June 06, 2026

『喧嘩の日本史』本郷和人

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『喧嘩の日本史』本郷和人、幻冬舎新書

 ジムでのワークアウト中にAudibleで聴了。ケンカをテーマに全10章構成で、保元・平治の乱から桜田門外の変までを、古文書を元に解説してくれています。本郷先生によれば、日本の歴史学会では軍事史軽視が長らく続いてきたといいます。そんな研究をするヤツは好戦的な人間だ、みたいな扱いもされてきたが、「喧嘩」は人間同士の対立ではなく歴史的変革の原動力でもある、ということを明らかにしてくれている感じ。日本史を動かしてきたのは、綺麗事の政治理念ではなく、生々しい「喧嘩(対立)」だった、と。

[代替可能な兄弟という最大の脅威と、北条の政治感覚]

 頼朝は朝敵となった義経の追捕を理由に、全国に守護、荘園に地頭を置く許可を取りつけることに成功するなど、一見すると兄弟間の対立にすぎない義経との問題を日本史の大きな転換点としました。義経追討を理由に武士による支配体制を手に入れた頼朝の戦略とバランス感覚はしたたかと言うほかありません。

 源頼朝・義経の抗争や、足利尊氏・直義などのように、家督相続において代替可能な兄弟間の喧嘩が多いという指摘はなるほどな、と。

 さらに、権力簒奪の第一歩を一見、専横を生まない民主的な体制を望むかのような合議制の提案から始めた北条氏の戦略もさすがです。時政は将軍家の権力を無力化させることを狙いに、合議制(評定衆・評議衆)への移行から執権制度による北条氏の実質支配に結びつけました。この段階を踏む政治感覚は見事です。

[経済論なき喧嘩は、ただの不毛な泥沼へ(観応の擾乱~川中島)]

 観応の擾乱の遠因は尊氏と直義の国家観の違い。頼朝と同じように京都とは距離を取ろうという直義と、貨幣経済の発展を無視して東国に政権を置くと財政基盤が確立できないという尊氏の対立。京都を押さえるということは、政治的な意味だけでなく、経済の中心である商品流通を押さえることでもあったのです。このように尊氏と直義の対立には、国家観の違いがありました。しかし、時代を経ると尊氏派と直義派はともに経済に基づいた統治理念を失い、将軍権力の弱体化とともに「憎き細川」「憎き山名」という恨みに変わり、応仁の乱の頃には無意味に11年間も戦火を交えることになった、と。

 本郷先生によれば、甲越の戦いの本質は直江津をめぐる攻防でした。重要な港である直江津を防衛するという戦略のもと、北信濃奪還を目指した謙信が「喧嘩を吹っ掛けた」ので、五回にわたって戦われた川中島の戦いで謙信はこの目的を達成できませんでした。四回目の川中島の戦いで信玄の弟などを殲滅するなど大勝しても「喧嘩に勝った」ことにはならず、さらに言えば引き分けでもなく信玄の勝ち、というのが本郷先生のジャッジ。

光秀の謀反は「息子を守るため」という新説

 明智光秀の謀反の動機は、息子を守るためという説は新鮮でした。家康の嫡男・信康が排除されたように、信長は息子たちのために有力者たちの次世代の芽を摘もうとしたのではないか、という話は面白かった。

 その家康は『吾妻鏡』を愛読し、源頼朝の政治手法や御家人たちとの関係性を学ぶとともに、小さな火種を大騒動にまで発展させる手法を採用したんでしょうか。何年もかけて最終的には豊臣家を滅ぼし250年の太平を築きますが、赤穂事件は日本史上で初の主君の仇討であり、浅野内匠頭が刃傷に及んだのは製塩事業をめぐる対立もあったのではないか、という話しも説得力があります。

 「喧嘩」は単なる感情的な対立ではなく、権力、経済、軍事、そして国家構想の違いが衝突した結果として歴史が動いていきます。その意味で、本書は戦争史や政治史の入門書であると同時に、日本史を動かしたダイナミズムを教えてくれます。

[目次]
第1章 源頼朝VS弟・義経―弟は最大の脅威
第2章 源氏将軍VS北条氏―戦いが王をつくる
第3章 鎌倉幕府VS地方武士―ケチな出し惜しみが滅亡を招く
第4章 足利尊氏VS弟・直義―西か東か、日本が真っ二つ
第5章 尊氏派VS直義派―応仁の乱と関東争乱の理念なき「喧嘩」
第6章 上杉謙信VS武田信玄―何が何でも「○○○」が欲しかった
第7章 織田信長VS明智光秀―能力主義と抜擢人事の落とし穴
第8章 徳川家康VS豊臣秀頼―関ヶ原の「喧嘩相手」は三成にあらず
第9章 吉良上野介VS赤穂浪士―もしもあのとき、六秒ガマンしていれば…
第10章 伊井直弼VS水戸・薩摩藩―桜田門外の変、敵の敵は「敵」

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June 05, 2026

『風まかせ十二カ月 柳家三三の落語つれづれ』

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『風まかせ十二カ月 柳家三三の落語つれづれ』柳家三三、岩波書店

 個人的には若手のホープという印象がいまだに強い柳家三三師匠ですが、真打昇進からもう20年になるのですね。時の経つ早さに驚きつつ、彼の瑞々しくも粋な佇まいの秘密に触れられるような、素敵な一冊に出会いました。

[江戸の風を感じさせる「様子がいい」噺家]

 三三は様子がいいのが好きです。ちょっと背が高すぎるかもしれませんが、最近は貫禄がつきすぎた噺家も少なくないなかで、ビジュアル面でもその佇まいから江戸の風を感じさせてくれます。

 岩波の『図書』に一年十二ヶ月の季節の移ろいに合わせた12編の連載に、エッセイを加えたのが本書なんですが、天下の岩波から出してもらえるんですから大した「本書く派」です。

[小さん、文楽、小三治、談志――名人たちの記憶と芸論]

 三三は1974年の生まれですから、昭和の名人では文楽、円生の生前の高座間に合わなかった世代なんですかね。でも、小三治が師匠ですから、大師匠の小さんの謦咳には接しているようで、正月の宴会で《台所でその指揮を執るのは、当時すでに真打でありながら、小さん師匠の孫という立場ゆえ、前座とともに働いていた柳家花緑師匠。先輩たちからは「台所の師匠」なんてからかわれていましたっけ》なんていう話しも楽しい(k.172、以下引用箇所の k はKindle位置番号)。

 また、「厄払い」のくだりでは、得意ネタとしていた八代目文楽へのリスペクトが滲みます。「ああら、めでたいな、めでたいな。まず一夜明ければ元朝の、門に松竹注連飾り、床にダイダイ鏡餅、蓬萊山に舞い遊ぶ鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大介百六っつ」なんていう文楽のマクラが聞こえてくるようでした。

 その後の世代では、談志師匠からある時期から登場人物がその日どんな言動をするかという即興性を重視するようになっていったという話しや、小三治師匠からの「落語は誰かのためじゃなく、自分のためにやるんだ。お客が笑ったとか笑わなかったとか、人の目ばかり気にしてちゃダメだ」という言葉も印象的。

[歌舞伎ファンも膝を打つ江戸のトリビア]

 ぼくは歌舞伎も好きなんですが《初鰹が重用な小道具として登場する有名な歌舞伎が「髪結新三」の通称で知られる「梅雨小袖昔八丈」(河竹黙阿弥作)です。じつはこの芝居、落語が原作だと、ご存じでしょうか。といってもオチのある滑稽噺ではなく、「白子屋政談」という続き物の、大岡越前守が名裁きをする噺です》(k.575)というのは知らなかったな。《ちなみに原話となった事件は、享保年間に日本橋の材木商、白子屋で起きた主人殺害未遂で、現代に数多く伝わる「大岡政談」の中で唯一、大岡越前守が実際に裁きを下したものなんですって。他の名裁きは、別のお奉行様の手柄なのですよ。びっくりでしょ》(k.593)って本当にビックリしました。

 落語そのものの話だけでなく、歌舞伎や江戸文化、師匠たちの思い出まで、話題は自在に広がっていきます。

 決して肩肘を張ったお堅い芸談ではありません。十二ヶ月の季節の移ろいにそっと寄り添いながら、現代の名手がどんな景色を見て、何を考えて高座に上がっているのか――その頭の中を心地よく覗かせてもらえる、贅沢な一冊でした。

