July 01, 2020

『微分・積分を知らずに経営を語るな』内山力、PHP新書

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 何冊か微分・積分に関する本を読んで、ようやく数Ⅲのテストで60点はとれるかな、ぐらいになったと思ったので、さっそく応用問題みたいな本を読んでみました。経営の数字の変化をデルタ(微分)にキャッチし、その変化をつなげて(積分)、将来を読んでみよう、という感じの本。

《文系世界の中で結構〝数学的〟なのが法律です。法律は、企業内のように〝特定のメンバー同士〟が話すわけではないので、解釈が分かれないようにしっかりと定義してい》るが、将来見通しに関しての共通言語は数学だ、と。《数学を考える学者たちは、すごく論理的で、計算方法や法則を見つけたりする時に、いろいろな論理テクニックを思いつきました。そしてそれを学者らしく皆で共有していきました。彼らはこうして「論理学」という数学の一分野を築き上げてしまいました》が、《この議論に数学者たちも加わり、その論理性でまわりを論破してしまいます。こうしていつの間にか哲学的論理学は消え、論理学は数学にのみ存在する学問となりました》というは、文系的には寂しい話しですが、まあ、真実だな、と。

 《数学の世界では、このように複雑でごちゃごちゃしたものを、すっきりとして単純なものに変えることを、「正規化」といいます。頭の柔らかい人は、まずは単純な例(非現実的といってもよいもの)で考えて、それを〝一般化〟(現実の話に戻す)していこうと》するものだ、と。

 微分の「微」には薄く削ぐという意味があって、differentialを微分と訳した明治期の学者さんは、漢文の素養も相当あったな、と感じるというのは前も書きましたが、《積分は、分かれているもの(分)を〝つなぐ〟(積)という意味です。積分は、微分の反対にデジタルをくっつけてアナログにするもの》というのも分かりやすい。

 《「コンピュータで最大値、最小値を出す」というのは、ビジネスのありとあらゆるところで適用されており、微分の基本的な活用法》であり、商品のピーク、ロングテールも見きわめられる、と。それは《成熟期の時間を長くしていくことの大切さがよくわかると思います。 また、衰退期も意外と面積(売上)が大きいことに気づきます。「日が経って売上が落ちても、企業への貢献度は高い」》ことを理解すべき、と。

《「偏差を2乗してその平均を取り、その平方根(ルート)を取る」――これが標準偏差の定義です》が、《この〝標準偏差を小さくして在庫を減らす方法〟は、あちらこちらでよく使われます》と。これによって《ムダ(欠品、売れ残り)、ムリ(欠品率)、ムラ(標準偏差)》を減らすために微分・積分を用いる、と。

《統計は、「わかっているデータを使って、わからないデータを推定する」というもの》という定義も改めて言われるとなるほどな、と。

 マーケティングだけでなく、微分積分は品質管理にも応用できます。新商品のテストをやめて製品として出荷するやめ時を品質基準といいますが、テレビCMなどで「厳しい品質基準をクリアした製品」と宣伝されるのは、リスクを排除できないから。ゼロリスクの代わりの概念が品質基準であり、それは「我社には不良品は一切ない」と宣伝することは不可能なことだから、と。

 しかし、各社が品質基準を低くしたら、問題なので、社会全体としての品質基準の合意が求められることになり、その合意の代表がISO9000(国際標準化機構によって定められた品質基準)というのも分かりやすい説明。

 設備的視点からすれば「初期故障期間をテストにあて、偶発故障期間に入ったら出荷し、この間は保守契約(おカネをもらって故障を直す)を結ぶ。そして、摩耗故障期間に入ったら買い替えを促す」ことが最適であり、《この設計仕様÷絶対満足を、仕様適合度といいます。こうすると、顧客満足度を上げるということは、「仕様適合度を上げること」と「品質÷価格を上げること」の2つ》だ、と。

 対数の説明はマグニチュードから。《人間が外から受ける刺激は対数的だといわれており、マグニチュード(地震)、デシベル(音)などは 10 をベースとした対数を使っています。マグニチュードは地震の揺れが「 10 倍になると1増える」という〝感じ〟》というのは知らなかったな、と。

《ビジネスの世界では、シャノンという数学者が情報の大きさである情報量を定義する時、これを〝びっくり度〟(それを聞いて〝驚く度合〟。情報量が大きいと「ヘー」と思う。小さいと「やっぱり」と思う)として、2をベースとした対数を使ったのが有名です》というのも知らなかったw

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June 28, 2020

苦手な「微分・積分」を5時間で攻略する本 中学数学の応用で解ける! 「勉強のコツ」シリーズ

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 高校でやんちゃなことをしている間に文転してしまったのですが、念のために数Ⅲはとっていたものの、内容は蒸発してしまいました。人生が二度あるわけはないし、マジメにやっていたとしても、理系の分野では応用的な分野でしか役に立たなかったろうでしょうが、それでも、経済をみていく中でも、微分・積分は必要だし、次の展開を読むツールのひとつとして、心得ていたいものだな、とはずっと思っていました。

 いまや毎日が日曜日なので、いろんな本を読んでみたり、Eテレの番組を観ていたのですが、どうも、自分が習ったものとの整合性がとれず、あるいは単にdをどう呼んだらいいのかなんていう、なかなか人さまに改めて聞くのも恥ずかしいというような問題もありました。

 フランス語も学び直しをする機会があったのですが、その際は大学の教科書をとっておいたのが役に立ちましたが、教科書などは全て捨ててしまったのが惜しまれます。ということですが、∫f(x)dxを「インテグラル・エフ・エックス・ディーエックス」と読み方まで書いてくれて、極限値を求めるときに「0ではわれない」から乗法定理をつかって因数分解して、分母と分子を約分することで求められる、ということを思い出させてくれたのは、この本でした。

 そして微分とはグラフの接線の傾きを求めることであり、微分公式を覚えておけばいいということも思い出しました。我ながら本質的には理解できてないとは思いながらも、知り合いの理系の人間から「なんやかんやいっても丸暗記で覚えているのもあるから」と言われたのも思い出します。

 微分の「微」には薄く削ぐという意味があって、differentialを微分と訳した明治期の学者さんは、漢文の素養も相当あったな、と感じるのですが、円の面積を微分すると微分公式から円周になる、というのは初めて知りました。同様に球の体積を微分すると表面積となります。極大と極小を求める考え方はマーケティングにも応用できるな、とか。

 また、微分が接線の傾きを求めることならば、積分は面積を求めること。このほか、偏微分は二変数関数とか、いろいろアタマん中が整理されました。

 あと、高校の物理で習った加速度なども思い出させてくれました。

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June 24, 2020

『陰謀の日本中世史』呉座勇一、角川新書

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 呉座先生の『応仁の乱』と亀田俊和先生の『観応の擾乱』のアンチョコというかダイジェストというか要点整理をしてもらった感じ。どうしても、アマチュア日本中世史愛好家は固有名詞を追うだけで精いっぱいになるし、しかも名前の読み方も難しいので、ありがたかった。

 『応仁の乱』は畠山氏の家督争いを発端にした細川勝元と山名宗全の権力闘争で、義政の弟である足利義視が東から西に移ったことなどは二次的な問題であり、東軍勝利ということで居場所を失い、美濃に落ちのびただけ、というのを理解すれば、その後の展開もスッととける感じ。

 義視は美濃に留まり続け、そのうち義政の子である9代将軍の義尚が早世。これによって日野富子の妹である良子との子、足利義稙が10代将軍になるも、細川政元と対立して将軍を廃される、と。この明応の政変の後、堀越公方となった足利政知(あしかが・まさとも=義政、義視の異母兄弟)の子が11代将軍の義澄となるが、盛り返した義稙によって京都を追放されて悶死、と。さらに、堀川公方となった茶々丸は伊勢宗瑞後の(北条早雲)によって滅ぼされ、本格的な戦国時代が到来する、みたいな流れ。

 よく、応仁の乱が長引いたのは日野富子のせいだと言われますが、それは富子を悪女に描いた『応仁記』の影響というのも納得的。軍記物語である『応仁記』は細川家の対立を解消するための怪文書だったという解説も素晴らしい。

 それにしても、当時の人物相関図を理解する際には家系図の他、誰が乳母、乳父だったのかを考えなければならないたけで複雑さが増すのに、『応仁記』で活躍して細川家と畠山家が恩讐を乗り越えるキッカケをつくるのが安富元綱と衆道関係にあった神保長誠の子、慶宗が同じ陣営に属したからということで、ここまでくると本当にわけがわかりません(p.196)。

