September 23, 2023

『シリーズ歴史総合を学ぶ3 世界史とは何か 「歴史実践」のために』

Img_0409

『シリーズ歴史総合を学ぶ3 世界史とは何か 「歴史実践」のために』小川幸司、岩波新書

 世の中には偉い人がいるもんだな、と改めて思ったのが『シリーズ歴史総合を学ぶ3 世界史とは何か-「歴史実践」のために』の著者の小川幸司教諭。

 古くは網野善彦さんも元は高校教師でしたし、平山優さんも今年まで高校で教えておられたと聞いていますが、なんといいますか、歴史学には一隅を照らすような方々が連綿と続いているんだな、と。この本の中で、小川さんは、従軍経験を経て都立広尾高校で世界史を教えるようになった吉田悟郎(1921-2018)、都立町田高校の教壇に立った鈴木亮(1924-2000)もあげています。

 ぼくは広尾の出身なんですが、吉田悟郎さんは高校の屋上に生徒を連れていき、庚申塚・板碑・中国人留学生が学ぶ学校を指さし「世界史の授業は、この地域から始まる」と宣言したそうです。庚申塚・板碑はおそらく吸江寺に近い白根記念渋谷区郷土博物館にそばにあるものだと思いますが、今年中に探してみようと思いました(小学校の通学路だったのに、まったく覚えていません)。
 
 小川さんは松本サリン事件について、当事者の生徒を交えての図書館ゼミを開いたことや、映画『ショア』の上映会も行って《傍観者とは、みて見ぬふり》をするというよりも、「事実」を見ようとしない生き方》とするあたりを最初に語るのも熱いな、と(p.12)。そうした問題意識は冷戦下での二項対立のようなものではなく、幾重もの世界観が対立するようになった中で、傍観者として相対主義に陥ってはならない、というものだと思います(p.22)。

 こうしたことを恐れるのは《歴史認識をめぐる激しい対立が起こっているとき、自分とは相容れない歴史叙述に対して、その事実をめぐる解釈の誤りを批判するとともに、その解釈が引き出されている相手の世界観・人間観をもっと厳しく批判しがちになる》という見立てにも通じるのでしょう(p.56)。冷戦が終わり、高度成長のハイウェイから降りた終わりなき日常は、意外にも厳しい対立にさらされる世界だったのかもしれません。

オーストラリアとニュージーランドが第一次世界大戦で、エーゲ海の小さな半島で戦った「ガリポリ」によってそれぞれの国民意識を生む神話となったというのも知らなかったです。そういえば、『マッドマックス』で一躍有名になったメル・ギブソンが主演を務めた『誓い』(原題:Gallipoli。ピーター・ウィアー監督、1981)があったな、と思い出しました(p.170)。

小川さんはベンヤミンから影響を受けていると何回も書いているんですが、映画などの複製技術はオーラをそぎ落とすことで芸術の大衆化を可能にするとともに、芸術の価値が見失われて政治に利用されるという『複製技術時代の芸術作品』を紹介して《「歴史」にもオーラがあるのではないでしょうか》と問いかけ、「遠さ」を実感することの重要性を指摘します(p.197)。

 第五講「グローバル化」の中では「犠牲者ナショナリズム」についても触れるとともに(p.214)、朴春琴のように戦前は朝鮮人の帝国議会代議士もいたのに、国民の範囲を狭くした第二次大戦後の国民国家の再編はどのような特徴を持つのかと問いかけます(p.237)。

 小田中直樹『世界史の教室から』大きな影響を受けているというあたりも好感度アップ(p.113)。

 杉原薫『世界史のなかの東アジアの奇跡』も読んでみようかな、と思いました。

 高校の歴史学習における問題は日本史や世界史の授業が「分類学」に立脚して行われてきたことだ、という「新しい見方」と出会う歴史教育とは?(話題提供:長野県蘇南高等学校 校長 小川幸司もご参考までに。

 小川さんの、高等学校の世界史の講義に基づいて書き下ろした『世界史との対話――70時間の歴史批評』(全3巻、地歴社、2011-12年)も機会があったら読んでみようかな、と。

<目次>

  • はじめに

  • 第1講 私たちの誰もが世界史を実践している

    • 1 どうしても世界史を学びたかった経験

    • 2 私たちの歴史実践と二つの世界史

  • 第2講 世界史の主体的な学び方

    • 1 歴史実践の六層構造

    • 2 世界史という歴史実践の再検討

    • 3 歴史対話の五つの方法

  • 第3講 近代化と私たち

    • 1 奴隷や女性を主語にした歴史叙述の試み

    • 2 人種主義に着目して国民国家を再考する

  • 第4講 国際秩序の変容や大衆化と私たち

    • 1 不戦条約を世界史に位置付ける

    • 2 戦争違法化の歴史から「問う私」を振り返る

  • 第5講 グローバル化と私たち

    • 1 二〇世紀後半の民族浄化と強制追放を見つめる

    • 2 ガザ回廊から二一世紀の日本へ

  • まとめ 世界史の学び方一〇のテーゼ

  • おわりに

| | Comments (0)

『戦後日本政治史 占領期から「ネオ55年体制」まで』

41n05si6qkl_sx313_bo1204203200_

『戦後日本政治史 占領期から「ネオ55年体制」まで』境家史郎、中公新書

 著者の問題意識は、この新書本程度の《内容であっても「理解」している人はごく少ない》という認識の元、1990年代の改革の時代を経て、首相への権力集中は進んだものの、政権交代の可能性は少なくなった「ネオ55年体制」が完成したという大きなストーリーを提示することでしょうか。

 個人的には80年代後半から、「改革の時代」が始まる90年代以降は、職業としてもしっかりみてきたつもりですが、憲法九条と現実の防衛政策の整合性は小選挙区制下でも政党を分裂させることによって、自民党は漁夫の利を得て、逆説的に自民党の優位を支えてきた、という大きな流れの指摘にはハッとさせられました(p.291)。

 あと、クリアカットに問題点を整理する書き方は素晴らしいと感じましたので、以下、引用していきます。

 一言一句変更さたことのない日本国憲法は国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を「ゲームのルール」とした(p.ii)

 《1945年10月初頭、内務省が政治犯の釈放を否定し、天皇・マッカーサー改憲について報じた新聞を発禁にすると、業を煮やしたGHQは事前通告もなく「人権宣言」を発し、内相以下、警察官僚4000人の罷免を発表》した(p.7)。

 コミンフォルムから平和革命路線を批判された《共産党は、主流の「所感派」(野坂参三、徳田球一ら)と、反主流派の「国際派」(宮本顕治ら)に内部分裂する。所感派は、コミンフォルムに反論する所感を発表したためにこう呼ばれたが、このグループも結局は批判を受け入れ、平和革命路線を放棄するに至る》(p.22)