[目次]

 無駄と遠廻りと、行きあたりばったりと――「はじめに」に代えて

お正月は寄席で初笑い
二月には厄払い
 コラム1◆噺のレギュラー、箪笥の肥やし?
三月は“花見”の噺で泣き笑い
 コラム2◆……というわけで今日は泥棒の噺を
四月には新たな一歩を
 コラム3◆三遊派、柳派……
五月は鰹とドキドキと
 コラム4◆お稽古方法さまざま
六月に降る雨と雪
 コラム5◆羽織の使いかたいろいろ
七月はお暑いのがお好き
 コラム6◆はじめての寄席
八月は怪談……のはずが
 コラム7◆夏の怪談噺の思い出
暑さ厳しい九月のお祭り
 コラム8◆古典、新作を問わず
十月の長雨に“待った”
 コラム9◆寄席のひと味違う楽しみ
十一月の夜長に思いだすこと
 コラム10◆みんなで楽しく
名作で締めくくりたい十二月

 おわりに

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May 30, 2026

『真説 豊臣兄弟とその一族』呉座勇一

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『真説 豊臣兄弟とその一族』呉座勇一、幻冬舎新書

 2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』に重ねてきたんだろうな、ということで購入。『応仁の乱』以来の著者のファンということもあるし、他の新書版の啓蒙書でも、丁寧に資料調べて根拠を説明してくれるし、いつものようにどこかピリリと辛い読後感も感じさせてくれました。

 秀吉伝説は江戸時代に創作された『絵本太閤記』(1797年)があまりにも広く人口に膾炙し、その後の歴史家も追認したことから、通説として通ったものが多いのは有名。近年の秀吉の基礎研究は、『豊臣秀吉研究』桑田忠親ぐらいしかないとのことですが、それにしても評価は分かれています。一次史料以外では、このほか太田牛一による『太閤様軍記の内』(1610年頃成立)、江戸時代の医師・儒学者である小瀬甫庵(おぜ・ほあん)による『甫庵太閤記』(1626年頃成立)、豊臣秀次の家老でもあった田中吉政に仕えた川角三郎右衛門による『川角太閤記』(1620年代に成立)がありますが、それでも秀吉の死後15~30年ぐらいたってからの伝聞が多く、本書でも取り上げられているように矢作川の出会いや墨俣一夜城は空想的な話しであることは確実で、全体的に史実としての確定作業はほぼ困難なようです。

 以下、秀吉と秀長の兄弟に分けて、印象に残ったところを紹介します。

[秀吉像の再検討]

 秀吉の父方の親類が史料に登場しないのは、相当身分が低かったからというのはほぼ確定のようです。

 本能寺の変については、天正9(1581)年に信長の側室となっていた光秀の妹「ツマキ」が病死し、信長と光秀との関係は疎遠になったことで、出世競争で嫡男がいないことを逆手にとって信長の子を養子とした秀吉優位となり、それが本能寺の遠因になった可能性がある、と。

 秀吉は信長の事業と政策を引き継いだだけという印象が強いかもしれませんが、「楽市楽座」にしても信長段階では不徹底であり、秀吉によって全面的に展開されたとのこと。信長はまだ古い時代を引きずっており、秀吉から新時代が始まるという理解が近年の歴史学界では有力だそうです。

 家康を信頼して秀次を抹殺した秀吉の判断の誤りは致命的でしたが、さらに多くの家臣が大名として自立し、更に秀吉死後の内紛で、さらに家臣が失われたことは、豊臣家を支える人材が払底する事態を引き起こしていたことに気づかされました。豊臣系武将たちは直臣から独立大名となってしまったため、豊臣家への忠誠より保身を優先してしまったわけです。

 秀吉は陽気で明るい人間で人に好かれるという「人たらし」という神話が存在しますが、開城後に籠城していたおんな子どもを「なで切り」にしたり、関白秀次を切腹させた後の一族郎党を処刑したことを見ても冷酷で残虐な人間なのだ、というのが著者の評価のようです。

[「名補佐役」秀長の実像]

 奈良国立博物館蔵の『天正18年10月羽柴秀長都状』には自筆で「秀長51」とあり、翌年正月に死去した秀長の年齢は数え年で52歳となり、生年は通説通り天文9年(1540年)と考えられるとのこと(p.88)。

 秀長は播磨・但馬で、知行(領地)の割り当て、治安維持、諸役の賦課や免除、さらには鮎漁の特権保証など、多岐にわたる効率的で合理的な統治を行ったとのことで、秀長が発給した判物からは、彼が在地の秩序を維持しつつ、秀吉の領国拡大を支える実務能力を発揮していたことがうかがえるとしています。

 天正14(1586)年4月6日付の大友宗麟の国元の家老宛ての書状で宗麟は「宰相殿(秀長)をお頼み申すことが大切だ」と述べており、秀長を全面的に信頼していたようです。初対面の宗麟の心をここまでつかんでいることから、秀長の温厚で誠実な性格、人付き合いの上手さがうかがわれるとのこと。

 秀長の家臣だった藤堂高虎の伝記『聿脩録』によれば、秀長は温厚謙虚で大人物の風格があり、秀吉が法に基づいて諸大名を処罰しようとすると、常に寛大な心でこれを救おうとしたので、諸大名から頼りにされたというのも、こうした話しの裏付けとなりそう。高虎は、秀長の寿命がもう少し長ければ、豊臣政権が滅ぶことはなかったのではないか、としています。

 しかし、秀長には冷酷な一面も存在したようで、その例が領国で展開された「ならかし(奈良貸し)」と呼ばれる民衆からの搾取。強制的な貸し付けである「ならかし」は秀長領国の財政を支える手段として機能する一方で、奈良の町人に大きな負担を強い、社会不安を引き起こしたそうです。多聞院英俊が記した『多聞院日記』でも、秀長が亡くなった後には莫大な財産が遺されたという。

[豊臣政権は生き残る道があったのか?]

 豊臣秀次を中継ぎにして豊臣秀頼成長後に秀頼を天下人にする、という路線を秀吉が採っていたならば、家康に簒奪の隙を与えず、豊臣政権が長続きした可能性もあるというのが筆者の評価。少なからぬ成功者が後継者問題で晩節を汚しますが、秀吉もまた例外ではなかったとも書いています。

 繰り返しになりますが、福島正則など子飼いの家臣を大名として日本各地に独立させず、近くに直参として残しておけば、という指摘は納得感があります(p.259-)。直臣の自立化などで人材を失っていった豊臣家で、唯一残った片桐且元にしても、淀殿や秀頼に受け入れられない内容の三ヵ条しか提案できませんでした。しかし、それでもこれが生き延びる最後のチャンスでした。

 本書で一貫して描かれているのは、豊臣政権が「秀吉個人のカリスマ」に強く依存した体制だったという点でしょう。秀長・秀次の死、直臣団の自立化によって、その脆弱さが一気に露呈したという視点は非常に説得力がありました。

 それにしても、秀吉の正妻の名前について「ねね」か「おね」かで何ページも使ったりするところなどはさすがでした。

 軽い読み物としても読めますし、大河ドラマの副読本としてもお勧めできます。

[目次]
第一章 秀吉「天下取り」の実像(謎に包まれた出自;秀吉の出世街道;天下人への道)
第二章 豊臣一門の「裏の顔」(秀吉は「人たらし」か;弟・秀長は人格者か;後継者秀次は暴君か)
第三章 豊臣秀吉の妻子(高台院の実像;淀殿の実像;秀吉の子どもたち)
第四章 豊臣家、終焉の謎(朝鮮出兵の誤算;関ヶ原合戦後の豊臣家;大坂の陣)
終章 豊臣家はなぜ栄え、滅びたのか(織田家での栄進;「中国大返し」による転機;織田政権の後継として;侵略戦争を止められなかったのか;一門衆の乏しさ;豊臣家直臣の自立化;豊臣家が生き残る術はあったか;大坂の陣で家康の首を取れたか?)