 『観応の擾乱』でも、足利尊氏は小山、千葉、武田、小笠原氏と比べて家格・血筋で圧倒的に上位ではなく有力御家人にすぎず、尊氏に実力と人望があったから将軍になっただけで、尊氏の子孫が代々武家の棟梁として君臨する根拠は乏しかった、という説明で全体をスッと分からせてくれました(p.144)。

 また、新田家末裔を称する徳川家を正統とする立場から、江戸時代に林家が尊氏を冷酷に描いた、というのもなるほどな、と(p.168)。

 本能寺の変の後《みんながみな人間不信になって身動きできない状況で、がむしゃらに前に飛び出した羽柴秀吉が異常》という評価も面白かった(p.262)

《偽史研究者の原田実氏は「自分の情報収集能力や知的能力に自信のある人ほど、初めて聞く話や、考えもしなかったような話が出てくる本を過大評価してしまう傾向がある」と指摘している》そうですが、拳々服膺しなければと思った次第(p.324)。

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June 12, 2020

『陸海の交錯 明朝の興亡』壇上寛、岩波新書

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 シリーズ中国の歴史もいよいよ4巻目。まとめとなる「あとがき」によると、本書は宋以降の1)中華と夷狄の抗争2)華北と江南の南北の対立3)草原を含む大陸と東南沿海の海洋中国の相克が元末で交錯して中国社会を激しく揺さぶり、その対応を迫られた明代を描きます。残念ながら、3つの対抗基軸を一元化するモチーフは儒教の論理だけで、極度に統制が強められたのみだったわけですが。

 地球規模の寒冷化による災害・飢餓や社会動乱・戦争が続けざまに起こった14世紀と17世紀の狭間にあるのが明という時代だった、という書きだしからうなりました。

 中国では士大夫の行動は礼によって規定されますが、それは一般庶民が守れるようなものではないため、庶民には法が適用されてきました。それは《漢代に儒教が国教化されると、従来儒家の排斥してきた法(刑)の行使が、徳の通用しない小人に対しては容認された》というものだった、というのも「そういう理屈だったのか!」と納得がいきました(p.30)。ここから、庶民を統制する刑罰は、礼の徳を備えているとされる士大夫には無縁ということで植力者は法から解き放なたれ、庶民には刑が押しけられるわけですが、中共でも幹部に対する処罰が苛酷なのは、「礼」を備えているにもかかわらず法さえも守れないのであればより厳しく罰せられるからなのかな、と(もちろん、それも恣意的に運用されるんでしょうが)。

 明代だけを扱った新書は初めてということで、正徳帝の逸話とかもっと書いてほしかった。正徳帝は今で言う発達障害じゃないかと思うけど、歴代皇帝の中でも現代的なルックスで好き。若くてヘンでカッコ良いから大衆に人気あるし暴れん坊将軍のモデルになったんだろうな、と。それにしても明朝は吃音で年増好きの成化帝とか(p.135)、礼制マニアで経済というか交易に理解示さず、モンゴルや倭寇を凶悪化させた嘉靖帝とかヘンな皇帝が多いな、と。

 後半はモンゴル帝国の総括と、銀経済の発展によって海洋貿易が盛んになり、それが倭寇と秀吉による災難を生む、みたいな流れでしょうか。

 また、中国は草原の果てでモンゴルによってユーラシアとつながるわけですが、海洋の果てに日本列島ともつながったのかな、とも感じました。もちろん、海の果ての蕃国という意識はあったんでしょうが、そんな文化果つる国から征服の意図をもたれたんですから。

 西洋式小銃もポルトガル人が将来したが中国では精妙に模倣できず、日本で改良された火縄銃が倭寇経由で伝えられた、というのは知りませんでした(p.176-)。秀吉軍から日本兵と新式鉄砲を得た明軍は、遼東のジュシェンや西南地方の少数民族の反乱鎮圧に利用したんですが、やがて、そこから勃興したヌルハチが清王朝をたてるわけで。また、秀吉軍の強さはスペインなど西欧列強が日本の植民地化を諦めるきっかけになったというのも、改めて実感しました。なにせ、秀吉軍は破竹の進軍でソウル、平壌を落として王子2人を捕虜にしてしまう強さ。秀吉軍に対して明軍は切り札ともいうべき東北の雄、李成梁の長子李如松の軍団を投入するんですが、李如松は平壌で小西行長軍を破ってソウル奪還を目指すものの、その手前で大敗北、完全に戦意を喪失させられてしまいます。

 それにしてもの秀吉の世界制覇プランは気宇壮大(p.180)。昭和陸軍と秀吉ぐらいじゃないのかな、こんなのはw

 モンゴルの制覇によってユーラシア大陸規模でヒト、モノ、カネ、情報が還流することになり、帝国崩壊後もオスマン朝、ティムール帝国、ムガール帝国、明・清のほとんどがチンギスハンの血統かモンゴルの権威を後ろ盾にした、と。しかし、その中で明だけはモンゴル色を排した、と。

 明は南から興って全国を制覇、しかも、遊牧王朝を倒した唯一の王朝だったというのもなるほどな、と。ここまできて、『中世史講義【戦乱篇】』高橋典幸編、ちくま新書で文禄・慶長の役を日本の軍事力をみたスペインが植民地化を諦めたという功績を見直す評価もあるというのが気にかかり、あらためて明側からみた文禄・慶長の役はどうだったかをまとめてみると…。

 秀吉軍が鉄砲の力で緒戦を圧倒した後、平壌で明軍に敗れたものの、ソウルを目の前にして小西行長が再び虎の子の明軍を返り討ちにあわせたことで文禄の役も講和の機運となります。ここで万暦帝は秀吉を柵封する時の称号を国王より一段下の「順化王」(天子の徳化に順う王)にするとダダをこねたのですが、結局、国王を与えることに。しかし、どうしても気が済まなかった万暦帝は足利義満に下賜した九章冕服よりワンランク下の皮弁冠服だったというのがなんとも微笑ましい。

 明側の使節を大阪城で謁見した秀吉は、小西行長らが騙した思惑やそれに乗った《明側の思惑を知ってか知らでか明の冠服を身につけて万歳を唱えるなど、いたく上機嫌であった》(p.184)というのも初めて読んだ解釈。

 また、諸大名も都督や都督同知などの官職を得て、冠服も賜った、と。これは朝鮮出兵で揺らいだ支配秩序の引き締めに明の権威を利用したためで、だから勅諭や誥命も後生大事に残された、という説明は納得的。

 しかし、貿易が認められなかったことで面子が潰されたことに怒り秀吉は再出兵。その慶長の役は朝鮮、明、東南アジア、インドまでを征服しようとした気宇壮大な文禄の役と違って、朝鮮南部への報復に矮小化されたもので、それが豊臣軍事政権の限界を示し、秀吉はヌルハチにはなれなかった、という結論もなるほどな、と。

 逆に明をはじめ中国歴代王朝は常に遊牧民族からの侵入を受けていて、それと戦って、なんとか講和して、華夷秩序という虚構で自分たちの面子は保ってきたんだろうな、と。だから、屈辱的な講和を受ける時もあるけど、列島の支配者は白村江の時も元寇の時も「生か死か」で柔軟性が欠けるというか、交渉力が磨かれてこなかったんだな、と。

 と同時に、銀の流通が活発化した中でのスペインのマニラ建設がグローバル経済の端緒とみなされる(p.223)ようになった今、明をあれだけ苦しめた秀吉の軍事力は、スペインをして征服しようとする気を失わせたのは、ひとつの評価だよな、とも改めて思いました。

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June 02, 2020

『刑務所わず。 塀の中では言えないホントの話』堀江貴文、文藝春秋

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 都知事選のマニフェストっぽい本を上梓したタイミングで旧著をkindle unlimitedで、事実上、タダで読ませるという選挙戦術はなかなかだなと思いましたが、あとがきで『刑務所なう。』『刑務所なう。シーズン2』、そして今回の『刑務所わず。』は三冊セットで是非読んでほしい、と書いてあるのが、確かにそうだと思ったので、ご紹介します(ちなにみに「わず」は出所したのでNowではなくWasとなった、という意味だそうです)。 

 にしても、扉で書かれている「人口の4%は受刑者」という数字は、国立大学の大学院の入学者のパーセンテージと同じだと思います(よく入学式で語られます)。なんつうか、きれいな対比だと思います。

 《「バブルは悪だから資本主義に代わる新しいイデオロギーが必要だ」っていう人がいるけど、「ウィルスや細菌は人間には悪だから撲滅しないといけない」ってのと同じ》というコロナ騒ぎの今にも通じる言葉を残しているのはさすがだな、と。

