August 15, 2024

『吾妻鏡 鎌倉幕府「正史」の虚実』薮本勝治

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『吾妻鏡 鎌倉幕府「正史」の虚実』薮本勝治、中公新書

著者が高校教師、しかも国語を教えているということに驚きました。


しかし、だからこそ、日本中世史研究から自由な立場を維持でき、原始『平家物語』などの資料の想定から、『吾妻鏡』は編年体という正史的な装いの中で軍記物的叙述を加えることによって、頼朝〜泰時〜時頼という正当性を印象付けた物語なのだという主張は本当に目からウロコ。

『吾妻鏡』と『平家物語』は類書にない共通の虚構や構造を持ち(以仁王の令旨など)、独特の表現も共有しており、成立年代から考えて、『吾妻鏡』は原始『平家物語』を底本にして書かれている可能性がある、と。

これって新約聖書のうちマタイとルカがQ資料とマルコを元に書いたという説に並行しているというか、こういう編集史的な視点は今後の資料批判で、どんどん進めてもらいたいと思うんですが、どうなんでしょうかね。

北条時政を平直方の子孫とする『吾妻鏡』は、頼義が平直方の婿となって嫡子義家をもうけたことと、その子孫である頼朝が、直方の子孫である時政の娘婿となったことを言挙げするための虚構だ、という指摘もうなりました。

それは流浪の貴種を助ける、縁のある豪族の助力という物語の構造を借りたものであり、例えば『源氏物語』だと、桐壺更衣の従兄弟である明石入道に光源氏が須磨で助けられたようなもの、というあたりはさすが国文学の研究者の指摘だな、と。

 和田合戦の記事は《『明月記』の語句をこま切れに分断して、時系列順に並べ替え、叙述の枠としているのである。なお、『明月記』では『文選』(詩文集)や『史記』の文言を引用して戦況を叙述しているが、『吾妻鏡』は対句を分割したり、字義を誤って意味の異なる文脈にあてはめたりと、『明月記』の記述をよく理解できないまま使用していることまでわかっている(高橋典幸「『吾妻鏡』の『明月記』利用)。》(p.150-)というのは面白かった。定家が『文選』のどこらあたりを引用しているのか分からないのですが、歴史を元にした詩歌なんかは岩波文庫の五巻本を読んだだけですが本当に難しかったもんな…定家より教養が劣るであろう『吾妻鏡』の編者たちが間違うのも無理はないかも。

 さらに和田合戦は《儀式や祭事を中心に司る将軍と、御家人たちの統率者である執権という、分掌体制を確立させた契機として叙述されている》というあたりも、なるほどな、と(p.161)。

 また、霜月騒動の本質は蒙古襲来で失った求心力を《将軍の下に非御家人をも御家人化して全国を統率しようとする路線(将軍権力派)と、得宗と御家人が中心となって従来の御家人層を統率しようとする路線(得宗権力派)の対立である(本郷恵子『京・鎌倉 ふたつの王権』)》というのも蒙を啓かれました(p.181)。

 承久の乱については、貴族の日記などが、処罰されることを恐れて廃棄されているため、『吾妻鏡』ぐらいしか残っていないことが、より正史的な扱いになっているんでしょうが、その叙述は《夢告、神助、落雷など、奥州合戦のそれと重なる要素が多い》というのもなるほどな、と(p.213)。

 このほか、伊賀氏事件は後家である伊賀の方こそが後継者を指名する立場にあり政子の介入の方が問題だ、という指摘や(p.222)、後鳥羽院の挙兵目的は幕府上層を北条氏から三浦氏にすげかえることにあった(p.232)、四条天皇の死を聞いた泰時は安達義景に、もし京都について順徳院の息子が即位していたら「おろしまいらすべし」と命じていた(p.253)あたりも面白かった。

 角川ソフィア文庫のビギナーズクラシック版の『吾妻鏡』も読んでみようかな…。

 以下は終章の最後のまとめの部分です。

《『吾妻鏡』はその編年体の配列の上に、幕政史上重要ないくつかの合戦を軍記物語的手法を 用いて叙述することによって、幕府統治者の正当性を保証するための歴史像を構築すること に成功した稀有の歴史書である。その編纂作業は、幕府を構成する御家人たちの功績をちり ばめることで、各家のアイデンティティを言語によって創出してゆくという、ダイナミックな営為が展開される現場でもあった。
だが、それぞれの立場の利害調整という現実的なしがらみによってその契機を喪失したとき、出来事を意味づけるべく横溢していた言葉の力は失われ、『吾妻鏡』は単線的に支配者 の絶対性を語る規範の書へと姿を変えていった。事象の解釈や価値判断が積極的になされな くなれば、歴史叙述は出来事の羅列となり、焦点の定まらない過去は像を結ばず、歴史は立 体感ある眺望を持ち得なくなる。かくして、虚構に彩られた鎌倉幕府の正史は精彩を失い、やがて散逸し、約三百年後に再び関東で幕府を開く徳川家康により収集されて新たな解釈を付与されるまで、時を待つこととなったのである。》
p.270