 吉田時代の終わりは《吉田の自由主義的経済政策からの転換を目指した鳩山や岸が、それぞれ経済計画や社会保障政策の導入を試みた》(p.39)

 60年安保などの抗議運動は保守的な政治エリートに、占領政策の受け入れの必要性を認識させ、50年代までに形成された諸制度が、戦後政治という「ゲームのルール」として固定化されていった(p.50)。

 食糧管理制度によるコメの買取価格の毎年の上昇は勤労世帯と農家の所得・消費格差を縮小させるとともに、農村の自民党支配は盤石のものになった(p.59)。

 都市部における小規模商工業者に対する共産党の勢力浸透に対応し、田中内閣は1973年、中小企業が無担保無保証で政府系金融機関から低利の融資を受けられる制度(マル経融資)と大店法を成立させた(p.93-)。

 80-87年は、自ら生み出した政治課題を行政改革として争点化し、擬似政権交代で支持を回復するという戦後政治でも特に安定的な政権運営がなされた(p.123)。

 土井たか子が社会党の新委員長に選出された1986年は男女雇用機会均等法が施行された直後の時代だった(p.141)。

 公明党の右旋回は1979年の東京都知事選挙における鈴木俊一の推薦から(p.142)

福田首相の時代、米国の金融危機による株安が進行する中、日銀総裁が3週間も空席となってしまった(p.235)

目次
第1章 戦後憲法体制の形成
第2章 55年体制I 高度成長期の政治
第3章 55年体制II 安定政治期の政治
第4章 改革の時代
第5章 「再イデオロギー化」する日本政治
終章  「ネオ55年体制」の完成

| | Comments (0)

『エチカ』スピノザ、上野修訳、岩波書店

410xcg32pyl_sx362_bo1204203200_

 以下は『エチカ』スピノザ、上野修訳、岩波書店の感想と、印象に残ったところの引用です。

 1-2部で神が全てだとくり込んでしまえば、後に残るのは人間の主体性だけであり、そうした人間たちがつくる共同社会も有益であるという肯定感なのかな、と。そして、人間が完全に肯定された存在ならば、実は人間は基本的に感情に隷属しているのであり、それまで重要視されていなかった感情論などを細かく検討していったのが3部以降なのかな、と。

 そんなスピノザのリアリズムがつまった言葉は《誰も他人が自分と同等でなければその徳をねたみはしない》(p.169)ではないかな、と。

 エチカ3部の個人的なまとめは以下。《精神のもろもろの決意はもろもろの欲求そのものにほかならず》《精神の決意と欲求は身体の欲求と本性上同時、というかむしろ同じ一つの事物》であり《自身としてあり続けようとする努力は、その事物の現実的な本性にほかならな》ず《欲求は人間の本質そのもの》で《(喜び、悲しみ、欲望という)三つの感情以外ににはどんな基本感情も認めない》。

 続く4部も肯定感にあふれています。《人間たちが最高に良いものとして感情から欲求するようなものは、たいてい一人しか所有できない》p.226なんていうあたりや《適度に美味しい食べ物と飲み物、良い香り、緑の美しさ、装飾、音楽、スポーツ、演劇といった他人に危害を加えることなく各人が利用しうるもので気分を一心し、元気を回復することは知者にふさわしい》p.236あたりの全肯定感も素晴らしい。

 貨幣が全事物を要約したので、民衆は《どんな類いの喜びも、原因のように金の観念が伴わずには表象できない》p.265なんてあたりは資本主義も肯定している感じ。

 しかし、全ての結語となる《すべての高貴なものは、稀であるとともに難しいのである》はやや苦味を感じるのですが。

訳者によるパラフレーズ(p.344-5)
 「実体」はその定義からして、ある属性によって他のものなしに考えられ、他のものなしに存在しうる(思惟と延長のように)。言いかえれば、同類を持たぬ比類なき存在が、属性ごとに、属性の数だけ考えられる。さていま、無限に多くの属性の反復重畳からなる実体を考えて「神」と名づけると、それは極大の事象性ないし実在性を持った絶対的な意味での比類なき存在者でなければなるまい。属性は複数の実体で共有することはできないので、ほかに実体はない。それは唯一無比であって、もしこの実体が存在していないのなら何も存在していないであろう。こうして外を持たない絶対的な存在のドメイン、すなわち「神ないし自然」が確定される。その外は不可能なのだから、およそありうる事物は定義により、すべてその実体の「様態」でなければならない(第一部「神について」)。
 いまデカルトに倣って思惟と延長がそうした属性の二つだとすると、この実体は思惟実体であると同時に延長実体である、言いかえれば同じものの異なる表現であることになるであろう。したがってまた延長様態と思惟様態も、やはり同じものの異なる表現でなければならない(この同一性、すなわち思惟と対象の一致が真理ということである)。したがって、もし延長様態(無限宇宙)のある部分が身体であり、思惟様態(無限知性)のそれに一致する部分が精神だとすれば、そこに心身合一としての人間を一個の真理として考えることができる。精神は無限知性の一部、一個の身体の観念である。精神が持ちうる認識は、この観念を起点とし身体の変状の観念を経由する神の局所的な思惟として理解される。そのあるものは十全であり、そのあるものは局所性ゆえに非十全である(第二部「精神の本性と起源について」)。
 さて、すべての事物は絶対的ドメイン上でいま言ったような仕方で存在し、同じように-程度の差はあれ-体と魂を持っている。その存在肯定を神の力能の一定の表現と考えれば、すべての事物はこの肯定を、それ自身であり続けようとするみずからの努力(コナトゥス)として生きていることになる。人間が意識している欲望はこの努力であり、それが人間に一切を行わせる人間の現実的本質なのである。自己を肯定するこの力能の増大と減少は、それぞれ喜びの感情と悲しみの感情に相当する。他のすべての感情はそこからの派生として定義できるであろう。いわゆる能動と受動も、人間の現実的本質を経由する事態の産出が因果的に十全か、局所性ゆえに非十全か、ということで定義できる《第三部「感情の起源と本性について」)。
 精神の能動は十全な思惟の産出に存する。精神と身体のふるまいは同じ一つのコナトゥスから決定されるのだから、意志ではどうにもならない感情も認識されることによって受動であることをやめるであろう。徳は能動によるこうした自己肯定に存する。それに役立つものはよい、妨げるものは悪い。その限りで、努力を同じくする他者は大事だし、共同社会は有益である(第四部「人間の隷属、あるいは感情の力について」)。
 ところで、生じることはすべて絶対的ドメインにおける必然的な事態なのだから、ものごとを十全に考えようとすればその認識は必ず神の認識を含む。これが「永遠の相のもとに見る」ということである。そのときわれわれの知性は、神の絶対的な肯定、ないし知的愛の一部になっており、それ自身が永遠なる部分となっているであろう。この絶対的な満足ないし平安が、求められていた自由、至福、救済である(第五部「知性の力能、あるいは人間の自由について」)。

