November 11, 2018

『アリアドネからの糸』

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『アリアドネからの糸』中井久夫、みすず書房

 97刊の第3エッセイ集。この時期もまだ、感想を備忘録的にまとめてはいない時期だったのですが、有名になった「いじめの政治学」はあまり印象に残りませんでした。

 これは中井先生自らが学童疎開でいじめられ、60歳を過ぎてからもトラウマに悩まされるというような体験を持っていないのと、今の時代のいじめはぼくたちが子どもの頃にあったようないじめとは質が違っていると感じたからなのかな、と。

 「いじめの政治学」によると、いじめには三段階があるとしています。それは孤立化、無力化、無価値化。

 まず加害者は被害者の身体、癖などの些細な差異を指摘して周囲から「孤立化」させる、と。次に被害者は暴力をふるい、抵抗しても無駄であると思い知らせる「無力化」の段階。この結果、被害者は「無価値化」され、自殺に至ってしまうまで追い詰められる、と。

 見事な分析だとは思いますが、そこまで図式化できるのかなと思うのと同時に、今の時代に仄聞するいじめについては、二次性徴の早まりが前思春期で育まれるべき純粋な友情関係を構築する時間を短くしているあたりが(『「昭和」を送る』p.156)、ぼくが子どもの頃のイジメと質が違ってくるのかな、と感じますがどうなんでしょうか。子ども時代の短さ、あるいは無さが深刻さを生んでたりして、と。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)はこのあたりから人口に膾炙してきたのかな。ヴァレリーの詩『若きパルク』への黄金比を用いた建築的考察も印象に残ります。

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November 10, 2018

『家族の深淵』

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『家族の深淵』中井久夫、みすず書房

 95年発刊の二冊目のエッセイ集。残念ながら、まとまった感想は残していない時期だったのですが、断片を寄せ集めてみました。当時はまだ、読んだ本の重要な箇所は開きさえすれば、すぐに引けると思っていた時期でした。

 《韓国と日本では知識人の基準が少し違う-中略-韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校でニヵ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である》(p.29)。

 1968年前後の世界的な学園紛争については、ベビーブーマーたちの就職問題がからんでいたということは、文化大革命の場合でも言えるということが通説になりつつあると思いますが、中井さんは「父の不在」しかも、二世代にわたる不在を指摘します。それは戦後の混乱の中で生活に追われて子育てをせざるを得なくなり、古い父の像を捨て去ったものの、新しい父を確立できなかった時代の子どもたちであり、さらに彼らが強く共感したのはカミュ、バルトなど第一次世界大戦の不遇な戦死者の子だった、と(p.73)。

 個人的な話しですが、どうみても回復しようがないほど親戚の間の関係がこじれていても、どうにか回復させたいという知り合いなどをみると、日本人が一所懸命で頑張れば報われるという歴史的自己救済を信じているからで、米国人などは故郷を捨て移動してきた地理的自己救済派だから、そんなことは考えないんだろうなという議論を思い出しました(p.128)。

 中井先生は治療に絵画を使うのですが、その理由のひとつは《患者にとって有害になりそうな場合には、自然に描けなくなるなるような工夫が比較的容易だからである。逆にいうと、言語的精神療法には、この自然的な歯止めが乏しいという欠点が現れる可能性がある-中略-語ることは一般によいことではなくて、ある条件下にのみよいことなのである》というところでは、言語の怖さに想いをいたしました(p.137)。

 中井先生は最後に神戸大学の精神病棟の設計に携わるのですが、そこで描かれたパース図が手慣れた感じなのには驚きました。もちろん才能もおありなんでしょうが、手慣れた感じを受けるのは、患者さんたちと一緒に絵を描くことからきているというのは後に知ることになります(病院関係者にみせるための口絵。ちなみに「先生も一緒に絵を描くのは初めてみた」という感想をもらす患者さんが多かったようです)。

 《執筆依頼が来ると、私はまず。折口信夫が弟子にかねがね〈心躍りのしない文章は書くものじゃないよ〉と言っていたことを思い出す-中略-自分の領域で、しかも今までにない新しい切り口をみせることができるものが私にはいちばんいい。20パーセントぐらいは冒険的要素があっても、つまり未知の領域に乗り出す冒険があってもいい》というのは、売文をしていた時には、時々、思い出していました(p.348)。

 日経の「私の履歴書」で利根川進先生が、恩師である渡辺格先生に米国留学の手はずを整えてもらったみたいな回があったのですが中井久夫さんも「分子生物学者を輩出させた渡辺格」と書いていたことも思い出します。《天才とは、個体の才能発露ではなくて、小集団現象ですよ》という言葉も。

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November 08, 2018

清元栄寿太夫の十六夜清心

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 今月の歌舞伎座には、ぼくが全ての演劇の中で最も好きな『花街模様薊色縫 十六夜清心 さともようあざみのいろぬい いざよいせいしん』がかけられています。

 初演は安政の大獄が猖獗を極めていた安政六年。トルストイの『にせ利札』に先立つこと40年あまり前に、めくるめく悪の自己増殖運動をあますところなく描いています。

 女犯の罪で寺心中しますが、二人とも死にきれず、別々に助かります。しかも死にきれない清心は、ふとしたはずみで殺人まで犯してしまう。さすがに腹を切って死のうとしますが「しかし待てよ…今日十六夜が身を投げたも、またこの若衆の金を取り、殺したことを知ったのはお月様と俺ばかり。人間僅か五十年。首尾よく言って十年か二十年がせきの山。襤褸を纏う身の上でも、金さえあれば出来る楽しみ。同じことならあのように、騒いで暮らすが人の徳。一人殺すも千人殺すも取られる首はたった一つ。とても悪事をし出したからは、これから夜盗家尻切。人の物は我が物と、栄耀栄華をするのが徳。こいつあめったに死なれぬわい」心変わりする場面の素晴らしさ。

