September 21, 2017

『神々の土地 ロマノフたちの黄昏』

Romanov
 現在、宝塚大劇場で公演中の『神々の土地 ロマノフたちの黄昏』はラスプーチン暗殺を巡るドラマです。

 作家の上田久美子先生は宝塚歌劇団の座付作者で三本の指に入る存在。期待して見に行ったのですが、さすがの出来映えでした。

 『神々の土地』は大劇場の後、東京宝塚劇場でも上演され、これから何回も見ることになるので、作品のことはさておき、背景となるラスプーチン暗殺のことを少し勉強し直しました。

 考えてみれば《1917年の最初の二か月、ロシアはまだロマノフ王国であった。八か月後には、ボルシェビキが国家の枢機をになっていた。この年のはじめめには、彼らは、ほとんどだれにも知られていなかった》のですから。

 これはトロツキーの『ロシア革命史』序文の冒頭の言葉。

 あまりにも急激な転換は、イギリスがロシアを戦線離脱させないようにラスプーチン暗殺を支援する動きをみせていたり、ドイツがレーニンを封印列車でロシアに送り込んだりするような動きにも触発されたのでしょうが、ラスプーチン暗殺の後、10週間しかロマノフ朝がもたなかったということを考えると、小さな猟奇的事件として片づけられないかな、とも思います。

 ニコライとアレクサンドラの全治世をつうじて、卜者やヒステリー患者が宮廷出仕のために招かれたのですが(『ロシア革命史 I』p.91)、農奴を解放したアレクサンドル二世の治世においても魔女などを信じる「ライ病病みの宮廷奸党」(ibid. p.104)などは存在していて、ロマノフ朝の特徴かもしれません。

 また、解放者とも呼ばれたアレクサンドル二世はナロードニキの爆弾で暗殺されたことで、息子のアレクサンドル3世は祖父ニコライ1世のような専制政治を目指すなど反動が進みます。アレクサンドル3世も暗殺されそうになりますが、直前に発覚して逮捕されたメンバーにレーニンの兄ウリヤノフがいたことは有名。

 にしても、ロマノフには暗殺事件がつきまとうんですよね…ニコライII世などは日本でも暗殺されそうになるんですから…(大津事件)。

 ラスプーチン暗殺は、宮廷革命を目指すものだったんですが、暗殺のやり方、その後の権力掌握の段取りも含めて杜撰きわまりないもので、十月革命におけるトロツキーの水際だったやり方とは対照的で、ロマノフには、もはや才能が枯渇していたのかな、と感じます。

 『神々の土地』は一時間半の中で、ラスプーチン暗殺と宮廷クーデターの失敗を見事に描いているんですが、ジプシーたちがボルシェビキというは斬新すぎる設定だし、それがレーニンのために!というのは寡聞にして存じませんでした。クロポトキンなどアナキストたちの群像を重ねすぎていたかな、みたいな。

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September 15, 2017

『自民党』

Ldp

『自民党』中北浩爾、中公新書

 事実上、冷戦終結後に可能となった日本の政権交代は、だいたい15年に一回ぐらいの割合で起きましたが、政権交代が目的のようになってしまい、求心力を失うと、その後は野党の方が再編を強いられるような展開が続いていています。民主党の政権交代は本当に期待したのですが、今回も野党再編に向かう似たような流れになるんでしょうか。

 細川連立政権の時は、旧田中派から続いた金権キャンダルに飽き飽きした人々が発作的な投票行動で実現させたような印象で、それと比べると民主党の政権交代は十分な準備が出来ていると思ったにもかかわらず、対米国、中国との安全保障の問題で早々に躓いてしまいました。

 ただ、細川政権で実現した労組代表が省庁の審議会に入ることや、民主党による歳出評価重視という視点はこれからも残っていくと思いますし、可塑的な日本の政治システムにしっかりとした刻印を残したと思います。

 仕事柄、狭い視点からでしたが、二回の政権交代を間近で見られたことは貴重な経験でした。

 今は盤石に見える自民党ですが、このままずっと与党にいると、一人区に候補者がいない空白区がなくなり、二世三世議員ばかりになってしまい、以前、優秀な候補者が皆んな民主党から立候補せざるをえなくなっていたような状況が再びやってきて、新たな展開も生まれるんでしょうか。

 個人的には維新とかみんなに行った候補者は軽蔑していたんですが、単に勝てそうな政党選んだだけかもしれないし、そうした候補を「ゆとり」とか言ってバカにしちゃいけないのかな、なんてことも思いました。

 それにしても、p.158-あたりを読み、自前の勝てる候補を着々と育てている感じのある自民党と比べると、自分の選挙だけは強いけど、渋谷などの地方議員(区議、都議)の面倒も見ずに放ったらかしで先細りさせてるミスター年金あたりを選挙対策委員長に選んだ執行部はちょっと残念ですが。

 本書の分析の白眉は公明党も含めての政府・与党の政策決定プロセスと自民党のリクルート方法の変遷でしょうか。

 まず、前提として1973年の石油危機で高度成長が終わると、複数の政策分野にまたがる課題が生じ、官僚に対する自民党の優位が進んだ、と(p.100)。さらに、第2次小泉内閣では政務官を担当分野の自民党の部会の副会長と兼務させたたのですが(p.112)、軽めのポスト同士とはいえ、それは「内閣・与党の政策決定一元化」を実現するための措置だった、と。

 党議決定された案件は公明党との与党政策責任者会議(与責)にかけられ、これを経なければ閣議決定に進むことができない、というルールが12年の政権復帰の際にも確認されたのは(p.125)、空中分解した新進党の失敗もあり、創価学会を支持母体としている以上は自民党と合併することが難しいため。こうしたルールがつくられたもうひとつの理由は、公明党の政策には民進党に近いものが多く、事前審査の手続きを経て、党議拘束をかけなければ、国会で足並みが乱れるため、必要不可欠のプロセスとなった、と(p.126-)。

 政治主導は元々、21世紀臨調の後押しで進められ、自民党もそうした方向を目指していたが、民主党による「事前審査の廃止による政策決定の内閣一元化」が鳩山政権で失敗したことから、現在では事前審査制が活用されるようになった、と(p.129)。

