December 06, 2017

『ハプスブルク帝国』

Habsburg

『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書

 世界史を国民国家への到達プロセスとして描く近代史学からハプスブルク統治は低い評価しか与えられなかったんですが、ヘーゲル以来のそうした史観が衰えた今《多様性・複合性・流動性》を通して諸国家のありようを考えるスタンスから見直しが始まっているのかな、ということで読んだのが『ハプスブルク帝国』(p.4)。

 こうした近現代史観の反省から《帝国を過度なナショナリズムを抑え、多様な国・民族を包含した「連邦国家」の先進事例とみる研究が盛んになった》というんですが、従来、ハプスブルクはアナクロニズムの最たるものというか、知り合いの美術の先生が口を極めて貶すように建築の趣味なども良くありません。ディズニーが密輸したシンデレラ城のような偽ハプスブルク調は確かにオリジナリティのなさ、貴族趣味の大衆迎合を表している感じ。

 スナイダー『赤い大公』『ブラッドランド』などを読むと、そうした貴族趣味、権威主義の下ではあるものの、ナショナリズムに目覚めた多民族をなだめすかしながら統治し、域内とヨーロッパを戦禍から守ってきたハプスブルクの姿が浮かびあがってきます。しかし、第一次大戦でハプスブルクが倒れてしまい、そこからユダヤ人大虐殺と東欧の大量餓死が発生、東欧には自由がなくなった、と。

 例えば、ハプスブルクのブタペストは人工的なモデルとしてつくられたからユダヤ人が同化できたとも言われています。逆に、国民国家成立以前のような農村の孤島として存在していたユダヤ人村では、周辺の風習に同化しなかったので、主の祈りを唱えられない、乗馬が出来ないなどから簡単に特定されてしまい、迫害された、と。

 にしても、1912年のウィーンフィルによるマーラー9番の初演は、ブルーノ・ワルターが指揮、コンサート・マスターがマーラーの妹を娶ったロゼというユダヤ色の濃さに驚きます。しかし、ハプスブルクのウィーンが狂気のナショナリズムから庇護しようとしたユダヤ人たちは、オーストリア併合で散り、ロゼの娘はアウシュビッツで死ぬことになります。

 以下、箇条書きで。

 ハプスブルグを隆盛に導いたルドルフ1世の没後、スイス永久同盟とハプスブルクとの関係は悪化、ゼンパハの会戦(1386)で矛槍を装備した軽装歩兵が地の利を生かして、ハプスブルクの封建重装騎士軍に勝利したそうです(p.53)。乗馬した重装兵をこうした軽装の槍兵が圧倒していくというのは、観応の擾乱以降、在地領主が馬に乗らない槍部隊を活用した日本史とパラレルなんじゃないかと思いました。

 ちなみに、ハプスブルク城は1020-30年にチューリヒ近郊に築かれ、ルドルフ1世がドイツ国王=神聖ローマ皇帝に選出されたのは1273年。ルドルフ1世は各地を移動する「巡幸王権」スタイルで利害を調整。《文武両道に秀でながらも謙虚さと敬虔さを失わず、気さくで機知にも富んでいた》といいます。また、ルードルフ一世が国王に選出されたのは、「諸侯が勢力拡大を図る都合から強力な王の登場を望まず、弱小な「貧乏伯」を良しとしたためとされてきた」(p.22)が、今日では、適当な国王候補が見当たらない中、フランス王やチェコ王に抗しえる人材と見込まれたことや、当時ヨーロッパ最大の政治勢力であったシュタウフェン朝から支持されていたことが根拠となっている、とのこと。

 ルドルフ1世の諸民族と王国の利害を調整して帝国の安寧をはかりながらも、ローマでの戴冠式は法王の相次ぐ交代でかなわなかったという姿は、ミュージカル『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフの姿に重なります。こうしたマジメな始祖の心意気は受け継がれる時もあるし、スペイン・ハプスブルグ家のように広げすぎて破産する場合もあるな、と。

 スペインはカール、フェリペ以来、オランダ支配継続のためフランスにちょっかいを出し続けるんですが、プルボン家はスペインだけでなくオーストリアのハプスブルクからも嫁を貰い続けるなど王族の婚姻戦略は闇が深いな、と。オートリア・ハプスブルク家もナポレオンに王女を差し出すし。

 にしても、30年戦争をハプスブルクがまだ再カトリック化を目指して戦っている同じ頃、徳川幕府は宗教的には一向宗、キリシタンの過激派をほぼ殲滅し、豊臣家も根絶やしにしたというのは日本はすごい現世主義だな、とも思いました。

 今日の研究では「絶対主義」という用語をあまり用いなくなっているとのこと。三十年戦争以降の近世後期でも、ヨーロッパ諸国は絶対主義ではなく複合(君主制)国家だった、と。例えばプロイセンでも王権は諸身分の了解の下、中央の諸制度に地域の伝統的諸制度を「接ぎ木」する形で支配を浸透させていった、と(p.168-)。

 近世ヨーロッパ諸国における「強国化」の成否は、政府と国内諸勢力との合意形成に大きく依存していた、と。君主を中心としつつも複数の権力(とりわけ貴族)か国政に参加する「穏和」な混合君主制を最良とする見方が一般で、絶対王政、専制の擁護は傍流だつた、と。

 三十年戦争で没収したプロテスタントの領地は、戦費調達のため、ハプスブルク家が貴族たちに売却したが、シュバルツエンベルグ家はこれを足がかりに帝国諸侯となったという記述にはうなりました。ミュージカル『エリザベート』を見てシュバルツエンベルグ公爵が出てきたら「成り上がり者」と思うことにしようかな、と(p,171)。