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July 28, 2024

『13歳からの地政学カイゾクとの地球儀航海』田中孝幸

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『13歳からの地政学カイゾクとの地球儀航海』田中孝幸、東洋経済新報社

 「地政学」は重要性が指摘されているにも関わらず、学術的な研究分野だとみなされていません。書籍でも学者が執筆したものは、非常に少なく、本書の著者もジャーナリスト。国際分野で活躍する新聞記者は地理学、政治学、国際政治学などを分野横断的に取り入れているために、向いているのかもしれません。ということで厳密な学問ではないかもしれませんが、頭の片隅に入れておけば、視点を増やすことができるわけで、ビジネス書グランプリ2023「リベラルアーツ部門賞」受賞したこの本を読んでみました。

 目次に沿ってみていくと「1日目 物も情報も海を通る」では、地政学の「シーパワー」の概念を生み出したマハンに敬意を表してか《世界中の貿易は9割以上が海を通っている。つまり船で運ばれている。特に日本は海に囲まれた島国だからその比率が高くて、99%が船による貿易だ》ということが語られます。

「2日目 日本のそばにひそむ海底核ミサイル」では、核ミサイルはただ持っているだけでは不十分で「原子力潜水艦」「水中発射能力」「潜水艦を隠すための深く、自分の縄張りにてできる海」の三つが必要であり、中国の海洋進出の理由が語られます。

 「3日目 大きな国の苦しい事情」ではロシアは190、中国には56の民族がいると言われており、《中国は国内を平和に保つために国が使うお金、つまり治安維持費というが、これを毎年どんどん増やしている。今ではわかっているだけでも日本円で20兆円を超えている。中国の治安維持費は、国を外の敵から守るための国防費よりも大きくなっている》と中国の苦しさが語られます(k.1046)。

このほか《自分の母国語しかしゃべれないのをモノリンガルというが、アメリカや中国、ロシア、日本などほとんどの大国ではモノリンガルの方がえらくなる傾向がある。国の中で高い地位に昇りつめることに力を尽くすあまり、外の世界への関心が薄くなる》という話しや(k.1870)、《朝鮮半島やクリミア半島などは三方を海に囲まれているので、陸側から攻められると逃げ場がない。そして海側から攻められて陸側に逃げて助けを求めようとすると、今度はその国に支配されてしまうリスクがある」》など、割と常識的なことが語られていましたかね(k.1901)。

 中国に関しては
 「中国が4000年の歴史の中で、これほど外国とのかかわりが必要になったことはかつてない。だから、世界に出て行っているわけだが、ほかの国々とうまくやっていくことには慣れておらず、いろいろな国でトラブルを起こしている。そのトラブルの原因の一つが、どんな中国人も、世界のどこにいようが政府に協力しないといけないという法律だ。まるでスパイのように」
 「えっ、私のクラスに中国の子いるけど、その子もスパイになるかもしれないってこと?」 
「そういうことだ。中国政府から求められれば、我々の情報を盗むスパイになるし、ならないといけないわけだ」
 「国の法律ということは、断ったら逮捕されてしまうのでしょうか?」
 「そもそも、中国政府の命令を断ること自体が難しい。日本にいる中国人でも、親戚は中国にいることも多いだろう。政府は『お前が従わなければ、親戚に迷惑がかかるぞ』とおどかすかもしれない」
 「そんなことを世界中でしていたら、関係ない中国人まで差別されてしまいう」
と深刻な懸念も示されています(k.2119)。

【目次】
プロローグカイゾクとの遭遇
1日目 物も情報も海を通る
2日目 日本のそばにひそむ海底核ミサイル
3日目 大きな国の苦しい事情
4日目 国はどう生き延び、消えていくのか
5日目 絶対に豊かにならない国々
6日目 地形で決まる運不運
7日目 宇宙からみた地球儀
エピローグカイゾクとの地球儀航海

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『権記』藤原行成

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『権記』藤原行成、倉本一宏(編)角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックス日本の古典

 7/21放送の『光る君へ』でも出家した定子に対する貴族の反発については、なんでそこまで嫌うの?と思うほど描かれていましたが、剃髪して出家したら、神事を行えないという問題があったのか、と改めて理解できました。

 行成は『権記』でも《中宮は正妃であるとはいっても、すでに出家されている。したがって神事を勤めない》(k.2579、kはkindle番号)と記しています。

 また、同じく道長が『御堂関白記』に付けた日記の一部を消しているシーンが描かれていましたが、これは《彰子の立后に逡巡していた一条は、道長に対してもストップをかけたのであろう。『御堂関白記』の長保二年正月十日条を記し始めた道長は、彰子立后勘申に関する部分のみを一生懸命に抹消している(倉本一宏『摂関政治と王朝貴族』)》ということだったんでしょう(k.2482)。

 『権記』を読んでみると《公卿社会に有力な血縁や姻戚を持っていない行成とすれば、道長に接近して厚遇を受けること、そしてその結果として昇進することだけが、名門たる家を存続させることのできるただ一つの途であった。藤原実資から「恪勤の上達部」(道長に追従する公卿)と揶揄されても、それは仕方のないことだったのである》という背景がよく分かります(k.30)。

 角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックスで平安時代の日記を『御堂関白記』、『紫式部日記』、『小右記』、『権記』と読んできました。圧倒的に面白かったのは『小右記』でしたが、ぼくみたいな勉強の足りない人間にも読んだ気にさせてもらえる角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシック、感謝です!