エチカ1部「神について」
《神は意思の自由から働くのではない》
《意思はその他の自然的なものと同様、神の本性には属さない。むしろ意思は神の本性に対して、運動と静止、および神的本性の必然性から出てきてある一定の仕方で存在し働くように決定されるとわれわれが示した他のすべてのものと同様の関係を持つ》
《神の完全性だけから、神は他の違った決裁を下すことなど決してできず、一度たりともできはしなかった》
《私は神の本性とその諸特性を説明した。すなわち神は必然的に存在すること、唯一であること、みずからの本性の必然性のみからあり、かつ活動すること、すべての事物の自由原因であり、またどのようにしそうなのかということ。すべてのものは神の中にあり、神なしにはあることも考えられることもできないというふうに神に依存していること。そして最後に、すべてのものは神からあらかじめ決定されていたということ。しかもそれは意志の自由、言いかえれば絶対的な恣意から決定されたのではなく、神の絶対的な本性ないし無限の力能から決定されていたのだということ、こうしたことである。》

エチカ2部「精神の本性と起源について」
《思惟は神の属性である。言いかえれば、神は思惟する事物である》
《思惟実体と延長実体は同じ一つの実体》
《事物それ自体は、実は神が無限に多くの属性から成り立つ限りで、その神を原因とする》
《もし人間身体がある外部の物体の本性を含む仕方で変状されるなら、人間精神は、身体がこの外部物体の存在あるいは現前を排除するような変状に変状されるまでは、その物体を現実態において存在するものとして、もしくはみずからに現前するものとして観想するであろう。》
《経験を疑うことは、人間身体がわれわれの感じるとおりに存在していることを示したあとではもはや許されない》
《(記憶とは)人間身体の外にある諸事物の本性を含むもろもろの観念の、ある種の連結にほかならない》
《身体の観念と身体、すなわち精神と身体は同じ一つの個体であり、それがあるときは思惟の属性のもとで考えられ、あるときは延長の属性のもとで考えられる》
《すべての人間に共通するある種の観念ないし概念が与えられている》
《各人は各人の身体の傾向に応じて事物の普遍的な像を形成する》
《精神の中には絶対的な意思、言いかえれば自由な意思はない》

エチカ3部「感情の起源と本性について」
《精神と肉体は同じ一つの事物であり、それが思惟属性のもとで考えられたり、延長属性のもとで考えられたりするのである》
《身体が不活発なら同時に精神も思考に適さない》
《人間たちは自分は自由な存在だと信じているが、それは彼らが自分のなすことを意識し、しかも自分が決定されている諸原因について知らないからであり、また精神のもろもろの決意はもろもろの欲求そのものにほかならず、そのため身体の態勢がさまざまに異なるのに応じてことなる》
《精神の決意と欲求は身体の欲求と本性上同時、というかむしろ同じ一つの事物》
《自身としてあり続けようとする努力は、その事物の現実的な本性にほかならない》
《欲求は人間の本質そのもの》
《私は以上三つの感情以外にはどんな基本感情も認めない》
《人間は自分自身や愛する事物は過大評価し、反対に自分の憎む事物は過小評価する》
《自分の愛するものや憎むものをだれにも認めさせようとするこの努力は、実は「名誉心」》
《人は愛する事物が他のだれかと、自分が独り占めしていたものと同じあるいはそれ以上に強い親密な関係によって結合するさまを表象すると、その愛する事物に対する憎しみに変状され、かつそのだれかをねたむであろう》
《愛する女性が他人に身を任せるものを表象する人は、自分の欲求が抑制されることで悲しくなるだけでなく、愛する事物の像をその他人の恥部と分泌物に結びつけざるをえなくなり、そのため愛する事物を忌避するであろう》
《もし憎まれる正当な理由があると表象するなら、その場合は恥に変状される》
《もし愛される正当な理由があると信じるなら、その場合は誇りに感じるであろう》
《定理四八 愛と憎しみたとえばペトロに対するそれは、前者の含む喜び、後者の含む悲しみが別の原因の観念に結びつけられれば破壊される。またこのいずれの感情も、その原因はペトロだけではなかったのだとわれわれが表象する限りで、緩和される。
 証明 愛および憎しみの定義-この部の定理一三の備考にあるのを見よ-だけから明白である。というのも、喜びがペトロへの愛と呼ばれ、悲しみがペトロに対する憎しみと呼ばれるのは、ペトロがそうした感情の原因であると見なされるというただこのことのゆえなのだから。したがって、このことが完全に、あるいは部分的に除去されれば、ペトロに対する感情もまた完全に、あるいは部分的に緩和される。証明終わり》
《「後悔」とは原因であるかのように自己の観念が伴う悲しみ、「自己満足」とは原因であるかのように自己の観念が伴う喜びである。そしてこれらの感情は、人間が自分たちを自由な存在と信じているだけにきわめて激しい。》
《(自己満足の)喜びは人間が自身の徳ないしみずからの活動力能を観想するたびに繰り返されるために、だれもが自分の成し遂げたことを語り、自分の精神的強さ、身体的強さを誇示したがることになり、このために人間たちは互いにとって不快な存在となる》
《誰も他人が自分と同等でなければその徳をねたみはしない》
《欲望は各人の本性ないし本質そのものである。ゆえに各個体の欲望は他の個体の欲望と、一方の本性ないし本質が他方の本質と異なるだけ違っている》
《「欲望」(cupiditas)は、人間の本質そのもの、すなわち与えられた何らかの変状から何かをなすように決定されると考えられる限りで、人間の本質そのものである》
《「驚き」(admiratio)は、ある事物の特異な表象が他の表象との連関を欠き、そのために精神がそこに釘付けになってしまう表象作用である》
《恐れなき期待はなく、期待なき恐れもない》
《買いかぶりは愛の、見くびりは悲しみの、結果ないし特性である》