 中興の祖となったマリア・テレジア軍事勲章は、勇敢さのみが授与の案件とされ、身分、宗教、民族のいずれも問わないと明文化されたそうです(p.176)。死は平等という原則が確認されたから、どんな開発途上国でも、民主化は軍隊が模範となるんだな、と。

 マリア・テレジアは他国の外交官から、美しくはないと書かれました。だから、末娘のマリー・アントワネットにも、さほど美しくはなかったのかもしれません。だからマリア・テレジアはアントワネットに、王妃として身を入れろと手紙を書き、息子、ヨーゼフ二世には、強権的な態度では一人も友人を見つけられないと言っていたのかも(p.230-)。

 ヨーゼフ二世が「良き意図を持ちながら、何事もなさなかった」まま1790年に没した後、開明的な弟、レオポルト二世が即位。内政を立て直したが、アントワネットの兄としてフランス国王夫妻を心配するあまり、外交的にはプロイセンと共同でピルニッツ宣言を発して失敗、92年に没となったのはハプスブルグ家にとってアンラッキーだったな、と。

 カール六世の娘であったマリア・テレジアは君主となったが、夫フランツ1世は皇帝となったものの、ハプスブルクの家領の継承者ではなく、実業に精を出して、ゾンバルトから「真の天才実業家」と評されていたというのには驚きます(p.243)。

 フランツ・ヨーゼフ1世は革命で損なわれた権威回復を目指し、フィッシュホーフ曰く「立っている軍隊すなわち兵士、座っている軍隊すなわち官僚、跪く軍隊すなわち聖職者、隠密の軍隊すなわち密告者」によって支えられていたというんですが、これはエリザベートの中の台詞のオリジナルだった(p.286)。

 文化面では色々ありますが、バルトークはパリのピアノコンクールでヴィルヘルム・バックハウスに次いで2位になったことがあったのか…。つか、バックハウスはそんな時代から活躍していたのか…子供の頃、まだバックハウスは神格化されていて、古臭い演奏のどこが凄いのかわからなかった(p.350)。

 にしても、日本人はハプスブルク帝国生まれの音楽家が大好きだな…。サラエボ事件で殺されたフランツ・フェルディナントも来日してるし、お互い割と軽蔑してるのに、なんか親近感あったというか。カラヤンもフランツ・フェルディナントの遺体を乗せた戦艦をアドリア海から眺めたという(p.351)。

 スターリンとヒトラーはシェーンブルン宮殿の庭園を愛して散歩したというのも驚きました。二人のちょっとダサい趣味はハプスブルク文化好きが共通項かも。トロツキーはカフェ「ツェントラール」の常連で展覧会やアートギャラリー巡りをして、チトーは労働運動で帝国内を転々、としていたとか(p.356)。

 ユーゴスラヴィア内戦における凄絶な民族浄化は、ナショナリズムの問題を浮き彫りにし、「ハプスブルク君主国は、国民国家的プランが必ずしも最善の解決法ではないことを我々に思い出させてくれる」クリストファー・クラークというのはいいまとめかもしれません(p.406)。

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December 02, 2017

iPhone XとApple Watch 2

Iphone_x_photo

 iPhone Xのへの機種変更のメモ。忘れないうちに。

 まず旧機種のバックアップをiCloudとMac Book Proの両方に、と思ったらMBPではHith Sierraへのアップデートが始まってしまった。まあ、仕方ないということで撮りためた録画などを見ながらやり過ごす。さらにアップデートしていたつもりだったiOSのアップデートもしなければならず、出だしから時間がとられる。

 結局、docomoショップで引き取れたのは、店内の手続きも含めて午後2時すぎ。待たされたのもあるけど、2時間ぐらいかかった…。くだらない時間の消費。新機種へのデータ引き継ぎを店内でやるかとか問われたので、遅いwifi使ってチンタラできないので出る。

 前のiPhoneの厚紙ケースはキッツキツで空気圧の加減で取るのも一苦労だったけど、今のは逆にユルユルで、上蓋を持ったら底からiPhonetが落ちた。家だったから良かったものの、もう少しどうにかならないもんかな(ちなみにチンアナゴみたいな不格好なAir Podが不愉快で、しばらく6sを使っていました)。

 とりあえずiPhone XをMBPに繋いだら「OSのアップデートをしろ」ということで出だしからつまづくw新しいiPhoneなのに、システムをアップデートしないとMacから復元できないっつうか、ほんと、この手順面倒。

 アップデートしてからは、元の6sからの復元は20分ぐらい。さすが、256GBということで、空き容量は153GBあって余裕w

 最後にLINEの引き継ぎも終えてホッとしたのか(旧機種から「新機種に引き継ぐ」と指定しないといけないなんて面倒な設定が加わっていたけど)、大事なことを思い出す。

 それはApple Watchの存在。Apple Watch 2と旧6sとのペアリングを解除して、新しいiPhone Xとペアリングしないといけなかった…。

 ところがペアリング解除がうまくいかなかったらしく、新機種でのペアリングが進まない。結局、Apple Watchを初期化したら、かろうじてデータが残っていたので、iPhone Xとペアリングして前の走行データとか使えることに。にしても、iOSデバイスの子デバイスというのは面倒…。

 Mac OSをルートとしたら、ディレクトリが3つ下みたいなイメージなので。実際、友人もApple Watchの引き継ぎ=旧機種のペアリング解除→新しいiPhone Xとのペアリングで苦労していました。