 こんな作品が大劇場で上演されて受けていた江戸時代の文化度の高さを感じるとともに、所詮、悪事などはバレなけばOKで、良心などはハナッから信じない日本人のホンネを見事に描いていると思います。

 序幕で演奏される「梅柳中宵月」(うめやなぎなかもよいづき)も清元の傑作。なにせ文句が素晴らしい。

♫朧夜に星の影さへ二つ三つ、四つか五つか鐘の音ももしや我身の追手かと、胸に時うつ思ひにて、廓を抜し十六夜が
落て行衛も白魚の、船の篝に網よりも、人目厭ふてあと先に、心置く霜川端を、風に追れて来りける
嬉や今の人声は、追手ではなかつたさうな、廓を抜てやう/\と、爰まで来たことは来たれども、行先知ぬ夜の道、何処をあてどに行うぞいの
暫し佇む上手より梅見帰りの船の唄
負んぶ忍ぶなら/\闇の夜は置しやんせ月の雲に障りなく辛気待宵十六夜のうちの首尾はエヽよいとの/\
聞く辻占にいそ/\と、雲脚早き雨空も、思ひがけなく吹晴て、見かはす月の顔と顔♫

 これを謳うのが清元延寿太夫の二男の歌舞伎俳優、尾上右近というより、二刀流で襲名した七代目栄寿太夫。今回は栄寿太のお披露目興行でもあるんです。なにせ、右近=栄寿太夫の祖父は清心を演じる菊五郎…と勘違いしていたのですが、右近は菊五郎の孫ではなく、六代目菊五郎の曽孫、鶴田浩二の孫でした。

 そうした縁のある爺様が、孕ませた女郎との心中に失敗し、ついでに辻斬りまでしてしまうが知ってるのはお月さんだけ、と居直る話しの心根をうたうのが孫の右近=栄寿太夫という図式。遠縁の乱業を切々と歌う舞台を、父親の延寿太夫が後見するという素晴らしさ。

 女郎を孕ませて心中したけど死に切れず、上がった岡で人を殺してバレなきゃこのままという狂言を遠縁の一家が総出で謳いまくるという日本文化の幅広さの極北のような舞台でした。

 延寿太夫は元々大好きだったし、栄寿太夫も高音が延びてました!延栄太夫もソロパートでうたわず、栄寿太夫を支えていた感じ。いつものイキ顔でうたうすがたも見たかったけど、ま、仕方ありません。いやー、良い十六夜清心でした。あとは玉孝の一世一代で見たいかな十六夜清心は。

 昼の部の一幕は『お江戸のみやげ』。贔屓にポーンと花を入れ、小袖を御礼として貰うという、実に芝居好きの琴線に触れる川口松太郎の心温まる本。そんな良い芝居を観て、安田靫彦や堅山南風、東山魁夷の絵を見ながらお弁当を使える歌舞伎座は、やっぱり良いところだな、と。

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October 25, 2018

『文選 詩篇 三』

『文選 詩篇 三』岩波文庫、川合康三ほか訳注

 膨大な文選ですが、その詩篇だけを集めても六巻になります。2ヵ月に1回の刊行ペースに合わせ、日々の読書の合間の旅行先などに持ち出して楽しんでいるのですが、まったく漢字を読める特権を享受しています。

 三国志の時代から八王の乱など中華が大いに乱れた時代の作品が集められていますが、実は、この時期に「中華」の範囲が、特に経済活動を中心に南方に広がっていきます。それは「呉」出身の官僚たちの詩の多さにも、それは現れていると思います。

 そして詩をつくる中心だった官僚たち、あるいは曹植など皇帝の親族でさえも激動の時代に翻弄され、彷徨い、激しい政争の中で殺されていきます。

 以下、読んでいて記憶に残った作品を紹介していきます。

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 王粲の「贈士孫文始」の12行にある「比徳車補」という言葉。漢籍に明るい昔の経済人は「唇歯輔車」という言葉をよくお互いの連携を良くする意味で使いましたが、ここでは車補。学がないので車補の用法は始めて知りました。

 同じく王粲の詩の一節(p.45)にある「休」は「よろこび」とも読んですが、この「よろこび」のほか「うつくしい、憩う」などの意味もあるんだな、と。

 曹植の詩には泣きました。《曹操、曹丕、曹植の三曹と建安七子は中国文学に最初の黄金期を築いた》(p.74)わけですが、なかでも曹植は当時、最大の詩人と言われていました。八斗の才(天下の八割の才能を占有)と言われ、疎まれた兄曹丕に七歩歩く間に詩を作れと嫌がらせを受けるも、それに見事応えるなど、キレキレの才能をみせつけます。

 贈答ニに収められている曹植のものは、自らを皇帝に押した忠臣たちを励ます詩が続くのですが、多くは曹丕に殺されていきます。なんとも凄い大状況の中で書かれた詩。ギリシャ悲劇的というか。

人生まれて一世に処り
去るは朝露のかわくが若く

人がこの世に生きているのは、朝露がかわくようにはかないもの(p.101)というのは実感でしょう。

離別して永く会うこと無し
手を執るは将た何れの時ぞ

別れてしまえば、永遠に再会はかなわない。手を取り合うのはいつのことか(p.105)というのは、兄曹彰の急死後、共に追い詰められる弟曹彪に贈る詩。

 こうした曹植の『文選』贈答ニの一連の詩を核に、曹丕の詩も交えて、オペラとか書けそうだと思いました。マーラーの時代にドイツ語訳があれば『大地の歌』みたいな傑作を書いていたんじゃないか、とも。