エチカ4部「人間の隷属、あるいは感情の力について」
《その人の本性がその人の活動力能》p.196
《個物がそれ自身であることを維持する力能、したがってまた人間がそれ自身としてあることを維持する力能は、神ないし自然の力能そのもの》p.201
《われわれはわれわれ自身としてあることを維持する助けになるもの、またはその妨げとなるものを、それぞれよい、悪いと呼ぶ》p.203
《理性は自然に反することは何ひとつ要求しない。それゆえ理性は各人が自分を愛すること、自分の利益を求め、それも真に有益であるような利益を求めること、そして人間を実際により大きな完全性へと導くあらゆるものを欲求すること、要するに、各人ができるかぎり自身としてあることの維持に努めることを要求する》p.210-
《徳の基礎は自身が自信としてあることの維持に努める努力そのものであること、そして幸せは人間が自身としてあることを維持しうることに存する》p.211
《自殺する人々は心において無能であり、自身の本性に矛盾する外部の諸原因によってすっかり征服されてしまう》p.211
《各人は自身の利益を追求するよう義務づけられるという原理は不敬虔の基礎》というのは逆で、徳と敬虔の基礎 p.212
《われわれが悪いと呼ぶのは、悲しみの原因となるもの》p.218
《人間たちは受動としての感情にとらわれる限りで、本性において異なりうる》p.222
《とはいえ、人間たちが理性の導きから生きるということは稀にしか起こらず、むしろ彼らに多くのねたみ深く、互いに不快な存在となるようにできている》p.223
《人間たちが最高に良いものとして感情から欲求するようなものは、たいてい一人しか所有できない》p.226
《法律、ならびに自己を維持する権力によって強固にされた社会は「国家」》p.228
《不服従は国家の権利のみによって処罰され、服従は市民の義務と見なされる》 p.229
《快活は過度になりえず、むしろ常に良い。反対に憂鬱は常に悪い》p.232
《適度に美味しい食べ物と飲み物、良い香り、緑の美しさ、装飾、音楽、スポーツ、演劇といった他人に危害を加えることなく各人が利用しうるもので気分を一心し、元気を回復することは知者にふさわしい》p.236
《期待と恐れの感情は、悲しみなしに与えられることはない》p.237
《自己満足はわれわれが望みうる最高のものである》p.240
《謙虚とは、人間が自身の無能を感想することから生じる悲しみのことである》p.241
《惨めな者の慰めは不幸な仲間がいてくれたこと》p.244
虚栄の支配者が名声の維持にやっきになるのは《民衆は移り気で無定見なので、名声は維持されなければただちに消え失せるから》p.245
《迷信家たちは徳を教えるよりも悪徳を非難することに長け、人間たちを理性によって導くかわりに恐れで抑え込む》p.251
《自由な人間は何よりも死については考えない》p.254
強い人は《怒り、ねたみ、嘲笑、慢心、その他これに類する真なる認識の障害の除去に努める》p.259
《自身としてあることを維持し理性的な生を享楽するのに有益であるとわれわれが判断するものは、それが何であろうと、われわれの利益のために逃さず捉え、どのように利用してもよい》p.261
《人間たちは(理性の指示から生きる者は稀なので)多種多様であり、そのくせねたみ深く、憐れみよりは復讐心に傾いている》p.262
《人間たちは施しによっても征服される》p.263
貨幣が全事物を要約したので、民衆は《どんな類いの喜びも、原因のように金の観念が伴わずには表象できない》p.265

エチカ5部「知性の力能、あるいは人間の自由について」
《神は自身を無限の知的愛で愛する。》
《すべての高貴なものは、稀であるとともに難しいのである》

| | Comments (0)

August 05, 2023

ヘーゲルによるスピノザ哲学の講義

Image0

『哲学史講義』ヘーゲル、長谷川宏訳、河出書房新社、1993

 個人的にスピノザを初めて知ったのはシドニー・ルメット監督、ロッド・スタイガー主演の映画『質屋』(The Pawnbroker,1964)だったと思います。ジェノサイドで妻子を殺されたポーランド出身のユダヤ人教授がNYで質屋に身をやつしつつもスピノザの本を読んでいるあたりでした(あやふやですが、DVDしか出ていないので、Blu-rayが出たら買って確かめてみようかな、と思います)。

 その後も何回かトライしてみたんですが、どうも肌合いが合わないし、翻訳も難しいし、概念がユニークすぎる感じがして、ここまで放っておいたんです(同じように激ムズだったヘーゲルなどは、十分理解できないにしてもガリガリと読んでいったんですが)。

 ということで画期的だと言われている岩波の新訳でスピノザ『エチカ』をゆるゆると読んでいるんですが、3部から読めというアドバイスに基づき3~5部はわりとさくさく読めたものの、1~2部があまりにも辛いので、ヘーゲルがどんなことを語っていたかなと思って長谷川宏訳『哲学史講義』の三巻、スコラ哲学以降の宗教改革、デカルトあたりから読み返しみました。

 ヘーゲルは《パウルス教授がイエナでスピノザの作品を刊行しましたが、わたしもその編集にくわわって、原文とフランス語訳とを対照する仕事をうけもちました》とスピノザの著作にも関わっています(p.242)し、自信たっぷりに《スピノザの哲学はデカルト哲学の完成体です》(下巻、p.273)と講義しています。

『エチカ』の訳注でもデカルト、ホッブス、スピノザは神学に基礎を置かない哲学を創造するにあたって、スコラ哲学が依拠したアリストテレスも否定するため四元素を認めないために、変状、変様という概念を重視したのかな、みたいなことを考えたりしたのですが(『エチカ』p.308)、ヘーゲルの哲学史講義の「近代の哲学」の「はじめに」で、ルターは教父やアリストテレスといった権威をひきあいにだすかわりに、人びとの常識に呼びかけた、なんていうヘーゲルの評価も立ち上がってきました(p.156)。

 新スピノザ全集の『エチカ』一部「神について」の変状、変様の違いについての訳註20で、デカルト派についての研究を紹介する中で、彼らはアリストテレス的な四元素を認めなかったから…みたいなことが書かれていたのも思い出して、なるほどな、と。

 この「近代の哲学」の「はじめに」では《近代の勇気とは、各人が自分流の行動をとるのではなく、他人とのつながりに信頼を置き、そのつながりに労をもってむくいることにあります》(p.165)という素敵なアフォリズムも印象的でした。

[実体について]

 スピノザでは「実体」という概念が重要なのですが、《実体というカテゴリーは、経験主義から出発して抽象への道をたどった知性の結論ともいうべきもので、それがスピノザのうちに見いだされます》という説明がされています(p.209)。しかし、「実体」の《内容が完全無欠の真理をあらわしているかどうかは、べつな問題です。幾何学の命題ではそういう問題は生じないが、哲学的考察の場合には、それこそが肝心な点です》とも。

 《スピノザは一つの実体から二つの属性がどのように生じるかを、スピノザは説明しないし、属性がなぜ二つしかないかの証明もしません》(p.255)が、それは同じ内容が、ある場合には思考の形式をとり、ある場合には存在の形式をとるという意味であり、思考という属性では知性界、延長では自然界になる、と考え、《思考と自然を同一視し》《神なくしてはなにものもありえない。神は必然であり自由でもある》(p.257)、というのが中心思想だ、と。

[精神と身体]

 スピノザの体系によると《実体は絶対的なものであり、個人は、実体の一様相として、身体もさまざまな動きや外部の事物からうける影響などを意識》(p.260)します。これをブーレが簡潔に要約しているとして《魂は、肉体の外にある一切の他なるものを、肉体のうちに感覚する。しかも、この感覚は、肉体がうけとめるさまざまな性質を媒介にしてしか生じない》と引用します(p.262)。