 とりあえずLINEで「再び使えるようになりました」と打ったら、docomoメールの設定が残っていた…。これ、残さざるを得ないんだけど…もう、やんなるw

 パソコンつくっているメーカーや、MSでもいいけど、新しい機種に買い換えてもいい んだけど、設定の引き継ぎが本当に面倒くさいのをなんとかしないと需要喚起しないと思うんですよね。Macは楽だけど、まだ、半日がかりだし、iOSデバイスでも一発ではスッといかないし…。

 iPhone Xで撮った表参道の夜景してみると、暗部が潰れてないし、かなり進歩しているな、と思っています。

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November 29, 2017

『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』

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『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田俊和、中公新書

 最近の室町ブームは、若い研究者たちが資料を佐藤進、林屋辰三郎などが追いかけられかったような膨大な読み込んで、新たな視点から歴史を描いてくれているからだと思います。

 学生の頃から室町時代は資料が少ないので確定的なことが言えない、と言われていましたが、僧侶などが大量に残した日記や、地方に眠る資料などをから、自領安堵と恩賞目当てで離合集散する複雑な武士たちの動きが見てきた感じ。それは司馬遼的なワンパターン的な武士像ではなく、日本が世界に誇る、元はといえば農民が自らの権利を守るために台頭し、同時に統治能力もたかめていったというボトムアップ型の権力構造を実際の動きから垣間見せてくれる感じがします。

 観応の擾乱は、以下のようにダイナミックな攻守転換で推移します。

 《四條畷の戦いで難敵楠木正成に勝利して室町幕府の覇権確立に絶大な貢献を果たした(足利尊氏の)執事高師直が、わずか一年半後に執事を罷免されて失脚する。だがその直後に数万騎の軍勢を率いて主君の将軍足利尊氏邸を包囲し(御所巻)、逆に政敵の三条殿足利直義(尊氏の弟)を引退に追い込む。
 ところが直義は南朝と手を結ぶと直義に寝返る武将が続出し、尊氏軍は敗北して高一族は誅殺される。
 だがそのわずか五ヵ月後には何もしていないのに直義が失脚して北陸から関東へ没落し、今度は直義に造反して尊氏に帰参する武将が相次いで、尊氏が勝利する。そして、その後も南朝(主力は旧直義派)との激戦がしばらくはほぼ毎年繰り返されるのである。
 短期間で形成が極端に変動し、地滑り的な離合集散が続く印象である。このような戦乱は、日本史上でも類を見ないのではないか》(p.215-)

 恩賞を通じて師直が急進的に進めようとした在地領主優先主義を、直義が何故か待ったをかけて歴史の動きを止めてしまった、みたいな感じも受けますが、師直は領地をそれほど重視しておらず、綺麗な歴史的な解釈といいますか、観応の擾乱が幕藩体制で完成する荘園制解体にどう繋がったということを説明するのは難しいかもしれません。

 また、恩賞充行結果が出るのに時間がかかったことも、それが観応の擾乱の根本的な原因になったとという考えもあるようですが、寺社と公家の領地を守ろうとした足利直義が消え、所領や在地に執着しなかった高師直も消えた事もある意味象徴的。

 観応の擾乱後に、二人の代わりに表舞台に出てくるのが、在地を基盤にした細川、山名(どちらも応仁の乱の主役)だというのは、これからの荘園制社会の変化が読み取れるかもしれません。

 さらに、享徳の乱で鄙な関東から、こうした動きが拡大されるのかな、と。

 さらに、『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書を読むと、ルドルフ1世の没後、スイス永久同盟とハプスブルクとの関係は悪化、ゼンパハの会戦(1386)で矛槍を装備した軽装歩兵が地の利を生かして、ハプスブルクの封建重装騎士軍に勝利したという記述があるのですが(p.53)、これは観応の擾乱以降、在地領主が馬に乗らない槍部隊を活用した日本史とパラレルなのかな?

 また、守護大名は結構、足利将軍家からの命令で変わっていることもわかります。名誉職みたいな感じといますか、やはり、在地領主や戦国大名に取って代わられるわな、と。しかも、在京の守護大名だったわけですし。

 とにかく、この後、細川顕氏と山名時氏が重要なプレーヤーになるんですが、それにしても、山名はこの時から有力なのに、なんで管領になれなかったんだろ、とも感じます。まあ、その秩序感覚が守護大名の限界だったのかもしれませんが(p.34)。

 このほか、鎌倉期においては、下文や下知状は拝領者の自助努力によって実現するのが原則で(守護に強制執行を命じる機能はない)、沙汰付を命じるタイプの施行状は、基本的に武家政権では室町幕府になって初めて登場したというのは知りませんでした。執事執行権は鎌倉期と最も違っており、それを担当したのは高師直、と(p.21)。

 Eテレでも『観応の擾乱』が取り上げられましたが、中野サイコパス信子による「わかりやすさvsただしさは、必ずわかりやすさが勝つ」という話しはわかりやすかった。彼女は「インテリは秩序感覚を重視した直義を支持したろうが、バカな武士は『尊氏マジ神』で支持した」とも語っていて、わかりやいかな、と。

 また、足利家執事という立場のおかげで、師直自身が兵馬を養わなくても大軍を指揮することが出来てしまっていたのが、他の武士たちと価値観の相違を産み出した、ってのは頷ける話。

 それにしても、観応の擾乱は、今年の衆議院選挙に似ていました。民進右派の連中が結局は細野と一緒になって、今度は民進左派と戦い、かつてのボス前原は無所属になるったあたりの、もう訳がわからん状況から、希望の党が地滑り的に敗北。あの無節操な入り乱れ方はまさに観応の擾乱を目の当たりにしている気分でした。観応の擾乱、享徳の乱、応仁の乱で一番大切なことは、二世三世の守護大名が淘汰され、地元に根づいた地侍が世界に誇る戦国大名として自らを昇華させていったことだと思うし、そうした契機に、今回の観応の擾乱ならぬ「平成の擾乱」がなってほしいんと思います。ただ、終わった後は、まだ風まかせの空中戦やっているようで、丸山眞男が高く評価した朝倉は誰だろと思うことがあります。

