September 20, 2018

『初期仏教』

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『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書

 夏前に、特に読みたい新刊もなくなったので、ヘーゲルの『哲学史講義』を再読しているのですが、その上巻を読んで、あっさり触れられているインド哲学に関しても、ほとんど知らないな、と感じました。

 例えば、ヘーゲルは『哲学史講義 上』のなかで、ガウタマとカナーダの遵守する規則はヴェーダの一節に、教育と研究のために必要なあゆみとして示唆されている言表、定義、探求の三つであり、インド哲学にとって大切なのは、霊魂の自己内集中、自由な境地への高揚、自力でつくりあげる思考なんて書いてますが、このガウタマはニヤーヤ学派の祖でアクシャパーダ・ガウタマだったりします。シッダールタではありません。

 『哲学史講義』の再読は中巻まで進んで、プラトン、アリストテレスと佳境に入ってはいるんですが、ほとんど意識したことない古代インドに関して何か読んでみるか…ということでヘーゲルを中断して『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書を読み始めたら、面白い。

 いきなり

・初期仏教の神々は寿命の長い天界の住人にすぎないので祈ることはしない
・宇宙原理も説かない
・生の不確実性を見据え、自己を再生産する「渇望」という衝動の克服を説く

 というあたりから書き始めています。

 そしてパーリ語の仏典からの引用を中心に後世の諸教団(小乗、チベット)の解釈などは排除して解説、と原典主義を宣言しているのが潔い。

 読書量の少なさ、知識の欠如は自覚していますが、仏教が誕生した当時のインドの社会、経済的背景もほとんどしらなかったな、と。当時はヴェーダを基礎としたアーリア人社会なんですが、元々アーリア人は遊牧民。衰退したインダス文明の先住民と交流・対立しながらガンジス川流域に拡大していったのがアーリア人だ、と。

 ちなみにカーストの4階級のうち人間扱いされている上の3つはアーリアで、下層は先住民だろうと。

 また、当時は富を長期的に蓄積する思考は見えなかった、というあたりも面白かった。

 ヴェーダを通してみえる当時のアーリア人社会は、祭官に対する贈与と、儀礼における富の消費を中心とした威信経済で成り立つ部族社会だった、と。時代が下るにつれて王権の強大化が進んだが、高度な官僚機構と強力な軍隊に支えられた専制政治ではなく、部族王制に留まった、と。

 威信経済という言葉を初めて読んだんだけど、これはポトラッチなんかを含む新しい言い方なんでしょうか。富を長期的に蓄積する手段がないので、そうした思考も持たなかったので、富を発作的に消費する、みたいな。とにかく、インドに関する学問は急速に発達しているという著者の言葉に納得。読み進めていきます。

 仏教成立前のインドはキリスト教出現前のユダヤ教と似ている感じがするし、仏典の成立過程は新約聖書の成立過程とパラレルのような感じもして興味深い。

 ちなみに、仏陀が悟りを開く前にも、悪人正機説みたいなのを唱えていたプーラナ・カッサパなどがいて、こうした六師外道の唯物論者たちはギリシャ哲学の先駆者のような感じ。ただし、その背景は全て輪廻。輪廻を前提としているか、それを否定しているかの違いのような。

 仏典で、仏陀と祭官との問答がさかんに行われるのも福音書と似ていると改めて感じる。

 アケメネス朝ペルシャを滅ぼしたアレクサンドロスはインドのナンダ朝とは一戦を交えずインダス川を下って帰還。ナンダ朝を倒したマウリヤ朝のアショーカ王は法(ダルマ)による統治を目指したが、これはいち早く中央集権体制をつくっていたアケメネス朝の影響。

 当時の出家集団は遊行生活を送っていたが、紀元前1世紀に季節風「ヒッパロスの風」が発見されてローマとの海上交易が隆盛(『後漢書』西域伝に大秦王安敦=マルクス・アウレリウス・アントニヌスの使が日南=ベトナム北方のユエ付近から入貢したことがみえるのも、これが原因だったか!)。

 出家集団にも富んだ商人などからの定期収入が入ることなり、恒常的な運営が行われる組織へと変貌。

 出家者が遊行している状態では仏典の写本を持っていくのは不便だったが、恒常的な僧院が運営されれば、そこに口頭伝承されていた仏典の写本を置くことは重要になってくる、

 この時期は紀元前後。

 さらに、写本を前提とした個人の作品も著されるようになるが、これは福音書がユダヤ教に染まったキリスト教からのギリシャ語とヘレニズム文化を前提としたキリスト教の「離脱」を進めるために、ギリシャ語で書かれた、みたいなのを連想させるし、地域ごとに成立した教会で、福音書を前提に使徒たちが手紙を書き始めて、それが正典になっていった、みたいなのとパラレルのような気がする。

 あと、般若経、法華経など大乗仏典には、それ自体を書写するよう勧める箇所があり、それだけで初期仏教とは異なることが端的にわかる、と。

 インドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、と。

 これは凄いな、と。

 実はユダヤ教徒もユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書かれていたけど、それは、例えば古典を読むような感じで読まれていて、ローマ時代などでも話し言葉はアラム語だというのが有力で、ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われているので、本当に胸熱。

 実は仏教、ユダヤ教、キリスト教の基層はササン朝ペルシャだったんじゃないのかな…その上にきたヘレニズムによって仏教では仏像がつくられたり、仏典が新しくつくられたり、キリスト教がユダヤ教から離脱したんじゃないか、みたいな。さらに、神殿を中心としたユダヤ教はそれ以上のグローバリズムに耐えられず、ローマに対して無謀な戦いを起こして離散した、みたいな。

