September 21, 2020

『パイドン 魂について』プラトン、納富信留訳・解説、光文社古典新訳文庫

Phaedo

 この夏、五冊目のプラトンは『パイドン 魂について』プラトン、納富信留訳・解説、光文社古典新訳文庫。


《それぞれの魂は多くの肉体を着つぶしていく。とりわけ長年生きるとそうなのだが、それは人間が生きている間もなお肉体は流動し滅びつつあり、魂はつねに着つぶしたものを織り直すからである。しかしながら、魂が滅びる時には、魂はちょうど最後の織物を着ているはずであり、その着物だけよりは先に滅びるのが必然であろう》

《シミアス君の方は、私が思うに、魂は肉体よりも神的で立派なものであるとしても、それにもかかわらず、調和の種族に属しているので、肉体より前に滅んでしまうのではないかと、不信と恐れを抱いている。他方でケベス君は、魂が肉体よりも長い時間存続する点は私に合意してくれているように私には思われるが、しかし次のことはだれにも明らかでないと主張する。即ち、魂が多くの肉体を何度も着つぶして最後の肉体を後に残すと、今、魂そのものは滅んでしまうのであり、まさにそのこと、つまり、魂の破滅が死なのではないかということだ( 254)》

 とあるように『パイドン』は魂とその不死についての対話です。

 エピクロスが《死は、悪いもののなかでもっとも震え上がらせるものだが、私たちにとっては無である。なぜかと言えば、私たちが存在する時、死は現に存在せず、死が現に存在する時、その時私たちは存在しないからである》と『メノイケウス宛書簡』一二五で書いたことは、その後の西洋哲学の死生観の基礎になっているのではないでしょうか。

 解説でも《死んでいくソクラテスこそ、「知を愛し求める者(フィロソフォス)」、つまり哲学者の究極モデル》というあたりは、福音書を思い出しましたし、ソクラテスの死が哲学の形成に大きな影響を与えたのは、哲学というのは、やはり死の解釈だからなのかな、と。

 ちょっと思いつきですが、ナザレのイエス運動の主人公は、最も新しく書かれたヨハネ伝では、ソクラテスが美少年を誘うような寝椅子に寄り掛かって食事をしている場面が描かれていますが、そこの部分は舞文曲筆かもしれないけど、寝椅子に寄り掛かって飲み食いしながら議論するというのは、ソクラテスのスタイルに影響を受けているのかな、とか。

 一番たどたどしいギリシャ語を書くヨハネが支配者の風習を主人公にまとわせたのは、そうまでして、反発していた同世代の他のグループ(主人公の弟のヤコブ、なりゆきでNo.1におさまったペトロ、観念的なパウロ)みたいなのと違った姿を描いて独自性を発揮したかったのかな。

 ただし、ソクラテスがジムの周りや、友人宅、散歩道ぐらいしか出歩かないのに対して、イエス運動の登場人物は、ナザレからエルサレムまでの空閑を歩き回り、癒したり、結婚式に出たり、暴れたりしていて「旅には(護身用の)杖を」と具体的なアドバイスも残してるのは印象的。引きこもるソクラテスや同時期のエッセネ派とは大違いだし、同じように行動的な熱心派のパウロがナザレ派の運動に寝返ったのも、実は行動的だったというところが似ていたからなのかな。

 あと、パウロのホモホヴィアは、同性愛が高尚とされたグレコローマンの文化に対する、エスニックな脊髄反射なのかもしれません。他の新約文書では、そこまで同性愛は忌避されていないのに。

 家父長主義的な偽パウロ文書は、すでに教会の礼拝でも余り読まれなくなってきていると思うのですが、真性のパウロ文書も、こうした傾向からだんだん読まれなくなっていくのかな…。

あと、《私たち人間は神々の持ち物の一つにすぎない》の註で《人間の関係を羊飼いと羊(持ち物)に喩えることは、ギリシアでは普通であった》というのはなるほどな、と。

 もちろん新約の主人公と違い、死の間際でもソクラテスは《命令が伝えられても、大いに飲んだり食べたり、欲望を抱く相手と交わったりして、すっかり遅くなってからようやく薬を飲む者たちがいるのも知っている。いや、なにも急ぐことはない。まだ猶予はあるのだ》と現世的な欲望を肯定するのですが。

 あと「一」に関する考察で「私は驚きを覚える」の「驚きはギリシャ語の thaumazein」が哲学の始まりであるというの「、プラトン自身とアリストテレスの言葉を思い出す」と註されていますが、θαυμaζωは新約にもよく出てくる動詞です。

 ということで、このシリーズは解説が素晴らしいので、それにそって、ほぼ引用でまとめられます。以下、ほぼ引用のつなぎです。

.........訳者による『パイドン』解説のQUOTE..........

プラトンが師ソクラテス(前四六九年頃~前三九九年) の死を描く『パイドン』は、「魂(プシューケー)」を論じたもっとも古く、もっとも基本的な哲学書である。アリストテレスの『魂について(デ・アニマ)』も、その伝統の上で、自然学の領域において魂のあり方を論じた。『パイドン』は魂が肉体から切り離されて存在し、イデアという実在と関わるあり方を論じる。では、主題である「魂」とは何か。

<魂が独立して存在するという考え方は古代からあったが>「私」という存在が脳や身体の機能や生理反応に過ぎないとすると、人格や生命の尊厳やかけがえのなさ、生きる価値は説明できるのか。身体の死とともに個体が完全に消滅するのであれば、個々の生命は単に遺伝子を運ぶ物質的な乗り物に過ぎなくなる。あるいは、有限な人生を超えて倫理を構築することが困難になる。だが、遺伝子とて、時間的に有限で可変的な物質構造に過ぎない。自然科学や技術が発達した現代でも、私たちのあり方としての「魂」について、それをどう考えるべきかは、根本的にはまったく解決されていない。

この問題に初めて本格的に挑んだ哲学が、前四世紀前半に書かれた『パイドン』である。

「魂(プシューケー)」は、ギリシア文明最初期に成立したホメロスの叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』でも語られていた。『オデュッセイア』第一一巻「冥府行」を読むと、ギリシア人は、人間が死ぬと肉体から魂が抜け出し、地下の冥府(ハーデース) へと下ってそこに留まると信じていたことが分かる。死者の魂は冥府でほとんど意識もないまま影のようなあり方をするが、その後どうなるかは語られない。ただし、この時代には「プシューケー」以外にも魂の機能や役割を表す言葉が複数用いられていた(1)。

だが、ホメロスの時代からしばらく後に、魂が別の生命に生まれ変わるという新しい宗教思想がギリシアに普及する。それは、ゼウスから生まれた新しい神ディオニュソスへの信仰、また、伝説の英雄オルフェウスが創始したとされるオルフェウス教という秘儀宗教であった。古典期の扱いは、例えばエウリピデスの悲劇『バッカイ』に見られる。

同様に、六世紀後半から前五世紀初頭に南イタリアに渡って共同体を創設したピュタゴラスも魂の輪廻転生を唱え、彼自身も過去の人生の記憶を保持していると主張していた。彼はその魂観を、エジプトで学んでギリシアに伝えたとされる。オルフェウス教とピュタゴラス派は類似した死生観を持ちながら独立の関係にあったようであるが、東方に起源を持つこれらの新しい魂観は、前五世紀後半にはギリシアで広く知られるようになった。

死後冥府に留まり続ける魂と、生物から生物へと転生する魂という相異なる魂論の狭間に、ソクラテスとプラトンは位置していた。クセノフォンら他の弟子たちから知る限り、ソクラテス自身がピュタゴラス派の輪廻転生を信じていた節はない。他方で、南イタリアに赴いてピュタゴラス派哲学に大きな影響を受けたプラトンは、魂の転生と不死を基礎に据えた哲学を展開する。

プラトンの哲学は、ソクラテスの死という衝撃的な出来事に向き合うなかで、私たちの生と死の問題を共に考え、哲学の意義を見出そうとする。それは単なる古典という範囲を超えて、哲学の実践として現代の私たちに強く訴えかけてくる。

『パイドン』が問題として示そうとするのは、「魂」という名称で語られる曖昧で神話的な実体が、死後に肉体から離れて冥府で存在するというお伽話ではない。むしろ、「魂」という言葉によって初めて哲学として語られる 私自身 のあり方、いや「この私が ある」とはどういうことかが、根本的な次元に遡って徹底的に問題化される。それは、現代にもはや問題にする余地がない古い謬見ではなく、現代でも解かれてはいない謎としての「私自身」、そして「私が ある」という哲学的難問なのである。ここに問題の核心があり、これを黙過して死後の魂云々を語っても、意味はない。

「時間」ですらイデア的位相である「永遠」の像に過ぎない。

『パイドン』は最終的に、「私自身」という魂のあり方が定位するイデアの地平を論じ、それを超える彼方を指し示す。そこでは、個々人という縛りや時間の限定も消失し、宇宙や万物の「ある」の根拠へと私たちの知性を超出させる。後にプロティノスら新プラトン主義の哲学者たちが「一者との合一」として目指す存在の彼方、自己の消失点が、『パイドン』にすでに暗示されているのかもしれない。

死んでいくソクラテスこそ、「知を愛し求める者(フィロソフォス)」、つまり哲学者の究極モデルであり、私たちに絶対を顕現する存在である。この対話篇が、ソクラテス裁判を舞台にした『ソクラテスの弁明』の言論を完成させる。プラトンの哲学は、まさにこの二つの対話篇の間で始まった。その内容を確認していこう。

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』に収められた小伝(第二巻第九章) によれば、彼は少年の頃に戦争捕虜としてアテナイに売られ、男娼として不幸な生活を送っていた。その才能を惜しんでクリトンの援助で自由身分に解放してくれたのがソクラテスであるという。パイドンにとってソクラテスは、哲学の師であるだけでなく、肉体の汚れた欲望から魂を救ってくれた恩人であった。プラトンは仲間のパイドンを語り手に選ぶことで、「魂の浄化」という主題を見事に描いた。

<『ソクラテスの弁明』で表明された>「死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのに ある と思いこむことにほかならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。人々はかえって、最大の悪だとよく知っているつもりで恐れているのです。実際、これが、 あの 恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている状態でなくて、何でしょう。

ソクラテス死刑の一世紀ほど後にアテナイで活躍したエピクロスも、やはり「死」をテーマとして原子論の立場からこう述べた。

死は、悪いもののなかでもっとも震え上がらせるものだが、私たちにとっては 無 である。なぜかと言えば、私たちが存在する時、死は現に存在せず、死が現に存在する時、その時私たちは存在しないからである。(『メノイケウス宛書簡』一二五)

私たちが自身の死を経験しておらず、「私は ない」と考えることが自己矛盾になる以上、死は生ある限り謎に留まるであろう。

配慮によって目指すべき魂のあり方とは何か。それは宗教的な語りで「浄化(カタルシス)」と呼ばれる、魂が純粋になりそれ自体で ある 状態である。その境地において、魂は「叡智(フロネーシス)」というあり方で実在と関わる。そこで開示される真の実在が「イデア」と呼ばれる「それ自体で ある」あり方なのである。この浄化を実際に遂行する生きた言論が、第一部の対話であった。

マルティン・ハイデガーは古代ギリシアにおける「アレーテイア(真理)」の本質を「非秘蔵性」、つまり隠されてあるものを露わにすることと解する。それは、この世に生まれる折に喪失する(七五E[二〇節]、七六D[二一節終わり])、つまり忘れてしまうという「忘却(レーテー)」からの取り戻し(七五D-七六A[二〇節])、即ち「想起=学び」である。『存在と時間』が出版された一九二七年の夏学期にマールブルク大学でなされた講義「現象学の根本諸問題」は、『パイドロス』二四九B-Cと並んで、『パイドン』七二E[一八節]以下の想起説に言及する( 11)。現存在である人間は、存在をすでに了解していなければならない。かつて見られていたが忘却してしまった存在に眼差しを向ける可能性、それがプラトンの言う想起であった。

また、世紀の後半には、ノーム・チョムスキーが生成文法の理論で再度注目を促した。チョムスキーは、人間の言語能力が生誕後の経験の蓄積からだけでは説明できないことを、「刺激の貧困」という議論で示した。文法の基本的な部分は生得的に決まっており、「普遍文法」と呼ばれるが、それがプラトンの「想起説」にあたると考えたのである。

<『饗宴』では美のイデア、『ポリティア』では哲人統治論と>詩人追放論(第一〇巻前半) という限られた文脈で本格的なイデア論が登場する。弁論術を論じる『パイドロス』ではその中途で挿入される魂のミュートスで、イデアの世界が登場する。

私たちはプラトンの「イデア論」を一つの哲学理論、あるいは形而上学体系と捉えがちであるが、それは基本的にアリストテレスが『形而上学』 Α 巻第六章などでまとめ、紹介した理論をそう呼んでいるに過ぎない。プラトン自身はどこにも「論」を提示してはおらず、プラトン対話篇で「イデア」を語るのも、ソクラテスだけでなく、ディオティマであったりする。『饗宴』の秘儀宗教の経験、『パイドロス』のミュートスなど、語られる文脈も単純に哲学理論として受け取りにくいものである。現代の私たちは、プラトンのイデア論とは何かを、既成の解説からではなく、元の文脈に立ち返って慎重に見ていかなければならない。

『パイドン』では、イデアが比較的早い段階で議論に導入された後、計四箇所でその議論が用いられる。

対話篇では、最初に、魂がそれ自体で触れる真理と実在、それが「正しさそれ自体」等とされる(六五D-六六A[一〇節])。ここではまだ「イデア」という表現は使われないが、シミアスとケベスら仲間たちにはすでに馴染みの考えとして導入されている。第二に、「想起説」で「等しさそれ自体=等しさのイデア」(七四A[一九節]) などが想起する対象となる。私たちが感覚し経験する事態から、その根源にあるイデアへの遡行が、ここでの主題となる。第三に、「類似性の議論」でイデアが、常住不変の実在として持ち出され、つねに流動変化する生成と対比される(七八C-七九A[二五節])。こうして前提され議論されたイデアは、第二部で改めて「基礎定立」として提示されることとなる。

プラトンがイデアを語る仕方は単一ではないが、『パイドン』第一部の特徴は、その存在が措定されることが、魂の不死を認めることと重ねられる点にある。

私とは通常は肉体を伴った魂であり、それが感覚を通じて出会う事物のあり方が、「あり、かつ、ない」という感覚界である。「美しい」と思った人や物が、別の関係で「美しくない」と思われたりすることが、相反する現れであるが、その状況から離脱すること、「 ある それ自体」を離在させることが、イデアの認識であり、その過程は、私が肉体から魂をできるだけ切り離す浄化と相即的である。言い換えると、純粋な私自身で ある 知性が、それ自体である「実在=イデア」と関わるあり方が叡智なので。

ここで疑いが向けられるのは、流動説によって危機に晒される「ある」の可能性であった。ソクラテスはその反論に向き合い、問題の根源性を前にしてしばし立ち止まらざるを得なかったのである。  そうしてソクラテスが語り始めるのは、自身の若い頃の思索経験であった。「生成と消滅の原因」を総合的に考察する必要がある。それは、「ある」ことの原因の探究であった。「原因」と訳される語「アイティアー」は、人に用いられる場合は「責任」を意味する。何かの出来事について「その責任は、誰にあるか」を問う問いが、「原因は何か」の問いの原型であった。

探究を通じて生成・消滅・存在の原因を見出すことが出来なかったソクラテスは、「第二の航海」と呼ばれる次善の策に向かう。それが「基礎定立(ヒュポテシス)」としての「イデア原因論」であった。宇宙全体のあり方を「最善」という仕方で説明するというここでの淡い期待は、やがて後期の対話篇『ティマイオス』で、デーミウールゴス(制作神) による宇宙生成の自然哲学として、プラトンが改めて挑戦する課題となる。

ものが生成変化する原因をめぐって、感覚によって真なる あり方を捉えることはできなかった。そこで、言論で原理を仮に定立することで(基礎定立)、その原理から論理を通じて事柄のあり方を明らかにしていく方法が採用される。「美それ自体が、 ある」というイデア存在を基礎定立し、「他の美しいものはすべて、美のイデアを分有することで美しい」というイデア原因をさらに基礎定立すると(一〇〇B-C[四九節])、今まで混乱のうちにあったこの世界の生成変化が、鮮やかに説明される。

..........End of QUOTE............