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 司馬彪のこの詩は知り合いの警察官僚を思い出しました。その方はやり切れないことがあると、夜中に起きて木刀の素振りを繰り返したといいます。論語の「逝く者は斯くの如きか」を引用し、「剣を撫して起ち躑ちょくす」と。

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 あと、陸機、こんなに良かったっけ…。宮仕えの憤懣をこんなに優雅に表現しているのは三世紀では、セネカの通俗哲学をはるかに上回るし、マルクス・アウレリウスを三曹は凌駕しているのかも。

 潘尼(はんじ)がその陸機に送った詩。

予渉素秋
予(われ)は素秋(そしゅう)を渉(わた)り
わたしは人生の秋を過ぎ
もいい(p.244)。

 宝塚歌劇団の元星組トップスター北翔海莉さんが好きだと言っていた格言「尺蠖(しゃっかく)の屈(くっ)するは伸(の)びんが為(た)めなり」はは『周易』からとられたものだけど、『文選』に収められた潘尼(はんじ)の詩には、これを元にしたのもあります(p.258)。

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 また、劉琨の詩、なんというカッコいい無常感!

 『文選 四』川合康三 岩波文庫には陶淵明だけでなく、曹操、曹丕、曹植の詩も収録されています。腰巻きで紹介されている曹操の詩ですが、曹操は酒を歌ってもスカッとしているなぁと。

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October 17, 2018

『リスク・オン経済の衝撃』

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『リスク・オン経済の衝撃 日本再生の方程式』松元崇、日本経済新聞出版社

 松元崇さんの本をnoteにまとめておこうと思ったら、これをアップしていないことに気付きました。FBのnoteにはあげていて、複数のに書いておくリスクテイクは大切だな、とw
 
 大蔵官僚出身の元内閣府次官、松元崇著の本ですが、近著である『「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか』(中公文庫)と内容的にダブルところが多いので、簡単に紹介します。

 一番、納得したのが《先進国の中央銀行が新たに行うようになった「最後の買い手」としての業務》を「金融資産管理業務」と名付け、従来の「銀行券発行業務」と共に中央銀行の業務の柱として位置づけたことです。ヘッジ・ファンドなどの暴走によって金融市場の秩序が破壊され、実体経済に悪影響を及ぼすことがないように金融資産を買い入れ、増減をコントロールすることによって安定化を図るのが目的。

 グローバル経済が発達する前は、「銀行券発行業務」を運用することによってインフレを防止することが中央銀行の役割でしたが、発展途上国からの安価な製品の輸入によるデフレ圧力が加わった現在、新たに「金融資産管理業務」が必要になった、と。

 経済が好調さを取り戻し、中央銀行の放出する資産がヘッジ・ファンドに購入されていけば、マーケットに悪い影響を及ぼすことはない、と(出口戦略)。

 日本でもプラザ合意後、投資が期待されたような収益を生まなくなり、やがてバブルも崩壊し、地価と株価の下落スパイラルがとまらなくなりました。日本ではBIS規制も導入されたばかりだったので、銀行の貸し渋り、貸しはがしが行われるようになりましたが、今から振り返れば米FRBのような非伝統的な金融政策を断行すべきであった、と。

 当時恐れられていたのがインフレ懸念。しかし、ヘッジ・ファンドと同じように中央銀行が金融資産を買い入れたからといってインフレにならないことは、戦時中の日本銀行による国債の直接引き受けがハイパー・インフレを引き起こしたという誤った歴史認識によるものだった、と。敗戦直後のハイパー・インフレは米軍の絨毯爆撃によって生産設備が潰滅し、通貨と現物の需給関係が乖離したためで、有名なドイツのハイパー・インフレも戦後5年目にフランスとベルギーがルールを占領したことに対抗してゼネストが行われ、それによって生産がマヒしたためだった。

 実際、ドイツも第一次大戦直後は、激しい戦場がドイツ外だったので戦禍を受けず、物の供給がすぐに回復していた(ヒトラーによる速やかな再軍備が可能になった理由もこれ)。日本でもインフレが起こったのは軍票を大量発行した占領地域だけだった。

 こうして米FRBは日本のバブル崩壊を参考に、「銀行券発行業務」については市場との対話を進めるとともに、非伝統的な「資産管理業務」を新たに組み入れ、実行しました。

 しかし、日本にとって不幸なことに、リーマン・ショックによる日本の損失額は欧米と比べて極めて軽微だったために「金融資産管理業務」を行うタイミングが遅れ、それによって円の独歩高となり、企業の海外移転という最悪の結果を招くことになてしまいました。それは一国のファンダメンタルズに基づかない為替の変動が、ファンダメンタルズに大きな影響を与えることになった時代を象徴しており、42%も対円で下落した韓国ウォンの前に日本の電機メーカーはなすすべを失い、国土の均衡ある発展を目指して整備された地方の工場が閉鎖された、と。

 さらに、リーマンショック前の02~08年(小泉首相時代)は低いながらも日本経済は成長していたが、国内での賃上げは見送られ、消費拡大には結びつかなかった。

 黒田日銀は非伝統的な対策を果敢に打って出ているが、それは日銀DNA。

 第一次大戦期に日本経済は飛躍的に拡大し、貿易は4倍、工業生産高は5倍、GNPは3倍になったが、その反動恐慌に救済融資を実施。設立時にも通貨の制限外発行を認められるなど柔軟な体制だった。

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October 16, 2018

『近代と現代の間』三谷太一郎対談集

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『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版、2018

