November 20, 2022

『スペイン史10講』立石博高

71z17vekizl

『スペイン史10講』立石博高、岩波新書

 月組公演『ELPIDIO(エルピディイオ)』は20世紀初頭のマドリードを舞台にしているということで、岩波ジュニア新書の『情熱でたどるスペイン史』池上俊一を読んだんですが、さらに少し詳しく、ということで十講シリーズの近現代のあたり(8-10講)もおさらいしてみました。

 大きくとらえるとフランス革命とナポレオンによる征服などを経て王権はゆらぎ、スペイン国内は伝統主義と自由主義に分断され、フランコまで続くプロヌンシアミエント(軍事蜂起)の時代となる、といいます。

 1875年にイギリスから戻ったアルフォンソ12世はカノバスに王政復古体制の体制づくりを委ね、カノバスは保守党を結成。自由主義者はサガスタの元に自由党を結成。1910年代までカシーケ(大土地所有者のボス)が仕切る二大政党制を実現しますが、反体制派は排除されました。

 一定程度、王政は安定しますが、1898年の米西戦争に敗れてキューバ、プエルトリコ、グアム、フィリピンの植民地を一気に喪失。国内ではカタルーニャ、バスク、ガリシアなどで地域ナショナリズムが高まります。

 第一次世界大戦は中立を維持しましたが、バルセロナでは労働争議が檄化、23年にかけて「銃撃の時代」を迎え、アンダルシアでは1918-20年に「ボルシェビキの三年間」を迎えたほど。こうした混乱の中、1923年にプリモ・デ・リベーラがクーデターを起こし、モロッコの反乱も毒ガス投下などで鎮静化させます(この毒ガスは第一次大戦期からのドイツ軍の協力によるものでした『シリーズ歴史総合を学ぶ1 世界史の考え方』岩波新書、p.250)。しかし、軍内部のアフリカ派と本土派の対立を解決できず30年1月に辞任。31年にはアルフォンソ13世は退位、スペインを離れます。

 1931年にはマドリーでサモラを首班とする革命委員会が第二共和制政府を組織。カタルーニャも独立宣言しますが、自治政府で妥協。民衆は修道院などの宗教施設を焼き打ちし、保守派は反感を募らせますが、選挙では共和主義者と社会主義者が過半数を占め、進歩的な新憲法を可決。サモーラは大統領となり、33年までアサーニャ首相による「改革の二年間」で諸改革がすすめられますが、右派は反発、左派は失望。左右対立の治安悪化で辞任した後の選挙では右派が勝利。この「暗黒の二年間」で政権を離れた左派は急進化。街頭での対立が繰り返されます。

 36年の総選挙では人民戦線がわずかに勝利、再びアサーニャが組閣するもサモーラ大統領が解任され、政治家400人が暗殺されるなど混乱。地方に左遷させられていた右派軍人はクーデターを準備。反乱はモロッコで開始され、内戦に突入。

 内戦では両陣営とも支配地域で「パセオ」(散歩)、「サカ」(引きずり出し)と呼ばれる逮捕と銃殺が横行。6800人以上の聖職者を含む50万人が犠牲者に。さらにカタルーニャでは「内戦中の内戦」と呼ばれるバルセロナ五月事件が発生(宙組公演『Never Say Goodbye』で描かれていました *1)。革命実現を優先するPOUM(反スターリン主義の共産党)は非合法化されますが、内戦継続を唱える親ソ派のネグリンは国際的にも孤立。共和国陣営の敗北は不可避となり、無条件降伏。フランコが元首となります。

 フランコはプリモ・デ・リベーラの息子が組織したファランヘ党と王党派を合体させた「新ファランヘ党」の党首、陸海空軍の総司令官も兼ねた独裁者に。第二次大戦は国土疲弊のため不参加、中立を宣言しますが、独ソ戦では義勇兵団「青い師団」を派遣。連合国側が優位になると中立に復帰しますがファシスト、ナチスが敗北で国際的孤立は高まり、それは戦後もしばらく続くことになります(ちなみに、IOC会長のブランデージはヒトラーの、サマランチはフランコの熱心な支持者でした)。

*1  スペイン内戦の中で発生したバルセロナの内ゲバは複雑ですが、主要なプレーヤーはPSUC、POUM、CNTです。

PSUC (Partido Socialista Unificado de Cataluna) はカタルーニャの統一社会党。労働組合である UGT (Union General de Trabajadores) の政治機関で、コミンテルンに所属していたスターリン主義者の集まり。

POUM (Partido Obrero de Unificacion Marxista) は、反スターリン主義の共産党。議会制民主主義を志向。「労働者が軍隊を支配しなければ、軍隊が労働者を支配する。戦争と革命は不可分である」とジョージ・オーウェルが『カタロニア賛歌』で書いていたみたいなことを目指していた理想主義的なグループ。

アナキスト系の労働国民連合であるCNT(Confederacion Nacional de Trabajadores)は労働者の管理を目指し、工場接収を熱心に進めた。やがて戦争に勝つことに集中したいアナキスト閣僚と、何よりも革命の勝利に夢中になったアナキストの若者との間にギャップが開いた、みたいな。

| | Comments (0)

November 18, 2022

『戦争は女の顔をしていない』

Svetlana-alexievich

『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

 第2次世界大戦というか独ソ戦に、旧ソ連の赤軍は大量の女性を動員します。今のプーチン政権の特別軍事作戦とは違い、動員というよりは情熱をもった志願という形が多かったと言います。そして、彼女たちの話しは、無敵の赤軍による大祖国戦争の勝利という旧ソ連の神話とは違った戦場の姿を浮かび上がらせてくれます。

 と同時にロシアの半数がこうした女性で占められているなら、希望もあるな、とか。

 女性の動員数は100万超。従軍した女性に加えて、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加した女性もいました。旧ソ連の場合、看護師や医師のほかにも、戦車兵や狙撃兵など戦闘員として戦った女性も少なくないのが特徴。多くは、戦地では男性と変わらぬ任務に就き、同じように身体的、精神的な傷を負いました。それもこれも「祖国のため」「大義のため」だったわけですが、戦後は「男ばかりの戦地で何をしていたのか」と家族や同じ女性たちからはさげすみを受け、結婚することを諦め、勲章をしまい込み、従軍経験をひた隠しにして生きていたような人も多かったといいます。

 『少女同士よ敵を撃て』を日本語のAudibleで聴いて良かったなと思い、そのネタ本というか、インスパイアされた『戦争は女の顔をしていない』を選んだんですが、ほんと、泣かせてくれるんですよね。糸井重里さんが《“3種読み”をするんです。単行本と電子書籍とオーディオブック。紙・電子・音の3種を駆使》して、と語っていますが、新しいメディアはやっぱり使った方が可能性は広がるな、と。

 それにしても『戦争は女の顔をしていない』は人類が文字を得て、初めて得た女性によるリアルな戦争体験収集なのかもしれません。ドキュメンタリーはインタビューであり、体験した人がいったん言語化したものを共有するという人類史的な体験の受容経験にも想いを致すといいますか、こうした形で感情を含めた共通の体験を深めることで、共同体はつくられていったのかもしれないなんていうことまで考えさせられました。

 聴き取りに応じた彼女たちは軍医、看護師、衛生指導員(衛生兵)、運転手、通信兵、炊事兵、洗濯係、高射砲兵、狙撃手、機関銃兵、歩兵、砲兵、工兵、狙撃手、飛行機パイロット、あるいは被占領地でのパルチザン、非公然活動家などさまざまな職種に従事していました。

 「ニーナ・ヤーコヴレヴナ・ヴィシネスカヤ曹長、戦車大隊衛生指導員の話」は特に凄かった。若い女性が志願して前線へ向かい、激しい戦火の中で、必死に役割を全うするという、このまま一本の長編映画が撮れそう。《新聞の匂いがする他人の真実》とは違う心の奥底の真実だな、と。