以下はギリシャ語の復習みたいな意味での引用。

対話篇最初の一語、「自身・自体 autos」は、パイドンが自分自身でソクラテス最期の場面にいたことの確認であり、同時に、対話篇が「自分自身=魂」と「それ自体=イデア」を主題にすることを示している。

「毒ニンジン」と呼ばれる植物から作る毒薬であろうが、本篇では「薬 pharmakon」(毒薬/医薬)と呼ばれている。生という病から解放する薬という意味も込められているのかもしれない。

「余裕、暇(スコレー) schole」は、哲学を遂行する人間の条件である。「学校 school」の語源。『パイドロス』二五八E、『テアイテトス』一七二D、一七五E参照。パイドンはプレイウスに立ち寄っただけで、どこか(おそらく故郷のエリス)に赴く途上であった。


「愛し求める営み(フィロソフィアー) philosophia」はピュタゴラス派に由来する語で「哲学」のこと。「愛知者 philosophos」は「知者 sophos」から区別される。

それは、夢を信じて詩の作品を作り、敬虔に振る舞ってからこの世を立ち去るのが、より安全だと思われたからだ( 32 註・新訳との対比)。


それはつまり、まさに知を愛し求める哲学に正当に携わっている人々は、死にゆくこと、死んでしまっていること以外の何物も追求していないということ、このことはおそらく他の人々には気づかれずにいるのだ。それで、もしこれが真実なら、全生涯でこのこと以外の何物も熱望していないのに、長い間熱望して追求してきたそのことがやってきたその時に嫌がるのは、奇妙であろう。」

つまり、本当に、知を愛し求める哲学者は死にかけており、死を被るのが相応しいということは、彼らに気づかれていないなんていうことはありません。」(55 メモ・アオリスト?)

戦闘も、肉体やその欲望が生じさせるものにほかならないからだ。つまり、金銭の獲得のためにあらゆる戦争が生じるのだが、それは私たちが金銭を獲得することを肉体によって強いられるから

離れるのはまさにその時であり、それ以前にはそうでないからだ。私たちが生きている間に私たちが〈知る〉ということにもっとも近い状態にあるのは、どうやら、最大限肉体と親しくすることなく、どうしても必要な場合を除いて共同することもなく、また、肉体の性に感染することもなく(75)、肉体からの浄化を遂行している時のことなのだ。

魂の肉体からの解放と分離が(79)、死と名付けられているのではないか」(メモ・コウリスモス)

正しく知を愛し求める哲学者たちは、死にゆくことを練習している(メモ・メノス)

恋する人たちが、彼らの愛する少年がふだん用いている竪琴や着物や他の持ち物を見ると、このことを経験する

魂は、見たり聞いたり他の感覚を通じて考察するために肉体を合わせて用いる時――感覚を通じてなにかを考察するのは、肉体を通じてなのだから(176)――その時、魂は肉体によって、けっして同じものに即したあり方をしないものへと引きずられ、魂は 彷徨いかき乱されて、あたかも酩酊しているように 目眩 を起こすのではないか。

一方で、神的で不死で知性的なもので、単一な相をなし、分解不可能で、つねに同じ仕方で同じものに即したあり方をするもの、そのもの自体にもっとも似ているのは魂である。他方で、人間的で死すべきものであって、多くの相からなり非知性的で分解可能で、けっして同じものに即したあり方をすることがないもの、そのもの自体にもっとも似ているのは、今度は肉体である。

つまり、重く土のような性質で、目に見えるものだと考えなければならない。それを所有することで、そんな魂は重くされ、 見えざるもの と 冥府 を恐れて、目に見える場所へと再び引き戻され、一般に言われているように、墓碑や墓場の周りをうろついている。

劣悪な人々の魂である。その魂は、生前の過ごし方が悪かったため、その償いをするためにこんなものの周りを彷徨うことを余儀なくされている。

例えば、大食いや傲慢さや酒の飲み過ぎを練習して危険性に注意を払ってこなかった者たちは、ロバやそういった畜生の種族に仲間入りするのが、ありそうなことだ。

知を愛する者は《金銭を愛し求める大勢のように破産や貧窮を恐れてそうするのではなく》《肉体を作り上げる生き方をせず、自分自身の魂に配慮を向けるあの人たちは、彼らはみなどこへ行くのか知らないのだからと別れを告げて、その人たちと同じ道を歩むことはないのである》

縛られている者自身がとりわけ縛られることの協力者となるように出来ている(メモ・マルクスの内部統制、外部対抗)

「考察をめぐらす」が哲学的、「物語る mythologein」が神話・宗教的な語り方に対応する(39)。

人間の関係を羊飼いと羊(持ち物)に喩えることは、ギリシアでは普通であった(44)。

理性的に推論する logizesthai」は、推論や計算を行なう理知的営み。

「死にかけている」とは、死んだのと同然という意味と、死を求めているという意味をかけている。アリストファネスの喜劇でも、哲学を行なう仲間は「半分死人だ」と 揶揄 われており、男らしく生きている状態とされる政治や実業の場面での活動との対比で、哲学者は「死んでいる」も同然だとされるのは、一般人に共有されるイメージであった(55)。

「分離 apallage」という語は「解放」という意味も持つ(56)

肉体からの魂の分離という「死」の規定は、常識的な見方にも見えるが、実際には哲学的定義となっている。魂が「それ自体で ある」という状態の実現は、哲学の目標である(57)。

ここで語られる「配慮 therapeia」は、『ソクラテスの弁明』の「配慮 epimeleia」と同義で、魂と肉体(金銭・名誉を含む)の二方向に分岐する(58)。

配慮は「何に向かって生きるか」という 方向 の問題であり、哲学者には魂の目の向け変えが求められる(59)。

「叡智」と訳す「フロネーシス phronesis」はプラトンでは一般に知を意味する語で、アリストテレスが術語化した「実践知」の意味ではない。この対話篇では特に、浄化された魂が真実在を認識している状態を指す。通常の用例では「思慮」と訳す(61)。

真理(アレーテイア)」は叡智が関わる状態である(62)。

古代から、エピカルモスの言葉「知性が見、知性が聞く。他は盲目で聾である」(断片一二DK)が引かれる。これはクセノファネスが神について語った「全体として見、全体として考え、全体として聞く」(断片二四DK)とも関わる(63)。

視覚と聴覚は、外界を把握するために最も有効な手段であると考えられていた。この二者以外の、嗅覚、味覚、触覚は、より曖昧な感覚である(64)。

魂が関わるのは、あらゆるものの「ある einai」というあり方、つまり実在・現実である。訳では「 ある」に傍点を振って示す(65)。

魂の叡智の対象として導入される「それ自体 auto」はイデアを指す。最初にイデアが認められるのは「正しさ、美しさ、善さ」という三つ組である。唐突な導入にすぐ同意する様子からは、シミアスやケベスがソクラテスとの議論で以前からイデアという考え方に親しんでいたことが窺われる(66)。

「あり方、ウーシアー ousia」は「ある einai」の抽象名詞形で、アリストテレスが術語化して「実体、本質」の意味を担わせた(67)。

[第一議論:六四C-六五A(九節)]哲学者は肉体の欲望を軽視し、それを退ける。
[第二議論:六五A-D(九節、一〇節)]肉体は叡智の獲得を妨げる。
[第三議論:六五D-六六A(一〇節)]自体的存在(イデア)は肉体の感覚を通じては把握されない。

この二者択一は、生きている間は肉体と一緒にあるという前提の上で、 ① 死が無になることであれば、結局知の獲得は不可能となる、 ② 死後に魂が存在すれば、そこで知を獲得する可能性がある、という考えであろう。この選択肢は『ソクラテスの弁明』四〇C-四一Cでソクラテスが語る死後の二つの可能性、 ① 無になること、 ② 魂があの世に行くこと、に対応する(74)。

「感染する」と訳した動詞は、「満たす」という一般的な意味もあるが、疫病の伝染も意味する(トゥキュディデス『歴史』第二巻五一)。「浄化」とともに、病気の比喩である(75)。

ここで「分離」と訳した「コーリスモス chorismos」は、アリストテレスがプラトン「イデア論」を特徴づけ批判する際のキーワードであり、感覚物からイデアを切り離す「離在」を指す。プラトン対話篇では、本篇のこの箇所(六七Dに二例)で使われるのみだが、ここでは身体からの魂の分離を指す(79)。

知の愛求、名誉の愛求、金銭の愛求は三つの生の型であり、『ポリテイア』第九巻では魂の三部分説で説明される(80)。

「カタルシス katharsis」を浄化の過程、「カタルモス katharmos」を浄化の目標と解する(92)。

ケベスが提起する疑問、即ち、死後の魂の存在と能力の保持が、以後の議論の焦点となる。彼が証明をもとめる死後の能力は「フロネーシス」と呼ばれ、弱い意味では「思慮」、究極には「叡智」を指す。その回答は「想起説」で与えられる(97)。

「語り合う」と訳した動詞 mythologein は「ミュートス・物語を語る」という意味もあるが、これから証明が始まるため、「ミュートス/ロゴス」の対比は当てはまらない(98)。

魂が死後冥府に存続することは、ホメロス叙事詩でも語られるギリシア人の死生観であったが、そこから再び生まれるという輪廻転生の思想は、ピュタゴラス派やオルフェウス教など、東方起源の宗教に限られる(100)。

ギリシア語で「より大きなものが生じる」とは「より大きく なる」と同じ表現である(103)。

「再び生きる」を意味する動詞 anabioskesthai が適用される(113)。

この帰結は、七〇C-D(一五節)の議論の出発点に応えるものである。「生じる」と訳す動詞 gignesthai は「生まれる」も意味することから、魂が生まれる、つまり肉体と結びついて生者となるという帰結が生まれる(115)

本篇の主題となる「不死 athanatos」という語はここで初めて用いられる(123)。

「別に para」は、感覚物と切り離してイデアがある様を示す表現(134)。

「風」は「プネウマ」という語で、生き物の息も意味する(158)。

ここでは「冥府 Haides」と「不可視 aides」との通俗的な語源連想が使われている。『クラテュロス』四〇四Bでは、その語源説は否定されている(186)。

ギリシア語の「ソーマ soma」は「肉体」と同時に「物体」の意味を持つ。ラテン語の corpus、英語の body も同様である(190)。

欲望の権力構造は、自身が被束縛者であると同時に束縛者として協力することにある。この洞察は様々な場面で確認されるが、例えばフーコーの監獄の考察が思い起こされる(199)。


「行き詰まる aporein」(名詞形はアポリアー aporia)は探究の途上で困難が生じて立ち往生してしまうこと。ソクラテスの探究論では否定的なものではなく、むしろ不知の自覚への重要なステップである。『メノン』八四A-Dを参照()

これから提示される「調和、ハルモニアー harmonia」を使った議論には、音楽や宇宙の理論にこの概念を用いたピュタゴラス派の背景が推定されている(213)

「流動する rhein」という語は、ヘラクレイトス流の万物流動的世界観を示唆する。恒常不変な実在を認めないという立場がケベスの反論の基盤にある。魂と肉体には程度の違いしかないと考え、前者の存在身分を引きおろす流動説が、イデア論が対決する相手となる(226)

ソクラテスは、魂の病としての言論嫌いを治療する医者である。ここで用いられた「勧める protrepein」という語は「哲学の勧め、プロトレプティコス」の動詞形(233)

「言論嫌い、ミソロゴス misologos」は、「人間嫌い misanthropos」をもじったプラトンの造語。抽象名詞は「ミソロギア misologia」。なお、人間嫌いで有名なアテナイのティモン(シェイクスピア『アテネのタイモン』のモデル)は、ペロポネソス戦争の頃の人物とされる。その場合、ソクラテスやプラトンと同時代人である(239)

人間嫌いが欠いているという「技術 techne」とは、人と付き合う心得としての社交術や、相手の考えを推察する心理術のようなものも考えられるが、哲学的には、人間とは何かの理解であろう(240)。

この注記は有名な「パスカルの賭け」(『パンセ』B二三三)を思い起こさせると同時に、ソクラテスが魂の不死を無条件に信じているのではなく、不知の立場に留まることも示唆する(250)

「はったり alazon」という批判は、しばしばソフィストの 似而非 知識に向けられる(261)。

ここで登場する「基礎定立 hypothesis」は「下に hypo 立てる tithemi」から作られた語で、幾何学の方法として用いられた(『メノン』八六E-八七B参照)。後に一〇〇A(四八節後半)で定式化される哲学の方法を先取りしている(262)

「与る metechein」という語は、イデアと感覚物の分有関係にも用いられる。悪徳が不調和であれば、調和である魂が反対の不調和を分け持つことになってしまい、存立不能になる(270)

「原因 aitia」は、元来は「責任」を意味し、「根拠、理由」にあたる。この概念は、アリストテレスの四原因説に受け継がれるように、近代以降に論じられる「因果」(作用因にあたる)より広い(282)

「自然について peri physeos」は初期ギリシア哲学者に共有されていた問題関心であり、「探究 historia」という語はイオニア自然学で用いられた(284)

ここで「ある」の原因が考察対象に加えられている点が重要である。ソクラテスは「なにかになる」(生成)と「なにかでなくなる」(消滅)の原因のために、「なにかで ある」の原因を知ることが決定的だと見て取っている(285)

「驚き thaumazein」が哲学の始まりであるという、プラトン自身とアリストテレスの言葉を思い出す(296)


大地(地球)の形状は、イオニア以来の自然学の主要関心であった。タレスやアナクサゴラスらは平面を、アナクシマンドロスは円筒形を、ピュタゴラス派は球形を提案していた(303)

ここでソクラテスが期待したのは、そのあり方がそうでないよりも「より善い」という比較による説明であった。「善かった」という「ある」の未完了過去形(エーン)は、現にあるあり方がすでにそう定められているという本質を示す。アリストテレスの「本質」(ト・ティ・エーン・エイナイ)概念の先駆けとなる表現(304)

「犬にかけて」とはソクラテスが時折用いる誓いの言葉。特別の意味はないかもしれないが、やや剽軽な印象を受ける(312)

「必然 deon」とは、元は「結びつける」という意味を持つ(320)

「示して見せる、演示 epideixis」は通常ソフィストが弁論を人前で披露する際に用いる(322)

「基礎定立 hypothesis」の方法は、やや異なる形で『メノン』第三部、『ポリテイア』第六巻「線分の比喩」と『パルメニデス』第二部で用いる表現(329)