 物故者2人を含む6人との対談で、古いものも多いが、全く色褪せていないことに驚く。無産政党を含めたオポジションがなくなった時点で昭和陸軍の暴走を止める勢力がなくなってしまったということで、アジアで唯一といっていいほど長い複数政党による政党政治の意義を改めて見直す、みたいな論議が基層をなしているんでしょうか。

 ただし、これまでも、様々な利益は政党によって代表されてきたものもの「公共の利益」だけは代表されてこなかった、と。それはカントの『判断力批判 上』で書かれている《首尾一貫する考え方の格律に達することは最も困難である》(岩波文庫、p,231)ということなんでしょうか。

 敗戦後、日本人が必ずしも十分に考えてこなかった脱植民地帝国化(ディコロナイゼーション)の問題が問われているという視点も大切だな、と。

 韓国で三・一独立運動(1919年)が起きた時、日本の当局者に非常な衝撃を与え、伊藤博文が併合までは反対していたということも改めて議論されたそうです。欧米とは違って、かつての先進国である朝鮮を植民地化するという違いがあった、と(p.18-)。

 その結果、寺内正毅の武断支配が見直され、原敬の文化統治に移り、朝鮮語新聞の東亜日報の発行も認められた、と(p.21)。原敬はサハリンも陸軍直轄から内務省の管轄に変えるなどシビリアンコントロールを追求した、と。三・一独立運動後は日の丸掲揚も強制されなくなり、台湾でも教育勅語による教育方針をうたった文言が削除された、と(p.23)。

 衆議院議員で初めて首相になったのも原敬(p.35)。

 明治十年代に自由民権運動というオポジションが出来たということは、日本の複数政党制成立の前提となった(p.39)が、満州事変(1931年)前後で空気が変わり、新聞の熱狂が始まり、大政翼賛会につながり、戦争を終結させる反戦論がなくなっていく、と(p.41)。

 張作霖爆殺事件では田中義一を辞任させ、海軍軍縮条約の批准に枢密院が反対すると、枢密院首すげ替えを決意した浜口雄幸を昭和天皇は支持するが、満州事変ではクーデターも起こりかねなかった(p.45)。

 河本、板垣、石原らの満州事変の動機は、権益維持ではなく体制への朝鮮で、反体制のモデルを提示すること(p.61)

 昭和天皇にとって最大のショックは、統帥権干犯となる朝鮮軍の独断越境問題。すでに天皇をもってしても、如何ともし難い状況になっていた、と(p.65)。

 そうした中、無産政党の社会大衆党は第三党になり、2.26事件の将校たちの危機感を煽った、と(p.68)。

 戦前、マルクス主義に接近した部分ほど大政翼賛会に行ってしまったのは、ソ連による一党独裁を無産政党がモデルにしていたから、というあたりは膝を打ちました。

 実は、右派の無産政党を束ねようとしていたのが吉野作造。戦後の片山内閣は首相、西尾以下吉野の影響下にあった人間だった、というのはなるほど、と。同時に、祖母からは「片山内閣ほど嫌いなのはなかった」みたいな話しを何回も聞かされたこともあって、今のリベラルの不人気ぶりも昔からかな、とか…。

 第二次大戦後、太平洋諸島に張り巡らされた沖縄も含む基地網があればソ連の対日侵攻は阻止できるとケナンは考え、日本本土には大規模な軍事力は不要と考えたというあたりも面白かった。同時に日本を輸出経済で再建し、原料は非ドル地域のアジアから調達することで地域の共産化も防止できると考えた、と(p.81-)。

 あと、日露講和成立直前の桂・タフト協定では、アメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮支配を相互に認めあい、その財政的裏付けとして東拓米貨社債が発行されたというのは知りませんでした。しかし満洲支配のため井上準之助らが求めた満鉄米貨社債は米国が認めず、つまり、それは米国は日本の満洲支配を認めなかったことになるが、日本側はその意図を十分に理解できといなかったのかも、と。

 歴史認識問題の日韓共同研究での《韓国の学者は基本的にナショナリズムなのです》《非常に残念なのは、韓国の社会では反日的ではないと生きていけない》《個人レベルでは理解できるとは言うのですが、社会に向かってはそう言えないのです》というあたりも、なるほどな、と。

 そういえば、自衛艦の旭日旗掲揚問題で、寡聞ながら韓国の学者さんの意見というのはあまり読んだことはない。本来ならば、ナショナリズムに酔う人たちに待ったをかける役割が期待されると思うのだけど。コーランを文献学的的に研究ではないイスラム学者と同じで、韓国の歴史学者は勇気がないのかな、と。

 自民党政権は歴史問題は国家間で解決済みという立場なので、日本側が何かサービスするということはないから、韓国内で植民地となってしまった歴史的経緯、なぜ防げなかったのかなどの問題、日本の社会政策が与えた影響などについて議論してもらうしかないんだろうなと暗澹たる気持ちに。

 以下は箇条書きで。

 挑戦使節使は江戸まで来るのは1764年で終わっている(p.12-)
 外債を抑えるということは、経済面でのナショナリズムの現れ(p.15)。

 山県有朋のロシアに対する危機感は対馬占領(1861)が原点になっているが、日清戦争まではロシアの南下政策はそれほど具体的なものではなかった(p.28-)。

 明治天皇が帝国憲法体制をつくるプロセスに関与し、憲法発布で明治維新をひと区切りとして、西郷隆盛の名誉も回復、伊勢神宮などに勅使を派遣し、伊藤博文にだけ勲一等を授けた(p.31)。大名の政治参加を求める公議輿論からスタートした長い明治維新というステート・ビルディングのフロセスの到着点が明治憲法だった(p.33)。
 
