仁も皇位を追われました。

太上天皇と天皇が「親と子」「祖父母と孫」といった直系血統であれば良好な関係となりますが、そうでなければ対立しやすいという傾向が指摘されています。平城と嵯峨の対立、そして二所朝廷と呼ばれる王権の分裂状態を招いた根本的な原因はそこにあったと考えられる

八世紀以前、桓武朝までは命令伝達経路を担うのは女官の担当であり、男は排除された形となっていました。それが九世紀以降、嵯峨が蔵人所を設置したことで、逆に天皇周辺の命令伝達経路は蔵人になった男性貴族が担当することになり、その結果、天皇周辺に高級貴族が集まるという状況が生まれます。これによって、天皇周辺で政治が議論され、決定してゆくというスタイルが成立します。これこそが摂関政治を生み出したもとなのです。

「薬子の変」改め「平城太上天皇の変」は、その意味で太上天皇と天皇の「二所朝廷」の矛盾を明らかにし、のちの摂関政治に道を開く画期となったといえる

[新説3「国風文化」は存在したのか]

国風文化の一例としてかな文字が挙げられますが、かな文字が登場したことと、かな文字が主流だったということは、まったく別のことです。

奈良時代に比べれば、漢詩を詠む人自体は減少したかもしれませんが、中国・唐代の詩人、白居易の漢詩集などは、非常に人気がありました。

一〇〇六年には、海商の曾令文が藤原道長に『文集』を献上したとの記録があります。これは『白氏文集』のことで、『白氏文集』を道長に贈り物すると、商人に便宜を図ってくれるという意識があったことがうかがえます。同時に、道長にとっても『白氏文集』はそれだけ価値のあるものでした。

貴族文化に使われる道具や品自体は日本的なものでも、その原材料には中国渡来のブランド品が使われていたという例が少なくありませんでした。

朝鮮半島の新羅でも、国内の政情不安から中国に活路を見出した人々が唐の沿岸部に渡り、新羅人街を作ります。なかには結局は生活できなくて奴隷になってしまった新羅人の話も、日本から唐に渡った円仁という僧侶が残した『入唐求法巡礼行記』などの記録に出ています。

唐ではシルクロードの商人が唐に来ることは許していましたが、中国商人が外に出るのは認めてはいませんでした。 しかし、規制のタガが緩み国際商人の動きを国家が止められなくなってきたのが、九世紀段階の実情でした。

冒頭で、詩歌における国風文化の代表例として『和漢朗詠集』を挙げました。これは「和=日本」と「漢=中国」の詩歌を並べて論じるという意識の表れだといえるでしょう。

【第2章中世亀田俊和】

[新説4承久の乱の目的は鎌倉幕府の打倒だったのか]

後醍醐方が鎌倉幕府を滅ぼしたとき、実は滅亡したのは北条氏と長崎氏など一部の御内人だけで、他の武士、御家人は存続しています。

[新説5観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった]

かなり承久の乱の故事を意識しているということです。当時の軍忠状という、自分の軍功(手柄)を証明するための文書を見ると、自分の先祖は承久の乱で上皇方としてこんな働きをした、といったことが書かれている例をたくさん見ます。彼らの多くは、先祖が承久の乱で朝廷のために働いた故事と、自分たちの今回の戦功とを重ねて建武政権に上申し、恩賞を求めたわけです。

観応の擾乱の時期は、建武政権時代に匹敵するほど、あるいはそれ以上、恩賞充行の下文がたくさん出されています。恩賞関連の幕府法もたくさん出されています。つまり、武士の経済的な利益を与える政策が非常に重要だったということです。

しかしその結果、以前から尊氏が保持していた恩賞充行の権限も、直義は温存してしまいました。したがって直義は全国の武士の支持を集めることができず、最終的には敗北に至ってしまったわけ

これは、東に義詮、西に直冬という将軍の二人の子息を置いて、全国を支配するという直義の構想だったという見解もあります。

さらに師直は義詮とともに美濃などに遠征して、土岐周済を滅ぼします。義詮に武将としての実績を積ませるつもりだったのでしょう。

引付方では、訴えられた側の反論も聞き、両方の言い分を聞いたうえで判決を出しましたが、この御前沙汰では、基本的に訴えられた側の反論を聞かず、訴えた人間を勝利させてしまうという性格がありました。現代の感覚からすると、非常に雑な処置に思えますが、そうすることよって、所領をめぐる争いにより迅速に決着をつけることができ、費用もかかりませんでした。

第二幕に入ると、恩賞充行は一気に増加します。尊氏と義詮は大量の恩賞充行を実行します。それが第二幕における尊氏・義詮の勝利を導き出した

[新説6応仁の乱の主な原因は将軍の後継者争いではなかった]

義政は政知を支援するため、政知の後見役である渋川義鏡の子義廉に、斯波義敏に代えて斯波氏の家督を継がせました。そして足利成氏と近い関係にあった畠山義就を畠山家の家督から外し、政長を家督とする手のひら返しをしました。

【第3章戦国矢部健太郎】

[新説7戦国大名は「上洛」を目指してはいなかった]

上洛を果たした戦国大名は何人もいました。大内義興や木沢長政、三好長慶、斎藤義龍、六角義賢、上杉謙信(長尾景虎)などの名が挙がります。

戦国大名は自発的に「政権奪取」といった強い意図を持って上洛したのではなく、中央の将軍に呼ばれたから上洛したというのが、実態だったわけです。

実はその信長も、永禄二年(一五五九)、まだ将軍義輝の時代に最初の上洛を果たして義輝への謁見を果たしています。ちなみにこの年は、斎藤義龍、信長、上杉謙信が相次いで上洛し、義輝に謁見しています。いずれも義輝の要請を受けての上洛でした。

室町幕府の支配体制では、守護大名は在国ではなく在京が原則でした。それが応仁・文明の乱を契機として、守護大名が京都を去り、全国に散らばって戦国大名化したというのが、研究者の間の共通認識です。

天皇はもっと早くに政治力を失っていましたが、最終的に淘汰されることはありませんでした。室町将軍についても、状況としてはそれと似ているのではないでしょうか。

(しかし、室町将軍は)国家の運営が成り立たないような、そこまでの重要性はすでになかったともいえるわけです。

[新説8豊臣秀吉は甥の秀次に切腹を命じていなかった]

秀吉は、豊臣政権の大名支配のために、公家社会の伝統的な「家格」を活用し、自らを当主とする「豊臣摂関家」の下に、「清華成」「公家成」「諸大夫成」という階層を設け、全国の大名をその三つに振り分けたピラミッドを作り上げました。

無実の罪を問われた秀次は、自ら高野山に籠居し、秀吉が許してくれないことを見て取り、命を懸けて身の潔白を証明しようと、腹を切った。秀吉によって処刑されたのではなく、秀次の「抗議の自害」であったというのが、私の結論です。

文禄四年四月、すなわち秀次切腹の二か月前の段階で、大和の国主だった豊臣秀保が病死し、その後釜に秀次の息子を入れるという話があったことがわかったのです。大和は畿内の重要なエリアで、かつては秀吉の弟秀長が国主だったところです。そこを秀次の息子に託すということは、この段階でもまだ秀吉と秀次は、政権運営という点では、ある意味一枚岩であったということだと思います。

秀吉政権は、全国の大名を支配しながらも、一律の支配・統治ということはあまりせず、各地の有力大名の統治に任せるというのが基本でした。ただし、何か問題が起きればその大名を取り潰してしまうという前提でしたが。

生前の秀次が最後に見た秀吉の文書には、「高野山に住むように」という命令が書かれていたわけです。

もし秀次は秀吉の命令で切腹したのではなく、謀反の疑いをかけられた結果、自らの無実を証明するために抗議の自害をしたという「事実」が公表されるとどうなるか。

秀吉政権とは何だったのか。どのような性格や特徴を持ち、どのような問題を抱えていたのか、そして、なぜ滅亡したのか。こういった古くて新しい問題を検討するうえで、秀次切腹の真相を知ることは、けっして回り道ではないと、私は考えています。

[新説9関ケ原合戦は豊臣政権の内紛だった]

研究者の研究対象となってきたのは、実は近年のことです。

我々が知っている関ケ原合戦のイメージも、どうもこの「徳川史観」によって脚色され、あるいは改変されているのではないか。

家康が征夷大将軍となって幕府を開くというのは、この戦いとはまた別の次元の話であるということが、すでに定説化しています。

「天下分け目」といわれる関ケ原合戦とは、豊臣政権のAチーム対Bチームの戦いであったと見るべきなのです。

秀吉の死後、家康は伏見城にいて政務をとり、大坂城には豊臣秀頼と前田利家がいたとされています。しかし、あくまでも政権の中心は大坂で、家康はそこから隔離されたと考えるべきなのです。

家康としてはすぐにでも江戸に帰り、所領の内政を見たり、家中の態勢を整えたりしたいと思っていたはずです。上杉討伐は、豊臣政権の名においてなされた軍事動員であり、家康がその総大将となったわけですが、実のところ、家康は江戸に帰還するよい口実ができたと考えていたのではないでしょうか。

家康が当時、発給した文書を見てみると、どうも当初は、反乱を起こしたのは石田と大谷くらいだと思っていたようなのです。奉行の長束正家や増田長盛とは連絡を取れていたので油断していた部分もあったのでしょう。しかし、その数日後には、大坂方がこぞって自分に反乱を起こしたという事実が明らかになります。ちょうど小山評定が開かれたとされる時期ですから、家康は上杉征伐に出陣した諸将を離反させないため、この事実を隠したのだと思います。

(当時の大名たちは)公家の序列である「官位制」にならった「武家官位制」という秩序に組み込まれました。五大老と呼ばれる大名たちは、五摂家に準じる清華家に相当する「清華成」と呼ばれる家格となっていました。

やがて、福島正則や池田輝政といった豊臣恩顧の実戦部隊が、家康が率いる「豊臣正規軍」として岐阜城を瞬く間に攻め落とし、形勢が大きく変わります。大坂城には毛利輝元が入りましたが、城内の意思を決定することは難しかったようです。

大坂方は東西の決戦がこれほど早く訪れるとは思っていなかったのでしょう。大津城や田辺城攻めに兵を割いていたこともあり、決戦が近いという意識が希薄だったようです。

軍勢の数だけ見れば、実は秀吉の小田原城攻めではもっと大軍を動員しています。

幕府はさまざまな機会を通じて「徳川家康が関ケ原合戦で石田三成らを倒して征夷大将軍となり幕府を開いた」という物語に練り上げていったのでしょう。我々が関ケ原合戦を「天下分け目」の戦いと認識しているのは、そのバイアスの影響を受けた結果なのです。

高貴な家柄とされる清華家の人物を処刑するということは、何百年も行われてこなかった禁忌だからです。そして、家康は幕府を開くにあたり、この序列・秩序を引き継ぐ形で幕府の支配体制を整備しました。

秀吉が作り上げた武家官位秩序がある程度効力を持っている状況下で、豊臣政権を構成する大名間の争いがあり、徳川方と反徳川方の主導権争いが高じて、戦いに及んだのだとみなすべきだと思います。結果として、家康がその後の大坂の陣を経て独裁政権を作り上げたのは事実です。これはむしろ、関ケ原合戦以後、戦後処理を巧みに差配し、新たな政治秩序を作り上げた、家康の卓抜した政治力の賜物だと、私は考えています。

【第4章江戸高尾善希】

[新説10「御江戸」と「大江戸」は別物だった!?]

いわゆる「江戸の町」といって違和感なく受け入れられる史料といえば、近年になって発見された作者不詳の絵巻『熈代勝覧』だと思われます。

まず江戸城周辺が整備されて、明暦の大火を経て本所の開発が行われる。やがて隅田川の向こう側まで開発が進み、江戸時代の後期にもなると東西南北に都市圏

攘夷をするにしても上方でやるのか江戸でやるのか、そういうことで揉めたのが幕末でした。だからこそ新選組は上方での攘夷を選び、もともとは同じ浪士組で江戸に帰ったグループ(のちの新徴組)と袂を分かち、京都で活躍するのです。

元禄文化というのは明らかに上方の文化ですね。松尾芭蕉や近松門左衛門や井原西鶴といった人々は上方の人ですから。それが江戸時代後期になると、たとえば錦絵(浮世絵)も東錦絵などといって、よく参勤交代の武士や庶民が江戸に来たときの土産物にしたといいます。

初代家康も二代秀忠も三代家光も、京都に上洛して将軍宣下を受けていたのですが、それが四代将軍家綱になって初めて江戸在府のまま将軍宣下を受けたのです。

[新説11江戸時代の「士農工商」は身分ではない]

「士農工商」という言葉は、実は室町時代の僧侶で、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如の文章のなかに出てきます。正確には「士」は「侍」という字を使っているのですが、言葉としては十五世紀には存在したわけです。武士・町人・百姓という区分がありますが、これは間違いなく身分を指し示す言葉だといえます。しかし、「士農工商」は、どうも職や職能の違いを示す言葉のようです。

極端な話、江戸の大名藩邸の長屋から、三味線の音が漏れて外に聞こえてしまうとか、物干し竿が丸見えになってしまうといったことも、武士らしくないということで禁じられていました。

町人は町人役(国役)を払ったと言いましたが、これは非常に安いものでした。そのため、ときおり「冥加金」という臨時の資金供出を求められました。たとえば江戸城の堀を浚うなどの大きな工事、菱垣廻船を復興するときなどに、冥加金が賦課されました。

以前は、百姓というと農民というイメージで語られてきましたが、中世史研究の網野善彦さんが「百姓=農民ではない」と主張し続けたこともあり、現在では、百姓と農民を同一視することは少なくなりました。

【第5章幕末町田明広】

[新説12薩長同盟は軍事同盟ではなかった!?]

薩長同盟ももともとは、明治十年ごろに木戸孝允が「薩長盟約」という言葉を使ったところからクローズアップされるようになり、それ以降この「薩長同盟」が薩長間の融和の起点という共通認識になった、という経緯があります。

奈良原繁は、その後の大政奉還や王政復古クーデター後の薩摩の動向に非常に批判的であった人物です。武力衝突を避けたいという意志が強かったために、明治以降は冷や飯を食わされた一人で、高崎正風などと同じく大久保・西郷路線とは合わなかった人です。

形態からいっても、これは「覚書」程度のものと理解すべき

(薩長盟約の内容は)長州藩主親子の復権を朝廷に周旋するということです。そのことを約束したもの、それがこの六箇条の本質だと思います。

幕長戦争が起こったとしても、薩摩藩は局外中立を守って幕府側に立たない。それを言外に示しているのがこの六箇条ということです。薩摩が長州藩主親子の復権と官位復旧のために力を貸しますよ、というわけです。少なくとも薩摩と戦わなくてもいい、というのは長州にとって非常に大きかったでしょう。

(一会桑が)周旋尽力の道をさえぎったときには、ついに決戦に及ぶ、とあります。これをもって「軍事同盟である」という裏付けとしているわけです。

長州は、仮に出たくても出られなかったのです。これには二つの要素があって、一つは大村益次郎による軍制改革がまだ途中であったということ。もう一つは藩内の混乱です。この段階では、第一次長州征伐や高杉晋作の功山寺挙兵から続く混乱をまだひきずっていて、ようやく木戸体制にいけるかどうか、という段階

つまり長州藩の庶民たちは一揆寸前の状態になっている。そんなときに武士たちが上方に大挙したら、藩内で蜂の巣をつつくような騒ぎになってもおかしくはない。

つまり木戸は、六箇条を書き起こすときに「周旋」という言葉を「決戦」に変えているのです。

そもそも長州には一会桑と必ずしも「決戦」する意識はなくて、もし仮に長州藩兵が国を出て上洛して、そこに一会桑が立ちはだかったら、薩摩が一会桑と話をつけてやるよ、というレベルだったのではないかと。

幕府は勝手に転ぶだろうから、ここは様子見だという方針に従う態度を見せている。しかし、一方で西郷が黒田など、いわゆる西郷に近い人たちに送った手紙には、いくさもなくて退屈だ、長州ももう少し過激になってくれるかと思ったら案外おとなしくしているので拍子抜けだ、みたいなことを吐露しているわけです。

それまでは坂本龍馬が薩摩藩の意向を踏まえた唯一の存在として長州入りしていたわけですが、このあとすぐに村田新八と川村純義が出向きますし、桐野利秋や篠原国幹といった面々もやがて長州藩を訪れるという状況になっていきます。これを機に長州本藩と薩摩藩が結びついて、人的交流が始まったということです。

