November 03, 2017

『サッドヒルを掘り返せ』

 東京国際映画祭の出品作品『サッドヒルを掘り返せ』は最高でした。

 『サッドヒルを掘り返せ』はセルジオ・レオーネの映画史に残る傑作『続・夕陽のガンマン』(The Good, the Bad and the Ugly「善玉、悪玉、卑劣漢」)の、あまりにも有名なラストの決闘シーンが撮られた墓場(サッドヒル)のセットが、スペインの荒野に荒廃するがままになっているのを、映画ファンたちが復元しようという試みを描いたドキュメント。

 サッドヒルは映画のセットなので、土に埋もれた墓場を掘り返しても何も出できません。しかし、何も出てこないところを掘り返して、埋もれてしまった円形の闘技場のような石畳を見たいという無から有を生むプロジェクトが映画的だな、と。

 『サッドヒルを掘り返せ』の監督、プロデューサーのトークセッションでも、最初はYoutubeにでもアップできればということでスタートしたプロジェクトが、どんどん大きくなって、『続・夕陽のガンマン』マニアのメタリカのジェイムズ(コンサートのオープニングはいつも『続・夕陽のガンマン』のサッドヒルの場面)や、イーストウッド本人まで登場する作品になったと語っていました。

 それも、これもサッドヒルを復元したいというコケの一念がSNSなどを通じてどんどん広がり、人手や資金が集まっていきます。
 
 しかもこのセットはフランコ政権最後の時代に、軍隊まで動員して作られたという裏話も広がっていきます。

 改めて驚いたのは『続・夕陽のガンマン』はフランコ政権時代に政府の協力を得て撮られた作品だということ。もう、その部分でも歴史になってる。レオーネ作品は反戦、反ナショナリズムに仕上がっているというのも壮大な皮肉。それも含めて歴史的な作品だな、と。

 質問もしちゃったんですが、監督のぼくの質問への答えは「フランコ政権のラスト・ディケイドに『続・夕陽のガンマン』は作られた。政権としては外国から映画を撮りにわざわざスペインに来るのは政治が上手くいってる証拠とPRしていたし、内容が反戦、反ナショナリズムでも外国の話ならOKだった」みたいな感じでした。

 それにしても、フランコ政権時にフレッド・ジンネマンが『日曜日には鼠を殺せ』を撮ったのは凄いと改めて感じるし、続・夕陽のガンマン50周年に集まった人々が白人ばかりというのには、ひょっとしてサッドヒルの背景にフランコ時代への郷愁とかあるのかな、なんてことも思ったけど、さすがに聞けなかったw

 映画がヨーロッパでは本当に偉大な文化として扱われているし、プロジェクトも聖地巡礼でサッドヒルの墓場のセットの跡地に訪れるファンが多かったというのも驚く。これからは聖地巡礼だけでなく、聖地再構築がコアな映画ファンのトレンドになるかも。プロジェクトメンバーたちの語る「芸術は聖なる体験」という言葉には深く頷く。

 無から有を生むのは宗教の始まりというか。

 東京国際映画祭では、何年か前に見た『少年トロツキー』が良かったけど、『サッドヒルを掘り返せ』はそれを上回る収穫でしたね。トロツキーもサッドヒルも、こうした機会がなければ見られなかったのでありがたいな、と。残念ながら、コンペ外の作品なので不可能なのですが、もしこうした作品に大賞とか献上すれば、映画祭の価値も上がると思う。そうれば、こうした作品がもっと多くの人の目に触れるようになると思います。

 それにしてもブレードランナーをリメイクした監督に、サッドヒルの半分でもオリジナルの映画へのリスペクトがあれば…と。

 なお、11/3(金)横浜ブルク13上映『サッドヒルを掘り返せ』(東京国際映画祭共催)ギジェルモ・デ・オリベイラ監督の登壇が決定したそうです。ぜひ!

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October 22, 2017

『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』リ

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『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』リチャード・ベッセル、大山晶訳、中公新書

 2年前に出て買っただけだったのを、夏場に取り出してきて読んだんですが、まとめていなかったので、備忘録的に。

 ヴェルサイユ条約でポーランド回廊によって切り離された東プロイセンの飛び地では、軍縮のため、国境防衛でナチのSAの協力が不可欠となり、後の国防長官やドイツ・プロテスタント教会の国家主教となるルートヴィヒ・ミューラーなどが出た(p.37)。

 ナチスはイタリアが苦戦したユーゴを征服した後、セルビア人男性は無罪を証明できない限り有罪となり、一人のドイツヒトラー将校が殺された村は破壊された、と(p.146)。

 サッカー国際試合で旧ユーゴ諸国がドイツ戦で見せるガッツはここらあたりから出てきているんだな、みたいな。

 ヒトラーは完全に包囲される前にスターリングラードの10万人の第六軍を脱出させずに6000人しか帰還出来ない大失態を演じたけど、少なくとも、その事実は公表し、ゲッペルスが国民向けの総力戦演説を行ったのは、なんて旧日本軍と違うんだ、と思う(p.178-)。

 ドイツ国民も東部戦線で国防軍が被った莫大な損害を懸念していたという。クリスタルナハトのユダヤ人弾圧も目の当たりにしていた国民はバカじゃないから、薄々、敗北も虐殺も知っていたんだろうな、と(『この世界の片隅で』でも、長粒米を喰っていた主人公たちは知っていたんだろうけど、そこらへんは、やっぱり描かれてはいなかった)。

 日本も本土決戦は避けたのにドイツは最後まで戦い政府所在地が制圧されて降伏。これは現代史上初。第二次世界大戦のドイツの損失の1/4以上は最後の4ヶ月に発生したというのは、ヒトラーの死なば諸共作戦なんだな、と。

