May 16, 2026

『世界史とつなげて学ぶ中国全史』岡本隆司

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『世界史とつなげて学ぶ中国全史』岡本隆司、東洋経済

 『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』が面白かったので、こちらも読むことに。中国近現代史の専門家である著者が、気候変動とそれにともなう民族大移動の連鎖などを手がかりに、黄河文明から現代中国までの中国史を、王朝の交代劇(点)ではなく、気候や経済という大きな波(線)で捉え直した一冊です。

 本書は口述筆記を書き起こしたもので、勢いと分かりやすさを重視した、としていますので、感想も印象に残ったところをざっくり紹介します。

[境界線から生まれた文明、気候が変えた帝国]

 中国は海岸線が比較的短く、内陸部は乾燥しています。農耕民は繊維を、砂漠やステップに暮らす遊牧民は動物の皮を用いて衣服を作っていましたが、互いに持たないものを交換する必要から交流地帯が形成され、そこから黄河文明が生まれた、という乾燥地帯と湿潤地域の境界から文明は生まれる→持っていないものを交換できる仮説を紹介してくれています。互いに持たないものを交換する境界地帯から黄河文明が生まれたという仮説は刺激的です。

 著者は遊牧民は敬老の精神がなく、父親が死んだ後にその妻(実母を除く継母など)を息子が娶る、あるいは父親の妻の姉妹を娶るといった婚姻慣習は、「レビレート婚(収継婚)」として知られていますが、奥州藤原氏でも父の妻を息子が娶った例があるというのは遊牧系の考え方があったのかな、とか考えてしまいました。日本史の謎が中国史の視点で透けて見える一瞬だったかもしれません。

 ローマと漢の成立、その崩壊は共に気候変動と遊牧民の移動に連動しているというのもスケールの大きな話しで、後漢崩壊後、三国時代を経て五胡十六国をまとめたのは最も野蛮だった鮮卑だが、鮮卑もテュルクにやられた、という流れもこうやって整理してくれたのは初めて読みました。

 隋と唐で初めて中国は外部に影響を与えたというのも初めて知った見方でした。また中国史はこのあたりから南北対立から南北協業の時代に入ったとしています。

 唐と宋の間の大きな社会的変動は唐宋変革と呼ばれます。石炭が使われ始め、江南の湿地帯で排水と干拓が行われたことによって米の収穫量が劇的に増加。人口も増えて経済が活性化して貨幣が流通するようになり、商業を行う小さな都市(鎮とか市)が増えました。

 澶淵(せんえん)の盟は、1004年に北宋と遼の間に結ばれた盟約で、国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を歳幣として送ることなどが決められました。宋はその間の平和を得て、高い経済力を元に繁栄が築かれ、その後、ウィグル人が商人としてモンゴルとの停戦交渉などにもあたるようになった、といいます。

[明代の銀需要が世界を繋ぎ、日本の鎖国を招いた?]

 世界帝国をつくったモンゴルの元も寒冷化によって衰退しました。元は収入を商人への課税に頼っていましたが、寒冷化によって農作物の収量が減り、商業が振るわなくなり、税金もとれなくなった、と。

 この反省から明は貨幣と商業を排除したため、貨幣経済から現物経済に変わって(後退)しまいます。さらに明は北の出身者を科挙で優遇したので江南出身者たちは離反、郷紳も増えていくというのは、清末まで続く流れの源泉はここにあったのか、と思いました。

 しかし、明代も後半になると江南が綿花と生糸の大生産地になり、その取引のために貨幣が必要になりますが、明は貨幣を発行しなかったため、人々は銀を貨幣の代わりに使用し、世界中の銀が中国に流れ込んだ、と。

 日本が江戸期に鎖国したのは金銀を取り尽くした、という面もある、というのも新鮮な指摘でした。江戸幕府は必需品の国内生産を目指しますが、ヨーロッパは植民地経営と機械化を通じて世界展開を図るという違いも分かりやすい。

[現代中国のルーツを構造で読み解く]

 清では東三省への移民が増えたというのももっともな指摘で、清朝末期から南北格差より東西格差が激しくなったそうです。

 清崩壊後の国民党、中国共産党の指導者は全て都市出身者だったが、中共は農村に追い込まれたため、農村を重視する方向に転換したという指摘もハッとしました。

 これも簡単には検証できない話しかもしれませんが、三大宗教は全てアジア発なのは多様性をまとめるためであり、そこから政治と宗教の分離は難しいという話しも興味深かったです。

 日本史は中世があるので西洋史は理解しやすいが中国史などアジア史にはいまひとつ理解しにくい部分があるというのも、日本史ではいかに中世史が特権的な扱いを受けてきたのかという話しにも通じると感じました。

 気候変動や民族移動、貨幣経済といった大きな視点から中国史を眺めることで、王朝交代の背後にある構造が見えてきます。個別の出来事を暗記するだけでは見えない中国史のダイナミズムを、世界史とのつながりの中で理解できる刺激的な一冊でした。

【主な内容】
はじめに
第1章 黄河文明から「中華」の誕生まで
第2章 寒冷化の衝撃―民族大移動と混迷の300年
第3章 隋・唐の興亡―「1つの中国」のモデル
第4章 唐から宋へ―対外共存と経済成長の時代
第5章 モンゴル帝国の興亡―世界史の分岐点
第6章 現代中国の原点としての明朝
第7章 清朝時代の地域分立と官民乖離
第8章 革命の20世紀―国民国家への闘い
 結  現代中国と歴史
あとがき
文献リスト

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『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』國分功一郎

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『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』國分功一郎、新潮新書

 コロナ禍での東大で、試験が終わった後に高校生も交えて行われた特別講話を元に、『暇と退屈の倫理学』を深化させた論考です。

 『暇と退屈の倫理学』の議論がしなやかで素晴らしいと思ったので読んでみました。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。目的は手段を正当化するという側面があるので、自由は目的に抵抗する、みたいなことが結論でしょうか。

[不要不急が奪ったもの]

 議論のたたき台はコロナ禍で行われた自由の制限。イタリア人の哲学者で著者も直接教えを請うたアガンベンは、コロナ禍での制限は人間の本質を損なうと徹底的に批判します。感染対策を目的とした措置は人間の生を単なる生物学的なあり方(剥き出しの生)へと縮減してしまう、と。そうした制限は人間的なものすべてを失わせ、剥き出しの生だけが立ち上がってくるようになってしまう、とまで敷衍します。もし、剥き出しの生だけが残ったら、それを失うことへの恐怖から人間同士も分断されてしまう、と。

 表現、信教、結社、職業選択など様々な自由の権利はあるのですが、移動の自由の制限は、死刑と罰金刑の間にある全て刑罰のグラデーションに関係するほど、重要な意味を持つという問題設定はハッとさせられました。

[移動の自由こそが支配を拒む]

 ここでマルクスの論考が紹介されているので、少し詳しくみていきます。マルクスは『資本論』第1巻、25章で、移動の自由は人間が不当な支配から逃れるための根本条件だということを、イギリス人資本家であるピール氏の逸話をもって説明しています。《ピール氏は嘆いているが、彼は五万ポンドにも上る生活手段と生産手段をイギリスから西オーストラリアのスワン・リバーまでもっていき、さらには用意周到にも、労働者階級の男女、および児童を三○○○人も連れて行ったのに、目的地に到着したときには、「彼のためにベッドを用意し、川から水を汲んできてくれるような召使いの一人もいなかった」。気の毒にもピール氏は、いっさいを周到に準備したにもかかわらず、イギリスの生産関係をスワン・リバーに輸出することまでは念頭になかったのだ》(『資本論』今村仁司ほか訳、筑摩書房、p.578)。不幸なピール氏は、なにもかも用意したが、連れてきた労働者たちは移動の自由を行使して逃げ出して、全てを失ったわけです。

