May 16, 2019

『砂糖の世界史』川北稔、岩波ジュニア文庫

 シリーズアメリカ合衆国史1『植民地から建国へ』で大西洋貿易のことが書かれていたのですが、8レアル銀貨など通貨に関して以外は岩波ジュニア新書の『砂糖の世界史』川北稔で書かれていたこととあまり変わっていないのかな、と思い再読してみることに。ちょうど、この本を読んだ頃は、大学院に行く準備やNiftyや草の根BBSの退潮などもあってメモなどもネットに残していなかったので、ちょうどいいかな、と。

 この本は「世界商品」である砂糖の生産から消費までを大航海時代、植民地、プランテーション、奴隷制度、三角貿易、産業革命と関連させて描いたもので、キーワードはトリニダード・トバゴの初代首相であったエリック・ウィリアムズの「砂糖のあるところに奴隷あり」でしょうか。

 反対に世界商品(Staple)でないのは例えば中世ヨーロッパの毛織物。イギリス人はアジアやアフリカまで毛織物を持っていっても売れませんでしたが、こうした地域に鉱山、農産物に「世界商品」があったので産業革命に偶然つながった、と(p.6-)。

 当時、最も進んでいた《イスラムの医学では、砂糖はもっともよく使われる薬のひとつで《結核など10種類以上の効能が期待され》(p.9)《「砂糖はコーランとともに」西へ西へと旅をした》(p.14)そうです。しかし、砂糖きびの栽培は土地が荒れ、原液となるジュースを素早く絞り出さなければならない精糖の加工過程も奴隷労働が必要なほど規則正しい集団労働が必要だった、と。

 また、スペインには南北アメリカに広大な植民地を持っていたものの、奴隷はアフリカに植民地を持つポルトガル、イギリス、フランスから買うしかないという構造から大西洋を結ぶ三角貿易が生まれました。イギリスの場合、黒人のベニン王国が求める鉄砲などと引き換えに、狩った黒人を奴隷として購入し、南北アメリカやカリブ海の島々で売り、そこで取れた砂糖をリバプールに持って帰る二か月以上の航海が盛んになります(p.54)。それは《無事にアジアから帰還すると、船ごと売り飛ばして売上金を山分けしてしのうような、一時的な性格のつよいもの》だったそうです(p.83)。

 また、砂糖がヨーロッパで広まるにはトマス・アクィナスが断食の際にも食べることができるとしたことも影響したといいます(p.65)。さらに、後にチョコレートも同じ論法で是認されますが(p.134)、当時は超高価だった砂糖で城のミニチュアをつくり、それをパーティで披露した後、壊して食べるということが流行ったといいます(p.68)。まるでポトラッチ。人間の根源的な欲望の姿を感じます。

 紅茶に砂糖を入れて飲むことはイギリスで始まり、ジェイムズ一世が身分によって消費生活を規制する法律を全廃することで上流階級から労働者まで広まっていきます(p.77)。こうした結果《イギリスでは茶は葉っぱ一枚も採れないのに、私たち自身、紅茶といえばイギリスやイギリス人を思い浮かべるようになったのです》(p.81)。このことは「世界が近代世界システムでひとつになった」ことを意味し(p.171)、商業革命、産業革命は、こうした世界システムの上に成立した、と(p.172)。

 紅茶は家庭でも簡単に入れられるたことがイギリスでひろまった原因というのも笑えますが(p.129)、いまでもイギリス人はカロリーの15-20%を砂糖からとっているそうです(p.157)。砂糖入りの紅茶はカフェインを含む即効性のカロリー源として労働者にも広まっていった、わけです(p.167)。

 とにかく、世界商品は莫大な利益を生み、18世紀を通じてイギリスとフランスは第2次百年戦争とも呼ばれるような戦いを繰り返します(p.143)。

 クロムウェルがカトリックのスペイン王室に一泡吹かせるために1655年に占領したジャマイカは砂糖きび栽培で莫大な利益を生みましたが、精製過程の残りかすを使ってラム酒もつくられます(p.148)。

 アメリカ独立と砂糖、奴隷禁止をめぐるみにくい争いなどの「第8章 奴隷と砂糖をめぐる政治」も必読でしょう。

 人物を中心とした歴史はいくらでも書かれていますが、本書のようにモノや世界のつながりで歴史をみることは大切だな、と(p.206)。百田某のハチャメチャな日本国〇などが読まれて、岩波ジュニア新書の遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』や本書などがなかなかチョイスされないのは寂しい限りですが、高校に入学するような知り合いのお子さんがいたら、ぜひプレゼントしてあげてほしいな、と。

 また、川北稔先生はalicで「世界の砂糖史」を13回にわたって連載しています。こちらもぜひ。

https://sugar.alic.go.jp/tisiki/ti_0504.htm

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May 09, 2019

シリーズアメリカ合衆国史 1『植民地から建国へ』

シリーズアメリカ合衆国史 1『植民地から建国へ』和田光弘、岩波新書

 

 岩波新書の各国史シリーズは日本、中国(近現代)に続いてアメリカ合衆国史が刊行され始めました。つい、アメリカは歴史が浅いと思いがちですが、「あとがき」にもあるように合衆国憲法制定からは230年たっており、日本国憲法よりも3倍もの歳月にわたり《連邦と国家を運営し、初代から第45第まで44人の大統領を、憲法二条にもとづいて途切れることなく選び続けてきたこの国は、もはや決して若い国でも、歴史の浅い国でもない》といえるかもしれません。

 第1巻となる『植民地から建国へ』は、先住民の世界から植民地期、独立革命と憲法制定、そして新共和国としての試練まで、初期アメリカの歴史像を、大西洋史や記憶史(建国神話、星条旗神話)の知見もふまえて書かれています。

 大西洋史という観点からは、奴隷や砂糖などの三角貿易の説明のほか、当時は現代の管理通貨制度と異なり18世紀の大西洋貿易では様々な金銀貨が使われ、そのうちもっとも広く通用したのはスペインの8レアル銀貨だったというあたりはなるほどな、と(p.76-)。8レアル銀貨の意匠にはヘラクレスの柱が描かれているものもあって、スペインがいま英国にジブラルタルを占領されてるのは相当、腹立たしいことなんだろうな、と改めて思います。

 独立戦争に向かう流れはだいたいこんなもんかな、という感じですが、考えてみれば《寄せ集めの13邦が、当時最強のイギリス軍に果敢に挑んだ戦い》だったという視点は忘れてはならないな、と。イギリスはドイツからも傭兵部隊を送り込んだわけですし、よく勝ったな、と(p.123)。

 また、最初13州は13の独立した国(邦)という意味のSTATEだった、という視点も大切だな、と思いました。

 だから、独立戦争終結後の13州の連合会議に認められた目的は規約改正とされていたんですが、いったん集まると秘密会議にして、一気に憲法制定へ(p.155)という流れは日本の幕末を思い出しました。州(邦)の独立という志向の強い人々にとって、憲法を制定してアメリカ合衆国をつくる話しを秘密会議でやられたというのは、倒幕が終わったらいつのまにか攘夷がなくなったことに驚く尊皇派志士たちの姿を思い出しましたが、いつの時代にも先が見えるのは少数だから仕方ないのかな、と。

 初代大統領には周りから強く推されればやむなく立つというスタンスが求められたとして筆者は老子67章の「不敢爲天下先、故能成器長」を引いて「敢えて天下の先と為らず、故に能く器の長と成る」という蜂屋邦夫の読み下し文を紹介しています。しかし、老子は様々な訳が可能でテキストも多層的な成立過程が想定されており、例えば蜂屋訳は「人の前を行かないようにしなさい、そうすれば人を導く者になれる」ですし、他にも「世界の先頭に立とうとしないからこそ、人物をうまく働かせてその首長となることができる」(金谷治訳)、「無為の聖人が人と争わず、人後に甘んずる謙虚さ故に却って既成の人材を統率する最高の地位をものにする」(福永光司訳)「また先に立つのが嫌いなので、逆に代表の地位につかされることもあった」(保立道久訳)などもあります。ここは老子が自分自身の性格を語っているところであり、個人的には最後をとりたいと思いました(p.165)。

 初代のワシントン、二代目のアダムズに続き、三代目の大統領となったジェファソンは1782年に妻をなくし再婚することはなかったが、妻が連れてきた混血の黒人奴隷サリー・ヘミングス(写真)と深い仲にあったといわれます。サリーは妻の父ジョン・ウェイルズを同じ父とする異母姉妹で3/4白人。つまり、ジェファソンは亡き妻の面影をサリーにみていたわけです。奴隷制度では、所有する黒人女性との関係は「慣行」とされていました。生まれた子どもは原則奴隷なので、財産も増える仕組みというのはおぞましいかぎりです。