 鳩山政権の時、年末までほとんど情報が漏れてこなくて、各省庁の三役が何をやろうとしているのか、平場の記者会見ぐらいでしかわからなくなった時期があったんですが、それで出てきた政策が猛反対を産んだ中途半端な高速道路無料化などであったため、優秀な人間でも少人数では間違う、ということになったのかな、みたいなことも思います。

 候補者の公募の目的は1)有権者のアピールできる清新な候補者を自民党外に求めること2)開かれた政党であるというイメージを浸透させることなんですが(p.159)、公募の歴史を簡単に整理すると以下のようになります。

94年の政治改革後に敗れた自民党は地方組織が自主的に公募を開始→
与党復帰で先細り→
小泉総裁が公募と予備選を公約に当選→
空白区と補欠選は原則公募に→
しかし、ウラで事前に決められるなど形骸化→
郵政解散で緊急公募するなど中央主導に→
しかし、あまり党主導でやると杓子定規になりすぎ、実情に合わず再び地方主導に

 こうした優柔不断さというか、すぐにシステムを変えられる柔軟さは凄いと思います。

 こうした結果、自民党代議士は中央官庁の役人、企業経営者、JC役員などが減少。地方政治家や議員秘書は増減なしですが、一般の会社員、弁護士や医師などの専門職、大学教員は増加しています。つまり、自民党は、自身が有する既存のネットワークの外部からスカウトできている、というわけですが、同時に議員は二重構造化しているともいいます(p.170-)。

 以下は面白く感じたところを箇条書きで。

 ノンイデオロギーで《非社会主義勢力をすべて糾合した自民党では、派閥が人事ないし離縁に依拠する度合いが強かった》(p.14)。かくて総裁選によって《八個師団と称された派閥が明確な姿を現した》(p.18)。

 派閥の《事務総長会議は、竹下内閣の発足を受けて1987年12月に「師走会」と名付けられ、毎月一回、ほぼ定期的に開かれることが決まった》(p.23)。それは、総主流派体制となって、派閥間の競争も失われたためだけど、竹下内閣が派閥の時代のピークだったんだな、と。

 2015年に石破茂を領袖とする水月会が結成されたのは、1979年に中川一郎率いる自由革新同友会が結成されて以来のこと(p.26)。

 派閥はすべて木曜日の正午から定例会を開くことで互いにメンバーを囲い込んでいる(p.36)。相互認証によるシステムなので持続性を有している、と。

 若手議員には派閥に所属るメリットがそれなりにあるが、有力・中堅議員となると、政治資金上の負担が重くなり、野党に転落すると脱退するケースが多くなる(p.38)。

 自社さ政権でリベラル色を強めたことを危惧した安倍などは歴史教育の見直しなどを求め、国民的な人気を得て小泉政権で幹事長に就任した時、自主憲法制定を再び掲げた(p.54-)。

 二大政党の一角として台頭した民主党が社会党の流れを引いていたので、自民党は必然的に右傾化していった(p.56)。

 現在、当選五回以下の衆議院議員で大臣・党四役の未経験者は「希望役職に関する自己申告書」を幹事長に提出する(p.75)。

 《政治改革をよそに参議院改革がほとんど進んでこなかったので、依然として参議院は自民党の「党中党」》(p.79)。

 田中内閣までは総裁派閥から幹事長が起用されてきたが、椎名裁定以後、自派からは幹事長を出さない「総幹分離」の慣行が始まった(p.82)。→大平が幹事長就任を談判しに行って、外相でごまかされたという『自民党戦国史』の一節を思い出しました。

 自民党総裁選で無投票が少なくなっているのは、推薦人が50人から順次20人まで減ってきたから(p.89)。

 第2次安倍内閣の経済財政諮問会議はマクロ政策を、日本経済再生本部はミクロ政策という役割分担となった(p.113)。また、14年の内閣人事局の設置によって官邸主導は一層強化された(p.114)。

 小泉内閣の郵政民営化の時と違い、農協改革ではJAグループが割れ、一部が容認にまわった(p.120)。これは農協の金融事業を支えている準組合員の規制強化を阻止することを重視したから(p.120)。

 小選挙区では、あらゆる要望に対応しなければならず、族議員の底が浅くなった(p.122)。

 自民党の広報改革は小泉政権下の03-05年と野党時代の09-12年に行われたが「悪いものを良く見せる効果はない」と(p.142)。

 自民党と民主党の固定票の差は2倍(p.145)。

 橋本内閣での参院選挙敗北で生じたねじれを解消するため、自民党は公明党との連立に踏み切り、2000年の国政選挙に臨んだ。学会員と友人・知人への依頼によるフレンド票(F票)はかなり細かく把握され、コントロールされており、自民党の固定票と比べても圧倒的に頼りになることがわかっていく(p.147)。一方、自民党との選挙協力で、公明党には比例代表で5議席がもたらされている(p.148)。

 公明党は50-60年代に急激に信者を増やし、70年代以降は、家庭内再生産の段階に入った(p.149)

 公明党の非推薦者は麻生太郎、小泉進次郞、平沢勝英(p.152)。

 創価学会による自民党後援会へのアグレッシブすぎる働きかけは摩擦を生み、地方議員の反撥もある(p.154)。
 自民党の世襲議員は逆風に強い。大敗を喫した09年での選挙では広義の世襲議員の割合は54.7%、狭義の割合は34.4%に達し、55年体制以来の最高となった(p.176)。

 三角大福中は全員世襲議員ではなかったが、麻垣康三は全て世襲議員だった(p.177)。

 自民党は郵政選挙での造反議員を受けて、党本部の権限で支部を解散できるようにして、造反したら政党交付金などを受け取れないようにした(p.178)。

 自民党は日本宗教連盟に加盟している団体のうち、日本キリスト教連合会を除く神道、仏教、新興宗教団体の連合会と協議を行うほか、いずれにも加盟していない霊友会、世界救世教、仏所護念会教団とも話し合いの場を持っている(p.184)。キリスト教団体は政治に弱いな、と思うと同時に、他の新興宗教がいかにキタナイか、という感じを受けます。にしても、政策と票・カネの交換が循環的だな、と。