 また、ナチスが恐れていたのは第一次世界大戦の敗北につながった18年11月のような兵士の逃亡、内部の革命だったけれども、それはおこらなかった、と(p.214-)。

 しかし《略奪者は撃たれ、それがとくに外国人である場合、NSDAPの地方役人はしきりに大衆にそれを知らせたがった》(p.225)、と。

 カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』で、ドレスデン爆撃後に米兵が焼け跡からティーポットを盗んだ罪で処刑されるエピソードはそういうことだったのか、と。

 戦争最末期の《経験は、ドイツ国民にとってあまりに悲惨だったため、この「最後の奮闘」のショックは、ナチ・ドイツの戦争初期の記憶に取って変わった》(p.236)。

 加藤陽子先生が太平洋戦争について指摘していた、沖縄戦、本土爆撃、原爆によって日本人の戦争の記憶が上書きされた、という主張に似ているな、と。

 大戦最末期の経験は被害者意識とないまぜになって《戦後政治の基盤となり、第三帝国での出来事の多くについて沈黙させる基盤となったことは驚くにあたらない》(p.236)。

 ここらあたりも日本と似てる。しかも、日本ではまだ『この世の片隅で』みたいなのがが無批判に受け入れられてるし…。

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October 21, 2017

『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』

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『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』ティモシー・スナイダー、慶應義塾大学出版会、池田年穂訳

 『赤い大公』『ブラッドランド』『ブラックアース』の著者であるティモシー・スナイダーは16年11月8日にドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選した週間後の11月16日、自身のFaceBook上に「こんにちの状況にふさわしい20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン」を載せました。

 スナイダー教授は東欧近現代史の研究者。その彼が、「歴史は繰り返す」ことに危機感を抱き、ポピュリズム、権威主義的政権に立ち向かうためのマニュアルとして20のレッスンは緊急に書かれたもので、本書『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』慶應義塾大学出版会、池田年穂訳はそれに肉付きさせたもの。

 《20世紀のヨーロッパ史が私たちに教えてくれるものは何かと言えば、社会が破綻するのも、民主制が崩壊するのも、道義が地に墜ちるのも、普通の男たちが銃を構えて死の穴の縁に立つのも、何もかもありうるのだということです》とプロローグが書かれていますが、スターリングラードで退却したら自軍の機関銃の餌食になる状況で絶望的な突撃を命じられ、双方に約200万人の死傷者を出した凄惨な市街戦が繰り広げられてから、まだ70年しかたっていないし、ユダヤ人虐殺からも70年たっていないのですから。

 20のレッスンは以下の通り。

 投票前にご参考にしてください。

1)忖度による服従はするな
2)組織や制度を守れ
3)一党独裁国家に気をつけよ
4)シンボルに責任を持て
5)職業倫理を忘れるな
6)準軍事組織には気をつけよ
7)武器を携行するに際しては思慮深くあれ
8)自分の意志を貫け
9)自分の言葉を大切にしよう
10)真実があるのを信ぜよ
11)自分で調べよ
12)アイコンタクトとちょっとした会話を怠るな
13)「リアル」な世界で政治を実践しよう
14)きちんとした私生活をもとう
15)大義名分には寄付せよ
16)他の国の仲間から学べ
17)危険な言葉には耳をそばだてよ
18)想定外のことが起きても平静さを保て
19)愛国者(ペイトリオット)たれ
20)勇気をふりしぼれ

 例えば

1)忖度による服従はするな
 人々は驚くほど、新しい状況下での新しい規則を受けいれやすく、ナチスが政権を取ったあとは忖度による服従がみられた、と。オーストリア侵攻後、オーストリアの役人も一般人も、ヒトラーの意を忖度し、率先してユダヤ人への侮辱と財産没収をはじめたそうです。人間って醜いですよね。

3)一党独裁国家に気をつけよ
「不断の警戒は自由の代償だ」

4)シンボルに責任を持て
スターリンは富農を豚の姿に描かせ、ドイツではナチスがユダヤ人の家や商店にペンキで「ユダヤ人」の印をつけはじめたところからボイコット→虐殺への暴走がはじまった。

11)自分で調べよ
ジャーナリストの倫理に固執する人間たちの仕事は、そうでない人間たちの仕事とは質が違う。価値あるものには代価が支払われるべき。

18)想定外のことが起きても平静さを保て
プーチンはテロの脅威を口実とするトリックでのし上がった。

 というようなことだ、と。

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October 20, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本 12巻 革命の終焉)

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 フランス革命はテルミドールの反動までは、常に左が右を倒してききました。しかし、遅塚忠躬にいわせると平原派であるブルジョワがロベスピエールを使って、封建主義に戻そうとする王党派と極端な左派を打倒し、最後に「走狗煮た」とも見えます(それでも、最後にはナポレオンの武力に頼らざるを得なくなるわけですが)。

 実際、サン・ジュスト、ルバらと共にロベスピエールは穏健派(右派)であるダントンらと、極左とも言うべき激昂派とエベール派をギロチン台に送った後、急速に求心力を失います。左右を切ってダイナミクスを失ったという力学だけでなく、対外戦争が好転して、危機的な状況から脱したということも影響していました。独裁は危機だから許されたのに、ロベスピエールたちは、「まだまだ」と油断していたのかも。

 サン・ジュストは若いから根回しが下手ということがあったんでしょうかね。また、ロベスピエールにも慢心があったのでしょうか。対立を深める公安委員会と保安委員会との妥協点を探る動きは、ことごとく失敗するわけです。

 7月26日(テルミドール=熱月8日)、ロベスピエールは苛立って国民公会で「静粛されなければならない議員がいる」と演説、全ての議員が動揺することになります。こんなこと言わなければいいのに。

 翌7月27日(テルミドール=熱月9日)、それでもサン・ジュストは保安委員会との妥協を図る演説をすることで妥協を図ろうとしますが、事前に保安委員会に演説原稿をみせるという約束を破ってしまいます。

