July 28, 2020

『プロタゴラス あるソフィストとの対話』プラトン、中澤務訳、光文社古典新訳文庫

出だしは《おや、ソクラテス、どこに行っていたのだ? 答えは明白かな? 若き美青年アルキビアデスのあとを追いかけまわしていた。そうだろう?》と始まるいつものBL展開。

そして「人間は万物の尺度である」という言葉でよく知られるソフィスト、プロタゴラスとソクラテスの議論は《知恵、節度、勇気、正義、敬虔。これら五つの名前は、一つのものにつけられた名前なのか? それとも、それらの名前のそれぞれには、何か独自のありかたを持つもの、つまりそれぞれが自分だけの働きを持っていて、他のどれとも同様だとはいえないようなものが対応しているのか?》というのが対話の眼目。

当時のアテネはソフィストの時代で《伝統的には、 徳 は生まれのよさによってそなわっているものと思われていたからです。そうした 徳 を、教育によって、(授業料さえ払えば)誰にでも教えるというソフィストたちの宣伝文句は、当時は驚くべきものだった》といいます。

《われわれアテネ人が民会に集まるとき、わたしは次のようなことを目にします。たとえば、国が建築にかかわる何らかの事業をしなければならないとき、彼らは建築物に関する助言者として建築家を 招聘 するのです》の民会は新約では教会の意味のエクレシア(Ekklesia)。ところが外交政策などについては《審議しなければならないときには、誰もが同じように立ち上がり、そうした問題について彼らに助言するのです。その人が大工でも、鍛冶屋でも靴職人でも、貿易商人でも船主でも、また裕福でも貧しくても、家柄がよくても悪くても同じです。 そして、先ほどの場合のように、『この人は、学んだことも、先生に付いたこともないくせに、助言しようとしている』と言って、こうした人たちを非難する者は、ひとりもいないのです。 その理由は明白です。 すなわち、彼らはそうしたものを教えることができるとは考えている》と。

《正義と節度と敬虔、つまり、まとめてひとことで言うなら、人間の徳のことだとしよう》というので徳についての議論になりますが、同じギリシャでも新約の正義、節度、敬虔(ホシオン)、勇気の用法とは大分違うな、と。例えば、四元徳(知慮・正義・節制・勇気)のうち、知恵 (φρόνησις プロネーシス)はルカ1:7とエフェ1:8だけですが、ルカでは「分別」みたいな意味で使われています。

こうした罰[を与える制度]には、きみの国でも他の多くの国でも、〈是正監査〉という名前が付けられているの是正監査(エウテュナイ)は初めて知る単語。役人の任期が終わる時に不正がなかったか監査されたそうです。アリストテレスの『アテナイ人の国政』にそんな記述があったかな…。新約にはエウテュナイという言葉は出てこなかったような…。

このほか《〈望む〉(ブーレスタイ)が理性的な欲求を指すのに対して、〈欲する〉(エピテューメイン)は肉体的な欲求を指す》なども調べてみたい。

《プロタゴラスとヒッピアスは、〈不安〉も〈恐怖〉も、そのような意味だと同意してくれた。しかし、プロディコスは、〈不安〉はそうだが、〈恐怖〉は違うと言った》というあたりも面白い。
不安(Deos)も新約ではヘブ12:28だけで、意味は恐怖、畏敬。70人訳では第二マカバイに集中して出てきますが、やはり恐怖の意味で使われます。中澤務先生は註112で《不安(デオス)は比較的長期間にわたる認知的な気分であるのに対して、恐怖(フォボス)は瞬間的に感じる非認知的な感情》としています。

また、四元徳のうち勇気は、恐ろしいものと恐ろしくないものを正しく計量する能力だということになってしまうからです。この計量の技術とは知恵にほかなりませんから、結局、勇気の実体は知恵であるということになります。

《人間は、こんないきさつで、生きるための知恵は手にしたのだが、しかし政治のための知恵を手にすることはなかった。その知恵は、ゼウスのもとにあったからだ》とプロメテウスなどによって火を得たりしたが、政治の知恵は授けられなかった、というあたりの議論も面白かった。

もう少し、光文社古典新訳文庫でプラトンを再読してみようかな…

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July 24, 2020

『饗宴』プラトン、中澤務訳、光文社古典新訳文庫

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 この本は随分前に岩波文庫で読みました。内容は《成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)》など前半は少年愛(パイデラスティア)を中心としたエロス論です。

《愛する人が少年に対して愛情を示すときよりも、逆に、愛する人に対して少年が愛情を示すとき、神々はよりいっそう驚嘆し、賞賛し、よくしてくださるのです。じっさい、愛する人は神がかりの状態にあるがゆえに、そもそも少年よりも神に近い存在なのです》(kindle位置: 402)などの議論が続きますが、なんといっても素晴らしいは訳者による解説。

..........quote...........

(ドーヴァー)は、古代ギリシャのパイデラスティアの実態を学問的に研究し、一九七八年にその成果を出版しました。この研究の影響もあって、パイデラスティア研究が本格化し、当時のじっさいの姿が、次第に明確になってきたのです。

両者の関係は、少年が成人すれば解消される一時的なものでした。また、必ずしも相手が一人に限定されることはなく、複数と関係を持つことも可能でした。

結婚することを期待され、大多数の成人男性は三〇歳を過ぎれば結婚して家庭を持ちました。しかし、結婚しても、少年との性的関係は並行して続いたのです。つまり、少年愛とは、女性との愛を排除するようなものではなく、並行して成立する別々の愛の形だったのです。

原型となる会合を開いていた人々の間で広まったものであり、少年が男性社会に仲間入りしていくための、イニシエーションのようなものだったと考えられるのです。

むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。

教育とは、すでに知恵を持つ者が、知恵を持たない者にそれを分け与えることだという考えかたです。

若いときに、美しい体に心を向かわせることからはじめます。その者は、最初は一つの体を愛しますが、やがて、どんな美しい体も共通の美しさを持つのだと悟り、その結果、すべての美しい体を愛する者となります。彼は、次に体の美しさから心の美しさへと上昇し、美しい心を愛するようになります。彼は続いて、人間と社会のならわしの中にある美しさに気づき、それらが密接に結びついていることを発見します。次に彼は、知識の美しさを見ます。そして、知恵を求める果てしなき愛の中で、美しい言葉と思想を生み出すのです。

美の梯子の上昇は、一貫して少年愛の道筋の中で進展していくと言われています。

..........end of quote.........

《ソクラテスが醜い男として描かれているのは、崇高な思考とは相容れない肉体という対比がリアルだったから》というあたりの解説も見事。

最後の議論あたりで出てくる「サテュロスとシレノスの劇」というのが「サテュロス劇(サテュリコン)」と呼ばれていた演劇のことで、悲劇・喜劇と並ぶ第三のジャンルだったというのは、今回、知りました。残っているエウリピデスの『キュクロプス』だけでも読んでみようかな、とか。閑話休題ですが、ギリシャの古代演劇で登場するコーラス「chorus」はギリシャ語の「χοροs」(コロス)に由来します。これはギリシャの古代演劇の舞台に登場する10人程度で編成される歌と踊りを担当していたグループをさしますが、初読当時はオイディプスの舞台なども観たことがなかったので、今回はそんなことも思い出しながら読むことができました。

中澤務先生の解説が素晴らしいな、と思って、同じ中澤務訳で光文社古典新訳文庫の『プロタゴラス~あるソフィストとの対話~』も読むことに。

恥ずかしながら、『饗宴』『プロタゴラス』を読んだ時にはトゥキュディデス『歴史』もクセノポン『ギリシア史』もちゃんと読んでなかったので、アルキビアデスのことはそれほど注目していなかったので、実際のギリシャ史と対比する中で理解はできていませんでした。自分の無知、読書量の少なさにはいまさら驚きはしませんが、改めて再読することの価値を『饗宴』で教わった感じがします。プルタルコスの対比列伝でのアルキビアデスも再読してみようかな、とか。