 スピノザは実体、属性(思考と延長)、様相の三つを定義し、《普遍的な実体から、特殊な思考と延長を経て、個別の状態変化へとおりていきます》(p.263)が、それは人間の意識の自由を破棄したものだった、と。

 ここらあたりで、前半に書かれているスピノザが自然を神とみなす無神論者だと非難されることについて《スピノザが対比するのは神と自然ではなく、思考と延長です。そして、神は両者を統一する絶対的実体であって、その実体のうちで、世界ないし自然は埋没し消滅していくのです》(p.243)として、《スピノザの体系は、思想にまで高められた絶対的な汎神論ないし一神論です。スピノザのいう絶対的な実体は、自然界のごとき有限なものではない。延長と思考を一体化したものとしてとらえる思考ないし直感こそが、スピノザ哲学の根本をなすのです》(p.246)という説明が浮かび上がってきます。また、《東洋的な直感がスピノザによってはじめて西洋の地で表現を得たといえる》としています(p.243)。

 スピノザは数学的証明にこだわったのですが、それ《宗教的権威らかめざめた自立した知が、かがやかしい成功例をしめす数学的形式に目をうばわれ》たためだった、とも(p.265)。

[道徳論]

 以下、長めの引用とします。

......Quote......

スピノザは感情を論じます。知性や意思は有限な様相です。 ―「人間が自由だと思いこむのは、自分をかりたてる行動の原因を知らないからにすぎない。」 「意思決定と観念とはおなじことである。」―「あらゆるものは自分の存在を維持しようとつとめる。この努力が生存そのものであり、そして生存には時間の長短のちがいがあるにすぎない。」「この努力が、精神と肉体の双方に同時に関係するとき、 欲望が生じる。」 ―「感情とは混乱した観念である。だから、感情を正確に知れば知るほど、それは制御しやすくなる。」 ―混乱した不十分な観念たる感情が、人間の行動を左右するとき、人間は奴隷の状態にある。感情の波だちのもっともはげしいものが、よろこびとかなしみである。われわれが部分としてふるまうかぎり。われわれは受動的な不自由のなかにある。

......End of Quote(p.267)......

 こうしたスピノザの主張に対して、ヘーゲルは主体性の思想から自己意識の契機がないとか、肉体を否定できていないなどと講義を続けるのですが、それは各自がご覧ください。

 ということで、3〜5部は読んだけど、1〜2部の「神について」「精神の本性と起源について」はいいかな、と思っていたけど、もう少しだけ付き合うことにします、というか、あとは2部の30頁ほどを残しているだけですので、週末にも読み切ってしまおうかな、と思っています。

 スピノザ全集の初回配本『3 エチカ』も3刷6千部と、学術書では異例の売れ行きを見せているそうですが、新しいスピノザ全集は、何を書いているのかわからないで読んでた方の多かったヘーゲルを初めて日本語に定着させた長谷川宏訳のような役割を果たすんじゃないかと思います。

| | Comments (0)

May 30, 2023

『現代政治学 第4版』

41b9dwhek9l_sx344_bo1204203200__20230530105401

『現代政治学 第4版』加茂利男,大西仁,石田徹,伊藤恭/著、有斐閣アルマ

 大学の学部の教科書にも使われることの多い有斐閣アルマのシリーズはそれぞれの学問分野を網羅的・体系的に解説してくれるので、読んでいて安心感があります。高校の教科書もそうなんですが、それぞれの学問は日進月歩で進化していますので、多少の時間差はあるにせよ、興味のある分野について、歴史で言えば山川の高校の教科書、政治学であれば有斐閣アルマは本当にありがたい。

 ということですが、政治学の難しさについて、政治エリートは人脈・血統、社会的地位の方が重要で、成功するためには法律や医学を身につけた方が確かであり、有用性を養う学問ではない、みたいなことを最初にことわってから「社会的探究としての政治学」に入っていくあたりの呼吸は素晴らしいな、と感じました。

 「第1章 政治の世界」では古典物理学のエネルギー、力といった概念が政治権力を表現する言葉として使われた、というのはなるほどな、と。

 「第4章 政治制度と政治過程」ではヨーロッパで比例代表が取り入れられたのは、小選挙区ばかりだと抱えていた少数派を恒久的に政治過程から阻害するからだ、というあたりに改めて納得。

 「第7章 政治意識と政治文化」でアンダーソンの「想像の共同体」についてマスメディアを通して形成された共通性だと説明していることや、「第9章 近代の国際政治と現代の国際政治」て国際体系の唯一のアクターは国家であり、国際体系アナーキーだと共にクリアカットに説明しています。

 今回は後半の「第11章 政治学の潮流」を少し詳しく紹介してみたいと思います。

 学問としての政治学はプラトンやアリストテレスの国家形態の比較論などから始まり、特にアリストテレスの学問は善の探究を目的としているため、倫理との関係で発想された、と。政治と倫理の問題を切り離したのはマキャベリ。ルネサンスと宗教改革を経て、近代の政治秩序原理を確立したのはルソーらの社会契約論。さらにミルなどの人間は自らの繁栄のために政治秩序を形成するという功利主義の発想が19世紀に生まれた、と。

 19世紀思想史の最大の事件である「神の死」を経て、理性的人間、合理的人間という理解が解体されたが、これは大衆民主主義の確立を背景にしている、と。こうした中でイーストンが行動科学を政治学に導入、政治は要求と支持(インプット)を分配し、政策(アウトプット)として産出する過程とした、と。さらに、ベントレーは政治の基本単位は個人ではなく利益ベースで形成された集団だと指摘。さらにダールは複数のグループの競争と妥協の過程が政治であり、それを多元的民主主義と名づけ、社会還元主義の制度軽視を克服しようとして歴史的制度論と社会学的制度論などの潮流も生まれた、と。

 こうした実証主義的な政治学が政治学のメインストリームとなったが、ベトナム戦争やマイノリティの解放運動を背景に「正義とは何か」という問いを投げかけたのがロールズ。『正義論』の狙いは多元化した社会における新しい共生ルールを正義の原理として定式化することであり、善の最大化よりもまず正義を定式化しよう、というもの。このほか、政治を財の分配ではなくコミュニケーションと考え、官僚化への対抗拠点は自由な主体のコミュニケーション領域だとするハーバマスもいる、と。

 著者は加茂利男 (立命館大学教授),大西 仁 (東北大学教授),石田 徹 (龍谷大学教授),伊藤 恭彦 (名古屋市立大学教授)。

[目次]

序 章 政治学のアイデンティティー
第1章 政治の世界
第2章 政治体制と変動
第3章 政治,経済,福祉
第4章 政治制度と政治過程
第5章 公共政策と行政
第6章 政党と政党制
第7章 政治意識と政治文化
第8章 政治空間の再編成
第9章 近代の国際政治と現代の国際政治
第10章 グローバル・プロブレマティーク
第11章 政治学の潮流
終 章 『現代政治学』からのメッセージ

| | Comments (0)