 ホリエモン本人はほとんど検察のフレームアップ(デッチ上げ)で逮捕・起訴されたので自分は悪くないと思っているでしょうし、出所後も収入を得られる算段がついていたからカラッと書いていますが、ざっくり獄中をひとことでいいあらわせば《融通&効率<上下関係」というのが刑務所だが、古い体質の企業とかもそんな感じなのだろうな…きっと》というあたりでしょうか。

 また、最高裁ではほとんど減刑が期待できないから、二審で諦めれば出所した時は30代だったと書いてあるあたりも実感がこもっていましたね(仮釈放が出るのかと疑心暗鬼になって心が潰れそうになるのが最後の試練だ、という話しも初めて聞きましたがリアルです)。

 収監期間中に刑務所行政を担当する法務省の本省の局長にノンキャリがはじめて就任したことについて《一部の局長を除き、検察官が局長ポストを独占しているのってかなり異常事態》という検察批判も相変わらず厳しい(ライブドア事件はニッポン放送の株を買い占めてフジテレビを買収しようとしたのをエスタブリッシュメントたちが危機意識をもって、アウトサイダーのホリエモンたちをささいな証券取引法違反で起訴したフレームアップに近いものだと思っています。約53億円の粉飾決算に対してホリエモンに下された刑は懲役2年6か月でしたかが、山一証券をはじめ数千億単位の粉飾決算を行った過去の事件と比較すると、前例のない重刑ですし、類似の事件と比べても悪質ではありません。その後、フジテレビはキムタク主演で検事の独自捜査がいかに素晴らしいかを描いたドラマをつくって検察=ヒーローと視聴者を洗脳したのですが、勘違いして思い上がった検察官が村中さんをでっち上げて逆に逮捕されたんですから人間万事塞翁が馬なのかもしれませんが)*1。

 さらに刑務所の世界を世間にたとえると《ここでは、面倒くさい人でもシカトできないから。絶対行かなきゃいけない会社で、体育会系の社風で嫌な上司がいるみたいな感じ》だそうです。

 《カラーコンタクトレンズが流行ったのは「オタクが作って、ヤンキーが売るの法則」というあたりもうなった》というのも面白かった。

あとは箇条書きで。

《仕事で一番きつかったのは、年末の福袋作業だ。いかにも中国から運ばれてきたような感じのボロい段ボールに、アディダスやナイキの靴下が詰め込まれている》

《テレビのインタビュアーってバカなんですよね。なんというか、バカな相手にバカなことしか言わないから》これはサッカーメディアに感じていたこと。小さな業界のサッカーメディアはこんなことを続けていて、あっという間に業界規模が縮小しましたが、他山の石としなければ…。

《原発アレルギー層と、納税は嫌だけど社会保障・福祉は充実させろ、自由貿易は嫌だ派の人って、金がどこからか湧いてくると思っているんだろうか? まさか、自給自足で生活するわけにもいかんでしょうに》

 ロケット打上げをめぐって《大学の研究者はポストが確保できて自己満足の研究予算を取ることに執着するとか、なんとも下らない話ばかり。だから、政府補助ってダメなんだよ! 向上心を持ってリスクを取って自分の安定した暮らしとか捨てている奴にしか補助を出しちゃダメ! と思ったりするが、そういう人たちって元から政府の補助とかアテにしないの》というのも実感だろうな。

 《富裕層増税(所得税)って、現実的な実質収入も大して増えない上に、対象者はほとんどオーナー社長とかだから、役員報酬を基準額以下に引き下げて会社に内部留保するだけだと思うんだよね。実際、法人税額と比較して有利な額以上の報酬を受け取らないのは普通の節税対策だから。富裕層以外の人に向けた単なるポピュリズム政策の末路は、ほとんど税収が増えず、富裕層の節税や海外脱出を助長し、経済は冷え込むという最悪の結果を生む》というのも、まあ、その通りだなと。

 《真相解明や再発防止には、関係者を刑事免責扱いにして、洗いざらい調査委員会に語らせること。でないと、刑事処分を恐れて肝心な所を関係者は話さないし、当局は勝手なストーリーをでっち上げる癖があるから》という指摘は大切。

 ホリエモンは「ようやくサンピン(刑期残り3分の1)まで来た!」と喜んだが、最近ではよほどのことがない限り、刑期を1/3残した状態では仮出所はできないらしい。じっさい、ホリエモンも出獄できたのはヨンピンの後。

 ごはんとおやつで得した気分になる「幸せの閾値が低い受刑者」となったことを自覚するというのは可愛いし、人間の本質だろうな、と。

 《この世に「安心・安全」などないし、自分の身は自分で勉強して守れ。ジェットスキーに乗るのに免許がないと罰せられる国って、日本くらいのものだよ~。バカバカしい》というのも、その通りだな、と。

*1ノンキャリの元刑務看守だった西田博さんが2013年に法務省矯正局長に就任。検察官ポストだった矯正局長ポストに初めてノンキャリが就任(とはいっても77年中央大学法学部卒ですか)。西田氏の後任は再び検察官が就いています。ちなみに2人は文藝春秋で2015年4月号で対談しています。

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May 30, 2020

『中世史講義【戦乱篇】』高橋典幸編、ちくま新書

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 期待にたがわぬ面白さ。最新の学説によって、日本の中世社会がダイナミックに迫ってきます。

 武士による乱世は保元・平治の乱から始まるのですが、そうした暴力的な中世社会に挑戦し、克服した秀吉の偉大さを改めて実感するとともに、文禄・慶長の役の評価では、日本の軍事力をみたスペインが植民地化を諦めたという功績を見直す論議も出てきていることに驚きました。

 まとめにあたる[第15講 総論]によると、中世は朝廷・貴族間の争いが軍事的に決着をつけるしかなくなることで武士の台頭が始まり、さらには源平合戦などで全国に戦火が拡大した、と。いったんは鎌倉幕府によって秩序は回復するのですが、元寇などで混乱。幕府崩壊に続く南北朝の内乱は戦国時代にまで及ぶ内乱の幕開けとみることができる、と。

 近世も武士の世でしたが、中世が戦乱にあけくれていたのは自己救済でしか権利を守ることができなかったからということが強調されます。考えてみれば、覇者となった以降の秀吉の天下統一の戦い(九州攻め、小田原攻め、奥羽仕置き)は、私戦は秀吉によって成敗されることを全国の武士に示すことであり、同じように争いの絶えなかった村落に発した喧嘩停止令とともに、中世の社会への大きな挑戦だった、という結論は納得的。

 毛利が一時の覇者となった西国の争乱の面白さと、北条氏が籠城と外交で生き残る東国の「国郡境目相論」の地味さの対比も面白かったかな(第10講と11講)。

 あと、武士たちは仲間内、特に兄弟間では殺し合うんだな、と。清和源氏は三流に分かれて争い、実朝で終わるし(とはいっても保元の乱で源義朝とともに主力となった義康の子孫が室町幕府を開く足利氏になるのですが)、時宗はモンゴルを迎え撃つ前に庶兄や北條一門を討つし。

 にしても、室町幕府は鎌倉公方の統率力を早々と失い、九州も支配をあきめたんだから全国が自力救済に向かう戦国時代になるのも無理はないかな、とか。

 全部をとりあげるわけにはいかないので、ひとつだけあげると、特に面白かった[第10講 西国の戦国争乱]は全体の見取り図が示されていて、分かりやすかったかな、と。出雲の尼子、周防・長門の大内氏に挟まれた安芸・備後・石見には有力な守護がおらず、吉川・小早川家を勢力下においた「毛利両川体制」を築いて国衆を束ねた地生えの毛利氏がリーダー的存在になり、尼子と大内を滅ぼし西国の雄となる過程は小説のよう。

 まず、大内義隆が尼子の富田城を攻めあぐねて退却したあげく、重臣である陶隆房によって廃されて自刃。しかし、毛利氏は厳島を攻めた陶氏を破って逆に防長両国を治めることに成功。さらに、石見から富田城を包囲して大内氏も倒せなかった尼子氏を滅亡させるという見事な両面作戦を成功させた元就はたいしたもんだな、と。

 さらには、西国の雄となった時点で織豊政権と対立するわけですが、毛利は秀吉の中国大返しの追撃せず、関門海峡を挟んだ大友と戦いに備えたことで乱世を生き延び、さらには関ヶ原で負けても幕末には雄藩として明治維新を達成することに繋がったんですから、たいしたものです。