 こんなに重要な移動の自由を簡単に手放してしまうと、やがて行政権力に全ての権利を売り渡してしまうのではないか、という問題提起がひかります。さらに、ナチスの問題は行政機関が立法権をもつことであり、このままいけば、我々も再びそうした例外状態に慣れてしまうリスクが浮上するのではないか、と議論を展開していきます。著者が実はカトリック的な保守的な考え方もあるのではないかと思ったというアガンベンは、死者の権利という概念から埋葬の制限にも従ったカトリック教会も「教会は教会の役割を果たせばいい。にもかかわらず、なぜ教会は科学に侍女として仕えているのか」と批判しているのは面白いと感じました。

[遊びと浪費が人間を取り戻す]

 さらに当時、さかんに言われた「不要不急の外出を控えましょう」という言葉は、社会があらゆるものを「目的」に還元し、目的から逸脱するものを許さない傾向を象徴しているのではないか、と批判します。目的が手段を正当化し、目的だけしかない社会では、過酷で空虚な生活しか残らないのではないか、と。

 そこで浮上してくるのが「遊び」の重要性。目的と手段のシステムから距離を置くために必要なのは、消費に対置される「浪費」であり、余裕としての「遊び」だ、と。贅沢は本質的に目的からの逸脱があります。食事するのは栄養を取るためであり、生を再生産するのが目的ですが、栄養摂取をしていれば、人間は確かに生存できますが、我々が本当に豊かさを感じるのは、目的をはみ出た部分ではないか、と。だから「資本は、現状に対して疑問を抱き、何事かに気づき始めた人間を、これまで通りの消費社会の論理に連れ戻そうとするのです」と著者は語ります。

[民主主義の形骸化]

 後半で語られる目的化される社会像も興味深かったです。著者は、地元の東京小平市で、都道の建設に関する住民投票を求める運動に参加しました。自由に参加するという形式の運動自体も楽しかったということで、その体験も本の内容を裏付けているのですが、さらにはナチスに権力を売り渡したワイマール的な危うさを我々の社会が抱えている、というところにまで話しを発展させていきます。

 この運動は数十年前に東京都が計画した道路整備計画が突如浮上したことに対して、それは必要ないんじゃないかといった住民の訴えがことごとく退けられたという顛末を辿ります。

 日本では、道路整備を含むインフラ計画などの具体的な政策について、行政側の主導が強く、議会は追認機関になりがちだという批判もあります。政治的決定の重心が国政では、法律的な規定のない内閣の閣議決定、地方政治では首長の特別職・参与などのアドバイザーと官僚に移っています。国政でも地方でも議会は存在し、手続きも行われていますが、本当に重要な判断はすでに行政内部で終わっているというのが現状です。

 これは三権分立という看板の裏で、実質的には『行政独走』の状態にあるのではないかと元の議論にもつながってきます。だから、本書の結論は、目的に抗するところにこそ人間の自由がある、というあたりなのでしょう。

 ガンジーの、我々が主張等をするのは「世界によって自分が変えられないようにするため」だという言葉は印象的でした。

 コロナ禍をきっかけに、移動の自由、行政権力、目的化される社会、そして「遊び」の意味まで考えさせる一冊でした。シリーズ哲学講話の二巻である 手段からの解放 も読んでみようと思います。

目次
第1部 哲学の役割―コロナ危機と民主主義(コロナ危機と大学、高校;自己紹介;近くにある日常の課題と遠くにある関心事;自分で問いを立てる;ある哲学者の警鐘 ほか)
第2部 不要不急と民主主義―目的、手段、遊び(前口上;日本では炎上しなかったアガンベンの発言;「不要不急」;必要と目的;贅沢とは何か ほか)

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May 15, 2026

『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』原武史

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『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』原武史、岩波新書

 『昭和天皇拝謁記』は、占領下を吉田茂内閣とともに歩んだ田島道治宮内庁長官と昭和天皇とのやり取りのメモと日記や書簡などをまとめ、岩波書店から刊行された資料集。2021~2023年にかけて刊行されましたが、全7巻という大部で、一般の読者にはとても読み通せない分量です。それを徹底的に読み込み、ダイジェストして紹介してくれたのが本書です。

 口数が少なく、会話もぎこちないといった昭和天皇のイメージは完全に覆され、饒舌で論理的なしゃべり口には驚かされます。秩父宮、高松宮など兄弟皇族との確執、不満も隠さなかったことや、皇太子(現上皇)を「東宮ちゃん」と呼ぶあたりも新鮮でした。

[吉田茂首相との密接な関係と、政党政治不信]

 とりわけ印象的だったのは、著者の「吉田政権は昭和天皇抜きでは考えられない」という見解でしょうか。常に天皇への上奏(報告)を怠らず、「臣茂(しんしげる)」という認識のあった吉田首相と昭和天皇の間にどのような話しがあったのかは、直接の記録はありません。しかし、憲法問題や独立、再軍備について宮内庁長官へ意欲的に語る天皇の姿からは、吉田首相へも強い影響を与えていたことが容易に推察できます。驚くべきは、昭和天皇が戦前・戦後を通じて「政党政治」に強い不信感を抱いていた点です。戦後の保守合同(自由民主党の結党)の際、なんと社会党右派までもが参加する「大連立」のような形を期待していたという事実は、天皇の独特な政治観を物語っています。

[秩父宮との確執と2.26事件の謎を追う鉄道ダイヤ]

 2.26事件の時の秩父宮の振る舞いに関しても興味深い。昭和史家の保坂正康さんが現上皇に「私は秩父宮が青年将校に担がれていたというのは間違いだと思います」と伝えたところ「そうですかぁ」と疑問を呈するような言い方をされたという話しを盛り込んでいますが(p.68-)、原武史さんは『歴史のダイヤグラム』という著書でも、この問題を扱っているようです。

 2.26事件が起きた1936年2月26日、秩父宮は青森県・弘前の歩兵連隊の大隊長でした。これは青年将校から引き離したいという昭和天皇の意向だったようですが、事件後、すぐに秩父宮は青森に出て、午後10時発の常磐線回り上野行きの急行に乗ります。翌日午前10時25分に東京に着くのが最も早く上京できるルートでしたが、最初は奥羽・羽越・信越本線回り大阪行きの急行に乗ろうとしたそうです。途中、水上からは皇国史観を進講したこともある平泉澄東京帝国大学教授が乗り込み、高崎までの約1時間半にわたり密談したそうです。平泉は決起部隊に肩入れしていたという説もあり、原さんは「そもそも、秩父宮が事件直後に上京しようとした真の理由すらわかっていない」とした上で、秩父宮が迂回ルートを通ったのは、平泉に会う必要があったのではないかと推測しているようです。

[「米国へのグチ」と、今なお残る沖縄への視線]

 太平洋戦争に関しては、もう軍部を押さえられないので、米国が満州事変の時にもっと強く出て欲しかったと恨み言を語っているのも興味深かった。この時、米国はスティムソンノートを発するに留めましたが、経済制裁をしてもらいたかったと「勝手なグチ」を述べます(p.65)。鴨緑江でやめておけば良かったというのもホンネでしょう。