 また、工兵は戦争終了後もナチスの残した地雷撤去の作業に従事し、終戦後に多くの人命を失うというのは知りませんでした。

 実は途中で「この手のは、しばらく読んだり聞いたりするのはやめよ…申し訳ないけど気分が暗くなる」とも思いましたが、やはり凄い作品だと思います。

 「突撃の顔は人の顔ではない」なんていう話しも、女性という目線があったからでしょう。さらには白兵戦の時に「ボキボキ」骨が折れる音がする、というあたりはゾッとしました。これは砲兵中隊衛生指導員の話し。突撃部隊と共に敵陣に突入して白兵戦が始まると、とどめとして口や目を突きボキボキ骨の折れる音が聞こえてくる、と。胸部や腹部ではなく最初に口と目。このおぞましい光景を17~18歳の女の子が目の当たりにしていたとは。

 「男たちは順応していった。でも、わたしたちは違った」という言葉もありますが、それがどれほど大変なことだったのか。

 ウクライナの土は雨に濡れると、こねたパンのようになって遺体を埋めるのにも難儀したとかの話しも、いまのウクライナ侵攻に思いを馳せます。

 こうした実戦の話しの他にも軍服の洗濯は民間人が担当していたのですが、そうした「洗濯部隊」にも政治将校というか部長代理がついていたのには驚きました。重いものを持ち上げ鼠径ヘルニアになったり、シラミ駆除の液体で爪がなくなっても手洗いしていた女性には勲章が与えられ、終戦後、故郷に帰る時にはドイツで服が渡された、そうです。

 後半の「いまいましい女と五月のバラの花」でやっと現地妻の話とか恋愛についてふれられます。少尉に恋したことを誰にもうちあけたことがなかったのに、その彼が死んで埋葬する時に、部隊から「まずはお前から」と言われ、皆んな知っていたということは彼も知っていたかもしれないと思い、土をかける前に初めて死んだ彼にキスをしたとか泣ける…。

 戦死した夫が夢枕に現れて、ジプシー占いに会える方法を聞き、試したということを話す女性もいました。夫はあらわれたものの、ずっと泣いているだけだったので可哀想になって三日でやめた、とか。

 「受話器は弾丸を発しない」あたりも泣けるし、「ふと、生きていたいと熱烈に思った」にある最後の証言はやはりすごかった。

 著者の故郷であるベラルーシではルカシェンコ独裁政権誕生以来、著作は発禁状態で、それはノーベル賞受賞後の今に至るまで続いているとのことで、さもありなん、と。

 Audibleなので、100分で名著も読んでみました。

Svetlana-alexievich-2

[目次]

人間は戦争よりずっと大きい
思い出したくない
お嬢ちゃんたち、まだねんねじゃないか
恐怖の臭いと鞄いっぱいのチョコレート菓子
しきたりと生活
母のところに戻ったのは私一人だけ……
わが家には二つの戦争が同居してるの
受話器は弾丸を発しない
私たちの褒美は小さなメダルだった
お人形とライフル
死について、そして死を前にしたときの驚きについて
馬や小鳥たちの思い出
あれは私じゃないわ
あの目を今でも憶えています……
私たちは銃を撃ってたんじゃない
特別な石けん「K」と営倉について
焼き付いた軸受けメタルとロシア式の汚い言葉のこと
兵隊であることが求められたけれど、かわいい女の子でもいたかった
甲高い乙女の「ソプラノ」と水兵の迷信
工兵小隊長ってものは二ヶ月しか生きていられないんですよ、お嬢さん方!
いまいましい女(あま)と五月のバラの花
空を前にした時の不思議な静けさと失われた指輪のこと
人間の孤独と弾丸
家畜のエサにしかならないこまっかいクズジャガイモまでだしてくれた
お母ちゃんお父ちゃんのこと
ちっぽけな人生と大きな理念について
子供の入浴とお父さんのようなお母さんについて
赤ずきんちゃんのこと、戦地で猫が見つかる喜びのこと
ひそひそ声と叫び声
その人は心臓のあたりに手をあてて……
間違いだらけの作文とコメディー映画のこと
ふと、生きていたいと熱烈に思った

| | Comments (0)

『悪党たちの中華帝国』岡本隆司

Img_6008

『悪党たちの中華帝国』岡本隆司、新潮選書

 雪組公演『蒼穹の昴』のモデルである梁啓超と康有為のことが載っているので、さっそく2人のところだけ読んでみました。康有為は過激な教えを説いて柔軟性に欠け、梁啓超は独り善がりな改革者だった、みたいな。

[康有為]

 『蒼穹の昴』ではなぜかカン・ヨウウェイとマンダリンで呼ばれる康有為ですが、何が過激な主張かというと、孔子が春秋時代に制度を改めた改革者でありイエスのような教組であったという考え方。これのどこが過激かというのは本場の儒教文化から遠い日本ではなかなか理解しづらいと思いますが、後漢以降に定まった解釈によると、孔子は《かれ以前から存在したはずの、あるべき教義・理想の体制、いわゆる「先王の道」を祖述継承した人物》となります。そうした考え方は、清朝が実現した平和・好況の百年という政治・経済的ベースの上で発展した文献学的な「漢学」によって実証的にも強化されるのですが、阿片戦争以降の危機の中、支配の根拠となっている儒教的定説を疑う機運が高まり、後漢以前はどうなっていたのかを追求しようとして、前漢時代に成立した「公羊学」に注目が集まりまった、と。そして「公羊学」によれば、儒教は孔子が新たにつくったものであり、改革は悪ではない、ということになります。

 康有為が科挙の最終試験を受けたのは日清戦争さ中の1895年(ちなみに科挙の主席合格者は状元といい、『蒼穹の昴』の主人公・梁文秀も状元ですが、1894年・光緒20年の状元であった張謇は合格後も官職に就かず、地元である江蘇省南通で実業救国を掲げて綿紡工場を開設して軌道に乗せています)。東洋の小醜・欧米の猿マネと小馬鹿にしていた日本に負けたことは中華帝国のエリートたちにとっては驚天動地の事態で、変革を目指す動きの中で康有為は日本をモデルにした制度改革「変法」をリードすることになります。康有為はそれまでの科挙突破のための塾ではなく、西洋事情の教育学習を目指して湖南省に湖南時務学堂を設立、そこに招聘されたのが梁啓超で、譚嗣同と共に「平等」「民権」「孔子紀年」などを講じます。梁啓超たちは地元の反発を受けますが、湖南省からはやがて毛沢東が生まれる、と。

 康有為は度重なる上申を行い、光緒帝のイニシアティブもあって、科挙廃止、行政機構の再編など巨大なプランを実行するのですが《軽薄》な康有為、《慎重な思慮の足りない》光緒帝というコンビに官僚たちはサボタージュで応え、それに対抗する形で光緒帝は弟子の譚嗣同らも側近として登用するなど事実上の宰相に任命します。康有為は袁世凱に頤和園を包囲攻撃するよう密謀を企てますが、袁世凱は西太后と永禄に密告。

 康有為はさらには北京訪問中の伊藤博文を顧問にすえることまで考えますが、伊藤博文は康有為の試みを軽躁とみて取り合わなかったのですが、西太后はいったん事態を抑えようと紫禁城に帰還。密謀の確証を得て「変法」派を処罰。譚嗣同は処刑、康有為と梁啓超は日本に亡命します。顧問に据えようとした伊藤博文には袖にされ、頼みの袁世凱には裏切られと、やはり実務には向かない康有為でした。

 亡命した康有為は曹操に殺されそうになった漢の皇帝が救出を求めた密命「衣帯の詔」になぞらえた光緒帝の密命を持っているというパフォーマンスをしたり、自分は正しかったという宣伝活動に励んだりして、孫文らの革命派と対立します。

 それと儒教理解では、中華帝国における儒教とは万人の信仰ではなく、一部の士大夫が身につけるもので、社会は大きく断絶していたというのも大切。最後に記されている宮崎一定による康有為の言葉は《思想家の独善・軽率・楽観をよくあらわ》していると思います。