以下目次

[第1講 保元・平治の乱]
[第2講 治承・寿永の乱]
[第3講 承久の乱]
[第4講 文永・弘安の役]
[第5講 南北朝の内乱]
[第6講 永享の乱]
[第7講 享徳の乱]
[第8講 応仁の乱]
[第9講 明応の政変]
[第10講 西国の戦国争乱]
[第11講 東国の戦国争乱]
[第12講 石山合戦]
[第13講 豊臣秀吉の統一戦争]
[第14講 文禄・慶長の役]
[第15講 総論]

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May 18, 2020

『モリソンの太平洋海戦史』

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『モリソンの太平洋海戦史』サミュエル・E・モリソン、光文社、大谷内一夫訳

 一度通しで読みたかったので、こんな機会にでも、とじっくり読み進めました。

 太平洋戦争の戦史を読むと、日本軍は欧米の植民地軍に対しては圧倒的に強かったものの、米軍の本国軍が本格的に反抗してくると、ほぼ米軍による日本軍の虐殺となっていったみたいな書き方がされますが、海軍戦史をルーズベルトからまかされたモリソンの書き方をじっくり読むと、ニューギニアとマリアナを取られるまで帝国海軍は十分すぎる健闘していた感じをうけます。マリアナの七面鳥撃ちで三回目の空母喪失をして、サイパンが陥落した時点で戦いの帰趨は決したというのは確かでしょうが、レイテ湾で昭和天皇がマッカーサーに大打撃を与えてから講和したいと期待したのもわからないではないかな、と思うようになりました。

 もちろん、そんな奇跡に賭けること自体が国策としてダメすぎますが。また、レイテで活躍して米軍からも高く評価された小沢と西村は帝国海軍が圧勝したジャワ海海戦など対米英戦当初から大活躍していたんだなと思います。考えてみれば、太平洋戦争は3年半ちょっとの戦いであり、ハルゼー、スプルーアンスなど米国側の指揮官もずっと同じでした。

 また、カミカゼ特攻は、レイテ湾海戦で最初に使われたとは知っていましたが、沖縄戦の時にあれほど激しくなったのか、というのは不覚にも初めて知りました。どちらも、上陸を阻止するために、上陸部隊を援護するために沖合にいて無防備な船舶を狙ったんだな、と。同時に、虎の子の空母は護衛艦に守られて遠くにいたので、ほとんど打撃は与えられなかった、みたいな。それでも、ロケット推進の菊花は米国艦隊に対する最大の脅威で、ドイツのV1、V2ロケットに匹敵するとまで述べています(p.431)。また、原爆使用の理由を述べる流れで、本土決戦のために5000機以上の機体とパイロットが訓練中だったとしているのは初めて読みました(p.447)。ちなみに菊花は日本語の「馬鹿」にちなんだBaka Bombというコードネームをつけられていたんだなと。

 あとは、ざっと…。

 ワシントン条約に関して、ハーディング政権は、厭戦気分にあった米国民の世論に訴える、和平に向けてなにか目覚ましいことをやろうとして招集した、という見方は初めて知りしまた。ワシントン条約に関しては、日本側が深い不満を抱えたというのは知っていましたが、日本を5:3のレベルに抑えるため、米軍もグアム、マニラなどの海岸基地強化を断念したんだな、と。

 珊瑚海海戦の日本側の戦術指揮官は原ですが、これをモリソンは《アイルランド人のような名前の日本の提督》と書いていますが、これはオハラと言いたかったんだろうな(p.136)。

 モリソンは公平で正確だと言われていますが、日本人には兵力分散のクセが染み付いていて、ミッドウェーの敗戦は山本のそうした考え方とまで言われるとくやいな、と(p.141)。

 それにしても帝国海軍も第二次ソロモン海戦までは互角に戦っていたのに、本当にミッドウェーが痛すぎる。でも、逆に言えば、それまで米軍は不運続きだったのに、役満(大型空母撃沈)を三連続であがるような感じで帝国海軍の空母打撃群を三回も全滅させたんですから、勝てんわな、と。

 あと、連合国側も、帝国海軍の企図するFS作戦(フィジーとサモアを結ぶ線でNZ、オーストラリアを米国からの補給路から断ち、遠くインドを枯渇させ、英国の抗戦意識を挫き、枢軸vs米ソの戦いに持っていき、最終的にはソ連を孤立させる)を本気で心配していたんだな、というもわかります。

 日本海軍の夜間望遠鏡は開戦当初、常に米海軍を上回っていたので、先に日本軍が先に米軍を発見した、というのも知りませんでした。米軍がレーダーを多用したのは、これが原因かな。メーカー名は書いてないけどニコンは凄い(p.204)。

 ケネディが乗ったPT109を体当りで撃沈したのは、駆逐艦「天霧」の花見艦長(p.234)。1951年に下院議員として来日したケネディは「乗っていた魚雷艇を撃沈した駆逐艦の艦長を探してほしい」との依頼。上院議員への鞍替え選挙への激励の手紙を求めた、と。花見は自分と「天霧」の写真を添えて激励。陣営はこれを選挙選に使い、敵将からも賞賛される第二次大戦の英雄ケネディとして当選。ケネディは「昨日の敵は今日の友(Yesterday's Enemy Is Today's Friend)」と書いて返礼し、さらに1960年の大統領選挙では応援に来るよう求め、花見は渡米こそしなかったものの、乗員と共に色紙に寄せ書きを渡した、みたいな。

 マリアナの七面鳥狩りと言われるほど日本の戦闘機が打ち落とされたフィリピン沖海戦(日本名はマリアナ沖海戦)では、小沢艦隊の航空戦力の練度の低さが問題だったけど、グアムからの陸上攻撃機が破壊されたのも大きかったのか(p298)。とにかく、これで、三回目の空母部隊全滅と。

 ミズーリ号での降伏調印式では賛美歌32「この日も暮れゆき"The Day Thou Gavest, Lord, Is Ended | John Ellerton"」が式典の最後に演奏されたというんですが、第二次大戦はワスプの勝利だったんだな、と。

 モリソン編纂の海軍戦史は、1947年から1962年にかけて全15巻が刊行されたHistory of United States Naval Operations in World War IIを要約したものですが、この『モリソンの太平洋海戦史』の原著The Two-Ocean Warはそれをダイジェストしたもの。オリジナルは18章ですが、この本はそこから大西洋、北アフリカとシシリア、地中海と大西洋、フランス侵攻の4章分を省いた抄訳です。それでも500頁近い分量。第二次世界大戦の海戦はほぼ日米の戦いでしたので、意は尽くされていると思います。

1.The Twenty Years' Peace, 1919 - 1939
2.Short of War, 1939-1941
3.Disaster at Pearl Harbor, 7 December 1941
4.Disaster in the Far East, July 1941 - May 1942
5.Destruction in the Atlantic, 1942
6.Carrier Strikes, Coral Sea and Midway, December 1941 - April 1942
7.Guadalcanal, August 1942 - February 1943
8.North Africa and Sicily (Operations Torch and Husky), January 1942 - August 1943
9.Forward in the Pacific, March 1943 - April 1944
10.Gilberts and Marshalls, November 1943 - July 1944
11.New Guinea and the Marianas, April - August 1944
12.Mediterranean and Atlantic, August 1943 - June 1944
13.The Navy in the Invasion of France, 1944
14.Leyte, September - December 1944
15.The Philippines and Submarine Operations, 13 December 1944 to 15 August 1945
16.Iwo Jima and Okinawa, February - August 1945
17.The End of the War, November 1944 - September 1945
18.Conclusion

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May 13, 2020

『まくらばな』柳亭小痴楽、ぴあ

Makurabana

 柳亭小痴楽は昨年9月に落語芸術協会としては15年ぶりの単独真打昇進を果たした期待の若手。真打ちとなったいま本当は師匠とつけなければならないけど、まだ「小痴楽」「ちー坊」の方が本人も売れると思うので。

 小痴楽の魅力はなんといっても様子の良さ。故歌丸師匠が次の芸協のスターはちー坊だと決めていたフシがあるぐらいの華がある。文楽師匠(もちろん先代)も様子が良くてモテていたらしいが、いま一番様子の良い落語家は小痴楽だと思う。

 「枕花」は故人の枕元に飾る花のこと。亡き父の痴楽、歌丸師匠との思い出などを「マクラ(落語の前の小噺)」のように語る本です。単独昇進に合わせて上梓されたんだと思いますが、若いだけに家族の話しが中心。でも、単なる家族じゃなくて、父親が痴楽という落語家だったら、江戸の風が吹く、みたいな。

 なにしろ、小遣いをもらって、それを使わずに帰ると《「そんなセコい料簡の野郎だ」と方々に言いふらされて、ひと月はそれをネタにされる」》ような家庭。

 落語会の二次会で「昔から冬場にはこたつに四方から足をつっこんで家族四人で寝ていた」という話しを聞いたことあるんですが、今どき素晴らしいな、と。

 《「親父はよく、『仁義なき戦い』と『寅さん』さえ見てれば、学校なんか行かなくても人生大体わかんだよって言ってた」》というのも偉い!