 議会は混乱。しかし、ロベスピエール派は議長に発言を封じられ、「暴君を倒せ!」という野次と怒涛の中で、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、ルバ、オーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエール弟)を逮捕する決議が通過。

 国民衛兵隊長アンリオが200人の砲兵隊を連れてくるなど、いったんはパリ市らの手によってロベスピエールらの身柄は解放されたものの、ロベスピエールは蜂起の先頭に立つことを拒否。

 なんなんでしょうかね。この期に及んでの逡巡は。独裁者と呼ばれたくなかったにしても、破滅が予想される中で最後まで煮え切らない態度を取る理由は。政争に疲れ果てていたのかもしれませんが。

 実際、ロベスピエールは実際の蜂起に加わったこともないし、権力奪取後も「精神的な蜂起、道徳的な暴動」「徳の政治」を目指すという観念的な方向に行ってしまうんです。

 ロベスピエール支持派は彼らをいったんは奪い返したものの、本人が煮え切らない態度のままでいたため、やがて動きは急速に萎み、蜂起した側が逮捕されることに。小説では、ロペピエールは自殺未遂をした、という設定になってますが、まあ、撃たれたというよりいいかも。

 2部の後半ではエベール派について、色々、考えていたんですが、風刺漫画の「シャルリー・エブド」が下品で卑猥なのは、フランス革命当時のエベールから連綿と引き継がれて、折に触れて復活した結辞にfoutre(Merdeより汚い言葉)を使う『デュシェーヌ親父』(Le Pere Duchesne)以来の伝統だったりして、とか思いました。

 正直、あまりの悪文に『小説フランス革命』は途中で放り出していたんです。改めて読んでみようかな、と思ったのは、雪組公演『ひかりふる路 革命家、マクシミリアン・ロベスピエール』が発表されたからです。ベルばらだと、バスティーユの後、すぐにマリー・アントワネットの処刑になってしまうんですが、もちろん、そんなに足早に歴史は進みません。一時期は1791年憲法の立憲君主制ぐらいで落ち着くかと思ったら、そこから一気に左傾し、共和制の成立、王族の処刑、政治的な粛清と進みます。

 『ひかりふる路』はおそらく、佐藤賢一版『小説フランス革命』では2部が舞台となると思いますし、予想ですが、7-10巻ぐらいが中心かな、と。ご参考になれば幸いです。

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『小説フランス革命』第2部(単行本 11巻 徳の政治)

 フランス革命の人類史的な偉大さは理想を掲げて行われた政変だったということでしょう。そして《貧者の生きる権利が高く掲げられたフランス革命93年の段階があったからこそ生存権という基本的考えも日本国憲法第二十五条に書かれるようになっているのであり「現代日本の私たちは、あの恐怖政治の血まみれの手からの贈り物を受けているのです」》から(遅塚忠躬『フランス革命 歴史における劇薬』p.169)。

 誇り高く人権宣言を採択したものの、あとは立憲君主制ぐらいでお茶を濁そうという段階で、さらに、普通選挙を求めたのはロベスピエールでした。さらに反戦、自由主義経済への国家の介入などを求めて政治的な闘争を続け、最終的には「徳の政治」を目指します。

 「恐怖というのは徳の発露だ」とロベスピエールは演説します(p.60)。「革命を停滞させないための独裁なのだ」と自己弁護も図りますが(p.188)、Le Regne de la vertu(徳の政治)がいつの間にかLe Regne de la terreur et la vertu(恐怖と徳の政治)になってしまい、最終的にはテルミドールの反動で惨めな敗北を喫し、ギロチン台の露と消えることになります。

 最初に共和制を叫んだのはジロンド派でしたが、彼らのような中途半端なやり方ではなく、公安委員会に権力が統一されたことにより、直接、将軍たちを指導することで、11巻では対外戦争が好転してきます。中でもイギリスに奪われたというか、イギリス軍を招き入れてしまったトゥーロン海軍基地の奪還はメルクマールとなる出来事で、ナポレオンが砲兵隊長として活躍、歴史の表舞台に出てきます。

 こうした中、中央の政治ではエベールらの過激派と、ダントンやデムーランの寛容派との対立が激化してきます。1793年も不作で、サンキュロットたちの不満は1794年になるとますますつのってきたからです。それを過激派は煽って、あわよくば政権も奪おうとしていた、と。

 こうした中で、サン・ジュストは貧しき愛国者を革命の敵の財産を没収することで救済するという方針を打ち出します。

 所有権の崩壊につながりかねないこの政策に穏健派は反撥、過激派の方も自分たちの出番がなくなると危機感をつのらせます。

 これまでフランス革命は常に左が右を倒してきました。フイヤン派、ジロンド派が処断され、ロベスピエールは常に左よりになる中央にいて権力を握ってきたわけですが、庶民の無政府主義的な蜂起が続いたことに対応するためというか、暴力を管理するため、一気に自らが「徳の政治」を掲げて最左派となろうとした、と(p.104)。そしてバランスをとるためにも右派の寛容派も切る、と。

 追い込まれたエベール派は、公安委員会を倒すべく蜂起を企てますが、盛り上がりに欠けてあえなく失敗。ダントンとデムーランもロベスピエールとの関係修復を試みますが、ロベスピエールはサン・ジュストらと両方を逮捕する道を選びます。

1794年3月4日:エベールらの蜂起(失敗)
1794年3月10日:ダントン派(寛容派)一斉逮捕
3月13日~14日:エベール派一斉逮捕

 そして、フィクションというか想像をたくましくしたんでしょうが、ロベスピエールは密かに愛したデムーランの妻リシュルも断頭台に送る、というところで11巻は終わります。

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October 19, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本 10巻 粛清の嵐)

