January 19, 2019

戸田の裏解説

 サッカーのアジアカップは戸田の裏解説を堪能しています。

 緒戦では原口の位置がおかしいと前半の早い段階で指摘して、後半始まると高いポジションで相手サイドバックを押し込み、さらに5ラインの内側に入って、長友のオーバーラップをやりやすくなっていると説明。実際に、日本代表は俄然、ペースを握っていったのはさすがだな、と。後出しじゃなく、ハーフタイムのボードでキッチリ説明していた。

 オマーン戦でも、吉田からのロングボールが多く、そこから南野と堂安が相手DFの裏を狙っていると指摘。中盤で回してボールを奪われてからのカウンターを防いでいると指摘。その後、北川がポストプレーができないから、こういうオプションを使っているんだろうと解説。その割には、北川の左右の動きが5ラインの真ん中にほぼ限定されているので効いてないと指摘。後半、すぐの交替は予言かよ、と思ったほど。また、堂安の動きも満足できないと言っていたら交替された。

 それはオマーンは6番が全然、前に出てこないから。武藤が入って、5ラインの真ん中3ラインぐらいの幅で動きだしたらペースを掴んで、伊藤が入って、さらに右サイドも活性化された。にしても、オマーンのピム監督は6番を上がらせないことでバランスとっていたのかも。もし、6番が上がっていたら、もっと日本にチャンスつくられていたのかな、とか。

 日本代表vsウズベキスタンでも戸田の解説は「こうやってサッカーをみればいいのか」というのを生まれて初めて教えてもらった感じ。

 クーペルとなって5戦みているというプレビューでは

・韓国に4点とられた後は19番のシュクロフがバランスをとって前には出ない
・ボールを持ったら攻撃はなかなかやり、22番はいい
・左右のSBの利き足が逆なのでアーリークロスはない

 と言うあたりを強調していたが、これら3点を頭に入れておくだけで、試合展開というか、ボールの動くひとつ先が読める感じ。

 ハーフタイム解説では、ミドルゾーンで日本は失いたくないというのはわかるけど、相手が動く前に蹴るのは気にかかる、と指摘。右サイドの伊東と室屋から崩す時のポジションが出来てない、佐々木が出られないように相手の17番が高いポジョンをとっていたとも。相手の右サイドからの攻撃を防ぐには、乾が攻撃しないで守備するか、2トップが流れるか、という戦術ボード解説はよく分かった。

 後半ではスローインで間に入って抜けていたのはスタートのポジション悪いから、という指摘が印象的。乾の運んでキャンセルというプレーを高く評価していたのはなるほどな、と。原口はスペースを理解している選手という言葉も印象的。

 野球の場合は、プロ野球、高校野球ともテレビの解説に関しては世界一だと感じているので、子供の頃から野球観は養われてきた感じはするのですが、サッカーに関しては一流の解説というのは本当に少なかった。試合そのものよりも、選手やクラブ情報に後付けしてプレーの印象を語るようなものばかりで、スカパーなどが衰退していった一つの原因は「解説がつまらない」ということだと思っています。

 戸田の解説は「いまそこにある試合」のポイントを正確に指摘、それが何回も実際の試合で再現されるので、監督になった気分で観られというか、録画も同時に何回も視聴している感じぐらいの情報量を受け取れます。とにかく、これとヒロミの判定解説をNHKかDAZNはパッケージ化するべきだと思う。久々にサッカーで本物のエンターテイメントに出会えました。

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January 06, 2019

『フランス現代史』

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『フランス現代史』小田中直樹、岩波新書

 12月4日、黄色いベスト運動の抗議デモの広がりを受けてマクロン政権は燃料税増税の棚上げや最低賃金を月額100ユーロ引き上げることなどを発表しましたが、フランスの為政者は民衆蜂起に弱いな、と改めて思いました。ルイ16世以来の伝統なのかな、と思ったんですが、もっと根源的な問題として、安全保障としてドイツと組んだEUから抜けられないから、ハイパーインフレにトラウマを持つドイツが求める緊縮的な経済政策というEUのコルセットを外せないという問題があるかな、と。だから財政出動という庶民に優しい政策も取れず、基本的には抜本的な対策を先送りし、目新しい政治家が現れて改革を進めようとすると庶民が暴動を起こして引っ込めさせるということを繰り返してきたのかな、と。

 経済成長の続いた「栄光の30年」の後は1995年の「ジュッペ・プラン(社会保障制度改革)」反対運動、2006年の社会保障制度改革や初期雇用契約法反対運動、2018年の黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)とほぼ10年ごとに庶民が大暴れして、政府が政策を撤回することが続いています。

 財政出動も出来ず、年金制度改革なども先送りされ、失業率も高止まりしているという経済情勢の中、政治は経済改革を諦め、ポピュリズムに走らざるを得ないのかもしれません。重層的な非決定といいますか。

 それにしても《エコロジー運動をはじめとする新しい社会運動は基本、フランスでは、基本的に左翼に分類されている。ただし、それは、アイデンティティ・ポリティクスに土台を置く点を、国民戦線と共有する。その意味で、両者は、経済成長と近代化が完了した時代に登場して広まった新しい思想潮流の体現者として、コインの表と裏をなしているのかもしれない》という指摘に膝を打ちました(p.122)。

 といいますか、このまとめはエコロジーや文化的多元主義のみを声高に叫ぶような左翼的アイデンティティ・ポリティクスに対する批判として、過不足なく問題点を指摘していて痛快です。

 アイデンティティ・ポリティクスはアイデンティティも所詮は幻想ということを忘れて上から目線で啓蒙しようとしていることが最大の欠点だと思うのですが、自分たちが信じている幻想を元に社会正義を語る欺瞞性が綺麗に批判されている感じ。

 さらには、どうせ実現できない「庶民にやさしい経済政策」の代わりに「文化的多元主義」という阿片を勧めている感じもして、マルクスも「そうじゃない」と草場の陰で泣いているんじゃないでしょうか。

 小田中先生も「『フランス現代史』を書きおえて」の中で、社会的リベラリズムは《経済的困窮に苦しむ民衆層には届かない。彼らは、緊縮政策に反対する「左翼の左翼」か、経済的困窮の原因を「統合欧州」や「移民」に求める「極右」を支持》しているとブログで書かれていますが、結局、有権者のボリュームゾーンは庶民ということで、アイデンティティ・ポリティクスで勝負する限り、普通の人々の嫌悪感をうまくすくい取ったトランプなどに今後も敗れていくんじゃないでしょうか。