本文には《人には平和を、海には静かなる凪―― 風の寝床を、そして悲しみには眠りを》などの素晴らしい表現があります。いつか、原語で読んでみよう。

お風呂のKindle読書は会計とか数学とか普段読まないようなのを選んでいたのですが、なぜかプラトンの『饗宴』を再読。ドーヴァーの『古代ギリシアの同性愛』からフーコーへの言及が解説にあって、本棚を探したらフーコーの『性の歴史』の1,3巻はあったけど2巻がない…貸して返してもらってないかな…。『同性愛と生存の歴史』はあったのに…。ということでサラッとでも読み直したくなったのでギリシャ的同性愛を描いた2巻だけども買い直すことに。

以下、印象に残ったところの箇条書きです。

ヘシオドスはこう歌っています――はじめにカオスが生まれた。そして、次に生まれたのは、広大な胸を持つガイア、すなわち永遠に動かぬ万物の居場所。そして、その次にエロスが生まれた。

さて、エロスは最も古い神であるがゆえに、ぼくたちに、最高によいものを与えてくださいます。じっさい、まだ若い少年にとって、彼を愛してくれる優れた人よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができません。また、愛する人にとって、優れた少年よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができないのです。

導き手と呼ぶものは、いったい何でしょうか。それは、醜きふるまいをいとう羞恥心と、美しきふるまいを歓ぶ名誉心です。

人がなにか恥ずべきふるまいをしたとか、あるいは誰かから辱めを受けたにもかかわらず、臆病ゆえに自分を守れなかったことが発覚したとします。そのとき彼は、父親や友人といった人たちよりもむしろ、愛する少年にそれを見られたとき、最も苦しい思いをするのです。

愛する人が少年に対して愛情を示すときよりも、逆に、愛する人に対して少年が愛情を示すとき、神々はよりいっそう驚嘆し、賞賛し、よくしてくださるのです。じっさい、愛する人は神がかりの状態にあるがゆえに、そもそも少年よりも神に近い存在なのです。

(俗のアフロディテ)と共にあるエロスは、まことに俗なる存在です。ですから、やることなすこと、でたらめです。そして、これこそまさに、くだらない人々における愛なのです。  第一に、そのような人々は、少年だけでなく女性も愛します。第二に、彼らは、恋する人の心よりも、むしろ体を愛します。第三に、彼らはできるだけ愚かな人を愛します。

第一に、〈天のアフロディテ〉は、[母がいないために] 女性の性質は持たず、男性の性質だけを持っています。ですから、このエロスは、少年に向かうエロスなのです。第二に、〈天のアフロディテ〉は、より年長の女神ですから、ひとかけらの傲慢も持ちあわせてはいません。それゆえ、このエロスに動かされる人たちの心は、男性へと向かうことになります。そして、彼らは、生まれつきより強く、より理性的な者に愛着を感じるのです。

このような人たちのせいで、例の[少年愛に対する] 非難が生じてしまいました。その結果、[少年が] 自分を愛してくれる人に身をゆだねるのは不道徳だと言い出す人たちまであらわれることになったのです。しかし、そんなことを言う人たちは、このような人たちの不適切で正しくないふるまいを見てそう言っているのであり、どんなことでも、適切かつ合法的になされるなら、非難される筋合いはまったくありません

老いも若きも、誰一人それを恥ずべきこととは言わないでしょう。わたしが思いますに、それは彼らが、言葉を使って少年を口説くなどという面倒くさいことをしたくないからでしょう。なぜなら、彼らには弁舌の能力がないのですから。
 これに対して、イオニア地方など、異民族の支配下にある地域の多くでは、そのようなことは恥ずべきことだとみなされています。
 じっさい、異民族の人々は、独裁政治のもとにあるため、このようなことばかりでなく、学問やスポーツをも恥ずべき

また、たとえ容姿は劣っていても、このうえなく家柄がよく、優れた少年に求愛するのが、特によいことだとも言われています。さらにまた、求愛する者は、あらゆる人から、驚くほどの励ましを受けます。

嘆願や哀願をする人々のようなお願いのしかたをしたり、誓いの言葉を口にしたり、相手の家の戸口で一夜を明かしたり、あげくの果てには、奴隷さえやりたがらないような奴隷的行為を、すすんでやろうとしたとするのです。

ところで、なぜ、このような三つの種族が存在していたのか。それは、男性は太陽を起源として生まれたものであり、女性は地球を起源として生まれたものだが、両性をあわせもつアンドロギュノスは、月を起源として生まれたものだからだ。なぜ月からかといえば、月は太陽と地球の性格をあわせ持っているからね。また、彼らの体が球形で、回転しながら移動していたのも、彼らの生みの親である天体の姿を模倣してのことなんだ。さて、この太古の人間たちは、恐ろしく力が強く、元気があった。

ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。そして、それを使って、男性と女性の間で行われる性交渉によって、子どもを作るようにしたのだ。なぜなら、そのようにすれば、男性と女性が出会ったときに、体を絡み合わせれば子どもが生まれて、種を存続させることができる。また、男性同士の場合でも、少なくとも性的な満足は得ることができるから、ほかのことを考える余裕ができて、自分の仕事をし

男性のうちでも、両性をあわせ持っていた性――すなわち、太古の昔に〈アンドロギュノス〉と呼ばれていた性――の片割れである男性は、女好きだ。そして、浮気性の男の多くは、この種族から生まれる。女性についても同様であり、男好きで浮気性の女が、この種族から生まれる。  女性のうちでも、太古の女性の片割れである女性は、男性に心を惹かれることがあまりなく、女性に心をよせる。女性同性愛者は、この種族から生まれるのだ。  太古の男性の片割れである男性は、男性を追い求める。

そのような少年だけが、成人してから、政治の世界で一人前の男として活躍することができる。  さらに、そのような少年が成人すると、彼らは少年を愛するようになる。彼らは、結婚したり子どもを作ったりといったことには、生まれつきあまり関心がなく、社会的圧力によって、しかたなくそうするにすぎない。

なぜなら、エロスは老年から逃げ去る神なのですから。誰の目にも明らかなように、老年というものは足早なものです。事実それは、必要以上に足早に、わたしたちのもとを訪れます。

エロスがなにかをするときも、暴力を用いることはありません。なぜなら、エロスの言葉であれば、どんなものでも、すべてのものが自発的に従うのですから。

エロスは、明らかに、美を求めるエロスなのです。( なぜなら、エロスが醜さを求めることなどありえないのですから。)

人には平和を、海には静かなる凪―― 風の寝床を、そして悲しみには眠りを

ヘシオドス『神統記』一七六行以下によれば、クロノス神は、父ウラノスの男根を大鎌で去勢したが、自分も同じように息子に倒されることを恐れたクロノスは、息子たちを次々と飲み込んでしまう。

『精霊は、人間の思いを翻訳して神々に伝え、神々の思いを翻訳して人間に伝える。すなわち、人間の祈りと供物を神々に送り届け、神々のお告げと供物の返礼を人間に送り届ける。そして、両者の間に立ってその溝を埋め、全宇宙を一体化させるのだ。

アフロディテが誕生したときの話だ。そのとき、神々は祝いの宴に集ったが、その中にメーティスの息子のポロスという神がいた。さて、祝いの宴の終わるころ、宴ではよくあることだが、物乞いの女がやって来た。ぺニアだ。

すべての人間は、よいものを自分のものにすることを常に願っていると考えるか。

金儲けに励んでもよし、スポーツを愛してもよし、知恵を愛してもよし。しかし、そんなことをしても、〈 愛している〉とは言われぬし、〈愛する者〉と呼ばれることもない。そうではなく、[恋愛という]ある一つの種類の愛において熱心に行動する者だけが、〈愛〉、〈愛している〉、〈愛する者〉という

人物だと言われながらも、その構成要素は決して同じものではなく、たえず新しいものになり、また、ある部分は失われていくのだ。毛髪も肉も骨も血も、体全体がな。

さて、正しい少年愛を通して、このような段階に至るとき、この美の姿が見えはじめる。 そうなれば目的にたどり着いたも同然。エロスの道を正しく進むとか、誰かによって導かれるというのは、このようなことを指す。
しかし、やがて、愛する者の仮面を脱ぎ捨て、自分のほうが愛される少年になってしまうのだ。

末席に向かい、反時計廻りに行われていますが、この方向は「 左から右へ」と呼ばれるもので、

アガペーは、フィリアと同様に、広く好意を表わす概念ですが、その中には性愛も含まれています。このアガペーという言葉は、キリスト教における愛の理念を表わす言葉として知られていますが、この時代にはそのような含意はありません