 連合国が昭和天皇の責任を追及した場合、髪をおろして仁和寺に入って退位、裕仁(ゆうにん)法皇と名乗る計画もあった(p.57)。
 
 日本占領は米国国務省の中国派のイニシアチブで運営された(p.62)。

《総論、ジェネラル・セオリーの哲学的部分から素人は影響を受けるわけで、それが重要なことだと思うのですけれど、そういうものに対する関心がなくなってきています》《プロフェッショナルのアマチュアに対する影響力は細分化した分野の研究では生じない》なんて言葉も印象に残っています。
【主要目次】
I 日本の近代を考える
1 明治150年―どんな時代だったのか(×御厨貴)
一 3.11まで続いた戦後70年の「富国」路線
二 政治過程における明治天皇/国民国家形成の任務
2 日本の近代をどう捉えるか(×松尾尊兊)
はじめに――なぜ近代史を問題にするか
一 植民地とは何だったか
二 明治憲法とオポジション
三 対外侵略と天皇制
四 可能性としてのデモクラシー

II 政治と経済の間で
1 戦争・戦後と学者(×脇村義太郎)
はじめに
一 石油と戦争
二 人との出会い
三 財閥解体
四 石橋内閣のこと
2 財政金融・政治・学問(×神田眞人)
一 国際金融と世界秩序、そして内政
二 権力と知識人――時代との向き合い方
三 学問と現実との相克

III 吉野作造と現代
1 吉野作造の学問的生涯(×岡義武)
一 吉野における啓蒙の意味
二 吉野の講義
三 吉野の研究指導
四 教官食堂の吉野
五 晩年の吉野
六 人間と学問
2 戦後民主主義は終わらない――吉野作造の遺産を引き継ぐために(×樋口陽一)
一 吉野作造についての思い出と「憲政の本義」
二 ポツダム宣言にみる「民主主義的傾向の復活・強化」
三 憲法へのコンセンサスと緊急事態条項
四 日本政治の不安定要因

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October 13, 2018

『磁力と重力の発見 1~3』 山本義隆

『磁力と重力の発見 〈1〉 古代・中世』『磁力と重力の発見 〈2〉 ルネサンス』『磁力と重力の発見 〈3〉 近代の始まり』山本義隆、みすず書房

 noteで読書記録をまとめているんですが、山本義隆さんの科学史三部作のうち、後半の『一六世紀文化革命』と『世界の見方の転換』については、こちらで書いていたのですが、残念ながら、『磁力と重力の発見』が刊行された03年当時は、まだ読書の記録は分散してつけていました。PCのログを検索したのですが、部分ごとにしか見つけることができませんでした。

 以下は、一巻をある程度読んだ後に書いたものです。

 《この著者をみなさんご存知でしょうか?知っている人は動揺するでしょう、知らない人は興味もないかもしれません。東大全共闘(死語)の委員長をやっていた人です。当時、博士課程に在籍していた山本義隆さんは、本来なら世界の物理学をリードするような人だったともいわれています。
 安田講堂の攻防戦を最後に闘争は下火となり、69年の1回だけの入試中止しか「成果」はありませんでした。山本さんは指名手配され、逮捕、拘留を経て中退。なんと駿台の先生となりました。ぼくは文系でしたが、一度、講義を受けに教室にもぐりこんだことがあります。ミーハーっすね。でも、敬愛するヘーゲル研究者の長谷川宏さんといい、全共闘組で大学からおん出た人たちは、塾やったり予備校の先生になってたんですよね。
 その山本さんが近代物理学成立のキーとなった重力の発見について、磁力の認識から説き起こしているのが、この本です。キーワードは「遠隔力」。唯一、実感でるき磁力から、誰も実感することができなかった重力までの観念のジャンプを全3巻で説き起こすそうです。とりあえず1巻買ってきました。
 なぜ西洋にだけ近代科学が発達したのか、という問題を「アリストテレス的な不活発な塊」という認識から、ギルバートによる、多少オカルティックながら「自己運動を有する生命のある霊的存在である地球」という認識が、ケプラーの重力論へと道を開いたというのは、門外漢ながら目うろこでした。
 これなら、アリストテレス哲学の精緻化という方向に進んだアラブ社会で近代科学が構築されなかった、というのがうまく説明できるわな、とこれまた門外漢ながら感じます。にしても、これだけの本を独力でまとめあげた山本さん。20年かかったということだけど、久々に背中をどやしつけられたような気がしました》。

 そして、山本さんには、今も背中をどやしつけられている気がします。

 個人的に3巻にわたる本書のキーパースンはギルバートだったと思います。

 近代物理学はケプラーやフックの業績を引き継いだニュートンによる万有引力の法則ですが、ティコ・ブラーエの精緻な惑星の位置観測の記録から火星の公転軌道が楕円であることを導いたケプラーは、磁力に公転運動の理由を求めます。

 古代ギリシャでは力が生じるのは「近接」だとされていて、遠隔力である「磁力」は魔術師たちに親しまれていました。ギルバートの地球が巨大な磁石であるという発見は、職人による磁針の北が水平より下を向くという「伏角」の発見とその測定によるものでした。そして、地球が不活性で賤しい物質ではなく、能動的な活性原理を持つ物質であることを示した衝撃だったと思います。

 実際、1巻は古代ギリシャから中世キリスト教世界までの磁石に関しての記述に多くを割いています。1巻ではフリードリヒ2世を近代的な科学者である位置づけるあたりも驚きました。

 2巻では、大航海時代に羅針盤の「北」が北極星から地球上の点へと変化し、偏角の発見に続いく羅針儀製造職人ノーマンによる伏角の発見によって、地球認識の転換、地球が磁石であるという認識への道が切り開かれた、と。さらにデッラ・ポルタによる「力の作用圏」という概念により、力が数学的関数で表される端緒が開かれた、と。2巻では教会法で有名なニコラウス・クザーヌスを磁力を定量的に測定しようとしたと評価しされていたのにも驚きました。