例の六箇条は龍馬が裏書を書いたことによって、長州で正式なものとして認められました。この事実を見ても、龍馬は薩摩藩士として動いていたと考えた方が自然です。

令和二年(二〇二〇)JR鹿児島中央駅前に建つ「若き薩摩の群像」に、「薩摩スチューデント(薩摩藩がイギリスに派遣した留学生)」の大石団蔵の像が追加されて話題となりました。この大石はもと土佐藩士・高見弥市の別名です。子孫のところに辞令が残っていて、彼は間違いなく薩摩藩に転籍していたことがわかるのです。薩摩藩お抱えの通訳・堀孝之もそうです。 ただ、そういったものが坂本龍馬や、龍馬とともに行動した近藤長次郎について見つかるとは思えないので、今後も実証されることはないでしょう。

【第6章近現代舟橋正真】

[新説14日露戦争で日本は情報戦に勝利した]

基本的な前提として、日米和親条約が締結されて日米修好通商条約へと続く流れがあるのですが、両者の間にある下田条約(日米約定)は意外に見落とされがちです。さらに通商条約の先には、改税約書(江戸協約)というものがあります。

その改税約書こそが、いわゆる不平等条約として広く知られている、ということになります。

当時、東アジア全体が海禁政策を敷いていたなかで、日本はその一形態であり、さらに厳しい政策、つまり鎖国政策を取っていました。

この下田条約が、結局のところ開国を示しているのです。なぜそういえるかというと、下田と箱館への外国人の居留を許可しているからです。また、長崎の開港なども認めています。

日本人が海外渡航を許されるのは、慶応二年(一八六六)の改税約書締結の直前です。これは英国駐日公使のハリー・パークスが日本人の海外渡航を認めるように幕府に要求するなかで、幕府としてはそれを改税約書の条文に入れたくないので、先手を打って解禁したわけですね。

通商条約が結ばれた安政五年の段階から考えると、まだ八年も先のことなのです。

通商条約を結んだ当初は、日本側としてもまさか外国人がピクニックで出歩くとか、そういったことは想像もつかないわけで、横浜で外国人が接すると考えられるのは基本的に商人と役人しかいないだろう、という前提でした。つまり日本側としてはトラブルを想定しにくいわけです。となると、トラブルは起こらないと踏んだ条項をそのまま認めることによって、ほかの条項でこちらの言い分をしたい、と考えた

つまり罪を犯したとすると外国人の殺傷です。当時の感覚からすると、犯人を捕まえたら生きたまま渡すことはないでしょう。そうした状況を鑑みると、領事裁判権云々というのをこの段階で考えろというのは土台無理な話であって、これをもって通商条約を結んだ岩瀬忠震たちが不見識であったなどと断罪するのは酷な話ではないか、という気がするのです。


輸入税率はおおむね二十パーセントある。これは、まったく不利ではありません。関税上、不平等ではないのです。 当時のイギリスの場合、輸入税は五パーセントです。これは大英帝国圏内の本国や植民地間で商品を自由にやりとりするための数字だと思います。一方で、産業革命が遅れていた新興国家であるアメリカは、当時の輸入税が三十パーセントです。非常に高率ですが、これは自国の産業を保護するためです。


ハリスにしても金の流出で儲けたりしてはいますが、ここでハリスとしては、貿易についてよくわかっていない日本人に対して、十パーセントや五パーセントなどの低い税率を押しつけて日本の輸入量を増やさせる方向に動いてもおかしくはなかったのです。しかし、そこは非常に紳士的に、ある意味保護貿易的な発想で守ってくれた。日本に対して、かなり親心を示してくれているといいましょうか。


改税約書ですが、これがなぜ不平等かというと輸入税が二十パーセントから五パーセントに引き下げられたからです。


改税約書の締結は慶応二年の五月ですが、ここで初めて文字通りの不平等になったと私は考えています。では、そもそもなぜ五パーセントになってしまったのか。これは明らかに、長州藩の賠償金の担保です。


不平等条約を結んだ幕府の姿勢を責めるということ自体が、まさに薩長藩閥史観だと思うのです。自分たちが原因で結ばざるを得なかった条約を改正するために、まさかその後の明治時代全部を通して苦労することになるとは、当時はまったく思っていなかったのでしょう。


日本は五パーセントの輸出税を取っていることです。つまり、輸出はしたくないのです。国のなかから物資を出したくない。だからハリスは「そんなことをやっても意味がないだろう」とたしなめた。それを幕府側、とくに責任者の岩瀬忠震などはわかっているのですが、あえてそれをやるわけです。


ます。当時のイギリスにしてもアメリカにしてもそうですが、彼らは純粋に貿易が目的であって、領土的野心とか植民地にする意思などはまったくないのです。これは西郷なども早い段階でわかっていますが、あえてそれを言うのは幕府を攻撃するためとか藩内の結束力を強めるためです。


ヨーロッパでは蚕が全滅しているという状況があり、実は太平天国の乱で麻痺している中国以上に日本は重要であると考えていたわけです。だから彼らとしても、日本という市場を荒らしたくない。内戦によって疲弊されるのは困るのです。


そうした事情を鑑みると、あの当時に通商条約を結んだ幕府の外交というのは、けっして不見識でもないし弱腰でもなかったと思います。


当時の目付や海防掛といった幕府の外交官は、かなりレベルが高いのです。


岩倉使節団が米国に渡航したときに、タウンゼント・ハリスが幕府外交官だった田辺太一からインタビューを受けているのですが、そのときにハリスは「岩瀬というのはすごいやつだった」と答えています。岩瀬との交渉のなかで、何項の条約文を何度書き換えたかわからない、と。それだけ鋭い外交官であったと評価しているのです。


彼(岩瀬)は横浜・江戸経済圏を確立することを企図していました。大坂に集中している富を江戸に持ってきて幕府を再興したい、と。


安政期の岩瀬と橋本左内、この二人を失ったことは、幕府にとって痛恨の極みだったと思います。


ローレンス・オリファントという随行員がいました。岩瀬はこのオリファントから英語を勉強しています。誰がどう見ても、岩瀬がこのあと失脚することは自明の理だった。にもかかわらず岩瀬は、交渉の合間に英語を教えてくれと頼んでいます-中略-オリファントは、後年に薩摩スチューデントが渡英したときに、寺島宗則を外務大臣に紹介するわけです。オリファントが日本人に対して信用を置いた理由の一つには、岩瀬の存在があったのではないかと思いますね。そんな岩瀬の弟子ともいえるのが、あの勝海舟です。麟太、麟太と呼んでかわいがっていたようです。

【第6章 近現代 舟橋正真】

[新説14 日露戦争で日本は情報戦に勝利した]

清国はイギリスなどの列強からの借款(外国政府に資金を融資してもらうこと)で賠償金の費用を賄っていました。それに対して列強側は、清国にお金を貸す代わりに租借地を得るなどして中国大陸に自国の勢力圏を築いていきます。こうして中国国土の分割が進み、清国は列強の半植民地状態になりました。

この頃、元老は満洲と朝鮮半島を切り離して考え、日本がロシアの満洲支配を認める代わりに、ロシアには日本の韓国支配を認めさせる「満韓交換論」を主張しました。当時の桂太郎内閣は満洲と朝鮮半島の権益を分けて考えることはできないとする「満韓不可分論」を唱えて元老と対立します。

たとえば協定を結ぶ際にはその協定の範囲を韓国問題だけに限定し、その枠内で日露が妥協すればいいというのがロシアの立場です。しかし、基本的に「韓国の完全確保」を目指している日本からすると、それは認めがたいものでした。

山縣をはじめとする元老たちは、漢城(現ソウル)に出兵し韓国を確保しないと、韓国がロシアの影響下に置かれる可能性があると判断しました。だからまずは韓国を確保するための限定出兵をすべきだと考えたわけです。韓国を得ることを目的にした限定出兵であればロシアとは戦争にならない、というのが元老側の基本的な考えでした。方、内閣側は、韓国に限定出兵すればロシアと戦争になる可能性が高いと判断していました。

ロシアの満洲の特殊権益と日本の韓国の特殊権益を互いに認め合うことを前提とした最終案でロシアとの最後の妥結を願うというものでした。一方、ロシア側はそれに対する回答をよこさず、交渉を先延ばしにしながら軍事行動の準備を着々と進めるという態度に出ました。そのため、二月三日にロシアの旅順艦隊が出港したという情報が日本にもたらされると、翌日、桂内閣と元老はいよいよロシアとの開戦の方針を固めます。 二月六日、日本はロシアとの交渉を打ち切り、国交断絶を通告しました。そして、二月八日・九日には旅順港・仁川港を攻撃してロシアの太平洋艦隊に大打撃を与え、制海権をほぼ掌握します。

ここにきてもロシアが強硬な態度に出たため交渉は難航しましたが、軍事的に勝利した日本側は、韓国の支配権、旅順・大連の租借権、満鉄、南樺太を獲得するなど、好条件で講和を成し遂げました。しかし、日清戦争時のように賠償金が得られなかった

一つだけ補足しておくと、乃木希典が奉天会戦で勝利した三月十日はのちに陸軍記念日になり、東郷平八郎が日本海海戦で勝利した五月二十七日は海軍記念日になりました。

乃木の戦いぶりからは、不屈の精神で犠牲を恐れず敵に突撃すれば勝利できるという精神主義が重視されるようになり、東郷の戦いぶりからは、優れた作戦と戦術が勝利をもたらすという戦術至上主義が重視されるようになっていったわけです。

当時明石がさまざまな工作活動に従事していたのは事実ですが、果たしてそれが日露戦争の帰趨を決し得る要因になったかは疑問です。それよりもむしろ明石が行った情報収集活動(欧米の新聞からロシア軍の情報を収集するなど)こそ、日本の情報戦に大きく貢献したといえるでしょう。

日本ではロシアのバルチック艦隊の将官の名前まで詳細に把握していたのに対して、ロシアは日本の各艦の艦長の名前さえ把握していなかったという話もあります。

[新説15 日米開戦の原因は組織の論理と責任のたらい回しだった]

日中戦争をどのように解決するのかという議論のなかで出てきたのが「武力南進論」です。

三国同盟はもともとアメリカと戦争するのが目的ではなく、むしろ戦争回避のための外交交渉力を高める(ドイツ・イタリアと連携してアメリカとの交渉を有利に進める)ことが目的だったわけです。

しかし、この「四国協商」構想は一九四一年六月に独ソ戦が始まったことであえなく破綻してしまいます。

この陸海軍の本音と建前、お互いが責任を押しつけ合っていた状況は、「陸海軍の不一致」という単純な論理では語れない部分があります。

(対米戦争やむなしという)この路線変更の理由については諸説ありますが、即時開戦を唱えた海軍の長老・伏見宮博恭王に嶋田が影響を受けたともいわれています。あるいは、日本が対米屈服した場合の全責任を海軍に押しつけられるのを拒絶したかったからだとも考えられます。当時は陸軍も、海軍も、あるいは内閣の各大臣も、責任ある立場の人間は、自分の意見・発言が「戦争回避の理由」にされることを恐れるという異様な状況になっていたわけです。

[新説16 昭和天皇は戦後も政治・外交に影響力を持っていた]

大日本帝国憲法下において、天皇は「統治権の総攬者」、つまり司法・立法・行政のすべてを「総攬」する存在でした。天皇に権力が集中していたわけです。すなわち国家元首ということになりますが、もう一つ、陸海軍の最高司令官としての「大元帥」という地位にもあったわけです。

象徴天皇の行為は、以上のように「国事行為」「公的行為」「私的行為」の三つに分けられる

まず、国策決定機関である御前会議がなくなります。そして新しい首相を宮中において決定するという権限も消滅-中略-元老・西園寺公望が亡くなったあとは、内大臣と首相経験者である重臣が、重臣会議を開いて候補者を決め、天皇に奏上するという流れ-中略-(しかし、戦後は)天皇を補佐する機関である枢密院や内大臣府も廃止されました。

終戦時に、天皇は皇族軍人を各地に派遣して、停戦命令を伝えさせています。その結果、停戦が大きな混乱もなく実現したことを、マッカーサーは高く評価していました。

芦田は、政治に関与しない、非政治的な天皇こそが皇室の存続や日本の国際的な価値にとって望ましいと考えたのです。しかし、昭和天皇は外相による内奏を強く望みました。一九四七年七月二十三日、田は内奏に疑問を抱きながらも参内し、昭和天皇に内奏をしました。天皇の権威の前に、拒絶することはできなかった

米ソ関係が開戦に至る可能性を認めながらも、起こりそうもないと述べます。天皇は、共産主義のソ連との協力は日本には難しいとして、アメリカに同調すべきであると述べたようです。 これはもはや、質問の域を超えた対応です。米ソ対立が顕在化したなか、日本はアメリカとの外交関係を基調とすべきだという、天皇の政治的な意思表明にほかなりません。

アメリカ軍による沖縄の軍事占領に関する天皇の提言を伝えました(シーボルトは翌日付でマッカーサー、二十二日付で国務省に報告しています)。

意思決定に誰でも影響を与へようとするのハ間違ひ」と寺崎に伝えています。これは、沖縄の米軍駐留や駐留方法は「米国の意思決定」にゆだねられるべき問題だとしている内容で、シーボルトからメッセージを受け取ったアメリカ政府内部からの、寺崎(天皇)に対する「警告」だという説もあります。

昭和天皇のこうした行動を制止することができる人間がおらず、天皇の共産主義への恐怖が優先されてしまった

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March 01, 2021

『律令国家と隋唐文明』大津透、岩波新書

Ritusryo

 本書は全体として、ヤマト王権がいつ唐・新羅連合軍に攻められるかわからない「極度の軍事的緊張」の中にみずからの失策で陥り、そこから脱却するために律令制の導入による中央集権国家づくりを急いだものの、丸のみではなく独自の制度を築いていった、という内容。

 メチャクチャ面白かったのは大陸、半島史とのからみのあたり。そこらあたりは複雑なので、いったん途中ですがまとめていたのですが、残りを忘れていましたので、最初に制度の独自な受容のあたりから改めて書いてみます。

 調はミツキと読み、それは「みつぎもの」からきており(p.86)、調は郡司など地方豪族が集め、天皇は神々に奉納して収穫に感謝して国家の安寧を祈ったものが基礎にあった、と(p.90)。

 日本では文書行政と言っても唐のように案巻処理は行われず、主典が文書を詠み上げて、それを長官以下が口頭で決裁した(宣という)。決裁の結果はその後に居合わせた官人が共知するという連帯責任制、というあたりも今に続いているのかな、と(p.101-)。

 長官が複数いるというのも日本古代国家の古くからの伝統だったようで、責任の所在が曖昧で、なんとなく空気で決めて連帯責任というのも古くからの伝統なんだな、と(p.103)。

 さらに、半島からの帰化人が墓誌に祖先は中国とするのは虚構ではなく、魏晋南北朝期の大規模な民族移動の一環であるという言い方にはハッとさせられました。五胡十六国で中原に流れ込んだ異民族が皆、漢民族になってしまったように、半島からの帰化人も日本の祖先になった、と(p.120)。ここらあたりは、ユーラシア草原史の行き着く先が列島史みたいな感じの本をいつか読んでみたいな、と思いました。

 さて、以前書いたものとは重複しますが、列島の半島、大陸との関わりの部分を改めて。

 当時のヤマト王権は蘇我氏などによる豪族連合。大陸は後漢が黄巾の乱の混乱などで220年に崩壊したあと長く分裂状態でしたが、581年に隋が300年ぶりに再統一。強大な統一王朝の出現を期に、半島の三国でも権力集中が行われます。これによって列島でも中央集権が志向され、蘇我氏が高句麗型の中央集権を目指すも、新羅型を目指した中大兄皇子による大化の改新のクーデターで天皇への権力集中が図られます。しかし、外交方針をめぐって混乱。

 唐・新羅との同盟を目指す皇極から譲位された孝徳天皇が第二次遣唐使を派遣するなど親唐派が権力を握り、百済派の中大兄皇子は皇極天皇とともに飛鳥に去るが、孝徳天皇が死去。中大兄皇子は皇極天皇を重祚して斉明天皇として即位させます。斉明天皇は半島を追われた扶余豊璋を百済王とする儀式まで行い、大国意識が肥大、唐との戦争に突き進むものの、663年の白村江で大敗。

 672年の壬申の乱で権力を握った天武天皇は唐との関係修復の機をうかがう中、則天武后は690年に国号を周として帝位に就きます。天武天皇は701年に第七次遣唐使を送り、粟田真人は倭から日本に国名を変えたとぬらりくらりと説明。周則天武后にも「容止温雅なり」と愛されたおかげで、白村江の戦いは不問にふせられ、白村江の戦いで捕虜になっていた者も連れて704年に帰朝、というのが全体の流れ。