 昭和天皇は戦後の米国の対日政策を高く評価していますが、「奄美、沖縄がなくなると徳川以下になる」という感想も持っていたのには改めて驚かされます。

[「象徴」となっても、自己認識は「国家元首」]

 戦後、新たな日本国憲法が制定され、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」とされましたが、昭和天皇は自身の天皇観を根本的に変えておらず、基本的には国家元首であると認識しています。旧憲法改正の必要はなく、旧憲法でも新憲法と同じ精神でやったとしており、その中で第9条には不満で改正と再軍備の必要性を宮内庁長官に説いています。さらには戦前にできなかった「全国巡幸」を通して「全ての国民に慕われる儒教的天子・君主」としての自己認識を深めていきました。

 昭和天皇は神武天皇などの伝説について、史実に反するし歴代天皇の式年祭も史実に基づいたものではないと考えており、国民全体がキリスト教に改宗するなら天皇もキリスト教に改宗してよいと思っていたほど。それほどキリスト教には惹かれつつも十字架や復活が事実ではないのと同じだとみていた、というあたりも興味深かった(p.196-)。

[複雑で、矛盾に満ちた「人間・昭和天皇」]

 ヒステリックで二重人格的なところもある母である皇太后への恐怖感。弟である秩父宮、高松宮との戦中の早期講和や天皇退位を巡る対立と確執と、戦後の三笠宮の不満なども赤裸々。秩父宮の発言が対GHQで問題になった時に御殿場の秩父宮邸と東京を田島が往復するくだりで、当時、国府津~御殿場間の列車がどう運行されたかなどを調べ、国鉄に特別列車を要請したのではないかのあたりは『歴史のダイヤグラム』の著者である鉄道マニアらしさがあらわれています。三笠宮は明治天皇の公孫ではなかった、という昭和天皇のこだわりには驚きました。

 また、生理も含めた一族のリアルな日常の紹介は、日経の記者として宮内記者会に所属し、昭和天皇の病状報道に従事したあたりのジャーナリスト感覚を感じさせてくれます。皇室行事は「血のケガレ」を嫌い、日程に制限が生まれれば、プライベートな情報が公になってしまう面もあるとのこと。

 「朝鮮人学校はつぶした方がいい」という考え方は、1910年の韓国併合は正しかったのであり、満州に進出してからおかしくなったとの認識にもつながるのでしょう。アジア太平洋戦争での反省はあまりなく、全ては「時勢」のせいだと考えていたが南京事件について当時から薄々聞いていたが、後になって詳細を知り、本当にひどいことが行われたので反省して繰り返さないようにしなければ、とも述べています。

 戦後憲法の下で「象徴」とされた昭和天皇が、実際にはどのような自己認識を持ち、どのように政治や歴史を見ていたのか。本書は、その複雑で矛盾に満ちた実像を、膨大な史料を通して鮮やかに描き出しています。

[目 次]

序 章 『昭和天皇拝謁記』とは何か
 あらわになった昭和天皇の肉声
 「拝謁記」が書かれた時期
 『拝謁記』の読みどころ
 本書の構成

第1章 天皇観
 退位もあり得ると考えていた
 退位しないと再び立場を変える
 「おことば」での決意表明
 過剰な警備に対する批判
 巡幸と一般参賀
 天皇の象徴観
 教育勅語はあったほうがよい

第2章 政治・軍事観
 天皇の民主主義観
 政党政治に対する不信感
 保守政党の大同団結を提言
 社会党右派への期待
 議席ゼロになっても安心できない共産党
 後期水戸学のキリスト教認識との類似点
 朝鮮人学校はつぶした方がいい
 再軍備は絶対に必要

第3章 戦前・戦中観
 時勢には逆らえない
 張作霖爆殺事件と満州事変
 二・二六事件の忌まわしい記憶
 日中戦争と太平洋戦争
 米軍は空襲の標的を定めていた
 条約の信義を重んじたから戦争終結が遅れた
 ソ連参戦が戦争を終わらせた

第4章 国土観
 どこまでが日本の範囲か
 北海道に対する認識
 九州に対する認識
 沖縄に対する認識
 内灘や浅間山を米軍に提供すべき

第5章 外国観
 米国の評価すべき点
 米国の批判すべき点
 天皇の英国観
 天皇のソ連観
 天皇の中国観
 天皇の朝鮮半島観

第6章 人物観1――皇太后節子
 意見が違う
 「虫の居所」によって違ったことを言う
 時流におもね、話し上手を好む
 皇太后が見た天皇
 怖くて宮中服の廃止を言えない
 蚕糸業視察はやめてほしい
 大正天皇との仲が悪かった
 皇太后の遺書の謎1――「家宝」とは何か
 皇太后の遺書の謎2――秩父宮への言及と一〇月二二日という日付
 ケガレに厳格

第7章 人物観2――他の皇族や天皇
 皇后をどう見ていたか
 皇太子明仁に対する不安
 秩父宮に対しては同情的
 戦後も終わらない高松宮との対立
 三笠宮は我がままに育った
 正仁親王がキリスト教の信仰をもってもよい
 少ない明治天皇と大正天皇への言及

第8章 人物観3――政治家・学者など
 マッカーサーとの会見
 吉田茂に対する相反する感情
 鳩山一郎と岸信介に対する批判
 近衛文麿よりも東条英機を評価
 南原繁・清水幾太郎・平泉澄への否定的な評価

第9章 神道・宗教観
 皇大神宮のアマテラスによる「神罰」
 「祖宗と万姓に愧ぢる」
 宮中祭祀は宗教でないが宗教性はある
 明治神宮と靖国神社
 キリスト教への改宗の可能性
 「御寺では礼拝はせぬ」

第10章 空間認識
 皇居は移転せず、御文庫をそのまま使う
 皇居前広場を活用すべき
 赤坂御用地と新宿御苑
 那須御用邸・沼津御用邸・葉山御用邸
 軽井沢と箱根
 東京大学・京都大学・結核療養所
 お召列車という空間

終 章 『拝謁記』から浮かび上がる天皇と宮中
 天皇は何を信じていたのか
 イデオロギーとしての「反共」
 関連資料から浮かび上がる一九六〇年代の宮中
 昭和天皇が残した「負の遺産」

 あとがき

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April 20, 2026

『マンガ 清原達郎 わが投資術 2 市場は誰に微笑むか』

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『マンガ 清原達郎 わが投資術 2 市場は誰に微笑むか』清原達郎、講談社

 単行本とは違い、日本経済を振り返りつつの半生記というつくりですので、すでに読んだ方にもお勧め!

 90年代末期、清原さんはファンドマネジャーとして独立してタワー投資顧問として独立するんですが、NOVA、ポッカ、アイサンなどを企業訪問して経営者と会って「こりゃダメだ」というのを実名で書いてるのが凄すぎる!