 1808年に奴隷貿易が禁止されたのは、ハイチ革命の影響もあるが、黒人奴隷の自然増で米国国内での調達・維持が可能となっていたからだとされています(p.204-)。サリーは6人の子を産み、4人が成人。その中の3人は見かけ上、白人として通り、「ワン・ドロップ・ルール」にもかかわらず白人として生きたそうです(パッシングと呼ばれる)。ちにみに、ハイチを革命で失ったナポレオンは、ルイジアナを維持するよりも戦費調達のため、最初はニューオリンズの購入をもちかけたジェファソンに対し、逆に全体の売却を逆提案したそうです(p.197)。

 ジェファソンは色々活躍したわけですが、それにしてもOne-drop ruleとは《黒人の血が一滴でも入っていれば黒人とされるという原則》で(p.62)あり、外見上白人ならPassing for whiteとすることで、他の黒人と区別させることは、黒人を弱体化させ社会のより低い位置に追いやるシステムを維持するための最良の方法だった、というあたりは醜い規定だな、と。

 ジェファソンの子孫たちは1990年代になってDNA鑑定を求めましたが、彼ら全員は弟を含むジェファソン一家の子孫である可能性が高いものの、全容解明は難しいとのことです。しかし、逆にシェファソンとサリーの関係を否定することも難しい、としています(p.204-)。にしても、弟も…凄い話しですが、日本が一夫一妻制になったのも1898年ですし、人様のことは言えた義理はないのかな、と(明治31年に民法で親族が規定がされ、重婚の禁止と戸籍法でも妾が削除。しかし奴隷制よりはマシですか…)。

 ワシントンから五代目のモンローまで、二代目のアダムズを除く4名は南部ヴァージニア出身だったというのは重要かな、と(p.208)。かれらは皆、奴隷制の大プランテーションの経営者であったわけですから。ちなみに、最初の首都はニューヨークに置かれましたが、ハミルトンとジェファソンによる交渉で 、南部のワシントンを首都にするかわりに連邦政府による州の肩代わりを認めるという妥協がなされたそうです(p.174)。

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May 02, 2019

『乱と変の日本史』

 本郷先生の素晴らしさはどの中世史家よりも分かりやすく、才気煥発な文章で日本史を面白く紹介してくれる能力だと思うのですが、実は、大きな前提に乗っています。この本も中世史の見方のひとつである佐藤進一先生の東国国家論で読み解く武家の歴史という感じ。尊氏、直義の関係も佐藤先生の「将軍の二つの機能論」で押し切っている感じで、結論は日本では時流に乗った奴が勝つ、と。

 本郷先生は佐藤進一先生の流れをくむ石井進先生と五味文彦先生に師事し、現在は東京大学史料編纂所教授。つまり公式な日本史を書いている立場の先生で、中世史に関しては権門体制論を批判して東国国家論(二つの王権論)に立っています。ということで、この本でも最近の日本史ブームをつくったと紹介し、実証派=権門体制論の立場に立っている呉座勇一『応仁の乱』と亀田俊和『観応の擾乱』に関してはライバル心を燃やしている感じ。いきなり観応の擾乱は他に擾乱を使った事例がないので観応の乱にすべきだし、応仁の乱は11年も続いたのだから、応仁の大乱にすべき、と軽くジャブを放ってから描き始めています(p.18-)。

 本郷先生は、ヘーゲルを継ぐ歴史哲学者であるコジェーブが「人間の歴史を学びたいのであれば、日本の歴史を学べ」と述べていることを「はじめに」で紹介し、日本は気候、異民族支配などの影響がないところで歴史が展開されたので、人間がどのように発展するかを見る上で、もっともいい教科書になるとしています(p.22-)。つまり、通史志向なのかな、と。

 また、何をもって乱、変、陣、役、合戦というか学問上の定義はなく、学術的に分類していくべきだとして、規模別に戦争、役、乱、変、戦いとすべきとしています(p.20)。

 本郷先生は『軍事の日本史』で《学問とは、理念を明らかにすることだと言えます》と書かれていて(p.52)、至極まっとうなことだなと読み飛ばしましたが、紛争を分類して序列化したいというあたりを含めて、戦後史学の発展史観がベースなのかなと門外漢ながら観じました。

 また、現在では非主流派になっている東国国家論を堅持するために、呉座『応仁の乱』については《土岐康行の乱、明徳の乱、応永の乱の時とほぼ同じ構図を引きずり、負け組(山名氏・大内氏・土岐氏)が勝ち組(細川氏・赤松氏・京極氏)に再び挑んだリベンジの戦い》であり《それは「宿命的なもの」だった》として、細川頼之の役割を大きく取り上げて反論しています。

 一方の観応の擾乱については「将軍権力の二元論」で主従的支配権(軍事)を握った尊氏と統治的支配権を保持した直義という関係を説明するばかりで、直義が軍事催促状と感状を一元的に発給していたという問題には触れていません(亀田隆和『観応の擾乱』p.11)。本書では《佐藤進一先生が提唱しましたが、実は尊氏と直義の二党政治を根拠として論証されたものです》として、ずっと「将軍権力の二元論」で二人の関係を説明し、後は直義が東国国家論的に鎌倉に帰りたかったという感じに終始しておられます。

 ということで『乱と変の日本史』は呉座先生をターゲットに、頼之を大きく取り上げて反論してますが、次あたりはキチンと反論して欲しいところです。

 また、これはTwitterでご指摘いただいたのですが《ほかに「擾乱」という言葉を使った事例がない》とまで書くと問題かな、と。「事例が少ない」「馴染みがない」ぐらいにしておけば良かったのに、これは亀田先生から教えていただいたのですが、中世の島津氏の歴史を叙述した『三国擾乱記』という書物もあるし、『大日本国語辞典』の「擾乱」項を見ても、これが本来は一般名詞であったそうです。

 あと、山川の日本史広辞典で観応の擾乱を引いてみると、ほぼ本郷先生は広辞典の記述から出てないし、直義は殺害されたとしている研究者が多いとして、自然死だったのではないかという亀田先生の説をわざわざ否定しています。山川は史学雑誌の発行元を引き受けて以来、教科書を東大の先生方が執筆してもらっているという大人の事情もあるだけに、本郷先生もこうした定説から出られないんだろうか、なんていうことまで考えてしまいました(念のため「擾乱」も引いてみましたが項目はありませんでした)。

 ぼくなんかは網野善彦先生から中世史の本に興味を持ったクチで、だから東国国家論の方が権門体制論よりしっくりくるな…と思っていたんですが、それは、やはり戦後史学とバックのマルクス主義的発展史観に慣れていたからなのかな、と改めて色々、考えさせられました。

 ちなみに鎌倉幕府を東国において朝廷から独立した中世国家と見なすのが佐藤進一先生の系譜である「東国国家論または二つの王権論」。公家、寺社、武家がそれぞれ荘園を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的に分業に近い形で権力を行使したというのが権門体制論です。

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April 29, 2019

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』加藤陽子責任編集、歴史学研究会編、績文堂出版

 この手のアンソロジーは例えば哲学の分野などでは凡庸なものに終わることが多い印象ですが、日本史の場合は、執筆者が協力して、全体としても統一感のある読み物になっています。監修した加藤陽子先生による、全体のサマリー「はじめに」だけでも読む価値はあります。

 列島では古来から比較的王殺しが少なく、禅譲=上皇が突出して多いというのは、例えば総理大臣など政治のトップの逮捕・起訴などが少ないというのにも通じるかな、というのが第一印象。

 「はじめに」で加藤先生は、朝幕関係についての議論が活況を呈しており、さらに現在の皇統が始まった光格天皇以来の譲位で多くの人が興味をいだいているとした上で、殺害される王が稀で譲位する王がこれほど多いのは珍しいと紹介。さらに、八人十代にも及ぶ女性天皇は東アジアでも珍しいとも。列島では皇位継承の明確な準則がなかったため、継承方式は推移し「擬制的な直系」の創出が目指されたが、それもほとんど異質だ、と。

 また、近世期の改元は践祚から一、二年後になされるのが普通だったとも。中国でも崩御後一年は前の皇帝の年号が使われていました。さらに、秋篠宮の問題提起でも話題になった大嘗祭も中世以来、霊元天皇まで行われず、東山天皇の時に二百数十年ぶりに再興されたものです。