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May 28, 2026

2025年の1冊は『コミンテルン』佐々木太郎、中公新書

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 こちらではアップし忘れていたのに気付き…

 ずっと細々と選んできた今年の1冊は『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』佐々木太郎、中公新書とします。

 マルクス、エンゲルスやレーニン、トロツキーが何をやろうとしていたのかに関しては岩波や角川、国民文庫をガリガリと読んでいけばよかったんですが、政権をとったボルシェビキたちが実際に何をやったに関してかは、当時のヨーロッパの動きも含めて情報を得られるような本がなかったと感じていました。しかし、ようやくコミンテルンの歴史を通して全体像をつかめた感じがします。また、ロシア革命があまりにも見事だったため、当時の欧州マルクス主義者は、資本主義の発達に対応して各国での議会を通した社会の改良運動になびいていったという流れを理解できていなかった、と自分の不明を恥じました。また、レーニンは国内政治では天才でしたが、すぐにでもドイツで革命が起こって援軍がかけつけるような外交的な判断ミスも犯していたんだな、と。また、コミンテルンやボルシェビキは先進諸国の中間層を見落としていたな、と。なにも差し上げられませんが、パチパチと拍手を。

 このほか、いわゆるアカデミズムからの評価はあまりないんでしょうが『世界秩序が変わるとき 新自由主義からのゲームチェンジ』齋藤ジン、文春新書が面白かった。東西冷戦終了後の日米交渉をがん患者に抗がん剤を投入する医師の関係として説明するところは出色でした。日米交渉で米国側はどんどん目標値や対象品目を変えたりして、そのたびに日本側は「ゴールを動かさないでほしい」と抗議していましたが、アメリカ側が目標としていたのは日本の骨抜き=ガン根絶だったので、医師としては必要な抗がん剤をどんどん投入するだけだった、と。この構図は米中交渉でも同じだろうな、と。

 日本でも格差の拡大が問題となっていますが、『新しい階級社会』と『移動と階級』は読ませてくれました。『新しい階級社会』橋本健二、講談社現代新書ではアンダークラスは未婚の人が多いため少子高齢化と密接に関係しているので、次は中流階級の落ちこぼれがアンダークラスになるという予想が衝撃的。農民や自営業の「旧中間階級」はコロナ禍で没落し、変わって上昇したのが「新中間階級」というのも納得。『移動と階級』伊藤将人、講談社現代新書では「移動資本」という概念を初めて知りました。移動できる資力、経験、機会などが明らかに年収によって違ってくることもあり、移動には社会、経済、政治的な問題が関わってくる、と。"Bowling Alone" Robert D. Putnamで、そこで社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)という概念を知って驚いた以来かも。

 『となりの史学 戦前の日本と世界』加藤陽子、モリナガ・ヨウ、毎日新聞出版では日本に対して無茶なプロパガンダを仕掛けている中国に関して、個人的には「なんであんなメチャクチャな歴史認識なんだろう」と不思議に思うわけがわかりました。それは《中国では、1911年の辛亥革命時に掲げられた、「建設」(近代化)と「統一」(統一国家の形成)という二大目標が、いまだ達成されていないとの認識があるために、現代を見つめる時は、「1911年の視点」になる》からなんだろうな、と。

 『陸将、海将と振り返る 昭和の大戦』小川清史、伊藤俊幸、桜林美佐、ワニブックスは『失敗の本質』が取り上げたノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦という6つの作戦の失敗の原因を新たな視点で掘り下げた本。

 このほか新刊では以下が面白かった。
『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』内貴健太、風媒社
『50万円を50億円に増やした投資家の父から娘への教え』たーちゃん、ダイヤモンド社
『はじめての日本国債』服部孝洋、集英社新書
『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤、文藝春秋

 旧刊では『社会学の歴史II』奥村隆、有斐閣アルマが本当に勉強になりました。『がん‐4000年の歴史』シッダールタ・ムカジー、ハヤカワは全ての方にご一読をおすすめします。

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『マンガ 清原達郎 わが投資術 3 市場は誰に微笑むか』

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『マンガ 清原達郎 わが投資術 3 市場は誰に微笑むか』清原達郎、講談社

 3巻で終わるのがもったいないないぐらい面白かった!株式投資をやっている方は必読。単行本『わが投資術』を書いた背景、キャリアがよく理解できるようになります。

 このマンガ版は単行本の『わが投資術』をなぜ書くにいたったのかというバックグラウンドをメインで描きつつ、清原さんが自身のキャリアの中で「これはいくらなんでも許し難い」と感じているような、とんでもない不正は後世のためにもキッチリ残しておく、という矜持が感じられます。

 この巻ではオリンパスの不正経理が取り上げられていました。不良債権を付け替える「飛ばし」は、山一証券倒産の引き金となりましたが、そうした操作はさすがにバブル崩壊後の規制で証券会社ができなくなり、そうなると証券会社などで「飛ばし」を専門にやってきた社員が一匹狼的な"渡世人"となって請けおうようになっていったらしいのですが、徐々にそのスキームも無理になっていき、最後にバレたみたいな話しだったのか…というのは勉強になりました。

 また、スルガ銀行の不正融資による不良債権問題なども一般投資家、株主をないがしろにするような話しだったのでスガル銀行とボカしていますが、わかる人にはわかるように載せています。二巻でも、社員の飛び降り事件もあった銀行再編関連では六菱、UBJとボカしていましたが、金融機関はさすがに闇が大きく、深そうです。

 こうした案件は広告でなりたっている新聞やテレビ、週刊誌では踏み込んだ「構造としての闇」として白日の下に晒すことは不可能です。ならば自分がキッチリ背景を書き残す、という感じでしょうか。

 ショートで勝負できなかったので気力、胆力の衰えを自覚して引退したのは皆んな大好きレーザーテックの件だったのかとか…という話しも興味深かった。ファンダメンタルズがどれだけ歪んでいようとも、市場のモメンタムと需給が狂気を孕んだとき、ショートポジションを維持するには常人離れした「気力と胆力(そして無限の胃薬)」が必要です。それを「自分の衰え」として冷静に受け入れ、引退の引き金にしたという告白は、稀代のファンドマネージャーの幕引きとしてあまりにもリアルで、凄みすらあります。

 あとがきでも記しているように山崎元さんもガンで亡くなっていますが、株式で大きく張って勝負するというのはストレスたまるんだろうな…と感じました。常に不確実性と対峙し、巨額の資金を動かすストレスは、文字通り「命を削る」行為なのでしょう。市場の「微笑み」の裏には、それだけの過酷なドラマがあるのだと改めて突きつけられます。個人的には「オレには無理だわ」というのが感想。

 引退後の続編も読んでみたいし、足元の日本株の乱高下や、日米の利上げ・利下げ局面をどう見ているのか、はたまた個別の案件を描くスピンオフも考えられるので、講談社の担当者には新しい企画を期待したい。

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May 27, 2026

『歴史のなかの貨幣 銅銭がつないだ東アジア』黒田明伸

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『歴史のなかの貨幣 銅銭がつないだ東アジア』黒田明伸、岩波新書

 本書は中国の銭が、日本を含めた東アジア世界に広がっていく様子を追いながら、中国の貨幣政策が、中国国内だけでなく周辺地域にもいかに大きな影響を与えたかを解き明かします。歴代中国王朝が鋳造した数千億枚に上る銅銭という小額通貨は海を越え、日本を含む中世東アジアの政治・経済・社会に巨大なインパクトをもたらしたのです。

 私たちは「貨幣とは国家が価値を保証するもの」と考えがちですが、中世の日本(室町時代など)は自前の公的な貨幣を作らず、お隣の中国(主として北宋)の「古銭」をそのまま流通させていました。各国政府の保証なしに、なぜこれほど広大な商取引の回路が成り立ったのか? 著者は膨大な史料渉猟(しょうりょう)から、それを支えたのは理論や権力ではなく、日々小銭を使って買い物をする一般庶民――「エンドユーザー」たちの圧倒的な信任(交換機能選好)であったと論じます。

 経済学的な観点からも「貨幣の流通量が減ると価格が下がる」といった貨幣数量説に反するような現象も史料渉猟によって明らかにしてくれます。「貨幣とは何か?」という議論を考える上でも、やや観念的な流通をスムースに成り立たせるためという理論ではなく、各国政府の保証なしに商取引の回路を成り立たせてきたのは小銭を使って買い物をする一般庶民「エンドユーザー」たちの信任だった、としています。

[マル経の貨幣理論、近経の貨幣数量説に反する歴史的事実の多さ]