 南北朝はいったん、正平の一統で和解しますが、それが尊氏の長年の目標と限りなく近いものだった、というのは、なるほどな、と。元々、尊氏は後醍醐天皇に叛意はなかったのに直義に引っ張られて挙兵したわけで、そもそも尊氏には北朝に強い思い入れなど抱いておらず、建武新政時代に持明院党の光厳天皇は敵だった、と(p.166)。

 尊氏は複雑というか、最終的にやる気になるというのは、40代になってからも人は変われる、ということまで教えられるとは!御家人同士の血で血を洗う鎌倉時代と違って、どっか守りに入った感じもある武士の姿は、現代のサラリーマンにも通じるというか、また、室町時代が身近になりました。

 後期の足利幕府の将軍たちは、実権を失って有力大名を頼って転々とするけど、尊氏、直義、義詮も戦いに敗れると逃げまくっているので、あまり、そうしたことは恥と考えてなかったというか、尊氏は敗走した後、なんか盛り返して勝つみたいなことをやっていたから、作風と考えてたりして。

 にしても、尊氏、直義の二頭政治論by佐藤進一を最初に批判したのは、『応仁の乱』の呉座勇一なのか(p.9)。


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November 26, 2017

『ウォークス』

Walks

『ウォークス』レベッカ・ソルニット、左右社

 ゆっくりと読み進む愉しみだけの読書を久々に堪能した感じ。著者のレベッカ・ソルニットは大学に属しない独立の研究者。厳密な学問ではないけど、誰も気にしていなかった大きなニッチを探す名人。もちろん、アカデミックな厳密性には限界はあって、「歴史は二度繰りかえす。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」を『ブリュメール18日』は読んでないだろうな、という感じでマルクスの言葉として引用しているところとか、ちょっとガッカリはするんですが、まあ、米英の研究者にはけっこうこういう間違いやってる先生も少なくないので(羨ましい性格w)許せます。

 それより、男性が偉そうに女性を見下しながら何かを解説・助言することをman(男)とexplain(説明する)をかけ合わせてマンスプレイニングという言葉にしてみせたような瞬発力の方が魅力的ですもんね。

 この本は「歩くことの精神史」という副題の通り、人文学者や作家などが、歩くという行為の中で、どれだけ考えを深め、時速3マイル(約5km)という速度で動く風景がどれだけ人々を慰めてきたかを膨大な引用で綴ります。

 それを人類史的に、直立二足歩行によってヒトは、直射日光を受ける量を最小化して太陽による体温上昇を抑えて森から離れる長距離移動が可能になった、みたいなとこから始まるのは、センス・オブ・ワンダー(p.73)。さらに、サル科では体格差の大きいと一夫多妻が普通で、一夫一婦制はテナガザルなど体格差がない種に限られる、という議論はなるほど、と思うけど初めて読んだ感じ(p.69)。

 近代以降のヨーロッパの都市は、当初、不潔で夜は危険であまり散歩に適した状態ではなかったが、工場労働者たちが週末に自然に触れるために積極的に郊外に進出いていく、みたいな流れが描かれていきます。

 個人的に印象に残ったのは、第二次大戦後の米英の郊外の住宅地は、再開発のために退屈なものとなり《歩いて行くような場所はほとんどなかった》というあたり(p.423)。たまたま生まれ育った広尾の地は、実家の貧しさを忘れさせてくれるような様々なな国の大使館がいっぱいあってして散歩は本当に楽しかったんです。根津美術館、骨董通り、有栖川公園、渋谷の映画街、恵比寿のダウンタウン、お嬢様学校の生徒さんの歩く姿など退屈知らずだったな、とか思い出しながら読んでました。

 ただ純粋に山に登って高みからの眺望を楽しんだ初めての人物であるペトラルカが登ったのは、フランスのモン・ヴァントゥなのか、というのも個人的には驚きでした(p.222)。ツールドフランスで何回もゴールに設定されたモン・ヴァントゥにこんな歴史があったとは…毎回空撮が綺麗なのは、ちゃんと理由があるんだ、とか。

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November 25, 2017

Apple Payを導入

Apple_pay_watch

 遅まきながらiPhone XとApple Watch 2にApple Payを導入しました。

 入れるカードはまだキャンペンーンをやっているdocomoのDカード(1万円キャッシュバック)にしたんですが、iPhone Xを買った当初に使えるようにしようとしたら、docomoのわけ分からない仕様に悩まされ(いったいいくつのIDとPSWが必要なんだという)放っておいたんです。

 そしたら、今日、docomoのメールが送れない、ということがわかり(ごく一部の方々しかdocomoメールではつながっていないので)、「これはApple Payの設定をしようとした際に使ったdアカウントアプリが悪さをしているのに違いない」と思い、docomoショップへ。そしてロックがかかっていたのを解除してもらって、無事、メールが使えるようになったんで、ついでにApple Payを使えるようにしてもらました。

[dカードのキャンペーンサイトからは登録できなかった]

 というにもiPhone Xを購入した直後に案内されたキャンペーンのホームからはどうやってもうまくいかなかったから。そしたら、ごくフツーにdカードアプリからやると設定できました。

 ついでに、iPhone側のWatchアプリからApple Payも設定して、Apple Watchでもかざすだけで支払いOKにしました。これも結構複雑というか、iPhone側のWatchアプリからiPhone上のカードを追加して(クレジットカードのセキュリティコード入力が必要)、その上でApple WatchのWalletアプリで確認、パスコードも設定する、という作業となります。