 歌丸師匠との思い出話しはちゃんと落ちを付ける。嫌いな食べ物を回し回して誰が食べるかという場面で、最年少の小痴楽が指名される《ぐうの音も出なかった。そして勝ち誇った師匠が最後に言った決め台詞がすごいもんで ─私は会長です!  ここで香盤を出されるとは思わなかった》という呼吸はたいしたもの。 

 面白く読み切ったんですが、もう少し良さを紹介すると、例えば文楽師匠(先代)も当代小痴楽も『明烏』がいいんですよ。要するにオレはもてたよ、という噺だから様子がよくて少しチャラい感じのする噺家がやんないときまらない。いまどきの少し売れたと思ったら焼肉バクバク食べて太ってしまうような噺家がやってもシャレんならない(ちなみに、小痴楽の『明烏』はネタ下ろしの時に聞いているのが自慢)。

 噺家も落研出身の大卒が当たり前になってきた中、高校中退=中卒で古典中心というのも希少価値を高めている…なんていうけど、やっぱ、芸人なんでルックスが大切。文楽(先代)、円生、談志、志ん朝もみんな様子がよかった。様子が良ければ人気が出る。人気に溺れず精進していけば、評価が高まる、みたいな。

 閑話休題。

 愛する談志師匠が笑点の司会をやっていた頃のかけあいが強烈だった先々代?の小痴楽も破天荒で面白かった。
小痴楽「癲癇持ちの女との初夜とかけてビールととく」
談志「そのこころは?」
小痴楽「抜いたら泡吹いた」

なんてのも思い出します(当代の小痴楽と血縁関係はありません)。

ちなみに現役では入船亭扇辰、古今亭文菊の様子の良さが好きです。

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May 11, 2020

『「ファインマン物理学」を読む 電磁気学を中心として』竹内薫、講談社

Feynman

 これは二重に差し立てていた本棚に埋もれていた本。

 リフォームにあわせてリビングなどに乱立させていた本棚から5000冊を処分し、書斎に3000冊だけ入れるという作業をまだ細々と整理しているんですが、その中で、発掘した本です。

 奥付をみると04年10月の初版。割と話題になった本だから、買ってみたのかな(忘れた)。このシリーズの最初は「量子力学と相対性理論を中心として」で、二冊目がこれ、一番面白いと言われている「力学と熱力学を中心として」が三冊目という順番だったハズなので、健気にも「なんかとっかかりはあるんじゃないか」ということで手を伸ばしたのかな、と。で、コロナ禍の最中にちょうどいいんじゃないかということで、読んでみました。ええ、アホな文系脳ですから数式などわからないことだらけですが、「こんな考え方があるんだ」とか「こうして類推していったのか」と驚きあきれるというのは少なくともあって(勘違いかもしれないけど)、面白かった。

例えば、いきなり

前提1 電流だけが存在するところには、磁場だけが存在する
前提2 電荷だけが存在するところには、電場だけが存在する

というのにまず驚きました。

 コイルに電流が流れる時は動いている電荷だけしかないので磁場だけが存在する=「電荷と一緒に動く人が見ると、電荷は静止して見える」のが重要なポイントだ、と(p.40)。《電磁場は「モノ」(=実体)ではない。電磁場は「コト」(=現象)なのである》、と(p.64)。また《人類は、最初に時間変動が少ない電磁現象に気がついたために、長い間、電場と磁場を別々の現象と考えてきた。そのため、この2つが(本当は)切り離せない関係にあるなどとは、思いも寄らなかったのである》、と(p.78)。

 次に重力の問題。重力の難しい問題のひとつは、球状物質が球面外につくる引力はすべての物質が中心に集まるとしたときの力と同じことの証明で、ニュートンもこれに確信を持てなかったので重力理論を長く発表しなかった、というあたりからの展開も知らないことばかり。

 量子力学では電子は粒子であると同時に波動でもあるということは本で読んでいましたが、波動関数の二乗が「電子がそこにある確率」を表すのか、と(p.118)。あと、コンデンサーの中の電子は電場によって押されのであり、この電場ははるか遠くのどこかにある電場から得たものなのか、とか(p.130)。

 なぜ光は横波なのか、というのも面白かった。なぜなら、光は電磁波の一種であり、電磁波は常に一定速度(=光速)で進むから、縦方向の振動である縦波は原理的にありえない、と(p.139)。

 また、ニュートンの逆2乗則(物理量の大きさがその発生源からの距離の2乗に反比例するという法則)は、点電荷には大きさがないからR=0としなければならないが、それだと無限大になってしまうという問題があるというのもなるほどな、と。だから「くりこみ理論」が必要なんだな、という流れ(流れだけは理解できましたw。また、くりこみ理論は重力理論には使えないそうです。理解はまったくできませんが、凄いな、と)。

 フェルマーの定理(光は必ず最短距離をとる)も、量子はあるゆる可能な径路を試してから最短距離を通っているとか、どんだけ凄いのかな、と(p.157)。

 そして、そうなるとあらゆる電子が同じ電荷と質量を持っているのは、すべての電子が同じひとつの電子
すぎない、という考え方を披露する同僚にインスパイアされたとか、聞いてるだけでワクワクさせられました(p.165)。

 「力学と熱力学を中心として」も読んでみようかな…。

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May 07, 2020

『一揆の原理』呉座勇一、ちくま学芸文庫

Ikki

 kindleのセールで安かったので買っておいた『一揆の原理 (ちくま学芸文庫)』呉座勇一、ちくま学芸文庫を読みおわりました。kindle paper whidte(防水)を使ったオフロ読書にして、指でなぞったところを自分宛にメールしておきました。こうすれば、気に入ったところがまとまっちゃう。これからはkindle中心でもいいかも…と思えるほど。

 それはおいといて。

 戦後史学などで《一揆がもてはやされたのも、民衆運動顕彰の一環である。このギャップが、人々のデモへの過剰な期待と、その後の幻滅を準備している》と書き始め、《デモがイマイチ盛り上がらない理由は色々と考えられるが、その一つとして、脱原発デモも戦後日本の諸々のデモと同様に、結局は「百姓一揆」の域を出ていない、ということが挙げられるだろう。 本書でも詳しく述べたように、百姓一揆とは、「武士は百姓の生活がきちんと成り立つようによい政治を行う義務がある」という「御百姓意識」に基づく待遇改善要求であるから、既存の社会秩序を否定するものではない》と締めるように、3.11以降の脱原発デモのどこか予定調和的な雰囲気はなぜだろう、というあたりの問題意識を戦後史学批判をおりまぜて説明していきます。

 その背景は「政治はすべて武士にお任せ、ただし増税だけは一切拒否」という與那覇潤が百姓一揆を評した言葉で説明しています。例えば《脱原発を唱える場合、代替エネルギーをどうするかという問題(節電を含む)は避けては通れないはずだが、脱原発デモにおいて、現実的・具体的な解決策が提示されることはない。たぶん彼らは「それは政府が考えることだ」とでも思っているのだろう》と。

コロナ禍で湧き出てきた自粛ゲシュタポ、自粛憲兵たちの吐き気をもよおすような行動をみると《日本人の「和」の精神とは、果たして手放しで賞賛できるものなのだろうか。実のところ、「義理」「人情」など、明文化されていない暗黙のルールに縛られる「ムラ社会」の方が息苦しい》という、3.11後に湧き上がった自称「正義の声」の気持ち悪さはまだまだ克服できていないな、と感じます。

 勝俣鎮夫氏や網野善彦氏の研究において、一揆と無縁に積極的な意味が付与されたのは「進歩的文化人」の近代化志向であり、《本当は、暴動や革命より、むしろ「人のつながり」の一つのパターンと見た方が、一揆の実態に近いのだ》と。《革命を目的とする直接行動をことさらに神聖視するのではなく、そうした政治運動の基盤となった人々の連帯にこそ目を向けよう》《一揆を「階級闘争」ではなくソーシャル・ネットワークとして捉えた時、一揆は単なる〝昔の出来事〟ではなくなる》と。コロナ禍で顕在化した列島住民の同調圧力の醜さは、自分たちの行動が正義であると過信しているからだけど、その理由は単に「皆んな一緒に一生懸命やってるから」だ、というのも納得。