 これまでのマル経・近経による常識によると、貨幣は「国家の保証」「労働価値の物神化」「数量による物価連動」で動きます。しかし、本書が明かす現実によると、貨幣を動かしたのは、国家の権力ではなく、名もなき庶民(エンドユーザー)の「使い勝手の良さ(交換機能選好)」でした。

 マルクスの交換理論において「貨幣の物神性」とは、人間が労働によって生み出したはずの貨幣が、まるでそれ自体に魔力的な価値や交換力が備わっているかのように錯覚される現象を指します。この現象は、人と人の社会的関係が「モノとモノの関係」として見えてしまうことに起因します。

商品は本来、人間同士の労働交換のプロセスによって価値が生まれ、それを媒介するのが貨幣と考えられてきました。これは商品の交換が直接、物々交換で行われず「貨幣」という特別な商品を介して行われることによって円滑化するからです。こうして貨幣が交換の基準として絶対化されると、その背後にある「人間同士の労働のつながり」が見えなくなってきます。結果として、「貨幣そのものが自律的な力で価値を生み出し、交換を成立させている」という幻想(物神崇拝:フェティシズム)が人々の間に生まれます。

 マルクスは資本主義社会においては人間が作り出した経済の仕組み(モノ)に、逆に人間自身が支配されてしまうという疎外の構造を鋭く批判した、という流れになります。

 個人的に貨幣の役割は価値尺度機能、流通手段機能、価値保存機能が貨幣の3大機能だと思ってきたのは、元々、マルクス主義の影響があったからですが、このうち歴代中国王朝数千億枚に上る銅銭を鋳造したものの、埋蔵されたり、溶かされて銅として再利用されてきた圧倒的な現実の積み重ねをみてみると、少なくとも貨幣の形で富を蓄えて将来にわたって価値を保ち続ける「価値保存機能」というものが、果たして貨幣の三大機能と呼べるのか、と個人的には怪しく思えるようになりました。

 また、モノやサービスの価値を測るモノサシとしての価値尺度機能にしても、銅銭は重いので、67枚の銅銭をヒモに通して一束にしていれば100枚とみなしていたという歴史の前には危うくなります(省陌・短陌)。

 また、近代経済学の基本中の基本の貨幣数量説とは逆に、農村や地域市場で流通する最小単位の「原子通貨」の流通の減少により物価が上がることもある、という史料には驚きました。

[中国の銅銭]

 中国の歴代王朝にとって、通貨政策の混乱はそのまま王朝の滅亡へと直結する鬼門でした。政府が私鋳(偽金造り)を取り締まり、経済をコントロールしようとしても、流通量が不足したり、あるいは素材である「銅」そのものの価値が高騰して鋳潰されたりと、政策は常に失敗と妥協の連続でした。

 中原では銅不足のため西晋で政府鋳銭はいったん途絶えました。南朝宋は五銖より軽い四銖銭の発行をもって再開しようと試みましたが長続きせず、523年の梁の武帝は鉄銭を発行するに至り、南朝は混乱します。一方、遊牧民族を支配層とする北朝は銅銭によらず、携帯に便利な布を基準とする行財政システムを構築しました。北朝の系譜を引き継いだ唐は開元通宝を鋳造しますが、中国歴代王朝は通貨政策の混乱と共に滅亡するのが常でした。

 政府が銭の私鋳を止めて経済をコントロールしようとしても、流通量が不足したり品質が安定せず信用を得られなかったり、素材価格の方が高くて溶かされてしまったり、なかなか上手くいかなかったというあたりも興味深い。

 そして、あまり深く考えられてこなかった市井の人々が暮らす上での交換機能選好こそが、スムーズに取引を成立させる原動力だったのかもしれないのです。売買する自由のある人がある程度の規模で集まれば、租税を賦課する権力の介在なしに、貨幣は自生する、と。彼らの間で価値が認知されれば素材価値は二の次となり、基底で貨幣として流通する。

 事実、日本を含む東アジアで流通していた銅銭の大多数は北宋の年号を鋳込んだ「古銭」で、それに頼って売買を行っていたわけです。日本でも最初は貨幣としてではなく梵鐘などの材料としての銅を必要としており、中国王朝の銅銭を軽視する政策も加わって銅銭の輸入が増加したのですが、やはり利便性が良いため、貨幣としての銅銭の需要も高まり次第に使われるようになりました。

[悪貨が良貨を駆逐する?]

 本書の後半で特に興奮させられるのが、日本がこの東アジア貨幣ネットワークの「主役」に躍り出るプロセスです。

 宋銭が多くの国で使われたのは、硫酸銅錬成が宋代の銅銭ストックを増大させたからです。しかし、元代の紙幣切り替えや明代の銅銭停止といった政策が銅銭を周辺国へ流通させました。やがて硫酸銅錬成を取り入れた日本が輸出した銅は各地で模造銭を生み、古銭で成り立っていた既存の経済秩序は動揺し、撰銭が行われるようになるが、古銭が鋳潰されて流通しなくなると、模造銭、悪銭が公然と流通し輸出されるようになります。

 16世紀ごろから旧来の宋銭、宋銭にやや似た青銅色の新通貨、一目で新しいとわかる新通貨など、ほぼ3段階程度の銅銭があり、それぞれの交換相場が形成されました。同じ銅貨でも1枚の価値が多層化。倭寇の拠点となった福建省は模造銭の中心地でもあったというあたりも初めて知りました。

 金や銀といった貴金属を素材に通貨を造る場合、素材への需給が通貨としての需給に大きな影響を及ぼすことはありませんでした。しかし、銅や鉄といった安い金属で通貨鋳造する場合は、素材への需給の変動が通貨の需給を逼迫させることがあったとのこと。15世紀から硫化銅精錬が始まった日本列島の銅生産増加は、そうした宋銭の素材としての商品価値を大きく下落させました。

 銅銭の「銘」は錫がないと綺麗に浮き上がらなかったのですが、日本で自前の貨幣が作られるようになったのは、錫山から安定した採掘ができるようになったからというのも驚き。以降、模造銭造りに邁進するわけで、安価な日本銅を原料として鋳造される模造銭に対して、古銭の通貨としての価値を守ろうとする動きが撰銭の本質であったというわけです。

 銅銭が劣化するとかえって信用され、新しく作った貨幣のほうが信用されなかったという歴史的事実はどう説明したらいいのでしょうか。

[中国の銅銭という銭の海に終止符を打った江戸時代から始まる近世]

 こうした国家のコントロールを超えた「銭の海」に終止符を打ったのが、日本の近世への移行でした。

 また、東アジアでは遠隔地との取引には、古くから絹がよく使われていたほか、米が通貨代わりになるケースも多く、近代日本では銭による貫高制から石高制に移行します。

 それまでの貫高制(銭ベースの経済)から石高制(米ベースの経済)への移行も含め、「中世から近世への転換」とは、国家が貨幣のコントロールを真に奪還するプロセスだったのだと、貨幣の視点から深く納得させられます。

 江戸初期、参勤交代制確立に必要な街道での円滑な銅銭流通のため、寛永通宝が大量に鋳造されました。模造銭輸出で銅が流出する朱印船貿易は禁止され、宋銭など外国の貨幣流通はやっと終焉を迎えることになります。戦国、織豊期までを中世、江戸期以降を近世というのは貨幣からもいえるのかな、と。

 このように少なくとも東アジアでは国家による保証は根本的問題ではありませんでした。それは日本だけではなく、他の周辺諸国でも同様だった、と。宋銭と似たようにグローバルに流通した西欧の通貨がオーストリアのマリアテレジア銀貨。アデンを中心とした紅海周辺やエチオピアではオーストリア本国で廃貨となった後も流通していたとのこと。

 本書を読むと、貨幣とは国家が一方的に価値を与えるものというより、人々が実際の取引のなかで「使える」と信じ続けることで成立する存在なのだと実感させられる。宋銭が中国王朝の盛衰を超えて東アジア世界を流通し続けた歴史は、そのことを雄弁に物語っています。

 貨幣とは、国家が上から一方的に価値を与えるものではなく、市井の人々が実際の取引のなかで「これは使える」と信じ、手渡し続けることで初めて成立する、きわめてボトムアップな存在なのです。宋銭が王朝の盛衰を超えて東アジアを巡り続けた歴史は、現代のデジタル通貨や金融システムを考える上でも、これ以上ない本質的な問いを投げかけています。