ドーヴァーです。彼は、古代ギリシャのパイデラスティアの実態を学問的に研究し、一九七八年にその成果を出版しました。この研究の影響もあって、パイデラスティア研究が本格化し、当時のじっさいの姿が、次第に明確になってきたの

この関係は、成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)

両者の関係は、少年が成人すれば解消される一時的なものでした。また、必ずしも相手が一人に限定されることはなく、複数と関係を持つことも可能でした。

結婚することを期待され、大多数の成人男性は三〇歳を過ぎれば結婚して家庭を持ちました。しかし、結婚しても、少年との性的関係は並行して続いたのです。つまり、少年愛とは、女性との愛を排除するようなものではなく、並行して成立する別々の愛の形だったのです。

原型となる会合を開いていた人々の間で広まったものであり、少年が男性社会に仲間入りしていくための、イニシエーションのようなものだったと考えられるのです。

むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。

教育とは、すでに知恵を持つ者が、知恵を持たない者にそれを分け与えることだという考えかたです。

彼の演説は、当時の賞賛演説(エンコミオン) の作法に忠実に従った教科書的な演説であり、それゆえに、賞賛のために必要な要素や論点が提示されているからです。つまり、彼の演説は、その後の一連の賞賛演説の出発点として、その方向性を規定する役割を果たしているのです。

その人と生涯を共にする覚悟があるのだと述べます。これは、彼とアガトンの関係を意識したものだと見なせるでしょう。すでに述べたように、パウサニアスは、アガトンが成人したあとも関係を続けていました。それは、当時の少年愛としては逸脱した行為であり、成人男性同士で関係を継続させている彼らは、さまざまな批判にさらされていたと考えられます。

完全だった太古の人間の本性に由来しているのだと主張します。この説明は、アリストファネスの言うとおり、エロスという、言葉で表現しがたい感情の本性を直観的に言い表わしている

エロスが永遠に所有することを望んでいる「よいもの」とは、子孫であることになるでしょう。これに対して、「美しいもの」とは、子孫を残そうとする男性の性的なパートナー(美しい女性)であることになります。

ここでは、身体における肉体的な交わりに相当するのは、言葉による精神的な交わりです。そして、美しい人に対してさまざまな話を投げかけ、それを導こうとする行為によって、徳という自分の子が生み出されていくことになるわけです。

若いときに、美しい体に心を向かわせることからはじめます。その者は、最初は一つの体を愛しますが、やがて、どんな美しい体も共通の美しさを持つのだと悟り、その結果、すべての美しい体を愛する者となります。彼は、次に体の美しさから心の美しさへと上昇し、美しい心を愛するようになります。彼は続いて、人間と社会のならわしの中にある美しさに気づき、それらが密接に結びついていることを発見します。次に彼は、知識の美しさを見ます。そして、知恵を求める果てしなき愛の中で、美しい言葉と思想を生み出すのです。  

美の梯子の上昇は、一貫して少年愛の道筋の中で進展していくと言われている

「サテュロスとシレノスの劇」と呼んでいます(「 エピローグ」)。これは、古代ギリシャにおいて、一般に「サテュロス劇(サテュリコン)」と呼ばれていた演劇のことで、悲劇・喜劇と並ぶ第三のジャンルでした。

 

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July 14, 2020

『関ヶ原大乱、本当の勝者』日本史史料研究会、白峰旬、朝日新書

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講談、小説、映画、テレビドラマなどで描かれてきた家康の問鉄砲は史実とは言いがたく、小早川秀秋は開戦当初から裏切ったたため西軍の右翼が崩壊し、山中に密集していた石田、宇喜多の主力は総崩れになり、島津義弘の敵中突破も午前中の早い段階だったという話し。さらには直江状も《実在したとは考えられない》というのに驚く。

kindleのメモ機能が本当に便利だし、半値近いのでkindle版で。

確かに、家康の秀秋への問い鉄砲、山から降りてきた秀秋の軍勢を止めようとして闘死した大谷刑部などはドラマティックで、二次資料の創作だろうというのは納得だけど、出来事を理解しやすく「物語化」したことんだな、ということもよく理解と納得する。

しかし、ざっと読んだだけにしても、小山評定の有無や加賀征伐の評価など各論文によって評価が違うところが統一されていない感じ。

それぞれの研究の延長線上で、いま言えることはここまで、ということなのかもしれないが、編者による最終的な総括みたいな一文は必要なのではないかと思う。そうした「編集作業」がなければ、これまでの書きっぱなしのアンソロジーとあまり変わらないような。まあ、面白かったから良いけど。

確かに、数々の定説というか二次創作による伝承は史実ではなく、そうした誤解が主に小説によって大衆に広まったのは、戦後の歴史学のアカデミズムが、軍事史を軽視、忌避していたためともいえるかもしれませんが、群盲象を撫でるような印象もぬぐえません。

以下、箇条書きで印象にのこったところを。

序章で関ヶ原大乱など戦いの活発化について《桐野氏は「惣無事」体制の無効ととらえているが、これは「無効」になったという消極的理解ではなく、「惣無事」体制の「崩壊」というように、よりマクロな視点でとらえたほうがよいと筆者は考えている》というのはなるほどな、と。

《実際に家康は、ルソンとメキシコを結ぶ航路に関東を入れた通商圏の構築や、西洋式の大型船を入手して家康の側からもメキシコへ貿易船を出していくといった活発な対スペイン交易、そして精錬技術(アマルガム法)を導入して金銀を効率的に取得するという富国策を抱いており、スペイン側に要請を出している》《伊達氏や長宗我部氏、島津氏、細川氏など政権中枢に携わらない大名への影響力を求めて勢力の強化を図っている》という見取り図も納得的。

大乱のきっかけとなった上杉討伐については《秀吉から厚い信頼を得ていた景勝は、関東を牛耳る徳川氏、あるいは親徳川の色をもつ伊達氏、最上氏など奥羽諸将の監視・牽制という役割が期待された》というのが前提だったんだな、と。そして、《糾明使に対する景勝の返答は上洛に応じるというものであり、直江兼続が書いたとされる「直江状」はそれと相反する内容となっており、実在したとは考えられない》《上杉景勝を軍事行動により屈服させたという実績を家康は必要としたのであろう。会津征討は上杉氏の対応に関係なく、家康の思惑によって強引に導かれた回避不能のものであったといえよう》。

兼続のイメージも大分、変わりました。《上杉勢は、小手郷大館の奪還戦で「撫切」を敢行している。上泉泰綱による七月晦日付首帳には、首級一○六のほか、打ち捨ては際限なかったと記されている(『覚上公御書集』)》というんですから。また、兼続の戦略は《最上領を併呑して上杉領の長井と庄内をつなげるという目的はなく、最上氏を滅ぼそうという意図もない。最上義光を軍事力で脅して降伏させれば、孤立する伊達政宗も与同せざるをえず、この両者の加入を得て関東を圧迫するというのが景勝と兼続の作戦だった》と。《八月二十八日に二本松城に入った兼続は、伊達氏、最上氏平定後の関東出兵に備え、旧宇都宮氏領における一揆の下工作を進めるように結城朝勝に指示した》というんですが、正宗も《和賀忠親に岩崎一揆を起こさせたと家康に疑われ反故にされたことや、上杉景勝の抑えとしてにらみをきかせたこと、そして上杉氏に攻められた母の兄である最上義光に援軍を出した》こともあるわけで、こうした地生えの侍衆も入り乱れての戦いだったのかな、と。

小山評定については《諸将が小山へ赴いたのは、家康が未だ宇都宮に到達していなかったからにほかならず》《家康は近隣に位置する敵対勢力の打破や、防衛強化などによって地固めをしていく長期的な戦略を持っていたといえる》。出馬が遅れたことで《家康が美濃赤坂(大垣市赤坂町)に着陣したのは本戦前日の九月十四日であり、これまで幾多の前哨戦が行われていたが、家康は本戦まで采配をまったく振っていなかったのである。結果的に本戦が東軍の完勝で終結しながらも、徳川家臣の兵庫と、旧臣の奥平貞治が戦死。松平忠吉と井伊直政が負傷。戦場で傷を負うことがなかったとされる本多忠勝でさえ、名馬三国黒を被弾で失っている。徳川氏の関係者に死傷者が目立つのは、こうした引け目が背景としてあったのかもしれない》。