 そして、3巻は最初の方で述べたように、ギルバート、ケプラー、ボイル、フックがニュートンの万有引力の法則を準備する過程が描かれます。そして電磁気学の味も素気もないクーロンの法則も見つけるには大変な努力がいった、と。

 すでに本書は大学においても科学史の教科書として使われているそうで、山本さんの歩みを仄聞する身としては時代の流れを感じます。

 中山茂先生の科学史『一科学史家の自伝』作品社によると、《日本で西洋の科学史家として知られたのは、圧倒的にマルキストであった。中略 正統派は大学のスコラの伝統の上にガリレオ、ニュートンも位置づけるのに対し、マルキストは職人の伝統の貢献を強調》するという指摘にはハッとしました(p.136-)。これって山本義隆さんの史学そのものだな、と。

 3巻ではイギリス人が大活躍するのですが、ヘーゲルの『哲学史講義 中』長谷川宏訳で《イギリス人は実験物理学や実験化学を哲学と名づけていて、そうした研究にたずさわり、化学や機械装置の理論的知識をもっている人が哲学者です》(p.29)という一節も思い出しました。

第1章 磁気学の始まり―古代ギリシャ
第2章 ヘレニズムの時代
第3章 ローマ帝国の時代
第4章 中世キリスト教世界
第5章 中世社会の転換と磁石の指向性の発見
第6章 トマス・アクィナスの磁力理解
第7章 ロジャー・ベーコンと磁力の伝播
第8章 ペトロス・ペレグリヌスと『磁気書簡』

第9章 ニコラウス・クザーヌスと磁力の量化
第10章 古代の発見と前期ルネサンスの魔術
第11章 大航海時代と偏角の発見
第12章 ロバート・ノーマンと『新しい引力』
第13章 鉱業の発展と磁力の特異性
第14章 パラケルススと磁気治療
第15章 後期ルネサンスの魔術思想とその変貌
第16章 デッラ・ポルタの磁力研究

第17章 ウィリアム・ギルバートの『磁石論』
第18章 磁気哲学とヨハネス・ケプラー
第19章 一七世紀機械論哲学と力
第20章 ロバート・ボイルとイギリスにおける機械論の変質
第21章 磁力と重力―フックとニュートン
第22章 エピローグ―磁力法則の測定と確定

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September 24, 2018

『ファーストエンペラーの時代 秦漢帝国』

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『ファーストエンペラーの時代 秦漢帝国』鶴間和幸、講談社

 普段はTwitterで読んでいる本の気に入ったところをつぶやき、読み終わったらFacebookでまとめ、それをブログにあげていたが、noteにも書けばと言われて、見直してみると、まとめてなかった本があった。それが「中国の歴史」シリーズの3巻『ファーストエンペラーの時代 秦漢帝国』。

 中国でも竹簡が近年、いっぱい発掘されて、史記の記述だけしかなかった漢以前の世情が行政面だけにせよ見直されているという。中国史の多様さに圧倒される。

 漢字文化圏の東アジアでは中国の律法を国家の基本法として受け入れ、官僚は法に基づいて行政を行い、社会は法によって秩序を維持する。日本が受け入れたのは唐の律法だが、淵源は秦漢の律法。秦律は六篇、漢は九章律。基本法である律の中に刑法も行政法も入っていたというのには、人間の思考の根源に迫っている感じがする。

 周王朝以来の太陰暦の話で、金星に次いで明るい木星は、明け方に東方に出て、黄昏に西に入るので観測しやすく、十二年で天を一周するので(実際は11.86年)、12年をスパンとする時間の意識を生んだというのを、本書で初めて知る。今さら自分の無知には驚かないが、こんなことも知らなかったのか、と。

 漢では儒家が重用され、貧困対策で実施されたのは、土地制限を制限する名田政策。東洋的デスポチズムでは、必ず土地公有の公田制に戻ろうとするが、日本も含めて必ず失敗するな、と。失敗するけど精神的平等性が強調されて、儒家は「負けて勝つ」戦略で生き残ったのか(p.252)。

 しかし、儒教の受容はエリート層に留まっているという指摘もあり、「中国の歴史」シリーズの第7巻『中国思想と宗教の奔流』を読むのが楽しみになってきた。

 後漢時代に儒教が国家イデオロギーになった背景には、郷里や家族内の秩序が戦乱や自然災害がもたらす貧困や流民化によって崩壊し、子殺し、売子、奴婢売買、飢餓時の食人などが行われていたため、という指摘もなるほどな、と思うが(p.402)。

 前漢から皇帝を簒奪した王莽は華夷秩序を厳格化しようとして、冊封していた周辺諸民族の支配者を王から候に格下げし、それに反撥した匈奴、高句麗などが離反、一代で滅んだ、と。後漢書東夷伝、魏志倭人伝で倭を遇したのは、この失敗を反省したからなのかな?もちろん、呉と倭が連携されて挟撃されてはかなわないということで魏が倭に「親魏倭王」という最上級の地位を与えたんでしょうが。

 夏殷周三代は女食で、秦は暴虐な政治で、前漢は外戚で、後漢は宦官で国が傾いた。後漢の指摘は曹操が宦官の養子だったことを非難するという意味もあるが、幼帝が続き、皇后の力が強くなると、後宮に自由に出入りできる宦官の発言力が強まった、と(p.407)。