[目次]

 はじめに 貨幣を選ぶ人々

第一章 渡来銭以前 一二世紀まで
 銭の常識
 還流しない通貨
 原子通貨
 溶かされる銅銭
 良貨は駆逐されず
 一一世紀、硫化銅製錬の革新性
 二〇〇〇億枚の古銭

第二章 素材としての銅銭 一二世紀後半以降
 布・米遣いの平安日本
 過低評価される銅銭
 異朝の銭
 素材としての中国銭
 紙幣に追い出される銅銭
 絹の疋から銭の疋へ
 元朝の「紙幣本位」制
 海を越える銅銭
 銅銭を溶かす利益
 銭建て取引の普及から定期市へ
 素材なのか貨幣なのか
 函館志海苔の埋蔵銭

第三章 撰ばれる銅銭 一五世紀以降
 公式通貨消滅の一五世紀中国
 日本列島での硫化銅鉱開発
 東寺の「米価」は何を示すのか
 兵士と銅銭需要
 日本銅の登場
 模造銭ラッシュ
 銅銭の色が決め手 古銭と新銭
 撰銭という問題
 東アジアに広がる撰銭
 基準銭と通用銭
 日本新鋳の銭
 純銅の和製模造中国銭 きわだつ永楽銭の多さ
 宋銭で取引される明代
 古銭模造と倭寇 結節点としての福建南部
 開元銭専用の南京
 一六世紀の永楽銭
 ベトナムにおける中国銭流通
 銅銭流通の重層化
 古銭の過高評価
 多層化する環シナ海の銭貨

第四章 ビタ銭の時代 一五七〇年代以降の日本列島
 倭寇の終焉
 撰銭令の変化
 米遣いの復活
 精銭の空位化
 ビタ銭の登場
 列島産新銭としてのビタ銭
 貫高制から石高制へ
 公認されたビタ銭
 領国内の公式鋳銭
 領国製古銭輸出

第五章 古銭の退場 一七世紀以降の東アジア、自国通貨発行権力の始動
 真鍮銭の登場
 銀代替のための鋳銭
 良貨万暦銭の挑戦
 一六一一年、南京銭騒動
 北辺防衛のための鋳銭
 史上最大の古銭溶解
 ベトナムの日本製古銭ブーム
 街道整備と寛永通宝鋳造
 寛永銭鋳造再開とビタ銭の消滅
 最後の宋銭流通
 東アジアにおける自由鋳造の終焉

第六章 貨幣システムと渡来銭
 英領ベンガルの銅貨
 小額通貨の大問題
 補助通貨と原子通貨
 銅銭の帝国
 民の便のための通貨
 商品としての銅銭
 東アジアの銀貨幣
 マリア・テレジア銀貨 もうひとつの渡来古銭
 物価と通貨
 通貨と市場

 あとがき

 主要参考文献

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May 17, 2026

『増補新版 歌舞伎 家と血と藝』中川右介





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『増補新版 歌舞伎 家と血と藝』中川右介、講談社現代新書

 歌舞伎は文化的な「藝」の世界であると同時に、社会的な「家」と生物学的な「血」によって支えられています。本書は、その構造を江戸時代から現代まで一望にしており、旧版も読んでいましたが、再読となる部分も含めて改めて面白かったと感じます。

 考えてみれば、旧版の出た2013年からこれまでに、沢瀉屋の団四郎夫妻が女性セブンの記事をきっかけにして亡くなり、猿之助は廃業こそしていないもののまだ舞台には復帰できず、長いコロナ禍があり、福助の歌右衛門襲名がなくなり、児太郎の将来にも不透明さが生じ、華やかな高麗屋三代襲名もあったものの、藤十郎、吉右衛門、左團次らも世を去ってしまいました。しかし、何より十三世團十郎、八代目新之助が誕生し、菊五郎も二人になり、五代目歌六が人間国宝になったほか、時蔵など萬屋ファミリー(萬壽・時蔵・梅枝)の大出世がありました。これらを全て網羅するためには、頁数46%増の651頁という大増補にも十分納得できます。

[非政治的な女帝・玉三郎の裏で激化した、家の政治]

 13年前から振り返ってみると、個人的に一番の驚きは萬屋の躍進です。当代の六代目時蔵は今年の四月大歌舞伎で赤姫の代表である『本朝廿四孝』の八重垣姫をやったかと思ったら、團菊祭五月大歌舞伎の『六歌仙容彩』では小野小町をやり、さらに六月は三姫の雪姫を再演するなど女形の大役をまるで先代の歌右衛門のようにやり続けています。これはとても13年前には考えられないことでした。

 旧版の感想では9代目福助の7世歌右衛門襲名が発表されていたこともあり《6世歌右衛門の兄弟である芝翫さんの息子が継ぐという、久々の血のつながった成駒屋になるんですねぇ…酒飲みということだけでも、応援しちゃいたくなるんですが、あまりにも偉大な存在だっただけに、まあ、マイペースでやってもらえればいいと思います。
 偉大な5代目の遺言によって福助の名跡に空白はあってはならないということで、今の福助が歌右衛門襲名にあわせて、息子の児太郎が福助を継ぐそうですが、女形として大丈夫なのかな…とガッチリした体格を思い浮かべながら心配してしまいます》と書いたのですが、まさかの歌右衛門襲名の延期…。

 考えてみれば福助や児太郎がアクシデントに見舞われず無事に歌右衛門、福助を襲名していたら、時蔵にこんな役は立て続けに回ってこなかったと思います。だから、やれる時にやっておき、新興の萬屋を大きくしておこう、ということなのでしょうか。健康であることの意味、木挽町で立役を張ることへの絶対性、それを巡る家々の戦いのすさまじさを改めて感じてしまいます。

 旧版には《昭和の名優たちの息子は、誰も玉三郎を凌ぐことができなかったということを意味する》時代だと書かれましたが、六世歌右衛門から独占的に引き継いだ大役を他の女形に開放したあと、非政治的な玉三郎が幽玄の世界に浸っている間に、五世、六世の歌右衛門のような傑出した個人ではなく、集団的な政治が激化していたのかもしれません。

 時蔵一家は3代目家六から出ていますが、養子の2代目時蔵が義太夫を習っている女性の元に3代目家六が挨拶に出むいたら、なんとついでに17世勘三郎をつくってしまい、年の離れた兄となった初代吉右衛門がそれを苦々しく思ったなんていうエピソードを改めて思い起こしてしまいます。高麗屋もそうですが、結局のところ、子孫に恵まれた家は強い。

 現五代目歌六は人間国宝にもなっていますが、数々の浮名を流した鴈治郎系もしっかり子孫を残しているから、今後、栄えていくかもしれません。

 大きなスキャンダルに巻き込まれたものの、いずれ團子が猿之助を継ぐであろう澤瀉屋はさておき、新版が出たこの時点で心配になるのは松嶋屋。15世孝夫直系の千之助は2023年10月を最後に歌舞伎の舞台から遠ざかったままです。千之助はすでに26歳。11世仁左衛門が作った片岡少年俳優養成所から阪東妻三郎(バンツマ)や片岡千恵蔵が生まれたのですが、13世仁左衛門に見出された愛之助を含め松嶋屋の今後を考えると、血筋だけでは家の継承が保証されないことを改めて感じます。

[七世幸四郎のDNAが支配する現代歌舞伎]

 この間、成田屋、高麗屋が親子、三代で襲名披露して、2026年5月には紀尾井町の音羽屋も辰之助を襲名しましたが、この團十郎、幸四郎、松緑は全て七世幸四郎の男子直系。

 13年前は四代目猿之助の急成長と18代目勘三郎の急死という大きな動きがありましたが、増補新版では一般家庭出身の七世幸四郎の男系子孫たちがいつの間にか歌舞伎界の中心を占めるようになり、その子どもたちが超御曹司として扱われる時代になりました。