[梁啓超]

 『蒼穹の昴』の主人公、梁文秀のモデルは梁啓超。自ら《康有為は定見がありすぎ、梁啓超は定見がなさすぎた》と『清代学術概論』で書いているのには驚きました。実際に伊藤博文によって助けられたんですが、伊藤は老成した康有為の独善軽躁には冷淡だったものの、梁啓超は「偉い奴だね。実に感心な奴だ」とその専心献身を好ましく思っていたといいます。そして、梁啓超は日本をテコに中華帝国を変革した、と。

 梁啓超は亡命先の日本で、邦訳された西欧の著作を「和文漢読」で学び、和製漢語を積極的に取り入れたといいます。「鉛筆」などの実用語も含めて今の中国語にも和製漢語は多く取り入れられていますが、思想の分野では梁啓超の役割も大きかったんでしょうかね。そして、魯迅や毛沢東も梁啓超を学んだ、と。

 そして、有名な『中国史叙論』で「吾人がもっとも慚愧にたえないのは、わが国には国名がないことである」として王朝名や支那という呼び方ではなく、自尊自大の気味はあるが「中国」がよく、歴史も「中国史」としてとらえるべきだとして「中国何千年の歴史」という言葉に代表されるナショナル・ヒストリーの考え方を拡げていった、と。

 その後、東洋の立憲が専制の帝政ロシアに勝った1905年の日露戦争を経て、清朝政府も立憲制を導入する準備に入りますが、早急に集権化を進めた結果、各地の不満が高まり、1911年の辛亥革命が勃発、中華民国が成立。梁啓超は帰国し、「紅血の革命」よりも「黒色の革命」(インク=言論)を主導。革命派の国民党と対立する袁世凱率いる進歩党を組織します。その後、袁世凱が帝位を望んだことには反発し、袁世凱を討とうとしますが、袁世凱は死去。師匠の康有為は、辛亥革命で退いた溥儀の復位を目指しますが、これにも反対。第一次世界大戦後のパリ講和条約には私的顧問として参加。本国に送ったその内容は反帝国主義の五・四運動を引き起こします。

 こうみると、なにか中途半端な印象を与える生涯ですが、誠実に「彷徨模索」を続けた、というのが岡本さんの評価でしょうか。

China-mokuji

| | Comments (0)

October 23, 2022

『情熱でたどるスペイン史』池上俊一

Meseta

『情熱でたどるスペイン史』池上俊一、岩波ジュニア新書

 スペイン史ってナショナルヒストリーの横綱大関みたいなフランス史やイギリス史と比べると格下感がいなめないというか、あまり詳しくないのですが、今度、劇団が20世紀初頭のスペインを舞台にした作品をかけるというので、『世界史総合』の流れで推薦されている副読本の多い岩波ジュニア新書から出ている『情熱でたどるスペイン史』でも読んでみようと手に取りました。

 イベリア半島は地勢的・地史学的に国土の半分以上が標高700メートルほどのメセタ(中央大地)で占められ、フランス国境は標高3000メートルクラスの山を抱えるピレネーがあるなど閉ざされた地域でしたが、ローマ帝国に属州と組み込まれた頃からイギリスと同様、有史時代となり、ラテン語も広まります。

 ローマ滅亡後は西ゴート王国となりますが、イスラム勢力によって崩壊。コルドバのメスキータ(モスク)はメッカに次ぐ大きさを誇るほどで、キリスト教勢力は北部に押し込まれますが、ここから800年にわたりレコンキスタが展開されることになります。そして文化的にはユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒の混淆した学問・芸術がつくられ、ギリシャ語文献もアラビア語を通じてラテン語に訳され、西欧に知られるようになる、と。

 しかし、スペインのキリスト教勢力の封建制は人格的従属意識が希薄で、王が税金以上に金銭が必要になった時は身分を代表者によるコルテス(議会)の承認が必要なほどでした。爵位を持つ大貴族は一握り。ほとんどは小貴族=郷士で、誇りだけを胸に自由に生きていたし、王でさえ庶民的でした。こうしたところからも情熱の発露としての名誉を重んじる気質が生まれた、と。

 やがてカスティーリャがイベリア半島をほぼ統一した後、ユダヤ人改宗者であるコンルベソを迫害する異端審問が行われるようになりますが、これを進めた初代長官トマス・デ・トルケマーダもコンルベソでした。

 カスティーリャでは長子限嗣相続制が確立していたこともあり、次男以下の男子は新大陸での成功に憧れ冒険に出てコンキスタドールとなりますが、ほぼ時を同じくハプスブルグのカール五世が即位。続くフェリペ二世はスペインの黄金時代をつくり、それまでの連合王国をカトリックによって統合しようとします。こうしたカトリックへの純化はコンベルソであるベラスケスなどにも影響を与え、純血の証明のために必死に努力を行うほどだった、と。

 フランス革命とナポレオンによる征服などを経て、王権はゆらぎ、スペインは伝統主義と自由主義に分断。フランコまで続くプロヌンシアミエント(軍事蜂起)の時代となります。南米はリベルタドーレス(解放者)に率いられて独立、スペイン帝国は崩壊。国内形成も地方の政治・社会を牛耳っているカシーケ(大土地所有者のボス)に阻まれ、中産階級が育たないまま古い貴族・大ブルジョワとプロレタリアートが対峙する構造だった、と。大統領がころころ代わった第1次共和制の後、王制は復活したものの、米西戦争で敗れてキューバ、プエルトリコ、グアム、フィリピンまで奪われます。

 カタルーニャーもバスクもカスティーリャと混淆する中で自己形成されていった部分があるのに、スペインではドイツやイタリアと違い、国民創造が進むと地域主義に火がつくという不思議さはあります。そして、内戦とカトリック・ナショナリズムを掲げるフランコの時代をへて、やっと1980年代にEUとNATOに加盟、現在に至る、と。

 《スペイン史の主役は、イギリスのように王様やジェントルマンでも、フランスのように貴族やブルジョワでもなくて、一貫して「民衆」》、リアーガは《フランス人が「思考の人」、イギリス人が「行動の人」であるのに対し、スペイン人の最大の特徴が情熱の「人」》と書いているそうです(p.232)。

 

| | Comments (0)

October 14, 2022

『太平天国』菊池秀明

Taihei-tengoku

『太平天国 皇帝なき中国の挫折』菊池秀明

 これをこちらでアップするのを忘れていました。

 著者の問題意識は「強国化」を推し進める現在の中国の状況を踏まえ、中央集権国家しか中国の選択肢は歴史上なかったのかという問いを、郡県制ではなく古代の封建制を志向していた太平天国の挫折を通じて、「皇帝なき中国」は可能なのかという現在の中国が抱える課題を浮かび上がらせるというもの。

 著者の提示する洪秀全はファナティックな誇大妄想狂的なイメージではなく、客家出身ゆえの差別に苦しむ中で、伝統文化の否定ではなく、伝統への回帰とその見直しをキリスト教との出会いはたした人物として描かれています。太平天国は軍師として政治・軍事的な大権を任された楊秀清と五王が宗教的である洪秀全を支えるという体制でしたが、東王としてNo.2だった楊秀清だけでなく、その統治下にあった無辜の民までも皆殺しにして権力を再奪取します。結局、洪秀全は「他者への不寛容さ」という問題を克服できず、諸王に統治を分権的に任せるという制度を確立できずに終わったということなのでしょう。

 しかし、太平天国の流れを読む限り、カルト的集団の中での権力争いで洪秀全はますます独善的になっていき、現実との接点を失い、諸王同士の内ゲバも発生する中で自滅していったという歴史しかみえず、中国社会を分権的に支配する体制は可能だったのか、という問題的はそれほど深くは掘り下げられていなかったようにも感じます。しかし、それ以上に、1864年に終わった14年にわたる太平天国の内戦は江南三省(江蘇、安徽、浙江)に大きな被害を残し、江蘇だけで死者は2000万人を超えるという中国近代の血塗られた、分岐点としての大きさに改めて驚きます。実際、香港の中国人キリスト教社会から「第二の洪秀全」を自任する孫文が登場したという指摘には不意を突かれました。