 それを考えると、仏教の弥勒も、キリスト教の「人の子」もゾロアスター教の影響とかいう話しが凄く現実味を帯びてくるような(床屋政談ですが)。

  当時、仏典は口承伝承で伝えられ、知識も師から直接学ぶべきものと考えられていた。また、最初期の仏典はアーリア語で口誦されていたが、各地に伝播するにつれて、パーリ語、ガンダーラ語、サンスクリット語でまとめられていった、というのが前提。

 仏陀が没した後、弟子たちが仏典をまとめたという結集の意味は「共に唱えること」。マハーカッサパ(大迦葉)が各出家教団に法と律を唱えるためにラージャガハ(王舎城)に集まることを提案、実行された、と。

 出家者の規律である律はウパーリ(優波離、シュードラの出身)、教えである法はアーナンダ(阿難、仏陀の世話係)が答えてまとめられた、と(漢訳経典の冒頭の「如是我聞」は「我はこのように聞いた」という意味で、その我は多くがアーナンダ)。

 こうして、いったんまとめられると分裂していくのが世の常で、出家集団が各地に展開していく過程で「部派」が出現。紀元後4~5世紀まで「上座部大寺派」など五派が、結集された仏典の伝承を担っていると主張。「法と律」の枠組みから「律蔵、経蔵、論蔵」の三蔵の枠組みを作り出す、と。

 インド本土で仏教が滅んで以降、スリランカや東南アジアに伝承に伝承されるパーリ仏典の三蔵は、もともとスリランカの上座部大寺派が伝承。

 パーリ三蔵は1)出家者の生活規律と出家教団の運営方法を示した「律蔵」2)仏陀や弟子の教えを示した「経蔵」3)教理要綱の「論蔵」から成る。

 このうち、最初にまとめられたのは「律蔵」の経分部(出家者の生活規律)とけん度部(出家教団の運営方法な衣・薬などの使用方法)、「経蔵」の四部(経典)で、他の部派とも共通するので、ほぼインド本土で成立されたのは間違いない、と。その後に「論蔵」や付属する文書が追加された、と。他の部派でも似たような成立過程を経て、最後に「経蔵」へ小蔵を付け加えていった、と。

 教えである法に、各部派が付け加えていった小部に収録されている仏典は《もともと結集仏典に位置づけられなかったことを示している》(p.70)。こうした小部は基本的に韻文仏典であり、権威を持っていない、と。例えば、自己犠牲の話しなどは、他の伝承説話と共通するものが認められ、布教のために有効だと判断されて取り入れられた、と。
 
 これなんかは新約聖書でも、福音書の他に、いわゆるヨハネ教団が独自の書簡や黙示録をまとめたり、使徒の中でも別格の地位を占めていたパウロやペトロの名前をつかって新たな文書を各地の教会がつくっていった、という流れと似ているな、と。

 とにかく、こうしたことを前提に「仏陀が教えた」と初期仏教が伝承した思想に本書は焦点を当てていきます。キリスト教の世界では、一時「史的イエス」の再構築が盛んに行われました。様々なパピルスが残っていたことなどから、比較検討が可能と考えられたのですが、多くは「私的イエス」の造詣に終わっています。

 仏教の場合、数十年にわたるこうした「史的イエス」の試みの失敗を見ていたのか、最初から「仏陀の肉声を復元しようというのではなく」という姿勢なんでしょうかね(p.78)。学問の進歩を感じます。

 とにかく、そうなると教えである四部(四阿含)と経分部、けん度部が原型になる、と。

 四阿含に収録されている仏典は如是我聞という定型句から始まり、こうした仏典の名称としてサンスクリット語、漢訳、チベット語訳では阿含(伝承の意味)が使われている、と。

 にしても、仏陀の前世の物語として、自己犠牲を払った動物の話などが残されている、というあたり(p.72-)。現代において、数少ない経験ではあるのですが、インドの方々と接すると自己犠牲という言葉は全く感じられないのは、やはり仏教を放逐したからでしょうか(んなわけないかw)。でも、そのコントラストは実に見事だな、とw


 白眉は三章で文献学的研究の紹介するところですが、前提となるさわりを。

 19世紀に古くなった書物を捨て置く跡などから多くの写本が発掘されるなど、新約聖書の写本はパピルス断片を含めて膨大な数となり、それを元に本文批評が進みました。例えば割とフツーの人たちも感動してSNSなどでも引用されるぐらい有名な「罪のない者だけが、この女に石を投げなさい」は後世の付け足しです。カトリックと多くのプロテタントが共通して使用している新共同訳はヨハネによる福音書8章のこの部分を[]でくくって、オリジナルのテキストでないことを一般信者にもわかるようにしているぐらい(原理主義的な福音派などはそうした処理はやっていません)。

 こうした聖書の研究は、近代とともに始まりましたが、当初は死をも覚悟しなければならない作業でした。しかし、地道なテキスト探索(中東の古い修道院巡り)、市場の確立(こうした断片は高く売れますから)などにより、膨大な数のパピルス断片、写本などが集まり文献学的研究が進んだことが聖書学を学問として成り立たせる基礎となり、西欧社会を古い軛から解き放ちました(コーランの研究も進めば、同じようになることでしょうが、勇気ある研究者は少ないんですかね)。

 仏教は国家宗教とはならなかったので、弾圧・迫害に抗するようなドラマは生んでいないようですが、文献学的には同じような変化が150~200年遅れぐらいで起きているようです。それはアフガニスタン内戦がもたらしたものらしいというのが、死海文書が中東戦争の最中にもたらされたことに類似していて心が痛みますが。

 内戦で流出した仏典写本の中には日本画家、平山郁夫さんが手に入れたものもあります。

 なぜガンダーラ写本が重要かというと、ネパールや中央アジアのサンスクリット写本が7-8世紀につくられたのに対して、紀元前後から3~4世紀にさかのぼることができるから。死海写本はそれまで最古だったレニングラード写本を1000年ほどさかのぼるものでしたが、それ匹敵するような証拠となります。