「イデア idea」と同義の「形相 eidos」という語は、ここで初めて用いられる。感覚される事物はイデア=形相を分取し(変化)、分有する(状態)ことで、それに派生する名で呼ばれる。例えば、「美のイデア」に与るものが「美しい」と呼ばれる(347)。

「シミアスが持つ大、シミアスの内なる大」は「大それ自体=大のイデア」と区別され、それを分有して生じるもので、現代では「内在形相」とも呼ばれる。『ティマイオス』四八E-五一Bではイデアの「像」として論じられる。ここでの「持つ echein」は感覚物と内在形相間との関係を表し、感覚物とイデアとの関係を表す「分有する」から用語上区別される。内在形相の存在論的身分については、研究者の間で議論が続いている(349)。

内在形相同士に起こる事態は、軍事的な比喩「退却、滅亡、降参」で語られる。ここでは、内在形相がその場からなくなることは、「逃げ出す」か「滅びる」かどちらかの事態として説明される。内なる形相も超越イデアと同様に、それと反対のあり方をすることはけっしてない。(351)

以前の議論では使われていなかった「事物 pragma」という語が明示され、なにかのあり方それ自体(イデア)と、それに与る事物の状態が区別されている(355)

「美のイデアはつねに美しい」のように、イデアはつねにその名で呼ばれるが、それに与る事物も、イデアと恒常的な関係にある場合、同様にその名で呼ばれる。「つねに」というイデアの永遠性への言及が、重々しさを醸し出している(360)。

「奇数」と「偶数」を二つの列に数えるのはピュタゴラス派の「双欄表」であり(アリストテレス『形而上学』第一巻第五章など)、この議論にはその背景も推測される(361)。

ここでは「イデア」という語が使われているが、「持つ」という動詞の目的語となっているため、内在形相にあたると理解すべき。「イデア/形相」の語は、区別して用いられてはいない(362)。

「持つ」の目的語となっているため、内在形相を指す(364)。

ここでも「イデア」は「占拠する」ものであり、内在形相を指す(366)。

奇数であることの定義は、割り切れる数を「一」だけ超過することであり(アリストテレス『トポス論』第六巻第四章一四二b)、それゆえ「一、モナス」は奇数性の根拠とされる。なお、ギリシア人は一般に、「一」は数の単位であり、数のうちに入らないと考えていた(372)

内在形相にあたるものが変化の後でどうなってしまうかという問いをめぐって、退却か消滅かという選択肢が吟味される。ここから始まる三つの「もし仮に」という議論は、反実仮想であって、実際にはそうではないという含意で語られる。従って逆に、三、雪、火の場合、退却が必然ではないことが示唆されてた(377)

「永遠である aidion」という条件は、一〇五D(五四節終わり)で同意された「つねに aei」から確保される。「永遠にある」ものが「不滅である」ことは、一見証明の必要のない真理に見える。だが、ケベスのこの発言には、性急さや不十分さの恐れもある(380)。

〈生〉のイデア、およびその内在形相は消滅を受け入れないという考え。そこで「神」が並べられることに意味がある。神こそ不死で不滅の存在だからである(381)。

死が万事の終わりなら、生きている間にどれほど悪いことをしてもそれで終わりになる。それは恵みだと皮肉で言われる。ヘルメスは冥府に同道する役割の神である(389)。

「壮観 theama」は「観想 theoria」がなされる光景であり、イデアの世界を連想させる(412)。

窪地の中にある島々というのは、私たちの大地にある高山の頂が空気の層を突き抜けている部分と考えられる(413)。

生前の行ないや生き方に応じて、まず善・悪・中間の三グループに大別される。悪しき行ないをした者がその程度に応じてさらに三種類の道を辿る。アケロン川は中間の者に、コキュトス川とピュリフレゲトン川は治癒可能な悪者に対応し、善者と極悪人はさらにその上下、つまり大地の上方とはるか奥底のタルタロスへと送られる(433)

「コスモス kosmos」には「装飾、化粧」という表面的な飾りの意味と、「秩序」という内面的な整いの意味があり、ここではその二義がかけられている(442)

「浄化、カタルシス katharsis」は、不純な物質の除去という医療行為、及び、宗教的な浄めを意味する。ここでの「古くからの言論」が、 ① オルフェウス教の教えを指すのか(オリュンピオドロスの古注等)、 ② ソクラテスがこれまで語ってきた議論(六四E-六五A[九節]、C-D[一〇節]、六六A[一〇節終わり]、六七A-B[一一節終わり]) を指すのかで論争がある。ここでは ① で訳しているが、 ② の場合「前にこの議論で語られている」となる。 ① の論拠としては、「一つに集結し凝集する」という表現が物質主義的であること、「古くから」は通常伝統を意味することが挙げられる。

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August 17, 2020

『メノン 徳(アレテー)について』プラトン、渡辺邦夫訳、光文社古典新訳文庫

 

Plato01  この夏、四冊目のプラトンは『メノン』。《たぶん他の国でも、人に親切にするよりも危害を加えるほうが容易だろうが、この国ではとくにそうなのだ》なんてあたりは2000年以上たっても人間社会は変わってないなと感じます。

 1995年刊の藤沢令夫訳でも「おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探求するおつもりですか?」(岩波文庫、p45)とか、哲学的難文ではなく鮮烈でしたが、90年代に進展したというプラトンの研究をふまえた渡辺邦夫訳、解説の本書も素晴らしかった。

 上記の部分の渡辺邦夫訳は《それで、ソクラテス、あなたはどんなふうに、それが何であるか自分でもまったく知らないような「当のもの」を探究するのでしょうか?》となっていまして、正確を期すためにやや硬いけど、読みやすいし意味も正確にとれる感じ。

 さて、当時のギリシャにはソフィストや弁論家といった紀元前五世紀に登場した新しい職業の人々がいて、アテネでも、言論の力で出世できるようになり、また世の中を政治的に動かすことも可能になっていました。ソフィストたちは、自分は知恵があり(賢者、ソフォス、σοφοs)、徳を教えることができると称しており、それに影響を受けた若きエリート、メノンが「徳」についてソクラテスと話しに来た、というのが舞台設定。

 しかし、《ソフィストを名乗ったプロタゴラスをはじめとする人々は、自分の「知恵」をひけらかすものではないという正統的な態度に逆らい「自分は賢い」と主張したことで、一部の熱狂的支持を得る反面、伝統派はもちろん多くの常識人に憎まれ、徳を教える職業を始めたが実際にはできていない、嘘つきだという反発・懐疑の的になった》そうで、後半になると、やりこめられたメノンに変わって、こうしたアンチ・ソフィストの代表とも対話することになります。

 しかし、当のソクラテスは《きみは、議論においてああしろ、こうしろと言ってばかりではないか。それは、若くて美の盛りである間、讃美者に対しずっと専制君主のようにふるまえたために、甘やかされ、わがままになってしまった人々がやることなのさ。それに、きみは同時に、わたしが美少年にはからきし弱いということに、どうやら気づいたようだね》というBL好きなオヤジとして登場。相変わらず「何にもわからない」と煙に巻きます。

 ソクラテスにやり込められる中、「難しい問題」は悪いことで、徳が難問を持たないことは当然の事実であるとメノンは考える。「難しい問題」の原語はアポリア、αποριαで対話篇の主要テーマのひとつ。αποριαはπαροs(渡し、道)に否定の接頭語αが付いた単語で、直訳すると「道がない(途方にくれている)」。

 本文には「優れた」と訳されたアガトスαγαθοsという形容詞がよく出てきますが、それは《「アガトスな(優れた)」人はアレテー(徳・卓越性)をもつという関係が理解される。優れた建築家は、建築家のアレテーをもつ。優れた牛は、牛のアレテーをもつ。優れた人間も、人間のアレテーをもつ》からだ、と註が付けてられいます。

 さらに「美しい」ないし「立派な」の原語καλλοs「カロス」もよくでてきて、「よい」のagatosと共に良さ、悪さが議論の中心となっていきます。

 させには「美しくて立派な(カロス)」と「優れた、よい(アガトス)」を「καi(英語でいえばandにあたる接続詞)」で結んだ形容句「カロスカーガトス」という単語も出てきます。καλοκαγαθοsはκαλοs καi αγαθοsという3つの言葉をまとめたもので《「善美の人」のようにも訳される。非の打ち所のない立派な人を褒めるときに使う、ギリシャ語表現》と註がつけられてます(3つにまとめられた単語は新約には出てきませんが、καλοs καi αγαθοsはルカ8:15の「立派な良い(心)」で出てきます。古典ギリシャ語ではお馴染みの表現を使うのはルカ的ですよね。

 メノンとソクラテスの対話は《それで、ソクラテス、あなたはどんなふうに、それが何であるか自分でも まったく知らない ような「当のもの」を探究するのでしょうか?》《たとえどんなものについて知らないにせよ、ものを知らない人の中には、その人が知らないその当のことがらに関する、 正しい考え が内在しているのである。そうだね?》《そう思えますね》と続き、《人間にとって他のすべてのものごとは魂に基づいており、そして魂そのものに属することがらがよいものであるためには、それらは知に基づくのようにね?こうしてけっきょく、この議論によれば、有益なものとは知であることになる。しかもわれわれは、徳は有益なものであると主張しているのだね?》という方向になっていきます。

 このほか「知識」と訳された「エピステーメー( episteme)」。「学問」「知」と訳された「フロネーシス( phronesis)」。「理性」とも訳された「ヌース( nous)」などもあとで調べてみようかな、と。ヌースはるグノーシスとも関係する「思考する noein」に対応する名詞で、エピステーメーの「知識」、フロネーシスの「知」と重なりますが、知的思考を示します。ちなみに《「知識・エピステーメー」の学問というニュアンスは、「フロネーシス」にはない》とのこと。

 次は『メノン』に続いて想起説(アナムネーシス、αναμνησιs)が取り上げられ、イデア論も初めて明確な形で書かれている『パイドン』を納富信留訳で再読しますかね。αναμνησιsは新約でも1コリ11:24-25で「記念」、ヘブ10:3では「記憶」として使われています。

 『パイドン』は「魂の不死について」という副題が付いていて《死者が生者から生じるのと同じように、生者は死者から生じるのである、と。こういう事情であれば、それは、死者たちの魂が必ずどこかに存在していて、そこから再び生まれてくるはずだ、ということの充分な証明になる、と先ほどわれわれは考えたね》《生き返るということも、生者が死者から生まれるということも、死者たちの魂が存在するというも、本当に有りうることなのだ》(岩田靖夫訳、岩波文庫、p52-54をアレンジ)とか印象的でした。『メノン』でもソクラテスは《もしも存在するもろもろのものの真理が、われわれの魂のうちにつねにあるなら、魂は不死であろう》と語っていました。

......以下は解説の引用です......

『メノン』の解説を書くとき、主題が「徳」なのか、それとも「知識とドクサ」なのかについてどのような態度をとるのかは大きな問題です。

(メノン)以後のプラトンの作品では、倫理や人生の領域の「徳とは何か?」というより、存在全般に関わる「善とは何か?」「ほんとうに存在するものはどのようなものか?」のように問いがおもに立てられるようになります。中期という時期の作品の特色ですが、この点も『メノン』における哲学のいろいろな主題が関係しあう仕方から、或る程度説明されると思います。つまり、一貫して徳を問題にして徳以外のことはあまり問題にしなかったといわれる、ソクラテスというひとりの人間の個性が、『メノン』の全体で問題なのだろうと思います。

「徳」は「アレテー」の訳ですが、「卓越性」のように訳す訳者もいます。「眼のアレテー」は見る力が優れていることで、「建築家のアレテー」は立派な家を建てることです。「土地のアレテー」は作物がよく育つということですし、「馬のアレテー」は馬としての働きが優れていることです。同様に人間のアレテーが問題になります。そしてこの人間のアレテーが『メノン』の主題ですので、「卓越性」は誤訳でなく、立派な翻訳です。しかしその内容として、ギリシャでは勇気、節度、知恵、正義、敬虔のような「徳」が考えられ、他にも、無数のマイナーな「人間の徳」がありました。

『メノン』は初期対話篇のなかでも、最後の作品です。そしてここで取り上げられるテーマや考えは、すべて次の『パイドン』と『饗宴』に受け継がれて展開されます。ただしこの二作品はもう、次の「中期」と呼ばれる時期のはじめの著作です。中期になると哲学の方法が重要になるとともに、プラトン独自の哲学が展開してゆきます。

『パイドン』では理論的な可能性が本格的に検討されて、死後も魂が不滅であるということ、したがって自分がやがて死んでしまうことを言い訳に探究や吟味から自分の注意と熱意をそらすのは、誤りであるということを論じようとします。

『メノン』以前では「勇気とは何か?」(『ラケス』)「節度とは何か?」(『カルミデス』)「敬虔とは何か?」(『エウテュプロン』)「美とは何か?」(『大ヒッピアス』)などは話題になりましたが、いろいろな徳目を すべて 束ねた「徳とは何か?」のような、ことばの意味において 非常に一般的な意味合いの 問いは、いちども対話篇全体の公式主題になっていませんでした。同時に『メノン』では徳を 一般的に扱うので、「人間とは何か?」「なぜ人はそもそも徳を積む必要があるのか?」「善とは何か?」

『メノン』の主題は「徳」です。この話題をひとつの副題のようにして、プラトンはすでにこの作品の直前に、ソフィストの技術について考える『プロタゴラス』と、弁論術と弁論家についてこれをどう考えるべきかという議論を示す『ゴルギアス』という、比較的長い二作品を書いています。

徳は教えられるものでしょうか?」と尋ねるところから始まります。これに対してソクラテスが、もっと根本的ではじめに答えられなければならない「徳とは何か?」さえ自分は答えられない と言って、全体の主題がはっきりと示されます。

作家クセノフォンが、キュロス軍のもう一人の武将クレアルコスの友人であり、クセノフォンは、この戦いにおけるメノンを酷評しました(『アナバシス』 2. 6. 21-29)。

上昇志向と政治的野望の強いメノン自身の中に、その非常に強い野望と社会の中での上のポジションから見下ろす「格差」の意識ゆえの「理解の壁」があって、その壁のために、このままではメノンは「徳とは何か?」という問いを、一定以上は真剣に追求してくれなそうだということが分かります。

正義は徳のひとつにすぎず、節度や勇気や知恵も徳なので、「正義イコール徳」ではありません。第二に、ここからの長い箇所全体でソクラテスは、適切な定義において「循環してはならない」という基本ルールをメノンに分からせようとします。「循環」とは、たとえば徳を「徳」ということばを使って定義して説明することです。あるいは勇気を「勇気」ということばを使って、円を「円」ということばを使って、それぞれ定義することです。

ソクラテスが言いたい最終的な主張は、知識と離れた別の「よいもの」など存在しないというものです。

「勇気」が知でなく、或る種の「元気」のごときものであるとすると、「人が知性なしにただ単に元気を出すという場合には、害をこうむるが、 知性を伴って元気を出す場合には、ためになり有益」であるというわけです。

意志の弱さの問題は、『メノン』以後に残される、重要な「宿題」ということになります。

「〈批判〉だけする」ソクラテス的な「教育」自体の正当化をおこなう場面をプラトンが設定したということであるように、わたしには思えます。次に想起説の説明に進んで、プラトンがおこなう正当化の評価を試みながら、パラドクスの運命をみてみましょう。

