September 16, 2016

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』

Trumbo

 『ローマの休日(Roman Holiday)』は剣闘士を戦わせる見世物を楽しんだことを表す言葉でもありますが、奴隷の叛乱を描く『スパルタカス』の脚本もダルトン・トランボが書きました。トランボは第二次大戦後の希望さえも、奴隷たちの犠牲の上で築かれたということを忘れなかった脚本家です。

 ぼくが初めて彼の名前を知ったのは『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny Got His Gun)を「みゆき座」で見た1973年。『ジョニーは戦場へ行った』はこの年のキネマ旬報読者選出洋画ベストワン(ちなみに邦画は『仁義なき戦い』)でした。

 『ジョニーは戦場へ行った』は生真面目すぎて面白くなかったかな…。日本でいえば新日文的といいますか。ルイス・ブニュエルが監督候補だったという話しも聞いたことがあって(当時のキネ旬かな)、それなら少しは面白かったかもしれない、と思っていました。

 でも、パンフレットのトランボの言葉は忘れません。

 当時はまだベトナム戦争が戦われていました。うろ覚えですがトランボは「朝、あなたはテレビのニュースが『昨日のベトナムでのアメリカ軍人の戦死者は〇〇人、民間人の死者は〇〇人、ベトコンの戦死者は〇〇人』と伝えるのを聞く。しかし、あなたは『大変だ!大量殺人が行われている』と血相を変えて外に飛び出すでもなく、朝食を平らげて会社に行くだろう」という書きだしで戦争の悲惨さから目をそらすな、と訴えていました。

 というわけで、当時からダルトン・トランボがどういう人間で、赤狩りにあって大変な思いをしたというのは知っていましたが、下獄までしているとは知りませんでした。

 第2次大戦が終わると1947年にはもう赤狩りが始まり、ハリウッド・テンは議会で侮辱侮辱罪で有罪判決を受け、リベラル派の多かった最高裁に上訴したもの、リベラル派の判事が相次いで死去するという不運で1950年にはトランボも下獄という流れだったんですね。
 
 当時の渋谷は本当に名画座の宝庫で、子どもの頃から観まくっていまたんですが、1943年制作のハンフリ・ボガート主演の傑作『サハラ戦車隊』なんかもまだかかっていたのを覚えています。しかし、脚本のジョン・ハワード・ローソンは、赤狩り以降、まったく映画界からオフリミットにされてしまっています。

 『サハラ戦車隊』はカタルシスとはこれだ!と思った見事なラストを最初に教えてくれたプログラム・ピクチャーでした。

 このように、赤狩りは才能狩りでもあったわけですが、トランボはそれに抵抗します。

 トランボの「共産主義者のファイトと、資本家の狡猾さで戦うんだ」という言葉、素晴らしいと思います(どう戦い、相手をぐうの音も出ないようにするかは見てのお楽しみ)。

 ロバート・リッチ名義で執筆したダルトン・トランボはアカデミー脚本賞を受賞するんですが、笑ったのが『狂熱の孤独』でジャン=ポール・サルトルもノミネートされていたこと。赤狩りしているバカどもは、サルトルの本など読んだことなかったのでしょうw

 以下ネタバレあり。

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September 08, 2016

『丸山眞男講義録3』#3

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 この講義が行われたのは60年安保闘争の後の秋から冬にかけての半年間です。岸内閣の強行採決などに対して、丸山眞男は珍しく集会に参加して発言などをしています。

 それは、今から考えれば、安保条約の可否よりも、永久革命としての民主主義を守れ、というもの。当時の学生運動のリーダーたちからすれば物足りないものでしたが、決戦を叫んでも安保条約を阻止することはできませんでした。

 続く70年安保は学生と対立して研究室は破壊され、再開された授業は妨害されて早期退官に追い込まれました。丸山眞男は全学連に対して嫌悪感を持っていたんじゃないかと思うんですが、それは、やはり展望もなく決戦を叫び、しかも自己否定の論理(最終的には連赤の共産主義化論理につながる)という生活感のない心理を嫌ったのかな、と感じます。

 『講義録3』の結語では、安保闘争で敗れた学生たちに、克服されるべき思考法として既存制度の絶対化と共に、一切の制度的なものを敵視する混乱と同一化された運動を上げています。そして、この第三講では群衆(multitude)を否定的に語っています。

 70年安保の学生たちを丸山眞男が否定的に見ていたわけは、この第三講を読むとよくわかります。

 と同時に米国のトランプ現象や日本のB層なども遠く言い当てているんじゃないかとさえ感じます。

 また、ファシズムなど沸騰するマスの感情に依存する運動は、反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にするとしていますが、現代日本でもヘイトなどはまったく同じだな、と感じます。

 明るく清らかな自己否定も否定し、もちろんファシズムにつながるようなのも嫌悪する、みたいな。

 同時に「ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない」という言葉も印象的。なんでもワンセットで反対するような、今のゆとりっぽい運動家の姿も思い浮かんできます。

 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物だというあたりで思い出したのは、映画『Do the right thing』ですかね。

[第三講 集団とリーダーシップの政治過程]

[序説 集団関係への接近角度]

 同じ集団でありながら、共同体と組織は違う。氏族tribe・同族団・部落などの地域共同体は成員丸抱え集団であって機能分化が低いのに対し、組織はもっと明確に機能分化した集団であるから。

 しかし、日本ではコミュニティに擬制される伝統が強く、天皇制のように無限責任原理となる。そして無限責任は結果的に無責任になる。

[集団化の諸形態]

 群衆(multitude)に混乱がおきないのは、個々のactorが成長する過程で身につけたより大きなsocialization(しつけ)・instutution(制度)の規範が作用しているから。しかし、ある出来事によるイメージを共有することで集団を形成することがあるとして、マスの危険性について語ります。

 例えば扇情的な見出しやテレビの映像に晒された者たちは街頭のマスと似た心理状態になる。マスは組織と違い役割意識がないから暗示にかかりやすく爆発的に行動する。しかもマスのエモーションはネガティヴで他律的。抑制する組織がないために、出来事の呼び起こした恐怖、敵に対する憎悪は無限に増幅する。

 群衆(multitude)、マスのエモーションはネガティブであり、わけのわからない「うっぷん」など他律的。恐怖や憎悪が先行してテコになる。ファシズムなどマスに依存する運動が反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にする所以はそこにある(p.91)。

 マスはそれ自体が全体で、限界の外は意識しない。他集団との折衝とか問題を解決しようとかいう意図がそもそもない。

 社会における自分の場(position)がなくなり、あるいは分からなくなると、アウトカーストoutcasteの意識がはぐくまれる。その個人生活の無意味さ、卑小さを大群衆の中で忘却する。
 
 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物。

 だから、革命の歴史的意味と価値は、街頭分子を新たに編成された社会集団の中に吸収し、部署において責任意識をもって建設的な仕事にあたらせる第二段階へ移行したときに明らかになる、と。

 ヴォランタリー・アソシエイションが多様であり、またそれが不断に結成される社会は、本来のpublicな関心が下からたえず上昇する社会であり、その伝統のない社会では、閉鎖的共同体と、国家の官僚制・軍隊のような非自発的組織体の両者にpublicなものが吸い取られる。

 これに関連して丸山眞男は、自由討議・寛容による多様の中での一致という考え方でアメリカの開拓を進めたロードアイランドの建設者、ロジャー・ウィリアムズ牧師のことを紹介します。個人的にロジャー・ウィリアムズといえば、その子孫のロックフェラー副大統領(フォード時代)を思い出します。彼はホワイトハウスを去った後、愛人宅で腹上死したので有名です。鎌倉仏教で触れた蓮如が82歳で子どもをつくったのも驚かされますが「どうも、この手の話しが多いよな、宗教関係者には」という印象が個人的にはぬぐえません。

 脱線はこれぐらいにしておいて、この後は定義集みたいになっていきます。

 ムラには組織というイメージはない。

 国家とは特定地域を基盤とするorgnisiere Einheit(組織された一体性)。

 組織は意志や感情の一致体では必ずしもない、行動統一体。

 統一を確保ではないところに組織はない。

 支配とは服従を調達すること。

 集団化の極はmultitudes(群衆)と制度(institution)。

 制度とは制度的行動様式で、慣習、伝統、モーレス(破れば村八分になるような暗示的な強い集団の規範byサムナー)、儀式、法律はいずれも制度。

 人間の環境適応の決断と選択の労を最小限にし、心理的安定を確保するのが制度。

 制度が人間行動を定型化する機能が弱まると、actorは環境と自己の間に亀裂ができ、いかに行動するか分からなくなる。この心理状態をデュルケームはアノミーanomieと呼んだ。アノミックな状況は大衆運動の出発点となる。

