『卑弥呼とヤマト王権』寺沢薫
『卑弥呼とヤマト王権』寺沢薫、中公選書
お正月なので肩の凝らない読書をということで読んできた『卑弥呼とヤマト王権』、意外な大著で(Kindleなので厚さ分からず)、やっと読了しました。
纏向が諸国連合のヤマト王権の王都ではあるけど、卑弥呼は邪馬台国の王女ではなく、倭国の王女みたいな整理はハッとさせられましたが、国家論とかはかなり飛ばしている感じ。
これまでの理解は、大和にある卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳と纏向古墳群、岡山の楯築古墳、沼津の高尾山古墳は重要な初期巨大古墳で沼津には狗奴国の王が埋葬されている可能性があるのかな、と思っていました(『日本史の内幕』磯田道史、中公新書p.12-)。
ヤマト以東の前方後方墳が特徴的な狗奴国は伊勢湾あたりが中心というのはなるほどな、と
この時代は古墳というシンボルをつくることによって、地域の首長を中心とした弥生社会から連合国家のヤマト王権へと列島が変化していく時期でもありました。その後、そうしたローカル感満載の祭祀の場ともなった古墳づくりより、よりグローバル感のある寺院建立で豪族たちはパワーを示していったのかな、とか。
この本に沿ってシンプルに説明すると、西日本を中心としたヤマト王権が箸墓古墳をモデルとする前方後円墳によって、互いのネットワークを確認したのに対して、伊勢以東では狗奴国が「前方後方墳」によって、互いのネットワークを確認したけど、倭国大乱の後、ヤマト王権に参加していったのかな、と(岡山の楯築古墳は双方中円墳。大和王権は吉備、出雲から嫁取りを盛んに行いますから、国譲り神話などを含めて考えると、それ以前に同化していった、みたいな)。
著者は最後に
《本書で私が第一に強調したかったのは、国家の第二段階である「王国」の誕生は、ヤマト王権の成立そのものであり、その初代大王が卑弥呼だったということだ。つまり新生倭国=ヤマト王権=卑弥呼政権の関係が、私が到達した結論である》。
《本書で第二に強調したかったのは、「倭国乱」を乗り越えるためにとったこの国の歴史的選択が、戦争という外的国家意志の物理的な発動ではなく、また強大な外的国家の一国独走を容認するものでもなく、壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論としての「卑弥呼共立」であったことだ》
《観念上はのちの「天皇」につながると認識されてきた古代の大王系列の初代は女性であり、その女性は会同によって共立されたということになる》
(k.5850-、kはkindle番号)
とまとめてくれます。
その他、面白かったところを箇条書きにすると以下のようになります。
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k.506
纒向型は拡散先の地方でも定形型に先行する。神奈川県海老名市の秋葉山古墳群では纒向型の二・三号墳が定形型の四号墳よりも古いし、千葉県市原市の纒向型の神門三・四号墳は付近のどの定形型よりも古い。これらの地域は律令時代にそれぞれ相模国府と上総国府が置かれた重要地点だ。
k.551
前方後円墳の場合もまた、それまでの弥生的なマツリを払拭し、新たな政治と祭祀のシンボルとなった前方後円形の墳丘をもつ纒向型が政権中枢に出現して、ヤマト王権という一元化された社会にシフトした瞬間こそが重要なのではないか。
k.783
纒向遺跡に全国各地から多数の土器が運ばれたのは、物流と交易のセンターというような経済的理由からだけではなかったことがわかる。纒向に集まった各地の人々のなかには首長層をふくむ集団が存在し、彼らが何世代にもわたって常駐して、その規模を拡大していった可能性がある。ちょうど、のちの藤原京や平城京のなかに各国郡の出張所が設置され、税の徴収や文書の伝達を円滑化するための調整をおこなっていたように、さらに時代を下れば徳川幕藩体制下の諸藩江戸屋敷のように、はたまた現在の霞ヶ関の道府県東京事務所のように、三世紀の纒向には、すでにそうした中央地方の政治・行政を担当する出先機関が組織されはじめていたのではないか。
k.1655
ここで「ナ国」と呼ぶのは、『魏志』倭人伝に現れる奴国の前身であり、『日本書紀』にみえる「儺県」(仲哀紀)、「儺津」(宣化紀)に重なる。のちの律令制下ではほぼ「那珂郡」に相当するけれど、水系ごとの遺跡の密集度を考慮して、私は「儺西」「儺春日」「儺席田」の三つのクニが存在したと考えている。
k.1677
だから遅くとも中期末には、ナ国王やイト国王はそれぞれの国の王であるだけでなく、それぞれの部族的国家連合の盟主、つまり「王のなかの王」でもあったと私は考えている(図9)。
k.1679
それから約半世紀ののち、こうしたナ国連合の成立を背景として、有名な「漢委奴國王」の金印が下賜されたのである。
k.1943
卑弥呼が共立された背景には、おそらく国内事情だけではなく、新しく帯方郡を置いた公孫氏の思惑と働きかけがあった。そして共立は通説の二世紀末ではなく、三世紀のごく早い時期に実現したのである。
k.2169
そもそも巨大墳丘墓の構築は、中国鏡などの威信財の入手がままならない東方の部族的国家の王たちが、イト倭国への対抗上、みずからの力量を視覚的に内外に誇示するために編み出した一つの方策でもあったと私は考えている。
k.3467
『記紀』にみえる多くの聖婚説話や、『延喜掃部寮式』に記載された天皇と中宮の寝具のしつらえは、想像をたくましくすれば、二世紀末の首長霊誕生以来、継承の秘儀に果たした女性最高祭司や王妃の決定的な役割が時間の経過とともに変容して、わずかにその片鱗をとどめたものと解釈することもできよう。
k.4857
箸墓古墳を卑弥呼の墓、奈良県天理市西殿塚古墳を壱与(台与)の墓と想定する白石氏は、別の論考で以下のように推測する。墳丘図をみると西殿塚古墳には、後円部と前方部にほぼ同形同大の方形壇の存在が認められる。したがって、そのいずれか一方に巫女王壱与が、もう一方に執政王であるキョウダイ(兄弟)が埋葬されている蓋然性は低くない。
k.4861
箸墓古墳の場合は、前方部に大きな平坦面の存在が認められないので、後円部の円壇に巫女王卑弥呼と執政王の男弟が並葬されているのではないか。
k.5900
纒向遺跡がヤマト王権の最初の大王宮が置かれた地であるという考えは、ようやく広く認知されるようになった。
k.3293
前方後円墳はただの墓ではない。天に昇るべき亡き王の「魂」を新しい王に引き継がせ、地に帰るべき「魄」は亡き王の遺骸とともに大地に封じ込め、祖霊として後継者たちを未来永劫にわたって守護してもらう。絶えることなき王権の継承と、国家の安寧と繁栄の祈求こそ、前方後円墳祭祀の本質であった。
k.4178
卑弥呼共立は公孫康の帯方郡設置と表裏一体で実現したのであった。新生倭国の王となり、間髪を入れず使者を送って来た卑弥呼に対して、「中平年」銘鉄刀は公孫康から正式に授与されることで、あらためてその価値を発揮する
k.4475
中国に出土例がなく、国内で五〇〇面を超えるともいわれる三角縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡や斜縁神獣鏡群を範型として日本で製作されたとみるほうが合理的だと私は考えている。
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