 落としたApple Watchでバンバン使われないためにもパスコードが必要なんでしょうが、いったん、手首から外すとパスコードを入力しないといけないというのは面倒かも(Apple Watch手首認証をオンにしておかないと、手首に付けていてもパスコードを求められることになります)。

Apple_pay_watch_2

[Suicaはさらに大変…]

 日本でApple Payを使う場合、iPhoneではフツーのクレジットカードを使い、Apple WatchではSuicaにすると最強と言われていたので、昨日のdカードに続き、Suicaを入れることにしましたが、えらい苦労しました。

 結論的に言えばインターネット上の登録方法の案内は全く役に立ちませんでした。交通系カードではPASMOが登録できないなど、様々な問題があるようですが、とにかく複雑で、友人から「すまん、登録方法教えてくれ」と聞かれても「050-2016-5077に電話をかけて教えもらう方がいい。やたら待たされるけど」と伝えたい感じ。

 いろいろインターネット上の情報の読んで、まあまあ、いけるなと思ったのが甘かった。つか、ちょっとカネというか金融がからむ問題になると、とたんにインターネット上に散乱している情報の不正確さが目立つ感じ。ゆとり化か!ってね。

 いろいろ苦労したんで、最初から書かせてください。

 まず、クレジットカードにSuica機能がついてる「大人の休日カード」というJR東日本的には最強のカードを持っているので、これでいけると思ったんです。でも、大切なのはオートチャージだから、それを使えるようにするため、駅のATM「VIEW ALTTE」(ビューアルッテ)で設定しなければならないな、と思って行ったんですわ。そしたら、すでにオートチャージ設定済みとのこと。

 そういえば東日本のヤツに「入ってくださいよ」みたいなこと言われて、なんでもアリアリにしたんだったけな…なんてことを思い出しました。でも、これまで一回も使ったことなくて(通勤が東横線と営団地下鉄だったもので)、機能を呼び出せなかったという。駅員の人に「一回、そのオトキュー(大人の休日)のカードをタッチしてもらえれば3000円分入りますから」と言われてやってみたら、ちゃんとチャージされてました。

 いきなりムダ足を踏んだと思って帰宅したんですが、ここからが今回の話しの本番。Appleも含めてインターネット上の情報を読んだだけでは、どうしても登録できなかったんです。

[Suica機能付のクレジットカードを登録してもSuicaはモバイルでは使えない]

 まさかと思ったんですがJR東日本のカードで最強のSuica機能付のオトキュークレジットカードでも、Apple PayにApple PayのAPPから登録してもSuica機能はモバイルでは使えないんですよ。

 言っていること分かります?Suica機能付のレジットカードをApple Payに登録しても、単なるクレジットカードとしてしか使えないんです。

 これは驚きの仕様でした。

 それを知らないものですから、Apple PayのAPPから「Suicaを登録する」を選んで、いざ、Suica機能付のクレジットカードを取り込もうとすると「このカードは使えません」と拒否されることに。

 おかしいな、と思って色々、読んだら、確かにその通りの仕様になっているので、これはSuica APPから登録しなければならないんだな、と諦めてSuica APPをダウンロードして、そこでの設定に移ります。しかし、ここでも大変でした。

[Suica APPでの設定]

 Suica APPでは無記名のSuicaもつくれるという謎のサービスもあるのですが、それはいくらなんでも今回はいらないわ、ということで記名式の通常のモバイルSuicaをAPP上から新規作成することにします。そして、いろいろ記入させられて、いざ使えるように金額をチャージしようとすると、Apple PayのAPPに飛ばされて、しかもハネられてしまいます。

 この時点で再びアテにはしなかったけど、インターネットを検索したんですが、Apple本体のQ&Aを含めてまったく対策が分からず、JR東日本のSuicaの窓口に電話したら「ご不便をおかけして申し訳いりませんが、とても複雑なので専用窓口の050-2016-5077に電話をかけて手順を教えてもらってください」と言われる始末。何回もかけ直して、やっとつながって出てきた担当者は優秀でした(なんもわかっていない人の多いdocomoより数十倍優秀)。

[登録できた手順]

 電話で教えてもらった手順で、「聞いてねぇよ」と思ったのが、どんなSuicaをつくるか、という質問項目の終わりの方で「クレジットカード登録をする」を選ばないとダメだったということ。

 「何十枚もクレジットカード持っているから、これ以上はいらないわな」と思って、ここは登録しないを選んだんですが、それでは永久に終わらないという仕様でした(果たしてそれが仕様と言えるのかは別として…)。

 そこさえクリアーすれば、後はオトキュークレジットカードの実力が爆発。カードの種類によってはオートチャージが出来ないのもあるらしいんですが、もちろんJR東日本で最強の大人の休日(オトキュー)カードはサックサク。無事にオートチャージも設定できました。

 これで旅行中、PASMOのチャージがなくなっても、まだモバイルSuicaが使えることになり、よりストレスなく旅行を楽しめそうです。

[Suicaカードを持っていれば簡単だったみたい]

 今回、なんではまったかというと、Suicaカードを整理して換金してしまい、持っていなかったから。もし、Suicaカードさえ持っていれば、簡単に登録だけはできるかもしれません(オートチャージはしりませんが)。

 以上、ご参考になれば。

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November 03, 2017

『サッドヒルを掘り返せ』

 東京国際映画祭の出品作品『サッドヒルを掘り返せ』は最高でした。

 『サッドヒルを掘り返せ』はセルジオ・レオーネの映画史に残る傑作『続・夕陽のガンマン』(The Good, the Bad and the Ugly「善玉、悪玉、卑劣漢」)の、あまりにも有名なラストの決闘シーンが撮られた墓場(サッドヒル)のセットが、スペインの荒野に荒廃するがままになっているのを、映画ファンたちが復元しようという試みを描いたドキュメント。