 平安時代に貴族たちが日記を一生懸命、子孫たちのために残したのは、正史が絶え、儀式書も編纂されなくなってしまったからなのですが、そのため貴族たちは《翌日の儀式の前に、先祖の日記から先例を抜き出し、それを笏紙に書いて笏に貼り付け、当日に参考とすることができたのである。 違例を犯すと、それを指摘するために、弾指や咳唾といった行為が取られる。指を弾いたり、咳払いをしたり、唾を吐いたりされ、皆に(時には頤が外れるほど)笑われ、自邸に帰ってから日記に記録されるのであるから、平安貴族は大変なのであった》というのですから同情してしまいます(k.1674)。

 『光る君へ』では、晴明など陰陽師が占う場面がよく描かれていますが《晴明の占いの結果は「吉」であり、これを承けて、行成は修学院に出かけた。このように、陰陽師は顧客の望む結果を出すことが多いのである》というのはなるほどな、と(k.5175)。

 あと《当時は公卿の最高位は正二位と定まっており(道長嫡妻の源倫子は従一位だったが)、道長をはじめとする三大臣も正二位であったことを考えれば、権中納言に過ぎない行成を正二位とするわけにはいかないといった、道長のバランス感覚もあったのであろう(黒板伸夫『藤原行成』)。行成が正二位に叙されたのは三年後の長和三年(一〇一四)のことであった(相変わらず権中納言であったが)》というのは知りませんでした(k.7656)。

 それにしても道長の『御堂関白記』の漢文が小学生レベルだな、と驚いたのですが、行成の『権記』は実資の『小右記』と同じく大学生レベルだな、と感じました。

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『小右記』藤原実資

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『小右記』藤原実資、倉本一宏(編)、角川ソフィア文庫

『御堂関白記」『紫式部日記』に続き、『小右記』も読めました。ほんと、この時代の日記が読めるって素晴らしい!ぼくみたいな勉強の足りない人間にも読んだ気にさせてもらえる角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシック、感謝です!ということで『権記』も読み始めているのですが、今の世も、当時も変わらないんだな、と思って安心できます。実資には友達になりたくなかったかもしれないけど、いや、マジで良かったです。

 驚いたのは二点。

 道長の『御堂関白記』の漢文が小学生レベルとすれば、実資の『小右記』は大学生レベル。こんなに違うのか、と驚きました。一次資料を読むうちには入っていませんが、その雰囲気だけでも味わえるありがたさはこういうことを実感できるところだと思いますし、行成の『権記』も読んでみるかなと思ったのも、こういう実感を味わいたいから。

 《普通、天皇側近の蔵人頭を一、二年も勤めれば、参議に任じられて公卿の一員となる。ところが実資の場合、あまりの有能さや謹厳な勤務態度ゆえ、歴代の天皇が手放そうとせず、皇統が代わっても蔵人頭を辞めさせてもらえずに、八年間もこの地位にあったのである(これは六年間勤めた藤原行成も同様)》ということですから、実資と行成は性格が似ていたのかもしれませんし、几帳面だから日記も高く評価されて残っているのかもしれないな、と(k.1577、kはkindle番号)。また、日記というのは《父祖の日記を所有している貴族は、政務や儀式の遂行に際して、圧倒的に有利なのであった。しかもそれを誰には見せて誰には見せないと選ぶとなると、人間関係の構築にもつながる。『清慎公記』を所有する実資の強味は、そういった点にもあったのである》という強いツールだったんだな、と(k.2808)。

 もうひとつは、73歳となった実資が、道長亡き後に関白となった38歳の頼通と抱き合って寝て、「玉茎、木のごとし」となった夢を見て恥ずかしくなったと日記に書いている長元2年(1029年)の日記。太政大臣になりたいためには関白とも寝る覚悟というか、すごいな、と。武士の世界でも男色は隆盛を極めるわけですが、平安貴族でも、こんなことは当たり前だったんでしょうか。まあ、源氏物語でも世界初?のBL描写があるから、ファンタジーではなく、世間に認知された色事だったんだろうな、とか。にしても、自分の子孫に読ませて勉強させるための日記にこんなことを書くなんて、凄い、凄すぎるというか、日本の文化の奥深さ、素晴らしさには驚かされます。原文は以下の通り《今暁、夢想す。清涼殿の東廂に、関白、下官と共に烏帽せずして、懐抱して臥す間、余の玉茎、木のごとし。着す所の白綿の衣、太だ凡なり。恥づかしと思ふ程に、夢、覚め了んぬ。若しくは大慶有るべきか》(k.22349)。