 七世幸四郎は一般家庭出身ということで若い頃に苦労したこともあり、門閥排斥を唱えていたのを考えるとなんとも皮肉な状況かもしれません。

 こうした状況を踏まえると、著者が本書を次のように結ぶのもよく分かります。

《團十郎の世襲宣言

 團十郎は五月と六月とも口上に出て、毎日異なる八代目菊五郎とのエピソードを話して話題になった。その一方、どの日も自分と八代目が同年生まれであり、息子たちも同年生まれだと紹介し、子供たちが、十四代目團十郎と九代目菊五郎になるだろうとも語った。

 それは、この團・菊両家を頂点とする歌舞伎が、今後も血によって家と藝を続けていくという宣言でもあった。

 かつて―――團十郎の曾祖父である七代目松本幸四郎は「門閥の御曹司だとか、公達だとかいわれる子役たちが、さして藝もよくないのに役の上でずんずん出世して行くのが癪にさわるようになってきて、いつか私は俳優の門閥排斥論を吐いたりするようになっていたのです。門閥の御曹司たちの全部が全部そういうわけではなく、実際に優れた天分があって出世される方もたくさんあるのですが、なかにはまた目に余るような人もありました。生意気盛りの私の目には、そういう人ばかりがうつるのです」と自伝で語った。

 当代の團十郎や菊五郎、そして新之助や菊之助は、はたして「さして藝もよくないのにずんずん出世する門閥の御曹司」なのか、それとも「実際に優れた天分があって出世される方」なのか。後者であれば、歌舞伎はまだまだ続いていく。》(p.632-)

 この問いに対する答えはもちろん出ていません。しかし、まさにその行方を見届けることに歌舞伎を観る醍醐味もあるのでしょうし、歌舞伎が「血」に支えられながらも、やはり「藝」によって正当化される世界でもあることを、本書は改めて教えてくれます。

[目次]

第一部 劇聖とその後継者たち―明治から大正(歌舞伎史との並走―市川團十郎家 その一;養子と実子―尾上菊五郎家 その一;東西分裂と襲名争い―中村歌右衛門家 その一;兄弟の明暗―片岡仁左衛門家 その一;フランス系アメリカ人の子―市村羽左衛門家・坂東彦三郎家)
第二部 新興と凋落―大正から昭和戦前(血統のない家―中村歌右衛門家 その二;歴史は繰り返す―尾上菊五郎家 その二;周縁からの出発―中村吉右衛門家 その一;劇界の毛利三兄弟―松本幸四郎家 その一;三人の二代目候補―中村鴈郎家 その一;孤児たちの苦難―守田勘彌・坂東三津五郎家 その一;大空位時代―市川團十郎家 その二;異端の一族―市川猿之助家 その一)
第三部 神なき時代―昭和戦後(二度殺された役者―片岡仁左衛門家 その二;早過ぎる死―市川團十郎家 その三;第二の帝政―中村歌右衛門家 その三;王朝交代―尾上菊五郎家 その三;三代目同時襲名―松本幸四郎家 その三;再び、帝劇へ―松本幸四郎家 その二;分裂した一族―中村吉右衛門家 その二;古くて新しい家―中村吉右衛門家 その二;二組の三兄弟―片岡仁左衛門家 その三;復権―守田勘彌・坂東三津五郎家 その二)
第四部 新たなる希望―平成から令和(相次ぐ悲劇―市川團十郎家 その四;菊五郎家と松緑家の明暗―尾上菊五郎家 その四;三兄弟の誰が継ぐのか―片岡仁左衛門家 その四;駆け抜けた十八代目―中村勘三郎家 その二;短命の家系と、もうひとつの家系―守田勘彌・坂東三津五郎家 その三;恩讐の彼方―市川猿之助家 その三;破棄された襲名ルール―中村歌右衛門家 その四;播磨屋と萬屋の近くて遠い関係―中村吉右衛門家 その三;二代・三人の四回の襲名―中村鴈治郎家 その二;二度目の三代同時襲名―松本幸四郎家 その三;新しい團菊―令和七年間の襲名)






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May 16, 2026

『世界史とつなげて学ぶ中国全史』岡本隆司

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『世界史とつなげて学ぶ中国全史』岡本隆司、東洋経済

 『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』が面白かったので、こちらも読むことに。中国近現代史の専門家である著者が、気候変動とそれにともなう民族大移動の連鎖などを手がかりに、黄河文明から現代中国までの中国史を、王朝の交代劇(点)ではなく、気候や経済という大きな波(線)で捉え直した一冊です。

 本書は口述筆記を書き起こしたもので、勢いと分かりやすさを重視した、としていますので、感想も印象に残ったところをざっくり紹介します。

[境界線から生まれた文明、気候が変えた帝国]

 中国は海岸線が比較的短く、内陸部は乾燥しています。農耕民は繊維を、砂漠やステップに暮らす遊牧民は動物の皮を用いて衣服を作っていましたが、互いに持たないものを交換する必要から交流地帯が形成され、そこから黄河文明が生まれた、という乾燥地帯と湿潤地域の境界から文明は生まれる→持っていないものを交換できる仮説を紹介してくれています。互いに持たないものを交換する境界地帯から黄河文明が生まれたという仮説は刺激的です。

 著者は遊牧民は敬老の精神がなく、父親が死んだ後にその妻(実母を除く継母など)を息子が娶る、あるいは父親の妻の姉妹を娶るといった婚姻慣習は、「レビレート婚(収継婚)」として知られていますが、奥州藤原氏でも父の妻を息子が娶った例があるというのは遊牧系の考え方があったのかな、とか考えてしまいました。日本史の謎が中国史の視点で透けて見える一瞬だったかもしれません。

 ローマと漢の成立、その崩壊は共に気候変動と遊牧民の移動に連動しているというのもスケールの大きな話しで、後漢崩壊後、三国時代を経て五胡十六国をまとめたのは最も野蛮だった鮮卑だが、鮮卑もテュルクにやられた、という流れもこうやって整理してくれたのは初めて読みました。

 隋と唐で初めて中国は外部に影響を与えたというのも初めて知った見方でした。また中国史はこのあたりから南北対立から南北協業の時代に入ったとしています。

 唐と宋の間の大きな社会的変動は唐宋変革と呼ばれます。石炭が使われ始め、江南の湿地帯で排水と干拓が行われたことによって米の収穫量が劇的に増加。人口も増えて経済が活性化して貨幣が流通するようになり、商業を行う小さな都市(鎮とか市)が増えました。

 澶淵(せんえん)の盟は、1004年に北宋と遼の間に結ばれた盟約で、国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を歳幣として送ることなどが決められました。宋はその間の平和を得て、高い経済力を元に繁栄が築かれ、その後、ウィグル人が商人としてモンゴルとの停戦交渉などにもあたるようになった、といいます。

[明代の銀需要が世界を繋ぎ、日本の鎖国を招いた?]

 世界帝国をつくったモンゴルの元も寒冷化によって衰退しました。元は収入を商人への課税に頼っていましたが、寒冷化によって農作物の収量が減り、商業が振るわなくなり、税金もとれなくなった、と。

 この反省から明は貨幣と商業を排除したため、貨幣経済から現物経済に変わって(後退)しまいます。さらに明は北の出身者を科挙で優遇したので江南出身者たちは離反、郷紳も増えていくというのは、清末まで続く流れの源泉はここにあったのか、と思いました。

 しかし、明代も後半になると江南が綿花と生糸の大生産地になり、その取引のために貨幣が必要になりますが、明は貨幣を発行しなかったため、人々は銀を貨幣の代わりに使用し、世界中の銀が中国に流れ込んだ、と。

 日本が江戸期に鎖国したのは金銀を取り尽くした、という面もある、というのも新鮮な指摘でした。江戸幕府は必需品の国内生産を目指しますが、ヨーロッパは植民地経営と機械化を通じて世界展開を図るという違いも分かりやすい。

[現代中国のルーツを構造で読み解く]

 清では東三省への移民が増えたというのももっともな指摘で、清朝末期から南北格差より東西格差が激しくなったそうです。

 清崩壊後の国民党、中国共産党の指導者は全て都市出身者だったが、中共は農村に追い込まれたため、農村を重視する方向に転換したという指摘もハッとしました。

 これも簡単には検証できない話しかもしれませんが、三大宗教は全てアジア発なのは多様性をまとめるためであり、そこから政治と宗教の分離は難しいという話しも興味深かったです。

 日本史は中世があるので西洋史は理解しやすいが中国史などアジア史にはいまひとつ理解しにくい部分があるというのも、日本史ではいかに中世史が特権的な扱いを受けてきたのかという話しにも通じると感じました。