 サッドヒルは映画のセットなので、土に埋もれた墓場を掘り返しても何も出できません。しかし、何も出てこないところを掘り返して、埋もれてしまった円形の闘技場のような石畳を見たいという無から有を生むプロジェクトが映画的だな、と。

 『サッドヒルを掘り返せ』の監督、プロデューサーのトークセッションでも、最初はYoutubeにでもアップできればということでスタートしたプロジェクトが、どんどん大きくなって、『続・夕陽のガンマン』マニアのメタリカのジェイムズ(コンサートのオープニングはいつも『続・夕陽のガンマン』のサッドヒルの場面)や、イーストウッド本人まで登場する作品になったと語っていました。

 それも、これもサッドヒルを復元したいというコケの一念がSNSなどを通じてどんどん広がり、人手や資金が集まっていきます。
 
 しかもこのセットはフランコ政権最後の時代に、軍隊まで動員して作られたという裏話も広がっていきます。

 改めて驚いたのは『続・夕陽のガンマン』はフランコ政権時代に政府の協力を得て撮られた作品だということ。もう、その部分でも歴史になってる。レオーネ作品は反戦、反ナショナリズムに仕上がっているというのも壮大な皮肉。それも含めて歴史的な作品だな、と。

 質問もしちゃったんですが、監督のぼくの質問への答えは「フランコ政権のラスト・ディケイドに『続・夕陽のガンマン』は作られた。政権としては外国から映画を撮りにわざわざスペインに来るのは政治が上手くいってる証拠とPRしていたし、内容が反戦、反ナショナリズムでも外国の話ならOKだった」みたいな感じでした。

 それにしても、フランコ政権時にフレッド・ジンネマンが『日曜日には鼠を殺せ』を撮ったのは凄いと改めて感じるし、続・夕陽のガンマン50周年に集まった人々が白人ばかりというのには、ひょっとしてサッドヒルの背景にフランコ時代への郷愁とかあるのかな、なんてことも思ったけど、さすがに聞けなかったw

 映画がヨーロッパでは本当に偉大な文化として扱われているし、プロジェクトも聖地巡礼でサッドヒルの墓場のセットの跡地に訪れるファンが多かったというのも驚く。これからは聖地巡礼だけでなく、聖地再構築がコアな映画ファンのトレンドになるかも。プロジェクトメンバーたちの語る「芸術は聖なる体験」という言葉には深く頷く。

 無から有を生むのは宗教の始まりというか。

 東京国際映画祭では、何年か前に見た『少年トロツキー』が良かったけど、『サッドヒルを掘り返せ』はそれを上回る収穫でしたね。トロツキーもサッドヒルも、こうした機会がなければ見られなかったのでありがたいな、と。残念ながら、コンペ外の作品なので不可能なのですが、もしこうした作品に大賞とか献上すれば、映画祭の価値も上がると思う。そうれば、こうした作品がもっと多くの人の目に触れるようになると思います。

 それにしてもブレードランナーをリメイクした監督に、サッドヒルの半分でもオリジナルの映画へのリスペクトがあれば…と。

 なお、11/3(金)横浜ブルク13上映『サッドヒルを掘り返せ』(東京国際映画祭共催)ギジェルモ・デ・オリベイラ監督の登壇が決定したそうです。ぜひ!

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October 22, 2017

『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』リ

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『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』リチャード・ベッセル、大山晶訳、中公新書

 2年前に出て買っただけだったのを、夏場に取り出してきて読んだんですが、まとめていなかったので、備忘録的に。

 ヴェルサイユ条約でポーランド回廊によって切り離された東プロイセンの飛び地では、軍縮のため、国境防衛でナチのSAの協力が不可欠となり、後の国防長官やドイツ・プロテスタント教会の国家主教となるルートヴィヒ・ミューラーなどが出た(p.37)。

 ナチスはイタリアが苦戦したユーゴを征服した後、セルビア人男性は無罪を証明できない限り有罪となり、一人のドイツヒトラー将校が殺された村は破壊された、と(p.146)。

 サッカー国際試合で旧ユーゴ諸国がドイツ戦で見せるガッツはここらあたりから出てきているんだな、みたいな。

 ヒトラーは完全に包囲される前にスターリングラードの10万人の第六軍を脱出させずに6000人しか帰還出来ない大失態を演じたけど、少なくとも、その事実は公表し、ゲッペルスが国民向けの総力戦演説を行ったのは、なんて旧日本軍と違うんだ、と思う(p.178-)。

 ドイツ国民も東部戦線で国防軍が被った莫大な損害を懸念していたという。クリスタルナハトのユダヤ人弾圧も目の当たりにしていた国民はバカじゃないから、薄々、敗北も虐殺も知っていたんだろうな、と(『この世界の片隅で』でも、長粒米を喰っていた主人公たちは知っていたんだろうけど、そこらへんは、やっぱり描かれてはいなかった)。

 日本も本土決戦は避けたのにドイツは最後まで戦い政府所在地が制圧されて降伏。これは現代史上初。第二次世界大戦のドイツの損失の1/4以上は最後の4ヶ月に発生したというのは、ヒトラーの死なば諸共作戦なんだな、と。

 また、ナチスが恐れていたのは第一次世界大戦の敗北につながった18年11月のような兵士の逃亡、内部の革命だったけれども、それはおこらなかった、と(p.214-)。

 しかし《略奪者は撃たれ、それがとくに外国人である場合、NSDAPの地方役人はしきりに大衆にそれを知らせたがった》(p.225)、と。

 カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』で、ドレスデン爆撃後に米兵が焼け跡からティーポットを盗んだ罪で処刑されるエピソードはそういうことだったのか、と。