「事物の自然本性」と訳したのは、ギリシャ語の「フュシス」です。ギリシャの文物にあこがれた古代ローマ人は、ギリシャ語のこのことばを翻訳するために、母語のラテン語から「ナートゥーラ( natura)」を宛てました。やがてそこから、近代語の英語の nature や、それに類する各国のことばが生まれました。日本語の「自然」にあたる意味内容も含みますが、ものやことがらに内在して、そのものを支える「本性」「本質」のニュアンスが強いことば

「徳のフュシス」は「『徳とは何か?』への答」であると言えますし、「人間のフュシス(= human nature)」といえば、「『人間とは何か?』への答」のことであると言えます。さまざまなものの「何であるか?」という問いを、ソクラテスが倫理的徳目や価値について探究し始めたようにだれかが探究してゆくとき、最終的に、問題にしている複数のことがらの理解は、芋づる式に、あるいは数珠つなぎに得られるはずだ、なぜならこうした問いへの答は、ひとりひとりの人間のいまの人間身体における「誕生」以前の〈本来の高貴な状態〉において、 すでに 知られていたものだから──想起説は、ほぼこのようなメッセージであるように思われます。

エピステーメーというギリシャ語の「知識」は、ここの説明では、原因にさかのぼって考えたうえで、原因からの推論結果として内容を導き出したものなので、その点でただの〈正しい考え〉とはちがっていると言えると思います。

このことをメノンが理解するには、知識のイメージを一新する必要があり、そのために対話者ソクラテスが用意したのが想起説であるとわたしは思います。

ひとつは、他人から伝聞的に聞き知る意味での「知る」に対し、「理解して知る」という意味の「知る」ことこそ、人が 本来的に「知るに至る」ことであるという考え方です。もうひとつは、まったく新たに学ぶことに対する、 むかしの 経験の記憶に基づく知の 再 獲得こそ「学び」なのだという主張です。

「仮説」の議論で、対話者ソクラテスはメノン相手に、知識が「よいもの」を真によいものたらしめる究極の要素であると論じて納得させます。この説得においてソクラテスは、「知識(エピステーメー)」も使いますが、「知性(ヌース)」という関連する別の重要なギリシャ語も使うし、「知(フロネーシス)」も使っています。

対話者ソクラテスと著者プラトンは今、一言で「知識」と言っても、徳が「知識」であるのは、そういう「外化」が可能なことを意味 しない ことが明確な場合にかぎられる、と示しておく必要があったのでしょう。

なぜ若い人は、じゃまになる考えを取り除いて頭の中をきれいにしてあげさえすれば、次々と壁と思われたものを越えて、次の段階にジャンプして成長するように学んでゆけるのか? それは、自分の中にそれを越えさせるくらいのたいへん豊かな財を、もともともっていたからだ。──こんな発想をプラトンは『メノン』執筆当時、もっていたのではないかと思います。

メノンは「学習による」とソクラテスが言ったことを「教えられる」のように言い換えており、ソクラテスが結論の必然性や強さを明言しないところで「必然に思えます」「仮説に基づいて」のように、あたかも絶対確実な学問的推論の力で完全に立証できたかのように主張しています。

まず徳は知識であるという仮説からは、徳は教えられるということになった。自分はこの結論は確実と思ったが、ソクラテスにそうでないと言われ、かれが詳しく説明してくれたように徳の教師は現実にはどこにもいないということに自分も納得した。したがって徳は教えられないというのが結論である。だから徳は知識ではない。行動を導くもうひとつのものである、正しい考えが徳なのだろう。そうすると自分には、徳をもった優れた人がほんとうにいるのかが疑問に思えてくる。 優れた人があらわれ出てくるとしたら、それはどのようにしてなのだろうか?また、徳が知識でなく正しい考えだとすると、 なぜ知識は正しい考えより優れているとされるのか、この点も、いまは、自分はよく分からなくなってしまった。

かれは仮説という「幾何学で通用している立派な方法」によって徳は教えられるという結論が出たと一回確信しました。ソクラテス自身のようにここを少し緩く、もし徳が いわゆる 知識なら、徳は生まれつき備わるのではなく学ばれるものである、しかし徳は いわば 知識 のようなもの なのだから、それは学ばれるのだ、という程度に理解するとき、この結論は、徳の教師は存在しないので徳は教えられないという第四~五章の結論と、矛盾しません。つまり、徳は「他人から教えられない」 というしかたで 学ばれるという結論になります。

幾何学から現実の具体的生活に関わる徳の問題に話を進めるということは、だれがどうみても大きな冒険なので、「例外」の可能性への注意が必要になるはずです。そして、ここはそうした例外に当たるので、われわれはこの「場合分け」の 意味自体 に吟味を加えていくことをこの特殊な「仮説」では問題とせざるを得ないということになります。これが、ソクラテス=プラトンの隠れメッセージだと思います。

徳が「知識である」と 言える のは、それが 生きた「魂」ないし「心」の力として、或る人の間違いのない判定能力・判断力であると言えるといった程度の意味におけることです。ギリシャ語で言うと、「エピステーメー」という、「知識」と訳せて教示可能性と結びつきやすいことばよりも、「フロネーシス・知」という、行動や実践での「頭の良さ」「知力」「思慮深さ」といった意味合いのことばのほうがぴたりの表現であるような内面的な力です。このことばにも、「ヌース・知性・理性」にも、それが人から人へと教えられるものであるというニュアンスは欠けています。  実際には、導き出せるのは、徳は知 ないし 知識 ないし 知性だから、生まれつき人に宿っているものではなく、後天的に「学習」されるものであるという穏当な結論のみです。それをソクラテスも結論にしています。この「学習」は非常に広い意味内容をもちます。本を読んで勉強したり、優秀な教師からレッスンを受けて教わったりする意味での「学習」も学習の一種ですが、それよりはるかに広く、自分で経験して学ぶこと、自分でよく考えて行動するうちに学ぶことなどの、「実技科目」のように学ぶことも含まれます←エピステーメー、フロネーシス、ヌースとの関係

(A)有益なものとは 知 である(B)徳は有益なものである という二つの前提 の組み合わせで、(C)徳とは知である という結論を得る

この点を、この箇所の趣旨に或る程度似ている「太陽の比喩」という、中期対話篇の中の、『国家』第六巻の印象的な議論の説明を利用して、描写することができます。『国家』の議論によれば、 善のイデア こそ美や正義に比べ最高のイデアで、前途ある若者のための最大の学習課題ですが、これが最重要のものであるのは、「太陽との比較」で明らかになると対話者ソクラテスは言います。つまり、太陽が〈見る・見られる〉という関係全体において光を提供することでその全体の原因とみなされるように、そのように〈知る・知られる〉という関係の全体を検討するとき、善こそ「知られるもの」真理性を付与し、「知るもの」に知る力を与えるものだというのです( 506B-509B)。

野心家や目立ちたがりの人がきらう地味な徳の学習に努めないと、自分の 内部の状態が原因となって、認識そのものが「遮蔽物」や「暗さ」や「濁り」に類したもので妨げられることになる、ということが、『メノン』でも、そして『国家』でもプラトンの主張のポイントになっていると思います。 より重要なのは、積極的な帰結のほうだと思います。このような「自分自身の問題」を乗り越えて徳の問題の重要性に気づき、人一倍徳の学びに励んだ上、その徳に基づいてよいものを事柄どおりによいものと人々にまさって認知できる人が出てくれば──ソクラテスの否定的論駁はまさにこのような人を生むことを目標にしていたように思われます──、その人の場合には 内的なものの力で 自分や他人の幸福とほんとうの繁栄、人々の福利について、他の人の及ばない力を発揮できるだろうということになるはずです。これが「仮説の方法の議論」の最終的なメッセージになるように思われます。

第五章のテーマは、知識だけが統率するものではなく、正しい考えも統率するものなので、「徳」と呼ばれるものは、実際には知識ではなく正しい考えであるという新しい論点です。

正しい考えは、 行為の正しさに関しては、知にまったく劣らず正しく導く」と主張します。したがって徳に関する第三章の「仮説の方法」の議論のところで、徳が知であるとして、知のみが正しい行為を導くとしたのは誤りであったと、 前の主張を修正します。この修正の意味が、解釈の大問題です。 「正しい考え」は「アレーテース・ドクサ」を訳したことばです。「アレーテース」は直訳すれば「真実の」「真なる」ですが、本訳では「ドクサ」を形容する場合はより自然な「正しい」で訳しました。「ドクサ」には、さまざまな訳語が考えられます。中期のイデア論の文脈のように、イデアという「あるもの・存在するもの」を捉える心の能力としての「知識・エピステーメー」との厳しいコントラストがついて、真ではあるが次元的に劣った心的状態・力のニュアンスが強い場合、「思わく」(もっとかたい日本語ですと「臆見」になるでしょうが)のような専用の訳語にする慣習があります。いっぽうそのような文脈にかぎらない、たとえばイデア論が出てこない、後の『テアイテトス』や『ソフィスト』のような対話篇では、心が一回でくだす「判断」のように訳すのが適切な場合もあります。第五章の議論は、次のように進んでいるように思われます。 徳は教えられない。ゆえに徳は知識ではない。徳は結果的に正しい行為を導くものである。正しい行為を導くのは、知識か、正しい考えである。ゆえに徳は正しい考え

ソクラテスが善や美や正義などの大切なことに無知であることと、ほんとうの 徳 ならばそれは 知であるという主張は、論理的に両立するからです。

ソクラテスの場合には、神ならぬ自分がほんものの知をもっていないということは絶対の前提であって、要するに 近似的な 知である「徳」でもって生きていく、そして つねに 徳の点での 向上をめざす という態度を取っていると思います。したがって第五章で徳が正しい考え程度のものにすぎず、知識でないという「修正」をおこなったことは、ソクラテスにとって第三章の議論の受け取り方に関する、いわば〈適切な注〉がついたということを意味したはずです。われわれは生きている間、どんなに進歩したところで、完全に「透明に」よいものを知るにはいたれないということの原因にかかわる仮説(合理的推測)を立てる作業をおこなってゆく精神、そして自分の徳に基づいて原因をつねに探りそれに基づいて行動しようという精神によって、こうした、建設中の 知識というものを中心に 動く活動のもとでしか、ほんとうは国家もよくならないし、全体の福利を考えながら国家を動かす人材も働けないはずだということは、動かないように思えます。

じつは『メノン』に関する論文や著書は、プラトン研究全体の中でも重要な一部分を占めており、いま現在、次々と新発見や新しいタイプの解釈論争が起こっているというのが実情なのです。  重要な解釈論争が、第一章の「だれも悪いものを欲しない」という趣旨の議論(「けれども、今度はきみのほうで」~「悪いものを欲しないのでしょう」)に関して起こりました。これは、著名な研究者同士の論争です。サンタスによれば、「悪いものを欲する」人がそのもの自体をよいと考えている場合、一種の「間接話法」のような具合になっていて、その人は現実に欲することと区別されるような「よいもの のつもりで 欲する」という意味合いでは、よいものを欲していると解釈されます( G. X. Santas, Socrates, London 1979, 183-189)。これに対し、ペナーとロウが共著論文を書き、サンタスのような『メノン』解釈は『ゴルギアス』における、欲求され願望されるのはよいものであるという主張(単によいと思われる、あるいはよい つもりの ものではなく、 実際に よいものであるという主張)に矛盾するので、ここでも「よい」は、行為者の頭の中でよいとされるものというより客観的によいものであると解釈すべきであると主張しました( T. Penner and C. Rowe, ‘The Desire for Good: Is the Meno Inconsistent with the Gorgias?’, Phronesis 39 (1994), 1-25)。サンタスのようにただ単に「よいもの のつもりの」ないし「よいと 思われる」ものだけをよいとすると、それはたしかに、プラトン的ではないように思えます。しかし、逆にペナーたちのように『メノン』の議論を解釈するのは、不自然で無理があります。  わたしは、本訳の「解説」一(三)では、両者のいずれとも異なり、〈行動の観察結果から推測される、行為者本人にとってよいもの〉という意味の理解を提案しています。

「探究のパラドクス」とは、「まったく知らない対象を探究できるわけがない」というものです。ファインの問題提起( G. J. Fine, ‘Inquiry in the Meno’, in R. Kraut (ed.), The Cambridge Companion to Plato, Cambridge 1992, 200-226)などを経て、スコットは最近の出色の研究書の中で、主張を、想起説は探究のパラドクスの問題に答えるために導入された説ではないという新しい解釈にまとめました( D. Scott, Plato’ s Meno, Cambridge 2006, 79-83, 121-125)。──賛成にせよ反対にせよ、現在の『メノン』解釈は、このスコット説への態度表明をする義務を持っていると思います。わたしはスコットの主張のうち、想起説は論理的ないし理論的に探究のパラドクスを解くものではないという部分を承認してもよいと思います。しかし探究する人々と「 知識」との深い関係を語る想起説のような形でなければ、探究のパラドクスのもたらす 心理的脅威 は排除できなかっただろうと考えています。なぜなら、ファインやスコットや他の多くの解釈者のように、 知識 でなく正しい 考え からでも探究を始められるという答でかまわないというとき、「 まったく知らない 対象を探究できるわけがない」というパラドクスの、 ことばの文字通りの力 があまりに軽視されているからです。

「想起説」は、じつは「過去の経験の想起」よりも「『知識』を『理解』で解釈すべし」

偶然かもしれませんが、こうした新しい『メノン』解釈の流れの多くは、そろってみな一九九〇年代からのものです。藤沢訳の文庫版は一九九四年出版で、これらの新傾向が定着して、そのエッセンスを安心して一般書にも取り入れうるステージ以前

読者が自分でものを考えるために使いこなす「素材」のようなものとして、『メノン』は書かれたと考えます。思想内容の単純な伝達を、志していないと思います。学びに関して他人の知識をあてにするばかりのメノンのあなた任せの受動性を、プラトンは悪い見本と考えていますが、この点でかれの書き方そのもの

「あいまいさ」の積極的重要性も、じつは案外新しい主題なのです。ロイドの解釈( G. E. R. Lloyd, ‘The Meno and the Mysteries of Mathematics’, Phronesis 37 (1992), 166-183)が、この点を最初に指摘した文献です。

考え方のちがいは、『メノン』解釈にも深い部分で影響してきます(今回わたしは、プラトンの哲学という観点では、この発展主義派にも固定的体系派にもすぐには行かないようにして、まず作品を「味わう」ことを中心に考えたいと思って「解説」に取り組みました)。

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August 09, 2020

『ソクラテスの弁明』プラトン、納富信留訳、光文社古典新訳文庫

Apology-of-socrates

 『饗宴』『プロタゴラス』がよかったので引き続き、光文社古典新訳文庫のプラトンを読んでいます。もう、今年の夏はプラトンを読み直す夏でいいかな、と。

 ソクラテスの弁明は「人間たちよ、ソクラテスのように、知恵という点では真実にはなににも値しないと認識している者が、お前たちのうちでもっとも知恵ある者なのだ」という宣託に関するものが核。解説では《この言葉を聞いたソクラテスの最初の反応は、次のような思いであった。「神は、一体何をおっしゃっているのだろう。何の謎かけをしておられるのだろう。私は、知恵ある者であるとは、自分ですこしも意識していないのだから。」(二一B)「意識する」と訳したギリシア語“synoida”は、「~と共に知る」という語義に由来する動詞で、ここでは「私自身と」という語句を伴っている。この語は、ラテン語の“conscientia”をへて、近代語の「意識、良心」“consciousness,conscience”という概念に発展する》。