 ただ、せいぜい〝体制内改革〟だった温い一揆が、今の温いデモにつながってはいても、必ずしも全否定はしていないところがイデオロギッシュな戦後史学の方々とは違ったところ。ダメダメだけど、ま、いっか、みたいな。最後は《中世の一揆も突発的・衝動的な大衆闘争ではなく、「他人とつながる」という点に本質を持つ》ものだと結論付けます。

 また、逃散も完全に逃亡するもんだと思っていたけど《逃散とは、百姓たちが一斉に耕作を放棄して村を離れるという抵抗運動で、要はストライキである。ストライキであるから、逃散によって両者の交渉が途絶することはない。逃散後も両者の間で交渉が持たれる》ことだったとは。《まず領主に訴願して、その要求が容れられなかったら逃散する、という手順を踏めば、逃散は許容される》とは知りませんでした。

 以下、せっかま自分宛にメモをおくったので箇条書きにしてみます。まずは一章から。

 秀吉の刀狩りは《武装解除ではなく身分統制が眼目だったのである。それは武士なのか百姓なのかよく分からない中途半端な存在をなくす(教科書的に言うと「兵農分離」)ということだ。秀吉が刀狩りに加えて、浪人を村から追い出すよう命じたのも、そのためだった》

 江戸時代に個別の村単位でなく藩単位での大規模一揆が増えたのは《藩の農業政策は領内全体に統一的に実行されるから、藩内の村々は利害を共有する。ここに、一カ村にとどまらず藩領全体で百姓たちが連帯する全藩一揆の素地が作られたのである》

 姫路藩が百姓に威嚇射撃を行ったことをに対して幕府は、一揆側が飛び道具を持っていたかを問い糾し、持っていなかったという回答を得ると以後は「無用」と沙汰。《鉄砲を使用するには事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される》

 江戸時代の一揆(強訴)で農民は鉄砲や弓矢で武装しなかったのは《要するに鎌や鍬は百姓のシンボルであった。鎌や鍬を使っても鉄砲や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないということを幕府や藩に示すアピールだったと思われる(ちなみに旧ソ連の国旗は、農民の象徴である鎌と工員の象徴であるハンマーを組み合わせたデザインとなっていた)》。←ちなみにこの象徴はカマトンカチと呼ばれていたましたw

 初期藩政改革によって「百姓の生活が第一!」という考え方が浸透していた江戸時代の強訴は大きな暴力はともなわなかったが、明治維新は士農工商の身分制度を廃止したので一揆も暴力的となった。《新政反対一揆は、新政府に要求をつきつけるのではなく、新政府そのものを否定している。だから一揆の側も新政府の側も妥協することはできない。相手を倒すまで徹底的に戦うしかない。一揆は、竹槍はもちろんのこと、時には鉄砲や刀まで持ち出して戦った。いわば殺し合いだから、大勢の犠牲者が出るのは必然だった》。また、農民たちは平民となった部落民も襲撃した。《新政反対一揆の中には明治政府の解放令に反対して被差別民を襲撃したものもある。百姓も被差別民も平民とする「四民平等」に反発し、「天下の御百姓」としての身分的特権を維持しようとしたのである》

 幕府は当初《数千人規模の百姓一揆に対応した法律を用意していなかった。依拠すべき基準がないため、幕府・諸藩の百姓一揆への処罰は恣意的なものになってしまい、場合によっては、逮捕後に吟味もしないまま即座に斬首するなど非常に苛酷な処分が行われた》が、その後、江戸時代の一揆(強訴)では《百姓たちは敗訴した結果、処罰されたのであり、直訴や逃散という行為のみをもって処罰されたのではない。実際、直訴や逃散による百姓の要求が通り、かつ百姓たちにお咎めなし、というケースも多く見られる》

 そのキッカケは島原の乱《島原の乱が鎮圧(一六三八年)された後、百姓が「徒党」を結ぶことは原則的に禁止された。つまり寛永期以降、タテマエとしては「一揆」は禁止だったのである。 だから百姓たちは自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばない。「一揆」と名乗ってしまうと、幕藩体制に対する明確な反逆行為として厳しい処罰を受けるからである》

 《島原・天草一揆の鎮圧により幕藩体制が確立し、平和な時代が訪れると、百姓たちは多くの被害を出す「一揆」=武装蜂起という選択肢を捨てた。武器を使わない抗議活動に転換した》

 暴力的な一揆は中世が本場だが《中世の場合、百姓だけが一揆を結んだわけではない。武士も僧侶も一揆を結んだ》

 成功した土一揆の場合《百姓だけの一揆と見るのは難しいという意見が有力である。武士や牢人なども参加し、彼らが「大将」として土一揆を指揮していたケースが目立つのだ。ちなみに江戸時代初期に勃発した島原の乱でも、大名に仕えていたものの大名家の倒産・リストラにより職を失った武士たち、つまり牢人が多数参加していた。このため神田千里氏は島原の乱を「最後の土一揆」と評価している》ほどで、《戦国時代末期、具体的には十六世紀後半になると、「一揆なんてものは身分の低い百姓たちが結ぶもので、立派な武士は一揆には参加しない」という認識が広がっていく。この一揆を見下す考え方が近世の「一揆」禁止につながっていく》

 康暦の政変は細川頼之の退陣を求めて足利義満邸を包囲=御所巻したものだが、列島では百姓による庄屋の包囲、首相官邸の包囲デモまで連綿と「囲」戦術が受け継がれているたが《この種の「官邸包囲デモ」は暴動や革命ではない。どんなに大げさに表現したとしても、せいぜい〝体制内改革〟といったところ》。なせなら、悪代官の罷免を求めて行われるから、と。

 面白かったのは、山門などの強訴は暴力的なものでなく、今のデモみたいなもので、それを百姓がマネした、というあたり。逃散もストだったとか。日本人はカンパニア闘争に向いているw

 源義綱の流罪を求めるの強訴への弾圧に怒った《山門は堀河天皇と関白の藤原師通を呪詛する。すると、承徳三年(一〇九九)、三十八歳の壮年であった関白師通が急死する。師通は朝廷内で強訴弾圧を主導した人物であったから、当時の人たちは神の罰が下ったと考えた。すっかり怖くなった朝廷は、山僧を攻撃した源頼治を処罰した》ということから呪詛を恐れたのか…にしても、延暦寺、とんでもねぇなwオウム並みw

 《大衆の最大の強みは武力ではなく、「神威」すなわち人々に天罰を下す神の力であった。武士たちも直接攻撃は原則禁止なので、武力行使はできるだけ控えた。双方が戦闘回避を望んだので、強訴は平和的に推移することが多かった》

 《笠松宏至氏は、寺僧の専売特許であった強訴というスタイルが「土民」たちの武器として登場するようになった点に、時代の変化を見ている。従うべき見解であろう。月並みな言い方になるが、やはりそれは民衆の政治的成長の証だと考える》

 また、逃散も完全に逃亡するもんだと思っていたけど《逃散とは、百姓たちが一斉に耕作を放棄して村を離れるという抵抗運動で、要はストライキである。ストライキであるから、逃散によって両者の交渉が途絶することはない。逃散後も両者の間で交渉が持たれる》ことだったとは。《まず領主に訴願して、その要求が容れられなかったら逃散する、という手順を踏めば、逃散は許容される》

 《いずれにせよ、荘家の一揆も寺社の強訴と同様、反権力闘争ではない。年貢をまけてくれとか代官をクビにしてくれとか、そういう条件闘争は行うが、荘園領主を打倒する意図は持っていない》。しかし《鎌倉時代の人たちは強訴そのものを「一揆」とは呼ばなかったが、「強訴する」には「一揆する」ことが不可欠であると認識していた》。さらに《神田千里氏は、武士たちが戦国大名によってガッチリと組織されるようになり、戦闘のたびにいちいち一揆を結成する必要がなくなったからではないか、と推測している》

 《一揆は、まさにこのような運命共同体であった。永享五年(一四三三)、伏見宮家の荘園である伏見荘の百姓たちが、沙汰人たち(荘園の管理人)の指令を待たずに、前々から山の境界をめぐって争っていた醍醐寺三宝院の所領である炭山に押し寄せ、炭山の郷民三人を殺害してしまった。伏見荘の領主である伏見宮貞成親王はこの勝手な振る舞いに激怒し、沙汰人たちを呼び出して、張本(首謀者)として誰を捕らえればよいかを尋ねた。すると彼らはビビリながらも「土一揆のしわざなので、誰か一人を首謀者と特定することはできません(土一揆の所行の間、誰を張本とも申しがたし)」と返答した(『看聞日記』)