 《実資は、「賢人右府」として何と二十五年間、頼通の政権を支えながら、独自の地歩を築いていくこととなる。ただしこれが、小野宮家として最後の大臣》だったというのは少し、寂しいですが(k.16833)。

 もっとも《道長は十一月十日に重態となり、臥したまま汚穢(糞尿)を出すという状態となり、十三日には沐浴して念仏を始めるなど、極楽往生に向けた準備を始めた。この二十一日には危篤となり、ますます無力にして汚穢は無数、飲食は絶えた。また背中に腫物ができたが、医療を受けなかった。 後一条天皇の行幸も、今となっては悦ばないとのことで、訪ねてきた彰子と威子も、汚穢によって直接に見舞うことは難しい状況であった。道長ほどの権力者でも、最期の様子はこのようであった。世の無常を実感せざるを得ない》わけですが(k.20891)。

 このほか、実資は芋をさかなに飲み過ぎて二日酔いで参内しないことがあったと書いていますが、なんとフリーダムなことよ、と。当時の酒はドブロクで糖度が高く、道隆や道長のように糖尿病になったのかな、とか。《藤原道兼の粟田山荘で芋次と称する饗宴が開かれた。芋次というのは、芋(長芋か山芋)を賞味するついでに開かれる饗宴のこと。大納言藤原朝光が食物を準備したらしい。「二、三の卿相及び侍臣は淵酔して、深夜に及んだ」とある。陣定は通常、日が暮れてから開かれるから、よほど酒が残ったのであろう。当時の酒は現在のどぶろくをもっと薄くしたようなもので、アルコール度数は低いから、吞みすぎるとかえって後にひびいたようである。 なお、こんな糖質の高い酒を大量に吞んでいたものだから、当時の貴族の多くは糖尿病に苦しめられたものと思われる》というのが解説です(k.2379)。

 内裏で猫が子を産んだら、道長や詮子らが人間のようにお祝いの「産養(うぶやしない)」をしたことを批判する実資は痛快でした。ペット供養とか宗教側もカネに目をくらんで禽獣(禽獣)の飼い主目当てに商売する現代の世相にも、草場の陰できっと呆れ果てていることでしょう。「未だ禽獣に人の礼を用ゐるを聞かず」という言葉も痛快ですし、キレっきれ。

 《頼通の春日詣に際し、道長の命で殿上人や地下人のほとんどが扈従してしまい、一条天皇の食事の陪膳に奉仕する者がいなくなってしまった。「殿上の男等、皆、春日に参るか」「明日、又、陪膳、候ぜざるか」という一条の言葉は、むしろ悲惨にさえ響く。すでに一条の退位は道長の政治日程に上っており、一条に対する扱いにも変化が生じてきているのであろう》(k.8076)というあたりの政治も、現代の政治家にも通じるリアリイティを感じます。

 その後、天皇となった三条についても《実資としても、道長との関係を悪化させている三条から頼りにされても、ありがた迷惑なところだったであろう。 なお、三条を怒らせた道長の行動というのは、すでに死去している大納言藤原済時の女に過ぎない娍子を皇后に立てるという意向に対して、それを諫止し、四月二十七日と定められた娍子立后の儀に中宮の姸子(道長二女)の内裏参入をかち合わせることが知らされたことであろう》としており、実資もなかなか世渡り上手(k.8878)。

 《「越後守為時の女」、つまり紫式部であった。実資は、「この女を介して、前々にも雑事を皇太后宮に啓上させていた」と記しているが、紫式部は聞かれてもいない道長の病悩についても資平に語っている。よほどの信頼関係と見るべきであろう》と実資と紫式部の関係は良好だったようです(k.10965)。

 「刀伊の入寇」の《刀伊というのは高麗語で東夷に日本文字を当てたもので、もっぱら北方に境を接する東女真族のことを指していた》というのは知らなかった(k.15592)。

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『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』

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『時間はどこから来て、なぜ流れるのか? 最新物理学が解く時空・宇宙・意識の「謎」』吉田伸夫、ブルーバックス

 「時間は宇宙全域で一様に流れていない」ことは物理的にあきらかなのに、なぜ人間には過去から未来へと流れているように感じるのか?という問いかけに対して、それは宇宙全体のエントロピーがビッグバンから遠ざかる方向に増大している結果であり、人間の意識に由来するものだから、と説明してくれます。

 時間も空間のように拡がりを持ち、宇宙は三次元空間に時間を加えた四次元時空という概念に置き換えて理解する必要があるわけですが、それよりも宇宙のエントロピーはビッグバンから遠ざかる方向に向かっているから、人間の意識としては時間が流れるように感じるという、感覚も宇宙の起源につながっているという考え方が面白かったです。