 自民党で個人後援会が発達した遠因は、政治献金が経済再建懇談会~自民党というルート一本化が中選挙区制の固定→派閥の固定によりできなかったから(p.187)。

 最初の族議員は農政だったが、予算に占める割合は53年度の14.9%から59年度には7.5%まで減少したが、農民からの突き上げで米価は上昇していった。80年に建設業は就業者数で農林業を上回り、選挙マシーンの中枢を担うようになった(p.188-)。92年に米価は引き下げられなかったが、それは財政上可能だったから(p.191)。

 宗教団体は得票数を通じて自らの組織力が明らかになることを避けるため、他の教団と相乗りしたり、著名人を推したりする傾向が強い(p.209)。非拘束名簿式となった2000年以降、宗教票は下り坂(p.211)。

 団体別では世界救世教、全特、建設、賃貸、看護が上位(p.214-)。

 自民党所属の地方議員は1万数千人と推定されるが、立候補の時に党籍を明確にしている議員は1717名にすぎない(p.231)。

 市区町村といった行政単位が重視され、都道府県が自主的に選挙区を設定する余地が少ないため、都道府県議会の選挙制度は、都市部が中・大選挙区制、農村部が小選挙区制の混合になっている(p.233)。

 813市議会ま平均の議員定数は24.1人で、人口50万人以上の市では平均45.8人。船橋市、鹿児島市、東京都の太田、世田谷、練馬も50名(p.235)。

 町村議会の議員報酬は月額21万円で、兼業がかのうな自営業者や会社・団体役員が多くなる(p.238)。

 自民党の東京都連は、区議会選挙で公認候補の擁立を重視し、推薦を認めてこなかった(p.240)。

 自民党は地方議会を民主党政権の反抗拠点とるため、09年には民主党との違いを強調する右寄りの意見書が地方組織から出されるようになった(p.248)。

 自民党の選挙対策本部が編集した『総選挙実戦の手引』では、個人後援会を結成る手順について《世話人会議、事務所開設、準備委員会または拡大世話人会議、ホッ金人・発起人代表委嘱、会員募集、結成大会、選対会議、総決起大会もくしは「励ます会」という一連の流れ》を説明している(p.252)。

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September 13, 2017

『ロベスピエールとドリヴィエ』

Robespierre

『ロベスピエールとドリヴィエ』遅塚忠躬、東京大学出版会

 遅塚忠躬は日本におけるフランス革命史研究の第一人者だった研究者でしたが、門外漢としては『フランス革命 歴史における劇薬』岩波ジュニア新書で知った方でした。功成り名を遂げ、死期を悟った研究者が最後に上梓したのは、高校生などに向けた新書だったというのは感動的な話しですし、内容も素晴らしいものでした。

 今回、『ロベスピエールとドリヴィエ』を再読しようと思ったのは、宝塚歌劇団が11月から『ひかりふる路(みち) 革命家、マクシミリアン・ロベスピエール』を公演するから。ご存じの通り、ロベスピエールは浮いた話しのない人生を送っていて、大して詳しくはないのですが、明治維新の吉田松陰のようなアセクシャル(非性愛者)じゃないかと思っています。佐藤賢一『小説フランス革命』では 美少年で「革命の大天使」と呼ばれたサン=ジュストとの間にはワケがあったように描かれているようです。

 しかし、いくらなんでも、宝塚ではアセクシャルだったりBL的なロベスピエールを描けないだろうな、と思っていたのですが、『ロベスピエールとドリヴィエ』で、女の子っ気のない彼の生涯で唯一、女性の影が薄く差す場面がどっかにあったよな…と思って読み進めていたら、355頁の注にありました。そこでは、熱心な支持者であった指物師デュプレの娘エレオノールがトップ娘役の役になるのかな、なんてことを考えているうちに、読み直してしまいました。

 以前は必要な箇所を探すような読書が多かったけど、純粋読書を満喫する、みたいな。

 再読して革命無罪のゴッドファーザーはロベスピエールだと思うし、造反有理は田舎司祭ドリヴィエかな、と感じます。同時に革命無罪は政治的なものが先行し、造反有理は経済的な問題が契機になっているような気もしました。

 フランス革命は1791年に元貴族の革命派ミラボーが死去した後、ルイ16世一家がパリを脱出しようとして東部国境に近いヴァレンヌで逮捕され、いったんは憲法が制定され立憲君主制への移行始まったんですが、この1791体制はすぐに行き詰まります。

 簡単に整理すると内外の反革命勢力の脅威高まる→ブルジョワジーと民衆、農民の同盟を唱えたロベスピエールが山岳派独裁による徹底路線をとる→旧体制一掃→民衆や農民の要求を飲もうとしたロペピエールはテルミドールで葬られる→資本主義の発展に適合したブルジョワ革命完成、みたいな。

 ロベスピエールは国王派など右派を潰滅させるとともに、農民革命の要素もあったフランス革命の急進派を抑えるという役割を果たしたんですが、反革命の右派の勢力を潰滅すると、今度はやりすぎたロベスピエールが「狡兎死して走狗烹らる」ことになるわけです。

 フランス革命はこうしたジグザグなコースを取りながら、最終的には「独占禁止・団結禁止型自由主義」のブルジョワ革命を達成したんですが、テルミドール以降も左右両翼からの攻撃に対して身を守るため、ブルジョワジーは結局、ナポレオンの軍事力に依存するほかなくなります。

 『ロベスピエールとドリヴィエ』を読んで、改めて思ったのが、ロベスピエールの山岳派の独裁以後、公教育、言語の統一が強力に進められた、ということ。こうした権力による民衆の世界の革命的解体は、全国的規模の市場に国民を編成するためで、それが後進資本主義国フランスにとって必要だった、と(p.264)。

 フランスやドイツはイギリスと比べて農業国の要素が強かったから、ブルジョワ革命を進めるためには、より中央集権的な政策が必要で、さらに遅れたロシアや日本などでは一党独裁を含めた独裁的な体制が必要だったんだろうな、と。

 あと、ジロンド派(穏健派)憲法も山岳派(急進=ロベスピエール派)憲法も六条の書きだし「自由とは、他人の諸権利を害しないことの一切をなしうる」という処までは一緒なんだわな、というのは意外でした(p.280)。

 人権宣言の第4条も「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。その結果各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法によってのみ、規定することができる」と似たような表現なんですが、日本では戦後にGHQから与えられた人権なので「他人の自由を侵害しない限りの自由」というのは実感できないから、表現の自由なんかを勝手解釈にした反ヘイトスピーチの言い方なんかがはびこるのかな、なんてことも思いました。