 戦争最末期の《経験は、ドイツ国民にとってあまりに悲惨だったため、この「最後の奮闘」のショックは、ナチ・ドイツの戦争初期の記憶に取って変わった》(p.236)。

 加藤陽子先生が太平洋戦争について指摘していた、沖縄戦、本土爆撃、原爆によって日本人の戦争の記憶が上書きされた、という主張に似ているな、と。

 大戦最末期の経験は被害者意識とないまぜになって《戦後政治の基盤となり、第三帝国での出来事の多くについて沈黙させる基盤となったことは驚くにあたらない》(p.236)。

 ここらあたりも日本と似てる。しかも、日本ではまだ『この世の片隅で』みたいなのがが無批判に受け入れられてるし…。

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October 21, 2017

『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』

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『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』ティモシー・スナイダー、慶應義塾大学出版会、池田年穂訳

 『赤い大公』『ブラッドランド』『ブラックアース』の著者であるティモシー・スナイダーは16年11月8日にドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選した週間後の11月16日、自身のFaceBook上に「こんにちの状況にふさわしい20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン」を載せました。

 スナイダー教授は東欧近現代史の研究者。その彼が、「歴史は繰り返す」ことに危機感を抱き、ポピュリズム、権威主義的政権に立ち向かうためのマニュアルとして20のレッスンは緊急に書かれたもので、本書『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』慶應義塾大学出版会、池田年穂訳はそれに肉付きさせたもの。

 《20世紀のヨーロッパ史が私たちに教えてくれるものは何かと言えば、社会が破綻するのも、民主制が崩壊するのも、道義が地に墜ちるのも、普通の男たちが銃を構えて死の穴の縁に立つのも、何もかもありうるのだということです》とプロローグが書かれていますが、スターリングラードで退却したら自軍の機関銃の餌食になる状況で絶望的な突撃を命じられ、双方に約200万人の死傷者を出した凄惨な市街戦が繰り広げられてから、まだ70年しかたっていないし、ユダヤ人虐殺からも70年たっていないのですから。

 20のレッスンは以下の通り。

 投票前にご参考にしてください。

1)忖度による服従はするな
2)組織や制度を守れ
3)一党独裁国家に気をつけよ
4)シンボルに責任を持て
5)職業倫理を忘れるな
6)準軍事組織には気をつけよ
7)武器を携行するに際しては思慮深くあれ
8)自分の意志を貫け
9)自分の言葉を大切にしよう
10)真実があるのを信ぜよ
11)自分で調べよ
12)アイコンタクトとちょっとした会話を怠るな
13)「リアル」な世界で政治を実践しよう
14)きちんとした私生活をもとう
15)大義名分には寄付せよ
16)他の国の仲間から学べ
17)危険な言葉には耳をそばだてよ
18)想定外のことが起きても平静さを保て
19)愛国者(ペイトリオット)たれ
20)勇気をふりしぼれ

 例えば

1)忖度による服従はするな
 人々は驚くほど、新しい状況下での新しい規則を受けいれやすく、ナチスが政権を取ったあとは忖度による服従がみられた、と。オーストリア侵攻後、オーストリアの役人も一般人も、ヒトラーの意を忖度し、率先してユダヤ人への侮辱と財産没収をはじめたそうです。人間って醜いですよね。

3)一党独裁国家に気をつけよ
「不断の警戒は自由の代償だ」

4)シンボルに責任を持て
スターリンは富農を豚の姿に描かせ、ドイツではナチスがユダヤ人の家や商店にペンキで「ユダヤ人」の印をつけはじめたところからボイコット→虐殺への暴走がはじまった。

11)自分で調べよ
ジャーナリストの倫理に固執する人間たちの仕事は、そうでない人間たちの仕事とは質が違う。価値あるものには代価が支払われるべき。

18)想定外のことが起きても平静さを保て
プーチンはテロの脅威を口実とするトリックでのし上がった。

 というようなことだ、と。

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October 20, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本 12巻 革命の終焉)

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 フランス革命はテルミドールの反動までは、常に左が右を倒してききました。しかし、遅塚忠躬にいわせると平原派であるブルジョワがロベスピエールを使って、封建主義に戻そうとする王党派と極端な左派を打倒し、最後に「走狗煮た」とも見えます(それでも、最後にはナポレオンの武力に頼らざるを得なくなるわけですが)。

 実際、サン・ジュスト、ルバらと共にロベスピエールは穏健派(右派)であるダントンらと、極左とも言うべき激昂派とエベール派をギロチン台に送った後、急速に求心力を失います。左右を切ってダイナミクスを失ったという力学だけでなく、対外戦争が好転して、危機的な状況から脱したということも影響していました。独裁は危機だから許されたのに、ロベスピエールたちは、「まだまだ」と油断していたのかも。

 サン・ジュストは若いから根回しが下手ということがあったんでしょうかね。また、ロベスピエールにも慢心があったのでしょうか。対立を深める公安委員会と保安委員会との妥協点を探る動きは、ことごとく失敗するわけです。

 7月26日(テルミドール=熱月8日)、ロベスピエールは苛立って国民公会で「静粛されなければならない議員がいる」と演説、全ての議員が動揺することになります。こんなこと言わなければいいのに。

 翌7月27日(テルミドール=熱月9日)、それでもサン・ジュストは保安委員会との妥協を図る演説をすることで妥協を図ろうとしますが、事前に保安委員会に演説原稿をみせるという約束を破ってしまいます。