 いわゆるリベラル・レフトは文化的多元主義というコルセットを外せない限り、庶民との対話も難しいし、強迫観念のように「社会的差異」にこだわれば、ますます大衆との距離は拡大していきそうです。彼らがトランプや安倍政権の反文化的多元主義的側面の問題ばかりに言及するのは、実は自分たちが無謬だというエスノセントリズム(自民族中心主義、自文化中心主義)的なバイアスがかかっていることにさえ気付いていないのかもしれない、と愕然としながら読み終えました。

 あと、人々が社会的ルールさえ守って自由に行動して豊かになればいいという自由主義者サルコジでさえも、《重要な輸出産業である自動車産業を保護するためには、積極的に介入することをためらわなかった》というんですから、今回の日産問題はどれほど重要かということも改めてわかります(p.191)。とはいっても、直近のブルームバーグでは筆頭株主であるフランス政府とルノーは会長職の後任人事について検討を開始した、とのことで、こうした問題も少しずつですが前進していくのかな、と。

 いきなり、序章からいいんです。一人当たりのGDP、平均寿命、スーパーの品揃えや雰囲気、高齢化など日仏は似ている、と。しかし失業率や難民受入数はフランスが高い、と。米英とともに日本のモデルだったフランスは問題点の先行者であり、しかも深く重層的な分裂を抱えている、と。

 戦後のフランスは当初、中間層からエリートを支持基盤とする保守層(ドゴール含む)と庶民を支持基盤とする左翼が対立する構図でしたが、その萌芽は戦時中にあった、みたいな話しは総動員体制が戦後の経済成長を準備したという日本と似ているな、とも感じました。仏でも第二次対戦前に国主体の経済の組織化を求める声が支配層に広がっており、ヴィシー政権もテクノクラートが経営者と「組織委員会」をつくったほどです。また、反独派も労働者のアクセス権といった語を用いつつ、CNR綱領で計画経済を提唱。戦後もその流れをくむCNRが主導したというんですが、これは戦前の新官僚が社会保障制度なども完備した総動員体制をつくり、戦後は岸信介など政治家としてもリードした、という構造に似ていると感じました(p.27-)。

 戦後、CNRは生産材の生産に資金と資源を優先的に割り当てるなど《同時期の日本と同じく、一種の傾斜生産方式が採用》したのですが、投資資金を捻出する体力はフランスになく、最後に救ったのは米のマーシャルプランという顛末も似ている。消費財の供給不足でインフレも惹起したなんてあたりも日本と同じだな、と(p.32)。

 ここらへんで『官僚病の起源』岸田秀、新書館、1997を思い出しました。それは、フランスが実は独裁者が好き、というあたり。その原因は200万人が死んだのに、実のところ、あまり成果らしい成果がなかったフランス革命に対する自信のなさとか。

 日本と違うなと感じたのは、バンリュー(郊外)の集合住宅の失敗。日本で団地は憧れをもって迎えられましたが、フランスでは不評で、メンテナンスも不十分となり、1973年以降、大規模団地の建設は禁止されます(p.80)。やが荒廃したバンリューでは若者が警官と衝突するように事態にもなり、《貧しい失業者としてゲットーに隔離された》(p.135)、と。ブールの行進やスカーフ事件などにも言及されますが、個人的にはこうした郊外の団地からティガナ、ジダン、アンリ、アネルカ、デサイーなどのサッカーの代表選手が出てきたことに触れてほしかったかな、と。一時にせよ「フランスの多民族の共存の象徴」と賞賛されたわけですから。

 1950年代に新中間層は社会的上昇の可能性が、小農民、職人、商人には下降の恐怖が広がるんですが、そうしたことを背景に文具店主プジャードは「商人・職人防衛連合」をつくり税務署、商工会議所、スーパーマーケットへ破壊活動などを展開。56年の選挙では50議席以上を獲得。その中でルペンも当選して政界デビューしたということまでは知りませんでした(p.56-)。ルペン一族は根っからの庶民派といいますか、庶民向きの顔を持っていたんですね。

 普仏戦争に敗れたフランス国民のナショナリズムを満足させるために獲得された植民地は1960年代に独立し、第五共和制で発足した「フランス共同体」は名目上の存在となり、脱植民地化が進められます。フランスは植民地帝国ではなく統合欧州の盟主を選択した、というあたりも知りませんでした(p.68)。だから、古くからの植民地だったアルジェリアを除き、インドシナやアフリカの植民地などは戦争が泥沼となる前にアッサリと独立を認めるたんだな、と。

 英仏は第一次と第二次のオイルショックを乗り切ることができなかったというか、資源がないために省エネを進めていた日本が同じように景気は悪くても、いつのまにか追い抜いたいたんだよな、ということも思い出しました。フランスの新中間層というのは、日本でいえば無党派層のことなんでしょうけど、彼らの投票行動についても知りたかったな、と。

 ミッテランが大統領に当選して左翼政権が誕生し「財政規模の拡大と通貨フランの切り下げ」という経済政策を進めたのですが、おりから経済統合を進めようとしていたEUの方針に反していて、それを貫徹できなかった、というミッテランの失敗というか、ミッテランのパラドクスはどうしようもなかったんですかね。

 ミッテランもシラクも改革を掲げて登場しますが、すぐに大反対にあって、ネジレ状態の中、反対派を首相につけざるを得なくなります(コアビタシオン、事実婚)。公務員の賃金凍結や年金支給年齢の引き下げを目指したジュッペ・プランが失敗した後、1997年にシラク大統領のもとでねじれ的に首相となった社会党のリオネル・ジョスパンは、「多元的左翼」を掲げますが、緊縮財政は維持せざるを得ません。こうして重要なのは移民・女性・性的少数派などマイリリティ擁護のアイデンティティ的な主張となっていく、と。

 そしてシラク後の大統領選挙でジョスパンはルペンにも負けて決選投票に進めませんでした。

 経済政策がEUというコルセットを外せないので、ルペン率いる国民戦線も、緑の党も文化的な問題にアイデンティティーを求める政策を掲げることになり、実は庶民の生活が忘れ去られているという状況が続きます。