【主な内容】
■はじめに――時の流れとは
《第I部 現在のない世界》
■第1章 時間はどこにあるのか
■第2章 過去・現在・未来の区分は確実か
■第3章 ウラシマ効果とは何か
《第II部 時間の謎を解明する》
■第4章 時間はなぜ向きを持つか
■第5章 「未来」は決定されているのか
■第6章 タイムパラドクスは起きるか
■第7章 時間はなぜ流れる(ように感じられる)のか

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『一片冰心 谷垣禎一回顧録』

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『一片冰心 谷垣禎一回顧録』谷垣禎一、[聞き手]水内 茂幸、豊田 真由美(産経新聞、扶桑社BOOKS

 印象的だったのは宏池会の先輩、加藤紘一に教えられた話しでしょうか。「いいか、谷垣。首相になるような大先輩に憧れるのもいいが、自分より少し当選回数が上の、立派だなと尊敬できる先輩を探すことも大事だ。政界では海千山千が出会って厳しいことも起こる。さあ、どう行動しようかと 迷ったときに、その少し上の先輩がどう行動するのか、 よく見ておくんだ。そういうのはすごく役に立つんだぞ」という教育の場としての派閥の役割のあたり。加藤さんの言葉では「東大法学部を出て司法試験に受かったなんて顔をしてちゃあ、この世界は通用しねえんだ。ばかなことをやってると思うかもしれないが、バンカラを踏んだところも見せろ。もっと泥臭さを身につけなきゃいかん」(k.815)というあたりも印象的。

 《主流派が緩んできたら、非主流派の新しいリーダーが現れて立て直していく。そういう手法を考える局面は依然あるでしょう。タカとハトといってもいいかもしれない。異なる勢力が「振り子の論理」でやっていくことは必要だろうと思います》という派閥の効用は納得的です(k.198、kはkindle番号)。

「安倍さんという絶対的な力だけを頼りに入会した若手も多かったから、あんまり後輩議員に教えない先輩方もいたかもしれません」「安倍派はある意味で、派閥がなくなった自民党の姿の走りだったのかもしれません。それだけ、集団のガバナンスは難しいということです」というあたりもなるほどな、と(k.207)。

 政治とカネについても納得的です。《政治はボランタリーでいただいたお金でやれる部分もないと、どうにもうまくいかないんじゃないかと思うのです。貴族が政治をやる時代ならともかく、 藩閥政治や官僚政治とは違う、民主主義の政治をやろうと思ったら、カネも票も自分たちで集めるのが筋でしょう》(k.224)。

 昔、現役で取材していた頃、『谷垣禎一の興味津々』が面白いよ、とお偉いさんに言われたことがありました。勧められた元大蔵官僚の柳澤伯夫さんとの対談はチラ読みしたのですが
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柳澤 角栄さんの時代には、すでに日本の高度成長は終わっていたのに、彼は列島改造論などと言いだして、まだまだ高度成長が続くような幻想を振りまいてしまった。さらには「これからは社会保障の充実が必要だから税金を福祉政策に充てる」と言って、七十歳以上の医療費を無料にしたり、年金の受取額を増額したりしました。
谷垣 田中内閣が一九七三年に宣言した「福祉元年」ですね。
柳澤 どこまでも自分たちの生活が、豊かに、楽になるように、と進めてきたことで、日本人は今みたいな無責任なメンタリティになってしまったんじゃないかな。

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というあたりも思い出しました。三木内閣を挟んで大平内閣が一般消費税導入を閣議決定して撤回に追い込まれのは1979年ですからその間わずか6年。急激に財政が悪化していったというより、高度成長が終わったのに福祉に税金を投入しすぎた、ということなのかもしれません。

 『財務省と政治「最強官庁」の虚像と実像』清水真人 、中公新書の222頁に、消費税率10%アップは菅、野田と二代続けて財務大臣が首相に就き、相手方の野党自民党も党首の谷垣が財務相経験者だったからできたこと、と書いてあったけど、『一片冰心』そんなことにも触れられています。《私が財務相だったときの事務方と、野田さんの周りで税に関する立案をしていた人たちが、全く重なっていたんですね。共通の財務官僚を通じて、私の考えていることが野田さんに正確に伝わっていたと思うし、私も野田さんの考えていることを相当正確に知っていたと思います》(k.431)と。

 法務大臣としての仕事については死刑囚のあたりが、深かったですね。《私が執行を命じた死刑囚はほとんどが虐待を受けており、「こんな育て方をされちゃかわいそうだな」と思うような子供時代を送っていました。いろいろ事情はあると思いますが、子供は誕生を祝福され、生まれてきてよかったと思える環境で育つことが大事だと、つくづく思います》《一人だけ、タイプの違う死刑囚がいました。高校の同級生が「あいつはクラスのホープだった。必ずひとかどの人間になると思っていた」と証言していたのです。死刑判決を受けるような残虐な罪を犯す人に、こういう証言が出てくるのは珍しい。不思議に思っていると、秘書官が「これはばくちです」と言いました。ばくちに狂い、カネに困って犯した罪だったのです。  私がカジノを含む統合型リゾート施設(IR)の法整備に慎重だったのは、そういう人の死刑執行を命じなければならなかったからです》(k.1015)