 また、multitudesと、その対極である人間行動があますところなく制度化された閉鎖的共同体ではリーダーシップの問題は登場しない。

 カール・シュミットは「主権とは例外状態の決断である」と定義している。

[3 リーダーシップの課題と機能]

 どういうtraits(資質)をもった政治家がリーダーになる傾向があるかということは、カルチャーと密接に関連している。イギリスやアメリカがファシズムの政治体制下におかれたとしても、ヒトラーのようなタイプが指導者になるかどうかは疑問。

 また、ケネディとニクソンのテレビ討論をみても、肌触りがなめらかになり、大きな思想よりも経済や技術についての具体的なプランや数字について語ることを得意とするタイプがリーダーになってきているとしているのは意外。

 しかし「弱体な指導とは、第一義的には相剋する利害(quarrelling interests)の産物であって、その逆ではない」byベントレー。

 また、イギリスの伝統的governing classのようにリーダーの訓練を受けるチャンスに恵まれているとと、ますます統治能力がみがかれる。

 リーダーの問題は、具体的な人間に則していうならば、sub-leadershipの問題となる。これと密接な関係にあるのが、組織内のinformal groupの問題。もちろん、こうした組織によって、既存の法的な手続きで吸い上げられない底辺の感情や要求を上げることはできる。

 informal groupが革命の温床となった例も多い。

 一方、リーダーはつとめて共属感と組織のpublic imageを培養しようとする。リーダーシップの一般的課題と機能は以下の4点。

1)状況の定義を与えること、状況を再定義すること。
2)組織のゴールと戦術の提示(優先順位など)。《ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない》
3)内部の決定過程の組織化
4)Leadership selection(sub-leader含む)

 また、組織は人間行動の組織化であって、人間の組織化ではない。

 リーダーの消極的な統合手段として、もっとも重要なのは、集団が外的危機に直面しているというイメージを造り出すこと。友/敵の区別はどんな場合にもリーダーの不可欠な課題。また、反動的リーダーシップは積極的ゴールよりも、ネガティブな恐怖と憎悪をセメント剤とする。

 組織の過程は役割(権限)期待関係および情報(通信)伝達過程(関係)としてあらわれる。民主的指導と権威的指導の違いは、リーダーの権威が随行者の側からのrole(役割)の信託(trust)に基づいているか、つまり随行者によるtrustの撤回=指導者の変更が制度化されているかどうか

 ミヘルスは戦闘的な民主主義政党ほどOligarchie(寡頭制=オリガルヒ。元のολιγαρχiαというギリシャ語の意味は支配する選ばれし者。少ないという意味のオリゴ+首長という意味のアルケ)の傾向が強化されるなど、ヨーロッパの社会主義政党の研究から少数者による多数者に対する支配が必然的に実現される「寡頭政治の鉄則」(Das ehernes Gesetz der Oligarchie)を提唱した(p.123)。

 このあたりを読みながら、難航している参院合区解消へ向けて総裁直属機関の設置を検討するという自民党なども、ますますその傾向にあるな、と感じます。

 ラスウェルはリーダーのタイプをCrowd compeller(強制者), Crowd exponent(主導者、解釈者), Crowd representativeに分けているが、ガリバルディ、ナセルなどはCrowd exponent(主導者、解釈者)でリーダーシップの統合過程を通じて、Latent(潜在的な)、また漠然とした感情・要求を顕在化させ、より高い集団意志に統合した。そうした過程を通じて成員の集団への帰属意識を強め、指導者との同一化(われわれのリーダーだという意識)が促進される。

 Crowd compeller(強制者)は創造的リーダーシップで、マホメット、カルヴィン、トマス・ミンツァー、クロムウェル、ナポレオン、カンジー、レーニン、孫文、毛沢東などで、彼らは世の中のイメージの核を変えた、とも。

[結語]

 リーダーシップへの要請が指導者主義(特定指導者の神化、万能化)に転落する危険性と、逆に民主的政治過程がリーダーシップ抜きの無責任とindecision(優柔不断)に陥る危険性に対処することが重要。

 指導者主義の発生は根本的に随行者、卒伍の責任。

 また、悪しき指導者への糾弾は、これを更迭し、自らの集団内からこれに代える良き指導を生み出す能力と責任によって裏付けられないかぎり、積極的市民の政治的批判とはいえない。

 指導者個人にたいする悪口がいくら盛んでも、民主的な言論の自由が行使されているとはいえないし、そこからはリーダーシップを他人事でなく、自己の問題として打開していく姿勢は生まれない。

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September 04, 2016

『丸山眞男講義録3』#2

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 3巻は最初にも書きましたが、この政治学の講義は60年安保闘争が終わった直後の下期から約半年間行われました。その結語で丸山眞男は政治学が進むべき方向として、一般市民の日常的立場から操作的operativeなものであり、操作的なもの、可変性を含んだものとして現実をみて、政治オンチを脱することが重要だとしています(p.210-)。講義も主体である自我から始まって、集団化、指導、政党・代表制の問題へと上に向けて行われ、あくまで個人が中心であり、制度は固定されたものではないものの、混乱もまた問題だ、みたいなことも語られていきます。

 だから第一講では《政治の場では、認識主体と客体との相互移入関係が存在する。俳優でない観客はいない、芝居を演技しながら、芝居を見る。見ることで芝居が進行する(観客も常に俳優なのである)》ということが強調されていたんだな、と。

 そして《具体的状況での政治的選択は、つねに相対的に良いもの、あるいは悪さ加減の少ないものの選択》で、政治はやってみなければ分からない要素があり《一般原則によって汲み尽くされない賭けであるからこそ、それは自分の責任における賭けなのである》と個人がactorとなって政治に参加することで、状況も刻々変化する、ことを語っていたんだなと。

 第二講では集団化の問題を取扱います。

[第二講 政治的態度の形成と変化]

[1 政治的分析の諸方法]

 デモクラシーの発展によってフォーマルな制度だけでなく、社会集団の政治的機能と、そうした集団の統治主体および制度に及ぼす作用と反作用が注目されるようになりました。

 さらに上下の相互作用だけでなく、内外の相互作用も視野に入ってくるとして、上下の相互作用を象徴する思想家がマルクスだとすれば、第三段階を象徴するのはフロイトだとしています。

 岸田秀さんは"フロイトは本当は集団分析を個人分析に使ったのだ"と唯幻論を飽くことなく繰り返していますが《一定の心理傾向と政治状況との函数関係への着目は、すでにアリストテレスの政治学にもある》ということは、そうした視点が丸山眞男にもあった、ということでしょうか。

 ここからヒュームの「いかなる専制政治も人民の意見に基礎を置いている」という言葉を引き、テクノロジーの発展が個人の人格内部の葛藤や緊張からのカタルシスが政治行動として放出される現象が出現した、として政治的状況における相互作用関係のアプローチは様々あるが、一般市民が自分を政治に関連づける方法を考える場合「行為者の内から(行為者のmotivationから)」から考えることを選択します。

[2 政治的態度の形成と変化]

 私は同一化を通じて「われわれ」となる、と。政治の場に登場するactorsは「われわれ」→社会化された私であり、他者に伝達され共鳴者を見出す=Shared Image化されることを期待するとして「私は日本人」「私は大学生」「私は××党」というのは、みな同一化のシンボルだ、と。

 要求とはある事物へのヴァリエーションの表現で、価値とは欲求された目標としての出来事であり、「もう第3次世界大戦は起こらないだろう」という期待のステートメントには同一化も要求も伴わず、楽観的期待と悲観的期待があるだけだ、と。

 さらに、信念とは感情化された期待、忠誠とは感情化された同一化または要求、態度は同一化・要求、期待が行為によって表現される際に、その行為を完成しようとする傾向であるとした上で、actorである「私」から出発します。