 にしても、テレビ局が建設業と水道局、新聞は防衛産業(ダッソー)やヴィトンなどのグループの支配下にあるというのは知らなかったな…(p.197-)。

 なお、サポートページも開設されています。こうしたところは素晴らしい。

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December 28, 2018

今年の一冊は『初期仏教』

 今は現役時代に読みきれなかった古典などを中心に読み返していて、その合間に新刊を読んでいる感じでしょうか。

 とはいうものの、ずっと続けているので2018年の書評年度の新刊から今年の一冊を決めようかと思います。

 いろいろ考えましたが『文選』は全巻が完結してからにしたいので、『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書にしようと思います。

 『初期仏教』で得た知見はインドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文だったということ。改めて言語は数多くあるにしても、文字を持つものは少ないということがわかります。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、というのを知った時は胸が熱くなりました。ユダヤ教徒もユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書いていたけど、後の世代には、例えば古典を読むような感じで読まれていて、ローマ時代の話し言葉はアラム語やギリシャ語だったという説が有力ですし、ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われています。ゾロアスター教の終末観はユダヤ教、キリスト教にも影響を与えているでしょうし弥勒、人の子は光の概念なのかな、とか。

 このほか年末年始に読まれるのでしたら、以下の新書五冊をあげたいと思います。

『古代史講義』佐藤信(編)、ちくま新書
『倭の五王』中公新書、河内春人
『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏、中公新書
『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版
『脳の意識 機械の意識』渡辺正峰、中公新書

 以下はざっとした紹介です。

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December 23, 2018

『アリー/スター誕生』

『アリー/スター誕生』を初日に観たんですが素晴らしかったです!

ガガ子はマドンナが手にできなかった映画界での地位を手に入れ、ブラッドリー・クーパーはイーストウッドの後継者になりそうな感じ。

『ハング・オーバー』から大好きだったけど、ブラッドリー・クーパーがこんなに凄い映画人になるとは思わなかった。ガガ子も本当に可愛いんですよね。

安心して観ていられたというか「どうせこれはエフェクトかけているんでしょ、はいはい」みたいな感じがなく、スクリーンに没入できた。

クーパーは役者出身だけあって、撮影対象の人物が良く浮き上がるローアングルからのボディショットが多くて、それが芝居を引き立たせていました。

最後のシークエンスの長回しはその集大成。やったな、という感じ。

だから長回しのボディショットの後、クレジットに移る前の本当のラスト・ショットの俯瞰が効くんだな…。

お見事!

ロングドレスを逆光で背後から撮って、長回しに入って、最後の最後に…という計算されつくし、誰にでも印象付けられるカットで締めくくるとは、本当に素晴らしい!

往年の名画を観ているようでした。

例えば、途中でガガ子が自分のことを「鼻が大きいの」と語るのは76年のバーブラ・ストライザンドへの、ロングドレスは54年のジュディ・ガーランドへのオマージュとはっきり分かります。

レコーディング・スタジオでの初録音の際のヘッドフォンの使い方も、ブラッドリー・クーパーはきちんと76年作品をオマージュしている。『アリー/スター誕生』はなんて、映画的に由緒正しい作品なのか。

ガガ子の起用といい、ブラッドリー・クーパーは制約の中で自由にやっている感じ。素晴らしい!ガガ子のお父さん役は、実際のガガ子のお父さんみたいな感じ(スマスマに一緒に出てたw)。いかにも、イタリア系という感じの軽さで、しかも家族を愛し、同じイタリア系のシナトラを愛している、みたいな。そういう設定の仕方がんまい。

ブラッドリー・クーパーは『アメリカン・スナイパー』でクリント・イーストウッドから「主演/監督」のポジションを継承したのかもしれません。

次世代のイーストウッドはクーパーなのかもしれません。リメイクというのは勝負してないかもしれないけど、今の時代なら仕方ないかも。

Greatest Showmanについて宝塚の演出家、上田久美子先生がVRというか体験型アドベンチャーのように感動を強要させられるとか言ってたけど、それとは真逆の『アリー/スター誕生』の感想を聞きたいと思いました。

音楽についていえば、『アメリカン・スナイパー』で奥さんを口説く時に「カントリー・ミュージックは好きか」という台詞があったんですけど、ブラッドリー・クーパーはアイデンティティーとしてカントリーをリスペクトしている感じ。

ブラッドリー・クーパー、イイ奴だな、と。

ブラッドリークーパーは『ハング・オーバー』の中で、とりあえず、物語を前進させていくでしょ?自分では解決できずに、最後は人の力を頼むんだけど、そんな役がピッタリ合っていて、本当に好き。

いつの間にか、あんな大スターにして、監督、プロデューサーにもなっていて、凄いな、と。

ブラッドリー・クーパーは「クーパーといえばゲイリー・クーパー」という芸名クーパーの頂点を、久々に更新してトップになったかもw

セルフ・プロデュースのんまさは、イーストウッドと違い、さすが政治学で有名なジョージタウン大学を卒業しているという感じがしますw

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December 21, 2018

『思索の淵にて』

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『思索の淵にて』茨木のり子、長谷川宏、河出文庫

 長谷川宏さんが、「わたしが一番きれいだったとき」などで知られる茨木のり子さんの二十八篇の詩から触発されたエッセイをつけるという形でまとめた本。

 刊行されたのは茨木さんがお亡くなりになる直前で、長谷川さんは結局、一回も茨木さんに会えないままだった、というのが、いかにも在野の研究者という感じを思わせて痛切。

 茨木さんはエリュアールの一節を最初に引用します。

《年をとる それは青春を
歳月のなかで組織することだ    ポール・エリュアール
                  大岡信訳
長詩の一部らしいのだが、そしてポール・エリュアールというフランスの詩人のこともよく知らないのだが、若い時に読んで、いまだに記憶に焼きついているのだから、とても好きな二行といっていいだろう。短いのに、なんという深さを湛えていることか、〈組織する〉という硬い言葉がここではひどく艶のある使われ方で、たぶん翻訳もいいのだろう》