また、家康の《何よりの誤算は、奉行衆のうち、現役であった増田長盛、長束正家、前田玄以の三名が西軍に味方したことである》というのもなるほどな、と。そして《輝元は秀吉生前の裁定を三成らの協力を得て、輝元の有利になるように改めてもらうこととなった》と。

伊達政宗は百万石のお墨付を徳川家康から与えられたと言われていますが《この約束には戦国期以来の社会的慣習である「自力次第」という前提があったとみられる。つまり、政宗が自身の力によってこれら七カ所の領地を奪い取ることができた場合は、家康がその領有権を認めるというもの》で、自力で領地を奪えない場合は、その権利はなく《政宗が景勝から奪い取った白石城のある刈田郡は、戦後に家康から安堵されている。家康は政宗を騙したわけではなかった》というもなるほどな、と。正宗は《秀吉と秀頼に対し欠字という貴人の名前の前を一文字あける儀礼をしている。こうした豊臣政権で守られていた儀礼を政宗はまだ守っており、秀頼の身を案ずる思いと合わせて、政宗は依然として豊臣大名であった》と。

西軍については秀吉の母の妹の子である《尾張国の動向を左右した清須城主の福島正則が味方すると想定していたことが、三成最大の誤算であり、敗因だったと考えられる》と。また大老の《宇喜多氏の石高は飛躍的に増加したとみられ、おそらく大名蔵入地(直轄領)も拡大した。土地の支配権もすべて大名当主に集約されたので、秀家の権力はいやがうえにも高まった。かたや家臣の多くは知行地の移転や分散を強いられた。しかも新たな石高は実状よりも過大に設定されていたので、名目上、同じ石高でも以前より収入は目減りする。検地への不満はやがて、家臣団内部の派閥抗争に発展していったらしい》というは知りませんでした。《「二人の中納言殿は若輩である。そのうえ家臣もまちまちである」(『吉川家文書』)と述懐したが、家臣団=軍勢の不統一は、こうした応急処置としての人員確保の結果と考えられよう(大西:二〇一〇ほか)》という評価だったとは。だから《徳川家康との決戦を控えた秀家は、国許の防御を固めるとともに、家臣からの人質徴収を通して戦時態勢の引き締めを図り、彼らの寝返りを防いだのであろう》と。

大谷刑部の章はやはり面白かった。《政権に復帰した吉継が従事した案件というのは、豊臣政権のなかではかつて石田三成が担った分野である。政権復帰といっても、吉継の意思だけで可能になるとは考えられない。おそらくは三成の不在によって生じた人材不足を補う必要性から、むしろ家康が吉継に復帰を求め、吉継がこれに応じたという事情も推察できる》。

《利長撤退の理由を軍記類の多くは大谷吉継の謀報戦とする。すなわち、上方から加賀へ帰国の途次にあった前田利家の娘婿中川宗半(光重)を吉継が捕らえ、吉継には北庄を拠点に前田軍を迎え撃つ兵とは別に、これより多くの兵を海路宮腰に上陸させ金沢を攻撃するのに充てる計略があるとして帰国》するなど吉継は健闘します。そして、《利長再挙のリスク覚悟で大坂に向かう理由があったとすれば、豊臣秀頼、毛利輝元の出馬要請》という形で本戦になだれ込みます。しかし、小早川秀秋による、開戦当初からの裏切りにあい《大谷軍は家康本陣めがけて進み、藤堂高虎などの軍勢ともみ合っている最中に、秀秋の軍勢に背後から攻めかかられ、さらに脇坂安治、小川祐忠の反転も加わり、合戦の序盤でほぼ壊滅したと考えるのが穏当である(白峰:二〇一六、二〇一八)》というのは憐れだな、と。

《津義弘隊のみは、敵中突破を敢行し薩摩に逃れたことはあまりにも有名であるが、この作戦についても、合戦後半の正午すぎではなく、早い段階である午前中には敢行されたという見直しの議論がある(白峰:二〇一五)》という島津の引き口も伝承だったのも驚きましたが、《義弘は朝鮮出兵から帰還した後、薩摩に戻ることもなく政変に巻き込まれていた》とは知りませんでした。だから、本戦では戦わなかったんでしょうし、家康から許されたのかな、と。《二十九日の朝、義弘の使者が吉継のもとに遣わされたが、吉継は沈酔を理由に使者には応対せず、詫びの書状を託して使者を返している(『島津家文書』)》ということもあったとは。

大老の前田家に関しても、随分、イメージが変わりました。《江戸の家康が上方の利家に宛てて、息子の秀忠に対し万端指南を施すよう頼んでいる(「前田育徳会所蔵文書」)。利家もその死の間際に、利長の行く末を家康に頼んだという(「利家公御代之覚書」。この史料は随分後代に至って「陳善録」等の別名を与えられている)。過去の経緯から考えれば、豊臣政権に内紛が起こった場合、利長が家康方に与するのはそれほど不自然ではない》だいたい前田利常(利光)は秀忠の娘婿ですし《先に出兵を拒否した利政の改易も、ここで決定したらしい。その結果、利長は能登一国も自領に統合し、加越能三カ国のほぼ全域を支配下に置くことになった。近代に至って「加賀百万石」という俗称が生まれる素地がここに生まれた》のも関ヶ原の過程だった、と。しかし《関ヶ原合戦の結果、利長は「大老」の地位と引き換えに、加賀南部の二〇万石程度を得たにすぎないのだが、これを「守成」とか「礎創」とのみ評価するのは一面的であろう(大西:二〇二〇)。失った何かにも目を向けなければならない》というのはなるほどな、と。毛利は、「西軍」に味方して一〇〇万石を超える領地の大半を削られ、一地方大名に地位を落とされましたが《利長もまた、領地を多少は増やしたが、「大老」の地位を失った点では、関ヶ原の敗者上杉景勝や毛利輝元と変わるところがなかった。加賀藩は、徳川幕藩体制下における最大の外様大名》となった、と。

同じように没落したのは長宗我部。《(慶長四年)の盛親実兄津野親忠の幽閉(家督争いが原因とされる)や父元親の病死で動揺していた家臣たちに対する盛親の求心力低下に起因するものであり、当時の長宗我部家中は一枚岩ではなかったのであろう。それだけに軍勢の動員に苦心》するほど家は動揺しており、《信親の戦死により思いがけず家督を相続した盛親だったが、国持大名の嗣子としては異例というべき叙位任官がされず冷遇されていた。それだけに、大坂方に味方することによっては羽柴政権内での地位向上(叙位任官)や知行の加増を条件提示されていたとすれば、彼が大坂方に味方したのは必然だったのかもしれない。つまり、盛親にとっての関ヶ原合戦とは、自身の地位向上と加増を勝ち取るための戦いであった》。

龍造寺宗家→鍋島家の動きも興味深かった。《「大気」とは天下取りを望むほどの大望、野心であるといえよう。「智勇兼備にして野心なし」とは家臣としての理想像である《朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにおいていかに直茂が徳川家康と密接な関係を結んだのかを謳い上げ、龍造寺宗家断絶の際には幕府が鍋島勝茂の龍造寺家の家督相続を認め、勝茂を初代藩主として佐賀藩を成立させた》と。《佐賀藩は龍造寺・鍋島連合政権的性格を持って幕末まで存続し》たのですが、《秀忠正室小督の方を有事の際には鍋島家で保護するように依頼されたことは特筆に値するであろう》と。

秀吉ファミリーの崩壊も改めてみると凄い。《家定は豊臣秀吉の妻、北政所の兄なので、秀秋は「豊臣ファミリー」の一員だった》《福島正則は福島正信の子として誕生した。幼名は市松。通称は市兵衛だった。母は豊臣秀吉の母の妹でもあり、幼い頃から秀吉と親しい関係にあった》《長政は十歳のときに織田信長のもとに人質に送り込まれ、北政所により秀吉の居城、長浜城(滋賀県長浜市)で養育された。幸長の母は、北政所の妹であったという。秀秋は、北政所の兄木下家定の五男だった》という関係は密接だったな、と。