 他のactorや場(field)に対する態度形成のプロセスをモデル化する際に、有機体とはセンスを通して出来事を受け取り、センスを通じて反応する、と何回も開講の辞などで示してきた認識論を紹介。また、テレビには新聞よりも意識的選択の指の間からこぼれ落ちる砂が画面に入ってくる、という評価も与えています。

 そして、個人の価値秩序(生命、安全、富強、平穏、地位、学問、芸術など)に照らして、より高い価値を追求、維持、獲得できるチャンスが多いほど、世の中を快適と思う、としてローウェル、ロシターによる政治的態度の理念型を紹介します。

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 ローウェルの図式で重要なのは、4巻の鎌倉仏教でも触れられた図式のように、4つに分けられたディメンションを個人が動く場合、必ず右旋回か左旋回し、斜めには動かないこと。

 さらにロシターのchangeに対する7つのattitudeの図が紹介され、Liberalismは現在の生活様式に満足しているし、conservativeも変化が人生と社会のルールであることは知っている。ただShowdown(勝負どころ)でLiberalismは安定より変化を、conservativeは変化より安定を選ぶ。改革に楽観的か悲観的かの差がでる、とします。

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 このあとローウェルのLiberal(L、リベラル), Radical(R、ラヂカル), Reactonary(Rea反動), Conservative(C、保守)の4つの分類を元に、その割合によって安定的な社会、前進的で実験的な社会であることを説明していきます。

 ローウェルの分析は《世の中に対する人々(actor)の期待(出来事のイメージ)が自我の要求にどのように影響するかを定式化したものとして先駆的意義をもつ》とのこと(p.67)。

 ちなみにCが独立からフロンティアの消滅までのアメリカや維新期から明治期前半の日本で、こうした社会は支配層が改革的だとしています。

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 また《リベラルがラヂカルよりもコンサバティブへ移行する場合は、将来の社会をつくりかえて改善していく展望が縮小していくテンポが、現状に不満足になるテンポを上まわっている》としていますが、これって、いまの先進諸国じゃないですかね。

 丸山眞男はさらに《若い世代が早くから世の中に満足し、享楽する場合には、Radicalsの一般的噴出が枯れてくることを意味するので、その社会の停滞性の重要な兆候といえる》とも。

 日本の場合、民主化は敗戦後にアメリカのニューディーラーたちによってもたらされましたが、これによって《革新政党が「現在すでに得た価値」に満足し、それを失うまいとすること、保守党が現状に不満である》というねじれを生みます。原水爆禁止問題や安保闘争でも、そうした「保守意識」からの大衆運動というモメントが含まれている、と。

[3 政治的態度の構造]

 ラヂカルな行為は必ずしも態度としてのラヂカリズムに照応せず、自己欺瞞からそういう行動をとっている場合もあるとして《あてにならないという点では、言葉も行動も同じである》と。

 《価値(安心・財産等)が脅かされるという恐怖感、あるいは団結者にたいする嫉妬感、自己の孤立感(不安感)といった心理的媒体によって、はじめて客観的条件と、人々の政治的反応の仕方とが結びつく。歴史的にも見ても、社会のラヂカルな変革運動を抑圧することにもっとも熱心な声は、しばしば、財産と所得において上位に位置する層よりもむしろ中間(middle)から下層中三層(lower middle)に属する人々の間からあげられるのはそのためである(プチブルの動向の決定性)。支配層は、これを利用する》

 《大衆の消費生活が向上し、平均化が進むにつれて、かえってきわめて小さな不平等(限界差、marginal difference)が不満(status anxiety)を引き起こすようになる》というあたりを、1960年の段階で予言していたのは、凄いな、と。

 さらに、こうした問題をロンドン軍縮条約や戦後の米ソ核開発に敷衍して《心理的要因が政治の世界で独自のファクターをなしているかが分かる》と。

 「威信とは、他者の自己についてのイメージ」というあたりも、なるほどな、と。

[4 政治的無関心の問題(権力状況からの引退の態度)]

 ローウェルの分析は、人々が世の中を動かすことに関心を持っているとこが前提となっています。それは経済法則が高い利潤より低い利潤を望む人間actorを想定したら成り立たないようのと同じだと(p.64)。しかし、政治に関しては、実際はそうなっていないとして非政治的態度の三類型をラスウェルに従って示します。それは1)無政治2)脱政治3)反政治。

1)無政治は芸術家や学者に見られる、特定領域への関心の集中やコミットメントが高度である反射としての無関心
2)脱政治は政治的幻滅に基づく関心度の減退(期待・要求が大きければ幻滅も大きい)
3)反政治はアナキストやある種の宗教家

 政治的関心が高い人間が脱政治的態度に移行する場合、人格構造は不安定になり、その結果ダイナミックな政治行動として再噴出する可能性があるが、政治嫌悪が更新すると反政治的確信に基づいて政治行動を起こすというパラドックスも起こりうる。後者の場合、Lesser evilの観念がないから、bestを求める心情的ラヂカリズムによってworstな結果をまねくことがある。

 また、ダイナミックな政治行動として再噴出する場合も、無力感をひめた参加は、実質的にアパシーに近くなる、としてナチ運動を支持した大衆心理を説明しています。1930年のナチ大進出の投票行動を調べると、前回まで棄権していて、この時の選挙でナチ党に投票した者が非常に多かった、と。それは非合理的情動的選択だった、と。

 現代はイデオロギーの時代だとはいわれるが、19世紀の偉大な思想家によって生産されたイデオロギーに寄生し、寄食している時代だ、とも。

 また、ヴェーバーのいう意味でのBetrieb(持続的方法的経営)の発達、専門化と分業化の進展は、それ自体まさにアパシーの発酵源にもなり、こうしたアパシーの日常的な浸潤は、デモクラシーの胎内を蝕み空虚化する、と。

 ミルズがアメリカのホワイトカラーのアパシーをinactionary(無行動的)としていましたが、60年後の日本も、それかも。日本のアパシーが深まったのは、実質的な決定を行政が行い、再配分を労組や圧力団体で競うという現実も関係していたかもしれません。

 また、《態度として積極的に進歩的でも保守的でもないということは、政治的状況における意味としては、ヨリ保守に加算される》という見立ては、なるほどな、と。

 丸山眞男は、この第三講を締めくくるにあたって、デモクラシーの考え方は、政策の良否を最終的に判断する資格があるのは、その立案者ではなくて、その政策によって影響を蒙る者だというところに根ざしているとして、《場にあって場をこえた展望を持ち、場にあって生活と拠点をもった―東奔西走の志士的活動でなく―パブリックな関心と行動》を持ち続け《大衆に根を下ろした貴族主義が必要》だとしています。

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『丸山眞男講義録3』#1

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『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 全7巻の講義録の第1巻の腰巻きには「主著ともなるべき幻の作品群」と書いてあります。

 最初は「退屈するかもしれないから」ということで、少しでも時代的な接点の近い7巻から読み始めたんですが、まったく飽きませんでした。時代的な制約もあっていまの社会学の最前線に関しては触れられてはいませんが、問題の本質に突き刺さる角度は鋭角だと感じるし、その切っ先は真っ直ぐ核心を向いていると感じます。

 全体の構成をみると、何回も書きますが4巻から7巻は日本の原型を古代から江戸末期まで歴史を追って解説する「丸山眞男による日本通史」となっています。

 そして3巻が政治学。60年安保には関与しながら、70年安保の全共闘からは批判された丸山が、政治オンチになってはいけないと学生を相手に語ります。それも抽象的な概念を操作するのではなく

現実-夢=動物(夢のない現実主義者は動物にすぎない)
現実+夢=心痛(理想主義)
現実+ユーモア=リアリズム(保守主義の資質)
夢-ユーモア=狂信
夢+ユーモア=ファンタジー(詩人)
現実+夢+ユーモア=叡智
現実-ユーモア=ただのリアリズム(所与性に密着し追随する態度)

 というような公式を披露したり、各国の人々の気質を論じたり論壇風発。60年安保を戦ったであろう学生たちに《政治を決して甘く見ず、したがって簡単に「挫折」せず、政治の困難さを充分承知しながら、しかも「脱政治化」してアパシーに陥らず、まして「二度目の政治参与」としての「ヒステリックな暴風のような」「過政治化」にも走らず、ユーモアを忘れない「能動的市民」として生き続けるように、静かに勧めていた》そうです(解題 p.227)。