 これは700行近い長編詩「よそにもここにもいずこにも」の中にある二行で、大岡信さんが全てを訳するのに挫折したものの『折々のうた 第十』に収めた一節のようです。

 エリュアールは第二次大戦中に出した「自由(Liberte)」も有名ですが、やはり全体が長く、一般的にはパンチラインだけが記憶されているようです。

《そして、ひとつの言葉の力で
ぼくはまた人生を始める
ほくは君を知るために生まれた
君に名づけるために

自由(Liberte)と。》

 長谷川さんの部では「名前によって、対象は、まさしく存在するものとして自我から生まれでる。名づけは、精神の行使する最初の想像力である。アダムはすべてのものに名前をあたえた。それは、全自然を支配下に置き、全自然を掌握する最初の行為であり、全自然を精神から創造する行為である」と名づけの行為が自然支配と結びつく、とヘーゲルを引用するあたりもよかった(p.57)。

 《まわりに森や和泉がなくても、眠りが安らかであれば眠りのなかに森や和泉や清水がある》というのは眠りに関する至言のように感じます(p.90)。

 《日本の詩歌は政治と相性がわるい》(p.160)というのもなるほどな、と。

 長谷川さんは、この本の中で《人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない》(『「日本とは何か』講談社・日本の歴史 第00巻)と網野さんを引用し、《どこかから肌寒い風がわたしにも吹いてくるようで、それに耐えながら足を地につけて歴史を考えなければ、という思いは切実である》としています(p.174)。

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December 20, 2018

『古代史講義』

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『古代史講義』佐藤信(編)、ちくま新書

 古墳時代から奥州藤原氏まで15のテーマでの古代史を概説した本。アンソロジーにありがちな散漫さはなく、自身も「地方官衙と地方豪族」を担当して書いた佐藤信先生のもと、バランスのとれた編集で古代史研究を知ることができる。

1講 邪馬台国から古墳の時代へ

 邪馬台国の位置は三万五千里四方という中国王朝の世界観の東端に位置づけられたもので、距離は遠方からの朝貢を強調するもの(p.19)。

 列島と朝鮮半島との交易は壱岐対馬と北九州が中心だったが、山陰地方にも列島側の拠点が拡大するなど《多極的ネットワークが形成された》(p.27)。

 楽浪・帯方郡の滅亡によって九州中心の交易ネットワークは終焉、畿内のヤマト王権が伽耶地域と交易を行うようになる(宗像・沖ノ島の祭祀が開始される)。

2講 倭の大王と地方豪族

 卑弥呼の墓と有力視されている箸墓古墳を含むオオヤマト古墳群でも、二系統に分ける見解がある。初期の高句麗王は五つの部族から交互に出ていたり、新羅でも二人の王が役割を分担して併存していた。草創期や初期段階の王位のあり方は《もはや「一系統の王朝」の存否だけを議論する状況ではない(p.33)。

 巨大な盟主墓を含む古墳はオオヤマト、佐紀、馬見(大和)、古市(河内)、百舌鳥(和泉)、三島(摂津)に別れているが、有力首長たちは通婚を重ねて血縁的に近しかったと推測される(p.39)。

 421年 倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に遣使、478年までに7回の朝貢は奈良時代の遣唐使を上回る頻度(p.41)。

 古墳の規模規制は制度に基づく統治の先駆け(p.44)。

3講 蘇我氏とヤマト王権

 蘇我氏を滅亡させた645年の乙巳の変の前年、高句麗でも似たようなクーデターが勃発、百済と新羅でも混乱が生じており、朝鮮半島情勢が緊迫していた(p.68-)。

 初期段階の王位のあり方を含めて(部族からの交互選出、王位の役割分担、p.32)など、半島と列島の政治はクロスしてる。

7講 地方官衙と地方豪族

 ヤマト王権時代には国造として直接的な関係を持っていた地方豪族は、律令制下では国司の下位に位置する地方官となり、同盟関係から支配・従属関係へと変化。

 しかし、壬申の乱で大海人皇子が勝利できたのは東国出身の舎人のお陰で、采女の子も皇位継承候補となった(p.138-)。

8講 遣唐使と天平文化

 遣唐使は皇帝からの朝貢への回賜品を売り払い、その代金全てで書籍を購入して船に積み込んで帰っていった。不要な高級品よりも直接役立つ書籍を求める姿勢、なんか泣ける(p.159)。

 正倉院宝物のうち、唐や海外から舶載されたものは9千点のうち5%で、残りは国内での模倣品。 世界文化の中心だった唐から一部分を継受したに過ぎず、シルクロードの終着駅という言い方は誤解を与える。唐との交流の核心は書籍・仏典の移入であり、シルクロードならぬブックロードとして重要だった、と(p.160)。

11講 摂関政治の実像

光仁→桓武の即位で天武系の皇統は途絶えて天智系のみとなり、桓武系も三統から嵯峨→仁明王統が皇位継承を担った。しかし、承和の変、応天門の変と即位を巡る政変はその前の平城太上天皇の変(昔は薬子の変と呼ばれていた)含めて頻発。皇統のイエ化と摂関政治を生み出した、と。

 律令制による中央集権体制の構築にあたって、中国の皇帝制を手本に日本の天皇制は制度化されたが、ヤマト王権以来の大王の性格との矛盾も孕むことになった。中国的な嫡系主義によって皇位継承者が限定されて、皇統断絶や政治能力のないものが即位する問題が生まれた(p.211)。

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 称徳天皇の崩御による天武皇統の断絶を目にした光仁・桓武天皇は、皇統を複数に分けたが、複数化は承和の変という皇位継承を巡る争いを引き起こすと、再び一本化が図られた。しかし、清和天皇という幼帝や陽成天皇という素行に問題のある天皇が即位。摂政・関白・内覧が創出された、と

 無能な天皇であっても問題なく機能する摂関政治によって天皇・貴族は経済的に豊かになり、華やかな宮廷文化を生む。『源氏物語』『枕草子』が摂関政治の最盛期に生まれたのは必然。身内や臣下が政務を代行・補佐し天皇制を補完するシステムは院政、幕府から内閣制度まで続く(p.212)。

14講 平将門・藤原純友の乱の再検討

 嵯峨天皇の治世、812年に始まった宮中観桜会の記録から9~10世紀代の桜の満開日は現代より5日早いなど現在よりむしろ温暖だった(山本武夫『気候の語る日本の歴史』)。また、温暖化によって8世紀以降海水面は上昇し、12世紀初頭にピークを迎えた。奈良時代から平安末期にかけて少しずつ温暖化に向かうなど「ロットネスト海進」があった(p.259-)。