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September 12, 2017

ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』: 第一次世界大戦と『論理哲学論考』

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ウィトゲンシュタイン『秘密の日記: 第一次世界大戦と『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、春秋社

 これも読んだだけで放っておいたので、忘れないうちに。

 この本は第一次世界大戦に一人の兵士として参加したウィトゲンシュタインが戦争中に書いた日記というだけでなく、『論理哲学論考』を執筆の舞台裏がどのようなものであったかだけでなく、前線に近い戦場という極限状態の中でウィトゲンシュタインが自分の人間観、宗教観、欲望について、赤裸々に書いています。

 「『人間』ウィトゲンシュタインに対してアンバランスな関心を示すことは、思想家に対するに、彼の書斎を覗くことよりももっぱら御勝手に興味を示すことにも通じかねない」(註、P137 )ですし、ゲイであった彼の官能的生活に重大な要素が隠蔽されているとも思えないのでが、それを本当に赤裸々に書いているのは、ソクラテス以来(もっともプラトンの手によるものですが)なんじゃないでしょうか。

 人間観として面白かったのは、周囲の兵士たちとの断絶。《僕が共にいる人々は、低俗であるというよりは、途方もなく狭量なのだ。このことは、彼らと交際するのをほとんど不可能にする。というのも、彼らは永遠に誤解し続けるのだから》(p.115)。時代も分野も違いますが、こうしたことを正直に告白したのは、丸山眞男もそうだったな、と感じます。

 そして、《よい気分のとき、急に孤独を自覚すると、少し背筋を冷たいものが走る。その心地よさ》(p.77)。などのアフォリズムの切れ味。

 また、《言われないことは、言われえないのだ!》(p.118)という走り書きがあったのには驚きました。『論理哲学論考』の最後の命題の原型が放火の中で思いつかれたとは…

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen

 ということで、秘密の日記の横に書かれていた草稿1914-1916も読みました。それは1916年6月からの、ロシア軍によるプルシーロフ攻勢で死と向き合ったハプスブルク家の二重帝国の軍人としてのウィトゲンシュタインが書き残した『論考』の元原稿。大修館版を読むのも久しぶりでしたが、いいな、と。

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August 15, 2017

『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』

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『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』中川右介、毎日新聞出版

 宝塚歌劇団星組の次回大劇場作品はワイマール期からナチス政権初期あたりのを舞台にした『ベルリン、わが愛』となりましたが、個人的には理解の浅い当時の背景をよりよく理解するために、未読だった中川右介さんの著書を読んでみました。

 当時のドイツと世界を4人の女優の視点で切り取ってみる、という作品。4人の女優とはレニ・リーフェンシュタール、マルレーネ・ディートリッヒ、オードリー・ヘプバーン、原節子。

 レニはナチスのプロパガンダ資金に乗り『意思の勝利』『民族の祭典/美の祭典』という映画史上に残る傑作をつくりましたが、今や『信念の勝利』(Seig des Glaubens)もYouTubeで見られるようになったんですから、凄い時代です。

 ちなみに、レニは『信念の勝利』について、ニュース映画の寄せ集めであり、自分の映画ではない、としているそうです(p.189)。著者は、『意思の勝利』も誰が見てもナチスのプロパガンダだが、『民族の祭典/美の祭典』はスポーツの記録映画だと思い、ナチスの映画とは見えないという、より高度なゲッペルス的メディア戦略だ、としています。ゲッペルスは『戦艦ポチョムキン』を内容は別として絶賛していたそうで、やはり、そうした目は持っていたんでしょうね。

 レニ・リーフェンシュタールは本当に素晴らしいんですよね…。政治的に問題はあるけど『意思の勝利』の編集のリズムは凄い。そして様々なカメラの改良も行って撮った『オリンピア』の映像は今でもスポーツ動画のクラシック。彼女の編集能力の高さの背景は自伝や『オリンピアと嘆きの天使』で分かります。

 ちなみに『民族の祭典/美の祭典』のプレミアはイギリスでは拒否され、アメリカでも35人しか見に来なかったそうですが、ナチス支持者のヘンリー・フォードは見たそうです。

 マルレーネ・ディートリッヒは『嘆きの天使』で世界のアイコンになった女優ですが、ヒトラーに愛想を尽かして連合国側の象徴になるというレニとは正反対の生き方をします。

 オードリー・ヘプバーンはナチス崇拝者の父を持ち、戦禍のオランダで死にそうになるが、バレエを習い、やがて戦後民主主義のアイコンとなるという人生を歩みます(父とはひっそりと再会)。そして美人女優の代名詞である原節子にも日本の軍事政権とナチスの蜜月時代に、国策映画に出演した過去もあった、というのが『オリンピアと嘆きの天使』の大まかな構成。

 それにしても、ハイパーインフレと賠償で悩んでいたドイツにとって、ハリウッドへの輸出は外貨獲得の有力手段であり、敗戦国とはいえ自国が戦場になってなかったドイツでは才能が集まっていたので、ハリウッドとしても安価に才能を買える市場だった、という指摘にはハッとました。

 それにしても、オードリーが《英国のファシズム運動に参加し、ナチスシンパとしてヒトラーと面会も果たしていた》という両親を持っていたのは知りませんでした。彼女の意思のある向日性はその反動でしょうか?