 特に統一王朝である唐は、せっかく高句麗を討ったのに新羅が滅んだ高句麗王を柵封した行為を非難したのですが、再び権力を握った中大兄皇子が率いる改新政府も滅んだ百済の王を柵封する儀式を行ってしまったために、白村江の戦いまで行わなければならなかったのかな、とか愚考しました。

 念のため年表も整理しました。

618 李淵が即位、唐を建国

622 聖徳太子死亡。新羅が任那と倭国に遺使、仏像などを献上

624 高句麗、百済、新羅が入朝し柵封を受ける(推古朝は622に聖徳太子、626に蘇我馬子を失い、大陸情勢に対応できず)

626 李世民が内乱を収めて太宗に。

628 推古天皇死亡

629 舒明天皇が蘇我入鹿に推挙されて即位(対抗馬だった山背大兄王は643に蘇我入鹿に攻められて自害)

631 舒明天皇が派遣した遣唐使が長安に到着、太宗に謁見(「太宗その道の遠きを衿れみ」歳貢を免除)

632 太宗は御田鍬の帰国に合わせて高表仁を倭に派遣、高句麗攻めの協力を働きかける。しかし舒明天皇は臣下の礼で詔を受けるのを拒んだため、太宗の在位中に遣唐使を派遣できなくなる。

641 舒明天皇死去、中継ぎの女帝として皇極天皇が即位
 百済で義慈王が弟や重臣を追放して権力を集中

642 高句麗では宰臣が権力を独占して宝蔵王を擁立して権力を独占(もうひとつの新羅では王族の1人に権力が集中された)

643 百済や高句麗の政変を受け、蘇我入鹿は高句麗型の権力集中を目指して山背大兄王を攻め滅ぼす

644 太宗、対高句麗戦争を開始

645 中大兄皇子は新羅型の権力集中を目指して大化の改新のクーデター。皇極天皇は弟の孝徳に譲位

646 改新政府は玄理を新羅に派遣、任那を諦めることを伝える

647 新羅で反乱が発生したが鎮圧され、その立役者である金春秋が来朝(日本書紀では「姿顔美しく、善みて談笑す」と記す)

648 金春秋は唐に入り、高句麗包囲網を協議。倭は金春秋に太宗への書簡を託す

651 新羅は唐化政策を進めるが、改新政府は筑紫に来た使者を追い返すなど、一枚岩ではなかった

653 中大兄皇子は皇極などを連れて飛鳥へ遷る(孝徳天皇との外交をめぐる対立?)
 孝徳天皇など親唐派が第二次遣唐使を派遣

654 さらに、新羅・唐の同盟に加わることを目的に第三次遣唐使を派遣するも孝徳天皇が死去。中大兄皇子は皇極を重祚して斉明天皇とし、違う外交路線をとる

659 中大兄皇子が中心となった改新政府はそれまでの新羅経由ではなく百済経由で、蝦夷を連れた第四次遣唐使を派遣。高宗は未開の蝦夷が入朝したことを喜ぶ

660 唐は高句麗の前に百済を滅ぼすことを決めたため、百済派と思われた遣唐使は長安に幽閉される。百済は8月に討平される

661 敗戦国百済の受けた辱めをみせつけられた遣唐使は5月に帰国。しかし、斉明天皇はすでに臨戦体制を整え、九州で扶余豊璋を百済王とする儀式まで行い、後にひけなくなっていた

663 白村江の戦いで倭・百済連合軍は劉仁顧率いる唐・新羅に大敗

664 劉仁顧は新羅と百済を和解させ、倭にも使者を送るが、倭は文書も受け取らなかった。しかし、饗宴だけはして帰国させる

665 唐は再び使節団を倭に送る。さすがに今回は表函も受け取り、高宗が執り行う封禅の儀式への参加も決める
 高句麗では唐の侵入を前に内紛が発生

666 高宗は泰山で封禅の儀式を行う(新羅、百済、耽羅、倭の酋長を領して、会に赴く。高宗甚だ悦ぶby旧唐書)。唐に征討の口実を与えないような事実上の服属儀礼。
 唐は高句麗征討を開始

668 唐・新羅軍は平壌城を陥とす
 中大兄皇子がやっと天智天皇に

670 新羅は高句麗王を柵封した行為を唐が非難、対立へ。新羅は668-680の間に13回も倭に使節を送り、協力を要請

672 唐も倭に使節を送り協力を要請するも壬申の乱の直前なので倭は対応できず
 壬申の乱
 倭は兵を半島に送らず、新羅の外交が成功。以降、新羅は2-3年に1回程度、倭に使節を送るなど密接な関係続くが、倭は遣唐使を送れない状態が続く

690 則天武后が国号を周として帝位に(690-705)

701 第七次遣唐使が任命

702 唐に渡った粟田真人は倭から日本に国名を変えたとぬらりくらりと説明。則天武后にも「容止温雅なり」と愛されたおかげで、白村江の戦いは不問にふせられた

704 粟田真人、白村江の戦いで捕虜になっていた者も連れて帰朝

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February 22, 2021

How Democracies Die Steven Levitsky, Daniel Ziblatt、2018

How-democracies-die

 ハーバード大学の政治学者である著者は、民主主義の崩壊の過去の例を調べることによって、アメリカの民主主義がどのように脅かされているかを探ります。といいますか、トランプ時代の米国はもう民主主義の手本ではないと指摘しています。

 邦訳は『民主主義の死に方』スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット、濱野大道訳、新潮社。例によって、スポーツジムでの筋トレのあと、有酸素運動でエアロバイクをこいでいる間にAudibleで聴きましたので、正確なものではないかもしれませんが…。

 アメリカの大統領選挙の歴史などの部分は、レビツキーがインタビューに応じている『アメリカ大統領選』久保文明、金成隆一、岩波新書にも反映されていると感じました。といいますか、レビツキーの主張は、「大統領がメディアを攻撃し、対立相手を逮捕すると脅し、選挙の結果を受け容れない人物では、民主主義を守れない」というものでした。人はもともと情報を自分に都合がいいように錯覚する心の癖「認知バイアス」があるからニセ情報に弱い。これをうまく使ってデマや陰謀論で政敵を攻撃し、演説で国民を熱狂さ、大の内なる欲望を増幅してみせたのがナチスでしたが、いまやSNSで陰謀論のインフレ状態になっている感じでしょうか。
 
 民主主義はもともと、それを動かすためには軟らかいガードレールのようなものが必要であり、「永遠にプレーしつづけるべきスポーツの試合」のようなものだ、というのが著者たちの主張。ということは、逆に考えれば冷戦の終結以来、ほとんどの民主主義が政府の暴力的な転覆ではなく、民主主義の規範と制度の漸進的な弱体化によって死んだかをみれば反面教師になるハズだ、と。民主主義はガードレールを失うと弱い、とトランプを経験した21世紀に米国が直面している脅威を診断します。民主主義の規範(Democratic Norms)は破られることがあるんだ、ということは何回も強調されます。

 民主主義の規範(Democratic Norms)を重視し、民主主義を「永遠にプレーしつづけるべきスポーツの試合」とみる考え方は、個人的には丸山眞男の「永久革命としての民主主義」を思い出させてくれました。「未来に向かって普段に民主化への努力をつづけてゆくことにおいてのみ、辛うじて民主主義は新鮮な生命を保ってゆける」みたいな。

 この本にもどりますと、構成はやや重複も目立つ独立した9つのエッセイで成り立っています。前半では南アメリカなど民主主義が独裁的な指導者によってどのように損なわれたか、それと反対にアメリカの民主主義がそうした運命からどのように回避したかを述べ、後半は米国の危険を探る、みたいな。

 「はじめに」ではチリで1973年にピノチェト将軍が率いる軍隊がアジェンデ大統領を殺害し、国の支配権を握ったとき民主主義は劇的に終わったとしています。この「これは銃を持った男の手によって民主主義が死ぬ」民主主義崩壊のパターンは、20世紀後半から21世紀初頭の多く国で起こったのですが、民主的な衰退のプロセスは、陰湿なものになる可能性もありる、と。ベネズエラでは、より「本物の」民主主義が約束された後、反エリートのアウトサイダー候補であったウーゴ・チャベスが1998年に選出され、彼の大統領職を終わらせたであろう野党主導の国民投票を10年後には阻止するに至ります。チャベスの敵はブラックリストに載せられ、追放され、逮捕されてメディアは窒息させられました。こうしたステルスなプロセスは民主主義を殺すための一般的な方法となり、人々がそうした事態が起こっていることを認識するのを難しくさせ、ベネズエラは独裁政治国家として認識されるまでになった、と。

 1章で著者は、民主主義の崩壊の過去の事例が、アウトサイダーの影響力を抑えながらそれを利用することを期待して、現職者が大衆的な人気のあるアウトサイダーと組むことから始まった方法を説明します。しかし、こうした手法で世間から正当性を獲得することによって最も利益を得るのは反政府勢力です。しかし、政治家を評価するために開発された「リトマス試験」(権威主義的/独裁的な行動に関する4つの鍵となる指標)を使って潜在的な独裁者を特定することも可能で、1930年代のベルギーやフィンランド、20世紀のオーストリアなどの国のように、こうした罠も回避可能だった、と。こうした国々のエスタブリッシュメント政治家は、短期的には政治的損失を受けるものの、ライバルと協力することによって過激派候補の台頭を妨げました。反対に窮地に立った既存の伝統政治家らがアウトサイダーと安易にも結んだ「同盟」が、その後の民主主義の破壊にどれほど寄与することになったのかも語られます。

 2章と3章で著者はアメリカの民主主義が過激派候補を寄せ付けないようにした方法を調べ、それが政党の役割の議論につなげます。アメリカの民主主義は、独裁者になる可能性の経験していると指摘しています。しかし、そのような候補者は、政党のゲートキーピング機能によって権力を握ることを妨げられました。しかし、1960年代までの予備選挙・プライマリシステムの変更により、それ以降は多くのポピュリスト候補者がすり抜けることができるようになった、と。トランプはこれらの候補者の1人でしたが、共和党は明らかに権威主義的傾向があるにもかかわらず、ゲートキーピング機能を発揮することができませんでした。著者たちによると、トランプは独裁者のリトマス試験のすべての基準で陽性であると判断しています。

 4章と5章では民主主義を維持する上での制度と規範の役割が探求されます。裁判所などによっても独裁的な指導者を抑制し続けることが可能にはなっているます、しばしば民主主義を改善することを装って、独裁者たちは初期の段階ですり減ることができる、と。規範も同様に重要であり、独裁者による破壊に対しては脆弱です。著者は、特に相互寛容と制度的寛容の2つに焦点を当て、「歴史上最も悲劇的な民主主義の崩壊のいくつかは、基本的規範の低下が先行したことによるもの」と主張している。

 4章は1990年代初頭に権力を握ったペルー大統領のアルベルト・フジモリで始まります。政治経験のない大学人だったフジモリは、テロとの戦いと経済改革実施を約束することで、毛沢東派の「センデロ・ルミノソ」が率いる暴力的な反乱による脅威の中で勝利しましたが、「達成する方法については漠然とした考えしか持っていなかった」といいます。議会からの反対に遭遇したとき、フジモリはそれを激しく反発。選挙から2年後、フジモリは議会を閉鎖してアウトサイダーな暴君になってしまった、と。チャベスやフジモリのような権威主義者は、敵を侮辱的な名前で呼んだり、テロリスト呼ばわりしました。こうしたレトリックは社会を二極化し、不信感を助長します。民主政治の遅さに慣れていない権威主義者は、それが苛立たしい仕事であると感じ、社会の「審判」を重視する傾向にある、と。

 6章ではアメリカの民主主義の果たす役割を調べます。初期のアメリカの民主主義には、特に規範は強くありませんでした。しかし南部の州がアフリカ系アメリカ人から市民権と投票権を取り除くことを許可されるにつれて、規範が強化され、民主主義とチェックとバランスのシステムが確保された、みたいな。

 しかし7章では、共和党と民主党が司法を妨害し、政治家がライバルを裏切り者や反米主義者と呼び、大統領が議会を迂回するために大統領権限を行使したため、これらの規範がここ数十年でどのように崩壊したかを探ります。2016年、共和党上院がオバマ大統領の最高裁判所の指名候補者の審議そのものを拒否したときに、米国は明確な規範違反の事例を経験した、と。それは歴史的先例からの根本的な逸脱でしたが、そのルーツは1970年代にさかのぼります。ニュート・ギングリッチは共和議員に、礼儀正しさと超党派の協力の規範を拒否し、政治へより積極的なアプローチをとるよう促しました。このアプローチは、すぐにギングリッチが作成したトレーニングテープを通じて広められ、共和党の基盤における二極化と不満の波を利用する過程でアメリカの政治は変革された、と。このプロセスは、民主党員を非愛国的な人物と評することによって相互寛容の規範を弱体化させることであり、下院共和党員が政府を閉鎖しても、民主党員との妥協を拒否する行動パターンを正常化することによって制度的寛容の規範を弱体化さました。この「戦争としての政治」は、共和党の政治家たちがバラク・オバマの勝利の前後にこの言葉を使った2008年の大統領選挙で激化。こうした攻撃は、共和党の有権者と共和党の主要な役員に広く受け入れられたという点で、以前の不寛容さとは異なっていました。

 8章ではトランプがこのプロセスをどのように加速したかについても説明し、就任1年目に権威主義的な戦術本からさまざまな戦略を試みた方法について詳しく説明します。

 9章では米国の民主的衰退を逆転させるための青写真を提供します。それは、相互寛容と制度的寛容の価値を強調すること。著者は市民の多様な連合の必要性とともに、共和党の改革を提案。共和党の献金者や右翼メディアの影響を減らし、白人至上主義への依存を減すべきだ、と。最後に、政治家は、二極化と恨みを煽る拡大する経済的不平等を減らす必要があるとも述べています。

 

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『アメリカ大統領選』久保文明、金成隆一、岩波新書

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 こっちに載せるを忘れていたので…。

 米国の下院の任期は2年、大統領は4年、上院は6年。

 大統領選と同時に行われる下院ではだいたい大統領に選出された方が勝つけど、三権分立が厳く、大統領選挙で掲げたた公約はたいがい実現できないので中間選挙では負け、二期目の中間選挙でかなりの確率で負ける、と書かれています。トランプ陣営というか、共和党の幹部はここら辺を睨んで粘ったのかと思いましたが、最終的にやりすぎと判断されてジョージアで二議席をスイープされてしまったのは意外でした。分割政府の法案通過率はクリントン時代でも36.2%だったそうで(p.26-)、それを狙っていたんでしょうが、最後は自爆してしまいました。

 この本は一部が久保文明教授による大統領選挙の概説。二部と三部が『トランプ王国』の金成隆一記者による予備選、本戦のルポとスティーブン・レビツキー教授のインタビュー。四部が再び久保教授によるトランプ政権の評価という構成。

 印象的だったのはレビツキー教授のインタビュー。

 クリントンが当選した当時、有権者の73%が白人キリスト教徒でしたが、オバマ再選時はこれが57%まで落ち、2024年には50%を割る、と。《私は、これが政治的な激震の主因だと考えています。アメリカで白人キリスト教徒が、その支配的な地位を失うという移行(transition)です。私は、このような移行を経験した民主主義(国家)を他に知りません》(p.187)というのは重要な指摘だな、と。

 民主党は特別代議員というエリート(ゲートキーパー)が大統領候補を選ぶ際に大きな役割を果たしていますが《共和党の場合は純粋な民主的なシステム》で、門番の役割が弱まったのでトランプが選出された、と(p.182-)。

 圧倒的不利と言われたヒラリーとの大統領選挙で勝ち、再選に失敗したとはいえコロナの責任を問われる中、過去のどの職大統領を獲得したことのない7260万票を集めたという熱狂の背景には、トランプは自分たちの手で選んだんだ、という参加者意識があったのかな、と改めて感じます(単純にトランプを批判する人たちは、ここら辺は全く分からないんだろうな、とも)。

 スティーブン・レビツキー(Steven Levitsky)は『民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道』の共著があるけど、Audibleで聴くのはこの"How Democracies Die What History Reveals About Our Future" (with Daniel Ziblatt)にしようかなと考えています。

 大統領選挙の当日、トランプが優勢で開票が進む中、ほとんど勝利宣言をしたような時間帯は銀座で飲んでいました。その時、商社マンたちが止まり木で飲んでいて、PCなんかを見ながら盛り上がっていたんですが、中西部の速報を見て「これはトランプ勝ったな」とMAGAキャップを出して嬉しそうに記念写真を撮っていました。あまり語られない風景ですが、忘れがたかったので書いておきます。本の帯は「4年に1度、政治を変える」でしたが、「4年に1度、世界を変える」だな、と改めて感じます。