1講 邪馬台国から古墳の時代へ
2講 倭の大王と地方豪族
3講 蘇我氏とヤマト王権
4講 飛鳥・藤原の時代と東アジア
5講 平城京の実像
6講 奈良時代の争乱
7講 地方官衙と地方豪族
8講 遣唐使と天平文化
9講 平安遷都と対蝦夷戦争
10講 平安京の成熟と都市王権の展開
11講 摂関政治の実像
12講 国風文化と唐物の世界
13講 受領と地方社会
14講 平将門・藤原純友の乱の再検討
15講 平泉と奥州藤原氏

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December 17, 2018

『文選 詩篇 四』

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『文選 詩篇 四』川合康三ほか、岩波文庫

 12月上旬にあった川合康三先生の講演をお聞きする前に、刊行されている文選は読んでおかなければ、と思い、旅先で読みあげました。

 楽府第の「長歌行」に《百川東至海(すべての川は東に流れ海に注ぐ)》とあって、中国の河川は東流して海に注ぐだけの一方通行なんだな、と思う(p.368)。そうなると基本的にインドは南流、ロシアは北流するだけなのに対して日本や欧米のように東西どちらにも流れる川が多いのは珍しいのかな、とか。解説では「過ぎ去った歳月が二度ともどらないことをたとえる」としているけど、日本の時間感覚が一方通行ではなさそうなのは、そうしたことからなのかも。

 顔延之はあまり顧みられない詩人ですが、山に登ると「清雰岳陽に霽(は)れ」という句を思い出すようになりました(p.273)。
清雰霽岳陽 清雰(せいふん)岳陽(がくよう)に霽(は)れ
曾暉薄瀾澳 曾暉(そうき)薄瀾(らんいく)に澳(せま)る
雨上がりのすがすがしい気が山の南に広がり
日の光が波立つ水際まで照らす

 同じように謝眺の華麗な詩にも驚く。贈答篇はエリート官僚同士がお互いを褒め倒すみたいな感じの詩が多いが、謝眺、王僧達など、ここでも刑死、獄死する人たちが多いな、と。才気煥発で生意気というか、才能をもっと認めて欲しいために、お互いをインフレ気味に褒め称えるみたいな感じなんだろうか。

 それにしても一巻から頁数にして1400頁をめくってやっと、陶淵明の詩が出てきたのにはホッとしたが、こんなのが選ばれるの…という凡庸な作品。選考基準が分からないが、当時はまだ評価が定まらなかったという解説に納得。

 謝霊運の恵連に送る詩、こういう詩もあるんだ、みたいな素直で好感がもてる。
《開顔披心胸 顔(おもて)を開きて心胸を披(ひら)く》

 東洋的教養を深められます。

 といったところですが、川合先生の講義で漢詩に関する理解を深めることができました。

 東洋大学白山キャンパス6号館2階の6209教室で川合康三先生(京都大学名誉教授、國學院大學特別専任教授)による講演「中国の文学・日本の文学」を聴いてきました。

 元々、なぜか漢詩は好きでずっと読んできたのですが、岩波文庫から膨大な『文選』の詩篇が全六巻で刊行中ということもあり、中心となって訳注を加えている川合康三先生の講演を聞けるというので、ありがたい限り。質問までさせていただき、漢詩に対する理解が圧倒的に深まったな、と感じています。

 本だけを読んでいてはわからないことも、話しの中でポロッと出て来る情報ですっきり見通しが効くようになる、という経験は大学院以来でしょうか。

 ぼくは陶淵明、オマル・ハイアームが大好きなのですが、それは和文学の環境に浸る中で、彼らの厭世観が好きなんだなということが初めて自覚できたのは貴重でした。

 漱石は『草枕』で《余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である》《うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。「採菊東籬下 悠然見南山」(きくをとるとうりのもと、ゆうぜんとしてなんざんをみる)ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。「独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照」(ひとりゆうこうのうちにざし、きんをだんじてまたちょうしょうす、しんりんひとしらず、めいげつきたりてあいてらす)ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している》と書いていますが、漢詩はそうした隠逸への憧れや、厭世観などが素晴らしいのだと思っていました。

 しかし、川合先生は「そうした気分を詩にすることは、そう珍しいことではない。例えばオマル・ハイヤームのルバイヤートもそんな詩ばかり」として、中国の文学で厭世解脱の精神で描かれているのは『桃花扇』『紅楼夢』だけという王国維の『紅楼夢評論』を紹介した後、曹操の『歩出夏門行』のように

老驥(ろうき)は櫪(うまや)に伏すも
志 千里にあり
烈士暮年
壮心不已(やまず)

 悲観主義を乗り越える詩が上等とされた、というんです。詩の意味は「千里を駆けた駿馬は、たとえ老いて馬屋にあっても志は千里を駆け巡っている。男児たるもの、年老いたからといって志を止められるものではないのだ」。

 これは漢文学の担い手は士大夫なのに対し、和文学は貴族、武士、禅林、儒者、知識人と一貫性がないということも関係しているかもしれません。また、和文学の担い手は女性から始まりましたが、漢文学の女流は本当に少ないそうです。だから、漢文学では虚しさを乗り越えて、ポジティブな詩が上等とされたのかな、と。和文学にない人生の肯定感があることに漢詩を読む価値があるとも。

 ここは本当に気付かなかったところなので、講演終了後に、質問をさせていただきました。「中国では儒教思想が浸透していたのは士大夫など上層だけで、庶民はずっと任侠の世界で生きてきた、という議論と関係はあるのでしょうか」と。これに対して、「中国では士大夫は礼に従わなければならないが庶民はそれに及ばない。しかし、士大夫は庶民の生活に対する責任を持ち、それを庶民も尊敬するという倫理があったから中国文化は三千年も続いたという構造も忘れてはならない」と指摘していただきました。

 このほか、「文字を持っている言語は少ない」という指摘もなるほどな、と。

 日本ではひらがな、カタカナも漢字から得たのですが、初の漢詩集『懐風藻』は751年成立と759年の『万葉集』より古いほど。全てを中国から学んだのになぜ、こんなに和文学は違ったのか?として、中国で月は満月、花は満開が貴ばれることを指摘。