 しかし、自民党総裁にはなれたけど、首相にはなれなかったわけで、そうなると他の首相経験者の回顧録との違いは、各国首脳と触れ合う中での、ダイナミックな人間観や外交の現実みたいな話しが聞けなかったのは、仕方ないのかな。
 谷垣財務相としてモスクワで開かれた閣僚会合に参加した06年当時《あのときのロシアの張り切りぶりといったらありませんでした。有名なオペラに招待されて劇場に足を運ぶと、「今日は日本の財務相がおみえになっています」と会場に歓迎の拍手を促し、夕食会にはトップバレリーナが来て、最後はプーチン大統領と面会……。  つまり、当時はロシアもG8の一員として生きていこうとしていたということでしょう》(k.1423)というあたりの消息は初めて知りました。

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June 09, 2024

『紫式部日記』

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『紫式部日記』紫式部、角川ソフィア文庫

 『御堂関白日記』に続き、角川のビギナーズ・クラシックス(日本の古典)で読みました。

 全2巻で1巻は記録的内容。2巻は手紙と女房たちへの批評を中心とした記録的内容の「消息文」と言われる内容となっています(文末には「ございます」にあたる「侍り」を多用)。このため、後半は日記部分が筆写される中で、書簡などがまぎれこんだのではないかという説もあるようで、なるほどな、と。

 道長の要請で書かれたというのが定説のようで、あまり納得もいかないというか、よくわからないのですが、無知なままの日本古代史の興味がさらにかき立てられました。

 日記が書き始められた頃は長徳の政変(九九六年)から十二年が過ぎているのですが、定子後宮の華やかさの記憶は残り、道長家長女の彰子後宮との比較に興味津々だったことが日記からもうかがえます。

 さらに、日記に記録されている一条天皇からの勅使として参上した蔵人の少将道雅とは、定子の兄・藤原伊周の十七歳になる息子で、没落したとはいえ、一条天皇の定子への思いはつよく、まだ、中関白家も復活しようとしていたのかもしれません(道雅は花山法皇の皇女を殺した疑いや喧嘩沙汰で没落を決定付けるのですが)。

 とにかく日記部分は、藤原道長の長女で一条天皇の中宮となった彰子の2度の皇子出産や祝賀の様子を中心に、時の権力者や平安貴族の様子を生き生きと描いています。さらにその中で道長の人物像が浮かび上がり、政治的影響力だけでなく、文化人としての側面も持ち合わせていたことがわかります。

 《紫式部は、それぞれの立場の人々の、その立場を象徴するような姿を的確にとらえて書き留めています。彼女の眼ははっきりと政治を見極め、その中で様々の思惑を抱く人々を見ている》という解説はなるほどな、と(k.840、kはkindle番号)。

 よくよく考えてみれば、道長のように外戚として権力を振るうためには、《まず娘を持たなくてはならず、次にはその娘と天皇の年恰好が合わなくてはならず、入内の後には娘が天皇に寵愛されなくてはならず、さらに子供が、それも男子が生まれないとなりません。当然達成できるケースは非常にまれで、良房以降は道長の父・兼家がそれを成し遂げるまで百二十年間、摂政は何人もいたものの「外祖父摂政」は世に現れませんでした。道長は父に続いてその座に就くことを目指しているのです》(k.856)とのこと。

 道長主催の一条天皇と彰子の子の誕生パーティーで、道長は「紙」を賭けてスゴロクに興じる場面が描かれているのですが、「紙」は貴重品だったんだな、と『光る君へ』の枕草子誕生の場面に思いを馳せました。

《『源氏物語』「若菜 上」の中にも、東宮に嫁いだ光源氏の娘、のちの明石の中宮が里帰りして男子を産み、光源氏が孫の顔を覗きに来る場面があります。「若宮はおどろき給へりや? 時の間も恋しきわざなりけり(若宮はお目覚めかな? 束の間でも会いたくてならないものだなあ)」というせりふはすっかり御爺さん。そこにはまた、明石の中宮の養母である紫の上の、赤ちゃんを抱いて離さず、この場面の道長のように衣をしょっちゅう濡らしては着替えるという溺愛ぶりも、ユーモラスに描かれています》(k.1173)というあたりも興味深かったたし、紫式部は『遊仙窟』を典拠に「若紫」の巻を書いており、漢文に通じていた公任との機知にあふれる会話も残されています。

 紫式部の生まれ育った家は道長の正妻・倫子の土御門殿とは東京極通りを隔ててすぐ向かいだったのか、とか興味は尽きません。

 出産のため里下がりしていた彰子のいる道長邸に、一条天皇は御所焼失の後の倹約を示すために、薄着で御幸するのですが、祝いの席で酔っ払う公達の中、実資は女房どもの衣の枚数を数えてちゃんと倹約しているかどうか調査したというあたり、実に実資らしいと感服。