福島正則と直政、忠吉との先陣争いの背景もよく理解できました。《本来、秀忠が率いる部隊が関ヶ原合戦で先鋒を務めるはずだったが、到着が遅延したので実現しなかった。そこで、代わりに忠吉が先鋒を務めたのである》《井伊直政と松平忠吉が先鋒として西軍に攻め込むと、そのほかの東軍の衆もそれに続いて突撃した。東軍の勢力が西軍の要害へ攻め込んで戦いがはじまると、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子が西軍を裏切って東軍に味方し、やがて西軍は敗北を喫したのである》《直政が戦闘の開始を指示し、一斉に全軍が突撃したと考えられないか。指示命令系統がしっかりしていないと、全軍の統率は図り難い。前線に忠吉がいたのかどうかは不明であるが、いた可能性は高いのではないか。戦後の恩賞がその事実を示している》。

最後は近衛前久書状。それは《近衛前久(一五三六~一六一二)といえば、長尾景虎(上杉謙信)、織田信長、徳川家康との交流が著名であり、その関係により越後、関東、九州に下向するなど、戦国時代における武闘派の公家として有名である。 その近衛前久が、関ヶ原本戦(九月十五日)五日後の九月二十日付で子の信尹に送った書状》でした。

以下、目次。

第1部 東国の武将(徳川家康の戦い
上杉景勝の戦い
伊達政宗の戦い
最上義光の戦い)
第2部 西国の武将(毛利輝元の戦い
石田三成の戦い
宇喜多秀家の戦い
大谷吉継の戦い
前田利長の戦い
長宗我部盛親の戦い
鍋島直茂の戦い
小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い
関ヶ原本戦について記した近衛前久書状

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July 10, 2020

『戦国期足利将軍研究の最前線』山田康弘、日本史史料研究会、山川出版

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 足利将軍というと尊氏、義満、義政の3人とせいぜい義教ぐらいしか知られていないと思いますが、この本は応仁の乱で混乱した義政の子、九代将軍義尚から最後の十五代将軍義明までの戦国期の七人の足利将軍のそれぞれの評伝と裁判制度、軍事・警察力、栄典、皇室との関係などを横糸にしたアンソロジー。

 いまやヘイト本を出すまで墜ちた宝島社に買収された洋泉社から出ていた日本史史料研究会の「研究の最前線シリーズ」がいったん廃刊となったものの、山川出版など良心的な版元に引き継がれたのは本当によかったと思います。

 義昭とともに警察権力が去って足利幕府が終わったみたいなのは(p.119)、レーニンの『国家と革命』第1章の、常備軍と警察とは、国家権力の主要な力の道具である、みたいなのを思い出す。今の日本の歴史学はかつての反動でアンチマルクス主義歴史観がスタンダードになりすぎていて、研究者の方々もこんな本さえ読んでないと思うので老婆心からちょっと指摘。レーニンは『経済学・哲学草稿』など初期マルクスの著作を読んでいなかったため、国家=階級抑圧の道具としてしか捉えていませんでした。日本中世史の権門体制論は、上部構造までを考慮した国家論、東国国家論は下部構造重視の国家論じゃないかな、と個人的には感じていますので。

 内容に戻り、家系図をみると戦国期足利将軍はみな義教からの系譜なんだな、と改めて思います。義教が鎌倉公方を滅ぼすなど足利幕府の権力戦線を拡大した末に暗殺されて以降、足利将軍家は縮小再生産の道を歩むのかな、とか。義政と義視兄弟の子は短期間しか将軍の地位に就けなかったものの、その後は鎌倉まで辿り着けなかった末弟の政知の子が十一代将軍義澄となって義晴、義輝、義昭と続き、途中の義栄も阿波公方から生まれます。考えてみれば、「相伴衆」も義教期に成立した家柄・身分だそうで、いったんは幕府をリセットしようとした義教の研究を読みたいと思いました(p.125)。

 栄典では偏諱が面白かった。代々の足利将軍の名前は義プラス一文字で構成されますが、戦国大名が名前をいただく際、「義」には返礼が多く必要だったというあたりは生々しい(p.124)。また、塗輿、毛氈鞍覆、白傘袋の使用御免、書札礼の改善などの待遇を求めて将軍に接近するのですが、戦国大名たちが他より少しでも上を目指したのには実質的な理由があるんだな、というのも初めて知りました。書札礼では裏書御免の特権を得れば、幕府公認のため相手は黙って受け入れるしかないそうで、こうした差異が優越を生んだ、と(p.129-)。

 朝廷は義輝-三好氏の争いに巻き込まれないために、1564年に三好氏から出された60年に1回の甲子改元の願いを拒否したというのも面白かった。辛酉の年の4年後に天意があらたまり、徳を備えた人に天命が下される革令の年という甲子に改元が行われなかったのは、明治時代まで甲子改元が行われなかったのはこの時だけとのこと(p.173)。

 最後の「江戸時代に生きた足利将軍の末裔」も初めて知る話しばかり。

 細川藤孝は足利義昭を見限って信長に仕えて栄達したことに「逆臣」の汚名を着せられるのを恐れてか、出自の疑わしい御落胤、道鑑を召し抱えたというあたり。細川家に感じるなんともいえない「ええかっこしい」の心根をみたような気がする。

 《「足利将軍のご落胤」を称する足利道鑑を厚遇し、それによってかつての裏切り行為を「帳消し」にしたうえ、「細川は忠臣である」ということを世間に示そうとした》というあたりは、まったく学術的ではないけど、江戸落語で細川の殿様がやたら武士の鑑みたいな感じで描かれていたりするのに通じるというか、世間からそうみてもらいたいというワケがあったんだな、と(藤孝の裏切り、明智光秀の娘ガラシャの件)。それは護熙さんにまで通じているかな、と。

 肥後五十四万石に入府の際、三代目の忠利は《小倉からの道中、行列の先頭に清正公の霊牌をかかげて熊本に入ったといわれる。また忠利ははじめて熊本城に登ったとき、石塁の上にすわり、清正公廟を遥拝して-あなたのお城を預らせて頂きます。と言ったといわれている。忠利のこの芸のこまかさは肥後の人心を得るためだったが、その細心さこそ細川氏の政治を生んだといえる》(『この国のかたち二』司馬遼太郎著、文春文庫、p64)という話しも思い出す。細川氏の政治というか「肥後熊本藩主家のイメージ戦略」みたいな趣旨の論文があったら読んでみたい。

 蜂須賀家を頼った平島足利家が人々の求めに応じて「足利家、清和源氏之印」と墨書された守札を発行し、マムシよけに珍重されたというあたりは、なんとも足利家の末裔らしいしたたかさも感じる。

 東アジアでは旧王朝の一族に対してはそれなりの冷遇をほどこすのが人徳とみなされたため、江戸時代でも徳川、蜂須賀、細川も足利血胤を尊重したものの、現体制を相対化するのは不都合であったため、足利という名字を使うことは認めなかったというあたりはバランス感覚だな、と(p.244)。

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July 01, 2020

『微分・積分を知らずに経営を語るな』内山力、PHP新書

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 何冊か微分・積分に関する本を読んで、ようやく数Ⅲのテストで60点はとれるかな、ぐらいになったと思ったので、さっそく応用問題みたいな本を読んでみました。経営の数字の変化をデルタ(微分)にキャッチし、その変化をつなげて(積分)、将来を読んでみよう、という感じの本。

《文系世界の中で結構〝数学的〟なのが法律です。法律は、企業内のように〝特定のメンバー同士〟が話すわけではないので、解釈が分かれないようにしっかりと定義してい》るが、将来見通しに関しての共通言語は数学だ、と。《数学を考える学者たちは、すごく論理的で、計算方法や法則を見つけたりする時に、いろいろな論理テクニックを思いつきました。そしてそれを学者らしく皆で共有していきました。彼らはこうして「論理学」という数学の一分野を築き上げてしまいました》が、《この議論に数学者たちも加わり、その論理性でまわりを論破してしまいます。こうしていつの間にか哲学的論理学は消え、論理学は数学にのみ存在する学問となりました》というは、文系的には寂しい話しですが、まあ、真実だな、と。

 《数学の世界では、このように複雑でごちゃごちゃしたものを、すっきりとして単純なものに変えることを、「正規化」といいます。頭の柔らかい人は、まずは単純な例(非現実的といってもよいもの)で考えて、それを〝一般化〟(現実の話に戻す)していこうと》するものだ、と。