 1巻と2巻は「日本(東洋)政治思想史講義」で、特に2巻は国民国家をつくり近代化を成し遂げる際になぜナショナリズムが必要だったかを論じ、それが通過儀礼であったことを語ります。

 この巻だけ横組みの第3巻の目次は以下の通り。

第1講 政治的思考の諸特質
第2講 態度・意見および行動
第3講 集団とリーダーシップの政治過程
第4講 政党および代表制
第5講 統治構造論

 週2回行われた講義は600人収容の大教室で行われ、第1回の60年10月から最終講義のあった61年2月にかけては、浅沼委員長刺殺、ケネディ当選、衆院選挙での自民党圧勝、池田内閣の所得倍増計画発表などの出来事があり、カラーテレビの本放送が開始されたその年は、《東京の大半が焦土だった敗戦の日から数えて、16回目の秋と冬の時期であった》そうです。

 また、この講義は「政治原論」を目指したものではありません。講義の構成は主体である自我から、集団化、指導、政党・代表制の問題へ下から上へとたどりつつ発展させていっていますが、体系化を目指した内容になっていません。「日々デモクラシーを創造してく市民の立場から、状況をいかに把握し、いかに操作してゆくかということを中心に考える政治学」「技術としての政治学(Political in art)を市民としての立場から構築してゆく方向」を語ったものである、と解題されています。

 このため第2講では「パブリックな事柄への日常的な生き生きとした関心を持続する」ための対処法が示され、第3講では「悪しき指導者への糾弾は、これを更迭し、自らの集団内からこれに代える良き指導を生み出す能力と責任によって裏付けられないかぎり、積極的市民の政治的批判とはいえない」とあくまで市民が対象となっています。

 また、期末試験は、以下の2つの命題について論評せよというのが問題だったそうです。

1)政治は可能性の技術である
2)極左と極右は相通ずる

[第1講 政治的思考の諸特質]

 《現実の政治の場で見られる人間的行動は理想や情熱を持って行われ、必ずしも認識態度としての政治的リアリズムを伴うとは限らない。しかし、政治的判断を他の宗教的・道徳的判断からとくに区別する基準となるのは、やはり政治的リアリズムである》

[1 政治的リアリズムと状況認識]

 それゆえ《政治的未熟さを隠蔽する口実として、つまり、自分の読むことのできなかった政治的状況の困難性を隠すために、意識的もしくは無意識的に、出来事の一切を特定の邪悪なるもの、もしくは敵の悪辣な陰謀に還元する》泣き言は最悪の弁解であり、政治的無能力の告白である、と。

 《世界のあらゆる出来事をユダヤ人の陰謀に、共産主義者の着々たる計画の実現に、あるいはウォールストリートの意図に還元する思考は、政治的に未成熟な風土におけるほど行われやすい》というあたりは、講義から55年たっても、世界が変わっていないことを示しています。

 すべてをたえず状況認識の次元におろして考察することが肝要であり、ある状況の下で何をするか、その役割(role)を見ていく必要がある。

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September 03, 2016

『君の名は。』と清浄度Iの場所

 TwitterのTL上で見たという人がどんどん増えている感じが『シン・ゴジラ』と似ていたので、まあ、面白いんだろうな、ということで見てきました。

 物語はさておき、日常生活を小津、加藤など日本映画お得意のロー・ポジションで見せ、後半はロー・ポジションから仰角にふるロー・アングルで空を見せていたのが印象的(ロー・ポジションとロー・アングルは違う、なんて議論が大昔、加藤泰監督作品の映画論でやたら語られていたような記憶があるのですが、それを意識的にやっていた印象)。

 日本映画お得意のロー・ポジションは狭い部屋の中をいっぺんに効果的に見せてくれるし、そこで生活する人間の日常までも表現してくれるな、と。

 あと、ロー・ポジションで閉まる障子が田舎の生活を、閉まる電車のドアが都会の生活を表していたのかな。

 印象的だったのは、東京の風景。

 四谷、千駄ヶ谷、新宿などの見慣れた風景が、すでに懐かしい。

 アニメで描かれた実景が、妙に懐かしいのは、日本の風景が再開発によってつくるそばから壊されていき、移ろいやすいからかもしれません。

 あと、10年したら四谷の風景なんかも違ってくるかもしれないし。

 アニメにはそれほど詳しくはありませんが、奇しくもオウムサリン事件と阪神大震災があった1995年に公開された大友克洋の『MEMORIES』第2話「最臭兵器」で描かれた甲府市の忠実な描写や、同じく1995年公開の近藤喜文監督の『耳をすませば』の聖蹟桜ヶ丘の風景は、描かれた瞬間に懐かしいというか、もう帰ってこないものとしてあったような気がします。

 あと、口噛み酒はセクシー(その理由はContinue reading以下に書きますが、つまらないものは読みたくない、という方はご覧になりませんように…)。

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August 27, 2016

『丸山眞男講義録7』#6

『丸山眞男講義録7』丸山眞男、東京大学出版会

 1967年度の講義をまとめた7巻から逆に読んでいき、4巻まで丸山眞男の日本史観、日本思想史観を読んできたわけですが、最後に、これまでまとめを書かなかった講義録7の掉尾を飾る三章「思想運動としての国学」で大団円にしたいと思います。

 講義録の元となった丸山眞男愛用のルーズリーフノートをみると、この章は63年度講義用に書かれた自筆原稿をファイルしなおし、原稿を加えて行われたとのこと。

 宣長の思想の《江戸時代における思想史的位置づけについては、若干の修正を要する》(p.280)として、《宣長の日本政治構造観が「原型」の統治観と照応しているという見方》を強調したp.296-298を加え、さらにp.300-からの汎美主義の政治的帰結、国学における「学問」意識の独立などの完成稿も加えた、という構成。

 4巻から7巻まで1200頁近くをかけて語りかけた講義の「むすび」で丸山眞男は、儒者の言説の陳腐さなどを指摘するのはたやすい、としています。

 これで思い出したのは『丸山眞男説話集1』。

 「歴史を学ぶことの意味」などを語った公演で、丸山眞男が卒業した3~4年前は東大法学部の就職率は20%にすぎず、80%が失業だった、というんですね。それが、満州事変(1931年の柳条湖事件)以後、軍需景気で良くなったけど、まだ卒業時に40%は職がなかった、と。また、自由民権運動の活動家は、ルソーの『民約論』を泣きながら読書会で読んだ後、剣舞をやって解散した、と。今となっては信じられないことですが、こうした想像力を自分の中に養うこと=今じゃない時代に対するイマジネーションを養え、と(p.355)。さらには、人類の長い歴史からみれば、蘇我馬子も頼朝も昨日の人なんだみたいなことも語っていたんですが、そうしたことを改めて思い浮かべます。

[第三章 思想運動としての国学]

 国学は、日本の原型の方法的自覚・復元をテコにして、儒学や仏教など外来イデオロギーの異端性を暴露しようとした運動で、維新以後も西洋から流入するイデオロギーのエセ普遍主義を暴露する土着的特殊主義となり、現在まで日本のナショナリズムは国学の設定した射程を出ていない強力な論理だとしています。

 それは《鎖国による外部からの刺激の遮断のため、精神生活の底辺に沈殿していた原型的思考と価値意識が発酵作用を起こし》たという《特殊江戸時代的な条件の下における「原型」のふきあげ》だったと。

[国学運動の三つの源泉]

 思想運動としての国学はほぼ江戸中期に発し、以下の3つが源泉。

1)歌学の革新(秘伝口授など中世的な伝授形式への批判と精神の表現形態としての歌学の強調)
2)素朴な主体性の自覚、天皇統治の正統性を根拠としての革命否定という二つの側面を持つ垂加神道で強調された国体論
3)国学と正反対の立場から神儒一致のシンクレティズムを排し、「聖人の道」が伝わる以前に清かった人々の心は、儒教・仏教の摂取によって汚され、歪曲されたという古学・古文辞学

 それは歌学を通して歌の心を明らめるという側面と、記紀などの神典を通して古道を明らめるという両面を不可分に含む、と。

 また大和意と漢意の対比は、歌学や日本古典研究のなかから抽象された思考様式や感じ方を、儒教的思考と対置するなかから生まれた。

[漢意と大和意 分説]