 新しく入った社員と企業訪問したらクレーマー対応のヤクザっぽい専務が出てくるサカイ引越しセンターとかwほんと大丈夫なんだろうかw

 清原さんは色々、ITバブル崩壊で苦戦した後、REITに注目。信用力のない中小REITのスポンサーが倒産すれば、良いスポンサーがついて業績が上がって株価は高騰する、という見通しで、積水ハウスがスポンサーについたREITで大儲けします。住宅メーカーの積水はこうやって不動産に参入して地面師詐欺にあうんだな、とか思いました。

(流石に自◯案件のあった銀行再編関連では六菱、UBJとボカしていましたが…)

大阪で泊まるのが新阪急ホテルで、シングル8000円がお気に入りというのも個人的に刺さりました。

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『100分de名著ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』『哲学探究』』古田徹也

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『100分de名著ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』『哲学探究』』古田徹也、NHK

 ウィトゲンシュタイン。そのあまりにもカッコ良いアフォリズムに感心することはあっても、何を言いたいのかが分かるまでに何十年もかかりました。

 学生の頃に初めて論考を読んで、読了はしたものの、さっぱり分からず、その後も『反哲学的断章』などを読んでみたし、修士のゼミでも読んだんですが、担当教授が独我論的な読み方で、個人的にはさっぱり分からない状態が続くものの、いろいろ読んでいくうちに、「言語ゲーム」は、語りえぬものの先にあるものだったのだな、とようやく思い至る、みたいな感じでした。

 言語ゲームについては、数列の並びから規則(ルール)を理解できれば、言葉が理解できたことになり、規則(ルール)は、この世界を世界たらしめている、みたいなことが分かった感じはしましたが、語りえぬものの中身については、カギ括弧の中に入っている状態でした。『哲学者廣松渉の告白的回想録』で《『小論理学』『大論理学』『法哲学』などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」(p.125)》という状態が続いていました。

 情けないことに、特に分からなかったのが写像理論とその限界あたりでしたが、今回、初めて納得できました。

 アフォリズムの格好良さに惹かれつつも、その本質を掴めずに数十年。修士のゼミで読み込み、関連書籍を漁ってもどこか霧の中だったのですが、この薄い解説本で初めて「一本の線」が繋がる感覚を覚えました。

[論考]

 簡単に整理すると

1.論理空間と世界の関係
2.命題は事態の模型である
3.模型化できないものは語れない
4.だから倫理や価値は「示される」しかない
5.第七命題の「語り得ないものについては沈黙しなければならない」につながる

 ということになります。『論考』では、基本となる写像あたりが分からなかったのですが、「太陽が西から昇る」模型は作れるが、「西が太陽から昇る」模型は作れない。つまり、論理的にあり得ないことは、ジオラマ(模型)にすらできない。だから語ることもできない。この「写像(コピー)」という潔い割り切りが、かえって難解に響いていたのかもしれませんが、以下、恥も外聞もなく引用だけで説明していきます。

《無限とも言えそうな可能性の空間を、ウィトゲンシュタインは「論理空間」と呼びます。事実となる可能性が高かろうと低かろうと、論理的にありえないわけではない事態の総体──それが、ウィトゲンシュタインの言う論理空間です。》(k.251、kはkindle番号)

《論理空間に含まれる事態のうち、成立している事態──つまり、事実──によって構成されているのが「世界」です。このように整理していくと、「論理空間のなかにある事実が世界である」(1・13)の意味がわかってきますね。》(k.258)

《命題の意味とは、それが写し取っている事態であり、命題のなかの語の意味とは、それが指し示している対象(もの)である。このように定義すると、諸々の「命題」と諸々の「事態」が一対一対応し、命題のなかの諸々の「語」と世界のなかの諸々の「もの」が一対一対応する、ということになります。》(k.271)

《要するに、「机の上に本がある」という文(命題)は、机の上に本があるという事実(事態)を写し取った像であり、一種の模型であるということです。》(k.275)

《「太陽が西から昇る」は有意味な命題ですが、「西が太陽から昇る」は論理的に破綻しており、そもそも意味をなしません。前者はジオラマや映像やイメージなどで表現できますが、「西が太陽から昇る」模型をつくることは不可能です。》(k.310)

《「世界は確かに存在しているし、それは事実なのだから、命題もどきどころか絶対的な真実を表現している命題だ」と思う人もいるでしょう。でも、試しに世界が存在するとはどういう事態なのか、頭のなかで想像してみてください。あるいは、「世界が存在する」ということを表現するジオラマづくりに挑戦してみてもいいでしょう。》(k.317)

 要するに、世界は模型化できる命題によってのみ言語化される、ということならば、言語に反映されるという仕方でのみ示される世界は、その価値については語りえないということで、命題そのものの体系である世界は無意味であるとして哲学を終わらせようとしたのが論考の最後を飾る第7命題「語り得ないものについては沈黙しなければならない」なんだ、と。

[言語ゲーム]

 言語ゲームについてもより深く理解できるようになったと感じています。特に家族という概念から膨らませて、《言葉が話せるようになるというのは、単に言葉を覚える、語彙を増やすことではなく、その言語(日本語、ドイツ語、等々)が深く根を張った場所で生活していけるようになるということ》(k.718)であり《「言語ゲーム」は、原語(ドイツ語)では「シュプラッハシュピール(Sprachspiel)」です。「シュプラッハ」は言語・言葉を意味しており、「シュピール」のほうはゲームという意味のほかに、遊びや演技、演劇といった意味も含んでい》(k.724)ることの重要性に気づかされました。

 ここの演技の重要性で思い出したのは、経済学者スラッファが指であごを擦り上げるジェスチャーを見せ、「これの論理形式は?」とウィトゲンシュタインに尋ねた事が言語ゲームの考え方を深めるきっかけになったという伝説。このジェスチャーは単に指であごを擦り上げるという写像を示しているのではなく、ナポリでは「侮蔑」を意味するとのことです。

 これは、事実と言語は同じ形式を共有する、という『論考』の言語観を崩壊させたと説明されることが多いと思いますが、そうではなく《「アスペクト」というキーワードを用いるなら、同じ振る舞いを、本当に痛い様子と、その振りをしている様子という、二重のアスペクトのもとに捉える能力を身につけるということで》(k.1263)あり言語ゲームを身につけていくことは、こういうことなんじゃないか、と理解できるのではないかと思いました。

 ナポリの侮蔑のジェスチャーは、単なる身体動作ではなく、その共同体のなかで意味を持つ行為です。ここから、言葉や身振りの意味は、それが使われる生活の場面のなかにある、という発想も見えてきます。

《言葉の意味を深く理解するためには、実際に生活を営んで経験を重ねることに加えて、もう一つ重要な要件があります。それは、馴染みのある物事の別の顔を捉える、あるいは別の角度から認知するという、いわば二重の観点をもつこと》(k.983)で、《言葉の意味を理解しているとは、一方では「別の言葉で置き換えられる」ことであり、他方では「どんな言葉にも置き換えられない」ことがわかる、ということでもある》(k.1056)と。

 ここから敷衍して、心とはどこにあるのか、という問題にも言及されます。《私たちの「心」は身体のなかにある自閉的な器官──身体内に隠された秘密の小部屋のようなもの──ではなく、他者とのコミュニケーションの只中に立ち現れてくるものだ》(k.1236)と。そこからさらに、人間は他者を求めて理解したいと思いますが、その前提となるのは、コミュニケーションを取ろうとする相手が、完全には予見可能であってはならないということです。AIやブラウザのように正解を持っているということではないわけです。

 最後に引用される『文化と価値』に収録されている《人は思想に対して値札をつけることができるかもしれない。値の張る思想もあれば、安い思想もある。(中略)では、思想の代金は何によって支払われるのだろうか。私の考えでは、勇気によってだ》は、ぼくも大好きな『反哲学的断章』の《思想に対して値札をつけることができるだろう。ある思想の値段は高く、ある思想は安い。さて思想の代金は、なにによって支払うのか。勇気によって、とわたしは思っている》(丘沢静也、青土社、1988、p.141)と同じで少し感動しました。『反哲学的断章』では、《まちがった思想でも、大胆にそして明晰に表現されているなら、それだけでじゅうぶんな収穫といえる》も思い出します(p.198)。