 もっといえば、欧州の王政は世襲と選挙があるが、日本は世襲を疑わなさすぎだ、とも。

 池亨先生の《官位叙任機能は天皇制の本質というよりは、天皇制維持のための必要条件、天皇による生き残り戦略》という考え方は、マルクス主義の尻尾を引きずるぼくにはしっくりきます。中世史でも、どうしても権門体制論より東国国家論の方がしっくり来ます。

 天皇にとっては「退位」ぐらいしか人間としての意思を示す場所はない、という河西先生の論考は、天皇と皇室メンバーの自由のなさなど、深刻な人権侵害を考えると、任期付の選挙天皇制への途も日本国憲法と皇室法の擦り合わせで可能という奥平、長谷川の指摘につながるかな、と。

 天皇の職は祭祀儀礼などの公事遂行と内廷経営。さらに治天の君となった時には《天皇の周囲に構築された国政処理のための政務全般》が核になるというあたりも、なるほどな、と。

 ということで古代から箇条書きでみていきます。

「古代の天皇」

 禅譲と対をなす放伐(王の追放)という言葉は日本書紀などでは使用されなかったそうです。中国でも放伐の代わりに禅譲の形式をとった王朝の簒奪が増えていきましたが、日本の禅譲の多さは東アジアでも突出しており、それは「退位させられる強制禅譲」とみることも可能だ、と(p.7)。

 例えば大王崇峻は蘇我氏によって殺害されましたが(フレイザー的王殺し)、その後の皇極から孝徳への王の交代は、王殺しによる事態打開の途を避ける日本の特徴となっていった、と。世界でも日本は王殺しが少なく、譲位が逆に多すぎるのですが、これは世界史的にも意義あるとのことです(p.11)。

 中国唐代では、退位した皇帝が「太上皇」の尊号を付与されたが、令文に「太上天皇」の語はみえず、日本独特のもの。淳仁を廃した孝謙天皇は、道鏡を随伴した大嘗祭で称徳天皇と重祚。道鏡の即位を企てるが失敗。称徳には太上天皇や皇后、皇太后、皇太子がおらず、老齢の白壁王を光仁天皇を立太子します。

 天皇と太上天皇のどちらが偉いか、太上天皇は降りたのかなどの矛盾を抱えることも。天皇と上皇は激突することもあったが、王権を分裂される危険を内包しつつも制度化されていきます。今後、新羅やベトナムとの比較研究が進めばさらに特色は際立ちそうだ、と(p.23)。

 日本の女帝は八人十代に及ぶが、中国では唐代の則天武后だけで、朝鮮半島でも新羅善徳、真徳、真聖の三人だけ。日本の場合、律令にも規定があったほど(p.29)。

 日本古代の女帝の必要十分条件は「内親王(皇女)」。道鏡事件の後に践祚した光仁天皇は、内親王皇后の井上内親王を廃する。それは、産んだ子供だけでなく、自分も皇位継承者となる危険性があったから。その後は、女帝の影響力が大きくなってきたため、藤原氏などの臣下皇后が相次いで立てられることになります(p.37)。

「中世の天皇」

 室町期になると官位授与が買官としておこなわれ、天皇は家業としてそれを営みます。もうひとつの重要な収入源は改元。京都周辺の天下を制した武家が、その宣言として改元を行わせた。細川高国の大永、足利義昭の元亀、信長の天正などの勘文、難陳の費用は武家が出資しました(p.94-)。

 戦国期になると天皇の葬儀、践祚の費用は将軍から得られくなり、近場の大名から調達するようになります。禁裏小番衆は天皇の最期の藩屏となったが、経済基盤の狭小化で出仕しなくなる者も出てきたほど。そこに現れたのが信長。御所警護、経済援助で信長への依存を高め、秀吉には聚楽第行幸までして最悪期を切り抜けたことになります。

 信長の上洛時、御所を荒らされると思ったけど、郷民を雇うぐらいしか出来なかった正親町天皇。最悪の事態を覚悟しただろうけど、警固の兵を送られた時には本当にホッとしたろうな、と。この時期は譲位の費用も出せないので、行き当たりばったりの崩御→践祚に戻ったという指摘は可哀想すぎ。

 11世紀に神鏡とアマテラスが同一視されて伊勢神宮は宗廟となったのですが、古代の天皇は神聖性を保持していたが、中世では、神仏という超越者他者に保証される象徴的権威に変化したという指摘はなるほどな、と(p.105)。

 中国・朝鮮の儒教的社会では「異姓不養」の原則から、他家から養子を迎えて継嗣とすることはできないといいます(p.66)。このことは、日本社会が中世に、経済的発展を遂げていたからなのかな?

 南北朝の対立は、皇統に連動したさまざまなレベルの家督争いによって構成される、と(p.64)。応仁の乱の畠山とかまさにそうだったな、と。それが朝倉的解決に収斂していくのかなと思いました。

 皇位継承は1)傍系継承や兄弟叔甥の争いから候補者を絞り込むために2)皇族出身の妃所生の男子とする六世紀型から3)藤原氏出身の妃所生とする八世紀型へ推移していきます。さらに荘園の拡大など経済発展で資産が増加したため、皇位を子孫に伝えるために譲位&院政が生まれた、と(p.58)。

「近世の皇位継承」

 室町幕府が弱体化して畿内政権になると、天皇の葬儀→践祚の費用を幕府が出し渋るようになって、夏場などには遺体がひどい状態になってしまうことがあったそうで。天皇家の「家業」化の進展で制度化された譲位→受禅という安定的な継承もできなくなり、崩御→践祚という行き当たりばったりの継承に戻る、と。天皇家は最後の頼みの綱となった禁裏小番衆の権益確保のため鷹司家から塩漬魚の徴税権も奪ったりもした。織豊政権が破格に天皇家を大事にしてくれてホッとしたのもつかの間、徳川時代になると突然、天皇が病弱となり早死にし始めます。

 桃園天皇は脚気にもかかわらず酒を飲んで行水するなどして急性心不全で死去。天皇の継承は幕府の許可をもらわなければならなかった当時、桃園天皇の死は関白近衛内前によって伏せられました。それは桃園の子・英仁親王が五歳で病弱だったから。幕府には桃園の姉の智子内親王が践祚し、5-6年で英仁親王に譲位するという方向で許可を得て、7/9の死去の後、21日になって践祚が実現。桃園の姉・後桜町の譲位により、後桃園は13歳で皇位についたが9年後に父・桃園と同じ22歳で死去。当初から病弱で、この時は1歳になる皇女しか子がいなかったため、再び死は秘匿されました。

 しかし元々、後桃園は病弱だったため、公家たちも準備万端。今の皇統となる閑院宮家には王子が多かったので得度してない九歳の裕宮が光格天皇に。この時は死んでいる後桃園が裕宮を養子として践祚させるという叡慮が幕府側に打診されて了承をもらった。聞くも涙の物語で、昭和天皇の時も何ミリの下血があったなどの病状まで公表されたり、秘匿と公表が極端で可哀相すぎ。今上陛下が生前譲位を望んだのも、昭和天皇崩御時の国民生活の混乱も含めて宜なるかな、と。

 昭和天皇の病状が悪化していった当時、駆け出しの記者だったんですが、JRのダイヤ改正の発表も「Xデイがあったら繰り延べ」という条件付だったことを思い出す。今上陛下の譲位は昭和天皇崩御時の混乱とローマ法王の生前退位(これも驚愕だった)を受けて実現したんだろうな、と改めて思います。

「戦後天皇制と天皇」

 神なき国で天皇と皇室を機軸とした西洋近代化を目指した明治国家は、19世紀後半のドイツで確立した国家法人説を導入し、天皇と国家の関係を人体に喩えて説明する途が開いた。天皇の位置付けについてキリスト教の神学に代わって援用されたのは「歴史」だった、と(p.183)。

 昭和天皇にとって欧州歴訪は人生の花だったが、帰朝に際し、米国への訪問を果たせなかったことを残念に思うという令辞があったとは知らなかった(p.195)。歴史にIFは禁物だが、宮中某重大事件に訪欧問題がリンクされず、もっと見聞を広める機会があれば大平洋戦争への道も違ってものになったかもしれない。昭和天皇は訪欧時、初めて切符を自分で買って列車に乗ったが、降りる時、それを渡すとは知らず持ち帰ってしまう。しかし、生涯、その切符を大切に持っていたという話しは、天皇の孤独を感じさせるエピソードとして印象に残っています。