 漢意は何らかの概念装置、価値基準を先天的に与件として、それを認識対象にあてはめる思考様式。

 大和意は認識主体における一切の先入主をすべて一度括弧に入れて、対象に即し、それを内側から把握する方法。国学は偏狭な日本主義に陥ったが、世界像を儒教から解放した。

 国学運動は自然のままの「真心」の純粋性を尊重し、それを外からの「教え」によって矯めようとする傾向に反対する。

 賀茂真淵の場合、「直き心」とは、たくましき雄渾な荒魂であるとしたのに対し、宣長は女々しくはかなき感傷的精神に人の「真心」を見出した。

[もののあはれ説の展開]

 「もののあはれ」説は源氏物語研究と結びついており、『源氏物語玉の小櫛』で大成される。

 歌の精神が古道の中核におかれ、仁義礼譲などのこちたき名目を教えんとする漢意に対置された。古道は古代の天皇統治の道だが、倫理的・政治的価値基準から解放された芸術的精神を基準とするところに、ディレンマが生じる。

 宣長は祭政一致を理想化せず、政治の唯一の行動様式は、自然の感情の発露からのイデーではなく、上なる権威への敬虔と奉仕だとし、政治的なるものを服従者の立場と倫理にすべて還元した。仁政や德治など上からの儒教的政治論は無意味とし、下から上への奉仕行動の連鎖運動が政治過程の実体だ、と。

 政治は天皇の「ことさし」(委任)に基づく俗事だが、すべては天皇への奉仕であるから、天皇はまつりごとをきこしめす立場としてつねに日本に君臨する。総じて治乱は下の者が上の者にいかによく服従するかによるものとなる。

 また、天皇もアマテラスの心に従って統治し、臣民も人民もそれに倣って自己のさかしらを立てないところに上下和合が実現すると考え、幕藩体制も天皇から暫時的な委任として肯定し、歌を残している。

いまの世は今ののりをかしこみて異しきおこなひ行ふなゆめ

[幕藩体制と国学]

 国学が天皇親政に復れと叫ぶ復古イデオロギーとして幕末維新期に政治的に登場しえたのは平田篤胤が歌学に基礎づけられた宣長の方法的一貫性をすて、国学を「古道」イデオロギーにまで再構成したことによってであり、その瞬間に国学は、儒教はもとよりキリスト教神学の教義までも取り入れた奇怪な折衷物へと転化した。

[汎美主義の政治的帰結]

 公の政治に言いののしる病を批判した国学者も、弟子や自らが義挙に加わるなど思考と行動の矛盾が見られた。

 美的価値を絶対化する汎美主義によって世界を包摂することが帰結となる。

 なまの政治的現実への関与の意識がないから、自己の行動に対する責任意識が生まれる余地はなく、こうしたロマン主義的思考の政治態度は、キエティズム(Quietism、静観主義) と激烈な反政治的爆発行動とのどちらかに帰着するか、あるいはその間の往復運動がくりかえされる。

[国学における「学問」意識の独立]

 国学は価値判断をふくんだ「教え」、ドグマなどを学問領域から放逐した。学問的認識とイデオロギーとの関係を方法論の問題として論議にのせたのは、日本の思想史では国学運動が初めて。

[むすび]

 儒者の言説の陳腐さなどを指摘するのはたやすいが、儒者が問題にしたのは、いかにして人間と他の禽獣を区別することが可能かということであり、それは「礼」だった。「礼」による差別にこそ、人間の尊厳という理念がかかっていた。こうした考え方を理解しなければ、江戸時代の儒者の問題意識はとらえられない。

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August 26, 2016

『蓮如 聖俗具有の人間像』

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『蓮如 聖俗具有の人間像』五木寛之、岩波新書

 20年前に出た本で、読んだのも忘れかけていたのですが、丸山眞男講義録で真宗と蓮如に関して書いていたら、いろいろ思い出しました。

 著者は蓮如のことを聖俗具有のモンスターと呼びます。

 蓮如はうち捨てられたような本願寺に父・存如と「いずこの人なるを知らず」という女性との間に生まれました。親鸞の血は引きますが、生まれからすると卑種栄達の人生を歩むことになります。

 貧しい部屋住みのような生活が続き、庶子ながら法主となったのは43歳。当時、最大のサポーターだった関東の信者たちは、親鸞の血縁というだけで本願寺を頂点とした組織化を図ろうとしていた親鸞一族に反発ししており、寄進も減り、寺もボロボロだったようです。

 法主となった蓮如は他力信仰の純粋さを保つため、存如の正妻とその子たちが接近した延暦寺との関係を断ち、それによって僧兵の襲撃を受けて最初の本願寺は破却されてしまいます。これは応仁の乱の起こる2年前というのですから、世のすさみ具合もわかろうというもの。

 身を寄せたのは琵琶湖一帯での運送を担っていた堅田(かただ)衆。ここでも延暦寺とは一進一退の攻防を繰り返しますが、日本史的にも惣村が成立した時期でもあり(この当時にできた村が現在でも続いています=現在は600年前に形成された風景が失われつつある時代)、この惣を基板として目につけ、信徒たちが寄り合って話しながら他力信仰を語る「講」で布教を行います。

 堅田衆と延暦寺との抗争が続く中、蓮如は堅田を立ち去ります。うろ覚えですが、ここらあたりは親鸞の「仏縁つきたと思ったら、その地を去れ」という言葉や、新約聖書の「また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」を思い出します。

 マルコなどの「足の裏のちりを払い落とせ」という命令は、一見、潔い感じも受けますが、蓮如のケースなどをみると、やっかいなことにならない間に静かに立ち去る、というイメージなのかな、なんて考えたりして。

 向かったの北陸の吉崎。ここで蓮如は真宗の大ブームを巻き起こしますが、あまりにも急激に広がった組織は蓮如の統制が効かなくなり、他の念仏集団(仏光寺派、高田派、三門徒派)との内ゲバなどが激化。アジテーターではあっても組織者ではなかった蓮如は嫌気がさし吉崎を離れては戻されたり、門徒から逆ネジを食わされたりします。

 やがて1474年(文明6年)には守護富樫政親の要請を受けて門徒衆は合戦に参加して勝利しますが、2000人の死者を出し、様々な批判を受けた蓮如は1475年に吉崎を去り、山科から石山(何回も書きますが現在の大阪城)に拠点を移します。

 その後、門徒衆は1488年には20万人で富樫を囲んで自害させ、約百年にわたって「百姓の持ちたる国」をつくりますが、それを蓮如はどのように見ていたんでしょうか。

 蓮如は28歳の時に初めての妻を迎えましたが、その後、妻たちは次々と蓮如を残して死にます。まったく信じられないのですが、蓮如は5人の女性に13男14女あわせて27人の子を産ませて、最後の蓮能という若い女性が子どもを産んだのは84歳の時という性生活を送ります。

 こうしたことも含めて蓮如というのはモンスターだな、と。

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『丸山眞男講義録4』#6

『丸山眞男講義録4』丸山眞男、東京大学出版会

 いよいよ、古代王制から進められきた原型と普遍的規範の相剋の話しが複合的になってきます。それまでの「外国」からの普遍宗教であった仏教が、最澄以降、日本人の頭によって咀嚼され、世界的な高みにまで登った鎌倉仏教と、どのように絡み合うのかに移っていくわけですから。

 しかし、鎌倉仏教は一向一揆が信長などによって粉砕されてしまいます。以降は、やはり外国の宗教であったキリスト教が個人の内面的尊厳の自覚を呼び起こすことになります。しかし、それも島原の乱で潰滅され、それ以降《下層民衆はもはや直接的におのれの上に君臨する世俗的権威を超えた普遍者にアピールする途を閉ざされ》ることになりました。

 もちろん、それは一向一揆の集団の統治能力のなさが原因ではありますが、浄土真宗の八代法王蓮如から十一代法王顕如までの経験も他の教団とは比べものにならない深さがあると感じます。武装蜂起した下層民を抑えかね、最初は法王である蓮如自らが立ち去らなければならなくなったにもかかわらず、一定の権力を農民たちが持ってしまった後は、信長との石山決戦まで進んでしまうという流れは、やはり親鸞の形而上学的達成だけでなく、形而下でも真宗の善悪含めた巨大さを改めて感じます。