 気候変動や民族移動、貨幣経済といった大きな視点から中国史を眺めることで、王朝交代の背後にある構造が見えてきます。個別の出来事を暗記するだけでは見えない中国史のダイナミズムを、世界史とのつながりの中で理解できる刺激的な一冊でした。

【主な内容】
はじめに
第1章 黄河文明から「中華」の誕生まで
第2章 寒冷化の衝撃―民族大移動と混迷の300年
第3章 隋・唐の興亡―「1つの中国」のモデル
第4章 唐から宋へ―対外共存と経済成長の時代
第5章 モンゴル帝国の興亡―世界史の分岐点
第6章 現代中国の原点としての明朝
第7章 清朝時代の地域分立と官民乖離
第8章 革命の20世紀―国民国家への闘い
 結  現代中国と歴史
あとがき
文献リスト

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『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』國分功一郎

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『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』國分功一郎、新潮新書

 コロナ禍での東大で、試験が終わった後に高校生も交えて行われた特別講話を元に、『暇と退屈の倫理学』を深化させた論考です。

 『暇と退屈の倫理学』の議論がしなやかで素晴らしいと思ったので読んでみました。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。目的は手段を正当化するという側面があるので、自由は目的に抵抗する、みたいなことが結論でしょうか。

[不要不急が奪ったもの]

 議論のたたき台はコロナ禍で行われた自由の制限。イタリア人の哲学者で著者も直接教えを請うたアガンベンは、コロナ禍での制限は人間の本質を損なうと徹底的に批判します。感染対策を目的とした措置は人間の生を単なる生物学的なあり方(剥き出しの生)へと縮減してしまう、と。そうした制限は人間的なものすべてを失わせ、剥き出しの生だけが立ち上がってくるようになってしまう、とまで敷衍します。もし、剥き出しの生だけが残ったら、それを失うことへの恐怖から人間同士も分断されてしまう、と。

 表現、信教、結社、職業選択など様々な自由の権利はあるのですが、移動の自由の制限は、死刑と罰金刑の間にある全て刑罰のグラデーションに関係するほど、重要な意味を持つという問題設定はハッとさせられました。

[移動の自由こそが支配を拒む]

 ここでマルクスの論考が紹介されているので、少し詳しくみていきます。マルクスは『資本論』第1巻、25章で、移動の自由は人間が不当な支配から逃れるための根本条件だということを、イギリス人資本家であるピール氏の逸話をもって説明しています。《ピール氏は嘆いているが、彼は五万ポンドにも上る生活手段と生産手段をイギリスから西オーストラリアのスワン・リバーまでもっていき、さらには用意周到にも、労働者階級の男女、および児童を三○○○人も連れて行ったのに、目的地に到着したときには、「彼のためにベッドを用意し、川から水を汲んできてくれるような召使いの一人もいなかった」。気の毒にもピール氏は、いっさいを周到に準備したにもかかわらず、イギリスの生産関係をスワン・リバーに輸出することまでは念頭になかったのだ》(『資本論』今村仁司ほか訳、筑摩書房、p.578)。不幸なピール氏は、なにもかも用意したが、連れてきた労働者たちは移動の自由を行使して逃げ出して、全てを失ったわけです。

 こんなに重要な移動の自由を簡単に手放してしまうと、やがて行政権力に全ての権利を売り渡してしまうのではないか、という問題提起がひかります。さらに、ナチスの問題は行政機関が立法権をもつことであり、このままいけば、我々も再びそうした例外状態に慣れてしまうリスクが浮上するのではないか、と議論を展開していきます。著者が実はカトリック的な保守的な考え方もあるのではないかと思ったというアガンベンは、死者の権利という概念から埋葬の制限にも従ったカトリック教会も「教会は教会の役割を果たせばいい。にもかかわらず、なぜ教会は科学に侍女として仕えているのか」と批判しているのは面白いと感じました。

[遊びと浪費が人間を取り戻す]

 さらに当時、さかんに言われた「不要不急の外出を控えましょう」という言葉は、社会があらゆるものを「目的」に還元し、目的から逸脱するものを許さない傾向を象徴しているのではないか、と批判します。目的が手段を正当化し、目的だけしかない社会では、過酷で空虚な生活しか残らないのではないか、と。

 そこで浮上してくるのが「遊び」の重要性。目的と手段のシステムから距離を置くために必要なのは、消費に対置される「浪費」であり、余裕としての「遊び」だ、と。贅沢は本質的に目的からの逸脱があります。食事するのは栄養を取るためであり、生を再生産するのが目的ですが、栄養摂取をしていれば、人間は確かに生存できますが、我々が本当に豊かさを感じるのは、目的をはみ出た部分ではないか、と。だから「資本は、現状に対して疑問を抱き、何事かに気づき始めた人間を、これまで通りの消費社会の論理に連れ戻そうとするのです」と著者は語ります。

[民主主義の形骸化]

 後半で語られる目的化される社会像も興味深かったです。著者は、地元の東京小平市で、都道の建設に関する住民投票を求める運動に参加しました。自由に参加するという形式の運動自体も楽しかったということで、その体験も本の内容を裏付けているのですが、さらにはナチスに権力を売り渡したワイマール的な危うさを我々の社会が抱えている、というところにまで話しを発展させていきます。

 この運動は数十年前に東京都が計画した道路整備計画が突如浮上したことに対して、それは必要ないんじゃないかといった住民の訴えがことごとく退けられたという顛末を辿ります。

 日本では、道路整備を含むインフラ計画などの具体的な政策について、行政側の主導が強く、議会は追認機関になりがちだという批判もあります。政治的決定の重心が国政では、法律的な規定のない内閣の閣議決定、地方政治では首長の特別職・参与などのアドバイザーと官僚に移っています。国政でも地方でも議会は存在し、手続きも行われていますが、本当に重要な判断はすでに行政内部で終わっているというのが現状です。

 これは三権分立という看板の裏で、実質的には『行政独走』の状態にあるのではないかと元の議論にもつながってきます。だから、本書の結論は、目的に抗するところにこそ人間の自由がある、というあたりなのでしょう。

 ガンジーの、我々が主張等をするのは「世界によって自分が変えられないようにするため」だという言葉は印象的でした。

 コロナ禍をきっかけに、移動の自由、行政権力、目的化される社会、そして「遊び」の意味まで考えさせる一冊でした。シリーズ哲学講話の二巻である 手段からの解放 も読んでみようと思います。

目次
第1部 哲学の役割―コロナ危機と民主主義(コロナ危機と大学、高校;自己紹介;近くにある日常の課題と遠くにある関心事;自分で問いを立てる;ある哲学者の警鐘 ほか)
第2部 不要不急と民主主義―目的、手段、遊び(前口上;日本では炎上しなかったアガンベンの発言;「不要不急」;必要と目的;贅沢とは何か ほか)

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May 15, 2026

『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』原武史

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『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』原武史、岩波新書

 『昭和天皇拝謁記』は、占領下を吉田茂内閣とともに歩んだ田島道治宮内庁長官と昭和天皇とのやり取りのメモと日記や書簡などをまとめ、岩波書店から刊行された資料集。2021~2023年にかけて刊行されましたが、全7巻という大部で、一般の読者にはとても読み通せない分量です。それを徹底的に読み込み、ダイジェストして紹介してくれたのが本書です。

 口数が少なく、会話もぎこちないといった昭和天皇のイメージは完全に覆され、饒舌で論理的なしゃべり口には驚かされます。秩父宮、高松宮など兄弟皇族との確執、不満も隠さなかったことや、皇太子(現上皇)を「東宮ちゃん」と呼ぶあたりも新鮮でした。

[吉田茂首相との密接な関係と、政党政治不信]

 とりわけ印象的だったのは、著者の「吉田政権は昭和天皇抜きでは考えられない」という見解でしょうか。常に天皇への上奏(報告)を怠らず、「臣茂(しんしげる)」という認識のあった吉田首相と昭和天皇の間にどのような話しがあったのかは、直接の記録はありません。しかし、憲法問題や独立、再軍備について宮内庁長官へ意欲的に語る天皇の姿からは、吉田首相へも強い影響を与えていたことが容易に推察できます。驚くべきは、昭和天皇が戦前・戦後を通じて「政党政治」に強い不信感を抱いていた点です。戦後の保守合同(自由民主党の結党)の際、なんと社会党右派までもが参加する「大連立」のような形を期待していたという事実は、天皇の独特な政治観を物語っています。