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January 27, 2021

『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』加藤陽子、朝日出版

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 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の続編という感じで、満州事変のリットン報告書、日独伊三国同盟、開戦前夜の日米交渉を取り上げ、一次史料を応募してきた中高生(一部、教諭)たちに事前に学習してもらい、研究者としての知見も披露した上で、質疑を交えながら加藤陽子先生が解説していくという講座をまとめたもの。

 2016年の8月に購入して読了、ざっくり面白かった3章を中心にレヴューをあげていたのですが、全体をまとめてるのは忘れていました。

 改めてドッグイヤーの箇所を拾い読みすると、最後の日米交渉が改めて出色の出来でした。ドイツが侵攻したことで、ソ連が瓦解しては困るユダヤ出自のモーゲンソー財務長官らの対日強硬派が「どうせ日本は仕掛けてはこない」として、日本と融和的なハルとローズベルトが夏期休暇中に管轄する外国資産管理委員会の権限で独断的に資産凍結と石油の対日輸出を全面禁止にしてしまったというあたりはスリリング。そして日本の国策を事実上、決めていた左官クラスが最悪の事態を考えていたようで、実は両論併記的に逃げているだけだったので、不意を突かれて対米英戦争に突き進んだ、みたいな構図が理解できましたた。つまり、真珠湾は日米双方の誤解が重なった結果だった、みたいな。

 そして、ペンタゴンのヨーダと呼ばれたアンドリュー・マーシャルは1)ドイツ軍はなぜ開戦当初。兵力で上まわる英仏連合軍に電撃戦で圧勝できたのか2)なぜ日米双方とも暗号を読み合っている中、真珠湾攻撃をふせげなかったのか、という二つの問題を考え続け、現実のソ連や中国の評価にフィードバックしていたそうです(p.279-)。このThe Last Warrior(邦題は『帝国の参謀』)は次に「聴いて」みようと思いました。

 現在にひきつけて読むと、日独伊三国同盟締結を承認する御前会議で天皇=原枢密院議長は米国が石油を禁輸したらどうする、と質問すると、松岡外相は国際連盟を脱退した時も日本に武器を売り込みにくる輩がたくさんいたと反論した、あたりが面白いかった(p.242)。確かに、最初の頃はそうだったかもしれないけど、本気を出されるとどうなるかまでは予想できていなかった、と。今の世界だと日本の石油=中国の半導体になるのかな、とか。

 この本の出た2016年は戦後70年でしたが、70年というのは、人間が健康で生きていることのできる平均値だみたいなことも書かれていて、妙なところで胸に迫るものもあったかな。

 以下、箇条書きで。

[国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき]

・日中関係が悪化していた時代、中華民国の憲法の大家となった張知本は、軍事権力を憲法でなんとか抑えようとして美濃部憲法学を批判的に受容していた(p.46)

・世界恐慌→列強のブロック化→日本も真似してブロック化するが失敗→武力を背景とした経済侵略という物語は、日本と植民地の関係を描いておらず、輸出など日本経済は強かった(p.54-)

・和辻哲郎は「国家は戦争において形成され、育成する」と書いているが、日本も白村江の戦いに負けて「日本書記」などを書いて国家として出発し、太平洋戦争に負けて新憲法を発布した(p.69)。そしてヘロドトスもトゥーキュデデースも戦争を描いて歴史の始まりとした(p.71)

・尊皇攘夷派は明治維新後「万国公法に従って交際を求めてくる相手を拒絶するのは古来の仁義に反する」と立場の変更を民衆に説明したが、こうした説明を国民にしなければならなくなったのが近代の証し(p.79)

[「選択」するとき、そこでなにが起きているのか リットン報告書を読む]

・人間が殺し合いをしてきた理由は恐怖と名誉心(p.108)

・リットン調査団が目指したのは日中が話し合いをする素地づくりで、それを国際連盟として提案すること(p.117)。ちなみにリットンは二人の息子を第二次世界大戦で戦死させている(p.131)。

・リットンは満洲への関東軍の無期限駐留はコスト的に高く付くとして、現在のPKOのような組織をつくってソ連や中国から守ることさえも提案している(p.173)。日本はこの提案をのんで、満州の権益を固持しながらも国際的により開放的な満州経営をしていく可能性はあった。

・昭和天皇は満州国のトップに張学良をおいてはどうかと荒木貞夫や真崎甚三郎に提案している(p.183)

・結果的に国際連盟を脱退する演説をしてしまった松岡洋右だが、当初は内田外相に「日本人の通弊は潔癖にあり」として八分目でこらえることが肝要だと電文(p.187)、日本の主張が受け入れられない場合は国際連盟がこの問題から面子を保って引き下がるように誘導することを目指した

・しかし、内田は国際連盟との妥協よりも、中国との直接交渉に活路を見出そうしてして失敗(p.194)

[軍事同盟とはなにか 二〇日間で結ばれた三国軍事同盟]

・1931年の満州事変とリットン報告書、1941年の日米交渉と太平洋戦争、その間になされた最も重要な決定が1940年の日独伊三国同盟で、その目的はヨーロッパと日中戦争にアメリカを介入させないこと

・同盟の必須要素は仮想敵国、参戦義務、勢力圏

・ソ連のポーランド、フィンランド侵攻とバルト三国の併合が行われる中で三国同盟は結ばれるが、ヒトラーの目的はイギリスへの圧迫強化。そのため9月からイギリスへの猛爆が始まり、日本にスターマーを使節として送り、20日間で条約完成

・日独伊三国同盟締結を承認する御前会議で天皇=原枢密院議長は米国が石油を禁輸したらどうする、と質問すると、松岡外相は国際連盟を脱退した時も日本に武器を売り込みにくる輩がたくさんいたと反論した、と(p.242)。今の世界だと日本の石油=中国の半導体になるのかな…

・日独伊三国同盟締結の前月(40年8月)、米国はようやく建国以来の志願兵から12ヵ月の徴兵を可決したばかりだった。しかも1年後に1票差で継続が決まるなど、戦争体制づくりは進んでおらず、共和党大統領候補は欧州派兵に反対していた。

・《日本やドイツなど、伝統的に徴兵制を採用していた軍隊を持つ国にとって、アメリカ陸軍は烏合の衆に見えてもおかしくはなかった》(p.249)。米国の準備不足が目立っていた上に、欧州戦争に巻き込まれるのを国民が嫌がっている最高の瞬間を狙ってたった20日で締結したのが日独伊三国同盟だった、と。

・日本は「バスに乗り遅れるな」ということでドイツとの同盟締結に走ったのではなく、その瞬間ならフランス、オランダ、イギリスが持っていた資源を手に入れられる=ドイツによる東南アジアの植民地再編を封じることが可能だったから(p.277)

・中共の勢力拡大を恐れた蒋介石は「桐工作」に乗って講和を進めようとするが、汪兆銘政権を承認しないという約束を交わしたのに、日本が承認してしまったためご破算に。

・ロンドン軍縮会議で5:3の海軍力をのんだ時点で、日本はアメリカと対抗する道を諦めなければならなかったし、その後の敗北を陸軍は明確に予想していた

・太平洋戦争末期、日本兵を南洋諸島で一方的に虐殺しまくった無敵の米軍というイメージが強すぎるために、烏合の衆というような見方はジョークとしても思いつきませんでした。また、当時の西部戦線でドイツと戦っているのはイギリスだけで、ドイツ空軍が英本土を爆撃しまくるバトル・オブ・ブリテンの真っ最中。誰の目にもイギリスの劣勢は明らかでした。

・そうした孤立無援の中で、チャーチルはローズベルトに英艦隊が独軍の手に落ちたら、それを使って米を脅すだろうと突きつけ、駆逐艦50隻の供与を勝ちとりました。凄腕です。もしそんなことになったら、太平洋には日本の帝国艦隊がいるわけですから、米国は挟み撃ちに遭うわけで、駆逐艦ぐらいは供与しますよね。また、三国同盟に関する関係官庁の課長級の会議(日本では課長級会議が実際上の政策決定を行います)で陸海軍、外務省の担当者が気にしていたのはほとんど、ドイツが進出して仏蘭インドシナを奪われないかなどの「戦後」対策。「バスに乗り遅れるな」という雰囲気はなかった、と。

・つまりこの同盟(1940年9月調印)はアメリカの参戦抑止を目的に締結されたものだが、アメリカを刺激し日本への石油、鉄の輸出禁止などの経済制裁が大いに懸念されており、陸海軍省の上層部や枢密院議長だけでなく、作戦を担当する統帥部の上層部も強い不安を抱いていた、と。その一方で陸海軍の左官級の実務を握る中堅層では彼らの考えでは、大戦終了後にイギリス、フランス、オランダの東南アジアにある植民地がすべてドイツのものになり大東亜共栄圏実現の支障になるので、今のうちに同盟を結び東南アジアは日本の勢力圏であることを明らかにしてドイツを牽制しておくべきとの考えが強く、日本からドイツに対して同盟の交渉を呼びかけてしまった、と。

[日本人が戦争に賭けたのはなぜか 日米交渉の厚み]

・日米交渉は1941年4月から最後通牒のハル・ノートの11月26日まで行われた。三国同盟締結の半年後に交渉が行われたのは、日中戦争の局面打開に米国の仲介を目論む日本と、ドイツの攻撃に苦しむイギリス支援のための作戦展開に向けた時間稼ぎという米国の思惑があったから(イギリス向け支援物資の援護に海軍を使わなければならず、太平洋方面は安定を望んでいた)。

・交渉はアメリカの交渉担当者であるハル国務長官による日米諒解案を元にスタート。日本は7月に松岡外相を更迭し元海軍大将で外相経験ありそしてローズベルト大統領と古い知己の間柄の駐米大使野村吉三郎を抜擢、場所は国家主義団体を警戒して終始ワシントンで行われた。ちなみに日米双方とも暗号はほとんど解読していた。

・日本は自ら戦争を仕掛けたとは思われたくないという行為を反復してきた。被動者の立場で、両論併記の文書を用意して状況が好転するのを待つというスタイルは日清戦争から(p.373)。

・7月には、米国は全面禁輸に踏み切らないだろうという目論見で南部仏領インドシナ進駐が行われた。これはドイツによるソ連攻撃の1ヵ月後で、ソ連が瓦解しては困るユダヤ出自のモーゲンソー財務長官らを刺激し、ハルやルーズベルトが不在の間に、自ら管轄する外国資産管理委員会の権限で独断で資産凍結と石油の対日輸出を全面禁止にしてしまった。

・事態打開のため近衛首相はローズベルト大統領にハワイでの首脳会談を打診し内諾を得たが、野村大使が米国メディアに会談のことを漏らしたために、日本の右翼国家主義団体が猛烈に反発。近衛暗殺や米国大使館襲撃事件計画などが発覚して、近衛とルーズベルトの会談は流れた。これは幕末に開国派の井伊大老が日米修交通商条約を無勅許で結んだ時に一気に爆発した尊王攘夷運動を似ている、と

・ハル・ノートの直前に日本が南部仏印から北部仏印まで退けば対日禁輸の一部を解除するという腹案をハルは持っていたが、チャーチルと蒋介石が反対したため諦めた

・最後通告の電報は全部で14通あり13通までは12月6日の早い時間にワシントンについたが、最後の大事な14通目は陸海軍の統帥部がぎりぎりの30分までは送るなと外務省に要求し外務省はその要求をのんだ。また、天皇宛のローズベルト大統領の12月6日午後9時の親電も陸軍は15時間も東京中央郵局に留め置くように指示し、アメリカ大使館に届く時間を引き延ばした。

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January 12, 2021

"Black Earth" Timothy Snyder(邦訳『ブラックアース ホロコーストの歴史と警告』)

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"Black Earth" Timothy Snyder(邦訳『ブラックアース ホロコーストの歴史と警告』)

 Audibleでエアロバイクこぎながら聞いた4冊目の本です。なんか邦訳は読まないでいたんですが、せっかくなんで原書を聞いてみました。

 なぜナチスドイツのように常軌を逸した残虐なユダヤ人虐殺が行えたかについては、官僚主義がそれを可能にしたという議論がありますが、スナイダーは「ヒトラーがユダヤ人との闘いはエコロジカルな問題だったと考えたから」と別な理解を試みます。そして、それが実際に行えたのは、ソヴィエトとドイツに二重に占領されて国家が機能を失った地域があったから、ということが歴史的経過とともに描かれています。

 ヒトラーの問題意識は、第一次世界大戦での連合国の封鎖中に50万人の死者を出したドイツの食糧供給不足を克服することでした。そのためには収穫量を改善するという、ある意味、自然に反する「緑の革命」よりも、広大な耕作地を持つアフリカと東ヨーロッパを征服する方がいい、というもの。そして、そこにはどちらも排除されるべき劣った人間以下が住んでいたと考え、東欧ではまずポーランド人、ウクライナ人、ベラルーシ人などスラブ人を従わせるような人種差別的な社会を作ろうとした、と。

 あるインタビュー記事でスナイダーは、ユダヤ人研究者による科学的な土地管理がドイツを肥沃にするという主張は、ヒトラーにとって「ユダヤ人が科学と政治を誤って分離したもので、進歩と人類のために紛らわしい約束をしていると考えた」としています*1。ヒトラーのエコロジカルな思想によれば、ドイツの自然環境が自分たちを養うことはできないから東部の肥沃な土地を必要としているだけなので、結果的にヒトラーは自然状態を血の海の中で作り出した、と。申し訳ないけど、こうした狂気は現代の環境ヲタクにもどこか通じるかも。

 そうした中でヒトラーにとってユダヤ人は普遍的でグローバルな敵であり、スラブ人のような単に劣った人種ではなく「非人種」であるという別のカテゴリーに分類されていたことも重要だった、と。バルバロッサ作戦の後、SS警備隊のタスクフォースとアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen、ドイツの保安警察 (SiPo) と保安部 (SD) がドイツ国防軍の前線の後方でユダヤ人など敵性分子を銃殺するために組織した部隊)は占領地域に住むユダヤ人を銃殺し始め、それは移動式ガス車の導入とベルゼック、ソビボル、トレブリンカに固定式ガス車センター開設へとエスカレート。毒ガスを伴うアウシュビッツは、このプロセスの集大成でした。

 そして、こうしたことが効率的に実行できたのは東ヨーロッパに地元の協力者がいたからで、一部はナチスが来る前にソビエトの秘密警察とも働いていて、ウクライナでの大量虐殺などは「共同創造物」とさえ見なすことができる、と。ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国では、ソ連が地元の政治機関を弱体化させることによって、ユダヤ人虐殺を準備した、ということが時間経過とともに描かれていきます(こうした主張に対してキリスト教の反ユダヤ主義の伝統がホロコーストを生んだことを過小評価しているという非難も出てきているようですが)。

 スナイダーは国家の問題を強調し「無国籍地帯」が現出したことで殺害が盛んになったとしています。ほとんどのユダヤ人は、君主制が率いる国の機関が残っていたベルギーとデンマークでは殺害されることを免れ、反ユダヤ的なヴィシー政権でも戦争を生き延びました。とてつもない出来事であるホロコーストを理解しようとするあまり、それを引き起こしたのは官僚的な国家だという一見、冷静な主張に対して、スナイダーはホロコーストは国家の欠如がもたらした、と主張していきます。反ユダヤ主義のレベルが著しく低かった国よりも、戦前に反ユダヤ主義のレベルが最も高かった国で死亡したユダヤ人の数が少ないことを研究が示しているパラドックスは、反ユダヤ主義それ自体がホロコーストの原因ではなかったから、みたいな。実際、ソ連とナチスによる占領によって国家体制が破壊されたエストニアと形式的にも維持されたデンマークを比べると、どちらも根強い反ユダヤ主義はあったものの、エストニアでは居住していたユダヤ人の99%が殺害され、デンマークでは市民権のあったユダヤ人の99%が生き延びた、としています。

 倫理的に反ユダヤ主義を批判するよりも、形式的な国家のあり方を問題にした方がいい、みたいな。これは確かに秀逸な議論で、あるインタビューで、スナイダーは「パスポートは防弾チョッキみたいなものだ」とも語っていました(ただし、1944年の上陸作戦が失敗したり、バルジの反攻が成功して戦争が長引いた場合、どこでも殺害が起こった可能性はあるかな、とも思いますが)。