 加賀一揆では「にこにこにて身命も捨て」と檄を飛ばし、信長との石山決戦では破門もちらつかせながらの檄文まで発した本願寺は、リアル『邪宗門』といいますか、これほど「砦の上に我らが世界、築き固めよ勇ましく」(ワルシャワ労働歌)コンミューンをつくった集団は日本になかったと思います。

 丸山真男は真宗の経験を踏まえてとは直接、書いていませんが293頁と314頁で要旨、以下のようなことを繰り返しています。

 政治的リアリズムは、正義価値と秩序価値のバランスの上に成り立っている。秩序価値がなくなると正義価値だけが昂進し、圧倒的多数の人々に浸透できなくなる。組織化さえも秩序価値を前提としているが、それが強調されすぎると革新のエネルギーはなくなる、と。

 すべての社会運動は最後に勝てばいいから敗北を前提としているとは言われますが、それにしても、極端なことを主張すれば圧倒的多数の人々には浸透しないということを、わかっていない人たちが多すぎるな、と感じます。

 丸山真男は講義録3で、60年安保直後に「政治原論」のような講義を行い、そこで《政治を決して甘く見ず、したがって簡単に「挫折」せず、政治の困難さを充分承知しながら、しかも「脱政治化」してアパシーに陥らず、まして「二度目の政治参与」としての「ヒステリックな暴風のような」「過政治化」にも走らず、ユーモアを忘れない「能動的市民」として生き続けるように、静かに勧めていた》そうです(講義録3の解題から p.227)。

 親鸞は偉大で、蓮如は亜流と感じていましたが、農民たちを一揆に立ち上がらせないように説得し、それができないとわかると戦争指導を放棄して吉崎を退去するという行動は、一見、無責任にも思えますが、重い決断だったと感じます。この後、本願寺は各地の一向一揆を抑制しようとしますが、末寺の組織化=門徒組織の系列化が進んでしまい、それを危険視した戦国大名と、まるで思った方向とは別の戦いに進まざるをえなくなるという悲劇を経験した組織は、なかなかありません。まるで、太平洋戦争の陸軍みたい。

 蓮如と吉崎退出に関しては、護経的な小説とそれを元にした映画しかなさそうですが、いつか、もっと詳しく知りたいと思います。蓮如から顕如にかけての法王四代は、アンバレンツで悲劇的な決断を自ら下した、日本における数少ないリーダーだったと思うので。

 また、法然はそれまで布教の対象ではなかった無知蒙昧な農民たちを初めて含めた、というのもなるほどな、と(それまでは社会の上層部だけが対象)。個人的に法然に関しては、マル経の宇野弘蔵先生が、法然上人が大蔵経を読んで南無阿弥陀を発見したように、資本論をよんで発見したのは労働力の商品化だ、と語っていたあたりが印象に残っているんですが、宇野先生にも、こうしたパースペクティブがあったのかもしれない、と思いました。

[第五章 鎌倉仏教における宗教行動の変革]

[序説]

 福沢諭吉は『文明論之概略』の中で仏教を強烈に批判しています。

 日本において自立の宗教などは聞いたことがないとして《独り一向宗は自立に近きものなれども尚この弊を免かれず。足利の末、大永元年、実如上人の時に天子即位の資を献じ、その賞として永世准門跡とて法親王に准ずるの位を賜りたることあり。王室の衰微貧困を気の毒に思うて、有余の金を給するは、僧侶の身分として尤ものことなれども、その実は然らず、西三条入道の媒酌に由り、銭を以て官位を買いたるものなり。これを鄙劣というべし》と浄土真宗までもコキおろします。もっとも当時は日本だけでなく世界の思想史上でも重要な親鸞の思想は、ほとんど知られていませんでした(歎異抄などが読まれるのは明治期以降)。

 さらに《然り而してその威力の源を尋れば、宗教の威力に非ず、唯政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず》と、徳川時代には末端の行政組織としての役割ぐらいしか果たしていなかったとして《その勢力なきの甚しきは、徳川の時代に、破戒の僧とて、世俗の罪を犯すにあらず、ただ宗門上の戒を破る者あれば、政府より直にこれを捕え、市中に晒して流刑に処するの例あり。かくの如きは則ち僧侶は政府の奴隷というも可なり。近日に至りては政府より全国の僧侶に肉食妻帯を許すの令あり。この例に拠れば、従来僧侶が肉を食わず婦人を近づけざりしは、その宗教の旨を守るがためにはあらずして、政府の免許なきがために勉めて自ら禁じたることならん》とまで書きます。

 丸山眞男は福沢諭吉を高く評価しますが、こうした批判を最初に2頁にわたって紹介した後、少数ではあったが、烈々とした光をを放った思想と運動が、鎌倉仏教の初期にはあったとして親鸞、道元、日蓮などの思想を紹介していきます。

 彼らの著作は《単なる経論のスコラ的注釈ではなく、時代の深刻な苦悩を直視する認識を、さらに自己の内面の奥底からの体験によって深化させたところに生まれた魂の叫びであった》とします。そして三人について、日蓮は伝統と比較的つながっているが、親鸞と道元は切れている。宗教的情操の豊かさにおいては親鸞に及ぶものはなく、哲学的論理の透徹さでは道元がもっともすれ、日蓮は「予言者」的実践の強烈さがある、としています。丸山眞男がプリントで「予言者」としているところは、まだ聖書学が十分伝わっていない時なので仕方ないでしょうが、「預言者」としたいところです。

 日本における仏教は、鎌倉仏教までの道のりを振り返ると1)呪術的な力の所有者を仰ぎ見て祈願する2)絶対者の懐に抱かれることによって永遠の生命に参与しようとする遁世3)人間の有限性を高次に自覚して、遁世によって1回的に救済へ到達するのでなく異質な次元への飛躍と認識する、という具合に進展していきます。

 ここに至って、この飛躍は、人智をもって不可測な絶対者の側からの恩寵に摂取されてのみ可能であるという側面だというを強調すれば法然から親鸞に至る他力信仰となり、飛躍が一回的な出家遁世によってもたらされるものではなく、不断の真理への実践のプロセスにあり、実践過程が得道であることを強調したのが道元の「自力」の立場だった、と。

[一 絶対的他力信仰による非呪術化 親鸞]

 真宗に関しては講義録から少し離れる部分も含めて自由に書きます。

 法然は遁世の系譜。《布教対象としてまったく無知無学の人々をも含めたのは法然がはじめてである》。善根功徳を条件としない往生という立場から、絶対者と一個の人間との出会いが定式化され、「我が身ひとりよくよく往生願う」という個人主義は、「不信の衆生をもおぼしめす」という慈悲の前の平等性から、他人との連帯感情が生まれる、と。

 親鸞は叡山を下りて妻帯するのですが、持戒の立場に立って破戒を糾弾する新約聖書のパリサイ派のような伝統仏教の徒に対して《構造的に濁世末法の世であることの意識を欠いているために、自らの生そのものがすでに業罪だという内面的自覚を持たない》とみる一方、自らの立場を非僧非俗と規定します。

 求道者の偽善性を暴露したり、肉食妻帯の生活を即時的に肯定しても、安定した低い位置から理想を欣求する者の姿勢を笑っているにすぎない、というあたりの書きっぷりは素晴らしいな、と感じました(p.239)。

 《信仰自体が一歩の差でデカダンスになる》《信仰とは安心立命の「状態」ではなくて、千仞の谷間への顚落の危険を不断に冒しながら、ぎりぎりの小径を歩む行動のプロセスなのだ。総じて人生とはそうしたものだ》というあたりは、珍しく自分語りをしているように感じます。

 恩恵的利他主義を否定し、自分のためだけの救済であることを案じ、絶対者の前にただ一人で直面し、自己の煩悩罪業を内省すること。《それが絶望的に深まったときに、はじめて救われていることの喜びが自覚される》なんてあたりも。

 《特殊な人間関係をいったん断ち切ることから逆説的に生まれた連帯感であるから、「開かれた」連帯感として、無限に自己から世間へと拡がってゆくダイナミズムをもつ》あたりも素晴らしい。それはマタイ伝にいう隣人愛=友愛のuinversalismだ、と。