 5.15事件のあった1932年7月、昭和天皇は陸軍士官学校の卒業式に出席できなかった。天皇に対する生徒の態度に学校側が自信を持てないほど悪化していた証左かもしれないというのは初めて読みました。2.26に続く陸軍の叛乱は昭和天皇に対する不満、異議申し立てから再考する必要があるかも(p.209-)。


「戦後天皇制と天皇」

 GHQは占領を円滑に進めるために天皇の権威を欲していたので、日本側の「象徴」の内実を曖昧化。このため敗戦後の天皇制の存立根拠が憲法にあるのか歴史にあるのかハッキリしなくなっていった、と。

 敗戦直後、近衛文麿は昭和天皇退位を主張したが、これは支配層が天皇制を継続維持するためには天皇個人の身体をある程度、犠牲にしても構わないという発想があったから。

 新しい皇室典範に退位規定が入らなかったのは、退位の自由を認めたら、天皇にならないという不就任の自由も認めなければならなくなるから。

 三笠宮は基本的人権を謳う憲法の精神からして、退位など人間としての意思を発露できないのはおかしいと指摘していた。天皇の意思は発露できないが、人々の自由は保証されるというのは矛盾だ、と。

 初代の「象徴皇太子」となった今上陛下は、憲法にも皇室典範にもその職務が規定されていなかったので、自らの存在意義を模索していきます。

その際、戦国時代にあって疫病や飢餓を祈りによって克服できなかったことに後奈良天皇が「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」と写経の奥書に書いたことに共感したとインタビューで答えていいます。

今上陛下は、戦国時代にあって疫病や飢餓を祈りによって克服できなかったことに後奈良天皇が「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」と写経の奥書に書いたことに共感していることをインタビューで答えている


「中国皇帝の譲位と年号」

 中国ではある年の途中で皇帝が亡くなって次の皇帝が即位してももその年は亡くなった皇帝の年として、新年を迎えて初めて新しい年号を発布し、自身の治世を開始する「踰年(ゆねん)改元」が原則。また、皇帝が翌年の正月を迎える前に亡くなると皇帝とは扱われません。

 前漢で即位儀礼は祖先の位牌を安置する宗廟で行われたが、武帝からは先帝の棺の前で即位する「棺前即位」に。また、年号も前漢の武帝の途中から始まります。

 唐代では則天武后が周朝を開くまでは皇太子の即位が通例だったが、則天武后の子で皇太子から即位した中宗が韋皇后に毒殺された後は睿宗-玄宗-粛宗と異例の即位が続きます。

 日本の院政期と違い、中国の皇帝の譲位は政争をともなう。隋の煬帝だけ「ようだい」と呼ばれるのは暴君だったからで、日本でも反乱に加担したとして廃位された淳仁天皇と仲恭天皇の二人の廃帝も「はいたい」と呼んで区別した、と。

 前漢では皇后の出自はほとんど考慮されず、歌手が見そめられたこともあったが、やがて有力臣下の娘が皇后になっていき、後漢では外戚が権力を握います。

 「前代自り以来、未だ人君(君主)即位の後に皇后の太子を産むことあらず」という言葉があるように、例外は紂王。唐代でも皇后の実子が皇太子から皇帝となるのは例外だったが、その時代に遣唐使が送られていて影響された?

「ヨーロッパの王制と王位継承」

ベルばらファンなら王家打倒後、マリー・アントワネットが「カペー未亡人」と呼ばれるるようになったとは知っていると思いますけど、中世フランスは「カペーの奇跡」と呼ばれる長子による直系相続が続いたが、カペー直系はシャルル四世の死によって1328に断絶。しかし、ヴァロワ朝、ブルボン朝ともカペー家とは男系でつながっている。男系男子の相続が続いたのはヨーロッパの世襲王制国家の中でも極端に珍しく、イギリスは男女系男女世襲王制だし、ポーランドなどの東欧は選挙王制だった。米ワシントン大統領と同時代のポーランド王の参政権の割合はほぼ同等。

 日本では世襲の男系による皇位継承が自明のものとされており、王制と共和制は別個のものと考えられているが、ポーランドのように「王のいる共和国」も存在したほど。神聖ローマ帝国皇帝はハプスブルグ家の当主が15世紀以降、選挙で世襲王として選ばれたが、それは結婚政策で反対派と縁結びしていたから。

 こうした「世襲的選挙王制」はハンガリー王国でもみられた、と。

 さらに、これも本になるのが楽しみな歴研のシンポ!

「天皇と皇位継承のコスモロジー」では《明治に形成された近代国家としての日本が、新たに創出した天皇にまつわる制度や儀礼につき、古代史から無媒介に援用し遡及させようとした試みを、古代史の立場から批判的に論ずる》とのことです。Tennoh-katoh

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April 12, 2019

『世界史の新常識』

 

Shijoshiki-0 Shijoshiki-0 Shijoshiki Shijoshiki-0 『世界史の新常識』文藝春秋編、文春新書

 古代、中世・近世、近現代にブックガイドも加えたところが良心的だな、と感じるアンソロジー。出版社というか季刊文藝春秋SPECIALに掲載された原稿が中心。加藤隆、佐々木毅、樺山紘一先生など宗教学、政治学、歴史学などの研究者のほか、アカデミックな世界の著者だけではありませんが、退屈せずに読み進められました。

 年代別に少しずつ紹介していきたいと思います。

[古代]では、やはり加藤隆「キリスト教」はイエスの死後につくられた」が面白かった。

 ユダヤ民族は「出エジプト」で約束の地を得ることができたが、北王国の滅亡などの際にヤーヴェの沈黙が問題になった、と。ここで、ヤーヴェが沈黙しているのは民の態度がダメだから、という合理的な解釈が出てきた。しかし、人間が義しい状態を実現したとして、神はその者を救わなければならないとすれば、神は人の操り人形のようなものになってしう。そこで「人が何をしても救われないし、神を動かせない」という認識が熟すとともに、罪の概念も希薄になってきたのがイエスの頃のユダヤ教だ、と。

 イエスの流れで重要なのは、こうした状態の中で「神が、一方的に動いた」ということ。イエスの福音=良き知らせは「神が動く」可能性が実際的になったということですが、イエスは神を都合よく動かす力まではなかった、と(神の国が近づいたというメッセージの意味は神が動く可能性が出てきたということなのでしょうか)。

 十字架事件の後、ペトロたちの行動をローマ側が黙認したのは、民族を分断支配するという原則に従ったから、というあたりは、加藤先生の師事されたトロクメ先生が『聖パウロ』文庫クセジュで書いておられた「ローマ殉教はパウロvsペトロの使徒内ゲバ対決だった!?」ようなことに通じるかな、と感じました。

 こうしたこともあってペトロは初期共同体をエルサレムでつくることができたのですが、そこではペトロが指導者になり《「人(指導者)による人(従属者)の支配」というべき事態が生じた》のですが、アナニアとサッピラの事件で明白な財産処分をめぐる躓きから「すべての財産を寄付する」という教えが変更されてしまいます。しかし、教えが変更可能なものだという軽さは、逆に社会的に有効だと考えられる教えによって様々な指導者が信者を集めることも可能になり、初期キリスト教の様々な文書も生まれた、と。

 これは同時に教会が様々な分派に分かれて鋭く対立するという構造も生むのですが、個々の共同体のメンバーであり続けるためには「いい加減なメンバー」でも構わないという柔軟性も生み、それはローマ帝国を支え、やがては中世ヨーロッパの信仰共同体にもつながっていったんだめろうな、と。

 また、イエスの出現によって示された神の小規模な介入は、ユダヤ民族の枠に捕らわれず、使徒行伝の記述などからも非ユダヤ人からも対象となる者を選んだことが注目されます。

 ここまで加藤先生は書いておられませんが、トロクメ-加藤の使徒行伝を含むルカ文書のざっくりみてみると、イエスに降りそそいだ聖霊は初期エルサレム共同体からパウロ、ローマ兵などへと次々と降りそそぐという構造があります。そして、神の介入がこの程度の小規模なものであるから、守れない律法は避けた「人による人の支配」の有効性が示され、それが2000年も続いた姿になっているのかな、と。

 このほか、森谷公俊「古代ギリシアはペルシア帝国に操られていた」では、ペルシア戦争の背景には東方世界の豊かさとスパルタに代表されるギリシア世界の貧しさがあったというクリアカットの指摘にはなるほどな、と。だからアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者だ、というあたりが面白かった。