 10巻では、エベールらのサンキュロット急進派が6月に蜂起を起こし、議会からジロンド派を追放するんですが、その矢先、鋭い舌鋒で革命を扇動してきたマラがシャルロット・コルデーに暗殺されてしまいます。シャルロット・コルデーはジロンド派の放った刺客に違いないとサンキュロットたちは激昂。1792年9月の9月虐殺の再来を恐れたサン・ジュストらは、政争に疲れはてたロベスピエールにハッパをかけて公安委員長に就任させ、こうした無秩序な暴力を管理することを目的に恐怖政治の大公安委員会が始まります。

 議会も民衆の蜂起を恐れて自らクビを締めるような「恐怖政治を設置しよう」と宣言するわけで、ひょんなことから歴史はとんでもない方向に動くな、と。

 見方を変えれば、サン・ジュストはエベールらのパリ蜂起を利用、ロベスピエールを担ぎ出して、恐怖政治を実現したわけですが、逆にブルジョワの議員たちも前年9月の虐殺を忘れられず、無秩序な民衆の暴力より、議会による恐怖政治のほうがマシと判断したわけです。

 アベル・ガンスの映画『ナポレオン』で描かれたサン・ジュストは、テルミドールの反動で死刑を宣告され、ロベスピエールと一緒に死ねて嬉しいみたいな感じでした。映画では、サン・ジュストがロベスピエールの肩を抱いて議場から去っていったみたいな場面が描かれていたと思います。逆にロベスピエールは表情も乏しくおどおどと描かれていましたが、フランス革命で最も有名な美男子であるサン・ジュストがこれからの1年、ロベスピエールを引っ張るというか、近松の曽根崎心中で死のう死のうと徳兵衛を誘うお初みたいな感じさえ受けます。ロベスピエールは「精神的な蜂起、道徳的な暴動」「徳の政治」を目指すと観念的な方向に行ってしまうんです。

 と、まあ、色々、想像力を働かせながら詳しくないフランス革命を楽しんでます。

 にしても、10巻の最初の方で、ロベスピエールらが苦労して普通選挙を実現させても庶民の投票率は30%以下だとエベールらが嘆息する場面が出てくるんです。

 キチンと投票行くのはブルジョワばかりで、苛立つ庶民は時々暴れて憂さ晴らし、というのは、フランス革命から230年たっても変わらないな、と感じます。

 また、政治で仲間を増やすにはカネとばかりにサロンに集まったり、派手な飲食で饗応したり、議会では建設的な議論より、敵対勢力潰しの罵り合いばかりというも同じだな、と。

 人間はフランス革命から大規模な共同体での民主主義による政治を実現したんですが、それから悲惨な経験を何回しても変わらないな、と。

 ということですが、ジロンド派の追放、処刑に成功したサン・ジュストらジャコバン派の左派は、まず最左派ともいべき激昂派の排除に乗り出します。革命裁判所の創設目的も9月虐殺みたいなことを扇動されては困る、というわけですし、そこに大衆に人気のあったマラが暗殺され、おそらくジロンド派の差し金だったろう、という予想がついたわけですから。

 食糧事情の悪化が激昂派やエベール派の台頭を許したと判断したサン・ジュストらは、強制的に金持ちの財産を処分して、それを貧困層に再分配しようとします。そうなるとこうした過激派は存在意義を失います。また、エベールはマリー・アントワネットの裁判で母子相姦などの濡れ衣を着せようとして、庶民の怒りも買うようになります。あまりにも下品だ、と。

 さらにサン・ジュストは対外戦争の前線にも出て、補給問題などを解決するなど八面六臂の活躍をみせ、さらにはフランス語の統一かなども目指します。

 エベールらは極端にキリスト教を嫌うのですが、聖人の代わりに暗殺されたマラなどの殉教者、龍を退治する天使の代わりにギロチン(サン・ギヨテーヌ)、神の代わりに理性、聖母マリアさまの代わりに自由の女神を置きかえようとします(p.306)。

 《「懺悔なんかしても無駄だぜ」
 と、エベールは続けた。告白しても、罪なんかなくなりゃしねえ。そんなの、坊さんが拵えた嘘に決まってんじゃねぇか。だいたいが告白するぐらいで許されるんなら、そんな甘い世の中もないってもんだぜ》とジロンド派の処刑に動揺するデムーランの弱さを笑うエベールが印象的。かれらの命も長くはないわけですから(P.252)。

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October 18, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本 9巻 ジャコバン派の独裁)

 8巻は1793年1月のルイ16世の処刑で終わりますから、もうここまで来ると、『小説フランス革命』のラストであるテルミドール9日のクーデターで倒されたロベスピエールが死ぬまで1年半しかありません。この1年半を4巻で描くわけですが、簡単に概観します。

 1793年前半はフランスにとって苦境の年です。1月に国王を処刑したことで、2月には中立を守っていたイギリスが反フランスに転じて第一次対仏大同盟が結成され、フランスは列強に包囲された形となります。また、リヨン、ヴァンデで国王派による叛乱が起こるなど国内も混乱。しかし、王の住むベルサイユの下町となっていたパリでは貧困層のサンキュロットを中心に革命派が強く、政治を動かし続けます。

 日本史に置きかえると平安末期の僧兵のような存在とでもいいましょうか(社会、経済的に違うことは分かっています)、いつ蜂起を起こすか分からないという意味で社会の不安定要素となります。

 パリのサンキュロットの蜂起は5回中3回成功しています。9月虐殺は大騒擾事件なので入れますと、年表は以下のようになります。

1789年7月のバスティーユ
1792年6月のティルリー宮殿襲撃(失敗)
1792年8月のティルリー宮殿襲撃(成功して王制廃止、共和国の樹立)
1792年9月の9月虐殺(逮捕されていた反革命容疑者を牢獄で襲っての大量虐殺)
1793年5月の国民公会包囲によるジロンド派追放
1794年3月の神聖蜂起(失敗)