 一方、和文学では月を分節して三日月なども読み、花は散りゆくものとして死の理念と結びつく、と。花を死と結びつける日本文化は特殊だそうです。

 中国に恋の歌がないと本居宣長は指摘しましたが、アーサー・ウェイレイは恋の代わりが友情と指摘。中国では夫婦の関係が重要で、恋の詩は少ないそうです。

 また、和文学で白楽天がすぐに受容されたのは、当時の唐で大流行していたからだ、というのも面白いな、と。だから五山文学の僧侶も流行っていた蘇軾を受容したわけですし、森鴎外の翻訳小説も当時ドイツで流行っていたもので忘れさられたのが多いとのこと。

 その上で、『文選』は難しい、果たして日本で受容されたのかと刊行中の『文選』に触れておられました。

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December 11, 2018

『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』

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『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏、中公新書

 ある年代までの哲学書を読む層では、ドイツ観念論が哲学書のヒエラルヒーの最上段に置かれ、それこそ廣松渉さんではないですが、ヘーゲルの『小論理学』『大論理学』『法哲学』などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」(『哲学者廣松渉の告白的回想録』p.125)というような経験をしていると勝手に思っています。

 その点、イギリス経験論は、その分かりやすさ、対象の卑近さなどが神々しさを感じさせないためか、ドイツ観念論がより高等なものだ、みたいな雰囲気がさらに増したと感じます

 ヘーゲルの主要な著作の翻訳を終えてから、丸山眞男批判、その延長としての『日本精神史』と書きついでた長谷川宏さんが、本業ではないイギリス経験論を中心に、幸福とは何かという概念規定しにくい問題を取り上げたのが『幸福とは何か』。本文でも、カントをわざとつまらなく取り上げたりして、ドイツ観念論中心の日本の哲学受容を相対化しているように感じたのはぼくだけでしょうか。

 ギリシャ哲学についても、観念論につながるイデア論よりも個と共同体の関係に注目し、ソクラテスは共同体秩序の弛緩を立て直すことに主眼が置かれ《個の世界と共同の世界との連続性に疑問をいだくこと》はなかった、としています(p.54)。

 これがマケドニア生まれでアレクサンドロスの家庭教師もつとめたアリストテレスになると、人間はポリス的動物であるとしながらも、アテネなどの衰退によって、個人は共同体とのつながりを実感しにくくなってきます。そして観想的生活こそが最高善である、と峻厳すぎる結論を出します。

 やがてアレクサンドロスも夭折すると、いよいよ共同体への信は揺らいできて、エピクロスなどの時代になってきますが、それはデモクリトスの原子論を基礎としたものに方向転換します(p.85)。それは人間を自然的存在としてとらえる方向でした。

 そしてセネカに至り、現実の政治経済活動から身をひきつつ、感覚も自分も支配するような、内面の理性へと向かいます(p.99)。

 ここで第1章〈古代ギリシャ・ローマの幸福感〉は終わり、第2章〈西洋近代の幸福論〉に入るのですが、著者は中世を抜かしてしていることについても言及します。それはあまりにも神中心の時代であり、自然界や人間界をも絶対的な神が支配するというような、インフレ気味の構図は《古代ギリシャ人もローマ人も思い描いたことのないもの》であり(p.107)、幸福が神からの授かり物だとしたら、真剣に取り組むべき対象ではないからだ、というわけです。

 第2章「西洋近代の幸福論」

 商品経済の発展、絶対君主制などによって超越神の支配から人々の心は解き放たれていくなか、大陸合理論がまだ神に捕らわれた論考を進める中、イギリス経験論はもっと神とゆるやかな関係をむすんでいきます。

 ヒューム『人性論』は題名が示しているように、問われているのは神の本性ではなく人間の本性。ベーコンが150年がたつと、人間とは何かを問うことが意味あることになっていった。ヒュームは生のみずみずしさを保つ知覚を出発点において思考を重ねていき、理性も非現実的な観念論として信頼しない。経験の断片を結びつけるものは人間の利己心やせせこましさ、私的利害、人為的な慣習などだった。

《わたしたちは、芽にもとまらぬ速さで次々と起こり、たえず流れ動くさまざまな知覚の束ないし集まり以外のなにものでもない》という言葉は、現代のクリックの「あなたはニューロンの塊にすぎない」という認識に通じるものがあるというか、ひょっとして古代ギリシャの原子論に匹敵するような先見性を持っているかもしれません(p.126)。

 しかし、ヒュームはさらに持続的な自己同一性を否定するところまでいってしまいます。そうなると幸福論そのものの前提が崩れてしまいます。

 これに対して宗教からも形而上学からも離れて人々の日常的な感情の動きに目を捉えようとしたのがアダム・スミス。道徳は個の存在の内部にあるのではなく、個と個のかかわる集団のうちにあ、人間は社会的存在であると考えた。彼は、くよくよ考えがちな隠遁者は普通の人々が社交と会話によって得ている気持ちの安定感はめったに持てないとして、凡庸な情念がなだらかに行き来する人づきあい=共感のうちに暮らしの基本があるとしている。『国富論』も著したスミスは、感情だけでなくものも含めて交換しあう性質が人間を発展させてきたとみる。

[カントのインターミッション]

 個の経験を重視しすぎた故に幸福論とのスリ合わせが難しかったヒューム、他者との関係を感情、経済の両分野で重視して幸福論への道を切り開いたスミスに続くのは、普通でしたらジェレミー・最大多数の最大幸福・ベンサムなわけですが、長谷川さんはここでカントを入れることで、日本のドイツ観念論に偏りすぎた西洋哲学受容史を批判的に俯瞰します。

 カントは『実践理性批判』で、理性が自身の中から道徳法則を紡ぎ出すところに《理性の自由と自律の証をみる。下界に触れ、下界に促されて道徳法則に思い至るのではなく、自らの力で道徳法則を生み出す理性は、まさにそのことによって下界から独立した自由な、自律的な存在である》ことをみます。

 ヘーゲルも行動に内在する意思こそが真に自由な存在であり、道徳法則はその自由の純粋な発現形態だ、とカントの道徳哲学をまとめています。

 しかしカントは、自由と幸福、道徳と幸福の間に楔を打ち込みます。

 西洋の近代思想では個の内部に向かうことによって、主体性、自主性、内発性など日常生活の経験とは違う動きに価値を置く考えが主流となっていきますが、これは幸福にまつわる事柄は実践哲学に届かない有限な心の動きであるというカントの考え方に影響を受けたものです。