 著者は満洲族の王朝である清朝の中で、客家など下層民がかえって抱いていた「自分たちこそは正統なる漢人の末裔である」というエスノセントリズム(自民族中心主義)を指摘しますが、この後、欧米だけでなく、日本にも侵略される中で、漢民族全体にルサンチマンに満ちたエスノセントリズムが広がったという感じになるのかな、と個人的には感じました。

 「はじめに」では《自分たちの原則や価値観を世界に向けて発信する中国のスタイルは、現代的な装いをまとった中華帝国の復活なのだろうか。国家主席の任期期限を撤廃して中央の権限を強化するなど、毛沢東時代への回帰を思わせる習近平の共産党体制は、歴代王朝の統治スタイルであった皇帝政治の再来なのだろうか》《中国ではこうした中央集権的な統治を「郡県制」、分権的な支配体制を「封建制」と呼びならわしてきた。だが始皇帝の統一以来、最後の王朝である清朝まで郡県制が主流だったという事実は、現代中国の政治体制に大きな影響を与えている》として、中国において政治レベルでの多様性が確保されていない原因は分権的な政治体制が生まれなかったからとして、始皇帝以前の複数の王からなる復古主義的な政治体制をつくろうとした太平天国を見直す、としています。そして、太平天国は南北戦争、戊辰戦争と並ぶ人類史上最悪の内戦で、惨禍ははるかに大きかった、と。

 洪秀全は後発の移民だった客家で、旧約のモーセ五書に描かれた虐げられたユダヤ人と自分を同一視していたとしています。そして、日本仏教の本治垂迹説のように、漢訳された聖書の神概念である「上帝」を中国古来の神として、分権的な古代に立ち返るべきと考えた、と。そして、アメリカ人宣教師ロバーツに洗礼を求めるも嫌がらせを受けるのですが、このロバーツは高等教育を受けていなかったそうです。著者はこうした人物を訪ねたのは洪秀全の不幸だったとしていますが、当時の中国ミッションは宗教復興運動の熱に浮かされたプロテスタントがロバーツのように個人の資格でやってきた人物も多かったようですが、どうしようもないプロテスタント系の宣教師たちによって、洪秀全とヨーロッパとのつながりは断ち切られ、ロバーツは太平天国を「クーリーの王たち」、洪秀全を狂人と呼んだといいます。

 洪秀全の創設した上帝は、偶像破壊などを行って弾圧されるのですが、イエスの託宣をする蕭朝貴とヤハウェの託宣をする楊秀清という二人のシャーマンが現れます。二人は最初の金田蜂起を指導した馮雲山から指導権を徐々に奪っていきます。二人が力を持ったのは、漢民族は根底にシャーマニズムの文化を持っているからだとしていますが、特に楊秀清は身障者で《身体的なハンディキャップをもった人間が人々の苦悩をあがなうというモチーフは、中国の民間宗教に広く見られる》ため、南京で洪秀全の上に立とうとして、最後は殺されます(p.29)。

 楊秀清はシャーマニズムのご託宣によって密会していた男女を公開斬首刑にしたり、新約聖書の『使徒行伝』、ペトロ専制下の原始共同体におけるアナニアとサフィラの突然死(刑死?)を思わせるような専制体制をやってるな、と(p.175)。新約聖書は政治的なテキストだとも思いますが、No.2の楊秀清がシャーマン的に神の声を発するのをやめさせなかったのは、太平天国の甘さだよな。キリスト教の原始共同体がペトロを排除し、ヤコブによるヘブライ回帰を経て、パウロがヒステリックに喚き散らすシャーマン的女性を排除してるのは大したもんだな、と。

 財産の共有制は、原始キリスト教会みたいな小さな組織でもうまくいかず、使徒行伝に描かれているように、ペトロの権威が揺ぎ、人間社会と同様、イエスの兄弟であるヤコブが台頭したけど、太平天国みたいな大所帯では寡婦が庇護を諸王に求くるなど、さらに苦しかったろうな、と(p.94-)。死海文書を残したエッセネ派みたいに、最初は男女を別にしていたというのにも驚く。もっとも洪秀全や諸王たちは妃を多数抱えていたのに不満が出て、結婚と夫婦同居を認めざるを得なかったというあたりのカルトっぽさも凄い。あと、集団結婚式をやったあたりも、某キリスト教カルトにそっくり(p.95-)。中には捕らえた少年に男色を迫る将校もいたとか、人間社会で、カルト宗教が権力を持つと、性の抑圧を行って、内部ではかえってはちゃめちゃになるという典型なのが興味深い。それにしても、太平天国みたいなのがあったら、社会学者の人たちは潜入取材したいだろうな、と(p.96-)。

 洪秀全が最初に出会ったのは無知で不寛容な信仰復興系のプロテスタントの宣教師だったことで、旧約聖書の偶像崇拝拒否などに異様にこだわって、カトリックのキリスト像などを破壊した、ということですが、ヨーロッパでも偶像破壊は繰り返し行われてきたので異端とも見なさない考えもあった、と(p.70)。

 ヨタ話しになりますが、洪秀全は刑法は旧約的だけど、民法は新訳的な感じがする。使徒行伝に描かれた初期共同体の共有制を拡大した感じ。

 また、研究者の方々には常識かもしれませんが、易姓革命は《天から命令を受けることは「兵権」つまり王権を与えられることだと考えられてきた》というのは知りませんでしたが、そう考えると中共と人民解放軍の成立ちがよくわかるな、と(p.30)。日本やヨーロッパみたいな封建制だと、小さいながらも所領の中で一所懸命に頑張ろうとして、あまりギャンブルはやらないようになるんだろうけど、郡県制で易姓革命説だと、一発、皇帝になれるかもしれないから、やりすぎるのかな…

 さらに、最初の拠点となった永安州時代の太平天国は、延安時代の中国共産党とよく似ている、と。シャーマニズムを知識階層だった会員から批判された楊秀清は反対派を排除したんですが、これは毛沢東が辺境で体制づくりのため粛正を実行したのと似ている、と。このことは、抑圧的な体質を刻み込んだ、と(p.50)。日本でも連合赤軍が規模は小さいけど、拠点を持って、その中で好き勝手できるようになった時の陰惨さは似ているな…。太平天国の、他者を排除してしまう不寛容さと権力集中は中国本土だけでなく、台湾や香港、少数民族にも深刻な影響を与えている、と。権力の一極集中を是正する西欧や日本の普遍的な価値も、中国にとっては屈辱を想起させるトラウマになっている、と(p.243-)。太平天国は連合赤軍みたいに内部分裂で終わったんですが…。

 それにしても太平天国が清朝と本格的な戦闘を開始したのは1851年で、膨大な死者を出した乱が最終的に鎮圧されたのは1864年。日本の場合、ペリー来航は53年で、桜田門外ノ変は1860年、王政復古は1867年ということを考えると、明治維新はエリートたちの圧倒的に少ない血で争われて、素早く体制が変わったのかなと改めて感じます。さらに、巻末の太平天国の年表を日本史の年表と見合わせると、1850年の金田村蜂起の年、日本では佐賀藩が反射炉建設していました。南京を占領した1853年はペリー来航。アロー号事件も起こった1856年はハリスの下田駐在。滅亡した1864年には長州征伐が行われていいます。太平天国は鎮圧できたけど、総じて清朝は欧州列強と太平天国にやられまくったな、と。