[秩父宮との確執と2.26事件の謎を追う鉄道ダイヤ]

 2.26事件の時の秩父宮の振る舞いに関しても興味深い。昭和史家の保坂正康さんが現上皇に「私は秩父宮が青年将校に担がれていたというのは間違いだと思います」と伝えたところ「そうですかぁ」と疑問を呈するような言い方をされたという話しを盛り込んでいますが(p.68-)、原武史さんは『歴史のダイヤグラム』という著書でも、この問題を扱っているようです。

 2.26事件が起きた1936年2月26日、秩父宮は青森県・弘前の歩兵連隊の大隊長でした。これは青年将校から引き離したいという昭和天皇の意向だったようですが、事件後、すぐに秩父宮は青森に出て、午後10時発の常磐線回り上野行きの急行に乗ります。翌日午前10時25分に東京に着くのが最も早く上京できるルートでしたが、最初は奥羽・羽越・信越本線回り大阪行きの急行に乗ろうとしたそうです。途中、水上からは皇国史観を進講したこともある平泉澄東京帝国大学教授が乗り込み、高崎までの約1時間半にわたり密談したそうです。平泉は決起部隊に肩入れしていたという説もあり、原さんは「そもそも、秩父宮が事件直後に上京しようとした真の理由すらわかっていない」とした上で、秩父宮が迂回ルートを通ったのは、平泉に会う必要があったのではないかと推測しているようです。

[「米国へのグチ」と、今なお残る沖縄への視線]

 太平洋戦争に関しては、もう軍部を押さえられないので、米国が満州事変の時にもっと強く出て欲しかったと恨み言を語っているのも興味深かった。この時、米国はスティムソンノートを発するに留めましたが、経済制裁をしてもらいたかったと「勝手なグチ」を述べます(p.65)。鴨緑江でやめておけば良かったというのもホンネでしょう。

 昭和天皇は戦後の米国の対日政策を高く評価していますが、「奄美、沖縄がなくなると徳川以下になる」という感想も持っていたのには改めて驚かされます。

[「象徴」となっても、自己認識は「国家元首」]

 戦後、新たな日本国憲法が制定され、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」とされましたが、昭和天皇は自身の天皇観を根本的に変えておらず、基本的には国家元首であると認識しています。旧憲法改正の必要はなく、旧憲法でも新憲法と同じ精神でやったとしており、その中で第9条には不満で改正と再軍備の必要性を宮内庁長官に説いています。さらには戦前にできなかった「全国巡幸」を通して「全ての国民に慕われる儒教的天子・君主」としての自己認識を深めていきました。

 昭和天皇は神武天皇などの伝説について、史実に反するし歴代天皇の式年祭も史実に基づいたものではないと考えており、国民全体がキリスト教に改宗するなら天皇もキリスト教に改宗してよいと思っていたほど。それほどキリスト教には惹かれつつも十字架や復活が事実ではないのと同じだとみていた、というあたりも興味深かった(p.196-)。

[複雑で、矛盾に満ちた「人間・昭和天皇」]

 ヒステリックで二重人格的なところもある母である皇太后への恐怖感。弟である秩父宮、高松宮との戦中の早期講和や天皇退位を巡る対立と確執と、戦後の三笠宮の不満なども赤裸々。秩父宮の発言が対GHQで問題になった時に御殿場の秩父宮邸と東京を田島が往復するくだりで、当時、国府津~御殿場間の列車がどう運行されたかなどを調べ、国鉄に特別列車を要請したのではないかのあたりは『歴史のダイヤグラム』の著者である鉄道マニアらしさがあらわれています。三笠宮は明治天皇の公孫ではなかった、という昭和天皇のこだわりには驚きました。

 また、生理も含めた一族のリアルな日常の紹介は、日経の記者として宮内記者会に所属し、昭和天皇の病状報道に従事したあたりのジャーナリスト感覚を感じさせてくれます。皇室行事は「血のケガレ」を嫌い、日程に制限が生まれれば、プライベートな情報が公になってしまう面もあるとのこと。

 「朝鮮人学校はつぶした方がいい」という考え方は、1910年の韓国併合は正しかったのであり、満州に進出してからおかしくなったとの認識にもつながるのでしょう。アジア太平洋戦争での反省はあまりなく、全ては「時勢」のせいだと考えていたが南京事件について当時から薄々聞いていたが、後になって詳細を知り、本当にひどいことが行われたので反省して繰り返さないようにしなければ、とも述べています。

 戦後憲法の下で「象徴」とされた昭和天皇が、実際にはどのような自己認識を持ち、どのように政治や歴史を見ていたのか。本書は、その複雑で矛盾に満ちた実像を、膨大な史料を通して鮮やかに描き出しています。

[目 次]

序 章 『昭和天皇拝謁記』とは何か
 あらわになった昭和天皇の肉声
 「拝謁記」が書かれた時期
 『拝謁記』の読みどころ
 本書の構成

第1章 天皇観
 退位もあり得ると考えていた
 退位しないと再び立場を変える
 「おことば」での決意表明
 過剰な警備に対する批判
 巡幸と一般参賀
 天皇の象徴観
 教育勅語はあったほうがよい

第2章 政治・軍事観
 天皇の民主主義観
 政党政治に対する不信感
 保守政党の大同団結を提言
 社会党右派への期待
 議席ゼロになっても安心できない共産党
 後期水戸学のキリスト教認識との類似点
 朝鮮人学校はつぶした方がいい
 再軍備は絶対に必要

第3章 戦前・戦中観
 時勢には逆らえない
 張作霖爆殺事件と満州事変
 二・二六事件の忌まわしい記憶
 日中戦争と太平洋戦争
 米軍は空襲の標的を定めていた
 条約の信義を重んじたから戦争終結が遅れた
 ソ連参戦が戦争を終わらせた

第4章 国土観
 どこまでが日本の範囲か
 北海道に対する認識
 九州に対する認識
 沖縄に対する認識
 内灘や浅間山を米軍に提供すべき

第5章 外国観
 米国の評価すべき点
 米国の批判すべき点
 天皇の英国観
 天皇のソ連観
 天皇の中国観
 天皇の朝鮮半島観

第6章 人物観1――皇太后節子
 意見が違う
 「虫の居所」によって違ったことを言う
 時流におもね、話し上手を好む
 皇太后が見た天皇
 怖くて宮中服の廃止を言えない
 蚕糸業視察はやめてほしい
 大正天皇との仲が悪かった
 皇太后の遺書の謎1――「家宝」とは何か
 皇太后の遺書の謎2――秩父宮への言及と一〇月二二日という日付
 ケガレに厳格

第7章 人物観2――他の皇族や天皇
 皇后をどう見ていたか
 皇太子明仁に対する不安
 秩父宮に対しては同情的
 戦後も終わらない高松宮との対立
 三笠宮は我がままに育った
 正仁親王がキリスト教の信仰をもってもよい
 少ない明治天皇と大正天皇への言及

第8章 人物観3――政治家・学者など
 マッカーサーとの会見
 吉田茂に対する相反する感情
 鳩山一郎と岸信介に対する批判
 近衛文麿よりも東条英機を評価
 南原繁・清水幾太郎・平泉澄への否定的な評価

第9章 神道・宗教観
 皇大神宮のアマテラスによる「神罰」
 「祖宗と万姓に愧ぢる」
 宮中祭祀は宗教でないが宗教性はある
 明治神宮と靖国神社
 キリスト教への改宗の可能性
 「御寺では礼拝はせぬ」

第10章 空間認識
 皇居は移転せず、御文庫をそのまま使う
 皇居前広場を活用すべき
 赤坂御用地と新宿御苑
 那須御用邸・沼津御用邸・葉山御用邸
 軽井沢と箱根
 東京大学・京都大学・結核療養所
 お召列車という空間

終 章 『拝謁記』から浮かび上がる天皇と宮中
 天皇は何を信じていたのか
 イデオロギーとしての「反共」
 関連資料から浮かび上がる一九六〇年代の宮中
 昭和天皇が残した「負の遺産」

 あとがき

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