May 23, 2023

『組織・チーム・ビジネスを勝ちに導く 「作戦術」思考』小川清史

51hwerd0zl

『組織・チーム・ビジネスを勝ちに導く 「作戦術」思考』小川清史、ワニブックス

 作戦術=Operational Artとは戦略=全体最適を念頭に置きながら個々の戦術(現場)をコントロールする術のこと。

 元陸将(西部方面総監)の著者はウクライナ侵攻を巡る的格なコメントが素晴らしいな、と感じていて、これまでは共著を2冊読んだのですが、単著は初めて。全体を俯瞰してマトリクスに整理して落とし込み、そこから現状をフィードバックして考えるシステマチックな思考方法は動画などでもうかがえましたが、それは全体最適を念頭に置きながら戦術をコントロールするということを常に意識しているからなんだろうな、と感じました。もちろん、経営者向けの本なのですが、上司から指示を受けた際の応答・行動、部下への指示の出し方、同僚とのコミュニケーションはどうあるべきかなど中間管理職、一般社員にも役立つかな、と。

 ただ、歴史解釈などが最新の研究成果などを踏まえていないため(これは致し方ないのかもしれませんが)、最後の「作戦術」思考の事例集などはちょっと疑問に思うところもありましたが、ま、それぐらいは致し方ない。文春とか、もっと良い編集者のいるところで書いてもらったら、さらに素晴らしいものを書ける方なんじゃないかな、と思います。

 さて、全体最適を念頭に置きながら現場をコントロールすることの重要性を意識しはじめたのは、自衛隊幹部候補生として派遣された民間企業にこうした「作戦術」思考が欠落しているところをみたところからだそうです。その遠因として小川さんは、明治維新で国のあり方を設計するにあたって、藩の廃止でリーダーとなる人材を育てる制度がなくなったことだ、としています。明治維新の当初は各藩で育てられた数多くのリーダーがいたものの、現場を管理する人間が少なかったため、大学で現場実務を担う官僚を育成したんですが、そうした官僚をコントロールするリーダーたる人材育てられなくなった、と。

 小川さんは《「全体最適を追求できる人材は、OJT(On the Job Training:実際の業務を通じて知識・技術を習得させていく教育)ではつくれない。OJTだとどうしても個別最適な人材となる。全体最適の追求を学ぶには、それ専用の特別な教育が必要》(k.284、kはkindle番号)としています。その上で経営者に対しては《① 企業のビジョンを明確にして、全体最適からみた個別最適を追求すべき ② 個別最適のみの追求に走りがちな各現場をコントロールして組織の全体最適を達成できるような人材を育てるべき ③ 可能であれば全体最適を追求する専門部署も》(k.189)と提言しています。

 そして《実はこれは軍事の世界でも大きな課題であり、かつてアメリカやロシア(ソ連)はこの「戦略と戦術の齟齬」の問題に大いに頭を悩ませていました。そこで、 戦略と戦術の中間に「作戦」というレベルを設定し、戦略がしっかりと個別の戦術に反映されているか、個別の戦術が戦略目標に寄与する内容になっているかを調整・コントロールする技術を磨いていった》(k.236)として作戦術史を説明するくだりが本書の白眉でしょう。

 小川さんがウクライナ侵攻を平均月2回ぐらい解説する番組を観ているうちに、作戦術思考を最初に取り入れた旧ソ連軍を引き継いだロシア軍がなんで兵力的に劣るウクライナ相手に苦戦しているのか、ということが常に疑問でした。『独ソ戦』大木毅、岩波新書で絶賛されていたドイツ軍、日本軍を圧倒した旧ソ連軍の連続縦深打撃が見事なものだっただけに、なおさら(連続縦深打撃とは火力集中で前線を叩いた後に機動部隊で包囲殲滅するという近代的戦術)。

 これは《ソ連国土のように戦場が広くなり、 敵陣に深く攻め入るほど、軍本部から前線の状況を把握するのが難しく なり、従来の戦術と戦略のみの概念に基づく戦い方(軍中央本部が命令・指示を出して前線の部隊を運用する戦い方)では 部隊の運用も戦果の把握も極めて困難》(k.435)という条件があったため《戦略と戦術の間に「作戦」というレベルを設定し、そのレベルでの運用概念として作戦術が編み出されました。その作戦術の理論として、敵防御陣地の縦深への、あらゆる攻撃手段による同時攻撃という「縦深作戦コンセプト」などが発展》(k.438)した、と。

 このためソ連軍の作戦術では《・現在の作戦の特質を把握すること ・作戦計画・命令を作成すること ・大単位部隊(正面軍と軍)と編成部隊(軍団と師団)の任務を決めること ・戦闘中の部隊を継続的に支援すること ・大単位部隊の編制と装備を決めること ・将校と指揮統制機関に対する予行訓練を計画・実施すること ・戦域における軍事作戦計画を作成すること 〈デイヴィッド・M・グランツ著『ソ連軍〈作戦術〉縦深会戦の追求』より筆者加筆》(k.455)を行うそうです。

 こうした革新的なソ連の作戦術に対して、米軍はベトナム戦争で、マクナマラ国防長官がヒトラーのように軍事作戦に直接関与し《・戦場でのコストパフォーマンスを数値化 ・計画を徹底的に重視(PDCAサイクル) ・成果を数値化するため、死体・捕虜の数、 鹵獲 した兵器数、破壊した地下トンネル数を累積・評価 ・中央集権化を強化するため、軍事マニュアルを改訂して、指揮官が自主積極的に行動することを抑制 ・成果を目に見える形で示すため、(戦略がないにもかかわらず )大規模な北爆》(k.500)を行うなど、個別最適を追求したため、最も重視すべき「アメリカ国内世論」という重心を忘れて敗北した、と批判しています。

 そして米国ではこの失敗以降「戦術と作戦術は軍人にまかせる、戦略(政戦略)は政治家が担当する」という原則を確立し《米陸軍では作戦術の要素として「重心」の他に、「望ましいエンドステート」「決勝点」「作戦系列と努力系列」「作戦速度」「期区分と移行要領」「作戦限界と転換点」「作戦リーチ」「策源」「リスク」という 10 点》(k.550)を明確にして、さらに作戦術のベースは「第三の波」の思考に置き、《1982年に「エアランド・バトル」という新しい軍事ドクトリン(原則)を盛り込んだ軍事マニュアル(FM100-5)をつくるに際して、米陸軍の上層部は「第三の波」の軍隊を目指すべく、直接トフラーと議論を交わすことで彼の理論の理解を深めた》(k.626)としています。