 というあたりまでのことを頭に入れておいていただくと、以下の『初期仏教』第三章の意義がより深く理解できると思います。

 上座部大寺派、化地部、法蔵部、説一切有部、大衆部の五派が、法(ブッダの教え)と律(出家集団の規律)をそれぞれ再構成した三蔵を比較すると、四部(四阿含)と経分部、けん度部が結集につながる原型として考えられる、というのが前回までの話しでしたが、仏典結集の物語は「律」の末尾に置かれていた可能性が高い、と筆者はしています。

 また、律で興味深いのはブッダの伝記が含まれていること。

 本来、法(ブッダの教え)に仏伝は収められていてもいいと思うのですが、各派の四部=四阿含には様々な人物がやってきてブッダと言葉を交わして、ブッダが説法するというのが基本となっており、ブッダの生涯を追う記述はありません。

 そうした仏伝的記述が、戒律を示す「律」に収められているのは《出家集団が大規模となって受戒の制度が確立するまでの経緯を説明するために、「律」に仏伝的記述が組み込まれた》からではないかという平山彰の研究を本書では紹介しています(p.86)。

 五派の仏伝的記述を比較検討すると共通しているのは、悟りを開いた後の梵天勧請、転法輪、ヤサの出家、カッサパ三兄弟の回心、ビンビサーラ王の出迎え、舎利佛と目連の回心。

 これは新約聖書に喩えると、最初に成立したマルコによる福音書が、イエス伝をヨハネによる洗礼から十字架刑の後の女たちによる空墓の発見までしているという抑制された内容だったことに対応していると感じます。

 マルコに対応するのは仏教の場合、上座部大寺派のパーリ律なんでしょうかね。他の部では、化地部、法蔵部には釈迦族の系譜、誕生、成仏(悟りを開くこと)を付け加えたり、説一切有部、大衆部では人間界の誕生が加わります。

 新約聖書でも、マルコを参考にして後に書かれたマタイ、ルカではイエスの系譜、誕生物語、幼少期の奇跡などが加わり、さらにその後に独自展開をみせるヨハネ教団による福音書では有名な「初めに言があった」と原初までをも語るまでになってしまうことが似ているな、と。

 さて、共通する仏伝的記述では、ゴータマが悟りに達してブッダとなった(成仏)後に教えを説き始めているので、何を認識して悟ったのかは重要になってきます。

 それを成仏伝承としてみると1)四聖諦2)縁起3)五蘊・六処を認識することで悟った、と語られている、と。四聖諦は「この世は苦であり、苦の原因は煩悩だから執着を断って解脱する」みたいな話し。

 しかし、ガンダーラ写本には三蔵がまとまった形で存在していたことを示す写本はみつかっていません。

 でも、2世紀に安世高によって訳出された漢訳仏典や1~2世紀に著されたアシュヴァゴーシャ(馬鳴)の『ブッダチャリタ(仏所行讃)』にも、四聖諦、縁起、五蘊・六処などの教えはみられるので、紀元前、大乗仏教の隆起以前に存在してただろう、というのが著者の立場です。

 『初期仏教 ブッダの思想をたどる』の目次は以下の通り。

はじまりの仏教
第一章 仏教の誕生
第二章 初期仏典のなりたち
第三章 ブッダの思想をたどる
第四章 贈与と自律
第五章 苦と渇望の知
第六章 再生なき生を生きる
ひろがる仏教
あとがき

 面白かったのは三章まで。それまでは初期の出家集団がまとめたと考えられる最古層のテキストはどう確定できるか、という方法論で、四章以降は、その教え。

 哲学も進化していくので、2000年前のナイーブな教えそのものにいま見るべき内容はあまりないのですが、それを書かないでおくのも不完全なので、まとめてみます。

[第四章 贈与と自律]

 当時の社会は輪廻思想を前提にしており、祭官への贈与で輪廻から脱出できるというバラモン教、苦行の末に脱出できるというジャイナ教の中庸を行け、みたいなのがブッダの教えだったと思われます。《仏教以前から存在していた先天信仰を、祭式から切り離し、贈与と良い習慣をその条件とすることによって「倫理化」した》(p.117)もので、《仏教の輪廻思想は先行する輪廻思想を継承したものであり、善悪の基準も、古代インド社会で広く認められた道徳と大差はない》(p.121)。

 仏教の独自性は行為(サンスクリット語ではkarman、パーリ語ではkamma、漢訳では業)を意思(サンスクリット語、パーリ語ともcetana)と定義したこと。意思を核にして行為論を組み立てたために、仏教は生命の範囲を植物には広げていません。また《自らの心を正すことで行為を正すことを目指しており、共同体の秩序に従うとか神の命令に従うといった他律ではない》ことも特徴でしょうか(p.123)。

 また、社会の混乱を回避するために合意により為政者を立てたという仏教的社会倹約論は北畠親房にも影響を与え、『神皇正統記』で仏陀も言及しているマハーサンマタ王を平等王と呼んでいます。マハーサンマタは大(マハー)衆によって認定された(サンマタ)という意味。また、法と貧者への施しを行った輪転王伝説を理想の為政者としていますが、日本でも徳川家康の日光の寺院は輪王寺と名付けられている、と。

[第五章 苦と渇望の知]

 仏教は輪廻の《主体としての「自己」を否定するいっぽう、諸要素の集合としての「自己」の存在は認め》ます(p.143)。

 生まれ死ぬ個体を「存在」(サンスクリット語ではsattva、パーリ語ではsatta、漢訳では衆生、有情)とし、個体は認識器官の束=六処(眼耳鼻舌身意)、身体と諸機能の合奏=五蘊であると理解します。

 つまり人間は六処などを離れて世界を認識できない、と。存在するのは個々の認識器官だけだが、しかもそうした器官は永遠ではなく、思い通りにはならず、自己ではないし、自己と思われている身体と諸能力も思い通りにはならない、と。