 長年「分からないまま付き合ってきた」ウィトゲンシュタインでしたが、この本を読んで、ようやく『論考』から『哲学探究』への流れがつながった気がしました。

[放送・テキストの構成(全4回)]

第1回:言語の限界はどこにある?(『論理哲学論考』)
世界と言語の対応関係(「写像理論」)と「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という結論

第2回:哲学の謎は解消できる(『論理哲学論考』)
言語の正確な分析により哲学的な問題が消滅するという考え方

第3回:言葉の意味は「使い方」に宿る(『哲学探究』)
前期の「写像理論」を自ら乗り越え、「言語ゲーム」という新たな概念の提示

第4回:沈黙から「表現」へ(『哲学探究』)
日常生活における言葉の役割と、沈黙ではなく開かれた哲学への転換

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April 10, 2026

『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』岡本隆司

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『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』岡本隆司、東洋経済新報社

 著者の専門分野である近現代史に留まらず、日本の古代~平安時代のあたりから、中国史を“ポジ”、日本史を“ネガ”として捉える視点から解説してくれます。

 日本の古代史以前の流れとしては、4世紀の地球の寒冷化で西洋世界で民族大移動が起こった同時期に、 中国でも遊牧民などの集団が徐々に流入し、ユーラシアでは寒冷化の到達点として唐とイスラムの両帝国が成立。しかし、温暖化の進展とともに多元化が進行する、といった大きな歴史の流れが提示されます。文明の発達状況、気候変動、人口動態、国の統治能力みたいなものも考慮に入れた一般向けでありながら、スケールの大きな歴史書です。

 強調されているのは中国社会は歴史的に多元的であるのに対し、日本は凝集的という違い。ほぼ農耕民のみで構成される日本は国としての一体性も昔からある程度持っていた、と。

 日本は、外国からの知識を抵抗なく取り入れ、自分風にミックスしてしまう一方、中国では、外から入ってきた知識も、中国の古典と結びつけて説明しなければ受け入れられなかった、と。開国後の日本は和魂洋才で貪欲に西洋の知識を取り入れますが、中国では、いったん中国古来の概念に引きつけて理解しなければならない中体西用の方針をとっていた違いも大きかったようです。

 このため西洋から国民国家の概念が流入すると、割と一元的な社会だった日本は簡単に国民国家の形成に成功します。

 この成功をみて中国でも国民国家を目指す勢力も出てきますが遊牧民と農耕民のハイブリッドである中国では様々な困難が立ちはだかります。一方、日清日露戦争の後、帝国主義的な多元国家を作ろうとした日本は崩壊するみたいな流れ。凝集的な日本が対外的に肥大化しなければならなかったというそのプロセス自体に問題があったのではないか、と示唆されています。

 政治的な話しだけでなく経済でも、日本の貨幣経済の発達は中国との貿易が契機となったものと説明。対中貿易に必要であった銀が枯渇することによって、代替手段として日本の国内産業が発展したというあたりもポジとネガの関係であり、日本の中世の経済発展は「湖広(ここう)熟すれば天下足る」の影響だったというあたりもスケールの大きな議論です。「湖広熟すれば天下足る」とは、明代から清代の中国において、長江中流の湖広地方(現在の湖北省・湖南省)が米の巨大な食料供給地となり、周辺地域はそれを支えるというエコ・ネットワークも形成されますが、日本もそこに参加していた、と。

 それまでも銀貨が必要になった中国に銀を輸出することで、日本は贅沢に目覚めたのですが、その後、モンゴルで紙幣が発達したため、銭が余って日本に輸出されるようになるなど、日本は翻弄されます。

 卓越した文化を持つ中華から影響を受け、遥かに遅れた時代区分を経る日本という構図は江戸期までは変わらず、太古の中国正史から歴史事実を引き出ことは無益というクリアカットな指摘も新鮮でした。

 姉妹本の『世界史とつなげて学ぶ中国全史』も読んでみようと思いました。

 後は箇条書き的に面白かったところを紹介します。

・中国の正史は都合よく書かれているので、漢委奴國王も五王の記述はそれほど信用ならない

・明にとってモンゴル帝国を撃退した日本から朝貢を受けることは、天子を宣明するのに都合が良かった

・戦国大名は、在地の武士が守護を支えることができるような存在に成長したとも言える

・室町時代まで京都以外の都市はなかったが、江戸期以降、京都以外の都市が増える

・洋書の翻訳は漢語を元にしないと複雑な内容を表現できなかった

・福沢諭吉は漢文も英語もそれほど上手くなかった

・梁啓超は日本で君主制でうまくいっていることをみて革命派と対立してしまう

・辛亥革命から変わっていないのは反日

・一体化日本と多元化中国は、実際には多元化日本、一体化中国になってる?

・日本は望んだことではないが中国に影響を与え、中国のあり方をネーションステートに変えてしまった

・中国人は「日中戦争で悪かったのは日本の一部のエリート層」と言うが、それは中国社会を反映したもの

・韓国は南北に分かれてネーションステートすら完成していないが、中国も習近平のようにまだ途上にあるとの認識が続いている

【目次】
まえがき──東洋史から日本史を捉えなおす

第一章 日本史は中国の“コピー”から始まった 【古代~平安時代】
第二章 アジア・システムからの離脱 【平安時代~鎌倉時代】
第三章 「日本全体が入れ替わった」時代 【室町時代~戦国時代】
第四章 「国家」の成立 【江戸開府~元禄・享保時代】
第五章 「凝集」する日本 【享保時代~開国前夜】
第六章 開国と日中対立の始まり 【幕末~明治維新】
第七章 朝鮮半島をめぐる外交と戦争 【明治時代】
第八章 アイデンティティの破滅へ 【大正時代~昭和時代初期】
結 現代への展望

あとがき
文献リスト【主な内容】
まえがき──東洋史から日本史を捉えなおす

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April 06, 2026

『日本史 敗者の条件』呉座勇一

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『日本史 敗者の条件』呉座勇一、PHP新書

 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。野村克也監督も愛した江戸時代の大名・松浦静山の言葉を、日本史のプロがビジネスの視点で徹底解剖したのが本書です。源義経から山本五十六まで、誰もが知る英雄たちが「なぜ、あと一歩で破滅したのか」。その共通点を探ると、現代の組織運営にも通じる驚くべき教訓が見えてきます。PHPの月刊誌「Voice」の連載をまとめたビジネスマン向けの本であるため、PHP新書として刊行されています。

[現場監督が強すぎると組織は壊れる? 義経と山本五十六の共通点]

 源義経は短期決戦で平家を滅ぼしましたが、これは源頼朝の望んだ結果ではありませんでした。屋島合戦や壇ノ浦合戦を独断で強行したことで、見事な勝利を得ましたが、他の東国武士たちが大きな勲功を得る機会を奪い、不満を鬱積させてしまった、と。さらに、平家滅亡によって最も利を得るのが後白河法皇であるという構図に思い至らなかったとされます。