 このうちバスティーユは自然発生的なものでしたが、ルイ16世ら王族の住居となっていたティルリー宮殿への2回の襲撃はダントン、1793年5月と1794年3月の蜂起はエベールによって組織されました。

 ダントンは蜂起でブルジョワのフイヤン派を追放、エベールはジャコバン派内のブルジョワ派であるジロンド派の追放に成功しますが、共にロベスピエールによって「走狗煮らる」感じで逮捕、処刑されます。

 しかし、こうした動きを先導したマラーは暗殺され、1794年3月にダントンとエベールを処刑して唯一の革命の星となったロベスピエールの絶頂期はわずか4ヵ月しか持たず、テルミドールで露と消えることになります。

 9巻はマラーの暗殺とサンキュロットのリーダーとなり、日本史で言えば今太閤のような庶民派の人気者となり、最高権力者の座を狙うまでに増長したエベールが絶頂期を迎えるまでを描きます。

 『デュシェーヌ親父』(Le Pere Duchesne)は1790年9月にエベールが創刊した新聞。卑猥で、結辞にfoutre(Merdeより汚い言葉)を使うこの新聞は大衆の支持を受け、革命の混乱の中でちゃっかりパリ市第二助役におさまります。9巻の始まる1793年前半、パリでは不景気による食料暴動が起きていました。まあ、革命、対外戦争、植民地暴動からくる財政難に見舞われていたわけですから。また、激昂派と呼ばれた急進派も現れるなど、混乱は深まります。

 大衆が要求するのは食料品の価格統制。しかし、自由経済こそ、革命が手に入れた最大の果実でもあるわけです。ジャコバン派の中でもボルドーなど地方出身のブルジョワが多かったジロンド派は、対外的には好戦派でしたが、国内経済政策はレッセフォールでした。しかし、対外戦争はうまく行かず、神の見えざる手も働きません。で、激昂派やエベール派が台頭してきた、と。

 戦争を始めたジロンド派はデュムーリエ将軍の頑張りでベルギーからオーストリアを追い出すなど、革命の輸出にも成功しますが、タレイランの工作で中立を保っていたイギリスもルイ16世を処刑したことで参戦、ピットは「対フランス大同盟」を成立させます。

 国内では9月虐殺の反省から革命裁判所が設立されます。この悪名高き革命裁判所は、オーストリアがパリに迫った時に「背後を突かれてはたまらない」ということで、自然発生的に起こった住民による9月の虐殺を二度と起こしてはいけない、ということで少しでも正式な手続きをするため設置されたわけですが、まさに地獄の道は善意で舗装されてるという感じの展開をみせます。

 この職員にデムーランの推薦で就任したフーキエ・ターンヴィルは、最初こそデムーランの指示通り動きますが、最後にはデムーランやロペピエールまでもギロチン台に送り、やがて自らも露と消えることになるのは宜なるかな。

 国内政治では政権を握るジロンド派によって攻撃されたダントンが反撃、デュムーリエ将軍はクーデタを起こそうとしますが失敗。いつのまにか「中央で公安委員会、地方で派遣委員、睨まれた者は革命裁判所送り」という体制がジロンド派抜きで進められ、焦ったジロンド派は議会でマラ逮捕を評決します。しかし、なんと革命裁判所に押し掛けた民衆の力によってマラは奪還される始末。ジロンド派は追い詰められてしまうのです。

 サッカーのフランス代表チームを「レ・ブリュ」と言うけど、これはフランス革命当時のヴァンデの叛乱で、王党派が白軍(白服)と称して、共和国側を青軍(青服)と呼んだことにも由来していたりして(p.192)。

 やがて激昂派が蜂起。人数が揃わなかったものの、エベールらがカネをバラ蒔いてサンキュロットを集めて…というところで10巻へ。

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October 17, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本 8巻 共和政の樹立)

 ジロンド派と連携した蜂起に失敗したダントンは再び8/10に蜂起、今度は成功します。今回はバティーユの英雄、デムーランも参加。パリ市庁舎を占拠した後、ルイ16世一家の住むティルリー宮殿を襲い、スイス傭兵たちとの激闘を制し、臨時内閣を組織。ダントンは首相格の法務大臣に就任。ダントンはジロンド派との連携を続け、5閣僚を与えます。しかし、バティーユと違って、諸層の融和と団結は欠けていた、と。

 そうこうしているうちにフランスに侵攻したプロイセンは進撃を続け、ロンウィに続き、ヴェルダンを包囲。パリは浮き足立ち、反革命分子を摘発するため8/30には全戸の家宅捜索を開始、3000人を逮捕します。

 さらに9/1にヴェルダンが陥落すると、マラーらにそそのかされたパリの住民らは牢獄を襲撃、逮捕されていた反革命分子を人民裁判の名の下にリンチで処刑。マラーはジロンド派の逮捕にまで踏み切ろうと煽りますが、これはダントンが待ったをかけ、粛正の嵐はいったんやみます。

 ダントンらがイギリスの中立を勝ちとっていたこともあり、9/20にはルイ16世の信任も篤かったデュムーリエがヴァルミイの戦いでプロイセン軍に勝利。

 9/21には解散された議会に代わって改めて選挙で選ばれた国民公会が開幕して王制が廃止され、22日には共和制宣言。新しい国民公会には再選禁止で野にくだっていたロベスピエールやマラー、デムーランも当選、議員となります。

 こうした中、元はといえばジャコバン・クラブに属していたジロンド派は右傾化していきます。さらにダントンはカネの使い道が不明朗であるとして大臣を辞任。

 そうこう議会ではルイ16世を裁判にかけるかが議論され、サン・ジュストらは王そのものが反革命であると断罪。調停者役であるダントンが不在の中、「鉄箱文書」が決定打となり、ルイ16世は1票差ながら死刑に。