 このほか《軍事の世界では、1870~1871年の普仏戦争後、フランスに勝利してドイツ統一を果たしたプロシア軍において、モルトケ参謀長によって新たな人事施策が出されました。  統一するまでの間は、出世の順番として何よりもまず「やる気のある将校」、「積極的に仕事をする将校」優先でした。  ところが、統一後は、「それいけどんどん」タイプでは、軍縮しなければならない軍組織の全体最適が達成できなくなります。  そこで、出世の順番を ①「やる気がなく」頭が良い将校、 ②「やる気がなく」頭の切れが劣る将校、 ③「やる気があって」頭の切れが劣る将校、最後が ④「やる気があって」頭が良い将校、に切り替えた》(k.930)というあたりも面白かった。

 さらに民法の精神、具体的には所有の概念をもっと学ぶ必要性があるとか、「学歴」は新しい〝身分〟だとか、クリアカットな言い方に好感が持てます。

【目次】
第一章 今の日本に欠けているのは「作戦術」思考
第二章 なぜ作戦術が必要なのか
第三章 「理想のチーム」に求められるリーダーシップ
第四章 “本質”を見抜く力を鍛える
第五章 「作戦術」思考の事例集

| | Comments (0)

『初歩からのシャーロック・ホームズ』

71s8xeftcl

『初歩からのシャーロック・ホームズ』北原尚彦、中公新書ラクレ

 2023年末に公演予定の雪組公演『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル-Boiled Doyle on the Toil Trail-』(生田大和作)の予習をかねて、読んでみました。

 『ボイルド・ドイル…』は生田先生にとって二作目のホームズもの。

 作者のコナン・ドイルの前に“架空の存在にすぎない筈の”シャーロック・ホームズーが姿を現したら…という設定の物語らしいのですが、前作の『シャーロック・ホームズーThe Game is Afoot!-』の時は、それなりに読んできたのでわざわざ予習していくことないでしょう…とタカをくくって失敗したので、こんどはちゃんとざっくり予習しようと思って、宙組公演の劇評なども書かれていた北原尚彦さんの入門書を読んでみました。

 コナン・ドイル自身については、一通りは知っていましたし、ホームズもの以外でもチャレンジャー教授の活躍する『失われた世界』『地球最後の日』などは読んでいましたし、本来は歴史物を書きたかったというというも知っていましたが、改めて、ホームズもの以外の作品を数多く残していて、百年戦争時代のサー・ナイジェル、ナポレオン戦争時代のジェラール(『三銃士』のダルタニアンを思わせるガスコン生まれの剣士)などのキャラクターを生み出しているんだな、と。ドイルはキャラクー設定のうまい作家だったのかもしれません。

 そして最も凝ったのが心霊術というあたりは、生田先生の物語にも活かされたりして。また、ドイルはスポーツ好きで、ポーツマスAFCというサッカー・クラブでゴール・キーパーとして活躍していたというのは知りませんでした。ただし、当時のサッカーは労働者階級のスポーツだったため、A.C.スミスという偽名で試合に出ていたとか(p.171)。

 そのほか、日本語で「バリツ」と書かれている格闘技は、日本の武術とステッキ術を融合した「バーティツ Bartitsu」だったとかも知らなかったな。ずっと昔は単なる武術のスペルミスだとされていたから(p.37)。

 当時のロンドンで現在のタクシーの役割を果たしていたのが辻馬車で、乗合馬車はバスのようなものだったとかも、なるほどな、と(p.59)。

 The Game is Afoot!(獲物が飛び出したぞ)という台詞を口にするのは『シャーロック・ホームズの生還』の第十二話「アヴィ屋敷」だというのも忘れていました(シェイクスピアの『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』の引用)。

 ウィリアム・ジレットが演じて、以後のキャラクターを決定付けた無声映画『シャーロック・ホームズ』も今やBD化されたのを見られるということでしたが、Youtubeでも一部を見ることができて、ありがたい限り(p.151)。
 
 ブックガイドで紹介されていて、おそらく生田先生も読んでいるであろう『〈ホームズ〉から〈シャーロック〉へ――偶像を作り出した人々の物語』マティアス・ボーストレム、作品社なども読んでみようかな。

 とにかく肩が凝らず面白い本でした。

| | Comments (0)

May 22, 2023

『新しい地政学』北岡伸一、細谷雄一ほか

510diaipdwl

『新しい地政学』北岡伸一、細谷雄一、東洋経済新報社

 Audibleで聴きましたので、印象に残ったところだけを紹介します。

 ウクライナ侵攻前に編まれた本書ですが、なぜプーチンはあんなことをしたのか、と思いつつ〈第6章 プーチンのグランド・ストラテジーと「狭間の政治学」 ロシアと地政学(廣瀬陽子)〉を読みました。そこで紹介されているのが、ドゥーギンの『地政学の基礎』。ドゥーギンは昨年秋、TVコンテーターの娘が自動車爆弾テロで殺されましたが、本人はダブリンからウラジオストクまで広がるユーラシア帝国のビジョンを提唱していました。その内容は噴飯ものなのですが、それにプーチンが影響を受けていたとしたら本当に心配になってきます。

 例えば、日本の反米主義者を支援してベルリン-モスクワ-東京枢軸をつくるとか。なんか、戦前の日本人が米国の民主主義は兵士を軟弱にするとか信じていたみたいなことを思い出してしまうほど。しかも、この構想自体もハウスホーファーあたりの受け売りなんじゃないか、とか。ま、昔の日本も万世一系とか神風とか信じていたんで、そう笑ってばかりはおられないのですがw

 〈終章 中曽根康弘の地政学 1950年の世界一周旅行(北岡 伸一)〉も面白かった。旧内務官僚で戦後に政治家となった世代は、中曽根よりも10歳ほど年上の奥野誠亮は上司が公職追放されていたため、米軍との交渉の矢面に立たされて米軍に対して反発するナショナリストになり、2.26事件で警視庁を襲撃された後藤田正晴は旧軍復活を絶対に許さず、一番若かった中曽根はバランスよく日本の罪を認めつつ、現実的には米国に追随する道を選んだ、みたいな。

 いま話題のスーダンですが、イスラム教を信仰するアラブ系住民が多い北部(現在のスーダン)と、キリスト教などを信仰するアフリカ系住民が多い南部(現在の南スーダン)に分断されていて、北部は広義の中東に分類する研究者もいるというのは〈第7章 「アフリカの角」と地政学(遠藤 貢)〉で知りました。

[目次]

序 章 古い地政学と新しい地政学(北岡伸一)

<第Ⅰ部 理論的に考える>

第1章 新しい地政学の時代へ 冷戦後における国際秩序の転換(細谷雄一)

第2章 武器としての経済力とその限界 経済と地政学(田所昌幸)

第3章 国際紛争の全体図と性格 紛争解決と地政学(篠田英朗)

<第Ⅱ部 規範・制度で考える>

第4章 人権の普遍性とその濫用の危険性 人権概念の発展と地政学(熊谷奈緒子)

第5章 国際協力という可能性 グローバル・ガバナンスと地政学(詫摩佳代)