 さらに、執着することも苦であり、その原因は誕生で、繰り返される生存の原因として渇望を発見。つまり、主体としての自己の不在と諸要素としての自己の再生産という概念を打ち出した、と。

[第六章 再生なき生を生きる]

 本来は不在である自己なのに、さらに不確定な未来の自己のために今という時を使って行動すること=自己の再生産という運動は現代社会で全面展開され、確実な死が無限に遠景化されている、と。

 それに対して仏教が究極の目的とる涅槃は自己を作り上げることの停止です。

 涅槃(サンスクリット語ではnirvana、パーリ語ではnibbana)は「消滅する」という意味の語根(va)から派生しているそうです。執着も元々は燃料であり、火を消すようにそれをなくせば自己の再生産は停止できるし、再度の死もないから涅槃は「不死」とも呼ばれる、と。

 そして渇望の停止は知的な認識=悟りによって実現し、それは欲望・生存・無知からの心の解放だ、と。

 将来に対する不安にかられている限り、再生産活動を続けることが求められ、アショーカ王の碑文には「未来恐怖経」という経典があるそうです。
 
 ちなみにカート・コバーンの「ニルヴァーナ」もここからとられていますが、英語では「ナヴァーナ」と発音されていて、どんなバンドなんだろ、と思ったこともありましたが、それも、もう30年近い前なんですね。

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August 29, 2018

『松竹と東宝』

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『松竹と東宝』中川右介、光文社新書

 これまでの劇評は役者や演出家中心だったけど、普通の劇評から見えない政治を描いてきた筆者が、ついにプロデューサーというか資本の立場から描いたのが本書。芝居はカネがかかるから客を呼ばなくては続けられない。江戸三座もゴーイングコンサーンに問題を抱えていた。個々の小屋では「大当り」「不入り」で不安定だった経営を地域独占にして役者のワガママを許さず、何が当たるかわからないので、出し物を常に提供して実入りをならしたのが松竹の兄弟。

 個々の小屋が独立して経営していると、手っ取り早く当てるためには人気役者の奪い合いになる。しかし地域独占で京都と大阪の小屋全てを傘下に収めれば役者の出演交渉は不要になる。やがて東京の歌舞伎座だけでなく全国の小屋も系列にして喜劇、文楽、新派も全部押さえた松竹兄弟は凄い。芝居小屋は役者が座主だったり、好き者の素人が乗り出してきたりして、プロの経営ではないから赤字に悩んでいた。そこに定時開幕、チップ不要など観客優先の松竹兄弟が現れ、赤字に悩んでいた芝居小屋の持ち主が我先にとばかりに松竹兄弟に小屋を売りまくり全国制覇するダイナミズム。小林一三はさらにその先を行こうとした。

 松次郎、竹次郎兄弟と小林一三は、水物だった芝居にゴーイングコンサーンの考え方を入れ、不要な支出を押さえ(経費削減)、観客優先で考え(収入確保)、役者のワガママを許さなかった(労務対策)。学のない松竹兄弟は無意識にやったことだけど、小林は資本も持つ大経営者。後の勝負はついていた。

 小林一三は鉄道経営に沿線開発、末端での娯楽施設と商業施設の建設という海外でも例のない「需要創造」をやってのけたが、経営不振に陥っていた東京電燈(後の東電)の再建でも電力需要を増やすために、後に昭和電工となる昭和肥料を設立している(p.282)。無から有を生む凄い経営者。

 いま日比谷にある東京宝塚劇場は東京電燈がNHKに売ろうとした土地。歌劇団としては浅草に建てるべきだったし、阪急としては東京に建てる必要もなかった。しかし小林は新しい「劇場街」をつくり、勤め人が仕事を終えて行きやすくした。複数の劇場を建てれば相乗効果で郊外の客も呼べると判断したという凄味。

 小林一三が文学青年だったのは知っていたが、慶應の学生時代、新聞にミステリーを連載するほどの腕前を持っていたとは(p.31)。裕福な小林一三に比べ松次郎と竹次郎の松竹兄弟は小学校から親の芝居小屋で働き、最初の旅興業で酷い目にあう。まさに対比列伝。

 小林一三の歌舞伎論も分かりやすすぎて痛快。歌舞伎に人気があるのは1)音楽を伴い2)唄いを伴い3)踊りがあり4)台詞も唄いもの的にメロディがあり5)動作と衣装、化粧が絵画的で6)題材が豊富で世界が広く7)全てが娯楽雰囲気にあること-の7点をあげており、見事に本質をつかまえている。

 宝塚も歌舞伎も子供の頃から見物していたのですが、宝塚に関してだけでも認識を新たにしたことはいっぱいあります。
・パラダイス劇場となった室内プールは傾斜がつけられており最初から冬場は興業を打つ構想だったこと(通説では小林一三が失敗を華麗に成功に逆転させた)
・1914年の宝塚第一回公演は「婚礼博覧会」の余興で「タダにしては面白い」という評価だった
・14-18年の64公演中、逸翁作は22作と1/3を超えるほどの熱中ぶり
・すぐに飽きられた歌劇団の救いの手は大阪毎日新聞とのチャリティーコラボ

 歌舞伎のこと知ってるようで知らなかった。
・息子を水難事故で失った大谷竹次郎は、一歳違いの児太郎を可愛がったが早世(その実子六世歌右衛門は長く歌舞伎の女帝に)
・兄の松次郎は鴈治郎と終生の同盟関係にあったこと(残念ながら映画初期に撮影した鴈治郎の舞踏は現像の失敗で残らず)
・松竹は東西の成駒屋(五世歌右衛門、初代鴈治郎)で持ったいたこと