 ただし最後の章で、スナイダーがホロコーストを「エコロジカルなパニック」として説明し、地球温暖化などについて言及しているのは疑問。中国やロシアはヒトラーがそうであったように、アフリカやウクライナを侵略しているのかもしれませんが、それは本当にホロコーストから学ぶべき教訓でしょうか。歴史的な議論を「我らの環境」的な議論に結び付けることはスナイダーの価値を落としたかもしれない、と感じました。『赤い大公』には興奮したし、『ブラッドランド』は凄いと思い、トニー・ジャットの聞き手となった『20世紀を考える』には唸りましたが、『ブラックアース』はどうも海外の評判がイマイチだな、と感じた原因はここらあたりかも。高い上下巻の邦訳を読まなかったのは正解だったかもと感じましたが、ヒトラー的恐怖症、不安症候群は、中共などが主導する限られた資源をめぐる闘争として現代の世界にも残っているのも事実かな、と。

 前作『ブラッドランド』でもソ連が1930-40年代にウクライナで意図的な飢饉をつくり、ナチスによるヨーロッパのユダヤ人の虐殺を可能にした、としています。今思えば、大量殺戮を食糧不足と資源の減少に結び付ける最後の章は、こうした傾向が『ブラッドランド』の隠されたモチーフだったのかもしれない、と思わせます。スターリンの赤軍粛清も含めてソ連がつくった裏口からナチスは入ったんだ、と。

 そしてポーランドと反ユダヤ主義の歴史に関する章は詳細です(ここらあたりも伝統的なホロコスト研究者は不満なようです)。

 ポーランドはユダヤ人が人口のほぼ3分の1を占めていたため、問題をさまざまな方法で解決したいと考えていた多くのポーランドの政治家やシオニスト運動、第三国定住、ユダヤ人国家の創設を促進しようとした人々について語られます。

 1930年代後半のドイツとポーランドの関係、ポーランドとポーランドとユダヤの政治の複雑な問題、特にポーランドのシオニストの浮気(ウラジミール・ジャボチンスキーの修正主義運動)などはもっと知りたいと思いました。

 とにかく、こうした章でスナイダーは私たちをポーランド政府の指導者たちと共に、パレスチナに関するドイツとポーランドの政策に関する時代、ポーランドの右翼シオニズム、イスラエル国家の概念に対するポーランドの関心、そしてドイツの計画への対処をみせせてくれます。ポーランド警察はナチのユダヤ政策の先兵となり、最初に粛清されたのはポーランド人エリート。ユダヤ人は排除されただけでした。

 もちろん、ポーランドではすでにゲットーにユダヤ人が集められていたという条件が、ヘウムノでガス車の使用が始められ、ガス使用の技術的改良とベルゼック、ソビボル、トレブリンカでの死の工場設立につながりましたが、ヒトラーは1938年にマダガスタルを含む地域にユダヤ人を移住させる計画立案を裁可しています(オリジナルのアイデアはもっと古くからあります)。仏領マダガスタル移住には英国の協力が必要だったし、イギリス軍と自由フランス軍が1942年にヴィシー・フランス軍からマダガスカルを奪取したことでこの計画は終焉を迎えましたが、その時、すでにポーランドでは、ユダヤ人はゲットーに集められていました。彼らをマダガスタルやシベリアに国外追放することが不可能になったことで、国外追放はの代わりに死の工場を作ることになった、という流れだ、と。

 イスラエルの戦争部隊、イルグン=エツェルは1931年に創設されましたが、最初はポーランドから支援受けていました。指導者は最初ジャボチンスキーでしたが、彼の死後は後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギンが後継者に。イルグンはパレスチナ内戦、第一次中東戦争では主流派ハガナーによるアラブ人住民追放計画の一端を担い、デイル・ヤシーン事件などアラブ人住民の虐殺も起こしたりします。

 また「ウクライナ人の中には、さまざまな方法でユダヤ人の根絶に参加した人もいました。ユダヤ人を集めてそれらの場所に連れて行った人もいれば、そこで銃撃した人や、ポグロムに参加した人もいました。そして、ウクライナ人の一部は、後にホロコーストの結果から生じるユダヤ人の財産または他のさまざまな方法を利用しました」というウクライナでの議論も印象的でした*2。

 結論での、ヒトラーはスラブはアメリカインディアンみたいなものだと思っていた、というのは驚きます。ヒトラーはヴォルガ川をミシシッピー川になぞらえ、ネイティヴアメリカンをスラブ人という図式を立てた、と。


*1
https://www.prospectmagazine.co.uk/arts-and-books/the-auschwitz-paradox-an-interview-with-timothy-snyder
さらにヒトラーの政策は「グローバリゼーションへの対応でした。ヒトラーは、限りある資源の世界で実際に起こっているのは、人種が土地を求めて、したがって食糧を求めて競争するべきだと言っていました。そしてこれが私たちの自然条件であり、これは自然の法則です」と語っています。そして「ますます無政府状態のゾーンがつくられていく中で、最終解決策が実際にできる方法を実験することになった」。ホロコーストは、人間が短い距離で人間を撃つ、ソ連での出来事から始まった、と。

また、ボルシェビキはユダヤ人であるというユダヤ・ボリシェビキの考えは、ヒトラーの妄想とソ連侵攻を結びつけた、と。


*2
https://ukrainianjewishencounter.org/en/timothy-snyder-double-occupation-eastern-europe-second-world-war-made-holocaust-possible/

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『テアイテトス』プラトン、渡辺邦夫、光文社古典新訳文庫

Theaetetus

『テアイテトス』プラトン、渡辺邦夫、光文社古典新訳文庫

 去年、コロナの流行り初めの頃、面白くないのでプラトンを光文社古典新訳文庫で読み直していたんですが、また、宣言などが出て、面白くない状況になってきましたので、まだ、まとめていなかた『テアイテトス』のことでも書いてみようか、と。

 小説ではないので、一度、読んだ本は気に入ったところの引用などをしつつ、まとめておかないと、何を読んだのかも忘れてしまうので書いているんですが、ここまで書かなかったのは、やっぱり、あまり面白くなかったから。

 本書は討論相手のテアイテトスの「知覚が知識だ」という提案が例によって否定されるんですが、それはプロタゴラスの相対主義だけでなく、ギリシャで支持を集めていたもうひとつの有力哲学説である「流動説」とも結びつく内容でしたので、それについての吟味がなされるというあたりまでは面白かったんですよ。

 しかし、有望だった「知識とは、説明規定つきの真の考えである」という考え方も否定され、結論は「したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる」という全否定。訳者の解説によると、議論は次の『ソフィスト』に持ち越されるという、随分、中途半端な幕切れなんですね(まあ、対話編はだいたいそうだと言われればそうなんですが)。

 この「説明規定」は「ロゴス」の訳語。「ロゴス」は《言語的な要素が深くからむ人間の歴史と、言語にかかわる側面が強い学問・知識の成り立ちを、語義に反映する言葉で》あり、「心のなかにつねに埋め込まれている、言語的な原初構造」という考え方にも関係してきます。「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という定義も否認されるのですが、その原因は《文字の読み書きや音楽といった、(話され、聞かれる)母語修得以後の初歩的学習からとられていたことにあります》。

 プラトンの原則《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《現代哲学の「ラッセルの原理」に相当する原理である。バートランド・ラッセルは、判断ないし想定について、判断者は判断の項すべてを知って(beacquaintedwith)いなければならない、と考えた》ことにも通じる、というあたりは面白かったかな。

以下は箇条書きで引用します。

[訳者まえがき]

《著者プラトンは、かつて自分が書いた初期の比較的短い作品群のなかで、「勇気とは何か?」(『ラケス』)、「節度(健全な思慮)とは何か?」(『カルミデス』)、「敬虔とは何か?」(『エウテュプロン』)、「美とは何か?」(『大ヒッピアス』)、「愛(友愛)とは何か?」(『リュシス』)、「徳とは何か?」(『メノン』)というように、もろもろの徳や徳に関係する価値を主題にして、ソクラテスを一方の対話者とし、かれが対話の相手に質問しながら議論するという趣向の対話篇を書きました》

《つぎにプラトンは、『パイドン』と『饗宴』に始まる中期作品群で、そのような否定的結論の作品と、いったん訣別しました。いわば一八〇度書き方を変えて、「プラトン主義」の源とみなされる数多くの積極的な(そして時に大胆な)主張を提出しました。しかし、その中期の最後の作品である本書『テアイテトス』は、もういちど初期の対話のスタイルに一時的に戻った作品です》

《自分が何をどの程度学ぶかで自分の運命全体が変動し、自分が社会に貢献できる事柄と、社会自体のあり方も変動しうるのです》

《中期の大著『ポリテイア(国家)』は、若者を段階ごとにどのように鍛えて、正しい知識に基づく人間形成と理想の共同体の建設を図るかということを、登場人物の「ソクラテス」に語らせる、壮大な作品です》

[導入部 テアイテトスとの対話]

《産婆は妊婦の身体に薬となるものをあたえ、まじない唄を歌って陣痛をひきおこし、必要を感じれば苦痛を和らげることもできる。また、産むのに難渋する女性が、なんとか産むようにすることもできるし、あるいは、胎児が早い時期で、流産させるのがよいと思われる場合には、流産させる》

註5《「かたち」と訳したのはeidosという名詞。日常的には「かたち」や「種類」という意味。プラトン初期では、たとえば徳目の「敬虔」について、「敬虔とは何か?」と対話相手のエウテュプロンし定義的説明を問うソクラテスは、さまざまな敬虔な行為など「多くの敬虔なもの」を一つにまとめあげる「かたち(エイドス)」を求めている、とエウテュプロンに説明した(『エウテュプロン』六D)。つづく『パイドン』『ポリテイア』などの中期のイデア論では、美や正義や等しさなどのイデアを表すひとつの表現として、このeidosが用いられる》

註7《プラトンの初期対話篇でソクラテスが主導する対話はほとんどの場合、対話の相手を難問(aporia)で困惑させ、主題となる徳や美や愛について、相手が「知っていたと思っていたが、じつは知らなかった」という消極的結末に至ることで終わる。「ソクラテス的論駁」と呼ばれ、積極的結論は導かれない》

註10《原語はeidola(eidolonの複数形)で、像のうち、実在の本質を映さないみせかけという意味》

[第1部 ]

《不思議に思うこと(タウマゼイン)は、知恵を愛する者に固有の経験》

《全体はそもそも動きであり、それ以外には何ものもない。しかし動きにも二つの種類があって、そのそれぞれが無数あるが、一方は作用しうる[生ませることができる]もの、他方は作用される[生むことができる]ものである。そして、[まったく新しいものを生み出す]これら同士の「交渉」と「相互の摩擦」から、数において無数の「子孫」が生じるのだが、それら子孫はすべて双子をなしており、一方は知覚されるもの[という子孫]、他方は知覚[という子孫]である》

《その一方で、知覚されるものの種類は、これらのそれぞれと生まれが同じであり、多種多様の視覚に対しては多種多様の色があり、多種多様の聴覚に対しては同様に、多種多様の音声がある。そしてこれら以外の知覚にも、それぞれ知覚されるものが、ペアとなるそれぞれの知覚と生まれを同じくするようなものとして、生じるのである》

《なにものも、それ自体としては一つのものではなく、「なにかにとって」つねに「なるところ」なのである》

註1《知覚している」の原語はaisthanesthaiで「感覚している」とも訳せる》

註2《「知覚」の原語はaisthesis。「感覚」とも》

註6《原語はphainetai(不定法はphainesthai)。「あらわれる」「みえる」「思われる」と訳せる動詞。これの名詞はphantasia「あらわれ」(ほかの哲学者の文脈では「表象」「想像力」という意味になることもある)で、ここでは知覚と区別されないが、つづく『ソフィスト』二六四A~Bでは、「知覚が関係するような考え(判断)(doxa)」という新解釈が示される》

註7《これは一五二C二で底本および旧版OCTに従ってgarという一語として読む読み方(有力写本はこの読み方である)による訳。議論の根拠と結論を逆転させ、g’ar(geara)のように、二つの小辞の組み合わせに読み直す提案も、複数の有力解釈者によってなされている。この提案に従えば、「したがって、温かいものやこの類いのすべてのものにおいて、あらわれと知覚は同一なのである。それゆえ、それぞれの者にとって、それぞれの者が知覚する、そのとおりに有りもするだろう」という意味になる》

註11《原語はkinesisで、「運動」「変化」を一般的に指す非常に広い意味の言葉。後に一八一B[二七節]以下で「場所の移動」と「性質の変化」に種類分けされる》

註12《原語の不定詞はgignesthaiで、「生成する」「生まれる」「つくられる」という意味の用法のほか、補語を取って「……になる」という意味の用法ももつ、きわめて広い意味の動詞。これの名詞はgenesisで、基本的に「生成」と訳すが、「何かになること」が適切な場合も多い》

註23《エウリピデスはアテナイの悲劇作家。ここで言及されているのは、かれの『ヒッポリュトス』六一二行にある「舌は誓ったが、心は誓っていない」という苦しい言い訳のせりふ。ソクラテスは皮肉を込めてテアイテトスに、ほんとうの矛盾ならば、単なる「口先で答えて逃げられる問題」では済まないと言っている》

註32《白いものを見るとき、ここでのプラトンの説明では、眼からも、見られる対象からも、何かが、互いのほうに向かうように動く。そして、一定の近さになったとき「視覚経験の成立」が起こり、視覚に白いものが見える》

註44《有」の原語はousiaで、この名詞は「ある」「有る」を意味するeinaiという動詞に対応する抽象名詞である。日常的には「財産」などの意味だが、プラトンとかれ以後、哲学用語として活用され、プラトン哲学では「有」「実有」などの日本語訳があてられる(アリストテレス哲学では「実体」「本質」「本質存在」などに訳される)。『テアイテトス』のこの箇所では、「有」は「真理」に近い意味内容であり、それが各人に相対化され、「太郎の有」「花子の有」などとされる。そして、太郎自身、花子自身にとって誤りえないものであり、それゆえ他人によっては反証されない「知識」だということが、結論的に述べられている》

註45《原語はamphidromiaで、新生児が誕生した数日後女性たちによっておこなわれた当時の儀式》

[第一定義の批判的検討]

《この世からあの世へと、できるだけ早く逃げようとしなければならないのです(51)。そして、逃げることとは、できるかぎり神に似ることです》←トマスのインド格言に似ている

《むしろ、この説を語る人々は、なにか別の言語をつくらなければなりません。現状ではかれらは、かれらの想定にかなうような言い回しをもっていないのですから》

註1《「判断する」の原語はdoxazeinで、名詞doxa(「考え」。次注参照)からできた動詞。doxaはまた、「第一部 一」注19の動詞dokein(「思える」)とも語源的につながる。プロタゴラス説は「万物の尺度は人間である。太郎にあらわれるものは太郎にとって有り、花子にあらわれるものは花子にとって有る」のように「あらわれる(phainesthai)」を使って表現されたが、「太郎に思える(dokein)ものは太郎にとって有る」というようにも言い換えられるとソクラテスたちには理解されている》

註2《「考え」と訳した原語はdoxa。「思いなし」「思わく」「判断」等に訳されうるが、『テアイテトス』では、「知識(episteme)」との強い対比を含む「思わく」「臆見」(英語ではopinion)の類いはふさわしくない。ここや第二部冒頭における議論から、動詞doxazein「判断する」との関係が強いと考えると「判断」だが、思考活動としての「判断」では、「知識」という状態との関係がみえにくい。そこで一般的な「考え」で訳す》

註3《原語はdialektike。対話的問答を通じて互いを吟味するソクラテス的方法。『ポリテイア』第六巻五一一Bとそれ以後では、哲学の代名詞のようにも扱われた》

註27《これがこの箇所の議論の大枠である。〔A〕プロタゴラスが言うように人間は全員、真を判断するとしても、人間は真と偽の双方を判断するし、〔B〕大多数の人間が前提とするように人間は真も偽も判断するとすれば、[当然]人間は真と偽の双方を判断する、ということ。〔A〕の部分は、プロタゴラス説が自分で自分に反対する結果となる(「自己論駁的」である)という趣旨である。非常に強力な反論にみえる。しかし、逆にあまりに強い議論にも思えるはずである。そこでその成否が論争の的になっている》

註29《原語はtaontadoxazein。最初「それぞれのものはわたしにあらわれる(phainetai)とおりに、わたしにとって有り、きみにあらわれるとおりにきみにとって有る、しかるにきみもわたしも人間である」(一五二A[八節])と、別の動詞で言われていたこと》

註36《「有益な」事柄(sumpheronta。一七七D[二六節]では同義語としてophelimaも用いられる)と、後の一七七Dの「善い」事柄(agatha)は、ほかの正しさや敬虔や美しさとは違って、万人が尺度になれる相対的なものではなく、(絶対的に)より正しい考えがありうる例外的な事柄であるとする。この部分的な理論修正により、善さと有益さについて知恵があるソフィストは、身体状態にかんする例外の「健康」と「病気」の専門家の医者と同じように、人々とポリスの善さについて特権的な知恵をもちうると主張できることになる》