 微分の「微」には薄く削ぐという意味があって、differentialを微分と訳した明治期の学者さんは、漢文の素養も相当あったな、と感じるというのは前も書きましたが、《積分は、分かれているもの(分)を〝つなぐ〟(積)という意味です。積分は、微分の反対にデジタルをくっつけてアナログにするもの》というのも分かりやすい。

 《「コンピュータで最大値、最小値を出す」というのは、ビジネスのありとあらゆるところで適用されており、微分の基本的な活用法》であり、商品のピーク、ロングテールも見きわめられる、と。それは《成熟期の時間を長くしていくことの大切さがよくわかると思います。 また、衰退期も意外と面積(売上)が大きいことに気づきます。「日が経って売上が落ちても、企業への貢献度は高い」》ことを理解すべき、と。

《「偏差を2乗してその平均を取り、その平方根(ルート)を取る」――これが標準偏差の定義です》が、《この〝標準偏差を小さくして在庫を減らす方法〟は、あちらこちらでよく使われます》と。これによって《ムダ(欠品、売れ残り)、ムリ(欠品率)、ムラ(標準偏差)》を減らすために微分・積分を用いる、と。

《統計は、「わかっているデータを使って、わからないデータを推定する」というもの》という定義も改めて言われるとなるほどな、と。

 マーケティングだけでなく、微分積分は品質管理にも応用できます。新商品のテストをやめて製品として出荷するやめ時を品質基準といいますが、テレビCMなどで「厳しい品質基準をクリアした製品」と宣伝されるのは、リスクを排除できないから。ゼロリスクの代わりの概念が品質基準であり、それは「我社には不良品は一切ない」と宣伝することは不可能なことだから、と。

 しかし、各社が品質基準を低くしたら、問題なので、社会全体としての品質基準の合意が求められることになり、その合意の代表がISO9000(国際標準化機構によって定められた品質基準)というのも分かりやすい説明。

 設備的視点からすれば「初期故障期間をテストにあて、偶発故障期間に入ったら出荷し、この間は保守契約(おカネをもらって故障を直す)を結ぶ。そして、摩耗故障期間に入ったら買い替えを促す」ことが最適であり、《この設計仕様÷絶対満足を、仕様適合度といいます。こうすると、顧客満足度を上げるということは、「仕様適合度を上げること」と「品質÷価格を上げること」の2つ》だ、と。

 対数の説明はマグニチュードから。《人間が外から受ける刺激は対数的だといわれており、マグニチュード(地震)、デシベル(音)などは 10 をベースとした対数を使っています。マグニチュードは地震の揺れが「 10 倍になると1増える」という〝感じ〟》というのは知らなかったな、と。

《ビジネスの世界では、シャノンという数学者が情報の大きさである情報量を定義する時、これを〝びっくり度〟(それを聞いて〝驚く度合〟。情報量が大きいと「ヘー」と思う。小さいと「やっぱり」と思う)として、2をベースとした対数を使ったのが有名です》というのも知らなかったw

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June 28, 2020

苦手な「微分・積分」を5時間で攻略する本 中学数学の応用で解ける! 「勉強のコツ」シリーズ

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 高校でやんちゃなことをしている間に文転してしまったのですが、念のために数Ⅲはとっていたものの、内容は蒸発してしまいました。人生が二度あるわけはないし、マジメにやっていたとしても、理系の分野では応用的な分野でしか役に立たなかったろうでしょうが、それでも、経済をみていく中でも、微分・積分は必要だし、次の展開を読むツールのひとつとして、心得ていたいものだな、とはずっと思っていました。

 いまや毎日が日曜日なので、いろんな本を読んでみたり、Eテレの番組を観ていたのですが、どうも、自分が習ったものとの整合性がとれず、あるいは単にdをどう呼んだらいいのかなんていう、なかなか人さまに改めて聞くのも恥ずかしいというような問題もありました。

 フランス語も学び直しをする機会があったのですが、その際は大学の教科書をとっておいたのが役に立ちましたが、教科書などは全て捨ててしまったのが惜しまれます。ということですが、∫f(x)dxを「インテグラル・エフ・エックス・ディーエックス」と読み方まで書いてくれて、極限値を求めるときに「0ではわれない」から乗法定理をつかって因数分解して、分母と分子を約分することで求められる、ということを思い出させてくれたのは、この本でした。

 そして微分とはグラフの接線の傾きを求めることであり、微分公式を覚えておけばいいということも思い出しました。我ながら本質的には理解できてないとは思いながらも、知り合いの理系の人間から「なんやかんやいっても丸暗記で覚えているのもあるから」と言われたのも思い出します。

 微分の「微」には薄く削ぐという意味があって、differentialを微分と訳した明治期の学者さんは、漢文の素養も相当あったな、と感じるのですが、円の面積を微分すると微分公式から円周になる、というのは初めて知りました。同様に球の体積を微分すると表面積となります。極大と極小を求める考え方はマーケティングにも応用できるな、とか。

 また、微分が接線の傾きを求めることならば、積分は面積を求めること。このほか、偏微分は二変数関数とか、いろいろアタマん中が整理されました。

 あと、高校の物理で習った加速度なども思い出させてくれました。

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June 24, 2020

『陰謀の日本中世史』呉座勇一、角川新書

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 呉座先生の『応仁の乱』と亀田俊和先生の『観応の擾乱』のアンチョコというかダイジェストというか要点整理をしてもらった感じ。どうしても、アマチュア日本中世史愛好家は固有名詞を追うだけで精いっぱいになるし、しかも名前の読み方も難しいので、ありがたかった。

 『応仁の乱』は畠山氏の家督争いを発端にした細川勝元と山名宗全の権力闘争で、義政の弟である足利義視が東から西に移ったことなどは二次的な問題であり、東軍勝利ということで居場所を失い、美濃に落ちのびただけ、というのを理解すれば、その後の展開もスッととける感じ。

 義視は美濃に留まり続け、そのうち義政の子である9代将軍の義尚が早世。これによって日野富子の妹である良子との子、足利義稙が10代将軍になるも、細川政元と対立して将軍を廃される、と。この明応の政変の後、堀越公方となった足利政知(あしかが・まさとも=義政、義視の異母兄弟)の子が11代将軍の義澄となるが、盛り返した義稙によって京都を追放されて悶死、と。さらに、堀川公方となった茶々丸は伊勢宗瑞後の(北条早雲)によって滅ぼされ、本格的な戦国時代が到来する、みたいな流れ。

 よく、応仁の乱が長引いたのは日野富子のせいだと言われますが、それは富子を悪女に描いた『応仁記』の影響というのも納得的。軍記物語である『応仁記』は細川家の対立を解消するための怪文書だったという解説も素晴らしい。

 それにしても、当時の人物相関図を理解する際には家系図の他、誰が乳母、乳父だったのかを考えなければならないたけで複雑さが増すのに、『応仁記』で活躍して細川家と畠山家が恩讐を乗り越えるキッカケをつくるのが安富元綱と衆道関係にあった神保長誠の子、慶宗が同じ陣営に属したからということで、ここまでくると本当にわけがわかりません(p.196)。

 『観応の擾乱』でも、足利尊氏は小山、千葉、武田、小笠原氏と比べて家格・血筋で圧倒的に上位ではなく有力御家人にすぎず、尊氏に実力と人望があったから将軍になっただけで、尊氏の子孫が代々武家の棟梁として君臨する根拠は乏しかった、という説明で全体をスッと分からせてくれました(p.144)。

 また、新田家末裔を称する徳川家を正統とする立場から、江戸時代に林家が尊氏を冷酷に描いた、というのもなるほどな、と(p.168)。

 本能寺の変の後《みんながみな人間不信になって身動きできない状況で、がむしゃらに前に飛び出した羽柴秀吉が異常》という評価も面白かった(p.262)

《偽史研究者の原田実氏は「自分の情報収集能力や知的能力に自信のある人ほど、初めて聞く話や、考えもしなかったような話が出てくる本を過大評価してしまう傾向がある」と指摘している》そうですが、拳々服膺しなければと思った次第(p.324)。