 《犬に誓って申しますが》というあたりの言いまわし、マルコ7:28の「食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」を思い出す。《もし神霊が、ニンフから、あるいは、言い伝えにある他のなにものかから神がもうけた子だったら、どうだろう。神の子供が存在すると考えているのに、神が存在しないと、どんな人間が考えるだろうか》というあたりも、新プラトン主義のキリスト教神学との親和性がほのかに感じられるところなのかな。

 プラトンの対話編では《兄弟がこの営みに従事していた人たちがいます。テオゾティデスの子ニコストラトスは、テオドトスの兄です。そのテオドトスは亡くなっているので、兄に口止めの依頼をすることもできません》など兄弟がよく出てきますが、新訳でも兄弟はよく出てくるな、とか。

《死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから》というあたりは、ヘーゲルの死は認識できないのだから不安になることはないあたりに影響を与えてるんだろうな。さらには《ナザレのイエスが十字架に掛けられたことにより「キリスト教」が成立し、彼の教えが全世界に広まったように、ソクラテスの裁判とが「哲学」の意味を開示し、その営みを継承する人々によって西洋の哲学が成立して、今や日本をふくむ全世界で人々は哲学に従事しようとしているのである。彼の予言は、遺されたすべての人間へのメッセージとなった》という解説にもつながっていくのかも。

《真実を語っても、どうか私に怒りを向けないでください。皆さんや民衆に対して正当に異議を唱え、ポリスで多くの不正や違法行為が生じるのを阻止して生き残ることができるような人間は、だれもいないのです。いやむしろ、本当に正義のために戦う人は、もし短時間でも生き残りたければ、公人としてではなく私人として活動する必要があるのです》あたりは現代にも通じる感じ。


《知恵があると思っているが実際はそうでない人々が吟味されるのを、彼らは聞いて喜んでいるのです。実際》というあたりはSNSの世界も同じだな、と。

《あなた方は、私が空とぼけていると考えて、私の言うことを信じはしないでしょうから》←空とぼけ=エイロウネイア(ειρωνεια)はイロニー。新約には出てこない単語。ソクラテスの問答法は無知を装いながら、知者を自認する相手と問答を重ね、かえって相手が無知であることをあらわにし、その知識が見せかけのものでしかなかったことを悟らせる、というメソッドですから、新約のイエス的問答では使えないのかな。解説では《「空とぼけ」(エイローネイア)はしばしばソクラテスに帰される性格であり、「本当は知っているのに、知らない振りをする」といった意味である。ただ、この性格づけはソクラテスの敵対者から言われるのがほとんどであり、真相を理解しない者の側の言い訳となっていた》としています。さらに《論敵がしばしばソクラテスに帰す「空とぼけ(エイローネイア)」という性格も、「本来は知っているのに、知らない振りをすること」を意味する以上、彼に対する完全な誤解なのである》とも。

《私はもう人間がとりわけ予言を行う時、すなわち、まさに死んでゆく時にあるのですから》というのは有名な死の予言。解説では《古代では、死を前にした人には予言の能力があると信じられてきた。ホメロス『イリアス』でパトロクロス(第一六巻八五一行以降)やヘクトル(第二二巻三五八行以降)がそういった予言を語り、プラトン『パイドン』八四E~八五Bで、ソクラテスは「白鳥の歌」と呼ばれる言説を語っている》としています。

.....以下は訳注あるいは解説からの引用.........

「認識している」と訳した“egnoken”は、この前後の文脈で使われる「知る」とは異なる動詞である(解説)

ソクラテスはここで「存在する」(エイナイ)という語を付け加えることにより、「神々を信じる」という内実を追究していく(解説)

写本に基づいてバーネット版が印刷していた否定辞“ou”を、オクスフォード古典叢書新版等は、意味が取りにくいという理由で削除している。後者に従う(解説)

ソクラテスが〈前置き〉で強調するのは、語り手の徳(アレテー)が「真実を語ること」にあるという点である。「徳」(アレテー)とは、その者の本領が発揮される優れたあり方である。

当時の知識人への漠然とした疑念や嫌悪がある。知識人にはおもに、新たな知の潮流をなした自然哲学者と、当時のアテナイで人気を博したソフィストが含まれる。ソクラテスは自分の営為をそれらの「知者」から区別をしながら、本当の「知恵」とは何かを明らかにしていく。

アリストファネスの『雲』でソクラテスが学校「思索所(フロンティステーリオン)」で教えるのは、「邪論(弱論)」で「正論(強論)」を打ち負かすそのような技術であった。

知恵ある者であるとは、自分ですこしも意識していない」ソクラテスは、「神」のこの言葉にさえも一旦疑いの目を向けて、徹底的な吟味を開始する(二一B)。つまり、神託を「謎かけ」として受け取り、自他吟味の探求を始めたのである。これが、ソクラテスの哲学──知を愛し求める営み(フィロソフィアー)──の原点である。

私たちの日常では、なんとなくそう思ったり、それなりの確信があったりする時にも、「知っている」という認定をすることがある。しかし、厳密に言えば、「知る」とは、明確な根拠をもって真理を把握しているあり方を指し、「知っている者」は、その内容や原因を体系的に説明できなければならない。

日常ではあまり重要とは思われない、この「知る/思う」の明確な区別こそ、「知を愛し求める」(フィロソフェイン)営みとしての「哲学」の出発点となる。

ソクラテスはその人たちに共通の誤解があることを発見する。彼らは、本当は大切なことを知らないにも関わらず、地位や評判や技量によって自分こそ知恵ある者だと思いこんでいる。この「無知」(アマティアー)、つまり「知らないこと」(不知、アグノイア)を自覚していない状態こそが、最悪の恥ずべきあり方であった(

罪状は「ポリスの信ずる神々を信じない」こと、つまり「不敬神」(アセベイア)に向けられている。古代ギリシア社会において「神を敬わないこと」が重い罪にあたるのは、ポリスが祀る神々の加護のもとでポリスに繁栄がもたらされると信じられていたからであり、逆に、ポリス成員の不敬な行動や穢れは、ポリス共同体に大きな災悪をもたらすとされていた。古代の宗教とは、個人の内面や信条を問題にするのではなく、共同体の祭祀や行動規範に関わるものであった

ポリスの内乱を終息させる「恩赦」によって「既往は問わない」ことになっていた。民主派に与してクリティアスと戦ったアニュトスらは、ソクラテスと彼ら反民主的政治家との関わりを糾弾したかったのであろうが、公式にはそれは許されていなかったのである。

ソクラテスがメレトス相手に行う尋問は、彼が通常の哲学議論で用いている「対話」(ディアロゴス)の形式を採る。そういった対話でのやり取りは、一方的な長い弁論とは異なり、共に吟味することで真理を明らかにするのに適しているという(『ゴルギアス』篇

尋問では、ソクラテスは得意な「論駁」(エレンコス)の方法も用いている。その方法では、まず相手に自分のテーゼ(立論)を語らせて、その後質問をつづけていくつかの前提を認めさせる。それらの前提から論理的に帰結する命題が当初のテーゼと矛盾していることを示すことで、相手を論駁するのである。

「恥ずかしく思う」(aiskhynomai)という心理上の表現は、「醜い」(aiskhron)という価値判断の語と同根であり、後者の語は「恥」とも訳される。「醜い」の対義語は「美しい、立派」(kalon)である。美醜はまずは見かけの好ましさに関わり、愛求や嫌悪といった反応を惹き起こす。「美しい、立派」は、人の外面だけでなく行為や人生にも用いられ、私たちに見本を提供して自身の生き方を形づくる基本語となる。他方で、「醜い、みっともない」と感じるから、「恥ずかしい」のである。

そして、ソクラテスがもっとも厳しく批判するのは、「恥ずべき無知」、つまり「知らないものを知っていると思っている」状態であった(二九B)。実際、本当はよく知らないのに、知ったか振りをして自惚れる姿ほど醜悪なものはない。

すると、「魂への配慮」を怠るというみっともない状態にありながら、そのことに気づいていない「恥」こそが、最大の醜態ということになる。

わたしたちがしがみついているのは、結局「肉体」(ソーマ)であり「物」(ソーマ)ではないか。それに対して、真に配慮すべきなのは、思慮が働き真理が求められる場、つまり「魂」(プシュケー)とでも呼ぶべき地平ではないか。

「ポリス」とは、大きくて数万人の市民からなる、都市や領域の小国家であり、古代ギリシアに特有の政治単位であった。プラトンやアリストテレスは、この「ポリス」を人間生活の基本として、善きポリスを構築する「政治学」(ポリティカ)を打ち立てていった。

第一部の「環構造(リング・コンポジション)」を成している。

ミノタウロス殺しに由来するアポロン神への祭祀のため、毎年デロス島に派遣する船に儀礼の飾りを付けた時から帰還するまでの期間には、一切の不浄がなされてはならない決まりになっていたからである。その間、公的な処刑もすべて回避されていた。それゆえ、死刑までの一ヶ月の間、ソクラテスは牢獄で過ごすことになるが、そのことをこの時点で知る由もない(牢獄でのありさまは、『クリトン』、『パイドン』篇で描かれる)。

ギリシアにおいては文学でよく描かれていた。ここでは、無論、著者プラトンが後の事態を見据えて書いていることも推測される。

ソクラテスの仲間たちはソクラテス対話篇を競って著し、計二百冊、三百篇におよぶ作品が著されたと推定されている。それは前四世紀前半に「ソクラテス文学」と呼ばれるジャンルを成す

より自由で有意義な対話を交わすためには、特別な場面を設けて、ルールに則って議論するのがより適当ではないか。なによりもそうしてこそ、論者の自由と安全が保証され、結果としてより真理に近づけるはずなのである。こうして創られた対話の空間が「学園アカデメイア」であった。

プラトンの「対話篇」は、おそらく学園アカデメイアやエジプトのアレクサンドリア図書館等で保存、伝承され、やがて後一世紀頃にトラシュロスという学者によって 編纂 され、九つの「四部作」にまとめられて「プラトン著作集」( Corpus Platonicum)となった。そこには、一三通の『書簡』を一まとまりに数えて、計三六の作品が収められている。今日でもプラトン全集が編集される時には、基本的にその配列が踏襲されている

プラトンが生前に執筆したと記録されている作品は、現代にまで すべて が伝承されており、さらに、プラトン以外の作家の作品(「偽作」)も「プラトン著作集」に入っていることになる。これは、古典期の著者としては奇跡とも言うべき伝承状況であり、歴史におけるプラトンの影響力の大きさ

著作の成立と普及には不明な点が多いが、おそらくプラトン自身が最初「蝋板」に書いた文書がパピルスに書き写されて、それが 巻子本 として流布したのであろう。パピルスの巻物は、巻き取りながら何度も読まれることで摩耗したり破損したりするため、一定の期間のうちに新たに書き写されなければならない。そうして数世紀にわたって伝承されたパピルス巻子本は、紀元後には羊皮紙などに書き写され、新たに書物として伝承

新プラトン主義者たちは、プラトン哲学を学ぶ教程として、一二の対話篇を入門から奥義まで並べて、その順で読んでいた。その頂点には『ティマイオス』と『パルメニデス』の二篇が置かれていた(著者不明『プラトン哲学序説』等

プラトンの著述に経年的な変化があることを示す研究がつづけられ、この「文体統計学」の手法は一定の成果を収めた。それは、『ソフィスト』、『政治家(ポリティコス)』、『ピレボス』、『ティマイオス』、『クリティアス』〔未完〕、『法律』という六つの著作が、他とは明瞭な文体的相違を示し、「後期対話篇」というグループを成す

「初期対話篇」とされるのは、ソクラテスが対話相手に「徳」について「何であるか」の問いを投げかけ、吟味探求の末に行き詰まり(アポリアー)に終る対話篇

登場人物ソクラテスの口から積極的な考えが提示され、とりわけ「イデア論」と呼ばれる学説が登場する対話篇が、「中期」とされる。そこでは、ソクラテスというより著者プラトン自身の思想が語られている、と 看做されている。「中期対話篇」には、『饗宴』、『パイドン』、『ポリテイア』、『パイドロス』といった代表的哲学著作が属し、多くは報告や伝達という「間接対話篇」の形式による凝った文学形式をもち、壮大なミュートス──論証でない、神話の語りで、死後や天上の様子を描く──

近代日本ではすでに一世紀以上にわたって、自らの言葉でプラトンを読みそこから哲学の思索を展開する、十分な環境が整っていると

『金銭から徳は生じないが、徳にもとづいて金銭や他のものはすべて、個人的にも公共的にも、人間にとって善きものとなるのだ』と。

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July 28, 2020

『プロタゴラス あるソフィストとの対話』プラトン、中澤務訳、光文社古典新訳文庫

出だしは《おや、ソクラテス、どこに行っていたのだ? 答えは明白かな? 若き美青年アルキビアデスのあとを追いかけまわしていた。そうだろう?》と始まるいつものBL展開。

そして「人間は万物の尺度である」という言葉でよく知られるソフィスト、プロタゴラスとソクラテスの議論は《知恵、節度、勇気、正義、敬虔。これら五つの名前は、一つのものにつけられた名前なのか? それとも、それらの名前のそれぞれには、何か独自のありかたを持つもの、つまりそれぞれが自分だけの働きを持っていて、他のどれとも同様だとはいえないようなものが対応しているのか?》というのが対話の眼目。

当時のアテネはソフィストの時代で《伝統的には、 徳 は生まれのよさによってそなわっているものと思われていたからです。そうした 徳 を、教育によって、(授業料さえ払えば)誰にでも教えるというソフィストたちの宣伝文句は、当時は驚くべきものだった》といいます。

《われわれアテネ人が民会に集まるとき、わたしは次のようなことを目にします。たとえば、国が建築にかかわる何らかの事業をしなければならないとき、彼らは建築物に関する助言者として建築家を 招聘 するのです》の民会は新約では教会の意味のエクレシア(Ekklesia)。ところが外交政策などについては《審議しなければならないときには、誰もが同じように立ち上がり、そうした問題について彼らに助言するのです。その人が大工でも、鍛冶屋でも靴職人でも、貿易商人でも船主でも、また裕福でも貧しくても、家柄がよくても悪くても同じです。 そして、先ほどの場合のように、『この人は、学んだことも、先生に付いたこともないくせに、助言しようとしている』と言って、こうした人たちを非難する者は、ひとりもいないのです。 その理由は明白です。 すなわち、彼らはそうしたものを教えることができるとは考えている》と。

《正義と節度と敬虔、つまり、まとめてひとことで言うなら、人間の徳のことだとしよう》というので徳についての議論になりますが、同じギリシャでも新約の正義、節度、敬虔(ホシオン)、勇気の用法とは大分違うな、と。例えば、四元徳(知慮・正義・節制・勇気)のうち、知恵 (φρόνησις プロネーシス)はルカ1:7とエフェ1:8だけですが、ルカでは「分別」みたいな意味で使われています。

こうした罰[を与える制度]には、きみの国でも他の多くの国でも、〈是正監査〉という名前が付けられているの是正監査(エウテュナイ)は初めて知る単語。役人の任期が終わる時に不正がなかったか監査されたそうです。アリストテレスの『アテナイ人の国政』にそんな記述があったかな…。新約にはエウテュナイという言葉は出てこなかったような…。

このほか《〈望む〉(ブーレスタイ)が理性的な欲求を指すのに対して、〈欲する〉(エピテューメイン)は肉体的な欲求を指す》なども調べてみたい。

《プロタゴラスとヒッピアスは、〈不安〉も〈恐怖〉も、そのような意味だと同意してくれた。しかし、プロディコスは、〈不安〉はそうだが、〈恐怖〉は違うと言った》というあたりも面白い。
不安(Deos)も新約ではヘブ12:28だけで、意味は恐怖、畏敬。70人訳では第二マカバイに集中して出てきますが、やはり恐怖の意味で使われます。中澤務先生は註112で《不安(デオス)は比較的長期間にわたる認知的な気分であるのに対して、恐怖(フォボス)は瞬間的に感じる非認知的な感情》としています。

また、四元徳のうち勇気は、恐ろしいものと恐ろしくないものを正しく計量する能力だということになってしまうからです。この計量の技術とは知恵にほかなりませんから、結局、勇気の実体は知恵であるということになります。

《人間は、こんないきさつで、生きるための知恵は手にしたのだが、しかし政治のための知恵を手にすることはなかった。その知恵は、ゼウスのもとにあったからだ》とプロメテウスなどによって火を得たりしたが、政治の知恵は授けられなかった、というあたりの議論も面白かった。

もう少し、光文社古典新訳文庫でプラトンを再読してみようかな…

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July 24, 2020

『饗宴』プラトン、中澤務訳、光文社古典新訳文庫

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 この本は随分前に岩波文庫で読みました。内容は《成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)》など前半は少年愛(パイデラスティア)を中心としたエロス論です。

《愛する人が少年に対して愛情を示すときよりも、逆に、愛する人に対して少年が愛情を示すとき、神々はよりいっそう驚嘆し、賞賛し、よくしてくださるのです。じっさい、愛する人は神がかりの状態にあるがゆえに、そもそも少年よりも神に近い存在なのです》(kindle位置: 402)などの議論が続きますが、なんといっても素晴らしいは訳者による解説。

..........quote...........