 《権勢のある大寺社だからとか神輿や神木の霊力がバックにあったからというだけではなく、「一味同心」という意思統一によって、自分たちの行動が〝正義〟であるという確信を得ていたからなのである》
まさに勘違いも甚だしいが、あとでコロッと忘れて反省もしないw

 《「一味同心」に基づく訴えは合理的な判断を超越した絶対の正義であり、その主張が正しいか否かを論理的に検討することすら許されなかった》というあたりは、まさに今の列島の状況がこれかも。まあ、そのためにコロナの感染が防げているのかもしれないけど、経済を浸蝕したり、副作用のことまでは考えないヒステリーも増長しているわけで。

 延暦寺の大衆僉議では大講堂に全員が破れ袈裟で頭と顔を覆い互いが誰かはわからなくして集まったと紹介して、三島由紀夫の日本理解の浅さを指摘しているところは、三島も江戸仕草を称揚したヒトたちと同じ中途半端な日本理解にとどまっていたんだな、と。

 《「三島由紀夫は全共闘を「まつたく日本人らしく思はれない」「あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである」と酷評したが、良くも悪くも全共闘のスタイルは日本の伝統に沿ったものであるように思われる》

 《鶴の一声で決まったのではなく参加者全員が対等な立場で主体的に意見を表明し議論を尽くした上での結論であるからこそ尊重すべきである、という強い信念が、中世社会に散見される》が、それこそ、格差を隠蔽するための仕掛けでもあった、みたいな。

 なぜなら《学侶集団内部にも階層があった。皇族・上級貴族出身の貴種僧、中下級貴族出身の良家僧、上級侍の家が実家の凡家僧である》からで《「一味和合」を強調しなければならなかったのは、現実には「一味和合」が風前の灯であったからに他ならない》

 また、そもそも一味同心の作法は仏教と関係ない《一味同心して何かを決定した場合、起請文という文書を作成することが多い》《延暦寺が強訴を行う時は日吉山王権現の神威を利用するし、興福寺の場合は春日大明神である。彼らの「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神なのだ》

 日本の神道は、仏教の概念を密輸入して構築したものだけど、日本の仏教も、漢語に翻訳された仏典の翻訳という二次的テキストを元にしているだけでなく、神道からも逆に影響受けていた、みたいな。山門で起請文をつくって団結を確認する時にご当地アイドル的な仏像に神罰を担保させるという仏教とは相容れないまがい物になっていった、みたいな。《ひとたび娑婆に下りてきて、仏像という可視的な肢体を持ち特定の場所に常駐するようになると、地域限定のローカルな存在=「神」へと転化する。この「神」は、篤く信仰する者には御利益を与え、逆に信心が足りない者には神罰を下すという、現世=現実世界に密着した存在である。これが中世人の宗教観の根本たる「本地垂迹」の本質である、と佐藤弘夫氏は主張する》《したがって起請文に登場する神々は、人々にとって地域に根差した身近な存在である。実際、起請文には伊勢神宮の天照大神や熊野三山の熊野権現など全国区の有名な神だけでなく〝ご当地〟神様が勧請されることが多い》

 《そもそも仏教の教義には、仏が仏敵に罰を下すという内容は含まれていない。「日本国仏神の御罰」によって実効性を担保しようとする「一味同心」観念が仏教本来の教えと無関係であることは明白》

四章では

 《江戸後期になると、村ぐるみでの百姓一揆への参加が少なくなってきたことが分かる。これは村役人・地主たちが藩と癒着した結果、彼らが百姓一揆を指導する立場から離れ、むしろ百姓一揆の攻撃対象になったからだ、と保坂氏は説く》。アトム化が江戸の農民にも波及していたのかw

 四章後半は徳政一揆は飢餓に耐えかねた農民が、施しを行わない富者に襲いかかったということで、貨幣経済の進展とは関係ない、と。中世の農民は土倉から借金などはほとんどせず、逆に貨幣経済のなかで日ごろから貸し借りをしていた都市住民たちは、土一揆による徳政でも債務を《帳消しにはせず、土倉に対して一部返済や後日の返済を約束した上で質草を請け出す者も少なくなかった。 したがって、近江国(現在の滋賀県)や南山城(現在の京都府南部)などの遠方から京都にやって来て土倉の蔵から物を取っていく百姓は、債務を破棄したというより、単に略奪をはたらいただけ》

 《中世の恐ろしさは、富者が自発的に喜捨を行わない場合はムリヤリ金を出させるという行為が社会的に容認されていたところにある。これこそが徳政一揆の本質》

 《徳政一揆が発生した時期と、飢饉が発生した時期はほぼ重なる。十五世紀は徳政一揆の時代であるが、同時に飢饉の時代でもあった》《惣村が確立したのも、飢饉が頻発した室町時代のことである。惣村とは自治権を持った村落のことで、その実態は百姓の一揆的結合である》

 《神様を喜ばせるというところから出発して、人間どもが楽しむことの方がメインになっていくというのが芸能の歴史》

五章は一揆のお作法から

 《一味神水は江戸時代の百姓一揆のオリジナルではなく、その歴史は中世に遡る。百姓たちが荘園単位で連合する際に一味神水が行われている》。参加者は起請文に血判して、神社の境内などでそれを焼いて飲むが、これは《嘘をついているのに起請文という誓約書を飲んだら身体に異変が起こる》という意味。

《一揆結成の際に、この種の同調圧力がはたらいたことは確実だろう。第三章で、大衆僉議においては強訴反対を主張することは難しいと論じたが、それと同じことである》

もちろん中には「神をも恐れぬ人間」もいて、裁判で不利になるとヤケになると湯に手を突っ込んで身の証をたてる湯起請を要求する者もいるが、これも《多くの人々が神の意志の存在を信じているがゆえに湯起請という神判が成立しているわけだが、一方で周囲の人々の信仰心を利用する「罰当たり」な不届き者も中世社会に少なからず存在した》

一揆勢が焼いた起請文を水に溶かして共飲したというんですが、思いだしたのがユダヤ聖書(キリスト教の旧約聖書)レビ記。焼き尽くす捧げもの(燔祭)がこう書かれています《1:15 祭司はこれを祭壇に携えて行き、その首を摘み破り、祭壇の上で焼かなければならない。その血は絞り出して祭壇の側面に塗らなければならない(レビ記1:15)》

この焼き尽くすの語源は「上る」という意味ですが、『一揆の原理』では《起請文を飲みこむことだけが求められているならば、焼かずに、そのままちぎって飲んでも構わないはずである。この問題については、千々和到氏が面白い仮説を提示している。文書を焼いて煙を天に届けることは、自分の誓約を神に伝えることを意味しているというのである。つまり、人と神を煙がつなぐ、ということである》と書いてあってなるほどな、と。

 ユダヤ聖書(旧約)は1回しか読み通したことがなく、ヘブライ語で再読することはないでしょうが、なんで焼き尽くすのかというのが、初めてよく分かりました。それは煙が上ることによって「人と神を煙がつなぐ」という象徴だったんだろうな、と。

 《正文(写しや控えに対して、もとになる文書原本)は神前において麗水で呑んだ」といった断り書きのある起請文が現存していることを踏まえると、「焼く起請文」と「残す起請文」をセットで作成することが一般的なあり方だったと考えられる》《鎌倉幕府の法廷では、民事裁判の一方当事者が、主張の正しさを証明するために自ら起請文を提出することがあった。佐藤雄基氏はこれについて、起請文を提出するという行為自体に、自分はウソを言っていないので神罰を恐れる必要がないと幕府にアピールする意味合いがこめられていたと推理》

第六章は《起請文が意味するもの 「一揆契状」という文書》を解説

 《中世の日本は訴訟社会であり、裁判には証文(証拠文書)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達したのであり、起請文を未開的な呪術意識とのみ関連づけて理解するのは正しくない》
《石井進氏によれば一揆契状とは、「人々が一揆することを契約した文書で、ほとんどの場合、神仏に一揆を誓約する起請文の形式をとった上、参加者おのおのが連署を加えるのが普通である」》