 勢いにまかせて実資の『小右記』にも手をだすことに。

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May 22, 2024

『御堂関白記 藤原道長の日記』角川ソフィア文庫

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『御堂関白記 藤原道長の日記』繁田信一編、角川ソフィア文庫

 まさか『御堂関白記』をダイジェストにせよ読むことになろうとは思いませんでしたが、面白かったです。

 書き始めの頃、道長しか宮中に参内せず、アタマ来て日記を半年も休んでしまう道長とか、犬が食った死体が内裏や寺社の軒下に転がり、そういった穢れにヤんになる道長とか、いきなり抱きしめてあげたくなる感じ。

 正妻倫子の子である頼通を可愛がる道長も分かりやすいし*1、一条天皇の中宮となった彰子の無事出産を祈願するための金峰山詣は往復十数日をかけてしっかり歩いて完遂するのですが、お礼参りは穢れがあったからとあっさりと中止する道長も良いな、と。

 解説を読むと、書き下し文の文法とかメチャクチャな道長に驚きます。あんなに大切な一条天皇の崩御の「崩」を書けずに「萌え給ふ(萌給)」と『御堂関白記』に書き残してしまうほど。漢詩大好きな一条天皇に合わせるため、下手な漢詩の会を主催し、そこへ接待ゴルフのように付き合わされる平安貴族も大変だなと感じますが、一向に漢文が上手くならない道長も可愛い。

 漢字をあまり勉強していなかった道長については解説でも何回も指摘されています*2。

 中世の鎌倉時代は東国国家論的に理解していたんですけど、御堂関白記を読んでいると、古代の平安貴族の政治性の高さに驚かされます。権門的な見方はなるほどな、と改めて感じます。

 それにしても六国史が、九世紀末で終わっているので、平安時代史はフロンティアなんですよね。

《藤原道長の書いた日記『御堂関白記』が広く一般に知られるが、史料として刊行されたのは一九五○年以降のことである。摂関期の研究は一部の研究者によって行われていたのだが、史料が公刊されるようになってようやく平安時代史の研究も盛んになってきた。
摂関期の日記や儀式書を読み解けるようになったのはこの三○年と言っても過言ではない。日本古代史の中で、平安時代史はフロンティアなのである。
また、日記、儀式書や文書はその読み方も六国史に比べると個々に難しい。『日本書紀』をはじめとする六国史は一次文書を編集して出来上がっているので、ある見方で統一されているという問題はあるかもしれないが、筋道がたてられてまとめられており、その分読みやすい。
六国史を編纂していたのは律令国家である。六国史編纂後、正史を編纂することが全くなくなったかと言うとそうではない。「新国史」という正史を編纂する事業は継続されていたのだが、結局完成はしなかった》と『摂関政治』古瀬奈津子、岩波新書、2011の「はじめに」に書かれているのを思い出しました。

 それにしても『御堂関白記』読んでみると、さすがに佐藤英作日記なんかより、よほど上品だな、と感じますね。こんど出てきそうな宮澤喜一日記がどの程度か楽しみではありますが。

 それにしても平安時代の日記、「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」にたくさんございます!

藤原道長『御堂関白記』
藤原行成『権記』
藤原実資『小右記』
紫式部『紫式部日記』

 いくつか読んでみようかな、と。

 晩年は兄、道隆のように水飲み病(糖尿病)に苦しみ、視力も衰えるのですが、仏道に反するものの肉魚を食べタンパク質を取るようにするなど、合理的な対処方法に感心します。晩年は御堂関白の名で呼ばれるようになった法成寺で九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引いて息を引き取ったのですが(源信『往生要集』のように)、兼好法師は『徒然草』第二十五段で、大火や戦乱によって伽藍が荒廃したことを世の無常として喩えているな、とか思い出しました*3。

*1
頼通の母親は源倫子であり、頼宗の母親は源明子であるが、右の一件に明らかなように、倫子と明子との二人の妻たちを同等に扱うように努めていた道長も、倫子所生の子供たちと明子所生の子供たちとを同等に愛そうとはしなかったようなのである。
k.878(kはkindle番号)

*2
『御堂関白記』に残された藤原道長自筆の漢文は、その少なからぬ部分が、常識的な訓読法では読み下し得ないような、何とも個性的なものであり、言葉を選ばずに言うならば、ずいぶんとでたらめなものなのである。しかも、『御堂関白記』の記述には、とにかく誤字や脱字が多い。
k.943

藤原道長が「降」という漢字を覚えたのは、この頃のことだったのかもしれない。というのも、降水があったことについて、寛弘七年までの『御堂関白記』には、常に「雨下」「雪下」と見えるのに対して、寛弘八年以降の『御堂関白記』では、「雨降」「雪降」と見えるようになるからである。
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*3
《京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門、金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊たふとくて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし》