 松竹はそれまで劇場に巣くってチップをせびっていた茶屋や案内役を廃し、役者には開幕時間を守らせるなど合理的な経営を進め、同時期に開業した帝劇は客席での禁煙を初めて実施とか、今では当たり前の劇場システムが確立されたのは、大正期だっかのかな。

 このほか、面白かったところを箇条書きで。

 小林一三先生が宝塚少女歌劇団のヒントとした三越少年音楽隊に、最年少の十歳で田谷力三がいたとは(p.128)。

 片岡仁左衛門が上方に居づらくなったのは、五世歌右衛門襲名問題で東京の福助に味方したから、というのも初めて読んだ。松嶋屋はこれで上方の役者連中から疎まれて東京に本拠地を移したらしい。孝夫さんあたりからかな、と思っていた自分が情けないw

 日本映画やハリウッドもダメになるときは一発勝負の大作で失敗した。映画でも松竹と東宝は、そんな一発勝負の大作を作ってないと思う。寅さん、マンガ祭りなどのシリーズで映画でも地道に稼ぐ感じ。ワガママを監督にも許さないから、競争率100倍の難関を通ってきた黒澤も干す。

 218頁からの小林一三先生の白井松次郎への公開書簡が面白かった。逸翁は長すぎる上演時間を短縮させ、安価に見せることが重要だとして、劇場の大型化と、それに伴う上演システムの変更を提案するが、松竹兄弟の会社は21世紀になっても長時間、役者を拘束し続けている。海老蔵がぶっ通しの上演に異を唱えて、1回は休みを入れているが、こうした反逆がどうなるか。

 松竹は映画製作にも乗り出すが、映画を完成させるまで社員や俳優に給料を払わねばならず、幕さえ開けば日銭が入る演劇とは違い収入にタイムラグがあって五世歌右衛門から撤退したらどうかと言われていたとは(p.215)。演劇部門は合名会社のままだったが、松竹キネマを株式会社にしたのは負債が膨れ上がっていたから(p.233)。

 小林一三先生が乞われて東京の電力会社再建に乗り出したのは、電力の鬼・松永安左エ門の東邦電力が殴り込みをかけてきたからだが、逸翁と松永は箕面有馬電気軌道が開業する際、大阪市議会に贈収賄まがいのことをして、共に逮捕されたという、臭い飯を食った仲だったとは(p.278)。

 最後の方でも長谷川一夫があんなに歌舞伎に出ていたとは知らなかった。初代鴈治郎の芸は名ばかり高く実際どういうものか分からないのだが、長谷川一夫に継承されたのかも、というあたりに膝を打つ。

 それにしても鴈治郎と長谷川一夫が両社にとっていかに大きなものだったか。しかし、松竹は鴈治郎に金銭的に報いることはせず、長谷川一夫もそうした理由で東宝に移るが顔を切られてしまう。宝塚起死回生の舞台となったベルばらの演出快諾は長谷川一夫が傷つけられても契約してくれた逸翁への恩義だったとは。

 小林一三先生が古川ロッパも後援していたとは知らなかった。都会的で新しいものには支援していたのかもしれない。
【い】いつも初舞台の気持ち
【ろ】論より稽古
【は】はね太鼓を聞いて帰る
などの「ロッパいろは歌留多」
 は現在でも宝塚音楽学校でも教えてるし、人材発掘とその活用策が凄い。

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August 25, 2018

とらきち家のチャーシュー麺

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「とらきち家 」 横浜市神奈川区西神奈川3-1-1 045-491-5953

 激しい運動の疲れをとるために長く泳いで、いつものように家でプロテインを飲むかと思ったけどお腹空きすぎて「とらきち家」でチャーシュー麺をいただきました。

 チャーシューでタンパク質を取ればいい作戦。

  「とらきち家」はかつての家系の名店「六角家」の隣に開店した挑戦的な店です。

 結局、六角家は末廣家、とらきち家に挟まれて閉店。

 子供の頃からのジャイアンツファンだけど阪神は昔から鷹揚に許していたし、今や阪急HD傘下で宝塚と同格というか従姉妹同士みたな関係になったので無問題。

 今時の家系の暴力的なまでに端正なスープはかえしの強さが特徴でしょうか。

Torakichi_2

 チャーシューはスモーキー。

 肉厚で豚肩を使っている感じ。

 分厚い海苔、スープによく合うほうれん草も家系の証。

 大満足の一杯でした。

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August 18, 2018

末廣家の大盛りラーメン

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末廣家 横浜市神奈川区六角橋1-14-7 045-642-3400

 ジャンクフードはなるべく食べないようにしているのですが、夏の終わりも予感させるような空になってきて「そういえば泳いだ後のラーメンを今年はやってないな」と思いたちました。

 行列ができないうちに、と11時開店の5分前ぐらいに着くように、2000メートルぐらい泳いでから六角橋の「末廣家」へ。

 六角橋は閉店してしまった六角家、とらきち家など家系ラーメンが立ち並ぶところ。

 この末廣家は創業者である吉村氏から免許皆伝を許された者だけが許される直系店を名乗っています。

 スープは最近の家系らしくワイルドながらも雑味のない味。

 チャーシューはでかいのでモモ肉でしょうか。

Suehiroya_2

 それを薄く一枚載せています。

 麺は酒井製麺が家系ラーメン店に卸している約3種類のうち吉村家および直系店だけに卸している特注麺みたい。

 など、うんちくを語るまでもないんまいラーメンで、大盛り(麺硬め、味濃いめ、油少なめ)のスープも完飲しました。


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August 16, 2018

ビフテキ家あづまのあづスパ

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ビフテキ家あづま 新宿区新宿3-6-12 藤堂ビル1F 3351-0188