 『教行信証』の「出家の人の法は、国王に向ひて礼拝せず、父母に向ひて礼拝せず、六親(親類づきあい)に務めず、鬼神を礼せず」あたりも、『菩薩戒経』からの自由な引用であるとは思いますが、親鸞は共観福音書の中国語訳 『世尊布施論』(異端として排斥されたネストリウス派=景教による)を読んでいたんじゃないかと勘ぐりたくなります。

 とはいうものの、《自分の往生が決定していない人は、なにより自分の往生のために念仏すべきであるが、すでに弥陀の救済を確信しえたものは、仏恩報謝のため「世の中安隠なれ、仏法ひろまれ」と念仏すべき》であるというあたりは、好きではないのですがカルヴィン的な神学を感じます。

 しかし、悪人正機説は、いまでいうポピュリズム的ワンフレーズポリティクスのように広まってしまった面もあります(師である法然は布教対象としてまったく無知無学の人々をも初めて含めたわけですから、明治期の自由民権運動みたいな感じだったのかもしれません)。だから、他の神仏を軽蔑したり、年貢を払わないなどフリーダムすぎる行動に出てくる人たちはどうしても出てくるわけで、晩年の親鸞は、こうした人々への対応に追い詰められます。

 親鸞はこうした人々に対して1)神仏軽侮・造悪無碍はいけい2)それが抑えられるのは仕方ないことで、処置は権力者にまかせるべき3)しかし邪義をとなえたものの往生は願うべき4)領家・地頭・名主は、百姓の一部がこうしたひが事をしたからといって、百姓全体を苦しめる措置をしてはいけない―と書きます。また、地頭などの武士にたよって念仏をひろめようとしてはいけないともさとしています。そして、内面的信仰にはいかなる俗権もも立ち入れないという立場を堅持し、俗権と同じ次元に自分をおくことを避けます。

 この後、真宗は一向一揆に突き進むわけですが、親鸞の《国家と社会の二元性はこの思想の上のみ確保される》という理念は《真宗の発展は親鸞の思想から遠ざかっていく過程とはいえ、下層農民に依拠した自発的集団というその初期のパターンが内包する巨大な社会的・政治的可能性を暗示している》と。

 親鸞は愚禿と称しますが、禿とは「衣食のために出家した破戒僧」という意味があるとは知りませんでした。

 《在家主義がEntzauberung(脱呪術化)〈反呪術主義〉によって随伴されるときは、自他の生活態度を合理的に改造してゆく力となる》とプロテスタンティズムとの類似性を指摘して親鸞の講義は終了しますが、力が入っていることは講義録からもわかります。

 親鸞のあと、道元、日蓮などの思想に触れていきますが、最後は再び真宗にもどり、一向一揆と蓮如、顕如の対応について掘り下げています。

 大河ドラマで比叡山焼き打ちは描かれることはあっても、10年以上続いた石山本願寺との石山合戦が描かれた記憶はあまりありません。

 信長の人生のメルクマールは桶狭間、上洛そして石山合戦ではないでしょうか。長篠の戦いなどは付け足しでしょう。事実上の天下人となったものの、一時は京都を追われ、根拠地までも奪われそうになり、弟も失うなど、上洛した後は一向一揆対策に終われたといっても過言ではありません。

 しかし、大河ドラマでは、いまでこそ東西に別れているとはいえ(その原因も信長との戦争)、いまだ門徒の数が約1300万人と一番多い真宗との戦いは視聴率やクレーム対応などの手間を考えても描けなかったりして。

 丸山眞男は石山合戦の過程などは詳しく書いていませんが、簡単にまとめてみます。

 八代法主の蓮如が山崎の一向一揆を抑えるのを失敗して吉崎を退去、隠遁先として選んだ場所が山科と石山でした。十代法主証如は、京都の山科本願寺が法華衆と細川晴元によって焼き払われたことや、加賀で本願寺一門内の内戦が起ったこともあり、少しでもそうした場所から離れようとして現在、大阪城のある石山に本拠地を移しました。

 秀吉が難攻不落の築城をする前でも石山は守りに固いだけでなく、大阪湾を扼する上野台地という絶好の位置を占めます。

 信長は弟信興が長島一向一揆で自害に追い込まれ、浅井・朝倉を滅ぼした後の越前でも守護代前波吉継を一向一揆で殺されるなど苦汁を飲まされ続けます。

 しかし、一向一揆側でも越前、長島、石山の連携はないだけでなく、本願寺から派遣された坊官らが重税を課して農民が離反。こうしたこともあって信長は越前と長島を各個撃破します(長島は皆殺し)。

 信玄の妻と顕如の妻は姉妹だったこともあり、顕如は将軍義昭なども含めた戦国大名と反信長で複雑な政治的連携もみせます。それでも信長には圧倒されてはいくんですが、いったん信長と和議を結んだ顕如は、東進してきた毛利勢力と結び、海上での連携も図って対抗しようとします。

 しかし、ここでも敗北し、最終的な3回目の和議を結びます。

 顕如は退去する際、嫡男、教如に石山を渡しますが、教如は兵糧を失っては妻子を喰わせられないという門徒に押される形で籠城を続けます。

 教団内部での内ゲバ、農民への負担などの失策のほか、まるで応仁の乱の時代というか、いまのイスラム過激派のような「戦わなければ喰っていけない」層までも抱えていたんですね。

 やがて、敗北した教如は廃嫡され、顕如三男の准如が嫡子と定められますが、以降、本願寺は分裂。現在の東西に別れます(教如派が東本願寺)。

 加賀一向一揆も柴田勝家に鎮圧され、一向一揆は終焉を迎えますが、信長が世を去るのはその4年後。一向一揆に苦しめられ敗死寸前に追い込まれた光秀も秀吉に討たれ、柴田勝家も滅ぼされ、秀吉は石山本願寺跡地に大阪城を築城しますが、その子秀頼は大阪城とともに滅びます。

 どうしても真宗に関しては講義録の紹介だけでは気が済まなくなるというか、言葉が多くなります。親鸞はもちろん大好きな思想家ですが、蓮如の偉大さも改めて感じました。

 ということで、さすが本願ぼこりといいますか、真宗の巨悪も含めた偉大さを感じたところで、丸山眞男の講義録に戻ろうと思います。

[求道修行の純粋化 道元]

 《果報ヲ得ンガ為ニ仏法ヲ修スベカラザ、霊験ヲ得ンガ為ニ仏法ヲ修スベカラザ。但ダ、仏法ノ為ニ仏法ニ修スル即チ之レ道ナリ》『学道用心集』という道元は『法華経』を中心的経典であるとし《「悟り」はただ不断の真理への実践プロセスの中にある。実践の過程そのものが得道である》としました。

 また、修行中心への批判に対しては《けわしい道は原理的に、万人に、社会的地位にかかわりなく開かれている》という平等主義を提示し、親鸞の絶対他力信仰とまったく反対の立場にたちながら、基底にひそむ根本的動機づけなどは一致がみられる、と。

 また、単なる隠遁ではなく、人間の内面的尊厳の自覚を呼び起こした、と。

[仏法と王法の否定的媒介による結合 日蓮]

 庶民に仏教の途を開いた法然・親鸞は貴族出身だったが、日蓮は海女の子であり、自らセンダラ(カースト最下層)の子と称したが、出発点から強い政治的関心(仏法による王法保護)も著しく異なっている。

 個人の救済だけでなく、『法華経』による国家の護持を説き、呪術的要素、神仏習合の要素も内包している(日蓮は浄土宗からの転向者)。

[屈折と妥協の諸相]

 原型はこうした宗教改革にも影響を与える。

 それは日蓮宗の呪術的傾向や、道元が極力排斥した呪術的祈祷を修行の中にいれる曹洞宗のなかにもみられる。曹洞宗は山を下り、武士層に接近した。

 また、真宗の推進力は関東の門徒衆だったが、親鸞の血縁的系譜が強調される。

 栄西の臨済宗は最初から鎮護国家的性格が強く、鎌倉幕府と密接な関係を結んだだけでなく、徳川幕府の宗派教団制度と檀家組織は彼の発案によるもの(p.275)。

 禅宗は社会的行動への発案になるよりも、美意識を宗教化した。茶道など「道」の拡散化が進んだが、それは山林修行のように全生活が投入されるものではなかった。

 仏教は根本的に「空」の直観を目指す神秘主義的瞑想行動の傾向が、社会的実践よりも強い。

 《いかなる絶対者を追求する普遍宗教も、人間の世間的な営為と交錯することによって、世間的な価値との通路の断絶か、さもなくば世俗への限界のない妥協かという二律背反に直面してきた》が、日本の場合、家族や世間への精神的もたれかかりを絶つこと自体が倫理違反と受け止められがちだった。江戸期の廃仏論は、この点を突いたが、すでに仏教は儒教から批判されるほどの宗教的内面性に基づく力を失っており、冒頭の福沢諭吉の批判を浴びることになる。