 幕末に日本でも活躍したパークスが、上海など租界には手を出すな、と太平天国との外交交渉も行っていたというも知りませんでした。大阪打ちこわしを太平天国と比較したりする知見はもちろんのこと、薩長などは徳川とは別政権とするリアリティは、中国での経験から得たというか、通商出来ればOKという立場だったのかな(p.210-)。薩英戦争も横浜港付近の生麦事件が発端でした。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されているのを犯されたから、イギリスは艦隊まで出撃させたんだろうな、と。

 一般に、薩英戦争によって薩摩藩は殖産興業に転換すると言われていますが、やはり、日本のいち藩にイギリスが勝利を収められなかったということは大きかったのかな、と*1。

 いろんな方が書いてるように、確かに「あとがき」は出色の出来。天狗党に加わった祖先がキリスト教に帰依したという内発が研究に結びついているし、それがコロナ、香港民主化運動の挫折という状況ともリンクしています。ちょっと書きすぎじゃないかと思うところがあったけど、岩波の編集はよく諒解したと思うし、素晴らしいな、と。

*1 『日本近代技術の形成 “伝統”と“近代”のダイナミクス 』中岡哲郎、朝日新聞社によると、幕末の雄藩は尊皇攘夷のための黒船と大砲を自力で製作するために、独自の工業化を目指すのですが、特に資金が豊富にあった薩摩藩は、反射炉を建設したほか、独自に3隻の蒸気船をつくるまでになります。その気質も含めてもっとも勇猛果敢であった薩摩藩が生麦事件の賠償を求めるイギリスと戦ったのが薩英戦争です。

 1863年8月15日《戦闘開始後45分、油断したイギリス戦艦が桜島付近に錨をおろし砲撃を開始したとき、桜島からの薩摩藩の砲弾がイギリス旗艦ユーリアラス号に命中し、ジョスリング艦長ほか八名が戦死します。このことが最後まで尾を引き、イギリス艦隊は決定的勝利を収めないまま引き揚げます》《この戦闘でイギリス側も薩摩の実力をあなどれないと認識します。しかし薩摩の側もそれをはるかに上まわって、彼我の力の格差の大きさを認識します。それはサムライ工業の苦心にはじまり、学校としての長崎で育てられた彼らの現実認識に最後の仕上げを与える、決定的な事件でした》(pp.37-38)。

 このくだりをメキシコで講義した時、《講義は冒頭から、思いがけない反応があった。第二章で書いた、薩英戦争で桜島の砲台からユーリアラス号へ加えられた一撃の話をしたとき、学生に異常な興奮が起こった。なぜ貴方は、薩摩が勝利したといわないのかという発言があり、全員を巻き込む討論になった。私は、薩摩はこの一撃によってかろうじて敗北を免れたのだ。大切なことはこの戦争をとおして、薩摩が敵の実力を認識したことなのだと応じたが学生たちは引かなかった。最後に「貴方は植民地化された国に住んだことがないから、この勝利の大切さがわからないのだ」という一撃を浴びた》《日本がこの時期に植民地化を免れたことの大切さを、彼らほどの切実な思いで受け止めてきたかという反省のきっかけとなった。その影響は本書にも示されてる》(pp.482-483)というんですね。

 ぼくも薩英戦争のこのエピソードは知っていましたが、スイカ売り決死隊と同じぐらいの重さでしか受けとめていませんでした。でも、確かにメキシコの大学院生が興奮したように、この一撃は「がさつの聞こえあるイギリス」に日本の植民地化をあきらめさせただけでなく、欧米に対抗するためには国民国家をつくり、挙国一致の体制をつくらなければならないと構想した薩摩藩と協力して幕府を倒し、新政府を打ち立てるパワーを持っていたかもしれません。

| | Comments (0)

『曾国藩』岡本隆司

0c10

『曾国藩 「英雄」と中国史』岡本隆司、岩波新書

 『袁世凱 現代中国の出発』『李鴻章 東アジアの近代』に続く岡本隆司先生による清末の列伝3部作のおそらく完結編。サブタイルを改めてみてみると、あくまで中国の伝統的な英雄の枠内に収まろうとする曾国藩と、近代化の中でより実務的に振る舞おうとした李鴻章、そうした伝統とは一線を画した科挙に落ちた袁世凱という3人の人物像と時代感覚が伝わってくるような気がします。

 また、李鴻章(2011)、袁世凱(2015)、曾国藩(2022)と行きつ戻りつ書いたのも、《「散文」と比喩しては、なお文学的すぎるかもしれない》という『李鴻章』のあと、「嫌いな人物に正面から向き合」って『袁世凱』を仕上げ、中国的な「英雄」の姿を描く『曾国藩』で締めくくるというのが、完結してみれば、かえって自然な流れのようにも感じます。

 科挙合格者の中でもエリートの曾国藩は、葬儀で帰省中に儒教の正統性や道教を全く認識しない名教之奇(名教の奇変)である太平天国の乱に立ち向かわざるを得なくなり、新たな時代を先取りする形で鎮めた「英雄」で、しかも、自らは決して皇帝の座を狙おうとはしない読書人的官吏にして文人という立場を守った人でもありました。その本質は《開発地主の祖父に似た晴耕雨読の篤農家・読書人》でした(p.209)。

 曽国藩は科挙でも優等第二甲から翰林院庶吉士となった超エリート、全体の十六位で翰林院編修だった李鴻章も優秀でしたが天津の開発など経済にも目を向けます。しかし、ドロップアウトした袁世凱から素行は悪くなるとともに、急速に世俗的となり、それに比例して権力の本質には近くなり、袁世凱などは名ばかりではありますが皇帝にもなってる。

 この三人、詩人だった毛沢東、散文的で経済に目を配った鄧小平、権力への執着が強く感じられるような習近平にも似ているように感じます。

 とにかく超エリートだった曽国藩は腐敗した清朝の中央政府から派遣された役人ではなく、それぞれの地元の郷紳が民を指導するような地方自治からことを期待したけど、西欧への不満が高まる中で、洋務運動が西欧に加担していると士民から見られるようになって一気に人心を失うという過渡的な不幸を味わいます。ちなみに科挙の主席合格者は状元といいますが、1894年(光緒20年)の状元であった張謇は合格後も官職に就かず、地元である江蘇省南通で実業救国を掲げて綿紡工場を開設して軌道に乗せたりしています。

 しかし、梁啓超などから浮上する「中国」という自尊自大の国名とナショナリズムの萌芽も《儒学名教の維持を強調しながら、忠君勤王にふれないこと、つまり曾国藩たちにとって、護るべきはあくまで儒教であり、清朝の存亡は第一の問題でなかったことがみてとれる》(p.89頁)のではないでしょうか。

 曽国藩はその文才で数々の名言・キャッチコピーを生み出し、岳飛の言葉を元にした「不要銭、不怕死(金を求めず命をかける)」というスローガンで湖南の郷紳たちの心を掴んだというのですが、この言葉はのちに同郷の毛沢東も使った、というのは知りませんでした(p.78)。

 科挙に合格して故郷に錦を飾った曽国藩の初年度の年収は、ご祝儀もあって銀座二千両で《銀一両に数万円の価値はあろうから、二千両なら一億円にも及ぶ》(p.36)というあたりや、湘軍の規律を正すために厳刑峻法につとめ「曾剃頭(首切りの曾)」と呼ばれ忌まれたというのも知りませんでした。

 清朝は小さな政府の代表格のような存在で《曾国藩がつくった団練・郷勇の軍事支出は、自辨・現地調達が原則となる。湘軍の経費も曾国藩が自らまかなっており、これを「就地籌餉」(しゅうちちょうしょう)と称した》んですが、これが制度化されていった過程は、各省自立と清朝滅亡に重なります。

 1860年という年はインドではセポイの反乱が鎮圧され、イタリアでは赤シャツ隊を率いたガリバルディがシチリア・ナポリを征服し、アメリカではリンカーンが大統領に選ばれ、日本では桜田門外の変が起き、曾国藩がなお太平天国と安徽省で激闘を繰り広げている中、英仏連合軍は北京を占領、円明園を破壊するという大きな転換の年だったというのもなるほどな、と(p.124-)。しかし、第二帝政のフランスはまもなく普仏戦争に敗れ、清朝はかろうじて破局を免れます(p.175)