呉智英「どうして釈迦は仏教を開いたか」では、禅宗は、六世紀支那で荘子思想を読み換えて成立というのはなるほどな、と。


[中世・近世]以下は箇条書きで。

山内昌之「預言者ムハンマドのリーダーシップ」
《イスラームでは、合法的婚姻関係以外で性的交渉をもつのはすべて姦通とされる。婚姻をしているムスリムは男女問わずに、石打ちの刑となる。未婚者の場合は、100回の鞭打ちと1年間の追放》

宮崎正勝「中世グローバル経済をつくったのは遊牧民とムスリム商人」
《広域ネットワークというと、「大航海時代」ばかりが目につきやすいが、世界史で、先駆的にそれを作り上げたのが、ムスリム商人と遊牧民》
ユーラシア大陸で《ムギに依存する「南」と馬に依存する「北」の分離、つまり経済と軍事の分裂が、世界史のダイナミズムを生み出していく》
《大航海時代は、ユーラシアの陸の世界史(小さな世界史)から3つの大洋が五大陸を結ぶ世界史(大きな世界史)への転換をもたらした》
遊牧民とムスリム商人が定住農民を支配するシステムは1)7世紀のウマイヤ朝(アラブ)からアッバース朝(イラク)、11世紀のセルジューク朝(トルコが実権)2)トルコ人のセルジューク朝に移るが、イスラム帝国のセンターはシリアからイラン高原寄りにずれて商業圏を膨張させた。これは主導勢力が砂漠の遊牧民から、草原の騎馬遊牧民に移ったことを意味する
さらに13世紀のチンギス・ハーンから始まるモンゴル帝国がつながる
18世紀になると、ともにトルコ人が支配するオスマンとムガル帝国、女真族が支配する清帝国とロシアがユーラシアを分けた
一帯一路は中華思想によるモンゴル帝国の円環ネットワークの組替え

杉山正明「異民族を活用したチンギス・カン」
チンギスはいろいろな遊牧民を自分たちの騎馬軍団として組織したが、出身や人種でわけへだてなかった。それは在地支配への関心が薄かったから
(遊牧民の在地支配欲の薄さは、日本中世の武士による在地支配欲と好対照かな。日本中世史の素晴らしさは、武士による地に足のついた在地支配欲が貴族や寺社の荘園支配を打破したことだと思うのですが、他のアジア諸国では、在地支配欲の少ない遊牧民が軍事支配してるが日々の生活には干渉しなかったから武士のような存在が育たなかったのかな。つか中国などの武装勢力はうまく利用・再編されたのかな?)
4つに分かれたモンゴル帝国は、全体として眺めれば比較的仲は悪くなかったというより、エリート意識からモンゴル人は殺さないなど仲間内の紐帯は強かった

樺山紘一「ルネサンスは魔術の最盛期」
現存する最古の木版印刷は法隆寺などにある奈良朝の「百万塔曼荼羅」だが、紙のないヨーロッパではルネサンス直前まで印刷技術がなかった

久芳崇「明を揺るがした日本の火縄銃」
朝鮮に到着した明軍に浴びせかけられたのは火縄銃の一斉射撃。明では倭寇の捕虜から火縄銃の製法は伝わっていたが、鋳銅なので暴発の恐れがあった。
朝鮮の役以来、明朝は火器の導入を図るが、それは軍団単位にとどまった。一度、解任された劉ていは火縄銃部隊を失い、女真族とのサルフの戦いに敗れる。保守的な官僚はそれでも積極的な火器導入に踏み切れず、ホンタイジによって火器受容を行った女真族に圧倒されていく。

柳谷晃「戦争と疫病がニュートン、ライプニッツを生んだ」
『三銃士』のダルタニャンはやたら「オレはガスコンだ」と誇らしげに語るが、ワインで有名なボルドーもあるガスコーニュ地方からは多くの人々が十字軍に参加し、進んだイスラムの文化や科学と出会ったからデカルトやフェルマーなども生まれた


[近現代]
小野塚知二「産業革命がイギリス料理をまずくした」
 囲い込みによって、入会地を失った農民たちは果実、ジビエ、魚、キノコなどを入手できなくなり、自営農家は季節労働者となっ村祭もすたれ、保持されてきた食の能力を失った、という説明は納得的。

中野剛志「保護貿易が生み出した産業資本主義」
英仏は近世、ずっと戦争ばかりしている感じですが、1689-97の対仏戦争の際、イングランド銀行は政府に戦費を貸し付けるかわりに銀行券を発行する組織として設立された、というのは知りませんでした。イタリアのバルディ、パルッツィ家は百年戦争を始めた英国王エドワード3世(1312年 - 1377年)の借金踏み倒しにあって破綻したんですが、銀行券を発行できる権利とバーターなら安心なのかも。
他の銀行はイングランド銀行に口座をつくるようになり、こうした信用制度によって工業地域は資本の調達が可能となった、と。
さらに、保護貿易によって自国産業を育成したのですが、供給過剰と資源不足が起こって、帝国主義的な紛争も激化した、と。

平野聡「アヘン戦争 大清帝国VS大英帝国」
領事裁判権は清の皇帝からすれば、夷狄は彼らの法律で管理すればいいということで容認されたというのは、なるほどな、と。
イギリスはインドからチベットを経由する対清貿易ルートを築こうとして北京に協力を要請し、北京もチベットを説得しようとしたが、頑迷なチベットは仏教徒ではないイギリス人を嫌い、それがチベット問題の源流になっている、と。
総じて英国は要求しつつ利益をえる対中関与を続けている、と。

脇村孝平「インド グローバルな亜大陸」
ガンジス文明は紀元前6世紀に、モンスーンと大河に支えられた稲作によって人類史上初めて熱帯における人口稠密社会をつくった、と。
イギリスが少数でプラッシーの戦いなどに勝利し、その後も支配が可能になったのは、商人・軍人・官僚などに「協力者」を得たから。商人たちはイギリス資本と結びついてインド洋を取り囲む交易網をつくった、と。

竹森俊平「世界大戦の負債が起こした大恐慌」
《「過去」を振り返ることで、「現在」の意味が分かるというのが歴史研究の醍醐味だが、その反対の論理も働く。つまり「現在」を見つめると、「過去」に起こったことの意味がはっきりする》というのはなるほどな、と。
ワイマール政府の賠償金支払いが行き詰まったことで、ドーズ案による猶予と(1924年)アメリカのJPモルガンなどが立て替え計画をまとめ、危機を脱出。その支払い期限は1988年だったというの知らなかったな。
アメリカ資本はドイツに貸して貸して貸しまくり、貸し先がなくなると中欧や東欧まで貸しまくった、というのも知らなかった。
これによって米国の民間貸出に極度に依存する体質が生まれ、と。
ワイマール文化の不健全な感じは、こうした経済構造からなのかな、と思うと同時に、フィッツジェラルドなどの小説で、ヨーロッパがアメリカ人によって支配されたような感じに描かれるのも、こうしたことが背景なのかな、と。
米国のNY連銀のストロング総裁は、金利引き下げを行い、利ざやを稼ぐために資本がイギリスに流入するようにして、イギリスが金本位制の金を拡充できる仕組みをつくったが、連銀保守派はバブルを煽る行為だと批判。ストロングが1928年に死去すると金利を引き上げたのが翌29年の大恐慌につながり、あわてて今度は利下げしたにもかかわらず、中東欧の経済は悪化。31年にはオーストリアのクレディットアンシュタルトが経営破綻。クレディットアンシュタルトは31年6月に支払いを停止し、連鎖的に大銀行の支払停止が拡大してゆく、と。

渡辺惣樹「共和党対民主党 日本人が知らないアメリカ史」
南北戦争前の共和党と民主党の今とのネジレ感を、共和党→英語に伍していこうと志向vs民主党→英国に追随していけばOKという感じでスッキリと説明。
リンカーンの奴隷解放宣言は奴隷貿易法を禁止していたイギリスが、南部同盟に肩入れしないようにする奇策だったにせよ、共和党はKKKを抑え込むなどの対策は続けた、と。しかし、黒人差別を続けたい民主党では地盤の南部で州法による分離政策を続け、これが公民権運動まで続いた、と。
ウィルソン大統領の父親は奴隷制は神がつくったとする長老派牧師で、差別の日常の中に育ち、共和党大統領が続いた開放的なワシントンで白人と黒人の職場分離を行ったほど。民主党のウィルソンが大統領に当選できたのは大恐慌時のフーバーの不人気が原因だった、と。
日系人を収容所に送り込んだルーズヴェルトもNY出身だが、人種差別意識の強い典型的な民主党の政治家(ルーズヴェルト一族は中国に阿片売って財をなした)。副大統領のトルーマンは南部のミズーリ出身でさらに人種差別意識が強く、原爆使用もためらわなかった、と。
戦後、南部の白人層が豊かになって共和党支持に傾くと、民主党は「アメリカ全てが人種差別的だった」というレトリックで、マイノリティ票を獲得していった、と。