 西郷隆盛は戊辰戦争では有能な前線指揮官でしたが、維新政府のトップとなっても現場主義を捨てきれませんでした。「征韓論」の通説は一次史料には乏しく、むしろ疑わしいとされており、西郷の使節志願そのものが唐突で、周囲も真意を測りかねたという。西郷自身は、自分が朝鮮で殺害されることで開戦の大義名分が立つと考え、その意図を板垣退助への書簡で示してはいます。あるいは、対外戦争によって国内(特に士族)の不満を外に逸らす「遠略」とも解釈できるが、最終的には現場主義に囚われ、西南戦争という叛乱に乗ってしまった、と。さらに、海軍の薩摩閥が味方するという甘い見通しから、海への備えを怠った点も熊本城の攻防戦で最終的な失策となりました。

 山本五十六の連合艦隊は、軍令部と機動部隊に挟まれた中途半端な組織でした。しかも、山本本人もミッドウェー作戦の意図を双方に十分に伝えず、真珠湾攻撃の時と同様「認められなければ辞任する」と迫るのみだった。さらに、ミッドウェー占領が目的なのか、米空母をおびき出しての撃滅が目的なのか曖昧で、本人自身も「本社と現場」の意思疎通を妨げる要因になっていた、と。こうした姿勢は現場の声を吸い上げつつ大局的に判断するという理想的なリーダー像とは対極的な振る舞いだったとしています。

[有能な官僚は、なぜトップに立つと失脚するのか? 光秀と三成の限界]

 明智光秀については、織田信長の四国政策転換により、長年長宗我部元親との取次を務めていた光秀が司令官から外されたことが、謀叛の背景に影響したとする見解。光秀は、与えられた目標の達成には優れていたが、自ら目標を設定し優先順位を決めるトップには向いていなかったとされます。

 石田三成は豊臣秀吉の信任を得て辣腕を振るった官僚でしたが、カリスマ的な「オーナー社長」である秀吉を失った後は精彩を欠いていきます。組織が分裂し主導権争いが激化していくのに、多数派工作といった政治的な駆け引きが苦手で多数派を構築できませんでした。関ヶ原の戦いでは最近の学界の新論を紹介しながら、「小早川秀秋の裏切りは、実は開戦直後だったのか?」という問い鉄砲に関しては白峰説支持、笠谷説批判で論を展開しています。

 田沼意次再評価論の批判も面白かった。意次も異例の昇進で絶大な権力を握った人物。1990年代あたりから、それまで汚職政治家との評価されていた田沼意次の評価が見直されましたが、最近の日本史学界隈では田沼の手掛けた事業は場当たり的で、ほとんど失敗という批判的な評価への揺り戻しが起きているとのこと。

[ブラック企業化する織田軍団と、耳に心地よい声しか聞かない上皇]

 承久の乱は鎌倉武士の勝利というより、義時追討の院宣を出せば東国武士が朝廷側につくだろうという甘い見通しありきの戦略による後鳥羽上皇の自滅だった。これは周囲に幕府への不満を語る西国武士が集まったため、鎌倉が多くの武士から支持されていないと誤解、自己と権威を過信するあまり、耳に心地よい取り巻きの声に依存したことが悲劇をもたらした、と。

 織田信長は部下の不満に気付かず、知行に対してこれだけの軍備を用意しろという基準も示さずに結果だけを主観的に評価するような、いわば「ブラック企業」的な統治を行っていたという評価。新しく獲得した土地も検地などをほとんど行わなかったため、知行とそれに比例する軍役を正確に把握できず、極端な成果主義で競争だけを煽る仕組みを作ってしまったので、「これではやってられない」と感じた浅井長政、松永久秀、荒木村重などから相次いで離反された、と。

[目次]
【第一章】現場主義・プレーヤー型
源義経:最強プレーヤーはなぜ「独立」に失敗したか
西郷隆盛:情に流された英雄の末路
山本五十六:大作戦を破綻させたコミュニケーションの欠如

【第二章】サラリーマン社長型
明智光秀:「三日天下」を招いた決断力不足
石田三成:最大の敗因は組織づくりの軽視
田沼意次:官僚の枠を超えられなかった改革者の限界

【第三章】オーナー社長型
後鳥羽上皇:自身の権威を過信した「名君」の誤算
織田信長:部下の謀叛を招いた「ブラック企業」の長

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April 04, 2026

『みんなの高校地学 おもしろくて役に立つ、地球と宇宙の全常識 』鎌田浩毅、蜷川雅晴

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『みんなの高校地学 おもしろくて役に立つ、地球と宇宙の全常識 』鎌田浩毅、蜷川雅晴、ブルーバックス

 昨今の相次ぐ地震に、不安を覚えている方は少なくないと思います。そんな今こそ手に取ってほしいのが本書です。共通テストで地学を選択した自分にとって、現在の履修率がわずか1%という事実は衝撃でしたが、本書は「試験のための科目」を超えた、生き延びるための知恵も授けてくれます。

【2030年代に訪れる「西日本大震災」】

 鎌田先生のアウトリーチ的な著書はこれまでにもいくつか読んできましたが、本書では、過去の発生間隔や周期との兼ね合いから、2030年から40年ごろには南海トラフ地震が発生し、富士山の噴火も誘発される可能性があると明確に書かれており、ショッキングでした。しかも、東海・東南海・南海の各トラフが連動する、「西日本大震災」と呼んだほうがよさそうな規模となり、東日本大震災よりも被害額などは一桁大きくなるとのこと。

 東日本大震災で列島が5メートルも動いてしまったため、日本列島では地震が多発するようになっている、という説明も納得できました。M3~6規模の内陸地震が、災害前の約5倍に増加しているそうです。

 ちなみにトラフ(trough)とは、海底にある深さ6000メートル未満の、浅くて幅の広い「溝状の地形」のことを指し、プレートが沈み込むことで大規模な海溝型地震が発生する場所です。

【マクロな視点で見る、地球の温暖化と氷期】

 この序章は実際に京大で講義を受けているように聴きやすいのですが、この後は書き手が変わったのか、やや硬い感じになります。地層や岩石の成り立ちから気象・海象、さらには銀河系やビッグバンまで幅広く説明してくれますが、風や地磁気などの項目は、イメージしにくく、理解するのがやや難しく感じました。

 縦揺れ(P波)が先に来て、大きな横揺れ(S波)が後から来るとか、地殻とマントルの境目のモホロビチッチ不連続面なども思い出し、懐かしい気持ちになりました。海面の高さは、地層の重さと軽さによる重力の影響を受け、最も低いインド洋と、高いインドネシアあたりでは何十メートルも違うというのには驚きでした。まさに地学は宇宙から地層、地殻まで掘り下げることのできるロマンあふれる科目だな、と。

 最後のあたりで興味深かったのは、時間軸の捉え方です。現在進行形の「温暖化」を認めつつも、地質学的な数万年単位の視点で見れば、地球は「氷期」へと向かっている。こうした複眼的な視点を得られるのも、地学を学ぶ醍醐味だと言えるでしょう。

 最後は、代ゼミのカリスマ講師が関わっているだけあって、「高校地学のエッセンス」で締めくくられます。ジェット気流、季節風の変化が海面温度に影響を与え、エルニーニョの原因になるというあたりも面白く、様々な現象が重なっているんだな、と改めて思いました。

[目次]

序章 日本列島と巨大災害

なぜ日本列島には地震が多い?/南海トラフ巨大地震のメカニズム/誘発される「富士山噴火」/「次の大震災」の被害予測/盲点だった日本海側の防災対策

第1章 地球の姿としくみ

地球はどんな形をしているか/地球の中身はどうなっている?/地球内部で何が起きているか/地磁気とはなにか/プレートテクトニクス革命/プレートが覆う地球/地震と断層/地震はどこで起きるか/火山のはたらき

第2章 46億年の地球史

地層のなりたち/地層からたどる地球の歴史/地球と生命の誕生/生物の陸上進出/陸上生物の繁栄/地質からみた日本列島/日本列島の歴史

第3章 地球をめぐる大気と海洋

大気圏/雲はなぜできるのか?/大気の状態はどのように決まるか/地球をとりまくエネルギー/風の吹き方/大気の大循環/日本の天気/気候変動はなぜ起きる?/地球を揺るがす環境問題

第4章 はてしなき宇宙の構造

太陽系の天体/地球の自転と公転/惑星の運動/太陽/恒星までの距離はどう測る?/なぜ恒星はカラフルなのか/星団/銀河系/宇宙はどのように誕生した?