 曾国藩の生涯は「末世に危を扶け難を救う英雄は、心力労苦を以て第一義とす」ようなものだったと感じますが、それでも郷党からは即位が待望されていたとは知りませんでした(p.191-)。そして、反満・攘夷思想を持つ同郷の先学、王夫之の全集復活事業も行うのですが、これに毛沢東など革命家が影響を受けたというのは、凄い話しだな、と(p.193)。

 詳しいことは「B面の岩波新書」に掲載された、国際日本文化研究センターの瀧井一博教授による『文明の傀儡としての「英雄」 岡本隆司『曾国藩 「英雄」と中国史』を読んでいただければいいのですが、岡本隆司先生のご著書はこれまでも拝読してきたので、蛇足ながら書いてみました。

『文明の傀儡としての「英雄」 岡本隆司『曾国藩 「英雄」と中国史』
https://www.iwanamishinsho80.com/post/takii_kazuhiro

『李鴻章』岡本隆司
http://pata.air-nifty.com/pata/2015/04/post-65cc.html
『袁世凱』岡本隆司
http://pata.air-nifty.com/pata/2015/05/post-43ee.html
『「中国」の形成』岡本隆司
http://pata.air-nifty.com/pata/2020/10/post-cef0c4.html

| | Comments (0)

October 07, 2022

『歴史総合 近代から現代へ』山川出版社

Img_5303

『歴史総合 近代から現代へ』岸本美緒、鈴木淳、山川出版社

 文科省が久々に放ったヒットが高校の歴史総合。近代化、大衆化、グローバル化という3つのキーワードを軸に近現代を学ぶのですが、特にずっと重視されてこなかった大衆化というテーマが必修授業に入った意味は大きいのではないでしょうか。

 ということで、ん十年ぶりぐらいに山川の教科書を購入。山川は進学校向け、中堅校向け、そうでない高校向けと3種類の教科書を発行。進学校向け『近代から現代へ』と『現代の歴史総合』にはそれぞれ専用の「ノート」もあり、用語解説も出しています。

 歴史総合が3種類あるのは山川だけで、他では実教出版が2種類。さすが気合いが違うというか、東大・山川連合の「新しい高校歴史の必履修科目はうちらが仕切るから」宣言が凄い。ということで、有隣堂の教科書コーナーでお取り寄せして、進学校向けの『近代から現代へ』を読んでみました。

 今年後半の読書のテーマは『歴史総合』にしようと思っていましたが、いや、面白かったです。素人なりに世界史、日本史の本は読んできましたが、やはり興味のあるところに偏った読書をしてきたので南アメリカ、アフリカ、南アジアなどは蒙を啓かれっぱなし。また、それなりに理解していたところでも、クリアカットに説明されていて感動しました。

 例えば以下の「日本の恐慌と満洲事変」から「日中戦争と国内外の動き」は凄い整理だと感じました。

・1928年、日本でも田中内閣で初の男子普選を行い、二大政党を目指したが、外交方針が手ぬるいと判断した関東軍は6月に田中首相に近かった張作霖を爆殺。
・29年には昭和天皇から叱責された田中内閣が退陣、浜口内閣が成立。
・30年のロンドン海軍軍縮条約を締結するも統帥権干犯問題で批判された浜口首相は狙撃され、退陣。
・31年には3月事件と7月事件を経て、9月に満洲事変が勃発。
・32年には満洲国が建国され、満州国承認に消極的な犬飼首相は5.15事件で暗殺され、斎藤内閣によって日満議定書が調印。
・33年10月には国際連盟から脱退(史料として朝毎読など新聞社によるリットン調査団報告を受けての勧告案を拒否すべしという共同宣言も掲載)
・高橋是清蔵相による円安利用の輸出促進も農村の人口過剰解決には至らず、36年のワシントン・ロンドン軍縮条約失効を前に、陸軍内の権力争いで劣勢になった皇道派がヤケで2.26事件を起こして、犬飼首相と軍備拡張に消極的な高橋蔵相を暗殺
・日本軍が華北分離を図るなか、共産党撲滅を優先する蒋介石を同じ36年に張学良が監禁、国共合作に方向転換させる西安事件が発生
・日中間の緊張が再び高まり、37年には盧溝橋事件で日中戦争に突入
・38年までに主要都市と鉄道は押さえたが重慶までは侵攻できず戦局は膠着。11月の東亜新秩序宣言で汪兆銘を重慶から脱出させ南京で政権を成立させるも無力で工作は失敗
・日本軍が南京事件などを起こして中国国内での抗日機運が高まるなか、39年7月には米国から日米通商航海条約の破棄を通告され、翌1月から経済制裁されまくるという負のスパイラルが見事に分かりやすく説明されています。

 この部分だけでも買って損はありません!

 このほか、個人的に参考になったと感じたところを以下に箇条書きしてみます。

・経済は自由放任策だった清には、需要の高い茶・生糸の輸出によって銀が流れ込み、アメリカ大陸から伝来した荒地でも育つトウモロコシやサツマイモなどの作物によって人口が増加(p.27)

・ロシアは16世紀末まで海港を持たなかったが、オスマン帝国と戦って黒海に領土を拡げ、バルト海にも進出してヨーロッパとの関係を持ち始めてた(p.32)

・北東ヨーロッパ地域が北西ヨーロッパへの穀物供給地と変化したことが東西ヨーロッパの違いを生んだ(p.36)

・大航海時代にインド航路が開けると華やかな模様のインド産綿織物が人気商品となった(p.36)

・産業革命によって、新しい機械の導入には多くの資金が必要になり、不況による倒産も多かったため、工場主は女性や子どもなどを最初から低賃金で雇った(p.37)

・太平天国の乱によって上海周辺の蚕糸業地域が荒廃したため、中国にかわって日本の生糸の輸出が伸び、日本向にはクリミア戦争や南北戦争で使われた中古の武器・艦船が輸入された(p.65)

・明治政府で武士の身分秩序が揺らいだのは、江戸初期に固定された禄高が戊辰戦争の功労によって正当性を失ったから(p.68)

・明治憲法は統帥権の補弼者が規定されず、教育勅語が国務大臣の副書なしに交付されるなど国家体制の基本がないがしろにされていた(p.77)。

・大津事件で切りつけられた後のニコライ二世はシベリア鉄道起工式に向かう途中で来日した(p.79)

・日本は日清戦争の賠償金を利用して金本位制を採用できた(p.81)

・豊田自動織機は木を多用し東アジア市場向け小幅の布を織れた(p.82)

・ドイツ皇帝ヴィレヘルム二世は社会主義者鎮圧法の延長を認めないことでビスマルクを退任に追い込んだ(p.86)

・世界恐慌の原因はアメリカでの農産品の価格低下で、農民の収入が減り、彼らの購買力が低下し、過剰となった商品が不良在庫となったこと。ドイツの賠償金支払いはアメリカの資金供与によって支えられていたため、NY発の恐慌がヨーロッパから世界に広がった(p.130)

・スターリンは米英との協力体制を確実なものとするため43年にコミンテルンを解散(p.149)

・1948年、チョコスロヴァキアではベネシュがマーシャル・プランの受け入れを表明したが、ソ連が撤回させて辞任に追い込んだ(p.153)

・戦後の日本のインフレは政府が軍需工場に未払い金を一括して支払ったため(p.163)

ドッジ・ラインでインフレは収束し、配給制度も1949年には廃止された(p.164)。

・カシミール地方の住民はムスリムが多数だったが、藩王がヒンドゥー教徒だったためインドへの帰属を求めた(p.186)

・サンフランシスコ平和条約に調印していなかったソ連の拒否権で国連に加盟できなかった日本では、鳩山首相が領土問題を棚上げすることで1956年に日ソ共同宣言に調印。ソ連が賛成にまわって国連加盟が承認された(p.191)

| | Comments (0)