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May 17, 2024

『源氏物語を読む』高木和子

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『源氏物語を読む』高木和子、岩波新書

 『源氏物語』は与謝野晶子訳で桐壺と若紫、若菜ぐらいしかまともに読んだこともないので、全体の流れみたいなのを知るためにAudible版で「聴いて」みました。

 厳密にはどうかわからいのですが、なんかレヴィ=ストロースの交叉いとこ婚のような関係性の中で不義が繰り返される構造、光源氏の皇統が続かない仕掛け、サイドストーリーの玉鬘十帖とエピローグである宇治十帖の役割、コメディリリーフのような末摘花、夕顔、六条御息所など怨霊の通奏低音などがよく理解できました。思いが遂げられないからそれに代わる存在を求め、それがまた悲劇をもたらすという長編化の流れというか。

[目次]

Ⅰ 誕生から青春
 一 両親の悲恋と美しき若君 桐壺(きりつぼ)巻
 二 色好みの主人公 帚木(ははきぎ)・空蝉(うつせみ)・夕顔(ゆうがお)巻
 三 憧れの人とゆかりの少女 若紫(わかむらさき)・末摘花(すえつむはな)巻
 四 不義の子の誕生 紅葉賀(もみじのが)・花宴(はなのえん)巻

Ⅱ 試練と復帰
 一 御代替わりの後 葵(あおい)・賢木(さかき)・花散里(はなちるさと)巻
 二 不遇の時代 須磨(すま)・明石(あかし)巻
 三 待つ者と離反する者 澪標(みおつくし)・蓬生(よもぎう)・関屋(せきや)巻
 四 権勢基盤の確立 絵合(えあわせ)・松風(まつかぜ)・薄雲(うすぐも)・朝顔(あさがお)巻

Ⅲ 栄華の達成
 一 幼馴染の恋 少女(おとめ)巻
 二 新たなる女主人公 玉鬘(たまかずら)・初音(はつね)・胡蝶(こちょう)巻
 三 翻弄される人々 蛍(ほたる)・常夏(とこなつ)・篝火(かがりび)巻
 四 玉鬘との別れ 野分(のわき)・行幸(みゆき)・藤袴(ふじばかま)・真木柱(まきばしら)巻
 五 六条院の栄華 梅枝(うめがえ)・藤裏葉(ふじのうらば)巻

Ⅳ 憂愁の晩年
 一 若い妻の出現 若菜上(わかなのじょう)・若菜下(わかなのげ)巻
 二 柏木の煩悶と死 柏木(かしわぎ)・横笛(よこぶえ)・鈴虫(すずむし)巻
 三 まめ人の恋の悲喜劇 夕霧(ゆうぎり)巻
 四 紫上の死と哀傷 御法(みのり)・幻(まぼろし)巻

Ⅴ 次世代の人々
 一 光源氏没後の人々 匂兵部卿(におうひょうぶきょう)・紅梅(こうばい)・竹河(たけかわ)巻
 二 八宮の姫君たち 橋姫(はしひめ)・椎本(しいがもと)・総角(あげまき)巻
 三 中の君へ、そして浮舟へ 早蕨(さわらび)・宿木(やどりぎ)・東屋(あずまや)巻
 四 薫と匂宮、揺れる浮舟 浮舟(うきふね)・蜻蛉(かげろう)巻
 五 浮舟の出家 手習(てならい)・夢浮橋(ゆめのうきはし)巻

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May 15, 2024

追悼、ポール・オースター

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あまり小説は読まない方なんですが、ポール・オースターは結構、読みました。数年前に蔵書を1/3にした時も整理できませんでした。

「アメリカ文学史上初めて現れたエレガントな前衛」というのが日経の追悼記事に載っていましたが、なるほどな、と。朝日に載った柴田元幸さんの追悼文の中の「老いを喪失でなく新たな可能性模索の機と捉える姿勢」という言葉も印象的でした。

オースターの中で好きな作品を、多くの方と多分違う方向から選ぶとすれば『トゥルー・ストーリーズ』と『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』と"TIMBUKTU"ですかね。

『ナショナル…』の方は編者だけど、立派なオースターの作品になってます。

"TIMBUKTU"は高校時代の女性教師が素晴らしかったな。読みやすい英語でした。

『トゥルー…』では。アート専門の書店につとめていた頃、ジョン・レノンがマン・レイの写真集を見せてほしいと現れて、オースターと

《「ハイ」と彼は片手をつき出しながら言った「僕はジョン」

「ハイ」と私はその手を握って大きく振りながら言った。「僕はポール」》

と挨拶する場面とかよかったな。

《『グアヤキ年代記』という文化人類学の大著の英訳が刊行されたとNYタイムズで読んだ。訳者は若い頃のオースター。「上質な小説の味わい」と惚れこんで訳したのに版元は潰れ、ゲラ刷りは紛失し、原作者は物故して発表の目途が絶たれてしまったという。
ところが、ゲラは20年後に舞い戻った。友人が古書店で偶然手に入れたのだ。わずか5ドルで。どこまでもオースターらしくて感心したのを覚えている。この顛末を綴ったエッセイ》も素晴らしかった。

合掌。

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