(ドーヴァー)は、古代ギリシャのパイデラスティアの実態を学問的に研究し、一九七八年にその成果を出版しました。この研究の影響もあって、パイデラスティア研究が本格化し、当時のじっさいの姿が、次第に明確になってきたのです。

両者の関係は、少年が成人すれば解消される一時的なものでした。また、必ずしも相手が一人に限定されることはなく、複数と関係を持つことも可能でした。

結婚することを期待され、大多数の成人男性は三〇歳を過ぎれば結婚して家庭を持ちました。しかし、結婚しても、少年との性的関係は並行して続いたのです。つまり、少年愛とは、女性との愛を排除するようなものではなく、並行して成立する別々の愛の形だったのです。

原型となる会合を開いていた人々の間で広まったものであり、少年が男性社会に仲間入りしていくための、イニシエーションのようなものだったと考えられるのです。

むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。

教育とは、すでに知恵を持つ者が、知恵を持たない者にそれを分け与えることだという考えかたです。

若いときに、美しい体に心を向かわせることからはじめます。その者は、最初は一つの体を愛しますが、やがて、どんな美しい体も共通の美しさを持つのだと悟り、その結果、すべての美しい体を愛する者となります。彼は、次に体の美しさから心の美しさへと上昇し、美しい心を愛するようになります。彼は続いて、人間と社会のならわしの中にある美しさに気づき、それらが密接に結びついていることを発見します。次に彼は、知識の美しさを見ます。そして、知恵を求める果てしなき愛の中で、美しい言葉と思想を生み出すのです。

美の梯子の上昇は、一貫して少年愛の道筋の中で進展していくと言われています。

..........end of quote.........

《ソクラテスが醜い男として描かれているのは、崇高な思考とは相容れない肉体という対比がリアルだったから》というあたりの解説も見事。

最後の議論あたりで出てくる「サテュロスとシレノスの劇」というのが「サテュロス劇(サテュリコン)」と呼ばれていた演劇のことで、悲劇・喜劇と並ぶ第三のジャンルだったというのは、今回、知りました。残っているエウリピデスの『キュクロプス』だけでも読んでみようかな、とか。閑話休題ですが、ギリシャの古代演劇で登場するコーラス「chorus」はギリシャ語の「χοροs」(コロス)に由来します。これはギリシャの古代演劇の舞台に登場する10人程度で編成される歌と踊りを担当していたグループをさしますが、初読当時はオイディプスの舞台なども観たことがなかったので、今回はそんなことも思い出しながら読むことができました。

中澤務先生の解説が素晴らしいな、と思って、同じ中澤務訳で光文社古典新訳文庫の『プロタゴラス~あるソフィストとの対話~』も読むことに。

恥ずかしながら、『饗宴』『プロタゴラス』を読んだ時にはトゥキュディデス『歴史』もクセノポン『ギリシア史』もちゃんと読んでなかったので、アルキビアデスのことはそれほど注目していなかったので、実際のギリシャ史と対比する中で理解はできていませんでした。自分の無知、読書量の少なさにはいまさら驚きはしませんが、改めて再読することの価値を『饗宴』で教わった感じがします。プルタルコスの対比列伝でのアルキビアデスも再読してみようかな、とか。

本文には《人には平和を、海には静かなる凪―― 風の寝床を、そして悲しみには眠りを》などの素晴らしい表現があります。いつか、原語で読んでみよう。

お風呂のKindle読書は会計とか数学とか普段読まないようなのを選んでいたのですが、なぜかプラトンの『饗宴』を再読。ドーヴァーの『古代ギリシアの同性愛』からフーコーへの言及が解説にあって、本棚を探したらフーコーの『性の歴史』の1,3巻はあったけど2巻がない…貸して返してもらってないかな…。『同性愛と生存の歴史』はあったのに…。ということでサラッとでも読み直したくなったのでギリシャ的同性愛を描いた2巻だけども買い直すことに。

以下、印象に残ったところの箇条書きです。

ヘシオドスはこう歌っています――はじめにカオスが生まれた。そして、次に生まれたのは、広大な胸を持つガイア、すなわち永遠に動かぬ万物の居場所。そして、その次にエロスが生まれた。

さて、エロスは最も古い神であるがゆえに、ぼくたちに、最高によいものを与えてくださいます。じっさい、まだ若い少年にとって、彼を愛してくれる優れた人よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができません。また、愛する人にとって、優れた少年よりもよいものがあるのかと問われても、ぼくには答えることができないのです。

導き手と呼ぶものは、いったい何でしょうか。それは、醜きふるまいをいとう羞恥心と、美しきふるまいを歓ぶ名誉心です。

人がなにか恥ずべきふるまいをしたとか、あるいは誰かから辱めを受けたにもかかわらず、臆病ゆえに自分を守れなかったことが発覚したとします。そのとき彼は、父親や友人といった人たちよりもむしろ、愛する少年にそれを見られたとき、最も苦しい思いをするのです。

愛する人が少年に対して愛情を示すときよりも、逆に、愛する人に対して少年が愛情を示すとき、神々はよりいっそう驚嘆し、賞賛し、よくしてくださるのです。じっさい、愛する人は神がかりの状態にあるがゆえに、そもそも少年よりも神に近い存在なのです。

(俗のアフロディテ)と共にあるエロスは、まことに俗なる存在です。ですから、やることなすこと、でたらめです。そして、これこそまさに、くだらない人々における愛なのです。  第一に、そのような人々は、少年だけでなく女性も愛します。第二に、彼らは、恋する人の心よりも、むしろ体を愛します。第三に、彼らはできるだけ愚かな人を愛します。

第一に、〈天のアフロディテ〉は、[母がいないために] 女性の性質は持たず、男性の性質だけを持っています。ですから、このエロスは、少年に向かうエロスなのです。第二に、〈天のアフロディテ〉は、より年長の女神ですから、ひとかけらの傲慢も持ちあわせてはいません。それゆえ、このエロスに動かされる人たちの心は、男性へと向かうことになります。そして、彼らは、生まれつきより強く、より理性的な者に愛着を感じるのです。

このような人たちのせいで、例の[少年愛に対する] 非難が生じてしまいました。その結果、[少年が] 自分を愛してくれる人に身をゆだねるのは不道徳だと言い出す人たちまであらわれることになったのです。しかし、そんなことを言う人たちは、このような人たちの不適切で正しくないふるまいを見てそう言っているのであり、どんなことでも、適切かつ合法的になされるなら、非難される筋合いはまったくありません

老いも若きも、誰一人それを恥ずべきこととは言わないでしょう。わたしが思いますに、それは彼らが、言葉を使って少年を口説くなどという面倒くさいことをしたくないからでしょう。なぜなら、彼らには弁舌の能力がないのですから。
 これに対して、イオニア地方など、異民族の支配下にある地域の多くでは、そのようなことは恥ずべきことだとみなされています。
 じっさい、異民族の人々は、独裁政治のもとにあるため、このようなことばかりでなく、学問やスポーツをも恥ずべき

また、たとえ容姿は劣っていても、このうえなく家柄がよく、優れた少年に求愛するのが、特によいことだとも言われています。さらにまた、求愛する者は、あらゆる人から、驚くほどの励ましを受けます。

嘆願や哀願をする人々のようなお願いのしかたをしたり、誓いの言葉を口にしたり、相手の家の戸口で一夜を明かしたり、あげくの果てには、奴隷さえやりたがらないような奴隷的行為を、すすんでやろうとしたとするのです。

ところで、なぜ、このような三つの種族が存在していたのか。それは、男性は太陽を起源として生まれたものであり、女性は地球を起源として生まれたものだが、両性をあわせもつアンドロギュノスは、月を起源として生まれたものだからだ。なぜ月からかといえば、月は太陽と地球の性格をあわせ持っているからね。また、彼らの体が球形で、回転しながら移動していたのも、彼らの生みの親である天体の姿を模倣してのことなんだ。さて、この太古の人間たちは、恐ろしく力が強く、元気があった。

ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。そして、それを使って、男性と女性の間で行われる性交渉によって、子どもを作るようにしたのだ。なぜなら、そのようにすれば、男性と女性が出会ったときに、体を絡み合わせれば子どもが生まれて、種を存続させることができる。また、男性同士の場合でも、少なくとも性的な満足は得ることができるから、ほかのことを考える余裕ができて、自分の仕事をし

男性のうちでも、両性をあわせ持っていた性――すなわち、太古の昔に〈アンドロギュノス〉と呼ばれていた性――の片割れである男性は、女好きだ。そして、浮気性の男の多くは、この種族から生まれる。女性についても同様であり、男好きで浮気性の女が、この種族から生まれる。  女性のうちでも、太古の女性の片割れである女性は、男性に心を惹かれることがあまりなく、女性に心をよせる。女性同性愛者は、この種族から生まれるのだ。  太古の男性の片割れである男性は、男性を追い求める。

そのような少年だけが、成人してから、政治の世界で一人前の男として活躍することができる。  さらに、そのような少年が成人すると、彼らは少年を愛するようになる。彼らは、結婚したり子どもを作ったりといったことには、生まれつきあまり関心がなく、社会的圧力によって、しかたなくそうするにすぎない。

なぜなら、エロスは老年から逃げ去る神なのですから。誰の目にも明らかなように、老年というものは足早なものです。事実それは、必要以上に足早に、わたしたちのもとを訪れます。

エロスがなにかをするときも、暴力を用いることはありません。なぜなら、エロスの言葉であれば、どんなものでも、すべてのものが自発的に従うのですから。

エロスは、明らかに、美を求めるエロスなのです。( なぜなら、エロスが醜さを求めることなどありえないのですから。)

人には平和を、海には静かなる凪―― 風の寝床を、そして悲しみには眠りを

ヘシオドス『神統記』一七六行以下によれば、クロノス神は、父ウラノスの男根を大鎌で去勢したが、自分も同じように息子に倒されることを恐れたクロノスは、息子たちを次々と飲み込んでしまう。

『精霊は、人間の思いを翻訳して神々に伝え、神々の思いを翻訳して人間に伝える。すなわち、人間の祈りと供物を神々に送り届け、神々のお告げと供物の返礼を人間に送り届ける。そして、両者の間に立ってその溝を埋め、全宇宙を一体化させるのだ。

アフロディテが誕生したときの話だ。そのとき、神々は祝いの宴に集ったが、その中にメーティスの息子のポロスという神がいた。さて、祝いの宴の終わるころ、宴ではよくあることだが、物乞いの女がやって来た。ぺニアだ。

すべての人間は、よいものを自分のものにすることを常に願っていると考えるか。

金儲けに励んでもよし、スポーツを愛してもよし、知恵を愛してもよし。しかし、そんなことをしても、〈 愛している〉とは言われぬし、〈愛する者〉と呼ばれることもない。そうではなく、[恋愛という]ある一つの種類の愛において熱心に行動する者だけが、〈愛〉、〈愛している〉、〈愛する者〉という

人物だと言われながらも、その構成要素は決して同じものではなく、たえず新しいものになり、また、ある部分は失われていくのだ。毛髪も肉も骨も血も、体全体がな。

さて、正しい少年愛を通して、このような段階に至るとき、この美の姿が見えはじめる。 そうなれば目的にたどり着いたも同然。エロスの道を正しく進むとか、誰かによって導かれるというのは、このようなことを指す。
しかし、やがて、愛する者の仮面を脱ぎ捨て、自分のほうが愛される少年になってしまうのだ。

末席に向かい、反時計廻りに行われていますが、この方向は「 左から右へ」と呼ばれるもので、

アガペーは、フィリアと同様に、広く好意を表わす概念ですが、その中には性愛も含まれています。このアガペーという言葉は、キリスト教における愛の理念を表わす言葉として知られていますが、この時代にはそのような含意はありません

ドーヴァーです。彼は、古代ギリシャのパイデラスティアの実態を学問的に研究し、一九七八年にその成果を出版しました。この研究の影響もあって、パイデラスティア研究が本格化し、当時のじっさいの姿が、次第に明確になってきたの

この関係は、成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)

両者の関係は、少年が成人すれば解消される一時的なものでした。また、必ずしも相手が一人に限定されることはなく、複数と関係を持つことも可能でした。

結婚することを期待され、大多数の成人男性は三〇歳を過ぎれば結婚して家庭を持ちました。しかし、結婚しても、少年との性的関係は並行して続いたのです。つまり、少年愛とは、女性との愛を排除するようなものではなく、並行して成立する別々の愛の形だったのです。

原型となる会合を開いていた人々の間で広まったものであり、少年が男性社会に仲間入りしていくための、イニシエーションのようなものだったと考えられるのです。

むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。

教育とは、すでに知恵を持つ者が、知恵を持たない者にそれを分け与えることだという考えかたです。

彼の演説は、当時の賞賛演説(エンコミオン) の作法に忠実に従った教科書的な演説であり、それゆえに、賞賛のために必要な要素や論点が提示されているからです。つまり、彼の演説は、その後の一連の賞賛演説の出発点として、その方向性を規定する役割を果たしているのです。

その人と生涯を共にする覚悟があるのだと述べます。これは、彼とアガトンの関係を意識したものだと見なせるでしょう。すでに述べたように、パウサニアスは、アガトンが成人したあとも関係を続けていました。それは、当時の少年愛としては逸脱した行為であり、成人男性同士で関係を継続させている彼らは、さまざまな批判にさらされていたと考えられます。

完全だった太古の人間の本性に由来しているのだと主張します。この説明は、アリストファネスの言うとおり、エロスという、言葉で表現しがたい感情の本性を直観的に言い表わしている