<第Ⅲ部 地域で考える>

第6章 プーチンのグランド・ストラテジーと「狭間の政治学」 ロシアと地政学(廣瀬陽子)

第7章 「アフリカの角」と地政学(遠藤 貢)

第8章 「非国家主体」の台頭と「地域大国」 中東と地政学(池内 恵)

終  章 中曽根康弘の地政学 1950年の世界一周旅行(北岡 伸一)

あとがき
新しい地政学における国際秩序を考える研究会
編者・執筆者紹介と執筆担当章

 

| | Comments (0)

『政治家の酒癖 世界を動かしてきた酒飲みたち』

51vndwdgy9l_sx304_bo1204203200_

『政治家の酒癖 世界を動かしてきた酒飲みたち』栗下直也、 平凡社新書

 

 酔っ払いは「行動の詩人」になるというか、徹夜麻雀も2日目に突入すると全ての言葉が詩に聞こえてくるような不思議な感覚を味わうことがあるのですが、『人生で大切なことは泥酔に学んだ』に続く栗下直也さんの快著も行動で詩人の魂を示すエピソードや箴言に満ちています。

 また、この本はプーチンのウクライナ侵攻がなかったら成立していなかったのかもしれないと感じます。当たり前ながらほとんどが酔っ払い政治家のことを書いているのに、全体の締めが「飲まないプーチン」だから。なんと目次のラストは「ウラジミール・プーチン 人間は酒を飲まなくても合理的な判断をするとは限らない」です。

 様々な政治家の酒に酔った醜態を書いたあと、栗下さんはプーチンの行動をみて看破するのです。《酒を飲まなくても、体を鍛えて節制しても、まともな判断ができるとは限らない》と(p.183)。オバマでもローマ法王でも誰との会談でも遅れるプーチンに「それだけ遅刻するなら、戦争の判断だけ早々と下すなよ」と思ったはずだ、と。いずれにしても彼は人間は酒を飲まないからといって合理的な判断ができるとは限らないことを示してくらたのだ、と。

 「おわりに」では、さらに一歩進めて《正論ではカバーできないところを補うのが政治家の仕事でもあった》のに、本音なき建前が横行してしまっている、とコンプライアンス全盛時代の問題点をついています。個人的に思い出したのは尊敬する立川談志師匠のエピソード。談志師匠は知り合いの防衛庁長官に免許の取消を勘弁してほしいと頼んで断られると「そんなことでお前は国を守れるのか」と怒鳴ったといいます。個人的には至極正しい感覚だと思うのですが、どう考えても今では通用しない論法でしょう。その理由を栗下さんはこう説明してくれています。人間は本来適当な生き物なのに、つい最近、品行方正な社会になったので戸惑っている人が多いのだ、と。

 たがら、酔って戦艦から艦砲射撃して漁民を殺した黒田清隆首相(大日本帝国憲法を発布した時の総理大臣)や、パンツ一丁で招かれたホワイトハウスを彷徨って外出しようとしたエリツィンや、あまりにも酷い酩酊ぶりに呆れた娘から玄関で水をぶっかけられた宮沢喜一首相やなどが懐かしく感じられるのかもしれません。

 また、政治家とそれを選ぶ人々の問題点も軽いタッチで描いています。それはイケメン政治家。《どこの国でもどこの時代でもイケメンは人気があるが、政治はたいがいうまくない。だからといって非イケメンが政治的手腕に長けているわけでもないので、せめてイケメンを選んでいるのかも》(p.116)、と。米国の民主党で大統領候補がなかなか投票では選ぶことができず、結局、イケメンだからということで選ばれたあげくに当選してしまったピアースは南北戦争の原因をつくってしまい「酔う以外にやるべきことはない」と漏らし、史上最低の大統領投票では常にワーストの席を争っています。ピアースは35回目の投票で大統領候補に担ぎ上げられたのですが、確かに103回の投票の末に選ばれて、クーリッジに歴史的敗北を喫したジョン・W・デイビスもイケメンで、「面倒臭いからイケメンを選ぶ」という選挙民の悲しい人間の性も教えてくれています。

| | Comments (0)

March 13, 2023

『言語ゲームの練習問題』

B0bp21yh2401_sclzzzzzzz_sx500_

『言語ゲームの練習問題』橋爪大三郎、講談社現代新書

 世界は要素的な出来事からなる内部構造を持ち、言語は要素命題からなる内部構造を持っていて、その構造が写像関係になっており、それが論理だ、と論証しようとした『論理哲学論考』の

6.53
6.54

 のような叙述スタイルを用いて、ヴィトゲンシュタインが言語は論理的に基礎づけることはできないと放棄し、『論考』の代わりに考えついた言語ゲームを説明してくれるのが本書。

 ヴィトゲンシュタインの師であるラッセルは論理学によって数学を基礎づけることに関心があったんですが、ヴィトゲンシュタインは論理学を考える道具とみなし、言語を基礎づけようとしました。『はじめての言語ゲーム』橋爪大三郎によれば、「このバラは赤い」は要素命題であり、バラに対応するモノがあり、「このバラは赤い」に対応する出来事があるから、言葉は意味を持つというのが『論考』の考え方だと説明していました。言語も世界も分析可能であり、分解していけば要素に行き着く、と。世界と言語とは互いに写像関係にあり、一対一で対応しているので、こうしたやり方以外での言語の使用を禁じるという意味が『論考』の「7 語りえぬことについては、沈黙しなければならない」の意味ではないか、と。

 しかし、こうした一対一の対応は科学の世界では成り立つが、社会では成り立たないということがわかって、言葉が意味を持つのは、ヒトがなんとなる分かったふりをする言語ゲームだというのが後期のヴィトゲンシュタイン。

 この『言語ゲームの練習問題』では、例えば、死の問題で言語ゲームを説明します。

.........Quote...........

定理 2・5  あなた(だけ) が死ぬのだと、あなたが知っているのであれば、あなたが死んだあとにも、世界は存在することをあなたは知っている。
 この確信は、経験によるのではない。
 この確信は、社会の前提である。ならば社会は、すみずみまで経験的に明らかにし、語り尽くすことができない。
 言い換えれば、社会は、自然科学の枠に収まらないのである。(k.293)

.........End of Quote...........

 《社会は、自然科学の枠に収まらないのである》というパンチラインが効いてます。

 そして、以下のような晴れやかな結論が導かれます。

.........Quote...........

 人びとは、人類の一員として生きている。
 それは、言葉を用いて、意味をやりとりし、価値を紡ぎだすことである。
 このことは、経験的な検証の原理を、はみ出している。
 世界はこのような、言語を交わす人びとの交流の場である。(k.309)

.........End of Quote...........

そして《人びとが社会を営むそのやり方が、言語ゲームである》(k.391)、と。

| | Comments (0)

«『ショットとは何か』と"Madame de..."