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October 16, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本7巻 ジロンド派の興亡)

 フランス革命は明治維新と同じようにというか、大国の革命らしく左右にぶれまくりながらジグザグ進みます。バスティーユ陥落、ルイ16世処刑、テルミドール反動、ナポレオンの破竹の進撃という世界史的な事件が続きますが、その間にも議会での論争や、民衆蜂起、対外戦争とよくこんなことが同時期に起こるな、というぐらいの事件続き。

 フランス革命は大きくみれば、イギリスと比べてやや遅れて育ったブルジョワたちが貴族たちの支配する封建制を終わらせ自由経済圏をフランス全土につくったものの、内外の左右の勢力に対抗するため、まずロベスピエールを使って内部の極端な勢力を粛正し、その後、ナポレオンの軍事力に頼って対外戦争に勝利した、という図式だと思います。

 ということで前回は第1部(単行本1~6巻)をダイジェストしたんですが、第2部は話しがさらに複雑になってくるので、忘れないうちにまとめようかな、と。

 7巻の『ジロンド派の興亡』で描かれているのは1792年1月から8月初旬まで。

 保守的なブルジョアジーは自由主義的貴族と同盟して、立憲王制で革命を終結させようとしたのがフイヤン派で、参政権も収入により、能動的市民と受動的市民に分けて統治しようとしていた、と(1789年から1792年8月までは妥協的な立憲王制で推移していました)。

 これに対して、急進的なブルジョアジーの集まりだったジャコバン・クラブは受動的市民に格下げされた民衆や農民と同盟して王制を廃止し、共和制を確立しようとしていた、と。

 しかし、問題を複雑にしたのは対外戦争をめぐるネジレ現象。

 フイヤン派は反戦、ジャコバンは好戦派なんですね。なぜかというと、フイヤン派はフランス国内を安定的に維持したいから。それに対してジャコバンは党派的に対抗するために主戦論で応じるわけです。

 さらに、実はルイ16世も実は主戦派で、内心ではフランスが負けて、オーストリア軍がパリに迫った段階でマリー・アントワネットの兄弟である皇帝と和議を結び、一気に旧体制を回復しようとしていた、と。このため、ジャコバン・クラブをけしかけて、開戦させるわけです。

 こうした中でロベスピエールは孤立し、納税額による能動的市民と受動的市民の差別と制限選挙法を廃止し、男子だけとはいえ普通選挙の実現に向けて地道に努力を続けます。

 ということで、後は順番に。

 パリでは砂糖の不足が発生しますが、これはカリブ海の植民地、サン・ドマング島で奴隷が叛乱を起こしたため。人権宣言は様々な影響を与えていくわけです(p.46)。また、パンなど他の食品も値上がりしていきます。こうした中で、価格統制を求めてエタンプでは暴動も発生。市長シモノーは惨殺されます。

 このエタンプから暴動参加者への情状酌量を求めて、ジャコバン・クラブにやってきたのがドリヴィエ神父(p.94)。遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ』のもう一人の主人公ですが、やってきたのがジロンド派によるオーストリアへの最後通牒の直後の4/27というのですから。ロベスピエールはジャコバン・クラブの中でも反戦の立場をとっていて、いよいよジロンド派(ワインで有名なボルドー地方などがあるとろこ)との対決姿勢を強め、自由主義に対して社会的な公平さも必要であることを知る、と。

 ルイ16世は開明的な国王で、イギリス海軍に対抗するためシェルブールに海軍基地を建設していましたが、そこで覚えめでたかったデュムーリエを外務大臣に選び(立憲君主制ですから)、対外戦争に向けて着々と準備を進めます(p.72-)。そのデュムーリエの推薦で、なんとフイヤン派ではなくジロンド派が抜擢されるようになります。国王の目的は内閣が勝手に暴走したことによる自国の敗北ですから、内政的にはフイヤン派より進歩的なジャコバンのジロンド派でもかまわなかった、と。

 ジャコバン・クラブは僧院を改装して作られましたが、その中でジロンド派はより高級なサロンを好みました。ジロンド派のサロンの女王として有名なのがロラン夫人。

 せっかく自分のサロンに集まるジロンド派で内閣がつくられ、オーストリアに宣戦布告したものの、フランスは連戦連敗。この窮地はマリー・アントワネットらがオーストリアと通じているからではないか、ということで、なんと一時は大臣まで上りつめた夫や、本来は敵対していたダントンを使った市民蜂起を6/20に起こし、拒否権を連発してジロンド派内閣の思い通りに動かないルイ16世を拉致しようとします。

 "Ah, ca ira !"を歌いながらティルリー王宮に侵入したパリの貧民、サンキュロットの暴徒たち。そうした事態に、なんとルイ16世は民衆を諭して失敗に終わらせたのです。

 しかし、一気に回復した王の人気は、フランス国王一家に危害を加える企てがあった場合、同盟諸王は軍事制圧するというブラウンシュヴァイク宣言が出されて急降下。

 蜂起に失敗したダントンらは一時、地下に潜りますが、ふたたび8/10に蜂起を仕掛けます。

 こうした中、ロベスピエールはジロンド派のペティオンの自重を求められ快諾するも、直後に銃による暗殺未遂に見舞われます(p.275)。

 ダントンらはロベスピエールに蜂起への参加を求めるものの、後見のデュプレイに自重を求められ、デュプレイ宅の地下にこもる、というあたりでこの巻は終了。

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October 15, 2017

『小説フランス革命』第1部(単行本1~6巻)

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 『小説フランス革命』佐藤賢一、集英社を読んでいます。全12巻。6巻の「フイヤン派の野望」までが前半ということになっているので、小説とはいえ、あまりにも長いので忘れてしまうので、備忘録的に。