エロスが永遠に所有することを望んでいる「よいもの」とは、子孫であることになるでしょう。これに対して、「美しいもの」とは、子孫を残そうとする男性の性的なパートナー(美しい女性)であることになります。

ここでは、身体における肉体的な交わりに相当するのは、言葉による精神的な交わりです。そして、美しい人に対してさまざまな話を投げかけ、それを導こうとする行為によって、徳という自分の子が生み出されていくことになるわけです。

若いときに、美しい体に心を向かわせることからはじめます。その者は、最初は一つの体を愛しますが、やがて、どんな美しい体も共通の美しさを持つのだと悟り、その結果、すべての美しい体を愛する者となります。彼は、次に体の美しさから心の美しさへと上昇し、美しい心を愛するようになります。彼は続いて、人間と社会のならわしの中にある美しさに気づき、それらが密接に結びついていることを発見します。次に彼は、知識の美しさを見ます。そして、知恵を求める果てしなき愛の中で、美しい言葉と思想を生み出すのです。  

美の梯子の上昇は、一貫して少年愛の道筋の中で進展していくと言われている

「サテュロスとシレノスの劇」と呼んでいます(「 エピローグ」)。これは、古代ギリシャにおいて、一般に「サテュロス劇(サテュリコン)」と呼ばれていた演劇のことで、悲劇・喜劇と並ぶ第三のジャンルでした。

 

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July 14, 2020

『関ヶ原大乱、本当の勝者』日本史史料研究会、白峰旬、朝日新書

Sekigahara
講談、小説、映画、テレビドラマなどで描かれてきた家康の問鉄砲は史実とは言いがたく、小早川秀秋は開戦当初から裏切ったたため西軍の右翼が崩壊し、山中に密集していた石田、宇喜多の主力は総崩れになり、島津義弘の敵中突破も午前中の早い段階だったという話し。さらには直江状も《実在したとは考えられない》というのに驚く。

kindleのメモ機能が本当に便利だし、半値近いのでkindle版で。

確かに、家康の秀秋への問い鉄砲、山から降りてきた秀秋の軍勢を止めようとして闘死した大谷刑部などはドラマティックで、二次資料の創作だろうというのは納得だけど、出来事を理解しやすく「物語化」したことんだな、ということもよく理解と納得する。

しかし、ざっと読んだだけにしても、小山評定の有無や加賀征伐の評価など各論文によって評価が違うところが統一されていない感じ。

それぞれの研究の延長線上で、いま言えることはここまで、ということなのかもしれないが、編者による最終的な総括みたいな一文は必要なのではないかと思う。そうした「編集作業」がなければ、これまでの書きっぱなしのアンソロジーとあまり変わらないような。まあ、面白かったから良いけど。

確かに、数々の定説というか二次創作による伝承は史実ではなく、そうした誤解が主に小説によって大衆に広まったのは、戦後の歴史学のアカデミズムが、軍事史を軽視、忌避していたためともいえるかもしれませんが、群盲象を撫でるような印象もぬぐえません。

以下、箇条書きで印象にのこったところを。

序章で関ヶ原大乱など戦いの活発化について《桐野氏は「惣無事」体制の無効ととらえているが、これは「無効」になったという消極的理解ではなく、「惣無事」体制の「崩壊」というように、よりマクロな視点でとらえたほうがよいと筆者は考えている》というのはなるほどな、と。

《実際に家康は、ルソンとメキシコを結ぶ航路に関東を入れた通商圏の構築や、西洋式の大型船を入手して家康の側からもメキシコへ貿易船を出していくといった活発な対スペイン交易、そして精錬技術(アマルガム法)を導入して金銀を効率的に取得するという富国策を抱いており、スペイン側に要請を出している》《伊達氏や長宗我部氏、島津氏、細川氏など政権中枢に携わらない大名への影響力を求めて勢力の強化を図っている》という見取り図も納得的。

大乱のきっかけとなった上杉討伐については《秀吉から厚い信頼を得ていた景勝は、関東を牛耳る徳川氏、あるいは親徳川の色をもつ伊達氏、最上氏など奥羽諸将の監視・牽制という役割が期待された》というのが前提だったんだな、と。そして、《糾明使に対する景勝の返答は上洛に応じるというものであり、直江兼続が書いたとされる「直江状」はそれと相反する内容となっており、実在したとは考えられない》《上杉景勝を軍事行動により屈服させたという実績を家康は必要としたのであろう。会津征討は上杉氏の対応に関係なく、家康の思惑によって強引に導かれた回避不能のものであったといえよう》。

兼続のイメージも大分、変わりました。《上杉勢は、小手郷大館の奪還戦で「撫切」を敢行している。上泉泰綱による七月晦日付首帳には、首級一○六のほか、打ち捨ては際限なかったと記されている(『覚上公御書集』)》というんですから。また、兼続の戦略は《最上領を併呑して上杉領の長井と庄内をつなげるという目的はなく、最上氏を滅ぼそうという意図もない。最上義光を軍事力で脅して降伏させれば、孤立する伊達政宗も与同せざるをえず、この両者の加入を得て関東を圧迫するというのが景勝と兼続の作戦だった》と。《八月二十八日に二本松城に入った兼続は、伊達氏、最上氏平定後の関東出兵に備え、旧宇都宮氏領における一揆の下工作を進めるように結城朝勝に指示した》というんですが、正宗も《和賀忠親に岩崎一揆を起こさせたと家康に疑われ反故にされたことや、上杉景勝の抑えとしてにらみをきかせたこと、そして上杉氏に攻められた母の兄である最上義光に援軍を出した》こともあるわけで、こうした地生えの侍衆も入り乱れての戦いだったのかな、と。

小山評定については《諸将が小山へ赴いたのは、家康が未だ宇都宮に到達していなかったからにほかならず》《家康は近隣に位置する敵対勢力の打破や、防衛強化などによって地固めをしていく長期的な戦略を持っていたといえる》。出馬が遅れたことで《家康が美濃赤坂(大垣市赤坂町)に着陣したのは本戦前日の九月十四日であり、これまで幾多の前哨戦が行われていたが、家康は本戦まで采配をまったく振っていなかったのである。結果的に本戦が東軍の完勝で終結しながらも、徳川家臣の兵庫と、旧臣の奥平貞治が戦死。松平忠吉と井伊直政が負傷。戦場で傷を負うことがなかったとされる本多忠勝でさえ、名馬三国黒を被弾で失っている。徳川氏の関係者に死傷者が目立つのは、こうした引け目が背景としてあったのかもしれない》。

また、家康の《何よりの誤算は、奉行衆のうち、現役であった増田長盛、長束正家、前田玄以の三名が西軍に味方したことである》というのもなるほどな、と。そして《輝元は秀吉生前の裁定を三成らの協力を得て、輝元の有利になるように改めてもらうこととなった》と。

伊達政宗は百万石のお墨付を徳川家康から与えられたと言われていますが《この約束には戦国期以来の社会的慣習である「自力次第」という前提があったとみられる。つまり、政宗が自身の力によってこれら七カ所の領地を奪い取ることができた場合は、家康がその領有権を認めるというもの》で、自力で領地を奪えない場合は、その権利はなく《政宗が景勝から奪い取った白石城のある刈田郡は、戦後に家康から安堵されている。家康は政宗を騙したわけではなかった》というもなるほどな、と。正宗は《秀吉と秀頼に対し欠字という貴人の名前の前を一文字あける儀礼をしている。こうした豊臣政権で守られていた儀礼を政宗はまだ守っており、秀頼の身を案ずる思いと合わせて、政宗は依然として豊臣大名であった》と。

西軍については秀吉の母の妹の子である《尾張国の動向を左右した清須城主の福島正則が味方すると想定していたことが、三成最大の誤算であり、敗因だったと考えられる》と。また大老の《宇喜多氏の石高は飛躍的に増加したとみられ、おそらく大名蔵入地(直轄領)も拡大した。土地の支配権もすべて大名当主に集約されたので、秀家の権力はいやがうえにも高まった。かたや家臣の多くは知行地の移転や分散を強いられた。しかも新たな石高は実状よりも過大に設定されていたので、名目上、同じ石高でも以前より収入は目減りする。検地への不満はやがて、家臣団内部の派閥抗争に発展していったらしい》というは知りませんでした。《「二人の中納言殿は若輩である。そのうえ家臣もまちまちである」(『吉川家文書』)と述懐したが、家臣団=軍勢の不統一は、こうした応急処置としての人員確保の結果と考えられよう(大西:二〇一〇ほか)》という評価だったとは。だから《徳川家康との決戦を控えた秀家は、国許の防御を固めるとともに、家臣からの人質徴収を通して戦時態勢の引き締めを図り、彼らの寝返りを防いだのであろう》と。

大谷刑部の章はやはり面白かった。《政権に復帰した吉継が従事した案件というのは、豊臣政権のなかではかつて石田三成が担った分野である。政権復帰といっても、吉継の意思だけで可能になるとは考えられない。おそらくは三成の不在によって生じた人材不足を補う必要性から、むしろ家康が吉継に復帰を求め、吉継がこれに応じたという事情も推察できる》。

《利長撤退の理由を軍記類の多くは大谷吉継の謀報戦とする。すなわち、上方から加賀へ帰国の途次にあった前田利家の娘婿中川宗半(光重)を吉継が捕らえ、吉継には北庄を拠点に前田軍を迎え撃つ兵とは別に、これより多くの兵を海路宮腰に上陸させ金沢を攻撃するのに充てる計略があるとして帰国》するなど吉継は健闘します。そして、《利長再挙のリスク覚悟で大坂に向かう理由があったとすれば、豊臣秀頼、毛利輝元の出馬要請》という形で本戦になだれ込みます。しかし、小早川秀秋による、開戦当初からの裏切りにあい《大谷軍は家康本陣めがけて進み、藤堂高虎などの軍勢ともみ合っている最中に、秀秋の軍勢に背後から攻めかかられ、さらに脇坂安治、小川祐忠の反転も加わり、合戦の序盤でほぼ壊滅したと考えるのが穏当である(白峰:二〇一六、二〇一八)》というのは憐れだな、と。

《津義弘隊のみは、敵中突破を敢行し薩摩に逃れたことはあまりにも有名であるが、この作戦についても、合戦後半の正午すぎではなく、早い段階である午前中には敢行されたという見直しの議論がある(白峰:二〇一五)》という島津の引き口も伝承だったのも驚きましたが、《義弘は朝鮮出兵から帰還した後、薩摩に戻ることもなく政変に巻き込まれていた》とは知りませんでした。だから、本戦では戦わなかったんでしょうし、家康から許されたのかな、と。《二十九日の朝、義弘の使者が吉継のもとに遣わされたが、吉継は沈酔を理由に使者には応対せず、詫びの書状を託して使者を返している(『島津家文書』)》ということもあったとは。

大老の前田家に関しても、随分、イメージが変わりました。《江戸の家康が上方の利家に宛てて、息子の秀忠に対し万端指南を施すよう頼んでいる(「前田育徳会所蔵文書」)。利家もその死の間際に、利長の行く末を家康に頼んだという(「利家公御代之覚書」。この史料は随分後代に至って「陳善録」等の別名を与えられている)。過去の経緯から考えれば、豊臣政権に内紛が起こった場合、利長が家康方に与するのはそれほど不自然ではない》だいたい前田利常(利光)は秀忠の娘婿ですし《先に出兵を拒否した利政の改易も、ここで決定したらしい。その結果、利長は能登一国も自領に統合し、加越能三カ国のほぼ全域を支配下に置くことになった。近代に至って「加賀百万石」という俗称が生まれる素地がここに生まれた》のも関ヶ原の過程だった、と。しかし《関ヶ原合戦の結果、利長は「大老」の地位と引き換えに、加賀南部の二〇万石程度を得たにすぎないのだが、これを「守成」とか「礎創」とのみ評価するのは一面的であろう(大西:二〇二〇)。失った何かにも目を向けなければならない》というのはなるほどな、と。毛利は、「西軍」に味方して一〇〇万石を超える領地の大半を削られ、一地方大名に地位を落とされましたが《利長もまた、領地を多少は増やしたが、「大老」の地位を失った点では、関ヶ原の敗者上杉景勝や毛利輝元と変わるところがなかった。加賀藩は、徳川幕藩体制下における最大の外様大名》となった、と。

同じように没落したのは長宗我部。《(慶長四年)の盛親実兄津野親忠の幽閉(家督争いが原因とされる)や父元親の病死で動揺していた家臣たちに対する盛親の求心力低下に起因するものであり、当時の長宗我部家中は一枚岩ではなかったのであろう。それだけに軍勢の動員に苦心》するほど家は動揺しており、《信親の戦死により思いがけず家督を相続した盛親だったが、国持大名の嗣子としては異例というべき叙位任官がされず冷遇されていた。それだけに、大坂方に味方することによっては羽柴政権内での地位向上(叙位任官)や知行の加増を条件提示されていたとすれば、彼が大坂方に味方したのは必然だったのかもしれない。つまり、盛親にとっての関ヶ原合戦とは、自身の地位向上と加増を勝ち取るための戦いであった》。

龍造寺宗家→鍋島家の動きも興味深かった。《「大気」とは天下取りを望むほどの大望、野心であるといえよう。「智勇兼備にして野心なし」とは家臣としての理想像である《朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにおいていかに直茂が徳川家康と密接な関係を結んだのかを謳い上げ、龍造寺宗家断絶の際には幕府が鍋島勝茂の龍造寺家の家督相続を認め、勝茂を初代藩主として佐賀藩を成立させた》と。《佐賀藩は龍造寺・鍋島連合政権的性格を持って幕末まで存続し》たのですが、《秀忠正室小督の方を有事の際には鍋島家で保護するように依頼されたことは特筆に値するであろう》と。

秀吉ファミリーの崩壊も改めてみると凄い。《家定は豊臣秀吉の妻、北政所の兄なので、秀秋は「豊臣ファミリー」の一員だった》《福島正則は福島正信の子として誕生した。幼名は市松。通称は市兵衛だった。母は豊臣秀吉の母の妹でもあり、幼い頃から秀吉と親しい関係にあった》《長政は十歳のときに織田信長のもとに人質に送り込まれ、北政所により秀吉の居城、長浜城(滋賀県長浜市)で養育された。幸長の母は、北政所の妹であったという。秀秋は、北政所の兄木下家定の五男だった》という関係は密接だったな、と。

福島正則と直政、忠吉との先陣争いの背景もよく理解できました。《本来、秀忠が率いる部隊が関ヶ原合戦で先鋒を務めるはずだったが、到着が遅延したので実現しなかった。そこで、代わりに忠吉が先鋒を務めたのである》《井伊直政と松平忠吉が先鋒として西軍に攻め込むと、そのほかの東軍の衆もそれに続いて突撃した。東軍の勢力が西軍の要害へ攻め込んで戦いがはじまると、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子が西軍を裏切って東軍に味方し、やがて西軍は敗北を喫したのである》《直政が戦闘の開始を指示し、一斉に全軍が突撃したと考えられないか。指示命令系統がしっかりしていないと、全軍の統率は図り難い。前線に忠吉がいたのかどうかは不明であるが、いた可能性は高いのではないか。戦後の恩賞がその事実を示している》。