 ナチスが政権を獲って、すぐに宣伝相ゲッペルスが映画関係者を呼びつけて方針を伝える場面が紹介されてます。星組公演『ベルリン、わが愛』でも出てきそう(p.182)。

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August 14, 2017

『ギリシア人の物語II』

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『ギリシア人の物語II』塩野七生、新潮社

随分、前に読んだんですが、忘れていていました。

 例えば、外国の方が源氏物語が好きだかといって研究していても、和歌の部分とか、その後の文芸への展開、日本語に残る影響や貴族と武家との関係などの理解は、やはり長い間日本で生活し、日本語に接してきた者にはなかなか勝てないのかな、と思うんですよ。ぼくもギリシア語は好きですし、翻訳も含めて一通りのものには接してきたつもりですが、やはり「お勉強」という部分があって、ヨーロッパの子たちがグレコローマンの古典に接してきたり、楽しみとして英雄伝を読んでいるようなのにはかなわないな、と思うんです。

 ですから、「日本人には馴染みがなそうだな」といった部分を、読者のプライドを壊さずに、丁寧に説明してくれる塩野さんの書き方というのは、ありがたいな、と。

 平和を表す言葉のほとんどはラテン語のPAXを語源にしているのは、4年に1度、オリンピックという休戦が必要なほど争いごとの好きなギリシア人が、あらゆる概念を創り出したにもかかわらず、「続くからこそ平和」という概念だけはローマ人を待たねばならなかった、とか(p.29)。

 アイソキュロスはサラミスの海戦に参加していたから第三か第四階級出身、ソフォクレスは「ストラテゴス」に当選したから第一階級とか。アテネ海軍と戦ったサモス海軍を率いたのも哲学者メリトスとか。


 『ギリシア人の物語II』はペルシアという大敵を破にもかかわらず、それ故に陶片追放されたテミストクレスの後を継いだペリクレスによる治世が中心。

 ペリクレスは、それまで父親だけでなく母親もアテネ市民権所持者でなければアテネ市民権を持てない法を可決させて長い治世をスタートをさせた。ペルシャ戦役の勝利によって流入する市民への不満が高まり、それを制限するためだが(p.41)、こうしたところは今も昔も変わらないなと思うと同時に、民主政とは安全保障と表裏一体のもので、アテネの民主政は戦場に連れて行ける兵士の数を増やすという意図がひそんでいたのだろうな、と(p.49)。

 ペリクレス治世の後半、スパルタとのペロポネソス戦争は本当にだらだらと続くが、それでもアテネは安定していた。しかし、ペリクレスの後を継いだアルキビアデスは、デマゴーグたちによって3度も道半ばで失脚させられ、挙句の果てに元は奴隷という司令官に裏切られて全てを失う。

 美しいアルキビアデスと共にペリクレスに館にたむろし、彼を愛していたソクラテスも、その一年後に毒杯をあおぎ、アテネの黄金期=ギリシアの黄金期はあっけなく幕を閉じる。そしてペリクレスの死んだ年に『オイディプス王』が上演された、というのには驚く(p.175)。ペリクレスはギリシアの父だったのだろう。

 シラクサ遠征は、アテネにとってペロポネソス戦争をベトナム戦争みたいなものに変えていくが、プラトンの『饗宴』にも出てくるアルキビアデスというリーダーを追訴して追放し、戦力の逐次投入という負け戦の常套手段をとらせる衆愚政治というのは、いまも昔もニンゲンなんて変わらないな、と思わせる。

 さらに、ペリクレス時代とそれ以後のちがいの一つは、やたら告訴しては裁きの場に引き出すことの乱発(p.315)。ポピュリズム全盛の今の世にも当てはまるというか、こうしたところはサルが先祖のニンゲンは変わらないのかな、と。

 《残念なことではあるけれど、人類は、戦争そのものが嫌いなのではない。長期戦になり、しかも敗色が濃くなった戦争が嫌いなのである。それゆえ、名将とされる人は全員、一度で勝負が決する会戦に賭ける。それが陸上か海上かは、関係ない》というののは名言(p.371)。真珠湾の高揚とか、どれほどのものだったろうか、と思う。
 
 以下は箇条書きで。
 
 パルテノン神殿をつくったフィディアスは完成後二年後に死に、建設を企画したペリクレスも三年後には世を去る。神殿はこの2人の「作品(オペラ)」だった(p.69)。

 社会生活を満喫できたローマ人の女性と比べて、ギリシア人の女は外出の機会もほとんどなかった(p.96)。

 ペリクレスが同世代のソクラテスに興味を持たなかったのは、《国民は、国政の担当者に、哲学的な深遠な思索は求めてはいない》から(p.99)。プラトンの哲人政治の構想は、その反動?


塩野さんも引用しているあまりにも有名なペリクレスの演説では終わります。

《『BC443年 オリンポスにて ~アテネ民主制の理想~ ペリクレスの演説』

 われらがいかなる理想を追求して今日への道を歩んできたのか、いかなる政治を理想とし、いかなる人間を理想とすることによって今日のアテーナイ(アテネ)の大をなすこととなったのか、これを先ず私は明らかにして戦没将士にささげる讃辞の前置きとしたい。この理念を語ることは今この場にまことにふさわしく、また市民も他国の人々もこの場に集う者すべて、これに耳を傾けるものには益する所があると信ずる。
 われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。
 よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私の生活においてわれらは互いに制肘を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。
 また、戦の訓練に眼をうつせば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。先ず、われらは何人にたいしてもポリスを開放し、決して遠つ国の人々を追うたことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれらは持っていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦の仕掛や虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである。子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。
 これは次の一例をもってしても明らかである。ラケダイモーン人はわが国土を攻めるとき、けっして単独ではなく、全同盟の諸兵を率いてやって来る。しかるにわれらは他国を攻めるに、アテーナイ人だけの力で難なく敵地に入り、己が家財の防禦にいとまない敵勢と戦って、立派にかれらを屈服させることができる。
 われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見做す。そしてわれら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。理をわけた議論を行動の妨げとは考えず、行動にうつる前にことをわけて理解していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。この点についてもわれらの態度は他者の慣習から隔絶している。われらは打たんとする手を理詰めに考えぬいて行動に移るとき、もっとも果敢に行動できる。
 まとめて言えば、われらのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己れの知性の円熟を期することができると思う。そしてこれがたんなるこの場の高言ではなく、事実をふまえた真実である証拠は、かくの如き人間の力によってわれらが築いたポリスの力が遺憾なく示している。なぜならば、列強の中でただわれらのポリスのみが試練に直面して名声を凌ぐ成果をかちえ、ただわれらのポリスに対してのみは敗退した敵すらも畏怖をつよくして恨みをのこさず、従う属国も盟主の徳をみとめて非難をならさない。かくも偉大な証績をもってわが国力を衆目に明らかにしたわれらは、今日の世界のみならず、遠き末世にいたるまで世人の賞嘆のまととなるだろう》
『戦史』トゥーキュディデース著、久保正彰訳、岩波文庫 (抄)