 この『小説フランス革命』の主人公はロベスピエール。世界で初めて王制をひっくり返して共和制を敷き、支持者である指物師の下宿をねぐらとし、最後は自らがギロチンに散った理想主義的な政治家。フランス革命の人類史的な偉大さも、その裏面にある人類史的な悲惨さも体現した人物で、ロベスピエールという存在がいたからこそ、いまだフランス革命は語り継がれ、研究されているんじゃないかと思います。

 研究書のたぐいを広く渉猟しているとはいえないので、間違っているかもしれないのですが、小説ならではの臨場感というのはやはりあります。例えば7巻『ジロンド派の興亡』。

 ロベスピエールがブルジョワ革命としてのフランス革命に疑問を抱くキッカケとなったといわれるのは、穀物価格の高騰によるエタンプ暴動と、暴動の首謀者たちの減刑を求めると同時に穀物価格の統制を訴えたドリヴィエ神父との邂逅です。そのいきさつは遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ フランス革命の世界史的位置』でも描かれていますが、それが対外戦争に突き進む最中だったという緊迫感は感じられませんでした(ぼくの読み方が甘いのかもしれないし、オーストリアへの宣戦布告と同時期だったというの書く必要のないほどの常識だからかもしれませんが)。

 89年の革命後、1791年の立憲君主政の憲法が出来ることのフランスは、全てを仕切っていたミラボーが急死したことで政治的リーダーシップが失われ、立憲君主政の要であるルイ16世は国外逃亡を図って逮捕されるという混乱ぶりでした。

 しかも、政権を握っていたブルジョワ中心のジロンド派たちは、より右派であるフイヤン派が反戦を唱える中で、オーストリアなどとの対外戦争に突き進み、ルイ16世もできればフランスが負けることで諸外国の軍隊がパリに迫ったらマリー・アントワネットの兄弟であるオーストリア皇帝と和平交渉に乗り出し、一気に王制に戻そうという様々な思惑が入り乱れた混乱の最中でした。

 そして、なんとこの混乱の最中に、ブルジョワ革命を否定し、財産による投票権の差別廃止などを求めた蜂起をダントンが二度までも起こし、最終的に人民主権の共和制へと導くのですから、その展開のめまぐるしさったらありません。

 世界史的に、これだけ共同体の内外とも混乱した中で内政、外政とも戦争状態の中で改革が進められたのはフラン革命と第二次長州征伐時代の長州藩ぐらいなものではないでしょうか。

 ということで1~6巻まで前半から箇条書きで気になったところを。

[1 革命のライオン]

 全国三部会が招集されたのは、王家を巨悪に仕立て上げた貴族の運動でしたが、第三身分の平民は「我らには王さまがついているのだぞ」と貴族こそ悪とみなしていた、と(p.29)。

 その第三身分の指導者となったのが、自ら貴族の地位を捨てたミラボー(p.48)。

 1788年のフランスは夏の盛りにも雹が降るという典型的な冷害の年(p.55)。

 ロベスピエールは孤児。特待生となってルイ・ル・グラン学院を主席で卒業。地元に戻って弁護士となったが、第三身分代表議員に選出されたのは31歳の時(p.84)。

 ルイ15世は色好みで散財したが、寵姫も置かなかったルイ16世の代わりに散財したのが、マリー・アントワネット(p.91)。

 《ただの勉強家では駄目なのだ。頭で組み立てた理想などとは端から矛盾せざるを得ない、この生々しい現実世界の混沌に直面するや、とたん浮き足立つような輩では使えないのだ》というミラボーのつぶやきは今でも政治家に使えそう(p.186-)。

[2 バスティーユの陥落]

 前世紀に王家がヴェルサイユに移り住むと、貴族たちも大挙してパリを離れ、平民たちが残されたが、王国一の巨大都市になった(p.13)

 カミーユ・デムーランのパレ・ロワイヤルでの「武器を取れ」演説は、劇的な場面を創作した部分が大きいと思っていたんですが、やっぱり本当にあったんだな、と(p.50)。にしてもロベスピエールは親友だったダントン、デムーランも後に粛正してしまうんですよね…。

 ダントンの金回りがいいのは、奥さんが繁盛しているカフェ・ドゥ・レコールの娘さんだったから(p.86)。

 ミラボーはルイ16世のバスティーユ陥落の祝いの席に参加させ、貴族ではなく平民をとった形にさせたりします(p.174)。

[3 聖者の戦い]

 枢機卿だったタレイランは足なえだったが、完璧に近い美男子で、ルイ15世の寵姫とも関係したとか(p.8)。

 人権宣言が採択され、封建制の廃止が決められ、貴族が負け、平民が勝利したので第一身分(聖職者)議員として勝ち馬に乗った(p.13)。

 当時は貴族の所有地よりも、教会や修道院の荘園の方が遥かに広かったといいます。フランス革命の発端は王国財政の再建だったが、革命後には国有化した教会財産を担保に国債を発行するとともに、聖職者の地位を変更する聖職者基本法(Constitution civile du clerge 聖職者は他の官吏と同じ公務員にするという法律)が90年7月に成立。

 カトリックを国教とする法案は思想信条信仰の自由の観点からロベスピエールに否定される(p.107)。

 ジャコバン・クラブを閉め出されたラ・ファイエットはタレイランなどと1789年クラブを結成(p.190)。

[4 議会の迷走]

 7巻あたりではダントンもルイ16世からカネをもらっていたというような話しが出てくるんですが、この巻では、外交委員を務めるタレイランと、首相格のミラボーが、それぞれスペインとロシア、イギリスとプロイセンから賄賂をもらう場面があります。なんでも、ロシアはオスマントルコに攻め入りたかったけど、イギリスにバルト海に船を出されると困るから、そんな場合はフランス艦隊が演習でもしてくれると助かる、というような趣旨で(p.64)。