 《大隅国の有力国人で禰寝氏という武士の家がある。江戸時代には薩摩藩に仕えた。余談であるが、禰寝氏は江戸中期になると「小松殿」、すなわち平清盛の長男、重盛の末裔と主張しだし、小松氏に改姓した。そして幕末に肝付尚五郎が小松清猷の養子となり》小松帯刀になったというのは驚きました。そして南北朝時代、《一揆契状の写しも同様の意味をこめて、了俊が禰寝氏に送ったのではないか。「この一揆にはこんなに大勢の方々に加わっていただいております。あなたもいかがですか?」》と。

 また、山門の僧兵による暴力沙汰は、それほどでもなかった可能性があるというのも思しかった
《『平家物語』の成立には延暦寺関係者が関与していることが古くから指摘されている。彼らが『平家物語』の中で誇張と脚色を交えて、強訴の神がかり的な性質、非日常性を喧伝した可能性は否定できない》

 つまり、一揆は革命的な行動ではなく訴訟のようなもの。《規律正しい交渉」の要素と、「放火、略奪などの暴力行為」の要素とは、二者択一的なものなのだろうか。かえって、両者が矛盾することなく併存している点にこそ、徳政一揆の特質がある》《徳政一揆を原告、土倉を被告、幕府を裁判所とみなせば、三者の関係がよく分かるだろう》。

 しかし、《従来の研究は、徳政一揆を中世民衆運動の輝かしい達成として高く評価してきた。だが規模や暴力性において違いはあるものの、徳政一揆は大寺社の強訴や荘家の一揆と本質的には変わらない。やはり権力側との〝なれ合い〟が見てとれるのである》。

 さらに山城一揆の実情もかくの如し。《戦後も山城国一揆を「自治共和国」として賛美する傾向が続いたが、一九八〇年代以降は、山城国一揆は国人たちの自発的な運動ではなく、幕府の実力者である細川政元が背後から操っていた、という見解が一定の支持を集めた》《交渉戦術のツールという点で、山城国衆の「申状」は荘家の一揆の百姓申状に通底する性格を持っていると言えるだろう。実は山城国一揆は革命ではなく「強訴」だった》《守護軍と一揆軍との戦いの末、応永十三年に山名満氏は罷免されて帰京、新たに山名熙重が守護に就任した。一揆の中心メンバーは起請文を提出して幕府に降参し、幕府は彼らを赦免した。まあ痛み分け》ということで、《一揆の反守護の姿勢は反幕府、反体制を意味しない。逆に、幕府への忠誠をことさらに強調するところに反守護国人一揆の特徴がある》。

 つまり《一揆イコール反権力、反体制という「階級闘争史観」的な思いこみにすぎない》《村で悪政を敷く地元の共産党幹部たち=悪代官を、村民の自治組織が実力で追放し、広東省共産党委書記=殿様の汪洋が慈悲深くもこれを追認した、中国の「烏坎蜂起」(二〇一一年十二月)に近い》と。

 第七章 「人のつながり」は一対一から 国人一揆と百姓

 7章では《国人一揆を上部権力との関係から捉えようとする見方がそもそもおかしい》というところまでいきます。

 《国人一揆は、室町幕府や守護といった〝上〟からの編成によって成立したのではなく、農民たちの〝下〟からのつきあげに対抗することを目的に誕生した》《佐藤氏らは、百姓の逃亡を領主権力に対する抵抗運動=農民闘争の一種と位置づけ、これを「人返法」によって抑止することが国人一揆の最大の目的であると考えた》が《南北朝期の一揆契状においては、百姓を統制する規定は一般的には存在しなかった。したがって、南北朝期に成立した国人一揆の目的を、農民闘争の弾圧に求めることはできない》と。

 さらに《全ての一揆が「強訴」を目的としているわけでない以上、もっとノーマルでソフトな「一味同心」があっても不思議ではない。複数の人間が心を一つにして共に行動することに一揆の本質があるとしたら、二人でも一揆は十分に成立し得る》と。「一味神水」という儀式を伴わない《一揆契状の交換によって結成される一揆は〈集合しない一揆〉》であり《一揆の本質が偉大な革命運動ではなく等身大の「人のつながり」にある》と。だから《もしデマ情報が流れて、一揆を結んだ相手に対して疑いが芽生えた時は、顔と顔を合わせて話し合い、不信感を解消しろ」という》ことになっていた、と。

 《一九八〇年代の「社会史ブーム」以降の諸研究によって、中世社会は人と人との「契約」によって回っていたことが解明されつつある。中世史研究で自明視されてきた、農民が荘園領主の苛酷な支配の下に置かれていてカワイソウという構図も見直された》、と。例えば年貢も農民が決める「地下請」「百姓請」などと呼ぶ制度も実現している、と。それは《村の側が「契約」に基づいて年貢を納める限り、荘園領主が村の運営に関与しない体制が成立し、荘園領主が好き勝手に年貢を取り立てることはできなくなったのである。荘園領主と村は「契約」によって結びついており、支配─被支配関係として単純に理解すべきではない》と。

 さらに《「契約」とは「上」と「下」との間でのみ結ばれるものではない。むしろ、水平的な関係において「契約」が結ばれることの方が一般的》として《第六章で検討した一味神水のための一揆契状は起請文的性格が強く、第七章で検討した交換する一揆契状は契約状的性格が強い、と整理することができ》るとし《二人や三人で結成する一揆があるという歴史的事実を念頭に置けば、一揆契約と義兄弟の契りとの距離は非常に近い》と。

 《ヨーロッパの市民革命の起源として市民の文化的な交流があったことは、ユルゲン・ハーバーマスの研究以降、広く知られている事実である。俗に言う「フランス革命は、パリのカフェから始まった」というやつだ。そこでは、革命家が大衆を鼓舞し、政治的に指導するというステレオタイプな革命像が相対化されている。  東島誠氏は、「高邁な思想、思想家が社会を変えるのではなく、社会的な結集極、人と人との〈つなぎ目〉の再組織化こそが社会を変えていくのだ」という〈市民的公共圏〉の考え方は今日においてこそ有効であると説いている》

 このほか、《大蔵館に住んでいた義賢の次男の駒王丸は、からくも信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れた。彼こそが後の木曾義仲である。源義朝の子である源頼朝と、源義賢の子である木曾義仲との対決は、この時点で運命づけられていたのかもしれない》《義朝と為義─頼賢の関係は修復せず、結局、一年後の保元の乱で激突することになる。同乱によって為義らを葬り去ることで、義朝は長年にわたる河内源氏の内紛を解決し、平清盛と並ぶ武家の棟梁としての地位を確立した》《為義の後継者となった義賢であったが、不祥事によって官職を失ってしまう。この結果、左衛門尉に任官した頼賢が次の後継者として浮上することになる。為義は、為義義賢頼賢という順に家を相続することを決め、この路線を確定させるために義賢と頼賢に「父子の約」を結ばせたのではないだろうか》というのは知らなかったな…。

《十世紀後半には、摂政藤原実頼摂政藤原伊尹(実頼の甥)関白藤原兼通(伊尹の弟)関白藤原頼忠(兼通の従兄弟)摂政藤原兼家(兼通の弟、道長の父)関白藤原道隆(兼家の子)関白藤原道兼(道隆の弟、道長の兄)といった形で摂政・関白はコロコロと入れ替わり、親子間での継承はほとんど見られない》

しかし、「家」が成立すると《跡継ぎ=次期当主を確保することが不可欠である。もし実子がいなければ、よそから連れてきてでも「家」を相続してもらわなければならない。かくして親子契約の必要性が生じ》《窮状にある人間が有力者と親子契約を結んで「親」となり、自らの財産を「子」となった有力者に譲渡するかわりに有力者の庇護を受ける、というパターンがしばしば見られる》ようにもなる、と。

 《無縁」の産物として語られることの多い一揆であるが、実はその根底に、擬制的な親子兄弟という「縁」を秘め》ようになった、と。中世ではこうした実利的な契約が増え、一揆にも親子関係を契約するようなものも出てきたが、農民の一揆を特別なものとする考え方も根強く《社会史研究では、この問題に対する答えとして、信仰の力を想定していた。「一味神水」という神秘体験を通じて、神と一体化した、もしくは神に変身したという意識を各人が共有することで、一揆としての結束が生まれた、というわけだ》。しかし、《マルクス流の「唯物史観」をしりぞけて宗教的側面を重視した勝俣「無縁」論も、一揆に自由と平等、個人の尊厳、さらには身分制を突き崩す革命的な要素を求めるという根っこの部分では、「階級闘争史観」とつながっている》と否定。《一揆契約は親子契約・兄弟契約の延長上に位置づけられる。したがって一揆の本質は、呪術的な〈神への誓約〉ではなく現実的な〈人と人との契約〉という点に存在する》とします。

 

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