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August 11, 2017

『中国の近現代史をどう見るか』

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『中国の近現代史をどう見るか』岩波新書、西村成雄

 久々に読みにくい文章で辟易したのですが、内容は素晴らしかったのが岩波新書のシリーズ中国近現代史シリーズの掉尾を飾る『中国の近現代史をどう見るか』西村成雄。

 存亡の危機に直面しながらも近代世界のなかで自己変革を遂げていった清朝末期を描く『清朝と近代世界 19世紀』。日清戦争の敗北、辛亥革命、そして中華民国の誕生と様々な近代国家建設の道が構想された30年を描く『近代国家への模索 1894-1925』。国民党と共産党は日本の侵略にどう向き合ったのかをを描く『革命とナショナリズム 1925-1945』。人民共和国の成立から文革の嵐までの混乱と迷走の四半世紀をたどる『社会主義への挑戦 1945-1971』。鄧小平が計画経済から市場経済、改革開放を目指した道程をたどる『開発主義の時代へ 1972-2014』という5巻を受けて、清朝末期から現代までの200年中国を俯瞰したのが『中国の近現代史をどう見るか』。

 これまでのダイジェストではなく、世界システム論からみて、中国の地位が中枢から周辺に下降した後、再びセミ中枢まで上昇する「200年中国」という時間軸を設定して、この間の動きを俯瞰してみせてくれた。

 個人的に蒙を啓かれたのは、東洋的デスポチズムの典型であった清朝が滅んだ後も、中国の権力を担った勢力は通常の意味における民主主義的な政治形態を目指していなかった、ということ。

 袁世凱は皇帝となったほか、孫文も「訓政」という名の国民党による一党独裁を進めようとしたわけで、蒋介石から毛沢東へのメインランドにおける権力移行(国民党→中共)は、ソフトな国家社会主義からハードな一国社会主義への移行と見た方がいいんだな、と感じる。こうした理解の方が東洋的デスポチズムから一党独裁(国民党も中共も)という流れがスムースに行ったことがよく理解できると感じた。

 孫文というと三民主義と脊髄反射になるけれど、いくら最終的には憲治を目指していたとはいえ(マルクスだって最終的にはユートピアを描いているわけで)、旧清朝勢力との権力争いの中で国民党もレーニン主義の影響を受けてるな、と改めて感じた(p.112)。

 国民党の「以党治国」に基づく「訓政体制」は、殷の宰相伊尹 (いいん)が皇帝を諫め「訓」したことが先例とか(p.18)。孫文~蒋介石~毛沢東~鄧小平が採用した党主導=以党治国(党を以って国を治める)は、殷の時代を先例とし、乾隆帝が子の喜慶帝を「訓政」した「訓政体制」に基づいている、と。

 実際の政治過程でも、中華民国が北京政府の正当性を否定し、打倒を目指した北伐を通じ、国民党の中共弾圧で、蒋介石の南京政府が樹立されたため、孫文の以党治国という、一党支配の正当性が制度化された、と。中共の独裁はある意味、100年の歴史を持つ、と(p.43)。

 戦後、国民党勢力を本土から駆逐した毛沢東は、国民党による官僚独占資本主義の没収を自身の新民主主義経済の政策の一つとしてとらえていたが、それは国民党政府の元での国家資本主義の集積所・集中が基盤となっていたという指摘はうなる。これは、レーニンの言う国家独占資本主義は社会主義の完全な物質的基盤だとも言えるわけで(p.147)。

 旧満洲の工業施設は日本軍、国民党、中共と次々と接収されていったが、その中でも張学良は東北地区で民族主義的経済体系づくりに奮闘し、それが基盤になっていたんだな、と。戦前における企業設立のピークは日露戦争後の数年だったというのも驚き(p.135)。もっとも、こうした先進性は、現在における「東北現象」という国営経済企業の不振を産んでいるというのは面白いな、と(p.152)。

 孫文の以党建国、党国体制は中共や民主諸党派に批判され、聯合政府樹立が求められるようになり、張学良の西安事件はその波頭だった、と。そうした動きを毛沢東が簒奪して、中華人民共和国にもっていった、と(p.48-)。

 この本は図表が多用され、特に60頁の「伝統的政治文化の構造」の図、素晴らしい。辛亥革命で専制的王朝時代の屋根はなくなったが、その柱と土台は残り続けていることがよくわかる。

 中共は社会主義国の一員として自己規定することで、資本主義的ネイション・ステイト圏からの離脱を図ることで、政治経済的「自立性」を獲得し、それが遠回りながらもセミ中枢まで上昇する基盤となった、と(p.15)。そして、日米との国交回復後は、世界のネイション・ステイトとして自己規定することになった、と(p.50)。

 以下は箇条書きで。

 清朝の士大夫に国境が可視化されたのは日清戦争の敗北だった(p.22)。
 
 中国が国際的秩序に埋め込まれたのは義和団鎮圧戦争の結果結ばれた辛丑条約(しんちゅうじょうやく、北京議定書)だった(p.32)。中国を個人にたとえれば義和団が「底付き体験」だったんだな、と。

 清朝衰退期の道光帝の時代、西北辺境(新疆南峰)でジャハーンギールの反乱が起こり鎮圧するのに7年かかったというんですが、このジャハーンギールという名は宝塚の花組公演『金色の砂漠』で描かれていた人物で、そうした名前の実在の人物がいて、張格爾という中国名も持っていた、というのには驚く。

 中共は「人民の敵を打倒する」ことによって政治的委任を受けたと理解できる(p.83)。

 ネイション・ステイツには1)ブルジョワ主導による内的発展をとげたグループ2)フランス、ドイツ、日本のように官僚主導でキャッチアップを目指したグループ3)ロシアと中国のように単一政党主導によるキャッチアップを目指したグループに分類できる、と(p.139)。

 清朝は支配権力内の洋務派権力の形成という部分的変動だったが、日本は江戸幕府の崩壊という政治的転換を行った、と(p.132)。

 マディソン推計で日本のGDPが中国を越えたのは1961年というのは驚き(p.162)。

 現在の中共は政治的エリートと経済的エリートの同盟となっている(p.196)。

 中国の基層は「中華世界層」、中層が「資本主義ネイション・ステイト」、表層が「社会主義ネイション・ステイト層」(p.204)。

 ロシアはメキシコの一党独裁が約70年で崩壊したが、中国ではそれが2020年前後となる(p.208)。

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July 20, 2017

『モラルの起源 実験社会科学からの問い』

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『モラルの起源 実験社会科学からの問い』亀田達也、岩波新書