September 29, 2022

『同志少女よ、敵を撃て』

Little-girl

『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬、早川書房

 これまでAudibleはジムのエアロバイクなど有酸素運動している時に、退屈しのぎと英語のサビ落としを目的に、英語のノンフィクションや人文系の本を聴いていたんですが、サブスクが安く提示されたので入ってみると、こうした本はほとんど対象になっておらず、すぐにやめようと思ったものの、三か月縛り…。失敗したと思った時に見つけたのが『少女同士よ、敵を撃て』。

 話題になっていた本なので「ま、いっか」と聴いてみたらなかなか面白かったという。

 ロシアとウクライナの関係、ナチス・ドイツとソ連の攻防、世界で初めて女性を攻撃部隊に使った赤軍、それでも残る女性差別(特に退役後)、赤軍と政治将校の関係、ソ連とベラルーシ、タジク人との関係、赤軍のドイツ人婦女子への暴行などの要素がしっかり有機的に結びついていて、フィクションらしいケレン味もありすぎという気もしないでもありませんが、文句をいっちゃいけないレベル。

 全ての章が面白く、昔の日本人作家ならラストに向かって息切れしてしまうのに、ちゃんと盛り上げていく力量は大したもんだと。

 特に印象に残ったのは伝説の女性スナイパー、リュドミラ・パヴリチェンコが狙撃手達に講演を行った場面を含む「第五章 決戦に向かう日々」。主人公セラフィマはここでジューコフ元帥に続き、リュドミラとも直接会って言葉を交わすのですが、戦後はどう生きたらいいのかという問いに愛する人を見つけるか、生き甲斐となるような趣味を持てという納得のいかない答えの背景には…というあたりはなかなか読ませて(聴かせて)もらいました。

 さっそく元となったスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』をチョイス。寝る時にはいまのウクライナにも想いを馳せながら聴いてみようと思います。

[目次]
第一章 イワノフスカヤ村
第二章 魔女の巣
第三章 ウラヌス作戦
第四章 ヴォルガの向こうに我らの土地なし
第五章 決戦に向かう日々
第六章 要塞都市ケーニヒスベルグ
エピローグ

| | Comments (0)

September 24, 2022

『歴史像を伝える 「歴史叙述」と「歴史実践」』

71q8fs24dsl

『歴史像を伝える 「歴史叙述」と「歴史実践」 シリーズ歴史総合を学ぶ2』成田龍一、岩波新書

高校で必修となった歴史総合のインパクトは大きいなということで、岩波新書の歴史総合を学ぶシリーズを読んでいるんですが、はじめに「歴史叙述」と「歴史実践」や序章のジェンダー史から/で学ぶ「歴史実践」あたりがどうもかったるくて、「むすびにかえて」あたりから逆に読んで、なんとか読了しました。
 
 歴史総合というのは世界システム論が定説化されて、高校でも近現代史はナショナルヒストリーではなく「世界システム」として学ばせようとなってきたんだろうな、というのが大まかな認識なんですが、それと同時に、歴史研究者は専門とする時代や地域の歴史像を提供していればよかったが、問いと対話が求められるようになった、ということで、学ばせ方も変えようという二つの試みが同時に企図されているんだな、と感じます。

とはいっても、「歴史叙述」はともかく「歴史実践」あたりは観念的な話しが多く退屈でした。むしろ、この際、小田中直樹先生が『歴史学のトリセツ』で分かりやすく史学史を解説してくれたように、歴史学を学問たらしめている要素とその限界みたいな話しの方が圧倒的に有益なんじゃないかな、と。

シリーズ一作目は面白かったんだけど、3作目も出そうなので、とりあえず、面白かったところだけを箇条書きでまとめてみます。

[第一章 明治維新の「歴史像」]

明治維新の地租改正では、種子代などの必要経費のなかに、農民の労賃は計上されておらず、それは農民のただ働きの上に算定された地価だった。そのため、税の負担が農民に重くのしかかった(p.66)

維新期の民衆は「客分」であったために征韓論などにも与しなかったが、民衆が自らも文明国日本の一員としての意識を持つようになると、朝鮮・中国への優越意識を持つようになる(p.77)

本土に留学した太田朝敷や謝花昇らは、琉球王国の復活ではなく、「日本人」としての平等や自由を求め、沖縄が蛮族を皇化させる帝国枢要の土地になったという自負を持つようになった(p.84)

[第二章 「近代化」の歴史像]

近代化の入口においては各国に福沢諭吉のような啓蒙思想家を生み、梁啓超もそうしたひとりと考えられる(p.136)

これまでの日本史研究では、自由民権運動を明治政府への反対運動と見る点に軸足を置くあまり、下からの国家形成という問題意識がなかった(p.147)

最初の徴兵令では一家の跡継ぎ、官吏や代人料(270円)を納めれば免除されるなど、当初の免役者は徴兵該当者の96%にのぼった(p.167)

クラウゼウィッツの『戦争論』を翻訳していた森鴎外の日露戦争従軍詩歌集『うた日記』では、戦闘のあり方の変化にも着目している(p.175)

[第三章 「大衆化」の歴史像]

近代化の過程で啓蒙された人々は20世紀に入ると民衆→大衆→群衆として行動するようになる。今村仁司は彼らが「ひとつの決定的な社会勢力」「社会と歴史の原動力」として登場したことが近代社会の特徴としている(p.191-)

身の上相談は歴史社会学の大きなテーマらしいのですが、昔は新聞記者が回答していた(p.212-)

雑誌広告をみると家庭は家父長が統制する・統御する知的な空間として描かれているが、ラジオの登場によって、ラジオそのものが家族の磁場となっている(p.220)

佐藤卓哉『輿論と世論』によると、近代化の中で国民輿論が形成されたが、総動員体制=大衆参加が進むことで、大衆世論がせり出してきた、と。《ファシズムもまた民主政治=政治参加の一形態であり、大正デモクラシーにおける世論形成への大衆参加に連続していた》と(p.221-)

この本で一番面白かったのは小津安二郎のサイレント映画の作風の変化からみるモダニズムの変化の解説です。サイレント映画で「近代的都市空間」をよく舞台にしていた小津は、市民生活の中で女性の役割の転換を見事に描いたが、吉野作造や堺利彦の死、マルクス主義者の転向、国際連盟からの脱退などを受け、その後は反モダンなナショナリズムが勃興するのを反映したような作品を残す(p.224-)

吉野作造や社会主義者のなかでも柔軟な思考をみせていた堺利彦の死は《リベラル-自由主義の屋台骨、そしてそれを社会主義へと媒介する存在がなくなり》、世相は不安定さを増し、三原山での心中の流行や東京音頭のときならぬ乱舞などがおこる、と。すると小津の作風も反モダニズム・ナショナリズムの勃興の影響を受けて変化する(p.238-)

大衆化は男性普選と治安維持法の同時成立という形で進展します(p.243)

[第四章 「グローバル化」の歴史像]

1955-75の高度成長は「家族の戦後体制」とも名づけられる(p.266)。

日本のきょうだいの多さは外国人労働者に頼ることなく経済成長を実現した(p.269)。

サザエさんの長谷川町子は自身だけでなく母も矢内原忠雄に傾倒し、宗教性を除いたプロテスタンティズム的生活倫理がみられ、それが朝日に長らく掲載されたことは、高度成長にすんなり順応できない大衆の心性を表す、と。マスオさんの同居は嫁姑問題を抜きに家族を描く工夫(p.270-)

リッツァの「マクドナルド化」=マクドナルドの作法に従う購買-飲食は学校、病院などの社会領域に及び、公共空間を支配している。これは政治性を排除して合理化を進められるヴェーバーの「鉄の檻」と似ており、日本においても画一的で没個性的な社会が形成されていく、と(p.287)。