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June 12, 2020

『陸海の交錯 明朝の興亡』壇上寛、岩波新書

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 シリーズ中国の歴史もいよいよ4巻目。まとめとなる「あとがき」によると、本書は宋以降の1)中華と夷狄の抗争2)華北と江南の南北の対立3)草原を含む大陸と東南沿海の海洋中国の相克が元末で交錯して中国社会を激しく揺さぶり、その対応を迫られた明代を描きます。残念ながら、3つの対抗基軸を一元化するモチーフは儒教の論理だけで、極度に統制が強められたのみだったわけですが。

 地球規模の寒冷化による災害・飢餓や社会動乱・戦争が続けざまに起こった14世紀と17世紀の狭間にあるのが明という時代だった、という書きだしからうなりました。

 中国では士大夫の行動は礼によって規定されますが、それは一般庶民が守れるようなものではないため、庶民には法が適用されてきました。それは《漢代に儒教が国教化されると、従来儒家の排斥してきた法(刑)の行使が、徳の通用しない小人に対しては容認された》というものだった、というのも「そういう理屈だったのか!」と納得がいきました(p.30)。ここから、庶民を統制する刑罰は、礼の徳を備えているとされる士大夫には無縁ということで植力者は法から解き放なたれ、庶民には刑が押しけられるわけですが、中共でも幹部に対する処罰が苛酷なのは、「礼」を備えているにもかかわらず法さえも守れないのであればより厳しく罰せられるからなのかな、と(もちろん、それも恣意的に運用されるんでしょうが)。

 明代だけを扱った新書は初めてということで、正徳帝の逸話とかもっと書いてほしかった。正徳帝は今で言う発達障害じゃないかと思うけど、歴代皇帝の中でも現代的なルックスで好き。若くてヘンでカッコ良いから大衆に人気あるし暴れん坊将軍のモデルになったんだろうな、と。それにしても明朝は吃音で年増好きの成化帝とか(p.135)、礼制マニアで経済というか交易に理解示さず、モンゴルや倭寇を凶悪化させた嘉靖帝とかヘンな皇帝が多いな、と。

 後半はモンゴル帝国の総括と、銀経済の発展によって海洋貿易が盛んになり、それが倭寇と秀吉による災難を生む、みたいな流れでしょうか。

 また、中国は草原の果てでモンゴルによってユーラシアとつながるわけですが、海洋の果てに日本列島ともつながったのかな、とも感じました。もちろん、海の果ての蕃国という意識はあったんでしょうが、そんな文化果つる国から征服の意図をもたれたんですから。

 西洋式小銃もポルトガル人が将来したが中国では精妙に模倣できず、日本で改良された火縄銃が倭寇経由で伝えられた、というのは知りませんでした(p.176-)。秀吉軍から日本兵と新式鉄砲を得た明軍は、遼東のジュシェンや西南地方の少数民族の反乱鎮圧に利用したんですが、やがて、そこから勃興したヌルハチが清王朝をたてるわけで。また、秀吉軍の強さはスペインなど西欧列強が日本の植民地化を諦めるきっかけになったというのも、改めて実感しました。なにせ、秀吉軍は破竹の進軍でソウル、平壌を落として王子2人を捕虜にしてしまう強さ。秀吉軍に対して明軍は切り札ともいうべき東北の雄、李成梁の長子李如松の軍団を投入するんですが、李如松は平壌で小西行長軍を破ってソウル奪還を目指すものの、その手前で大敗北、完全に戦意を喪失させられてしまいます。

 それにしてもの秀吉の世界制覇プランは気宇壮大(p.180)。昭和陸軍と秀吉ぐらいじゃないのかな、こんなのはw

 モンゴルの制覇によってユーラシア大陸規模でヒト、モノ、カネ、情報が還流することになり、帝国崩壊後もオスマン朝、ティムール帝国、ムガール帝国、明・清のほとんどがチンギスハンの血統かモンゴルの権威を後ろ盾にした、と。しかし、その中で明だけはモンゴル色を排した、と。

 明は南から興って全国を制覇、しかも、遊牧王朝を倒した唯一の王朝だったというのもなるほどな、と。ここまできて、『中世史講義【戦乱篇】』高橋典幸編、ちくま新書で文禄・慶長の役を日本の軍事力をみたスペインが植民地化を諦めたという功績を見直す評価もあるというのが気にかかり、あらためて明側からみた文禄・慶長の役はどうだったかをまとめてみると…。

 秀吉軍が鉄砲の力で緒戦を圧倒した後、平壌で明軍に敗れたものの、ソウルを目の前にして小西行長が再び虎の子の明軍を返り討ちにあわせたことで文禄の役も講和の機運となります。ここで万暦帝は秀吉を柵封する時の称号を国王より一段下の「順化王」(天子の徳化に順う王)にするとダダをこねたのですが、結局、国王を与えることに。しかし、どうしても気が済まなかった万暦帝は足利義満に下賜した九章冕服よりワンランク下の皮弁冠服だったというのがなんとも微笑ましい。

 明側の使節を大阪城で謁見した秀吉は、小西行長らが騙した思惑やそれに乗った《明側の思惑を知ってか知らでか明の冠服を身につけて万歳を唱えるなど、いたく上機嫌であった》(p.184)というのも初めて読んだ解釈。

 また、諸大名も都督や都督同知などの官職を得て、冠服も賜った、と。これは朝鮮出兵で揺らいだ支配秩序の引き締めに明の権威を利用したためで、だから勅諭や誥命も後生大事に残された、という説明は納得的。

 しかし、貿易が認められなかったことで面子が潰されたことに怒り秀吉は再出兵。その慶長の役は朝鮮、明、東南アジア、インドまでを征服しようとした気宇壮大な文禄の役と違って、朝鮮南部への報復に矮小化されたもので、それが豊臣軍事政権の限界を示し、秀吉はヌルハチにはなれなかった、という結論もなるほどな、と。

 逆に明をはじめ中国歴代王朝は常に遊牧民族からの侵入を受けていて、それと戦って、なんとか講和して、華夷秩序という虚構で自分たちの面子は保ってきたんだろうな、と。だから、屈辱的な講和を受ける時もあるけど、列島の支配者は白村江の時も元寇の時も「生か死か」で柔軟性が欠けるというか、交渉力が磨かれてこなかったんだな、と。

 と同時に、銀の流通が活発化した中でのスペインのマニラ建設がグローバル経済の端緒とみなされる(p.223)ようになった今、明をあれだけ苦しめた秀吉の軍事力は、スペインをして征服しようとする気を失わせたのは、ひとつの評価だよな、とも改めて思いました。

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June 02, 2020

『刑務所わず。 塀の中では言えないホントの話』堀江貴文、文藝春秋

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 都知事選のマニフェストっぽい本を上梓したタイミングで旧著をkindle unlimitedで、事実上、タダで読ませるという選挙戦術はなかなかだなと思いましたが、あとがきで『刑務所なう。』『刑務所なう。シーズン2』、そして今回の『刑務所わず。』は三冊セットで是非読んでほしい、と書いてあるのが、確かにそうだと思ったので、ご紹介します(ちなにみに「わず」は出所したのでNowではなくWasとなった、という意味だそうです)。 

 にしても、扉で書かれている「人口の4%は受刑者」という数字は、国立大学の大学院の入学者のパーセンテージと同じだと思います(よく入学式で語られます)。なんつうか、きれいな対比だと思います。

 《「バブルは悪だから資本主義に代わる新しいイデオロギーが必要だ」っていう人がいるけど、「ウィルスや細菌は人間には悪だから撲滅しないといけない」ってのと同じ》というコロナ騒ぎの今にも通じる言葉を残しているのはさすがだな、と。

 ホリエモン本人はほとんど検察のフレームアップ(デッチ上げ)で逮捕・起訴されたので自分は悪くないと思っているでしょうし、出所後も収入を得られる算段がついていたからカラッと書いていますが、ざっくり獄中をひとことでいいあらわせば《融通&効率<上下関係」というのが刑務所だが、古い体質の企業とかもそんな感じなのだろうな…きっと》というあたりでしょうか。

 また、最高裁ではほとんど減刑が期待できないから、二審で諦めれば出所した時は30代だったと書いてあるあたりも実感がこもっていましたね(仮釈放が出るのかと疑心暗鬼になって心が潰れそうになるのが最後の試練だ、という話しも初めて聞きましたがリアルです)。