註37《原語はousiaで、ほかの箇所では、おもに「有」と訳した言葉。ここでは意訳》

註42《原語はdeinosで、善い目的のための頭のよさ、ないし思慮深さも、邪道な目的のための「ずるがしこさ」「狡猾さ」もこの言葉で言える。「恐るべき才能の人」という含みの言葉》

註52《「人間は神の似像とならなければならない」という脱線議論の主題(『ポリテイア』第六巻五〇一B、『法律』第四巻七一六D参照)がここで明示される。「脱線」ではあっても、この議論で集約されるプラトン主義の趣旨はその後の古代世界に大きな影響を与え、アリストテレスも新プラトン主義も、またキリスト教プラトン主義も、ここの議論をプラトンの基本的な教えとして理解した》

註53《ホメロス『イリアス』第一八巻一〇四行などから多少変形して引き継がれた、「まったくのダメ人間」に当たる表現》

註54《『パイドロス』二四三E~二五七Aにおける神話的説明によれば、平凡な人々や悪徳の人の魂は死後、生きていたあいだ送っていた生にふさわしい地上の生活をそれぞれ送らざるをえないが、知恵を愛し徳のある生活を送った人は、死後のそうした輪廻転生を免れることができる》

註55《脱線部分以外の『テアイテトス』の議論が、プラトン周辺の当時の知識人にとっても新鮮で、きわめて高度であったことの示唆》

註74《プラトンのこの箇所は「運動変化の分類」の歴史上初めての試みのひとつ。アリストテレスは『自然学』第五巻第一章などにおいて、「動き(kinesis)」として、ここで分類された「変化(性質変化)」と「移動(場所移動)」のほか、「量的増減」を加え三種類とした。かれはその上で、実体そのものの生成と消滅をも、これらとともに広義の「生成消滅、運動変化(metabole)」の種類とみなした》

註76《原語はpoiotesで、ここ以後「性質」を意味する術語となった。疑問詞poios「いかなる?」からつくった抽象名詞で、原語を直訳すれば、「いかなるものであるかということ」程度の意味である。ラテン語でも対応する語源関係から、qualis「いかなる?」→qualitas「性質」という術語が使われた。そしてこれが、qualityなどの「質」「性質」を意味する現代欧米語の語源》

註81《ここに書かれた事情から、知識論の『テアイテトス』につづいて存在論の『ソフィスト』が書かれなければならなかったと推測》

[第二部]

《つまり、一言で言って、自分が知らない、また自分がかつて知覚しなかったものについて、今われわれがなにか健全なことを語るとすれば、だれも誤ることもなければ、虚偽の考えもないように思える。 しかしこれに対して、われわれが知っており、かつ知覚もしているものについて言えば、まさにこれらの対象の場合に、考えは、曲がりくねりながら、虚偽にもなり、真にもなる。すなわち、考えが結局、まっすぐ直線的に、固有の過去の経験の印章と固有の現在の印とを一つに合わせる場合には、真になるし、斜め方向に逸れた場合には虚偽になる》

註9《原語はdianoiaで、以下の一八九E~一九〇A[三二節]において、心のなかの無言の対話問答の過程として規定される。そして、その過程の結果出される心の結論が、考え(doxa)とされる》

註12《思考dianoia」という心の対話問答の過程の末に心が一つの結論をきめるときに、心のなかにある結論の「言葉logos」が「考えdoxa」である、という説明。『テアイテトス』のこの箇所と一見よく似た主張が、つぎの『ソフィスト』二六三E~二六四Aでも述べられる。ただし『ソフィスト』では、「logos」は「言明」ないし「文」であり、「なにかについて・なにかを・語る」という基本構造のもとで押さえられる。そして、自己との対話のような思考過程を経た「doxa」も、「なにかについて・なにかを・判断する」という主語と述語の構造をもつ「判断」であり、同じ基本構造という限定のもとで「言明logosの一種」だとされている》

註17《ムネモシュネは神ウラノス(天空)と女神ガイア(大地)の娘の女神で、その名は「記憶」を意味する》

註30《原語はhexisで、ekhein(英語のhaveにおおむね相当する動詞)の抽象名詞。ここは哲学用語としての用法の始まりの箇所の一つで、以後アリストテレスたちにより「状態」「性向」等の意味で術語的使用がなされる。ラテン語ではhabitus。以下の議論では「もっていること」という意味だが、「かつて獲得して、今所有していること」との対比で使われている。なお、hexisとekheinには「服を着ている」「手にもっている」など現に身にかかわってその活用ができるという含みがあり、この含みから、買ってすぐに衣装棚にしまい込まれた服や、ただ単に鳥小屋で飼っている自分の鳥を「もっている」とは言わない》

[第三部]

《それではきみには、この説は、気に入ったのだね? そしてきみは、「知識とは、説明規定つきの真の考えである」と定めるのだね》

[第三定義の批判的検討]

《三つのうち、少なくとも一つを「説明規定」と考えるのだろうと、われわれは主張したのである。テアイテトス はい、よく思い出させてくださいました。そのとおりでしたね。まだ一つ残りがありました。 一つは、声に映し出された、思考の像のようなもの、もう一つは、「字母を通じて事柄の全体に至る踏破」と今言われたばかりのもの》

《「知識とは何か?」と問われて、「差異性の知識がついた正しい考えである」と答えようとしているように思える。この説によれば、これが「説明規定の付加」になるからだ》

[結論]

《したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる》

註3《「バシレウス」は「王」を意味する言葉だが、王がいなくなった民主制のアテナイでは、「バシレウスの柱廊」は、司法の役所のことである。この一文は、ソクラテスが前三九九年に死刑判決を受け、処刑されることになる裁判への言及である。裁判と刑死にいたる過程の話としては、本対話篇『テアイテトス』(執筆時期としては中期最後の作品)のつぎに、バシレウスの役所前で出会った旧知のエウテュプロンとの、敬虔をめぐる初期対話篇『エウテュプロン』がきて、そのあとに被告ソクラテスの裁判弁論を描いた初期作品『ソクラテスの弁明』、そのつぎに獄中のソクラテスの処刑が迫った日の老友クリトンとの対話を描いた初期作品『クリトン』、そして最後に、処刑当日の親しい仲間たちとソクラテスによる、魂にかんする対話を描いた中期作品『パイドン』、という順番で並ぶ》

[解説]

[1「知識とは何か?」という問いの意味について]

《『テアイテトス』のテーマは「知識」です。「知識とは何か?」を西洋哲学の歴史ではじめて本格的に研究した書物とされます。この「知識」は、原語のギリシャ語では「エピステーメー」です》

《古代ギリシャ人が用いたギリシャ語の「エピステーメー」は、意味上、「学問的」知識、組織的な「理解」というニュアンスを、強く含んでいました》

《プラトンは『テアイテトス』で、今日確実なやり方とされるように、「知る」の意味や用法の分類からは、話を始めていません。方向としては逆に、組織的理解・知識すべてについて、その一般的本質をまず問います。問うなかで、「知識」と呼ばれるすべての事柄の内部に重大な違いや隔たりがあれば、おそらくそのいくつかは、発見されてくるはずです。そうした探究として、「知識(エピステーメー)とは何か?」という言葉で導かれる探究を考えることができる、と予想されるのです》

《つまり、「エピステーメー」という知識にかかわるプラトンの一般的態度は、組織的理解を重んじるものであり、善と諸価値への積極的荷担を含むものであるという二つの特色をもちます》

《ソクラテスは初めてテアイテトスに、「知識とは何か?」という問いを投げかけます。もっと詳しくみると、かれはつぎのようなステップを経て、「知識とは何か?」を対話に導入しています。(1)学ぶとは、人が学ぶ事柄をめぐって、より知恵のある者になることである。(2)「知恵のある者」が、知恵がある(賢い)のは、本人の内部にある知恵の力による。(3)知恵は知識(と同じ)である。(4)知識とは何か?》

《「知恵がある」という言葉は、人間として無条件にすぐれていて、徳があるという意味合いをもっていました。ギリシャでは知恵は、つねに代表的な徳でした。「徳」の原語の「アレテー」は一般に、はたらきがあるもののはたらきがすぐれているという意味の言葉です》《プラトンの議論以来、勇気、正義、節度と並んで、知恵は四つの代表的な徳のひとつとされました》

《ギリシャ人が知恵をとくに重視したことは、かれらがもろもろの古代文明のうちでも際立って教育熱心な民族であり、教育と学習の方法についてさまざまな工夫を重ねた人々であった、ということのひとつのあらわれです》

《「知恵」なあたるギリシャ語原語「ソフィア」は、人間としての端的な優秀性を示すような、抜群の「賢さ」ないし「知恵」という語義のほかに、「専門家(エキスパート)の知識」という意味をもっていました。『テアイテトス』ではこの二つの意味は、連続的に捉えられています》

《知識であるものをたくさん答えてほしいのではなく、知識か、それとも知識でないかをもともときめてくれる一般的規準が知りたかったということです》

《成功した学習に共通の「自分の内側の原因」を言うためには、自分を含む人間たちが(ほかの動物とは違って)なぜ「知識」を頼りに生きるのかという問いにも、正面から答えられなければなりません》《テアイテトスという人は、このおもしろいけれども特殊で、難しい研究に向いています。なぜならかれは、√2や√3やなどの個別的な無理数の列を見て、無理数とは一般に何かという問いに、歴史上初めて答えた人だからです》

《テアイテトスが、「知識とは知覚である」と一般的に定義し、そう言い切ることができるためには、かれは自分の単なる実感を超えて、なんらかの特別な哲学的立場に荷担しなければなりません。ソクラテスは、プロタゴラスの相対主義が、このテアイテトスの必要を満たしてくれる立場だと考えます。そしてテアイテトスも相対主義を、議論のために受け入れることにします》

《最終提案の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」が、初期の作品のころから中期最後の『テアイテトス』執筆時にいたるまでのプラトンの考え方に近いものだということは明らかです。動物と人間が共有するような単なる「知覚」では知識にならず、人間のみがもつ「考え」が知識には必要であること、そして、後に詳しくみるように、「説明規定」と訳した「ロゴス」が「真の考え」に付け加わったとき知識が得られるのではないかということ》

《そしてプラトン自身も『テアイテトス』以前の『ポリテイア』などの中期作品で、正しい説明を含むエピステーメー(知識)と、そのような説明のないドクサ(「考え・憶測」)を、互いにまったく違うものとして説明していました》

《第一定義の「知識とは知覚である」は、相対主義による補強を受けて、知覚という経験領域に「誤りのない真理」を見ようとします。プラトンは、知覚とは異なるもうひとつの経験領域(これをかれは、「考え(ドクサ)」と呼びます)にこそ「誤りのない真理」だけでなく「真理」と「虚偽」も全体的に含まれると結論づけたいのですが、この結論を得る過程で、プロタゴラスの相対主義哲学は格好の論敵として、プラトンの結論の確立に間接的に貢献してくれるのです。 第一の点を説明しましょう。プラトンによれば相対主義自体は、永遠に論駁不可能かもしれない、手ごわい論敵です。相対主義のはじめの例は、風が吹いていてAさんは温かいと感じ、Bさんは冷たいと感じるという、知覚における「相反するあらわれ」と呼ばれる事態でした。『テアイテトス』のその後の議論では、実際には現在形でだれかに現在風が温かい(あるいは、冷たい)とあらわれることが、その人にとっての相対的な真理というより、絶対的で客観的な規準から真理か虚偽かに分類できるという趣旨の、「反相対主義」の完成した主張は、なされません。 むしろ、一見すると小さなポイントに思える、未来の事柄のあらわれにおいて、知識の絶対的な優劣の差がある、とする反論のみが述べられます》

《『テアイテトス』では、相対主義との対決を、次作の『ソフィスト』になって最終解決をみるよう「継続審議」にします。しかし、その一方でかれは、『テアイテトス』のこの辺の議論では、知識を探すべき場所を確定するという目標に向かっており、このためには、未来の事柄のあらわれの絶対的差異が用意されれば十分なの
です》

《プラトンによれば知識は、知覚ではなく、知覚とともに「人間の心による経験」の二大分類をなす、「考え」のところで探されなければなりません》

《わたしの経験を束ねる何かを「魂」と呼んでよければ、単に「視覚により認識する」とか「味覚によって感じる」と言うより、「魂により感じる・知覚する」と言うほうが、誤解の余地は少ないでしょう。プラトンはこの一般的なポイントを明確にするために、人は感覚を通じて魂によって知覚の経験をする、と語法の整理をします》

《存在」と簡略にまとめた言葉は、「有・あること(ウーシア)」や「あること(エイナイ)」などです。「エイナイ」という不定詞の動詞は、「存在する」という用法と、「……である」という補完を要する用法の両方を含む、広い意味の動詞でした。プラトンが、これら二用法を含むウーシアは、知覚には関係なく、もっぱら考えに関係すると考えたことの意味は、つぎのようなものです》

《プラトンは、「知覚」と「考え」の二大区分をおこない、知覚を知識候補から完全に除外します。そして、考えの領域のどこかの部分に知識を発見するという方向へと一八〇度転換するわけです》

[2第1部の主要な哲学説の配置]

《第一部の全体は長大な議論ですが、これは、テアイテトスの「知覚が知識だ」という提案が、プロタゴラスの相対主義だけでなく、ギリシャで支持を集めていたもうひとつの有力哲学説である「流動説」とも結びつく内容であったためです》

[3プロタゴラスの相対主義と、その評価]

《(1)プロタゴラスは、人間はつねに真を判断する、と考えている。(2)(a)プロタゴラス自身にとってプロタゴラスは、真を判断しているが、(b)ほかの無数の者にとってプロタゴラスは、虚偽を判断している。(3)(1)より、プロタゴラスは、(2b)のようにプロタゴラスは虚偽を判断していると他人が判断するとき、この他人の判断が真である、と容認する。(4)(3)より、プロタゴラスは、自分の見解が虚偽である、と容認する。(5)(2b)および(4)より、プロタゴラスは、だれにとっても、虚偽を判断している》

《この議論の評価をおこなうときに重要なポイントは、(3)から(4)に進むのには、問題があると見抜くことです。まず(3)のなかの「プロタゴラスは虚偽を判断している(と他人が判断するとき……)」という部分は、正確には、「他人にとってプロタゴラスは虚偽を判断している」という内容でなければなりません。したがって、プロタゴラスのほうでは、(4)を導きたいだれかから、「きみは虚偽を判断しているのだね?」と問われたなら、自分は自分にとって真の判断をしている、と(2a)を繰り返し言っておけば、それでいいのです。ところが(4)では、「或る人にとって」という、相対主義の立場からは必ずつけておくべき限定を外して、無条件に「自分の見解が虚偽である」ことをプロタゴラスに認めさせようとしています。もちろんプロタゴラス本人はこれに同意しないでしょうし、予想されるプロタゴラスのこの態度は、正当なものです》

《アリストテレスも新プラトン主義の人々も、そしてキリスト教プラトン主義者たちも、みなここの「神の似像としての人間」という考え方に深く共鳴しながら、ここに、プラトン的な哲学の重要な基本があると考えました》

《未来の言明では相対主義は成り立たないというこの点は、対話篇全体のなかでももっとも重要な三、四個の主張のひとつ》

《脱線議論は、このような「時間の、過去と現在と未来の系列」のなかで知識と知恵の問題を考えるべきだという、話のそもそもの原点を示す役割を担っています。脱線議論中のおもしろいエピソードにおいてタレスが、天体を観測していて井戸に落ちたこと(一七四A~B[二四節])は、学問や知恵の真の意義を知らない人々からみれば、頭の悪い失敗として嘲笑すべきことでした》が《ソクラテスが裁判で被告になったときにも、ふつう人々がおこなう心理作戦や、「助かるためなら(善悪を問わず)とにかくなんでもやる」工夫をせずに、徹底的に正攻法で弁論したために敗訴し、死刑を宣告され処刑された「『頭の悪い』失敗」を読者に思い出させようとしています》

《白熱した議論をおこないながら知恵を愛し求める哲学(と諸学問)の道だけが、個人と人間集団の未来に向けて、実質的進歩の原動力となることができ、発展性があること――このようなメッセージが、脱線議論直後のプロタゴラス説への反論の趣旨であると思います》

[4ほんものの生成、ほんものの変化]

《プラトンによれば、説得されるならわれわれは、自分たちの言語を破壊しなければならないので、したがって流動説を信じてはならないことになります。 プラトンは議論の手がかりとして、「変化」とも「動き」とも訳せる「キネーシス」という広い意味の言葉の二つの意味を区別します。ひとつの意味は、或る地点から別の地点への単純な移動や、円運動で動きつづけるといった「場所の移動」です。もうひとつの意味は、色が白から青になるなどの「性質の変化」です。この意味の区別を道具にして、流動説を論駁できます》