 秦の始皇帝は人質の子から中国の支配者になったが、儒教が国教的になって以降、夷狄からは人質とらなかったのかな…とふと思う。人質取ればあそこまでやらられなかったんじゃ…騎馬民族は末子相続とか、嫡男の母親を外戚が猛威を振るうので殺すとかの奇習は人質を取られないためのだったのかな…。

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September 21, 2018

『三国志の世界』

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『三国志の世界』金文京、講談社

 講談社「中国の歴史シリーズ」の第四巻『三国志の世界』。

 『三国志演義』は中国だけでなく、朝鮮半島、日本でも大人気で、日本に翻訳された初の海外小説だと言われています。しかし、もちろん、それはフィクションであり「史実は三割、七割が創作」と言われているそうです。明代になって書かれた『三国志演義』は正史を元にしてはいますが、同じ明代の朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことに影響を受けているため、最も国力が劣り、最初に滅んだ蜀を中心に描かれることになります。これは、金などの"夷狄"によって南に押し込まれた明代の朱熹が主張した正当性を巡る観念的な議論を反映したものですが、観念的であるということは、それだけ現実を無視して伝播するわけで、日本、朝鮮、ベトナムにも大きな影響を与えました。また、三国志のリアルタイムの時代史も、日本、朝鮮、ベトナムにミニ中華意識を与えることにもなりました。

 陳寿の正史『三国志』に付けた裴松之の註を基にした羅貫中の『三国志演義』は、湖南文山によって元禄期に和訳され、それは完訳され出版された初の外国小説であり、世界でも満州語訳に続くもので、日本人に最も親しまれている小説なりました。また、歌舞伎などに出てくる「白浪五人男」は5人組の盗賊ですが、「白浪」という言葉も『三国志』にも出てくる「黄巾賊」に由来しています(黄巾の賊張角の残党が西河の白波谷こもり白波賊と呼ばれた)。

 ということで東アジアの歴史全体に三国志は大きな影響を与えたのですが、本書の特徴は以下の三点を重視して書かれたことだと思います。

・日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性
・呉の重要性
・中華意識の日本と朝鮮半島への影響

[日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性]

 後漢時代から、大学に学んで儒教的教養を身につけた豪族と官僚が一体となった存在が進み、それが支配層の門閥貴族になっていたことが三国志の時代背景となります。さらに、後代の隋唐時代に門閥貴族制が機能しなくなると、科挙に合格した士大夫が現れますが、そこでも実体は地方勢力でした。しかし、この過程で儒教的な父権的家族制度の普及で外戚勢力は姿を消すそうです(p.33-)。つまり儒教倫理の進展で、母系の重要性が中国では薄れていったわけで、この点が、儒教を表面的にしか受容しなかった朝鮮、日本との違いでしょうか。

 だいたい日本は宦官が存在しなかったし、朝鮮は導入したものの政治的に大きな問題を起こしたことはありません。しかし、外戚はどちらも重要な勢力であり続けました。輸入された儒教の父権的な家族制度は、日本と朝鮮の母権的家族制度を変えるほどの影響力を持たなかった、というのはクリアカットな言い方だな、と(p.38)。

 日本は科挙制度を導入せず、中国の士大夫が文士なのに対し、日本の士は武士です。朝鮮は高麗時代に科挙が同されましたが、両班は世襲的性格が強く、中国の六朝以前の門閥貴族に近いとのこと。つまり、日本も朝鮮も中国の政治制度を導入したが皮相的レベルだった、と(p.39)。

 しかし、中国でも母系の基層は残っていたかもしれません。例えば曹操の娘、何晏(かあん)は金郷公主と結婚したのですが、その母は何晏自身の母。つまり同母兄妹。儒教倫理が伝来する以前の朝鮮半島の王族や日本の天皇家では、近親婚がむしろ原則で、儒教というベールをとってしまえば、中国と朝鮮、日本には多くの共通性があるのかもしれない、と(p.223)。

 ちなみに曹操は三国志の中で最も魅力的な人物だと思います。

 曹操の墓と遺骨が2009年に見つかった件について、つい最近、河南省文物考古研究院が墓の建築構造などから遺骨はほぼ間違えなく曹操であると発表したそうですが、本人の曹操は宦官の養子の息子です。

 後漢の権力は宦官、外戚、豪族知識人が対立しましたが、曹操は漢王朝最後の皇帝となる献帝に娘を嫁がせて外戚となり、才能本位の人材登用で知識人も味方につけ、三つの相反する勢力全てを手に入れたたそうで、後漢王朝の簒奪こそ息子の曹丕の時代を待たなければならなかったものの、三国志の勝利者となったのは必然だと本書ではしています(p.46)。

[呉の重要性]

 『三国志演義』では最も軽い扱いの呉ですが、現在の「政治の中心は黄河流域の北部、経済の中心は揚子江流域の南部」という中国の国のかたちをつくったのは呉です。

 呉の孫権は夷州と亶州を探検させ失敗に終わっているのですが、夷州は台湾、亶州は倭国のどこかであった可能性がある、と。魏志倭人伝で魏が倭国に格別の対応をしているのは、万が一にも呉と倭国から挟み撃ちにされたらかなわん、という思惑があったハズという説は読んだことあるのですが、呉の影響は日本にも及んだ可能性はあるんだな、と(p.155)。

 呉の孫権は南方の山越(さんえつ)討伐に悩まされました。魏にいったんは臣従したり、その後の魏との対決では蜀との共同作戦を十全に行えなかったのもこれが原因。呉の軍隊に編入された山越の兵士は15-6万人に登るそうです。山越の同化は唐代までにほぼ完了し、江南地方は穀倉地帯だけでなく、文化的先進地帯になっていった、と(p.194)。