 ミラボーは王族の亡命を禁止する法案に反対する。王族にも人権はあり、亡命する権利があるためというのがその理由。この一件でジャコバン・クラブはミラボーから、ラ・ファイエットに乗り換えるのですが、当時、ジャコバン派を率いていたのは三頭派(バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派)。しかし、ミラボーは三頭派の政治姿勢は軽く、本命はロベスピエールと見て、死の床に呼びます。

 そして同じピカルディ出身のカルヴァンがジュネーブでやったような専制政治を敷かないようにと忠告する場面は印象的(p.249)。

 「(自分に欲を持たないと)じきに独裁者になるぞ」
 「己が欲を持ち、持つことを自覚して恥じるからこそ、他人にも寛容になれるのだ」
 「人間は君が思うより、ずっと弱くて醜い生き物だからだよ」
 「あとは独りで歩いてゆけ」

 と会話を交わしたあと、ミラボーは何年かぶりに神に祈ることにした、というのは悪文の作者にしては、印象に残るところ(p.258)。

[5 王の逃亡]

 1789年10月5日に女性を中心としたパリの大群衆がルイ16世をヴェルサイユ宮殿からパリへ連行したヴェルサイユ行進以来、王族はティルリ庭園に住むのですが、サン・クルーへの夏の避暑も民衆から止められる始末。

 議会では、一定の所得がないと市民権がないというマルク銀貨法が可決され、それに対抗するため、ロベスピエールは議員の再選禁止を提案し、飲ませることに成功するなど、議会も混乱(p.53)。

 頼りにしていたミラボーの死もあって、ルイ16世は亡命を決意します。

 いよいよ脱出の段になって意外と思ったのがマリー・アントワネットの愛人とも言われたスウェーデン貴族のフェルゼン伯爵がまったく使えない男だったということ。地図は読めない、だんどりは超悪いで、失敗した原因の半分はフェルゼン(1/4はアントワネットのトロさ、1/4はブイエ将軍の胆力のなさ)。ついにはルイ16世からヒマを出される始末。

 フェルゼンのせいによる遅れでルイ16世たちはブイエ将軍と落ち合うこともできず、ヴァレンヌで拘束されることに。

 田舎では相変わらずの人気を持っていると再認識したものの、自分たちはどうなるのか、と思っていたら、なんと三頭派たちは「王家はフェルゼンに誘拐された」として逃亡事件を処理。早く混乱を鎮めたいブルジョワにとっては最善の策である立憲君主政憲法の早期成立を図ります。

 ロペスピエールが、議会の左右から支持を集め、演説の拍手をもらっている描写も印象的。中道のプルジョワはロペスピエールを両派を潰すための猟犬としてつかい、用が済んだら断頭台に送った、という図式がイメージできます。歴史を動かすのは中間派だな、と。

[6 フイヤン派の野望]

 国王の逃亡を〈誘拐〉と主張する三頭派らの議員は、ジャコバン・クラブでの議論を無用として離脱。ラ・ファイエットなどとフイヤン・クラブを設立。一気に主導権を握ります。

 この状況にダントンらは署名運動で対抗しようとするが、それに対してラ・ファイエットらが発砲。いわゆるシャン・ドゥ・マルスの虐殺事件が起こります。

 シャン・ドゥ・マルスの虐殺をやったフイヤン派が、なんで急に衰えて、ジャコバン派に取り残された急進派のロベスピエールが急に勢力を増すのか謎だったんですが、地方組織が虐殺に怒ってフイヤン派を見限ったという部分も多かったのかな、と。

 また、ヴェルサイユ行進も止められず、王の逃亡も防げなかったわりには、丸腰の民衆に発砲したラ・ファイエットの人望が地に落ちたという面もあったんでしょうが。

 この事件の当日、ロベスピエールの身を案じる指物師デュプレイがジャコバン・クラブからほど近い自宅にかくまい、以来、終の住み処となります。

 しかし、三頭派の主導権によって91年憲法は成立、議会は解散。ロベスピエールは二年半ぶりに故郷に帰り、そこでサン=ジュストと出会います。

 終生、浮いた話しのないロベスピエールですが、指物師デュプレイの娘エレオノールと、美男子サン=ジュストとの間にはわけありとなっていく、みたいな。

 なるほどな、と思ったのは1791年憲法当時の軍隊の将校は貴族が占めていて、この層がごっそり外国軍隊に寝返れば指揮系統がなくなり、烏合の衆になるということ。いっそのこと貧乏故に選挙権をももたない受動的市民に武装させた方が…とロベスピエールは考えたんだろうな、と。

 小説フランス革命ではラファイエットが散々な書かれようですが、アメリカ独立戦争でワシントンたちが勝てたのは、散兵戦術によって少ない兵力で相手を包囲殲滅できたから。ただし散兵戦術は兵士たちが逃げずに踏みとどまって戦うことが前提なわけで、独立とか革命で士気が高い部隊だから可能だった、みたいなことになっていくんでしょうか。

 故郷に帰ったロベスピエールが、エリート層はフイヤン派になびき、庶民は亡命貴族や外国嫌いで革命を守ろうとしているけど、バチカンに忠誠を誓う宣誓拒否僧を敬い続けるという、なんともいえない状況=現実に気付くという場面もあります。

 にしても、政治的な改革、革命みたいなのは内ゲバにならざるを得ないなぁと。憲法友の会からスタートして、ラファイエット、フイヤン派、ジロンド派とロベスピエールは次々と袂を分かち、最後はダントンと結託する、みたいな。まるで赤軍派と京浜安保共闘が一緒になった連合赤軍みたい。

 しかし、三頭派の頭目とみなされていたバルナーヴが政治の世界からアデューする場面で1部が終了。

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