おわりに 高校地学のエッセンス

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April 03, 2026

『東大生に教える日本史』本郷和人

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『東大生に教える日本史』本郷和人、文春新書

 東大史料編纂所に所属していた本郷先生が2022年、東大駒場の教養課程で、理系も含めた学生に「変革期にあらわれる日本のルール」をテーマに行った講義をもとに加筆したものが本書です。「日本史は暗記ばかりでつまらない」と思っている方や、「なぜ鎌倉幕府は滅びたのか?」という構造的な理由を知りたい方に読んでほしい一冊です。

鎌倉幕府の成立は「1180年」(土地安堵というルールの始まり)

 個人的に江戸期までの日本史は、貴族の荘園が在地の武士によって解体されていく過程だと考えています。となると、その先駆けとなる鎌倉幕府の成立はいつになるのか、というところが問題になります。

 本郷先生は、頼朝が鎌倉入りして「土地の安堵」を始めた1180年だと考えていますが、いまのところ賛同者は少ないというあたりは、「つかみはOK」という感じ。その後はいつものように東国国家論を唱える立場から、権門体制論(朝廷と寺社、幕府が補完し合って統治していたとする説)に関してはチクチクと批判し、「東国政権の成立」を強調します。

 他の本郷本よりも、東国武士が頼朝を必要とした理由として、京都と交渉する窓口役や土地権利などの実務処理能力の高さを強調している印象です。そして、鎌倉幕府の滅亡は貨幣経済の浸透に対処できなかったためとします。土地(不動産)から貨幣(フロー)への転換に対応できなかったのが鎌倉幕府の滅亡の原因という視点もクリアカット。

幕府を滅ぼしたのは、元寇ではなく「貨幣経済」(貨幣経済と徳政令の罠)

 当時は京都や鎌倉などの都市文化が発展し、武士たちも贅沢品や消耗品を銭で購入する機会が増え、生活コストが上がっていきましたが、土地の生産性は向上しませんでした。このため、先祖伝来の土地を質入れし、最終的には土地を失う「質流れ」が多発。

 さらに元寇後の霜月騒動(1285年)を経て、困窮する御家人を救済しようとする御家人ファースト志向を強めた幕府は、1297年に「永仁の徳政令」を発布しますが経済は混乱。貸し渋りが広がったため、金融機能が麻痺し、御家人以外の武士からも支持を失い、これが幕府滅亡につながります。つまり、都市文化が発展し、贅沢品を「銭」で買える生活へ向上しますが、土地の生産性は上がらず、武士たちは借金地獄へ。そうした御家人を救済策するための「徳政令」が裏目に出て、金融がストップ、という流れになります。

崩壊の直接のきっかけとなった霜月騒動(泰盛と頼綱の対立軸)

 霜月騒動は、九代執権北条貞時の外戚で幕府の有力御家人だった安達泰盛と、御内人(北条氏の得宗に仕える私的な被官)である平頼綱の権力闘争ととらえられています。しかし本書では、元寇で活躍した九州の本所一円地住人(地頭の支配を受けず、貴族や寺社が直接支配する土地に住む武士)の御家人化を目指す安達泰盛と、従来の「御家人ファースト」を掲げる平頼綱の対立として説明されます。

 東国国家論的な立場で整理すると、頼朝時代に関東で独立した政権を打ち立てた坂東武士たちは、承久の乱によって西日本にも勢力を拡大し、さらに元寇で活躍した九州の武士たちも御家人化しようとしたのが泰盛だといえます。

 これに対して、得宗専制体制を強化しようとする平頼綱らは泰盛を先制攻撃し、一族郎党を滅ぼします。騒動は関東・九州を中心に地方へ広がり、幕府を二分する大規模な内乱となりました。

 霜月騒動を経て幕府は北条一族の支配が強まり、足利氏ら旧来の御家人の力は衰えますが、結局、足利尊氏によって幕府は滅びます。室町幕府は土地に重きを起きすぎた得宗専制時代の弊害を考え、貨幣経済の中心である京都を押さえることで権力基盤を整えようとします。これには年貢を取り立てすぎると逃散してしまう農民に比べ、商人の蔵に課税する方が効率が高いという判断があったとされています。

 しかし、その虎の子の京都を応仁の乱で炎上させてしまったことで室町幕府は自滅し、戦国大名の時代へと移行します。

組織論として読む「信長・秀吉・家康」(三英傑の違い)

 一職支配を拡大し、常備軍や経済・流通を重視して全国政権を目指した革新的な信長、その信長の築いた軍団・領土・統治システムを引き継ぎ、デスクワークのできる直属の部下を重視して天下静謐を成し遂げた秀吉を経て、やや時代は戻すものの、家康が長い平和の世を築きます。

 家康は秀吉と異なり「家」を重視したという指摘には納得感があります。徳川幕府は前半は開拓によって成長したものの、後半は開拓の限界に達して停滞したとされます。

 鎖国に関しては、慶長17年(1612年)、幕閣本多正純の与力でキリシタンの岡本大八が、肥前のキリシタン大名有馬晴信を偽って収賄した事件が取り上げられます。大八は火刑、晴信も死罪に処され、この「岡本大八事件」が江戸幕府の禁教政策の重要な契機となったと強調されています。

 類書と比べて、霜月騒動と岡本大八事件を大きく扱っている点が、本書の特徴のひとつです。

<目次>
第一回講義 鎌倉幕府の誕生
・朝廷以外の権力を立てるという大転換が起こった
・東国政権の誕生 日本は一つではなかった

第二回講義 頼朝の死から元寇まで
・なぜ「頼朝の後継者」は殺されたのか? 東国武士のための政権
・元寇がつきつけた新たな課題 「御家人ファースト」か「オールジャパン」か
・御家人はなぜ借金に苦しんだのか? 貨幣経済の浸透

第三回講義 室町幕府、西か東か
・誰が鎌倉幕府を倒したのか? 武士たちは足利尊氏を選んだ
・なぜ足利尊氏は京都を選んだのか? 経済の都、京都
・義満は天皇になろうとしていたのか? 武士と公家、両方のトップとなる

第四回講義 日本人と宗教
・お守りをゴミ箱に捨てられるか? 日本人と神仏の距離感
・なぜ平安貴族は密教に飛びついたのか?
・一向宗は日本型一神教だったのか?

第五回講義 信長の革新性
・長篠の戦 注目すべきは兵器の調達と部隊編制
・他に例を見ない信長の人事
・権威の尊重とその利用 上杉謙信、武田信玄と比べてみると      

第六回講義 秀吉の天下統一
・なぜたった八年で天下を統一できたのか?
・デスクワークの重視が強さの秘密
・なぜ家康を倒さなかったのか?