 議会は混乱。しかし、ロベスピエール派は議長に発言を封じられ、「暴君を倒せ!」という野次と怒涛の中で、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、ルバ、オーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエール弟)を逮捕する決議が通過。

 国民衛兵隊長アンリオが200人の砲兵隊を連れてくるなど、いったんはパリ市らの手によってロベスピエールらの身柄は解放されたものの、ロベスピエールは蜂起の先頭に立つことを拒否。

 なんなんでしょうかね。この期に及んでの逡巡は。独裁者と呼ばれたくなかったにしても、破滅が予想される中で最後まで煮え切らない態度を取る理由は。政争に疲れ果てていたのかもしれませんが。

 実際、ロベスピエールは実際の蜂起に加わったこともないし、権力奪取後も「精神的な蜂起、道徳的な暴動」「徳の政治」を目指すという観念的な方向に行ってしまうんです。

 ロベスピエール支持派は彼らをいったんは奪い返したものの、本人が煮え切らない態度のままでいたため、やがて動きは急速に萎み、蜂起した側が逮捕されることに。小説では、ロペピエールは自殺未遂をした、という設定になってますが、まあ、撃たれたというよりいいかも。

 2部の後半ではエベール派について、色々、考えていたんですが、風刺漫画の「シャルリー・エブド」が下品で卑猥なのは、フランス革命当時のエベールから連綿と引き継がれて、折に触れて復活した結辞にfoutre(Merdeより汚い言葉)を使う『デュシェーヌ親父』(Le Pere Duchesne)以来の伝統だったりして、とか思いました。

 正直、あまりの悪文に『小説フランス革命』は途中で放り出していたんです。改めて読んでみようかな、と思ったのは、雪組公演『ひかりふる路 革命家、マクシミリアン・ロベスピエール』が発表されたからです。ベルばらだと、バスティーユの後、すぐにマリー・アントワネットの処刑になってしまうんですが、もちろん、そんなに足早に歴史は進みません。一時期は1791年憲法の立憲君主制ぐらいで落ち着くかと思ったら、そこから一気に左傾し、共和制の成立、王族の処刑、政治的な粛清と進みます。

 『ひかりふる路』はおそらく、佐藤賢一版『小説フランス革命』では2部が舞台となると思いますし、予想ですが、7-10巻ぐらいが中心かな、と。ご参考になれば幸いです。

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『小説フランス革命』第2部(単行本 11巻 徳の政治)

 フランス革命の人類史的な偉大さは理想を掲げて行われた政変だったということでしょう。そして《貧者の生きる権利が高く掲げられたフランス革命93年の段階があったからこそ生存権という基本的考えも日本国憲法第二十五条に書かれるようになっているのであり「現代日本の私たちは、あの恐怖政治の血まみれの手からの贈り物を受けているのです」》から(遅塚忠躬『フランス革命 歴史における劇薬』p.169)。

 誇り高く人権宣言を採択したものの、あとは立憲君主制ぐらいでお茶を濁そうという段階で、さらに、普通選挙を求めたのはロベスピエールでした。さらに反戦、自由主義経済への国家の介入などを求めて政治的な闘争を続け、最終的には「徳の政治」を目指します。

 「恐怖というのは徳の発露だ」とロベスピエールは演説します(p.60)。「革命を停滞させないための独裁なのだ」と自己弁護も図りますが(p.188)、Le Regne de la vertu(徳の政治)がいつの間にかLe Regne de la terreur et la vertu(恐怖と徳の政治)になってしまい、最終的にはテルミドールの反動で惨めな敗北を喫し、ギロチン台の露と消えることになります。

 最初に共和制を叫んだのはジロンド派でしたが、彼らのような中途半端なやり方ではなく、公安委員会に権力が統一されたことにより、直接、将軍たちを指導することで、11巻では対外戦争が好転してきます。中でもイギリスに奪われたというか、イギリス軍を招き入れてしまったトゥーロン海軍基地の奪還はメルクマールとなる出来事で、ナポレオンが砲兵隊長として活躍、歴史の表舞台に出てきます。

 こうした中、中央の政治ではエベールらの過激派と、ダントンやデムーランの寛容派との対立が激化してきます。1793年も不作で、サンキュロットたちの不満は1794年になるとますますつのってきたからです。それを過激派は煽って、あわよくば政権も奪おうとしていた、と。

 こうした中で、サン・ジュストは貧しき愛国者を革命の敵の財産を没収することで救済するという方針を打ち出します。

 所有権の崩壊につながりかねないこの政策に穏健派は反撥、過激派の方も自分たちの出番がなくなると危機感をつのらせます。

 これまでフランス革命は常に左が右を倒してきました。フイヤン派、ジロンド派が処断され、ロベスピエールは常に左よりになる中央にいて権力を握ってきたわけですが、庶民の無政府主義的な蜂起が続いたことに対応するためというか、暴力を管理するため、一気に自らが「徳の政治」を掲げて最左派となろうとした、と(p.104)。そしてバランスをとるためにも右派の寛容派も切る、と。

 追い込まれたエベール派は、公安委員会を倒すべく蜂起を企てますが、盛り上がりに欠けてあえなく失敗。ダントンとデムーランもロベスピエールとの関係修復を試みますが、ロベスピエールはサン・ジュストらと両方を逮捕する道を選びます。

1794年3月4日:エベールらの蜂起(失敗)
1794年3月10日:ダントン派(寛容派)一斉逮捕
3月13日~14日:エベール派一斉逮捕

 そして、フィクションというか想像をたくましくしたんでしょうが、ロベスピエールは密かに愛したデムーランの妻リシュルも断頭台に送る、というところで11巻は終わります。

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