 著者が最初の方で、三国志演義では魏と蜀の対決がフィクショナルに語られるが、真に重要なのは呉だったというのが、ここら辺でやっとわかりました。孫権は南方を開拓し、海を通じて倭国と交流しようとした結果、中華が拡大。五胡十六国時代を経て隋唐の統一まで向かうわけですから。

 ちにみに、当時の「世論」は名士たちのネットワークで決まっていて、劉備も数少ない名士を優遇したが、名士たちは軍人を軽んじ、張飛などとは口も聞かなかったという話しは有名。漢代に官吏を曹と言ったのは曹氏が天下を取る予兆というような予言も出て(現在の日本でも「法曹」に曹の名残りが)、国力を削いだ、というのは知りませんでした(p.211)。

[中華意識の日本と朝鮮半島への影響]

 中華思想は「夜郎自大的に」華夷秩序を強調し、夷狄にけものへんの漢字をあてたりしますが、ブッダへの浮屠というのは強烈だな、と改めて感じました(p.265)。おそらく「日の巫女」を卑弥呼にしたのも、ヤンキー漢字並の知性だと思いますし。

 五斗米道を起こした張魯の母は「鬼道」をよくした、ということですが(p.103)、こうしたところでも卑弥呼といいますかアミニズムの残滓を感じます。辺境の地の益州で「鬼道」などは大目に見られていた、とのこと。

 ちなみに五斗米道の創始者、張魯の子孫は張天師を名乗って、中共成立後は台湾に移り、64代に。孔子の子孫も77代が台湾に移った。中国は革命の国で王朝は長続きしないが、宗教指導者は万世一系だとしています(p.260-)。天皇家も特に今上陛下の光格天皇系は傍流と言うこともあり自覚的に学問に専念している感じですかね。

 中国は東と南に大海が広がり、北と西は砂漠と山脈によって遮られています。中華思想はこうした外部世界から隔絶した地理環境から生まれた、というのが著者の見立て。そうした中、朝鮮とベトナムは比較的簡単に到達できましたが、このうちベトナムからはインド文化の仏教が入ってきたりしますが、東はそれに匹敵する文化はなく儒教が進出した、と。

 中国皇帝は唯一無二の支配者なので外国の君主とは対等の関係はありえなかったので、朝貢を求めることで平和な外交関係を築きます。朝貢は正統な皇帝の証として重要で、向こうからやってこなければ、中国側から働きかけることも辞さなかったそうです(p.319)。

 現代でも、どんな小国の元首であっても、中国の指導者との会見はトップで報道されるそうで、ひとつの中国を巡って中共と台湾の激しい外交戦も、唯一無二の皇帝への朝貢が重視された伝統による、と。朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことは日本、朝鮮、ベトナムにはミニ中華意識を与えることにもなります。朝鮮では清朝に朝貢しつつ夷狄視し、韓国は中共をオランケ(韓国語で夷狄)と呼ぶなど自家撞着的な対応をみせますが、とにかく互いに相手を見下す態度となっていった、と(p.354)。

 卑弥呼に与えられた親魏倭王は外夷の称号としては最高のものです。倭が魏、晋と親密な関係だったのは呉との対立、朝鮮半島情勢から利用されたもので、朝鮮半島の三国時代、日本での畿内政権の成立に発展していきます。これが現代の中国と台湾、南北朝鮮と日本との東アジア情勢にもつながる、と(p.340-)。

 世界で最も長い交流の歴史を持ち、漢字も共有する日本、朝鮮・韓国がEUのような連合化に進まない理由は日中戦争、朝鮮の植民地化などではない《問題の根は、それほど浅くはない。1800年前の三国時代の歴史を、今日的な視点からもう一度見つめ直す必要がある》というのが結語(p.357)。

 ちなみに、篆書、隷書は木簡、竹簡用で、行書、楷書は紙の文字。初期の紙は表面がなめらかではなく物を包むためものだったが、書写に適したなめらかなものがつくられたそうで、紙の普及で手紙も頻繁にやりとりされるようになり、筆跡の認識により手紙の偽造も始まったとのこと(p.310-)。

 紙の発明で書物や手紙が普及したことによる情報革命で、社会全体の構造的変革が起こった、とも考えられるわけです。中国社会では唐宋交代期による印刷術の発明、清末の西洋印刷術の導入によっても知識が普及したが、三国時代は情報革命が政治革命をもたらした初めての時代だった、と(p.314-)。

 このシリーズは本当に面白い。

 出て10年ぐらいたちますが、中国本土でも翻訳されるほどだそうで、こうした本をじっくり読むことができるのは、リタイアできたことの特権かな、と。

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あさ沼の「合い盛りそば」

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「あさ沼」 山形県新庄市大字仁間33 0233-22-5538

 北海道旅行を計画していたのですが地震と停電で中止して、東北で蕎麦なんかを喰ってきました。

 最初に訪問したのは新庄。

 駅から「さぶん」まで歩いて、念願の鴨南蛮をいただいた後、旧新庄城跡の戸澤神社などをめぐり、そのまま半分、ランニングしながら庄司そばまでたどり着いたら臨時休業。

 しかし、「あさ沼」もそんなに遠くないところにあるので、さらに速歩で訪問しました。

 二時前ぐらいに着いたんですが、民家のようなお店は地元の方で賑わっていました。

 さっそく出羽桜の冷やで喉を潤したんですが、おおぶりの片口になみなみと注がれてきて感激。

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 蕎麦には皮の薄い丸茄子の漬物がついてきました。

 ちょっと塩っぱくて、最高の酒のつまみにもなりました。

 お声かかりでもってきてもらった「合い盛りそば」は田舎蕎麦に驚きました。

 こんなのみたことありません。

 蕎麦の香りたっぷりの蕎麦を堪能しました。

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