最後は近衛前久書状。それは《近衛前久(一五三六~一六一二)といえば、長尾景虎(上杉謙信)、織田信長、徳川家康との交流が著名であり、その関係により越後、関東、九州に下向するなど、戦国時代における武闘派の公家として有名である。 その近衛前久が、関ヶ原本戦(九月十五日)五日後の九月二十日付で子の信尹に送った書状》でした。

以下、目次。

第1部 東国の武将(徳川家康の戦い
上杉景勝の戦い
伊達政宗の戦い
最上義光の戦い)
第2部 西国の武将(毛利輝元の戦い
石田三成の戦い
宇喜多秀家の戦い
大谷吉継の戦い
前田利長の戦い
長宗我部盛親の戦い
鍋島直茂の戦い
小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い
関ヶ原本戦について記した近衛前久書状

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July 10, 2020

『戦国期足利将軍研究の最前線』山田康弘、日本史史料研究会、山川出版

Sengoku-asikaga
 足利将軍というと尊氏、義満、義政の3人とせいぜい義教ぐらいしか知られていないと思いますが、この本は応仁の乱で混乱した義政の子、九代将軍義尚から最後の十五代将軍義明までの戦国期の七人の足利将軍のそれぞれの評伝と裁判制度、軍事・警察力、栄典、皇室との関係などを横糸にしたアンソロジー。

 いまやヘイト本を出すまで墜ちた宝島社に買収された洋泉社から出ていた日本史史料研究会の「研究の最前線シリーズ」がいったん廃刊となったものの、山川出版など良心的な版元に引き継がれたのは本当によかったと思います。

 義昭とともに警察権力が去って足利幕府が終わったみたいなのは(p.119)、レーニンの『国家と革命』第1章の、常備軍と警察とは、国家権力の主要な力の道具である、みたいなのを思い出す。今の日本の歴史学はかつての反動でアンチマルクス主義歴史観がスタンダードになりすぎていて、研究者の方々もこんな本さえ読んでないと思うので老婆心からちょっと指摘。レーニンは『経済学・哲学草稿』など初期マルクスの著作を読んでいなかったため、国家=階級抑圧の道具としてしか捉えていませんでした。日本中世史の権門体制論は、上部構造までを考慮した国家論、東国国家論は下部構造重視の国家論じゃないかな、と個人的には感じていますので。

 内容に戻り、家系図をみると戦国期足利将軍はみな義教からの系譜なんだな、と改めて思います。義教が鎌倉公方を滅ぼすなど足利幕府の権力戦線を拡大した末に暗殺されて以降、足利将軍家は縮小再生産の道を歩むのかな、とか。義政と義視兄弟の子は短期間しか将軍の地位に就けなかったものの、その後は鎌倉まで辿り着けなかった末弟の政知の子が十一代将軍義澄となって義晴、義輝、義昭と続き、途中の義栄も阿波公方から生まれます。考えてみれば、「相伴衆」も義教期に成立した家柄・身分だそうで、いったんは幕府をリセットしようとした義教の研究を読みたいと思いました(p.125)。

 栄典では偏諱が面白かった。代々の足利将軍の名前は義プラス一文字で構成されますが、戦国大名が名前をいただく際、「義」には返礼が多く必要だったというあたりは生々しい(p.124)。また、塗輿、毛氈鞍覆、白傘袋の使用御免、書札礼の改善などの待遇を求めて将軍に接近するのですが、戦国大名たちが他より少しでも上を目指したのには実質的な理由があるんだな、というのも初めて知りました。書札礼では裏書御免の特権を得れば、幕府公認のため相手は黙って受け入れるしかないそうで、こうした差異が優越を生んだ、と(p.129-)。

 朝廷は義輝-三好氏の争いに巻き込まれないために、1564年に三好氏から出された60年に1回の甲子改元の願いを拒否したというのも面白かった。辛酉の年の4年後に天意があらたまり、徳を備えた人に天命が下される革令の年という甲子に改元が行われなかったのは、明治時代まで甲子改元が行われなかったのはこの時だけとのこと(p.173)。

 最後の「江戸時代に生きた足利将軍の末裔」も初めて知る話しばかり。

 細川藤孝は足利義昭を見限って信長に仕えて栄達したことに「逆臣」の汚名を着せられるのを恐れてか、出自の疑わしい御落胤、道鑑を召し抱えたというあたり。細川家に感じるなんともいえない「ええかっこしい」の心根をみたような気がする。

 《「足利将軍のご落胤」を称する足利道鑑を厚遇し、それによってかつての裏切り行為を「帳消し」にしたうえ、「細川は忠臣である」ということを世間に示そうとした》というあたりは、まったく学術的ではないけど、江戸落語で細川の殿様がやたら武士の鑑みたいな感じで描かれていたりするのに通じるというか、世間からそうみてもらいたいというワケがあったんだな、と(藤孝の裏切り、明智光秀の娘ガラシャの件)。それは護熙さんにまで通じているかな、と。

 肥後五十四万石に入府の際、三代目の忠利は《小倉からの道中、行列の先頭に清正公の霊牌をかかげて熊本に入ったといわれる。また忠利ははじめて熊本城に登ったとき、石塁の上にすわり、清正公廟を遥拝して-あなたのお城を預らせて頂きます。と言ったといわれている。忠利のこの芸のこまかさは肥後の人心を得るためだったが、その細心さこそ細川氏の政治を生んだといえる》(『この国のかたち二』司馬遼太郎著、文春文庫、p64)という話しも思い出す。細川氏の政治というか「肥後熊本藩主家のイメージ戦略」みたいな趣旨の論文があったら読んでみたい。

 蜂須賀家を頼った平島足利家が人々の求めに応じて「足利家、清和源氏之印」と墨書された守札を発行し、マムシよけに珍重されたというあたりは、なんとも足利家の末裔らしいしたたかさも感じる。

 東アジアでは旧王朝の一族に対してはそれなりの冷遇をほどこすのが人徳とみなされたため、江戸時代でも徳川、蜂須賀、細川も足利血胤を尊重したものの、現体制を相対化するのは不都合であったため、足利という名字を使うことは認めなかったというあたりはバランス感覚だな、と(p.244)。

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July 01, 2020

『微分・積分を知らずに経営を語るな』内山力、PHP新書

Bibun-keiei

 何冊か微分・積分に関する本を読んで、ようやく数Ⅲのテストで60点はとれるかな、ぐらいになったと思ったので、さっそく応用問題みたいな本を読んでみました。経営の数字の変化をデルタ(微分)にキャッチし、その変化をつなげて(積分)、将来を読んでみよう、という感じの本。

《文系世界の中で結構〝数学的〟なのが法律です。法律は、企業内のように〝特定のメンバー同士〟が話すわけではないので、解釈が分かれないようにしっかりと定義してい》るが、将来見通しに関しての共通言語は数学だ、と。《数学を考える学者たちは、すごく論理的で、計算方法や法則を見つけたりする時に、いろいろな論理テクニックを思いつきました。そしてそれを学者らしく皆で共有していきました。彼らはこうして「論理学」という数学の一分野を築き上げてしまいました》が、《この議論に数学者たちも加わり、その論理性でまわりを論破してしまいます。こうしていつの間にか哲学的論理学は消え、論理学は数学にのみ存在する学問となりました》というは、文系的には寂しい話しですが、まあ、真実だな、と。

 《数学の世界では、このように複雑でごちゃごちゃしたものを、すっきりとして単純なものに変えることを、「正規化」といいます。頭の柔らかい人は、まずは単純な例(非現実的といってもよいもの)で考えて、それを〝一般化〟(現実の話に戻す)していこうと》するものだ、と。

 微分の「微」には薄く削ぐという意味があって、differentialを微分と訳した明治期の学者さんは、漢文の素養も相当あったな、と感じるというのは前も書きましたが、《積分は、分かれているもの(分)を〝つなぐ〟(積)という意味です。積分は、微分の反対にデジタルをくっつけてアナログにするもの》というのも分かりやすい。

 《「コンピュータで最大値、最小値を出す」というのは、ビジネスのありとあらゆるところで適用されており、微分の基本的な活用法》であり、商品のピーク、ロングテールも見きわめられる、と。それは《成熟期の時間を長くしていくことの大切さがよくわかると思います。 また、衰退期も意外と面積(売上)が大きいことに気づきます。「日が経って売上が落ちても、企業への貢献度は高い」》ことを理解すべき、と。

《「偏差を2乗してその平均を取り、その平方根(ルート)を取る」――これが標準偏差の定義です》が、《この〝標準偏差を小さくして在庫を減らす方法〟は、あちらこちらでよく使われます》と。これによって《ムダ(欠品、売れ残り)、ムリ(欠品率)、ムラ(標準偏差)》を減らすために微分・積分を用いる、と。

《統計は、「わかっているデータを使って、わからないデータを推定する」というもの》という定義も改めて言われるとなるほどな、と。

 マーケティングだけでなく、微分積分は品質管理にも応用できます。新商品のテストをやめて製品として出荷するやめ時を品質基準といいますが、テレビCMなどで「厳しい品質基準をクリアした製品」と宣伝されるのは、リスクを排除できないから。ゼロリスクの代わりの概念が品質基準であり、それは「我社には不良品は一切ない」と宣伝することは不可能なことだから、と。

 しかし、各社が品質基準を低くしたら、問題なので、社会全体としての品質基準の合意が求められることになり、その合意の代表がISO9000(国際標準化機構によって定められた品質基準)というのも分かりやすい説明。

 設備的視点からすれば「初期故障期間をテストにあて、偶発故障期間に入ったら出荷し、この間は保守契約(おカネをもらって故障を直す)を結ぶ。そして、摩耗故障期間に入ったら買い替えを促す」ことが最適であり、《この設計仕様÷絶対満足を、仕様適合度といいます。こうすると、顧客満足度を上げるということは、「仕様適合度を上げること」と「品質÷価格を上げること」の2つ》だ、と。

 対数の説明はマグニチュードから。《人間が外から受ける刺激は対数的だといわれており、マグニチュード(地震)、デシベル(音)などは 10 をベースとした対数を使っています。マグニチュードは地震の揺れが「 10 倍になると1増える」という〝感じ〟》というのは知らなかったな、と。

《ビジネスの世界では、シャノンという数学者が情報の大きさである情報量を定義する時、これを〝びっくり度〟(それを聞いて〝驚く度合〟。情報量が大きいと「ヘー」と思う。小さいと「やっぱり」と思う)として、2をベースとした対数を使ったのが有名です》というのも知らなかったw

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June 28, 2020

苦手な「微分・積分」を5時間で攻略する本 中学数学の応用で解ける! 「勉強のコツ」シリーズ

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 高校でやんちゃなことをしている間に文転してしまったのですが、念のために数Ⅲはとっていたものの、内容は蒸発してしまいました。人生が二度あるわけはないし、マジメにやっていたとしても、理系の分野では応用的な分野でしか役に立たなかったろうでしょうが、それでも、経済をみていく中でも、微分・積分は必要だし、次の展開を読むツールのひとつとして、心得ていたいものだな、とはずっと思っていました。

 いまや毎日が日曜日なので、いろんな本を読んでみたり、Eテレの番組を観ていたのですが、どうも、自分が習ったものとの整合性がとれず、あるいは単にdをどう呼んだらいいのかなんていう、なかなか人さまに改めて聞くのも恥ずかしいというような問題もありました。

 フランス語も学び直しをする機会があったのですが、その際は大学の教科書をとっておいたのが役に立ちましたが、教科書などは全て捨ててしまったのが惜しまれます。ということですが、∫f(x)dxを「インテグラル・エフ・エックス・ディーエックス」と読み方まで書いてくれて、極限値を求めるときに「0ではわれない」から乗法定理をつかって因数分解して、分母と分子を約分することで求められる、ということを思い出させてくれたのは、この本でした。

 そして微分とはグラフの接線の傾きを求めることであり、微分公式を覚えておけばいいということも思い出しました。我ながら本質的には理解できてないとは思いながらも、知り合いの理系の人間から「なんやかんやいっても丸暗記で覚えているのもあるから」と言われたのも思い出します。

 微分の「微」には薄く削ぐという意味があって、differentialを微分と訳した明治期の学者さんは、漢文の素養も相当あったな、と感じるのですが、円の面積を微分すると微分公式から円周になる、というのは初めて知りました。同様に球の体積を微分すると表面積となります。極大と極小を求める考え方はマーケティングにも応用できるな、とか。

 また、微分が接線の傾きを求めることならば、積分は面積を求めること。このほか、偏微分は二変数関数とか、いろいろアタマん中が整理されました。

 あと、高校の物理で習った加速度なども思い出させてくれました。

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June 24, 2020

『陰謀の日本中世史』呉座勇一、角川新書

Goza-inbou

 呉座先生の『応仁の乱』と亀田俊和先生の『観応の擾乱』のアンチョコというかダイジェストというか要点整理をしてもらった感じ。どうしても、アマチュア日本中世史愛好家は固有名詞を追うだけで精いっぱいになるし、しかも名前の読み方も難しいので、ありがたかった。

 『応仁の乱』は畠山氏の家督争いを発端にした細川勝元と山名宗全の権力闘争で、義政の弟である足利義視が東から西に移ったことなどは二次的な問題であり、東軍勝利ということで居場所を失い、美濃に落ちのびただけ、というのを理解すれば、その後の展開もスッととける感じ。

 義視は美濃に留まり続け、そのうち義政の子である9代将軍の義尚が早世。これによって日野富子の妹である良子との子、足利義稙が10代将軍になるも、細川政元と対立して将軍を廃される、と。この明応の政変の後、堀越公方となった足利政知(あしかが・まさとも=義政、義視の異母兄弟)の子が11代将軍の義澄となるが、盛り返した義稙によって京都を追放されて悶死、と。さらに、堀川公方となった茶々丸は伊勢宗瑞後の(北条早雲)によって滅ぼされ、本格的な戦国時代が到来する、みたいな流れ。

 よく、応仁の乱が長引いたのは日野富子のせいだと言われますが、それは富子を悪女に描いた『応仁記』の影響というのも納得的。軍記物語である『応仁記』は細川家の対立を解消するための怪文書だったという解説も素晴らしい。

 それにしても、当時の人物相関図を理解する際には家系図の他、誰が乳母、乳父だったのかを考えなければならないたけで複雑さが増すのに、『応仁記』で活躍して細川家と畠山家が恩讐を乗り越えるキッカケをつくるのが安富元綱と衆道関係にあった神保長誠の子、慶宗が同じ陣営に属したからということで、ここまでくると本当にわけがわかりません(p.196)。

 『観応の擾乱』でも、足利尊氏は小山、千葉、武田、小笠原氏と比べて家格・血筋で圧倒的に上位ではなく有力御家人にすぎず、尊氏に実力と人望があったから将軍になっただけで、尊氏の子孫が代々武家の棟梁として君臨する根拠は乏しかった、という説明で全体をスッと分からせてくれました(p.144)。

 また、新田家末裔を称する徳川家を正統とする立場から、江戸時代に林家が尊氏を冷酷に描いた、というのもなるほどな、と(p.168)。

 本能寺の変の後《みんながみな人間不信になって身動きできない状況で、がむしゃらに前に飛び出した羽柴秀吉が異常》という評価も面白かった(p.262)

《偽史研究者の原田実氏は「自分の情報収集能力や知的能力に自信のある人ほど、初めて聞く話や、考えもしなかったような話が出てくる本を過大評価してしまう傾向がある」と指摘している》そうですが、拳々服膺しなければと思った次第(p.324)。

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