 先日、新宿・末廣亭横にあるビフテキ家あづまを久々に訪問しました。

 安定の洋食屋さんです。

 ぼくは、あづスパ(カレーライス、ナポリタン、カニクリームコロッケのワンプレート)、もう一人は2品を選べるメニューを選択。

 ビール1本頼んで二人で3200円というリーズナブルな夕食に。

 昔は「じゅうじゅう焼き」を食べたかな。

 定食系では末廣亭からもうちょい先の「洋食屋」の方が美味かったけど、もう無い。

 末廣亭とあづまの変わらなさはそれだけで素晴らしいのかも。


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August 08, 2018

『水底の女』

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『水底の女』チャンドラー、村上春樹訳、早川書房

 村上春樹さんによるチャンドラー長編小説の翻訳もこれが最後。

 第二次世界大戦中のカルフォルニアが舞台。ダムを防衛する州兵、合成ゴムが大量に生産される前ということもあって徴用されるゴムなど、戦時中ということがわかる部分もあるが、基本的にマーロウものの雰囲気は戦前、戦中、戦後を通じて変わらない。

 《医師というのはだいたいにおいて他人にはほとんど好奇心を抱かない人種であるからだ》(p.39)、《太陽は朝には年代物のシェリー酒のように軽くドライになり、真っ昼間には燃えさかる火炉のように熱くなり、黄昏時には怒った煉瓦となって沈んでいく》(p.343)などの人物、風景描写は相変わらず素晴らしい。

 それにしても、旧版ではまったく触れられていなかった複雑な警察制度は、なぜこんな風になったのか、ということも含めて知りたくなるほど面白い。そして『ロング・グッドバイ』などにも通じる麻薬医者(ドープ・ドクター)の存在も。

 07年の『ロング・グッドバイ』から10年かけて7作を翻訳しおえた村上さんはチャンドラー・ロスになりそうだ、と後書きに書いているけど、読者としては村上春樹訳のチャンドラー・ロスになりそうです。

 フィッツジェラルドのように短編の翻訳も読みたいんですが、やってくれないかな。

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August 01, 2018

『プレイバック』

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『プレイバック』レイモンド・チャンドラー、村上春樹訳

 ほとんど小説を読まなくなった後も、最後まで読んでいたのは村上春樹訳のマーロウものでした。

 個人的には隠遁生活を送っていたような気分で過ごしていた大学時代は、サブカルチャーの小説を読むようなサークルに居場所を確保していたのですが、そこではチャンドラーやマクドナルド、ハメットなどのハードボイルドものを一応、守備範囲としていました。

 日本にもミッキースピレーンなどのブームもあったようですが、最後まで残ったロス・マクドナルドも76年の『ブルー・ハンマー』を最後に作品を発表しなくなり(なぜか、ポール・ニューマンがリュー・アーチャーものの自身二作目として『魔のプール』を75年に公開しましたが、ヒットにはなりませんでした)、完全に廃れていた感じもします。

 組織を持たない私立探偵が、インターネットもない時代に特定の個人を探したりするという世界観は、ポール・オースターに引き継がれたんじゃないかと思うのですが、とにかく、巨大な世界に、寄る辺ない個人が仕方なく立ち向かってゆく、という構図は、なんとなく当時の気分にもあっていたような気がします。

 『プレイバック』はチャンドラーのマーロウものの最後の長編ですが、作品の評価はあまり高くありませんでした。なんかマーロウがやたらカネとオンナに汚く描かれているというか。

 あと、日本では角川が「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」をキャッチコピーとして広告展開したのも、どこかチャンドラーを汚されたような気がして、作品の評価が低位安定となっていた要因かもしれません。

 ちなみに"If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive."を村上春樹さんは〈厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないうなら、生きるに値しない〉と訳しています。

 昨年、柴田元幸さんとの「本当の翻訳の話をしよう」というトークイベントでも、「ハード(hard)とタフ(tough)は違う」「アライブ(alive)というのは、生きている“長い状態”だから『生きていけない』というよりは、『生き続けてはいけない』」「『タフじゃなければ生きていけない』というのはそういう面ではかなりの意訳なんですよね。でも響きとしてはいい」と語っていたようで、後書きでは、正確な訳としては〈冷徹な心なくしては生きてこられなかっただろう。(しかし時に応じて)優しくなれないようなら、生きるには値しない」を提示していますが、同時に、これではパンチラインにはなりにくい、とも書いてます。

 しかし、不思議なのは、この部分が人口に膾炙しているのはどうも日本だけというか、米英の書籍を読んでも、この部分への言及はなかったそうです。

 個人的には《小道(レーン)というより裏通り(アレー)という方があっているな」というところにハッとしてしまいました(p.189)。Rod Stewartの古い曲に"Gasoline Alley"というのがあって、昔からずっと小道みたいに思い込んでいたんですけど、そうじゃなくて裏通りなんだよな、と(そういえば浅川マキさんの訳もそんな感じだったかな…)。

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July 31, 2018

『大いなる眠り』

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『大いなる眠り』レイモンド・チャンドラー、村上春樹訳

 ノンフィクションというか論文っぽいのしか読めなくなっていたけど、『秘密の花園』を読んで、物語に身をまかせる心地よさを久々に思い出しました。

 ということで、積んでおいた村上春樹訳『大いなる眠り』チャンドラーでも読んでみるか、と。

 12年末に『ロング・グッドバイ』『さよなら、愛しい人』『リトル・シスター』に続いて村上春樹訳のマーロウものの第四弾として『大いなる眠り』が出たのですが、チャンドラーのマーロウものとしてしはこれが第一弾。

 処女作には作家の全てがつまっていると言われていますが、『大いなる眠り』はマーロウのキャラクター、語り口、物語のドライブ感どれをとっても一級品の出来映え。日本では翻訳の問題があったのか、他の作品ほど評価が高くはありせんでした。

 改めて村上版で読んでみると、風景、情景描写、台詞の切れ味が素晴らしく感じます。

 今は、気になった原文をすぐに読めるというのもいいよな、と。

 “I haven't noticed that you suffer from many inhibitions, Mr. Marlowe.”