《流動説を趣旨どおりにあくまで守ろうとすれば、場所の移動も性質の変化も全部同時に起こっているので「およそなにも確固として存在しない」、と言うしかありません》

相対主義と「知識とは知覚である」という第一定義の両方が必要とした説明機能をソクラテスは流動説にみようとしたのですが《すべてがいかなる意味でも安定せずに動きつづけているという趣旨に解釈するかぎり、われわれは、まさにそうした流動説を適切に表現する言語を、もてないということになったから》

《少なくともプラトンが『テアイテトス』で確立した、変化も生成も消滅も、そもそも言語的な記述と分類を受け入れる事柄だという論点は、かれの完全に積極的な主張であり、かれを離れても正しいと思われます》

《以前の『パイドン』において「見えるもの」、つまり肉体や物体について言われていた「たえざる生成消滅過程のなかにある」という論点は、「見えないもの」(魂、思考、イデア)との対比において主張されていました》

[5第一部最終議論 知覚は知識ではないこと]

《一言で言ってわたしは、わたし自身が見たことや聞いていることと、きわめて近い関係にいるのです。否、それは、「近い」と言うことさえ、もう遠すぎるくらい、それくらいわたしに「固有のこと」であって、わたしのいわば「一部」のようなものだと思えます》

《それでは、この関係は「物」同士の関係なのでしょうか? プラトンは、そうではないと答えます。眼で見るし、耳で聞くけれども、わたしが見ているのは、単に視覚「を通じて」なのであり、見聞きしているわたしの「魂」や「心」によりわたしは感覚的「経験」をしているはずだと言うのです》

《こう考えてゆくと、大きく分けて二種類の経験が、人間にはあることになります》
《(1)各感覚を経由する知覚経験。「『道具』を通じて・魂により・把握される」。例―赤い色が見える、塩辛い味がする》
《(2)感覚を通じてでない「共通なもの」の経験。「魂自身により把握される」。例―存在する(ある)と考える、二つであると数える》

そして《(2)のほうが存在の経験であり「真」と正当に言える領域なので、つねに真であるような「知識」もまた、この(2)のほうに属し(1)には属さない、と論じられます。こうして、「知覚こそ知識である」というテアイテトスの答えは最終的に否定されます》

これは、総合的な推理の力は教育などによって長い時間をかけてそなわるものであるから《多くの経験の領域において、われわれが初めからものを知っているわけではなく、それなりの学習・教育を経てようやく「真にいたる」「有(あるということ)を掴む」「知る」「有益さ(善)を理解する」という見解です》

《人間の人間としてのパワーがどこかにあるとすれば、それは、弱々しい存在でありつづけながらの長い学習期間を経て大人になるという、独特の成長過程と無関係ではありえません》

人間は《ほかの動物の幼児期と比べて「なにもできない」のですが、このような「無能性」は、やがてずっと後で、学習したことに基づいてほかの動物には不可能なことをおこないうること(ものを考えて行動できること)と表裏一体のことでしょう》

《「未来の事柄のあらわれ」のところで相対主義批判がおこなわれたのですが、時間における「過去と現在と未来の系列」で生きる人間の場合にのみ、「知恵という力」ないし「知恵の徳」として人に宿る「知識」が真の関連性をもつという観点が、相対主義に最終的に対抗するポイントだった、と言うことができるでしょう》

《初めからそなわっている、単にその場で可能なこと」としての「知覚」ではない力が、つまり過去の学習を反映して未来の事柄にその人なりに荷担するための「考える力」が、その場の経験における各人の優劣を示す実力になっているので、それで「知覚は知識ではない」とされることになります》

[6第二部の議論と虚偽不可能性の難問]

第二部は「知識とは真の考えである」という定義を論じるのですが《プラトンは、たとえば初期の『メノン』においても、考えが事実真であったとしても、それはまだ知識とは言えず、問題となる事柄にかかわる原因を正しく推測し特定して、その原因からの推論により正しい結論を導き出した「原因の推論」が入ってこないと知識にはならない、というアイデアを提出しています》

《『テアイテトス』でプラトンが真剣な検討に値する知識定義候補と考えたものは、後の第三部の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」だけです。ところで、第三部で扱われるこの定義にあらわれる「説明規定」とは、「ロゴス」の訳語です。「ロゴス」は言葉、言明(文)、分別、理由など豊かな意味内容をもつ語ですが、人間がもともと言語生活を営むこと、そしてその言語生活が個人のレベルでも文明の段階でも或る程度発展した形態になったときに学問探究や学問的説明も成り立つということは、明らかでしょう。この語はそうした、言語的な要素が深くからむ人間の歴史と、言語にかかわる側面が強い学問・知識の成り立ちを、語義に反映する言葉です》

《「考え」が知識を探究すべき場であることは第一部最終議論で確立しましたが、そこを場にしたこの先の「知識の探し方」の問いは、じつは「心」、「言語」、「認識」、「存在」をめぐる、現代理論哲学の大半の重要トピックもまたすべてそこに勢ぞろいする程度の、途方もなく大きな諸問題に囲まれた問いです》

《『テアイテトス』第二部のテアイテトスの素朴さは、「考え」は、考えという心的な営みだから、あくまで「心的なもの」として分析される、そして考えは事実真と偽に分かれるから、そうした真偽の区別も、たとえばわれわれの心で起こることと世界のなんらかの関係として簡単に見つかるはずだ、といった態度として言い表すことができます。しかし、以下の虚偽不可能性の難問は、じつは「心的なもの」を、「心のなかにつねに埋め込まれている、言語的な原初構造」としての「何かについて・何かを判断する(考える)こと」のもとでみる用意がないかぎり、「虚偽の考え」と、「考えにならない、『考え・意識』の無効な空回り」を適切な形で区別できないという、重要な教訓を含みます》

《第三部の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という定義は、前の二つの定義候補に比べてはるかに有望であり、後で「結び」でみるように、この第三定義にに似た説明をプラトンが自分の哲学の探究で活用していた証拠もあるのですが、しかし定義としては否認されます。この定義の挫折は、ひとつには「知識」の多義性によるものだと思われますが、挫折のもうひとつの原因は、『テアイテトス』第三部における「説明規定」のひな型が、文字の読み書きや音楽といった、(話され、聞かれる)母語修得以後の初歩的学習からとられていたことにあります》

プラトンの原則P《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》

《原則Pの趣旨を生かすように難問を正攻法で解決する方法は、虚偽が結果として出てきてしまった原因の間違いを、そもそもの知識とは別の種類、あるいは別の次元の「外れ」や「失敗」として説明することだと思われます。 対話のなかでソクラテスもテアイテトスも、原則Pは、虚偽の考えの場合に直ちに全面的に破られると、いとも簡単に考えています。かれらがこう考えるひとつの理由は、直接目的語を取る「判断する」や「考える」、あるいは「知っている」の用法で考えを理解していることにあります。「ソクラテスを(あるいは、ソクラテスと)判断する」、「美しいものを考える」、あるいは「十二を知っている」などの文が、この用法の例です。虚偽不可能性を論じる第二部の議論では、こうした直接目的語を取る構文が頻出しています。そのことがひとつの原因になって、難問の罠にはまってゆくソクラテスとテアイテトスの会話が、あたかも素直で自然であるかのような印象を、読者に与える》

《考えはいかなる場合であれ、ただ単に漠然と「何かを考えること」ではありません。われわれの考えはふつう、言葉でつくり上げられています。そして言葉は、主語と述語によって意味のまとまりとしての文をつくります。文や、文と同次元の言明や主張が、真と虚偽を担うものだと思われます。――このような筋道で考えてゆくなら、心に浮かぶ考えも、当人がさしあたり意識できることとしては「何かを考えること」であるときにも、じつは言語の構造としての「何かについて・何かを・考える」という仕組みをしっかり保っているということが、重要》

《『テアイテトス』第二部のいくつかの説明の試みは、一回の虚偽がもつこうした「皮肉にはたらく、積極的な意味」を理解できない、単調なものなので、学習による人間特有の「進歩の秘密」の全貌を衝くところには、まだいたっていないように感じられます》

《『テアイテトス』の後、後期第一作の『ソフィスト』が書かれます。その『ソフィスト』では、人間の知識の問題というより、言葉や考え(判断)の真偽の問題、ものや人の存在のほうが主題になります。しかし、多くの話題はこの二作品に共通のものです。そして、『テアイテトス』では読者に考えることのみを要求して、プラトンの側の答えを用意していないいくつかの問題が、『ソフィスト』では鮮やかな仕方で回答されます》

《われわれがものを言葉で「同一指定」して「指示」することが、言語を初めて習ったときにできるようになったということを振り返ってみれば、この事実の比類ない重要性に納得できるでしょう》←この事実とは人間が言語を持つ存在だということ

《『ソフィスト』二六二D~二六四Bでプラトンは、 何かについて・何かを・語る(もしくは、判断する)ことが人々の「基本形」であることをはっきりと確認します》

《『ソフィスト』では、人間だけがもっている、なにか変わった、皮肉な要因そのものに肉薄できていることが、納得できるように思われます。つまり、人間だけが言語をもっていて、それゆえに人間らしい心をもっています。そしてそれゆえにまた、心で真を把握することも、ときにまた虚偽に陥ることも、可能なのでしょう》《以上の検討によって、虚偽の考えの説明の可能性が、『テアイテトス』の本題であった、知識の探究に密接に関係していることもまた、明らかになっていると思います》

《知識と深い関係をもつけれども「間違い」であるもの、ただし間違いではあっても、完全に意味や有効性のない「ノイズ」ではない、有意味な(それどころか、多くの場合有意義でもある)間違いであるもの――これが虚偽であるとプラトンは考えていたのだと思います》

[7裁判員と知識]

《現に目撃した証人の事件体験をここで重んじていることの一解釈は、プラトンが学問や知性的経験の場面でも、「透視的能力」、「知的千里眼」のようなものを知識の力として考えていた、というものです。しかし、この一種の神秘主義的解釈は、苦労して学問を修めて、各分野で言葉の厳密な定義とそれに基づく知識を一歩一歩把握していくべきだという、プラトンが力説した基本的主張に反しています》

《われわれの「知識」は「伝播可能」なものである、と言えます。これに対し、プラトンや古代中世の西洋哲学では、同じ問題について、自分で計算して「九四」と答えられないかぎり、「知っている」とは言いませんでした。算数ができて知っているのでなければならず、正当化というより、そのつどの事柄に合った適切な説明能力(たとえば数学の場合であれば、証明能力)を伴うほんとうの理解がなければならなかったのです》

[第三部の議論 わたしは何を、どのように知っているのか?]

《「説明規定」と訳しました。「ロゴス」は学問の文脈では、ものごとの厳密な「定義」を意味します》

《「第一のもの」と言うだけではあまりに抽象的で分かりにくいので、字母(アルファベットの文字)にあたる「ストイケイオン」という語が同時に「要素」という意味ももちうることを活用して、「字母」とそれからなる「音節」を、「要素(第一のもの)」と、それらからなる「合成的な対象」の分かりやすいひな型として使っているのだと思います。ハートが使ったうまい表現では、『テアイテトス』の夢の理論とその検討で論じられる「字母と音節」は、「全体と部分の本格的議論」をつぎの『ソフィスト』でおこなうのに先立って、そうした議論で主題化される部分と全体の話のために「あらかじめ場所取りをしておいてくれるもの(place-holder)」です》

《たとえば手や足や諸臓器という「人間」全体の身体的部分が高度に有機的な結合(構造)をもっているので、それで生きている人間はばらばらの部分の集合体ではなく、一人の人間としての統一性と同一性をもちます》

《プラトンはつぎの『ソフィスト』で、根本的な構造を次々発見して、人類の歴史そのものに貢献したともいえる偉業を成し遂げました。ここの「夢の理論」はその発見の道を準備する、貴重な一歩です。そしてプラトンはその『ソフィスト』で、「宇宙の『母音』と『子音』の識別こそ問答法(『哲学』とほぼ同義)の課題である」とまで主張します》

《夢の理論では字母は「知られない」のに対し、音節は「知られる」ものだとされます。この主張全体をハートにならって、認識論的な「非対称テーゼ」と呼ぶことにしましょう》

《「so」という音節を「知る」ことは、「s」の音を識別して「o」も識別した上で(つまり、アルファベットの文字を「知った」上で)「so」全体を「つづり方の技術に沿って」聞き分ける(見分ける)ことで、これが学習の実際であるとされます》

《字母にかかわる能力自体が知識レベルにまでアップし、この新段階の能力が数多くの活動の基礎となって、以後の人生を豊かにしてくれています)。これは、音楽の学習でも同様です。音楽を学ぶことは「一つひとつの音の聞き方」自体が変わってしまうことを含んでいます》《「音楽の要素・『字母』としての音自体」が知識特有の仕方で識別されることであり、もう一面が「音楽の合成物・『音節』である音の列や和音」が「音感のある、音楽技術に通じた人」特有の仕方で聞きとられ、理解されることである、といえます》

説明規定の意味は《(一)「説明規定」の初めの意味は、この言葉の原語「ロゴス」が動詞「レゲイン(語る)」と語源的に結びついていることから、「語句(rhema)や名(onoma)を伴う声を通じて、考えを、(中略)口を通る流れの中へと映し、それを外に出して、自分自身の思考を表現すること」(二〇六D[四二節])という形で表現されます》

《つぎの『ソフィスト』では、ほぼ同じ表現で「ロゴス」がまず規定され(二六一D~二六三D)、考えないし判断を意味する「ドクサ」のほうは、ロゴスが心のなかでいわれる場合、とされます》《『ソフィスト』の一連の議論では「ロゴス」を、主語(onoma)と述語(rhema)の構造があるもの、つまり「(主語部分により)何かについて(を把握し)・(その上で述語部分により)何かを・語ること」としてみます。そして、同じ主述構造がドクサにもあり、あらわれにもあるので、結局、真のあらわれと同じように虚偽のあらわれも存在することが示されることになって、『テアイテトス』から長くつづいたプロタゴラス的相対主義の論駁は、この事実の確認をもって完結するのです》

《第二の意味の学問活動における「ロゴス・説明規定」が、知識の第三定義の「真の考えに説明規定が加わったもの」で言われる本命の候補だ》が、こうした能力は母語の修得が前提であり、それは《語(の意味)に対する「文の一次性」と呼ばれる論点》であり《初めの構造である「何かについて・何かを」を学んだことにより、関連するすべての構造にかかわる能力も、潜在的に修得できるようになったのだと思えます》

《したがって「言語的に言い表す」という「説明規定」の第一の意味は、「説明規定」の、つぎに登場する、より高次の「第二の意味」につながる、われわれの諸活動の原点を示唆するという意味合いをもっていたと言えると思います》

《プラトンのエピステーメーという知識は、今日の「知識」というより「理解」に近い意味合いをもっていました》

《「『考え』から『知識』へ」という全面二段階説は、漠然と語られる一般的な主張として言われると、なるほどそうかなとも思えますが、一つひとつの事例についてじっくり検討してみると、じつは成り立たないとしか言えない、そうした主張なのです》

[9結び]

《本書の結論は「したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる」》という全否定。

《さまざまな専門知、さまざまな学問と知識の多様性を超えて、それらをゆるやかに一まとめにする本質をも見極める(あるいは、見極めようとする)ことは、「『差異性の本性(違っているもの同士は、どう違っているかということの一般的本質)』を見極めること」に匹敵する困難を伴う探究であると、ここで示されています》

《ソクラテスの使命と真価は、あらゆる建設的議論に先立つべき「哲学におけるあれこれの事柄の重要度と、哲学探究の一般的困難の、すぐれた自覚の訓練」というところ》

註2《この連続性は従来の解釈では表現されていない。多くは、おもにエキスパート的知識の問題としてこの箇所の議論を理解する。しかし、テアイテトスは幾何学で「より知恵がある」ようになりつつあるのだが、同時に端的にもより知恵があるようになりたいと思っている若者だ、ということが非常に重要であるとわたしは考える》

註3《プラトンは後の近世の哲学の論争では知覚に基礎を置く経験主義のグループとは遠く、知性主義的な合理主義のグループに近い立場といえる。しかしそれとともに重要なのは、経験主義のバークリや合理主義のライプニッツなど、この一七~一八世紀の大論争に参加した哲学者たちが、『テアイテトス』第一部のもろもろの議論から、知覚経験にかんする哲学的考察の材料を得ていたという事実である》

註6《『パイドン』では「見えないもの」である善や正義や等しさのイデアのほうが実在であり、つねに自己同一性を保つものとされる。この部分は流動説のいかなる部分にも対応しない》