このほか、ブックガイドも充実しています。

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April 03, 2019

『日本中世史を見直す』

『日本中世史を見直す』佐藤進一、網野善彦、笠松宏至、平凡社

 このところの日本中世史を研究する方々のご著書の面白さは本当に素晴らしいのですが、一歩下がって佐藤進一先生の議論から読んでみようと思い、この鼎談を開きました。

 一読、日本の中世史は

[ファンタジー左派]マルクス主義歴史学の立場から南北朝の争乱が封建革命であると主張した松本新八郎
[左派]マルクス主義歴史学は観念的すぎるとは思いつつ人民の力のベクトルを保ち続けた石母田正、網野善彦
[中庸]法制史の立場から基礎的研究を行った佐藤進一による、鎌倉幕府は京都と別の権力をつくり並立したという「東国国家論」
[右派]中世の国家天皇家、公家、大寺社、武家が対立しつつも相互補完していたとみる平泉澄に端を発する「権門体制論」
[ファンタジー右派]平泉澄の皇国史観

の間のグラデーションで説明できるかな…と感じるようになりました。

 現在、日本中世史は大きな研究の広がりと、そうした成果の一般書籍への反映が起きていますけど、それはあくまで、このグラデーションの中にあるかな、と。

 学界で多いのは天皇と将軍は上下関係にあるという黒田俊夫の天皇中心の「権門体制論」らしく、若手研究者も意外と平泉澄の見直しを進めているらしいのですが(権門体制論は平泉の『中世に於ける社寺と社会との関係』1926で提示)、個人的には二つの権力が並立したと考える佐藤進一の「東国国家論」が穏当ではないかと思っているので、改めてと網野善彦などとの議論を読む意義はあるかな、と。

『日本中世史を見直す』佐藤進一、網野善彦、笠松宏至、平凡社

 ところが、三人の先生方の問題意識がわかるまで64頁かかってしまいました。

 この本は『平政連諌草』の議論から始まりますが、これは北条得宗家が没収した所領を自分のものにしてしまうのを諌めた書。得宗家があっけなく滅んだのは、専制を目指したものの、そうした専制を支える基盤が作れなかったからだ、ということになっています。さらに言えば、中世における社会の変化が訴訟制度・主従制を変化させ、鎌倉幕府では矛盾を解消するために得宗専制に走らざるを得なかった、ということが原因なのかな、と。

 網野善彦はこうした変化の原因を宋元銭など貨幣経済の浸透による商業・金融の発展に求め、それを担ったのがアウトサイダーである神人や悪党であるという立場。後醍醐政権はこうした神人や悪党などを一天万民の思想の元で動員したことを強調し、こうした人々は貨幣・信用経済を保証するネットワークになって紙幣も作ろうとしたと指摘する網野さんに対して、「しかし、結局、なにも造らなかったでしょ」と佐藤進一先生は法制史的に軽く切り替えします。

 本書は『平政連諌草』のほか、花園上皇が皇太子の量仁親王(後の光厳天皇)のために記した訓戒書『誡太子書』、後醍醐天皇に徳政と倒幕を諌める吉田定房の『吉田定房奏状』、後醍醐天皇を痛烈に批判する北畠顕家の『北畠顕家奏状』という四つの文書を元に議論するという構成をとっています。

 このうち『吉田定房奏状』と『北畠顕家奏状』は醍醐寺三宝院に所蔵されています。

 亀田俊和先生の『観応の擾乱』を読んだ直後、醍醐寺展で尊氏―師直と共に討ち死にする覚悟を示した賢俊の書状を見たんですが『日本中世史を見直す』によると幕府の正当性を示すために北畠親房の息子で21歳で討ち死にする直前に北畠顕家が後醍醐天皇を痛烈に批判する文書を集めて持ち出していたんすね。

 ちなみに、愛児顕家を失って「時や至らざりけん。苔の下にうづもれぬ、ただいたづらに名をのみぞとどめてし、心うき世にもはべるかな」と嘆くところは神皇正統記でも《もっとも感動的なくだりと言えるだろう》と笠原宏至は語っています(p.257)。こうしたあたりは、素人なので新鮮でした。

 また、佐藤進一先生が室町幕府の権力構造は細川が瀬戸内海、山名は山陰、斯波は越前~尾張、畠山は河内・紀伊を一族で抑える地方総督みたいなものだったが、九州は一族支配ができなかったと語っているあたりは佐藤直系の本郷和人先生の九州と東北はちょっと違うという二国論の元ネタ?かな、と思いますが、どんなもんでしょうか(p.99)。

 ちなみに、元号は大化改新後に制定されるようになったけど、南北朝時代は《幕府=北朝の元号、南朝の元号、北陸=南朝方の元号、それに観応の擾乱ののちの北朝、南朝の元号と足利直冬の元号など、元号の併立・鼎立》があったというのは、新しい元号が発表される前日には覚えておたいところ(p.188)。

 素人は史料を読めないので、活字に直された著書でしか語れませんが、戦国時代までの日本中世史がわかりにくいのは、乳母を含む複合的な母系社会という下部構造の上で、権力闘争が行われていたからじゃないかな、と改めて感じる部分もありました。戦国時代以降が分かりやすいのは、実力一本で、話しがつくからかな、と。

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March 26, 2019

『会計の世界史』


『会計の世界史』田中靖浩、日本経済新聞出版


 現役時代は商売柄、会計に関する本はもちろん読みましたし、会計制度が変更されるたびにアップデートはしていたんですが、基本的には隔靴掻痒という感じでした。もちろんアインシュタインの「複利は人類史上最大の発見」という言葉に重ねた「複式簿記人類史上最大の発見」という言葉も知ってはいましたが、実感はできませんでした。そんな状態だったんですが、日経からこの本が贈られてきて、しばらく置いていたんですが、読み始めたら、生まれて初めて会計の意義が理解できました。


 それは法人の現状を数字で表すところから始まり、やがて株式会社の登場によって、企業の未来を予測するツールとなり、グループ会社に進化する中で、企業統治のための管理会計というツールも生み、経済の成熟化でM&Aが盛んになるにつれ、企業価値を現すためキャッシュフローが重視される-という流れが理解できるようになりました。


1)イタリアから始まった会計


 『会計の世界史』はレオナルド・ダ・ヴィンチの父が公証人一家の妻と結婚するため内縁の仲となっていた娘を捨てるところから始まります。この娘の子がレオナルド。庶子なので公証人の職を継ぐことはできなかったものの、当時、高価だった紙は公証人の家にはいっぱいあったので、レオナルドはメモやスケッチ魔になった、と。父らそのスケッチを見て只者ではないと感じ、ヴェロッキオの弟子にしてもらいます。


 当時のフィレンツェを支配していたメディチ家はその名の通り、最初、医療関係の商売をしていたのですが、銀行業に進出。先行していたバルディ、パルッツィ家は英国王エドワード3世の借金踏み倒しにあって破綻したのですが、メディチは貸し倒れのない融資先として法王庁に接近、という宝塚歌劇団宙組の『異人たちルネサンス』の背景が良く理解できたのですが、なぜ、会計の歴史がイタリア・ヴェネチアから始まったかといいますと、バランスシート(B/S)の右側の負債+資本=左側の資産で運用の成功と失敗が一目瞭然に分かるからです。


 さらに、フィレンツェでは事業を拡大するために親族経営から仲間たちで商売を始めたコンパーニャ(compagnia、本書ではcompania)が儲けを正しく分配し、フローとストックで「原因と結果」を表すために、約束は文書で残し、帳簿をつけて記録することが拡大していきます。ちなみにcompagniaはラテン語のcum panis(一緒にパンを食べる意、本書ではcom pan)です。


 ここでB/Sの右側の負債+資本のうち、資本は親族から仲間に移っていきます。


2)オランダで始まった会社革命


 オランダでは、アジア貿易を拡大するため、大きな資本の組織(ほとんど国家並みの東インド会社)をつくる必要が出てきました。


 これを再びB/Sの右側でみると、負債+資本のうち資本は親族→仲間→株主に移っていきます。


 親族や仲間以上に他人度合いが高まる中で求められるようになるのが説明(Acounting)。会計をAcountingと呼ぶのは、株主への説明が必要だから。


 また、株式会社の経営者は株主に対して説明責任を果たす必要があるが、その代わりに株主は有限責任で済むという絶妙のバランスで「所有と経営の分離」を図れたところが大きかった、と。