 「君はおとなしく人の言うことを聞くような人間ではあるまい、ミスタ・マローウ」

 あたりはんまいな、と。

 16章の註で《原文はGo----yourself。当時はfuckという言葉は禁句だった》としてあるが、今もって----のままでした(まあ、当然かもしれませんがw)。

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July 30, 2018

『幸福とは何か』

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『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏、中公新書

 ある年代までの哲学書を読む層では、ドイツ観念論が哲学書のヒエラルヒーの最上段に置かれ、それこそ廣松渉さんではないですが、ヘーゲルの『小論理学』『大論理学』『法哲学』などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」(『哲学者廣松渉の告白的回想録』p.125)というような経験をしていると勝手に思っています。

 その点、イギリス経験論は、その分かりやすさ、対象の卑近さなどが神々しさを感じさせないためか、ドイツ観念論がより高等なものだ、みたいな雰囲気がさらに増したと感じます

 ヘーゲルの主要な著作の翻訳を終えてから、丸山眞男批判、その延長としての『日本精神史』と書きついでた長谷川宏さんが、本業ではないイギリス経験論を中心に、幸福とは何かという概念規定しにくい問題を取り上げたのが『幸福とは何か』。本文でも、カントをわざとつまらなく取り上げたりして、ドイツ観念論中心の日本の哲学受容を相対化しているように感じたのはぼくだけでしょうか。

 ギリシャ哲学についても、観念論につながるイデア論よりも個と共同体の関係に注目し、ソクラテスは共同体秩序の弛緩を立て直すことに主眼が置かれ《個の世界と共同の世界との連続性に疑問をいだくこと》はなかった、としています(p.54)。

 これがマケドニア生まれでアレクサンドロスの家庭教師もつとめたアリストテレスになると、人間はポリス的動物であるとしながらも、アテネなどの衰退によって、個人は共同体とのつながりを実感しにくくなってきます。そして観想的生活こそが最高善である、と峻厳すぎる結論を出します。

 やがてアレクサンドロスも夭折すると、いよいよ共同体への信は揺らいできて、エピクロスなどの時代になってきますが、それはデモクリトスの原子論を基礎としたものに方向転換します(p.85)。それは人間を自然的存在としてとらえる方向でした。

 そしてセネカに至り、現実の政治経済活動から身をひきつつ、感覚も自分も支配するような、内面の理性へと向かいます(p.99)。

 ここで第1章〈古代ギリシャ・ローマの幸福感〉は終わり、第2章〈西洋近代の幸福論〉に入るのですが、著者は中世を抜かしてしていることについても言及します。それはあまりにも神中心の時代であり、自然界や人間界をも絶対的な神が支配するというような、インフレ気味の構図は《古代ギリシャ人もローマ人も思い描いたことのないもの》であり(p.107)、幸福が神からの授かり物だとしたら、真剣に取り組むべき対象ではないからだ、というわけです。

 第2章「西洋近代の幸福論」

 商品経済の発展、絶対君主制などによって超越神の支配から人々の心は解き放たれていくなか、大陸合理論がまだ神に捕らわれた論考を進める中、イギリス経験論はもっと神とゆるやかな関係をむすんでいきます。

 ヒューム『人性論』は題名が示しているように、問われているのは神の本性ではなく人間の本性。ベーコンが150年がたつと、人間とは何かを問うことが意味あることになっていった。ヒュームは生のみずみずしさを保つ知覚を出発点において思考を重ねていき、理性も非現実的な観念論として信頼しない。経験の断片を結びつけるものは人間の利己心やせせこましさ、私的利害、人為的な慣習などだった。

《わたしたちは、芽にもとまらぬ速さで次々と起こり、たえず流れ動くさまざまな知覚の束ないし集まり以外のなにものでもない》という言葉は、現代のクリックの「あなたはニューロンの塊にすぎない」という認識に通じるものがあるというか、ひょっとして古代ギリシャの原子論に匹敵するような先見性を持っているかもしれません(p.126)。

 しかし、ヒュームはさらに持続的な自己同一性を否定するところまでいってしまいます。そうなると幸福論そのものの前提が崩れてしまいます。

 これに対して宗教からも形而上学からも離れて人々の日常的な感情の動きに目を捉えようとしたのがアダム・スミス。道徳は個の存在の内部にあるのではなく、個と個のかかわる集団のうちにあ、人間は社会的存在であると考えた。彼は、くよくよ考えがちな隠遁者は普通の人々が社交と会話によって得ている気持ちの安定感はめったに持てないとして、凡庸な情念がなだらかに行き来する人づきあい=共感のうちに暮らしの基本があるとしている。『国富論』も著したスミスは、感情だけでなくものも含めて交換しあう性質が人間を発展させてきたとみる。

[カントのインターミッション]

 個の経験を重視しすぎた故に幸福論とのスリ合わせが難しかったヒューム、他者との関係を感情、経済の両分野で重視して幸福論への道を切り開いたスミスに続くのは、普通でしたらジェレミー・最大多数の最大幸福・ベンサムなわけですが、長谷川さんはここでカントを入れることで、日本のドイツ観念論に偏りすぎた西洋哲学受容史を批判的に俯瞰します。

 カントは『実践理性批判』で、理性が自身の中から道徳法則を紡ぎ出すところに《理性の自由と自律の証をみる。下界に触れ、下界に促されて道徳法則に思い至るのではなく、自らの力で道徳法則を生み出す理性は、まさにそのことによって下界から独立した自由な、自律的な存在である》ことをみます。