目次
はじめに 三つの「手」
「歴史像」の伝達/「私たち」と「私」
■Ⅰ 「歴史叙述」と「歴史実践」
序章 歴史像を伝える
1 歴史の学び方
2 ジェンダー史から/で学ぶ
3 ジェンダー史の「歴史実践」
第一章 明治維新の「歴史像」
1 明治維新の「歴史叙述」
2 明治維新の「歴史実践」
■Ⅱ 「歴史総合」の歴史像を伝える
第二章 「近代化」の歴史像
福沢諭吉の三つの顔/男性啓蒙家たちの女性論/「女工たち」への視線/国民国家と帝国主義/森鴎外の戦争経験
第三章 「大衆化」の歴史像
新しい青年と,「民衆」=「大衆」の登場/イプセン『人形の家』をめぐって/「身の上相談」のジェンダー/「大衆社会」とメディア/『キング』とラジオ/小津安二郎とハリウッド/男性普選の実現と婦選の主張/市川房枝の「デモクラシー」と「総力戦」
第四章 「グローバル化」の歴史像
R「グローバル化」とは/「高度経済成長」のなかの女性/マクドナルド化する社会/村上春樹,および『ねじまき鳥クロニクル』
むすびにかえて 「戦後歴史教育」の軌跡のなかで
あとがき
「歴史総合」に役立つブックリスト

| | Comments (0)

September 18, 2022

『歴史学のトリセツ』小田中直樹、ちくまプリマー新書

610wmgdorll

『歴史学のトリセツ』小田中直樹、ちくまプリマー新書

今年の後半の読書は高校で必修科目となった「歴史総合」について意識的に読んでいこうと思っていまして、山川の教科書も3冊揃え、岩波新書の「シリーズ歴史総合を学ぶ」も読み進めているんですが、山川歴史総合の『現代の歴史総合』も書かれている小田中直樹先生の『歴史学のトリセツ』も読んでみました。

素人考えでは、近現代史を日本史、世界史というこれまでの区切りではなく、総合的にみていこうという流れは、世界システム論が定説化されて、近現代以降はナショナルヒストリーではなく「世界まるごと」で考えるものになってきたんだろうな、と漠然と考えていたのですが、『歴史学のトリセツ』ではランケ以来の近代歴史学史をわかりやすく解説してくれることで、今現在の歴史学の立ち位置をより深く理解することができました。

『世界』2022年9月号でも「歴史学(者)の役割とはなにか」という小論でも小田中先生は歴史学を学問たらしめている実証主義(同時に記憶の排除)、公文書至上主義(それはナショナル・ヒストリーに)、資料批判(欠如モデルにつながる)と史学の特徴と限界をまとめておられますが、こうした大きな見取り図を示してくれることが歴史に興味のある非専門家にとってどれだけありがたいことか。

学説史をまとめてもらうと、その分野の学問領域がおおまかに捉えられやすくなると思うのですが、『歴史学のトリセツ』は小田中先生自身がつぶやいておらるように「ランケ以来の史学史を追うなかで現在の歴史学の特徴と限界を考える一冊」となっていると思います。

二章ではその《ランケのスタンスを一言で表現する言葉があります。「それは実際いかなるものだったか」(wie es eigentlich gewesen)》。そして実証主義は今日に至るまで、歴史学の主流をなしています、と説明(p.45)。そして、出発点となる資料は口述より文書、私文書より公文書が重視されるようになり、公文書を作成するのはたいてい国家であるために、公文書至上主義はナショナル・ヒストリーにつながっていく、というあたりは、歴史学では常識なのかもしれませんが、うなりました (p.49)。

これによって《資料という研究対象をもらい、資料収集、資料批判、事実記述という研究手続きを踏むという学問領域》が成立し、歴史学は科学となった、と(p.54)。さらには《弟子など複数の歴史学者が特定のテーマや資料について議論しあうゼミナール(演習)という教育方式を導入》したというんですからランケは大したもんです (p.57)。こんなに偉い方とはまったく知りませんでしたwそして東京帝国大学の史学科の初代教員として招かれたのがランケの弟子、ルードヴィヒ・リースといので、ランケ~東大~史学会という流れが確定、と(p.60)。

さらに付け加えれば、戦前の東大の研究者は国定教科書の編纂に携わっていて、戦後も東大史学会が編集していた「史学雑誌」を支援してもらった経緯もあって「山川の教科書は東大の先生方が執筆」(野沢伸平山川出版社社長、日経2019年3月6日「歴史書ひと筋70年(3)」から)するとようになった、というさらなる流れも出来たんだな、と(ちなみに高校の教科書は学校ごとの採択なので、大手出版社が得意の小中学校向けの教員向け広域接待が非効率なため、山川の独壇場になっているらしいですw)。

三章は、単なる歴史愛好家の本好きにとっては、かえって馴染みのあるアナール派、労働史学、世界システム論などの流れの解説。イギリスなどでの《福祉国家の成立は、歴史学の領域では、民衆に対する関心が高まるという現象をもたらしました》として、労働者など民衆の生活や意識などが歴史学の重要な研究対象になっていった背景をスッキリ説明してくれています (p.71)。

四章は「ソシュール、登場」以降の言語的転向と歴史学についてのおさらい。個人的にはそれが社会的、言語的につくられているジェンダーという概念で性差を研究することにもつながっているのか、と蒙を啓かれました (p.103)。また、遅塚忠躬先生の本は大好きですが(とは言っても3冊しか読んでませんけど)、真実(トゥルース)と事実(ファクト)は違っており、歴史学者は真実にたどり着けないかもしれないけど、「まあだいたいこんなものだろう」という多くの学者が認めるコンセンサスは事実として確定されるだろうという見方を示していたというのは知りませんでした。コンセンサスが変化すれば事実は変わるが、それは歴史学の進化であるという遅塚忠躬先生は偉いもんですね(p.107-)。

あと、昔、友人に勧められて読んだ『ラディカル・オーラル・ヒストリー』の保苅実さんのことも思い出しました(p.130)*1。

ということでいつもの小田中先生の本のように読みやすく、もっと深く知りたいという方への案内もある、実に素晴らしい本なので、ぜひ。

【目次】
第1章 高等学校教科書を読んでみる
原因は高等学校歴史教科書か?/ナショナル・ヒストリーではみえないもの/欠如モデルの問題点/記憶が排除される背景/つまらないのにも理由がある

第2章 「歴史を学ぶ」とはどういうことか
歴史学の父といえば?/実証主義と「記憶の排除」/公文書至上主義とナショナル・ヒストリー/資料批判と欠如モデル/科学としての歴史学の功罪/ランケ以後の歴史学

第3章 歴史のかたちはひとつだけじゃない
科学としての歴史学は良いとして/アナール学派の成立 フランス/労働史学の誕生 イギリス/世界システム論 アメリカ合衆国/「マルクスとヴェーバー」から 日本・その1/「下からの歴史」としての社会史学へ 日本・その2/モダニズムがもたらしたもの/歴史学に対するポスト・モダニズムの影響とは?

第4章 歴史の危機とその可能性
言葉とモノ/ソシュール、登場/言語論的転回と歴史学/歴史学者たちの対応・その1 受容/歴史学者たちの対応・その2 批判的考察/歴史学者たちの対応・その3 無視/ポスト・コロニアリズムも忘れてはいけない/ポスト・コロニアリズムは、守備範囲を広げてゆく

第5章 世界がかわれば歴史もかわる
時代の節目、一九八九年/理論から実践へ/記憶研究(メモリー・スタディーズ)と個人的記憶/記憶研究と集合的記憶/ナショナル・ヒストリーとナショナリズム/グローバル化とグローバル・ヒストリー/一般のひとの位置と役割とは/コミュニカティヴな実践としてのパブリック・ヒストリー

*1
http://pata.air-nifty.com/pata/2004/12/post_8.html

| | Comments (0)

«『ジョン・フォード論』蓮實重彦