 《幸福は、人間がなにかしら不足を感じる有限な存在であるがゆうにのしかかってくる課題》であり、幸福を求めることは《義務であり目的でもあるようなものだ、ということはできない》と。

[最大多数の最大幸福]

 カントの道徳理論のうちに幸福論の居場所はなかったことを確認して、著者は再びイギリス経験論に戻る。

 ベンサムは道徳と立法の原理を考察するなかから「最大多数の最大幸福」を導き出す。『道徳と立法の原理序説』でベンサムは苦痛と快楽が人間のすべての行為を支配するという根本原理を提示する。けっしてカントのように純粋理性や意思の内面などには思いを及ぼすことはない。そして、苦痛と快楽の大部分は経済活動のもたらす物質的な富の大小によってもたらされるとした。

 ベンサムは功利主義者といわれるが、「なにがしかの(あるいは誰かの)役に立つ」という視点を堅持して考察を進める。これによって幸福も快楽に取り込まれ、快楽、善、幸福の三位一体の図式が出来上がる。ベンサムは《人間が社会のなかで他人とともに行動し、快苦、憎悪、幸不幸のあるらゆる場面で他人と交わることこそ人間の本来のすがた》だととらえていた、と(p.181)。それは個人を独自の個としてとらえるよりも、平均的な個として社会のなかに投げ入れて生きる社会的存在とみていたことになる。

[20世紀の幸福論]

 《ベンサムの社会政策は個人の幸福と社会集団-家族、村、町、学校、職場、都市など-の幸福とが連続的につながるという前提のもとに考察された》ものでしたが、資本主義の進展と20世紀の2つの世界大戦はこうした楽天主義に疑問符を突きつけた、と。

 こうした20世紀の幸福論として著者はアランとラッセルの著書を紹介。近代は自分へと目を向けさせますが、ラッセルなどは自己自身への興味は幸福獲得のためになんとしても避けるべきものとまで考える、と。

 あとがきの《個として生きることと社会的存在として生きることとの矛盾こそが太古から現代に至るもっとも基本的な矛盾と考えられる》が著者のまとめ。

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November 23, 2018

『最終講義 分裂病私見』

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『最終講義 分裂病私見』中井久夫、みすず書房

 中井久夫先生が1998年に神戸大学退官時に行った『最終講義』は1998年に出たんですが、ちょうど、その年は公私ともに多忙で、全くメモの類やインターネットの書き込みも残していなかったんです。久々に中井先生の本を集めたコーナーを整理していて、この本を見つけてパラパラとめくっていたら、なんと!普段は全くこうしたことはやってなかったマーカーでのライン引きがたくさん見つかりました。自分でも時間がなくて、メモを残すことはできないけど、せめて将来、読み直す時の手がかりに…と思ったんだろうな、と当時の自分を抱きしめてやりたくなったんですが、さらには1999年の讀賣新聞のインタビュー記事まで挟んであって…これで、改めてご紹介できる、と思いました。

 《精神医学は目に見えないもの、語りにくいものを何とか目に見える形に表し、ことばで輪郭なりとも描こうとする試みでもあります》という言葉が印象的(p.2)。

 行間にあふれる弱者への暖かな視線は「患者さんと共に」という腰巻の言葉にも表れています。

 これは、中井久夫先生が1998年に神戸大学退官時に行った最終講義で、テーマは「精神分裂症」。当時はまだ分裂症という言葉が使われていたんですね。

 中井先生が分裂病に取り組んだ経緯は「あとがき」に書かれています。

 《分裂病は、研究者から転じて後、私の医師としての生涯を賭けた対象である。私は医師としての出発点において、実に多くの分裂病患者が病棟に呻吟していることを知った。精神科に転じてから最初に外来助手を勤めた若い女性が幻聴を訴えただけで、ろくすっぽ診察もされずに遠くの病院に入院するように指示されるということがあった。私は一ヵ月後、その病院を訪ねた、若い女性としての魅力がじゅうぶんあったその女性は僅かの期間中に慢性分裂病患者になり果てていた。
 当時は、分裂病でも目鼻のない混沌とした病気で、デルフォイの神託のような謎だと言われていた。分裂病に取り組んだら学位論文ができないぞと公然と言われていた。幸か不幸か、私はすでにウイルス学で学位は持っていたが、持っていようといまいと、もう少し何とかならないかと私は思った。私は、それまでの多少の科学者としての訓練や、生活体験や、文学などの文化的体験を投入して、何とかこれに取り組もうとした》(p.143-)

 分裂病は《患者を分けて収容した十九世紀の閉鎖的精神病院に入院している患者を診ることによって、数十年をかけて》発見されました(p.88)。現代病という見方もありますが、中国の文献をみると二千年このかた存在していたようにも見える、とのこと(中井先生の本で、一時はアルミニウムが原因ではないかということが疑われ、米国のアルコアあたりが全力でその研究を潰した、というような話しも読んだことがあります)。

 中井先生が学生時代には、石像のように何十年も同じ姿勢を保つ慢性緊張病が分裂病の典型と言われていましたが(p.88)、この緊張症は薬物による効果がもっとも大になったとのことで(p.49)、薬の効果は本当に高いな、と(ただし、重苦しい抑うつが残る場合が少なくない、とのこと)。

 中井先生はウィルス学からの転向者で、学園紛争の時代に一人でできるように個別研究を通じてモデルを作るというコースを考え、寛解過程のグラフを描けたらしめたもの、という方向で研究を進めます(これも別な本で書かれていたことですが、歴史学では年表が書ければしめたもの、という言葉を引用していたと思います)。

 分裂病の発症は、タンカーさえ沈めるという多くの波の周期が同期してできる合成波=三角波に当たってしまったような場合だと筆者は説明しています(p.48)。ぼくたちは、たまたま三角波に出くわさなかったのかもしれません。そういう周期の高まりにも関係しているんでしょうか、精神の能力が高まり、発病する1週間前に模擬テストで全国一位になった中クラスの高校の生徒がいたそうです(p.47)。