註18《「読解A」と呼ぶ解釈で、流動説をイデア論の立場から補うために、流動説の説明する知覚の世界に、中心的な魂とイデアが、ここで外付け的に登場するという解釈である(Burnyeat,TheTheaetetusofPlato,56;cf.Cornford,105)。もうひとつは「読解B」で、「共通なものの考え」とは、判断であるとする解釈である》

註24プラトンの原則P《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《現代哲学の「ラッセルの原理」に相当する原理である。バートランド・ラッセルは、判断ないし想定について、判断者は判断の項すべてを知って(beacquaintedwith)いなければならない、と考えた》ことにも通じる、と。

註26《第二部の虚偽不可能論はあらゆる「考え」ないし「判断」にかんするものか、それとも同一性判断に限定した難問なのかという解釈問題がある。多数派解釈(McDowell,195;Burnyeat,TheTheaetetusofPlato,71-73)は同一性判断に限定して解釈するが、わたしは考え一般にかかわるパズルだと解釈する》→註29《考えや判断にはそれぞれ、そこが問われることになる、真偽評価のポイントとなる項があり、そこの「取り違え」をすることが虚偽だ、という理解が背景にあるとわたしは考える。こう考えることができれば、ポイントとなる項にかんする同水準の誤答と正答の取り違えとみなすことから出発して、そのような真偽のポイントで説明すべき虚偽の考えは一般に不可能だ、という難問をつくることができる。また、こうすれば、多数派のように虚偽の同一性判断に話を限定しないで済む》

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January 03, 2021

『100分de名著ブルデュー『ディスタンクシオン』』


Distanction

『100分de名著ブルデュー『ディスタンクシオン』』岸政彦、NHK出版

 『ディスタンクシオン』はちょうど、流行りの哲学書を読まなくなってきた頃に「まあ、いいや」と放っておいた本です。今回『100分de名著』で取り上げられるということをSNSの社会学者の方から教えていただき、楽しみだったのですが、想像以上でした。

 生まれや環境によって趣味というか生き方の「ハビトゥス」が決められるというのは納得的といいますか、2000年代に読んで衝撃を受けたRobert Putnam "Bowlingalone" のソーシャル・キャピタル(Socialcapital、社会関係資本)という概念はブルデューが人が持つ資本を経済資本、文化資本、社会関係資本に分類したあたりに由来するんだな、と気がつく始末。今さら、自分の読書量の少なさと教養のなさは嘆きませんが、もうちょっと早く読んでおけばな、と。

 今でいうアンダークラスの再生産みたいな話しなんじゃないかとも思っていましたが、ますます格差の拡大が進む時代となっきた中で、一人ではどうしても読む気の起きなかった本だけにありがたい。

 また、個人的には吉本隆明さんの大衆の原像と比較しながら読んでいました。下層階級の人たちが自然に自分たちを目立たない存在として位置付けるハビトゥスは合理的であるというブルデューは、まるで現実は合理的だというヘーゲルを思い出させるのですが、同じようにヘーゲル/マルクスから影響を受けた吉本さんは、目覚めた大衆などはいないけど、その「大衆」を神として組みこまない社会の改革などあり得ないというのが「大衆の原像」だと考えていたと思います。いま思うと、それは階級が西欧ほどハッキリしていない日本の独自性なのかな、と。

 例えば、ヨーロッパでは庶民が愛好するサッカーを、日本では圧倒的な人気を誇っていた野球のアンチテーゼとして好むという傾向がいまやすっかりオールドになりつつ世代にあると思いますが、ジャンルが入り乱れている感じが日本にはあるのではないでしょうか。

第1回「ハビトゥス」

 《ブルデューは、今回紹介する『ディスタンクシオン』などの多数の著作のなかで、私たちが自然だと思っていること、当然だと思っていることが、いかに階級などの社会構造に規定され、条件付けられているかを明らかにしました。たとえば、聴く音楽、毎日の食事、好んでおこなうスポーツ。あるいはもっと微細な身のこなしや態度、歩き方や喋り方まで、こうした日常的な行為や認識が、いかに社会によって決定(と言うと言い過ぎですが)されているかを、執拗なまでに説き続けたのです》

《あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書をすること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好は、まず教育水準(学歴資格あるいは通学年数によって測定される)に、そして二次的には出身階層に、密接に結びついているということがわかる》

《純粋無垢な眼など存在しないというわけです。私たちの眼、つまり見たものに好感を持ったり嫌ったりする姿勢(性向)は、私たちそれぞれが享受してきた社会環境、つまり歴史によってつくられるとブルデューは主張します》

 ここで重要な概念が出てきます。それはハビトゥス。

《ハビトゥスとは私たちの評価や行動のさまざまな傾向性のことであり、同時にそれらを生み出す原理のことです。また、それは一回性のものではなく持続性があり、異なる分野においても同じ傾向を示す(移調可能)》もので《ハビトゥスは世界を分類していくものであると同時に、それによって行為者が分類されていくものでもあります。傾向性(dispositions)の体系としてのハビトゥスに分類されることによって、その人の位置(position)が確定され、同じハビトゥスを持つ者たちの集団(クラスター)ができていきます。こうして似た者同士の集団がつくられることによって、人びとは何者かに「なっていく」のです》

 個人的な経験からは「生まれ」の他にも環境が大きいんじゃないかな、と感じます。家は貧しかったですが、友人たちや親戚、それに渋谷という街に助けられましたね。60-70年代の映画とか名画座で見まくれました。歌舞伎は祖母、宝塚を含む商業演劇は叔母、落語は従兄弟からの広義の「家庭教育」で好きになったと思います。能、狂言、文楽は歌舞伎をより深く楽しむために勉強した感じ。だから、漫才は見たことないかな…まさに環境に支配されてます。音楽に関してはピアノを習わされましたが、小学校の高学年でやめてます。友人の兄たちから聞かせられたロックに凄く影響を受けて、クラシックなんて…という感じでした。でもパンク、クイーン、キッスみたいな商売を前面に出してきた企画モノが流行り始めて興醒めしてジャズに。そこからクラシックに戻ったという感じですかね。

 この庶民vs上流に関しては《一方で、ブルデューには特筆すべき特徴がありました。それは、彼が庶民階級に対してもほとんど幻想を持っていないことです。これはおそらく、ブルデュー自身が庶民階級出身の当事者だからでしょう。インテリ階級の学者は民衆に対するロマンが強く、ややもすると「民衆たちが立ち上がっていつか革命を起こす」と真顔で主張しますが、そのような庶民階級に対する幻想を、ブルデューはいっさい持っていませんでした》という見方が面白い。《ハビトゥスには、ひとりの人間の人生においても、またひとつの社会全体を巻き込む巨大な歴史的変動においても、常に組み換えが起こったり、変化したりすることがあるのです。おそらく、高度経済成長期の日本にも同じようなことがあったでしょう。『ディスタンクシオン』は階級システムの機械的な再生産論として読まれることもありますが、それはブルデューの本意ではないと思います》という感じで、やはり環境にも影響を与えられているという感じなのかな、と。

 とにかく《私たちの行為がどれくらい構造に規定されているのかを知ることは、言い換えれば、私たちがどれくらい「不自由か」を知る、ということに他なりません。ブルデューは、一見逆説的ですが、私たちがどれくらい不自由であるかを明確に知ることが、私たちが自由になるための条件であると主張したのです》と結びます。

第二回「界」

 人はハビトゥスによってクラスターに分けられ、そこで「否定」をテコに闘争するという世界観は凄いな、と思うし納得的です。

 《ブルデューによれば、私たちの好みは家庭や学校を含む社会生活において培われたハビトゥスによって方向づけられ、規定されています。そしてこのハビトゥスによって、私たち自身が、ある種のクラスターに分類されていきます》《私たちは、この空間のなかで、お互いの資本やハビトゥスを「武器」として、何らかの「ゲーム」に参加しているのです。ブルデューは、私たちがゲームに参加しているこの空間のことを、「界」と呼びます》

 こうした《趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。趣味が自分を正当化しなければならないときに、まったくネガティヴなしかたで、つまり他のさまざまな趣味にたいして拒否をつきつけるというかたちで自らを肯定するのは、偶然ではない。趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である》とブルデューは書きます。《バッハを好む人はチャイコフスキーを嫌うといったように、必ず否定がセットになるのです》《そして趣味goutsとはおそらく、何よりもまず嫌悪degoutsなのだ》と。それは《社会階層と個人のあいだには、芸術という界、音楽という界が成り立っています。その界の中でバッハはどこに位置づけられるのか。私たちはそのことを実践感覚で捉え、自らを卓越化させるためにバッハを選んでいる(あるいは選ばない)のです。このように、二重、三重のプロセスを経て決まっているのが趣味》という複合的な要素を持っています。

 こうしたクラスターに属することによって、人は闘争することになります。

 《自分が好きな音楽も絵も食べ物も連鎖的に否定される可能性がある。ひいては自分そのものを否定されることにつながるわけです。 みなさんも映画や音楽の話をしていて、自分が好きな作品やアーティストを「まったく駄目だね」などと言われ、自分でも意外なほどに深く傷ついた経験があるのではないでしょうか》

 そして、こうした闘争で《界の中で立ち振る舞うには、必ず界全体の構造や局面に関する実践的な知識が伴う》という大きな視点を人に与えます。《そうすると、なんとなく、複数の界を貫いて、統一した自己というものができてきます。さまざまに異なりながらもひとつのまとまりのある自己ができ、同じような行為者たちが集まってきてクラスターができる。そして、ハビトゥスによる傾向づけがあるためその後も自己は再生産され、界の構造も再生産され、さらに大きな社会空間も再生産され》《このような界の構造は、ブルデューが想定する、もっともマクロな社会空間(階級)全体の構造と相似します。その構造を表したのが次の図です。これは『ディスタンクシオン』に載っている図を簡略化したものですが、縦軸が資本量(社会階層)、横軸が資本構造(資本の種類、たとえば文化資本か経済資本かの違い)を表します》《すべての趣味は、高級な/安っぽい、優しい/激しい、内省的/外交的、精神的/肉体的などの二項対立のなかに置かれ、他の趣味との関係のなかではじめて意味を持つようになります》。

 さらに芸術も、こうした否定による闘争の影響の中にあります。《わかりにくい作品というものは、言い換えれば、「わかりやすい作品への抵抗」としてつくられているのです。ですから逆に、ゴッホやピカソのような、すでに十分権威付けられていて、途方もない値段がついている、もっとも象徴的な利得を多く所有している作家や作品に対する反抗なのだということが理解できれば、現代アートの難解な作品も、とたんによくわかるものになります》

第3回「文化資本と階層」

 ブルデューは経済的な資本だけでなく文化資本、社会関係資本というものがあり、それぞれ蓄積し増やすことができるとしています。このうち《文化資本とは、経済資本と対比させることで社会や界の横幅を描くための概念です。ハビトゥスに近いものでもあるのですが、もうすこし具体的で、それは文化財、教養、学歴、文化実践、文化慣習、あるいはブルデューが言うところの美的性向などを指します》。

 《資本とは何か。それは投資され、増殖され、蓄積されます。そして所有する人々に「利得」をもたらします。音楽を聴くこと、絵を所有すること、映画を見ること、外国語を習うこと。それだけでなく、「よい大学」に行くこと、上流階級のマナーを身に付けること、すぐには役に立たないような「高級な」教養を身につけること。これらはすべて、投資され、蓄積され、そして利得をもたらす資本の一種なのです》と。

 ここからは簡単に。

 《美術館に行く回数には露骨な階級差があるといいます。上流階級ほど行く回数が多く、下層階級の人はあまり行かない》

 《映画館に足を運ぶ頻度は、収入や居住地に左右される割合が高い。しかし映画監督についての知識は、映画を見る頻度に関係なく、学歴が高い人ほど多い傾向がありました。つまり、それは「密接に文化資本の所有量と結びついている」のです》

 《ブルデューは、美的性向とは端的に言って、内容や実用性と切り離して純粋に形式だけを受容する能力のことだと言っています。内容ではなく形式。絵画で言えば、描かれているテーマや対象ではなく、その「描き方」、つまりそれぞれの作品が持つ、描線や色彩のスタイル、技法、流派、「見せ方」を鑑賞し評価するための知識や態度のことです》

 《それらのスタイルや技法を十分に感受し価値づけするためには、美術界においてそのスタイルや技法がどのようなポジションにあり、ほかのスタイルや技法とどのような関係にあり、誰と連携して誰と闘っているのかについて、十分に詳しくなる必要があります》

 つまり、作品に対して距離を置くことで、冷静で客観的な態度を取ることができる、みたいな。そして、話しは文化的再生産論へ向かいます。学校教育は階級をシャッフルするためのものでもあるが、実際は階級を再生産している、と。

 《学歴という資本を得るためには勉強をしなければなりません。しかし、そもそも机に向かって勉強することができる、そうすることが当たり前であるという態度を持っていることが、学歴を得る場合には有利に働きます》《しかも、勉強することができる人はどのくらいのリターンが得られるかをおおむね予測できる》《学校で勉強することをよしとする態度や性向は、就学以前に獲得される文化資本(身体化された文化資本)であるため、その資本が多いか少ないかによって学校での序列が決まり、ひいては社会での位置も再生産される》と。

 例えば、貧民街などで《ロールモデルになる学歴の高い人がいないとなれば、不良少年たちには、教室で我慢してみんなに合わせて勉強する意味がわからない。これはブルデュー的に言えば、知的能力ではなく、ハビトゥスのレベルでの排除》であり《不平等な階級格差が、むしろその下位の人々の「自由意志」によって再生産されているという、きわめて皮肉な現実があることを、ウィリスは詳細なエスノグラフィーによって見事に描き出したのです。教育社会学には、野心の冷却(クーリング・アウト)という概念があります。客観的なチャンスが存在しないところでは、主観的な野心も、はじめから存在しない》のであり、《学校は優秀な人を効率よくピックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本を、そのまま自動的に親と同じように高い地位に押し上げるための装置》だ、と。

 《東大生の親の年収を調べると、約六割が九百五十万円以上だといいます(東京大学「学生生活実態調査報告書2018年」)。全世帯のうち所得が一千万円以上のものはわずか十二パーセントですから(2019年「国民生活基礎調査」)、東大生の出身階層はものすごく偏っている》。

 こうした考えを進めると《文化資本がなければ社会を変えようとする発想そのものが生まれてこないとか、過酷で身もふたもない話になってしまう》が、幻想を持たずに他者を知ることを可能にしてくれる、と。

4回目「境界と境界感覚」

 こちらも簡単に。人は分けられていき、社会的にもそれが固定化されていきます。さらには内面にも境界線がひかれるようになって、排除されていると感じたら自分からそうした世界には近づかず、自主的に排除されていき、秩序を自然なものとして受け取る、と。自分に与えられているもので満足して、謙虚で慎ましく目立たない存在となる、と。

 《前回、学校での序列が社会的差異を再生産するという議論で見たように、その差異は中間層や下層階級の人びとにも内面化され、「これは自然なものだ」という見方を植えつけています。ブルデューは『ディスタンクシオン』の結論部分で、これを「客観的な境界」が「境界の感覚」になっていると説明》しているのですが、それは《デュルケームが「論理的適合性」と呼んでいたもの、すなわち社会界の多様な知覚カテゴリーの統一的編成が、社会秩序の維持にどれほど決定的な寄与をもたらしているかがこれで見てとれ》る、と。

 そして《ハビトゥスとは、もっとも広く捉えられた意味での「合理性」ではないでしょうか。冷静で客観的で科学的な合理性ではなく、もっと慣習的で、日常的で、実践的な合理性》だ、と。

 《人びとが圧政に苦しむ社会でも、楽天的に「やがて下からの革命が起こるだろう」とは考えません。逆に、民衆は「愚かな」人々だから、ただ苦しみに甘んじているのだ、とも考えません。そこには彼らのハビトゥスがあり、相応の合理性があるのだとブルデューは考えます。「いったいどうして民衆は革命を起こさないのだ?」ではなく、「革命を起こさないことの理由があるはずだ。まずはそれを丁寧に理解しよう」というのが、ブルデューを貫く信念》なのだ、と。

 《ブルデューは『世界の悲惨』の冒頭に収録されているインタビューで、人を理解するとはその人のハビトゥスを把握することだと述べています》《自分がどのくらい自由で何ができるのかよりも、自分の行為がどのくらい制限されているのか、どうやって制限されているのかを知るほうが、私たちを社会構造の鎖から解き放ってくれるのではないでしょうか。「重力の法則は飛ぶことを可能にする」とブルデューは言っています(『介入Ⅰ』)。幻想を持たずに希望を持つ。ブルデュー社会学が教えてくれるのは、その姿勢なのです》。

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