 オランダ人は有限責任株主による東インド会社を設立し、株式市場も開設したが、時価発行増資を思いつかず、借入金頼りの経営で200年で行き詰まります。


 また、富をひけらかすような生き方を嫌い、カトリック教会の装飾を破壊したようなオランダ人プロテスタントは、自分の庭を飾るチューリップに慰めを求めたが、そのチューリップが世界最初のバブルを生んだのは皮肉、だと(p.108)。


3)イギリスで生まれた画期的な減価償却という考え方


 イギリス人はロンドン大火を機に石造の住宅へ転換し、石炭需要が高まると炭鉱での排水に蒸気機関が使われ、やがてそれが応用されて蒸気機関車が発明されます。トレヴィシックは自身の機関車にキャッチ・ミー・フー・キャンと名付けたのですが(p.144)、これは映画「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」のタイトルにもつながっていくんですかね。ちなみに、あれだけしわいオランダ人が時価発行増資を思いつかなかったのは皮肉としかいいようがありませんが、暖房に石炭を活用するようになったものの、火力を料理の上達に使うことは思いつかなかったイギリス人は「さもありなん」という感じです。


 スティーブンソンの鉄道開業式には欧州各国がスパイを乗せて軍事転用が可能かを探ったそうで、そんな中、不幸な接触事故で足を切断された政治家を救うために時速60kmで走る性能に驚愕。各国は一気に軍事転用を目指すことになるのですが、ナポレオン戦争直後で国庫に余裕がなく、株式会社も泡沫会社事件で制限が設けられていた、と。


 蒸気機関が活用される以前は、人の移動だけでなく石炭も運河を使って馬で運ばれていたそうで、しかも運河は当時、数少ない売買可能な株式でもあったので、鉄道会社の設立は妨害されるなど大変だったとのこと。こうしたこともあり、鉄道会社は世界初の固定資産が多い株式会社の資金調達・運用実験でもあったそうです(p.150-)。


 英国ではやがて鉄道は儲かるという意識でマネーゲーム目的の株主が初めて大量に発生するのですが、こうなると、新規の鉄道建設で金を集めて既存路線の配当へ充当するような鉄道王も現れる、と。こうした詐欺まがいの事業を阻止するために生まれたのが、減価償却だそうで、減価償却は絵画における写真のような画期的なことだ、と。


 減価償却の登場は、会計の歴史において、イタリアでの簿記誕生に匹敵する重要性を持つといいます。減価償却の登場によって、会計上の儲けは収支から離れ、「利益」というかたちで計算されるようになるからです。収入-支出=収支から業績を的確に表現する収益-費用=利益に体系が変化した、と(p.166)。


 さらに、減価償却の考え方は引当金、前払費用や未収収益などを収益・費用へ配分することも可能にし、長期工事で受取る将来の収入を配分する工事進行基準も認める時価会計や減損会計まで突っ走ることになります。つまり現金主義会計から発生主義会計へ進化する、と(p.167)。


 しかし、これは粉飾決算の始まりでもあったというのが、なんとも凄い話しです。


4)「泥棒は泥棒に捕まえさせる」ために初代SEC長官に抜擢されたJFKの父


 株式会社の拡大にとって、株主は事業よりもマネーに興味を持つ人々が増えます。こうして、様々な株式市場を舞台にした詐欺事件が起こるのですが、JFKの父いかさまジョーもインサイダー取引をやりまくって巨万の富を築きます。


 やがてFDRの後援者となったいかさまジョーはルーズヴェルト大統領から初代SEC長官に任命されます。大恐慌のキッカケとなった暴落を招いた株式の取引ルールを決めるのいかさまジョーに任せたのは、ルーズベルトが「泥棒は泥棒に捕まえさせる」という手法だったと書いているんですが、そこまで書くなら、さらに、FDRの母系自体が中国のアヘン取引で財を成したというのも書いて欲しかったかな、と。


5)19世紀のグルーバル化でファンドが登場


 株式市場にはマネーマニアの株主が大量に参加し始めますが、さらにマネーそのものを目的としたファンドが登場します。


 ファンドが注目するEBITDAは控除前で計算した利益・税金・減価償却費、焼却費。各国発生主義会計の複雑怪奇なルールで計算された利益ではありません。しかし、限りなく稼いだキャッシュに近い利益となり、それはM&Aの指標となります。そして、これがB/S、PLに続く三つ目のキャッシュフロー計算書を生んだ、と(p.262-)。


 マルクスの想像した資本主義の自滅は、テイラーの労務管理による生産性向上だと思うんですけど、会計学でも減価償却費の配賦計算のアイデアを出していたとはしりませんでした…。テイラーはその後、労働者の「組織的怠業とその解決」に関心を向け、大量が生産可能にしました(p.293-)。そして、資本主義社会が労働者の「組織的怠業とその解決」を進める中、ソ連などは組織的怠業の問題に悩む、と…。


 なかなか面白かったのですが、最初は少しガッカリしていたんです。というのも『会計の世界史』はヴェロッキオの『トビアスと天使』から始めていたからです。英語の作品名ではTobiasと表記されるから、そっちを優先したんだろうけど日本語旧約の表記はトビア。こんなとこにも日本人の聖書の米英流理解が伺われたるな…とか。


 《「トビアスと天使」は旧約聖書外典「トビト書」のストーリーをもとにした》と本文に書いてあるので、実際には読んでないんだな、と(p.24)。著者か校正が読んでたら「トビアと天使」にするハズですから。もしかして、新しい聖書協会共同訳ではドビアスにしてんのかなと思いますが、まさかな、と。日本語聖書はそれほど読む必要は感じないけど買うかなとも思いました。


 あと、ダイムラー・ベンツの最優秀のエンジンを搭載し、数の上でも優っていたドイツ空軍がイギリスに敗れたのはレーダーの活用だというのですが、これって日本の旧軍と似ている…とも感じました。ミッドウェーの時も試作品でも持っていけば良かったのに、米軍を侮って艤装しなかったからな…物理的な性能に酔う傾向?と(p.233)。

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March 21, 2019

『軍事の日本史』

『軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のリアル』本郷和人、朝日新書
 遠征に備えて花粉症の季節でも肩の凝らない本を、ということで、新書を量産している本郷先生の『軍事の日本史』をチョイス。
 相変わらず、東大史料編纂所で『大日本史料』を編纂している史学保守本流の大教授とは思えない軽妙な書き出し。
 史料編纂所で講義、ゼミを持たなくていいという特権を確保しているから、執筆、テレビ出演などもこなせるんだな、と思うと同時に、本郷さんへの嫉妬をたぎらす先生方の気持ちもわかるw
 戦国時代は生き残ればしめたもので、信玄のように一生かけて信濃一国を奪えば後世に名を残す。しかし、信長は尾張をまとめるのに時間はかかったが、34歳までに美濃、北伊勢という列島の中でも生産性の高い土地を領地に組み込んだ。信玄の60万石に対し合わせて150万石というあたりは説得力があります(p.79-)。
 武田信玄がやったことといえば、北信濃の領有を巡って謙信と戦ってなんとか確保した、という感じですから。しかも、生産性はあまり高くないという。
 戦国時代の兵力は百石で2.5人が養えるから、40万石でざっくり1万人。しかし、それは農閑期の農民も動員してのことだから、幕末のように兵農分離が進んで250年もたつと薩摩でも4000人程度になるという数字のリアリティは説得力があります。
 東大史学で佐藤進一、石井進の系譜を継ぎ五味文彦先生に師事した本郷和人さんですから、観応の擾乱から「将軍権力の二元論」(軍事と政治の二つから成り立っているが軍事の方が優先される)についてページを割いてキッチリ説明しているのは、最近の若手研究者たちからの批判への苛立ちか?と微笑ましくなります(p.107-)。
 さらに呉座『応仁の乱』について《地味な戦いが、何の目的もなくただダラダラ続いた》と要約。《戦国時代の戦いに比べて、室町時代の戦いは、一言で言って「ぬるかった」》と亀田『観応の擾乱』に続いて、中世史のベストセラーをdisり気味に紹介してから持論展開。なんとも面白い(p.139-)。
 確かに本郷先生は毎月のように新書を出していて、さすがに書きすぎなんじゃないかとは思いますが、例えば、曳馬という地名を不吉として浜松に名を変えた家康は、湿地帯で「汚れた土」という意味の「江戸」は変えなかった。それは厭離「穢土」の旗印に通じるから(p.243)というあたりはうなりました。家康は利根川を付け替えて銚子に流すようにして広大な水田地帯を作ったんですけど、そこには経済合理性とは別の精神性もあったんだな、と。
 とにかく呉座、亀田という若手研究者の著作をdisり気味に紹介して佐藤進一、石井進の本流への批判を再批判しているんですが、あとがきではさらに網野善彦先生の『無縁・公界・楽』を実は「あ、これは『強い人』の歴史観だ!」と網野財閥出身の善彦先生が一番嫌うような批判の仕方で切って捨てています。
 東大史学への批判は許さじということでしょうか。
 そんな下世話なことも含めて実に面白い本であることは間違いありません。