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 急性分裂病状態に入る時は自他・内外の区別が不明確となり、意識が青天井になるといい(p.52)、サリヴァンは分裂病をセルフ自体の崩壊だと考えていたそうです。急性期を語る患者は現在形で語るぐらい切迫したものですが、恐怖は覚醒度を高めるばかりで、眠りという癒しは訪れません。それが、やがて幻覚・妄想・知覚変容など、それほどでもないものに変わっていくのは生命がそうさせているのではないか、と(p.58)。しかし「ついに実存にふれた」という感覚が恐怖のただ中に起こることもあるそうで、サリヴァンはこうしたところに患者や治療者までも誘惑する性質があるとしています(p.61)。

 本に挟んであった1999/3/5読売新聞(夕刊)のインタビューで中井先生は、分裂病患者と詩人の心理には、どちらも医師が過剰に覚醒し、言葉の意味より連想が先走る、としていますが、なるほどな、と。

 こかから寛解過程の話しに入っていきますが、慢性分裂病から離脱するチャンスのひとつは身体病だそうで、それまでは心身症をも拒絶するほどだそうです。また、体温が38.5度以上になると抗精神薬はいらない、といわれている、と(p.75)。

 1日のうちで夕方の四時から七時までの間は不安や孤独感が高まる、というのも実感できますね。

 対人関係の疲れは決断の疲れ、という指摘にはなるほどな、と感じました(p.79)。

 キノコ中毒学はすべて死体の上に築かれてきたといわれている、というあたりも本論とは関係ないですが、面白い話しだな、と(p.7)。

 先にふれた読売新聞のインタビューでは「〈事態は悪くなります〉と悲観論を告げるのは、言う側にとっては安全なんですよ。悪くなればその通り、回復すればよくやった、と。楽観論はうまくいかなければ非難される(中略しかし)"実践的楽観主義"が悪循環を断ち切り、自信の回復、精神の復興につながる」という言葉も印象的でした。


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November 21, 2018

『中井久夫の臨床作法』

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『中井久夫の臨床作法』こころの科学増刊、日本評論社

 中井久夫先生の本で、これをまだご紹介していませんでした。

  『中井久夫の臨床作法』とタイトルは臨床作法となっていますが、統合失調症の患者さんに対してだけではなく、中井久夫先生の人との接し方の基本になる考え方を教えられた気がします。また、座談会の最後の方で中井先生が引用している「語らざれば憂いなきに似たり」(『禅林句集』白隠禅師)は、言語療法に対する慎重さを感じました。

 このムックは中井久夫先生の同僚、師事した多くの先生方の座談会を収録したものです。

 やや、理想的に描かれているような気もしますが、「頭のてっぺんから足のつま先まで分裂病の人はいない」「統合失調症の患者さんでも大学教授ぐらいだったらできるよね」というフラットな感覚を前提にした言葉を抜き書きしてみます。

 まず、幻覚中心の話題をはずします-中略-病的な話しでいっぱいになっていますから、こちらではむしろお通じの話とか、睡眠の話とか、寝心地の話とか、そんなことに話題を向けることも少なくありません(星野弘)

 診断は見事につけられる名医なのかもしれないけれど、患者さんは次回は来ないな思ってしまう先生もいました。
 ところが中井先生のところには、患者さんが次回必ずいらっしゃるのです(山中康裕)

 僕の経験では、僕の脈が患者さんに合うのです。初診の時は、脈を合わせるため診ているのだと思ったこともありました。
 往診するとなぜかペットがよく出て来るのです(中井久夫)

 患者さんと距離をとれというのがお題目のようになったのは、いわゆるボーダーラインの人たちのことが問題になった頃からだと思うのです。
 警察官というのは絶対に出身地は派遣しないのです。それだから「警官と市民」という限定された距離になってしまうのです(田中究)

 アメリカの学術誌に論文を受理させるためには、DSMの診断を使わないとだめといった事情があったようです(滝川一廣)

 医者に絵を描かされたことはあるけれども、医者が絵を描くのを見ていたことは初めてだと言っていました(中井久夫)

 中井先生は(僕は時々間違って描写することがあるのですが)おずおずと引かれた一本の線も、芸術家が描いたすごい塗りこめられて非常にきれいに形づくられたタブローも、哲学的には等価なのだ、ということをおっしゃったと思うのです(山中康裕)

 その人の生活が少しでもよくなったり、楽しみができたり、生活に潤いが出たりといったことが、実は病気の勢いを弱まることがわかってきます。
 今の治療は症状を捉えてやっつけて取ろうとする。その後、その人の人生がどうなっていくのか、生活がどうなっているのということを頭の中に描かずに(青木省三)

 ある国立大学で退院した患者さんがレセプト請求をして、入院精神療法1が週に三回とかついているけれど、僕はこんなに話を聴いてもらったことはないよということで、後で返還請求がきた。
 (保健師さんたちの世界でも)一歳六ヶ月健診とか三歳児健診の技術は、さまざまな業務があるために、うまく伝達ができていない(田中究)

 (日本で早期退院が多くなったのは)クロルプロマジンを日本で安く合成できるようになってからだよね(中井久夫、クロルプロマジンは興奮や妄想を抑えるドーパミン遮断薬)

 最近の精神科薬は効き目がシャープだから、症状が治まるのです(滝川典子)

 手紙は書きたくなりますから。
 風上はウィンドワード(windwad)、風上はリーワード(leeward)というのですが、その感覚は大事だと思ったのです(中井久夫)

 最近の統合失調症の患者さんも、よく居眠りできているので嬉しいですね(星野弘)

 日本語ができない人は翻訳などしないほうがいいと思います。読み手は余計に困りますから(山中康裕)

 「生活史なんか聞いて患者さんがよくなるというエビデンスがあるのですか」と聞かれたという話が、ある学界の会長講演で引用されていたのです(編集部)

 エビデンスがなければ裁判には勝てないわけで(対司法の中でDMSのような診断基準が必要になってきた、滝川一廣)

 アメリカの精神医学になぜ失望したかというと、ほとんど製薬資本と結託してしまっているからです(山中康裕)

 やはり人を支えたりということが必要な仕事をする人は、基本的には幸福感というか、自分だって捨てたものではない、自分の人生はそんなに惨めのかたまりではなかったという感覚を持っていることが必要なのです(滝川一廣)

 「語らざれば憂いなきに似たり」(『禅林句集』白隠禅師)です(中井久夫)

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