 ヘーゲルも行動に内在する意思こそが真に自由な存在であり、道徳法則はその自由の純粋な発現形態だ、とカントの道徳哲学をまとめています。

 しかしカントは、自由と幸福、道徳と幸福の間に楔を打ち込みます。

 西洋の近代思想では個の内部に向かうことによって、主体性、自主性、内発性など日常生活の経験とは違う動きに価値を置く考えが主流となっていきますが、これは幸福にまつわる事柄は実践哲学に届かない有限な心の動きであるというカントの考え方に影響を受けたものです。

 《幸福は、人間がなにかしら不足を感じる有限な存在であるがゆうにのしかかってくる課題》であり、幸福を求めることは《義務であり目的でもあるようなものだ、ということはできない》と。

[最大多数の最大幸福]

 カントの道徳理論のうちに幸福論の居場所はなかったことを確認して、著者は再びイギリス経験論に戻ります。

 ベンサムは道徳と立法の原理を考察するなかから「最大多数の最大幸福」を導き出す。『道徳と立法の原理序説』でベンサムは苦痛と快楽が人間のすべての行為を支配するという根本原理を提示。けっしてカントのように純粋理性や意思の内面などには思いを及ぼすことはしません。そして、苦痛と快楽の大部分は経済活動のもたらす物質的な富の大小によってもたらされるとします。

 ベンサムは功利主義者といわれますが、「なにがしかの(あるいは誰かの)役に立つ」という視点を堅持して考察を進め、これによって幸福も快楽に取り込まれ、快楽、善、幸福の三位一体の図式が出来上がります。ベンサムは《人間が社会のなかで他人とともに行動し、快苦、憎悪、幸不幸のあるらゆる場面で他人と交わることこそ人間の本来のすがた》だととらえていた、と(p.181)。それは個人を独自の個としてとらえるよりも、平均的な個として社会のなかに投げ入れて生きる社会的存在とみていたことになります。

[20世紀の幸福論]

 《ベンサムの社会政策は個人の幸福と社会集団-家族、村、町、学校、職場、都市など-の幸福とが連続的につながるという前提のもとに考察された》ものでしたが、資本主義の進展と20世紀の2つの世界大戦はこうした楽天主義に疑問符を突きつけた、と。

 こうした20世紀の幸福論として著者はアランとラッセルの著書を紹介。近代は自分へと目を向けさせますが、ラッセルなどは自己自身への興味は幸福獲得のためになんとしても避けるべきものとまで考えるようになった、と。

 あとがきの《個として生きることと社会的存在として生きることとの矛盾こそが太古から現代に至るもっとも基本的な矛盾と考えられる》が著者のまとめ。

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July 27, 2018

『ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に』

Poichi

『ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に』森保 一、西岡 明彦 (著)、フロムワン

 代表監督に就任したポイチの自伝。絶版で、おそらく重版もされていないでしょうから、ぜひ店頭に並べて欲しい本です。未読の方にAmazonに載せた書評が少しでも参考になれば。

 ちなみに、「マツダ運輸(現マロックス)」とある会社は現在は「マツダロジスティクス」です。

「まっとうなサッカー選手のまっとうな半生」

 03シーズンのベガルタ仙台でユニフォームを脱いだ、ドーハ組の中心選手のひとり、ポイチこと森保選手の自伝。誰からも愛されるキャラクターというか、テレビの画面からも誠実さが伝わってくるような選手でした。

 長崎出身の森保選手は、小嶺監督が島原高校から国見へ移る時期に高校入学を決めなければならなかったことで、結局、長崎日大高校に入ってしまい、ほとんど中央では無名の存在で過ごした、というが彼らしい。高校の就学旅行は中国への船旅だったらしいけど、その船内で後に結婚することになる同級生と撮った写真がなんともいえない(p.52)。高校2年生の頃からマジメにつきあっていたと書いていたけど、「ああ、こういうまっとうな人生もあるんだなぁ」みたいな。

 当時は冬の全国選手権から大学サッカーというのがエリートコースだったんですが、島原と国見に阻まれて全国大会への出場経験がない彼には大学からの誘いはなく、けっこう偶然に練習を見に来ていたオフトにひろわれる形で広島のマツダに入社することになります。しかも、マツダの本社採用ではなく、マツダ運輸(現マロックス)という子会社の採用だったというのも泣かせる。オフトが正式に監督となり、たまたまサテライト(マツダサッカークラブ東洋)で守備的MFとしてプレーしていたのを気に入られ、トップチームに昇格。マンチェスターユナイテッドへの短期留学なども経験しプロへの意識を高めていたときに、代表監督に就任したオフトから代表に呼ばれる、という経緯を書いてみただけで、オフトと森保選手にはドーハへと続く切っても切れない関係があったんだと思う。おっかなびっくりで参加した初の代表合宿では、周りの有名選手にビビリながらも、なぜか直後のアルゼンチン戦でいきなり先発出場。いいプレーを披露して相手監督にも誉められてレギュラー定着とトントン拍子でドーハに向かって駆け上がっていくところなんかは躍動感があってよかった。

 森保選手は若手に「試合前どうしても緊張して困るんですが」と相談されると「それはお前が試合のことをいろいろ考えて準備している証拠だ」と答えて安心させていたそうですが、なんと、その言葉は代表合宿で同部屋となった柱谷から聞いた言葉そのものだったそうです。でも、柱谷から聞いたということは完全に忘れていて、そのことが本をつくる過程でわかってビックリしたと森保選手は書いているんですが(p.182)、代表合宿というのは様々なことが受け継がれていく場所なんだな、と思います。

 肝心のドーハは「なにもかも記憶がほとんど飛んでしまっている」(p.120)ため、あまり詳しくないのは残念だけど、そこまでのショックとは知らなかった。ドーハ組の選手たちは、一様に「これまでドーハの悲劇のビデオは見ていないし、これからも絶対に見ない」と語っていますが、その言葉の重みを改めて感じました。ユニフォームを脱いだ現在、広島に戻って小学生を教えながらS級ライセンス取得に向けて頑張っているというのも好感がもてます。

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