 2012年にNHKで放送された『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』シリーズは印象的でしたが、本書はそこで描かれていた内容を、より学術的にまとめたような印象です。

 紹介したNHKスペシャルは、なんで人間は協力するように心を発達させてきたのかを扱っていいたんですが、協力には直接的に人を助ける直接互恵のほかに間接互恵も重要だそうで、『モラルの起源』では《情に流されて行動してしまう人情家は短期的には損をしても、長期的には人に選ばれていく》とまとめられています。

 ヒトは社会の中でしか生きられないので、その中で安定的な地位を保たねばならないのですが、戦略上、最も有効なのが周りを気遣い、時には自分が損をしてもヒトを助けるような「寅さん」みたいな生き方だそうです。

 若干、ヒトの目を気にしすぎるのでは、と思われるようなこうした生き方は、狩猟社会の時からの平等を気にする性質がさせている、という理由もNHKの『ヒューマン』と一緒だと感じました。

 平等で問題はありませんが、そこからはなかなか発展が生まれません。随分昔に聞いた、「アポロ計画の資金を貧困救済に使っても、あまり意味のある結果はでなかったろう」というような話しを思い出しますが、とにかくアフリカにある狩猟段階の社会で「もっとも嫌われるのは、ケチと自慢」だそうです。とにかく平等であることが原始社会では生き残りの条件だった、と。

 こうした内向きな傾向は現代においても、例えば、社会政策では、思わぬ不合理を生むそうです。どういう分配が好ましいか人々に問う実験では、社会全体の資産総額が小さくなっても格差が少ない社会を求める傾向がハッキリとみてとれるそうです(p.142-)。

 ここで、ハタと思いついたことがありました。

 多くの人々が基本的にはこうした考え方であるとすれば、資本主義社会では逆に大きな勝負に出るような性格のヒトというのが成功するのではないのかな、と。日本でも「今の日本社会にはアニマル・スピリットを持った資本家が少ない」なんてことをよくいいますが、資本主義社会で極く一部の人間が成功して、大多数の人々が平等に貧しくなるというのが、人類の宿命なのかな、みたいな。

 『モラルの起源』の著者は適応は10万年以上の長い進化時間、数百年・数千年の歴史・文化時間の両面から考えるべき、と場合分けをしします。そして、人間の社会行動は複雑で矛盾するように見えるが、全体としては生き残りのためのシステムと考えることができるから分析は可能だ、と。

 霊長類の大脳新皮質は群れのサイズが大きい種ほど大きいそうで、他の霊長類とのサイズ比較で、ヒトにとって本来の社会集団(群れ)の大きさは、だいたい150人と予想され、これは伝統的な部族社会におけるクラン(クラン)の大きさと一致するんだそうです(p.16)。

 なんで、こんなに大脳新皮質を発達させたのかというと、それはヒト付き合いのためだ、とというあたりが導入部。

 2章では極端にヒットする歌や本、映画が出るのは人気が人気を呼ぶプロセスが生じるから、という話しからスタートします。どうしてそうなるかというと、ヒトは他者の意図を敏感に察知し、戦略的に反応する「空気を読む」動物だからだ、と。「自分の目だけを信じて判断を下すことは個体に不利益をもたらす」ということが経験則となり、他者の福利やステイタスに敏感なのもこのためだ、と。付和雷同はヒトの本性なのかもしれません。

 集団のために汗をかくことは「自らの適応度を下げてまで相手の適応度を上げる行動」と定義されますが、こうした利他的行動はハチのような群れ全体での生き残り戦略をとる血縁淘汰なら説明できるが、ヒトを含む強い血縁社会を作らない動物たちは、どのようにして協力して関係を作ることができるのか、が3章のテーマ。著者によると

・「罰に社会的な実効性がないはず」と冷徹に計算したずる賢い掟破りは、人々が、そのように感じてしまうことで実効性を持つ
・こうした行為に罰を与えることは、自分に直接的な見返りがなくても「快」が伴う
・相手との社会関係をうまく築くためには直感、身体感覚が重要なポイント
・道端に倒れている人を助けるなどの間接的互恵行動はヒト以外に観察されない
・その仕組みには、評判の働きがある
・ヒトは毛づくろいに代わって、言葉を使い「今ここにいない誰か」についての噂話をすることが、お互いの絆や連帯感を強めている

 んだそうです。

 ゴシップを通じて他者の本当の利他性についての情報を得ることで、評判の良い人と付き合い、悪い人は避けようとする。付き合う相手として他人から選ばれることは、集団生活を選択したヒトにとって適応条件となり、ツイッターやLINEではその影響が大きくなる、と。

 ということで、情に流されて行動してしまう人情家は短期的には損をしても、長期的には評判が評判を呼んで人に選ばれていく。合理的で冷徹な計算よりも「情に流されること」は適応上の意味を持つんだそうです。

 最期も個人的な感想になるのですが、リベラルであったり左翼的な発言は冷たいイメージを持たれることが多いと思うのですが、これは人々が「合理的で冷徹な計算」を信じていないからなのかな、と。だから、どこでも保守勢力が強いのかな、と。

 大いなる反省とともに。

 あと、人間でもイヌでも、見つめ合うと脳内でオキシトシンの分泌がたかまり、相手への愛着行動が増す、んだそうです。舞台でも贔屓から見つめられとオキシトシンが分泌されて、さらに贔屓度が増すという事もあるけど、その他のリアルな場でもあるかもしれません。

 見つめ合うことは大切なようです。

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May 17, 2017

『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎

『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎

 書評というよりロシア革命に関する思い、みたいなところから書きますと、トロツキーの角川文庫の大著を分からないところは飛ばしながらも読んだのは高校生の頃。大学に入ってからは『歴史とは何か』のカーが簡潔にまとめてくれた本を読んだぐらいでしょうか。トロツキーのは当事者が書いたということもあり細かすぎ、カーのは簡略にすぎましたが、どちらもレーニン無謬説が前提だったように思います(ジョン・リードのも、読みかえしてはいませんがボルシェビキ贔屓がすぎるといいますか)。