第七回講義 家康が求めたもの
・武功に厚く行政に冷たい 家康の人事政策
・岡本大八事件の謎 キリシタン統制と大坂の陣の隠された関係
・前田利家が金沢幕府を開いていたら?      

最終講義 江戸から近代へ
・江戸前期は高度成長の時代
・武士のサラリーマン化が停滞を生んだ
・本当に「鎖国はなかった」のか? 

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March 26, 2026

『歴史学者という病』本郷和人

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『歴史学者という病』本郷和人、講談社現代新書

 花粉症で目が効かないので、相変わらず本郷先生の本をAudibleで聴いています。

 本郷先生の自伝ともいえるような本書は筑駒の受験を失敗するも、武蔵には合格、自由な議論が許されるサロン的な人間関係に癒やされた、など知らないことばかり。

 また、東大史料編纂所の仕事についても初めて詳しく知ることがきました。小中学校は渋谷だったので、江戸時代の国学者である塙保己一が設立した和学講談所が近くにあり、その建物は親しみがありました。東大史料編纂所に業務の一部が1888年に移管され、1901年からは『大日本史料』の編纂を続けています。これは『日本書紀』(720年完成) から『日本三代実録』(901年完成)までの「六国史」以降、日本ではずっと国史の編纂が行われなかったため、宇多天皇が即位する887年から、大政奉還の1867年までのおよそ1000年分の日本の歴史をまとめようというプロジェクト。

 本郷先生は大学、大学院、博士課程を経て、東大史料編纂所に職を得るのですが、東大文系でずっと東大に在籍して教授になれるのは法学部の超エリートと史学課のこのコースだけとのこと。

 こうした個人のテニュアトラックというかキャリアパスだけでなく、日本の歴史学の潮流を皇国史観、唯物論史観、四人組の観点からまとめているのも特長。

第0世代 皇国史観の歴史学  
第一世代 マルクス主義史観の歴史学  
第二世代 社会史「四人組」の時代
第三世代 現在

 戦後直後の唯物論史観時代の石母田正(中世史)、遠山茂樹(近代史)、井上光貞(古代史)、永原慶二(日本中世・近世経済史)の旧四人組は、その専門をみれば、古代、中世、近代と日本の通史となっていて、全体の流れが、この時代に整理されたのかな、と。

 そして、この戦後第一世代はマルクス主義的な唯物論史観に基づき、古代→中世(封建制)→近世→近代という「世界史的法則」に日本を当てはめることを目的にしていたと思います。彼らは日本にも西洋と同じく「封建制(中世)」があったことを証明することで、日本が「アジア的専制からの停滞」に陥ることなく、自力で近代化(資本主義)へ進む力を備えていたことを理論付けようとした、と個人的には思っています。

 日本が西洋列強に伍して急速に近代化できたのは、明治維新で突然変異が起きたからではなく、中世の時点で高度な社会組織や経済の土台が出来上がっていたからだ、ということを実証的に明らかにしようとしたのが戦後第一世代の功績だったと言えます。また、今からみれば、彼らの仕事は、戦後日本のアイデンティティ再構築にも寄与したのではないでしょうか。「日本は自力で近代化できる土台を持っていた」という理論は、敗戦後の自信喪失の中で大きな精神的な支えとなったはずです。

 その後の網野善彦、石井進、笠松宏至、勝俣鎭夫の新「四人組」はガチガチのマルクス主義的な歴史の段階論から離れ、より「中世そのものの実像」に迫るようになります。彼らは「領主vs農民」という単純な階級闘争的な視点だけでなく、女性、非農業民、宗教、芸能、市場といった多角的な視点から中世社会を捉え直しました。

 また、新四人組は、中世を単なる「暗黒の封建時代」とは見なしませんでした。むしろ、自律的な村落(惣村)や、権力に縛られない自由な場(無縁)、活発な商品経済など、「日本のダイナミズムの源流」が中世にあることを描き出しました。「領主中心」から「社会構造」へ視点を移したことで、「日本人は明治維新よりずっと前から、自分たちで組織を作り、契約を結び、経済を回す能力(近代の芽)を持っていたことが証明されたのが「中世研究の黄金時代」の成果です。石井進先生や網野善彦先生らが光を当てた「無縁・公界・楽」や「惣村」のダイナミズムは、お仕着せの理論ではなく、史料の向こう側に生きる人々の息遣いを掬い上げました。これにより、日本の中世は「暗黒」ではなく、多様な主体のエネルギーに満ちた時代へと塗り替えられました。属人的にも網野先生は代々木からの離脱を含めてマルクス主義からの脱却をはかります。

 本郷先生は恩師である石井進先生と同世代の網野善彦先生らが提示したような「自由な中世像」を継承しつつも、一般市民が求めるような「日本史を大きな物語(グランド・セオリー)として捉え直す」試みにチャレンジしようと宣言します。

 本郷先生は「歴史学者は史料に書いていないことは言えない」という強い自制心に捕らえられすぎていると語っていますが、そこで直面するのは、一行の史料(古文書)の解釈をめぐる妥協なき戦い。

 例えば鎌倉幕府の御家人は、神奈川、静岡などを中心とした一軍、千葉などの二軍、北関東の三軍があると考えられるのではないかとしています。こうした見取り図を示したあと、本領安堵を約束する源頼朝の袖判下文は、頼朝自身が花押を据える形式から、政所職員が作成する「政所下文」へと変化したという問題を取り上げます。袖判下文(頼朝の花押あり)と政所下文(頼朝の花押なし)が混在されていた時期があるのはなぜか、と。これは千葉常胤などの二軍、三軍地域の御家人から、頼朝の花押もなく、政所が保証する形式では頼りないので、昔の形式の文書をくれという要望が出されたことが原因ではないか、というのが本郷先生の見立て。二軍、三軍地域の御家人たちは頼朝との関係がやや薄いから心配になったのであり、実際、北条氏などの一軍地域の御家人からはそうした要望は出ていない、という仮説を私的な勉強会で明らかにしたところ「それは歴史学ではない」と言われ、激論になり、その勉強会も解散してしまったそうです。

 確かに史料は少ないかもしれませんが、本郷先生の視点を通じると、かつて学校で習った「鎌倉幕府の成立」といった無機質な出来事が、当時の人々が必死に権利を主張し、契約を交わし、時に不安に怯えながら社会を築いていった生々しい姿も見えてきます。

 実証主義者が史料に書いていないことを想像で補うのは、歴史学ではなく小説だとするのに対して、本郷先生は当時の社会のダイナミズムを語らなくて何が歴史学だ、と批判しているようです。こうした熱い議論があるのも、近代への離陸という大きなテーマにつながる日本史の誇りの部分を議論しているためなのかな、と個人的には改めて思いました。

[目次]

はじめに

第一章 「無用者」にあこがれて   幼少~中高時代
     立身出世は早々にあきらめ、好きなことをして生きようと思った

第二章 「大好きな歴史」との決別  大学時代
     歴史は物語ではなく科学  だから一度すべてを捨てる必要があった

第三章  ホラ吹きと実証主義   大学院時代・そして史料編纂所へ
     徹底的に実証主義的な歴史学を学んだ、そしてホラの吹き方も

第四章  歴史学者になるということ  史料編纂所時代 そして新たな道へ

終章   日本史王にオレはなる!

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