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March 08, 2019

「うえ村」の白子コース

Uemura_1

「うえ村」 神奈川県横浜市神奈川区上反町1-10-14 045-311-8814

ご主人は六本木の『味満ん』で修業し、26歳の若さで1994年11月に店をオープンさせました。

『味満ん』は勤めていた会社が六本木だったので何回か行ったことがあるのですが、居酒屋かな、と思うような店内なのに、フルコースなら二人で10枚ぐらい飛ぶという印象的な店でした。

この「うえ村」も高級感を出していない店内の雰囲気が似ています。

コースも似たような感じで、当たり前ですが、せっかくなら白子が食べたいので20000円のふぐ白子コースに。

前菜・煮物・お刺身・白子焼き・唐揚げ・サラダ・ちりしゃぶ・白子雑炊・新香・デザートが出てきます。

当日のふぐは長崎のふぐでした。

黄金色が美しい「ふぐの煮こごり」、「大根煮助子あん」に続いてでてきたのが、ふぐ刺し。驚きの厚引きは軟らかいからこそ。お皿の中央には腹回りの皮と皮の内側の身(とうとうみ)をボイルしたものが山に。カボスを効かした自家製ポン酢、葱、もみじおろしに葱を巻いていただきます。

Uemura_2

そして、メインの「ふぐ白子」。焦げ目までもが美しい。

スッポンもふぐも実は「から揚げ」が大好きなんですが、旨みがギュッと詰まってます。

あとはふぐちり、白子入りふぐ雑炊で〆てデザートの青い桃の実のシャーベットも上品。

ひれ酒は黒(背びれ)と白(尾びれ)の両方をいただきましたが、白が絶品。

お酒も入れると二人で諭吉5枚が必要でしたが、それでも『味満ん』『福治』の半値以下…。

星持ちになって予約が取れず、ようやく行った甲斐がありました。

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March 02, 2019

『記憶の肖像』

Kioku_nakai

『記憶の肖像』中井久夫、みすず書房

 中井久夫さんのエッセイ集で唯一、未読だった『記憶の肖像』を読み終えました。これで中井さんのエッセイは全て読了。これまで、何回か読もうと思ったけど、最初のエッセイ集ということで、まだ、文章が硬い感じがして、敬して遠ざけていたんですが、やはり面白かった。

 白眉は「意地の場について」の考察でしょうか(p.251-)。

 《精神科医が「意地」に出会うのは、なぜか、私の場合、遺産分配に関係していることが多かった》というかき出しから、遺産配分は遺体解剖の雰囲気に似ていて、それは故人の遺体を共食するという儀礼が多くの民族にあり、葬式の際の食事はその名残りだ、というあたりから引きつけられました(喪失感、別離感の処理作業として共食は発生したのではないか、とのこと)。

 日本の場合に多い父の遺産配分はカイン・アベル的葛藤の場であり、パラノイア、強迫症、抑うつというエディプス期以前の力動態勢が前面に引き出されやすくなる、と(エディプス期を成功裡に突破した人は病理を露呈する確率は低いとも)。それは損得という、正義や善悪にもとづく議論より、成熟したものだから。

 さらに、夫の妻など《分配に対する発言権はないが、分配を受ける者に対する発言権を持っている配偶者》など陰の人間関係もつきまとうことで事態は混沌としていきます。

 《フロイトは、貰う資格がないのに巨額の遺産が舞い込む幻想をユダヤ人にはあると指摘して》いるそうですが、《宝くじなどを買う心理には、それに通じるものがあるだろう》というあたりはうなりました。

 普段、自分はお人よしで強く自己主張ができないと思っているような夫が妻から「誰それさんにしてやられないようにね」などとハッパをかけられると、意地を発動しやすくなる、そうですが、まるで目に浮かびます。こうした《人を操作したい人が。遺産分配だけでなく、多くの、例えば損害賠償の場にいて、事態を途方もなく紛糾させ》る、と。

 江戸時代に『忠臣蔵』や『佐倉惣五郎』は、意地を浄化(カタルシス)したいという民衆の願望に支えられて繰り返し上演されたのだろう、と。

 遺産分配の場で「もう損得ではない、意地だ」と言い出されたら、賢明な仲裁者は手を引くだろうし、精神衛生を考えたら、多少損をしても、これ以上は骨折り損だと考えて早々に場を去る人間がもっとも賢明だ、というも納得。

 逆に高額を得た人間は小さな会社を設立してすぐ破産したりするのは、罪悪感を拙劣に消費することで精神的安定を得ようとするからではないか、というあたりも納得的。後は大きな庭石を買う人もいるそうで、なんとなく気持ちは分かります。

 落語「三方一両損」の話しは、大岡越前が紛争に介入することによって心理的水準では当事者になったことで、わざと一両を損することによって帳尻をあわせるという高度な心理的理解がある、というあたりの議論にもうなりました。

 ぼく自身の体験からしても《一年を越えたら紛糾にメドがなくなり》弁護士費用の方が多くなる、というのは遺産分配だけでなく当てはまると感じます。

 また、調停者は「時の氏神」という言葉のようにタイミングが大切だとか、意地には「甘え」の否認を誇示している面があるというのも納得的。「無言電話」などの嫌がらせは、天罰が信じられなくなった現代において、「あなたに恨みを持っている人間がいる」というのをわからせるためとか、精神科医には患者が「離婚したい」と言ってきたら「それは精神科医の問題ではない」と突っぱねるという申し送りがあるとか、意地は江戸時代の話しが多いのは絶対の強者がいない状況では颯爽とした自己主張ができなかったので、屈折した美学として共感されたのだろうとか、というあたりも。

 そして最後は、日本が外交下手なのは意地の文化があり、日露戦争でたまたま成功してしまったという体験があるのもよくない
というあたりの話しになっていきます。日本の意地は片意地であり《太平洋戦争などは、片意地で始まったもの》というのも納得的。

 さらに「治療にみる意地」が続きます(p.268-)。

 《われわれにおける意地は西欧における自我というのに近い》という佐藤忠男さんの言葉を紹介し、どこか江戸の風が吹くような感じのする意地は、「こだわり」というプラスの意味を持つようにもなった、と。
 
 また、意地というのは元来、茨の道を行く自分を励ますなど窮地を正面突破するための心理的技術で、そのために視野狭窄も起こるのだろう、と。

何回も苦痛を訴えて同じ手術を受けるような人は、漢方医学で壊病(えびょう)と呼ばれる、治療をあれこれ加えた結果、何が何だかんだ分からなくなってしまった病気。始まりの病理さえ見当もつかなくなり、精神科で(境界例」と診断されてしまう可能性も(p.274)。

 このほか、「私の入院」で《人間には自由を奪われると子供に近づくということがある》という話しの中で、日本社会の合意は《箇々の条文をはっきり挙げてではなく、まったく包括的なものだ。していいこととしていけないことの一線は微妙だ。その上、建て前としての規定と絶対許されぬこととがある》として、子供はそこがわからない、というあたりも面白かった(p.208)。

 《医者(あるいはナース)とは、患者に愛をむけるのではなく、愛の対象となることに耐える存在である》。患者は《「愛」を是認し受容してほしいのである。「愛」といえばわかりにくいだろうが、「甘え」》《是認し受けとめたという微かなサインをもらうだけで十分》というあたりは、ファン心理を見事に説明してもらった感じ(p.209)。

 ロシア人のプーシキンに対する畏敬はほとんど神に近いというあたりを読んで、そういえば、プーシキンの娘が『アンナ・カレーニナ』だったな、と思い出しました。プーシキンの妻、ナターリアはロシアでも歴史に残る美人。そうした妻を持ったことも伝説を生んだ要因なのかも、とか。

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