 レーニンの無謬性は、ロシア革命が最悪の状況となる前に倒れたという、処刑されなかったロベスピエールという感じの生涯の閉じ方も関係していると思います。革命運動、革命後の統治の矛盾をすべて引きうけたスターリンに悪役を押しつけて生けるがごとくクレムリンで眠っているというのがレーニンのイメージでした。

 こうしたイメージは映画でも増幅されます。エイゼンシュテインの『十月』だったと思いますが、ペトログラード・ソヴィエトの労兵の前に姿を現すレーニンに付けられた字幕は「これが、これが、レーニン」だったと思います(『十月』はサイレントにしては字幕が少ない映画でしたので、余計に印象的でした)。

 ロシア革命って最後はレーニンのボルシェビキが勝つわけですけど、いま思えば、ぼくが若い頃に読んで影響を受けた本はいずれも革命を肯定的に描きすぎていた感じがします。

 その点、池田嘉郎『ロシア革命』は二月革命の臨時政府がなぜ失敗したのかを中心に壮大な歴史のIfを提示してくれる感じで、十月革命に対する個人的な見方も随分変わったといいますか、目からウロコが何枚も落ちました。

 一番、変わったのはケレンスキーに対する見方。ケレンスキーは権力のうっちゃり方が情けなかったということも含めて、全体としては心情移入できない悪役で、二月から十月にかけてはダース・ベイダーのような悪の権化のような印象でしたが、2月革命の頃、35歳だったんだなあと。

 子供じゃないですか…。

 読んだ時には凄い大人だと思だだけど、まあ、トロツキーも30代ですし、若いな、と。

 《「街頭の政治」とは噂、とりわけ陰謀に関する噂が人の心をとらえる政治である。そしてまた「敵」を探す政治でもあった》(p.69)というあたりを読むと人間ってのは変わらないな、と。こうした醜い政治の極北はスターリ二ストだけど、爽やかだったのは全共闘など少なかったな、と。

 しかし、それでもレーニンは、もし10年健康なら別の結果を出したんじゃないかと思う凄さはあります。四月テーゼも画期的というより、帝政が終わったばかりの農業国なのに、革命が可能だと宣言するパラダイム転換の勧め、みたいな感じだったのかな、と。

 それにしても、日露戦争の時の、帝国陸軍が防戦するしかなかった野戦のロシア陸軍と、二月革命時のアナーキーな兵士たち、その後のスターリン独裁下の対ドイツ戦で無残に犬死にしていくソ連軍の兵士たちの心象風景の連続性が見えないんですが、どうなっているんですかね。そこだけ不満。

 カー『ロシア革命』はどうだったんだろと改めて読みかえしてみたら教条主義的で読めたもんじゃない。カーの『歴史とは何か』も日本ぐらいでしか評価されてない、というのも分かります。

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May 13, 2017

『ロマン派の音楽家たち: 恋と友情と革命の青春譜』

『ロマン派の音楽家たち: 恋と友情と革命の青春譜』中川右介、ちくま新書

 メンデルスゾーン、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどロマン派の音楽家たちの交流を中心に、19世紀の音楽の発展を紐解く作品。自分が無知だけなのかもしれないけど、彼らは全員1810年前後の生まれだったとは。ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトなど、それまでの作曲家の社会的地位は低く、父子直伝の教育で訓練されたのも、誰もなろうとは思わない職業だったという指摘は目から鱗。そういえば、モーツァルトの葬儀も映画『アマデウス』まではいかないまでも質素に行われただけだった。

 それを劇的に上昇させたベートーヴェンで、彼が音楽家を社会から尊敬される存在にした、と。その流れに乗って一般家庭の子弟からも音楽家が出てきた、というあたりの背景説明は、ここまでクリアカットに書かれると新鮮。

 天才ピアノ少年リストは貴族から奨学金を得てハプスブルグのハンガリー領からウィーンに出てきて師事したのがベートーヴェンの弟子ツェルニーだったとは…。子どもの頃、いやいややらされていたピアノの「ツェルニー」が音楽史の中でやっと位置づけられました。

 いまもツェルニーをやらせるのか知らないけど、ピアノの先生は子どもたちにツェルニーに入らせる時「ベートーヴェンの弟子でリストを教えた人なのよ」ということをぜひ伝えてほしい。そうすれば、あの無味乾燥な練習曲も少しは見方が変わってくると思う。

 1828年までのメンデルスゾーン(19歳~)ショパン(18歳~)シューマン(同)リスト(17歳)作品など、年代ごとに作品が載っていて、こんなに若書きだったのか、と驚く。ショパンがポロネーズ8番をそんなに若い時に書いてるとは…。ショパンはエチュード1-12番を19歳から書き始めているのにも驚く。音楽家は神童が多いから、若書きでも関係ないんだな。

 こうした一年ごとに掲載されている作曲リストを見ると、ショパンはずっとコンスタントに名曲を書いている感じ。その継続性と、逆に爆発力のなさはなんなんだろ。まあ、ピアノ曲ばかりで書きやすかったのかもしれないけど、とにかく自分の強みに特化している。逆ににしてもワーグナーの遅咲きぶり。ベルディにしてもグランドオペラに特化している作曲家は、劇場やオーケストラ、歌手との交渉術なども含めて遅咲きにならざるを得ないのかも。

 クラシックは子どもの頃はいやいや、高校生ぐらいから意識的には聴きはじめたけど、何歳の時の作品とかは意識したことなかった…。ピアノの先生とか優秀な子がいたら「ショパンは17歳の時に葬送行進曲を書いていたのよ」とか教えれば発憤したりするんじゃないかな。

 メンデルスゾーンもショパンもあっけなく死んでしまうし、シューマンは自殺未遂のあと精神病院で死ぬ。いまのリサイタルの原型をつくったのはクララ・シューマンとリストだが、シューマンとクララの結婚生活はたった17年だったというのにも驚く。

 あと、ライプツィヒが音楽史上、こんな重要な都市だったとは。

 ま、それも含めて勝者の歴史なんでしょうが。

 中川さんは、笛とか買わせて業者儲けさせるより、学校で作曲を教えろと書いていたことあったけど、確かに作曲のメソッドとか教えてもらえないから、クラシック音楽の敷居は高く感じるのかもしれない。作曲術が少しでも分かればスコアも、もっとちゃんと読めるだろうし。

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