 収監期間中に刑務所行政を担当する法務省の本省の局長にノンキャリがはじめて就任したことについて《一部の局長を除き、検察官が局長ポストを独占しているのってかなり異常事態》という検察批判も相変わらず厳しい(ライブドア事件はニッポン放送の株を買い占めてフジテレビを買収しようとしたのをエスタブリッシュメントたちが危機意識をもって、アウトサイダーのホリエモンたちをささいな証券取引法違反で起訴したフレームアップに近いものだと思っています。約53億円の粉飾決算に対してホリエモンに下された刑は懲役2年6か月でしたかが、山一証券をはじめ数千億単位の粉飾決算を行った過去の事件と比較すると、前例のない重刑ですし、類似の事件と比べても悪質ではありません。その後、フジテレビはキムタク主演で検事の独自捜査がいかに素晴らしいかを描いたドラマをつくって検察=ヒーローと視聴者を洗脳したのですが、勘違いして思い上がった検察官が村中さんをでっち上げて逆に逮捕されたんですから人間万事塞翁が馬なのかもしれませんが)*1。

 さらに刑務所の世界を世間にたとえると《ここでは、面倒くさい人でもシカトできないから。絶対行かなきゃいけない会社で、体育会系の社風で嫌な上司がいるみたいな感じ》だそうです。

 《カラーコンタクトレンズが流行ったのは「オタクが作って、ヤンキーが売るの法則」というあたりもうなった》というのも面白かった。

あとは箇条書きで。

《仕事で一番きつかったのは、年末の福袋作業だ。いかにも中国から運ばれてきたような感じのボロい段ボールに、アディダスやナイキの靴下が詰め込まれている》

《テレビのインタビュアーってバカなんですよね。なんというか、バカな相手にバカなことしか言わないから》これはサッカーメディアに感じていたこと。小さな業界のサッカーメディアはこんなことを続けていて、あっという間に業界規模が縮小しましたが、他山の石としなければ…。

《原発アレルギー層と、納税は嫌だけど社会保障・福祉は充実させろ、自由貿易は嫌だ派の人って、金がどこからか湧いてくると思っているんだろうか? まさか、自給自足で生活するわけにもいかんでしょうに》

 ロケット打上げをめぐって《大学の研究者はポストが確保できて自己満足の研究予算を取ることに執着するとか、なんとも下らない話ばかり。だから、政府補助ってダメなんだよ! 向上心を持ってリスクを取って自分の安定した暮らしとか捨てている奴にしか補助を出しちゃダメ! と思ったりするが、そういう人たちって元から政府の補助とかアテにしないの》というのも実感だろうな。

 《富裕層増税(所得税)って、現実的な実質収入も大して増えない上に、対象者はほとんどオーナー社長とかだから、役員報酬を基準額以下に引き下げて会社に内部留保するだけだと思うんだよね。実際、法人税額と比較して有利な額以上の報酬を受け取らないのは普通の節税対策だから。富裕層以外の人に向けた単なるポピュリズム政策の末路は、ほとんど税収が増えず、富裕層の節税や海外脱出を助長し、経済は冷え込むという最悪の結果を生む》というのも、まあ、その通りだなと。

 《真相解明や再発防止には、関係者を刑事免責扱いにして、洗いざらい調査委員会に語らせること。でないと、刑事処分を恐れて肝心な所を関係者は話さないし、当局は勝手なストーリーをでっち上げる癖があるから》という指摘は大切。

 ホリエモンは「ようやくサンピン(刑期残り3分の1)まで来た!」と喜んだが、最近ではよほどのことがない限り、刑期を1/3残した状態では仮出所はできないらしい。じっさい、ホリエモンも出獄できたのはヨンピンの後。

 ごはんとおやつで得した気分になる「幸せの閾値が低い受刑者」となったことを自覚するというのは可愛いし、人間の本質だろうな、と。

 《この世に「安心・安全」などないし、自分の身は自分で勉強して守れ。ジェットスキーに乗るのに免許がないと罰せられる国って、日本くらいのものだよ~。バカバカしい》というのも、その通りだな、と。

*1ノンキャリの元刑務看守だった西田博さんが2013年に法務省矯正局長に就任。検察官ポストだった矯正局長ポストに初めてノンキャリが就任(とはいっても77年中央大学法学部卒ですか)。西田氏の後任は再び検察官が就いています。ちなみに2人は文藝春秋で2015年4月号で対談しています。

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May 30, 2020

『中世史講義【戦乱篇】』高橋典幸編、ちくま新書

Chuuseishi-kigi

 期待にたがわぬ面白さ。最新の学説によって、日本の中世社会がダイナミックに迫ってきます。

 武士による乱世は保元・平治の乱から始まるのですが、そうした暴力的な中世社会に挑戦し、克服した秀吉の偉大さを改めて実感するとともに、文禄・慶長の役の評価では、日本の軍事力をみたスペインが植民地化を諦めたという功績を見直す論議も出てきていることに驚きました。

 まとめにあたる[第15講 総論]によると、中世は朝廷・貴族間の争いが軍事的に決着をつけるしかなくなることで武士の台頭が始まり、さらには源平合戦などで全国に戦火が拡大した、と。いったんは鎌倉幕府によって秩序は回復するのですが、元寇などで混乱。幕府崩壊に続く南北朝の内乱は戦国時代にまで及ぶ内乱の幕開けとみることができる、と。

 近世も武士の世でしたが、中世が戦乱にあけくれていたのは自己救済でしか権利を守ることができなかったからということが強調されます。考えてみれば、覇者となった以降の秀吉の天下統一の戦い(九州攻め、小田原攻め、奥羽仕置き)は、私戦は秀吉によって成敗されることを全国の武士に示すことであり、同じように争いの絶えなかった村落に発した喧嘩停止令とともに、中世の社会への大きな挑戦だった、という結論は納得的。

 毛利が一時の覇者となった西国の争乱の面白さと、北条氏が籠城と外交で生き残る東国の「国郡境目相論」の地味さの対比も面白かったかな(第10講と11講)。

 あと、武士たちは仲間内、特に兄弟間では殺し合うんだな、と。清和源氏は三流に分かれて争い、実朝で終わるし(とはいっても保元の乱で源義朝とともに主力となった義康の子孫が室町幕府を開く足利氏になるのですが)、時宗はモンゴルを迎え撃つ前に庶兄や北條一門を討つし。

 にしても、室町幕府は鎌倉公方の統率力を早々と失い、九州も支配をあきめたんだから全国が自力救済に向かう戦国時代になるのも無理はないかな、とか。

 全部をとりあげるわけにはいかないので、ひとつだけあげると、特に面白かった[第10講 西国の戦国争乱]は全体の見取り図が示されていて、分かりやすかったかな、と。出雲の尼子、周防・長門の大内氏に挟まれた安芸・備後・石見には有力な守護がおらず、吉川・小早川家を勢力下においた「毛利両川体制」を築いて国衆を束ねた地生えの毛利氏がリーダー的存在になり、尼子と大内を滅ぼし西国の雄となる過程は小説のよう。

 まず、大内義隆が尼子の富田城を攻めあぐねて退却したあげく、重臣である陶隆房によって廃されて自刃。しかし、毛利氏は厳島を攻めた陶氏を破って逆に防長両国を治めることに成功。さらに、石見から富田城を包囲して大内氏も倒せなかった尼子氏を滅亡させるという見事な両面作戦を成功させた元就はたいしたもんだな、と。

 さらには、西国の雄となった時点で織豊政権と対立するわけですが、毛利は秀吉の中国大返しの追撃せず、関門海峡を挟んだ大友と戦いに備えたことで乱世を生き延び、さらには関ヶ原で負けても幕末には雄藩として明治維新を達成することに繋がったんですから、たいしたものです。

以下目次

[第1講 保元・平治の乱]
[第2講 治承・寿永の乱]
[第3講 承久の乱]
[第4講 文永・弘安の役]
[第5講 南北朝の内乱]
[第6講 永享の乱]
[第7講 享徳の乱]
[第8講 応仁の乱]
[第9講 明応の政変]
[第10講 西国の戦国争乱]
[第11講 東国の戦国争乱]
[第12講 石山合戦]
[第13講 豊臣秀吉の統一戦争]
[第14講 文禄・慶長の役]
[第15講 総論]

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