[(鎌倉仏教における宗教行動の)問題整理]

 鎌倉仏教の宗教行動はA)救済信仰B)宇宙論的真理信仰C)経典信仰、という3つのタイプがある。

A)人格的救済信仰
 救済者信仰はa)自己と救済者の神秘的一致b)絶対他者への傾倒に分けられる。
α)自己と救済者の神秘的一致は空也から自分自身が阿弥陀仏になる一遍(時宗)らつながる
β)絶対他者への傾倒も法然・親鸞のスタティックなタイプと、悟りは境地ではなく日常的実践の過程の中にあるというカルヴィニズムに通じる召命的自己意識を持つ親鸞・日蓮のダイナミックなタイプに分かれる。

B)宇宙論的真理信仰
 原始仏教に最も近いこのタイプはα)禅による自我との神秘的一致を目指す栄西β)絶対者へ傾倒する道元

C)経典信仰
 α)神秘的一致を『法華経』の引用によって説明する直接演繹主義的な日蓮β)律法主義的な律宗・臨済宗
 王法(俗)への志向を

de-political non-political
(From 脱王法) (Inside 在王法)
anti-political political
(Off 断王法) (Toward 向王法)

 という4つの次元(ディメンション)にわけると、浄土真宗は親鸞のときはOff 断王法(anti-political)だったが、一向一揆においてToward 向王法(political)となり、蓮如はInside 在王法(non-political)の契機もあり、徳川時代にはInside 在王法(non-political)となった。

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 ここで重要なのは真宗もanti-politicalからnon-politicalの方向へ、斜めにはいかないこと。必ずanti-political(親鸞)→political(一向一揆の体験)→non-political(農民たちとともにあろうとしながらも、農民たちから最初に拒絶された蓮如と一向一揆敗北後の分裂した真宗)と回る方向を通ることだと、丸山眞男は『話文集2』のp.338以降で語っています。

 これはキリスト教なども似ているというか、イエスはanti-politicalだったけど、中世ヨーロッパではpoliticalとなり、やがて俗権に圧倒されてnon-politicalになる、と。やはりanti-politicalからnon-politicalには一気にいけません。

 付け足しのように簡単に触れられていますが、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗も妥協と屈折の過程はnon-politicalに収斂している、と。

 《政治的リアリズムは、正義価値と秩序価値のバランスの上に成り立っている。秩序価値がなくなると正義価値だけが昂進し、強度の主観主義に陥る。そうなれば、秩序価値を多少とももってる圧倒的多数の人々に浸透できなくなり、運動の組織化さえできなくなる。つまり、組織化さえも秩序価値を前提としているのである。けれどもも他方、秩序価値が一方的に強調されると、革新のエネルギーがアピールする場がなくなる》 というあたりが印象的。

[宗教行動の政治行動への転調(1963年講義)]

 鎌倉新仏教は1)生死という人間実存の問題を凝脂させ2)明確な目標価値を設定し3)この単一の目標に雑多な感心を集中させることによって行動を合理化4)日常をルーティンの繰り返しではなく、目標を目指す無限の決断過程としてダイナミックに旋回させた。

 また、広大な仏恩に対する報恩行動として修行や勤行が意味づけられ、主君への忠誠パターンとして武士の行動様式(エートス)に精神的基礎を与えた。

[蓮如と一向一揆]

 真宗の信者の社会的分布が全階層に及んだのは江戸時代で、それまでは下層農民が中心だった。蓮如で真宗の宗教改革的性格はピークに達し、決定的変質も開始された。

 蓮如は法主ながら門徒とは平座で雑談し「門徒にもたれ、門徒に養われている」といつも語っていた。また、門徒組織を発展させた講(同一の信仰を持つ人々による結社)を重視し「愚者三人に智者一人とて、何事も談合すれば面白きことあるぞ」(『実悟旧記』)と語っているなど魅力的な人物です。

 真宗は蓮如一代で驚くべき伸長をとげたが、俗権との紛争回避も含めての妥協的傾向としては1)呪術性の傾斜2)王法の尊重、主従倫理の肯定(王法をば額にあてよ、仏法をば内心に深く蓄へよ)があげられる。俗的権威を重んぜよという教説は、社会的・政治的領域を既存権力に無条件に明け渡す可能性をはらんでいた。丸山眞男はこの《親鸞との一歩の差がやがて後世に千里の距離にへだたる明白なきざしを見せている》とコメントしています。

 信仰は内面の問題で政治や法律は外部的行動のみ関係すべきという一線は画しているが、信仰は行為に関係する。宗教行動は政治的秩序や倫理的秩序と交錯するし、そこに宗教の立場からする政治や社会の批判が不可避となる。

 蓮如の王法を重んぜよという教説は、社会的・政治的領域を既存勢力に無条件に明け渡す可能性をはらみ、徳川以降はこの方向を辿った。しかし、実如(九代)を経て顕如(十一代)までは抵抗の論理として機能したという二面性もあった。

 文明四年(1472)から五年にかけて蓮如の本拠吉崎をめぐる対立は激化し、加賀の一向一揆に発展する。蓮如はあらゆる機会をとらえて、他宗誹謗を禁止し、守護地頭の権威の尊重と年貢公事の完納を門徒衆に訴えたが、七年に蓮如は吉崎を退去する。抑制者がいなくなって、一揆のエネルギーは一気に燃え上がり、1488年には富樫政親を倒し、一世紀以上、門徒と坊主の合議制による支配下に置かれた。

 このほか近畿一帯、飛騨、尾張、美濃、紀伊雑賀、播磨などで一向一揆が発生した。

 本願寺の懸命な抑圧にもかかわらず、それを乗り越えて一向一揆は続発したが、同時に末寺組織の動員による門徒組織の系列化も進んだ。

 蓮如死後は、半ば下層門徒農民に突き上げられた形で、半ば本願寺勢力を押しつぶそうとする戦国大名に対する自己防衛として、全組織を動員した闘争へて駆り立てられていく。そのクライマックスが1570年から11年にわたる織田信長と石山本願寺(現在の大阪城)との決戦。

 《このとき、かつては一揆に破門をもって臨んだ本願寺は、いまや一揆に不参加の門徒に破門を課してまで、全組織動員を試み》大阪、河内、近江、金森、草津、勢多、守山、勝部、浮気、高野、金藤、甲賀などの一揆が呼応。さらには信玄、将軍義昭、三好、松永、浅井、朝倉、謙信とも信長の全国制覇を阻止するという目的で結んだ。

[一向一揆の思想史的意義]

 蓮如が一向一揆を抑えようとしたのは、彼岸浄土ではなくこの世の救済に民衆の関心を向けさせる危険性、現世利益の教えに堕すると考えたからだが、同時に守護大名から連合して押しつぶされるのを回避するためだった。このため《本末組織は農民的エネルギーの氾濫と急進化をチェックする方向に動員された。しかし、他方、本末組織がなかったならば、村ごとに孤立分散していた農民が、村なり郷なりの狭隘な地方的制約を突破して大きな統一的をおこすことは不可能に近かった》(p.306-)。

 本願寺の末寺組織が農民の闘争に対して矛盾した両面を持つだけでなく、一向一揆の門徒領国内部の社会的構成も矛盾した動向を波乱でした。

 当時の国人は1)地頭が小領主・地侍として土着化したもの2)荘園の名主(上層農民)が領主化したものであり、農民が門徒化すると、彼らを掌握するために、自らも門徒化せざるを得ない。しかし、守護大名は農民から離反する可能性をもっている。

 農民は守護と地頭の闘争に際しては一方に組するので、農民一揆は純粋に耕作農民対領主という形で展開されたわけではない。

 このため本願寺、地方の有力寺、末寺道場、門徒国人、農民のレベルによって意図も利害も異なっていた。しかし、俗的行動のなかに超越的原理が働く一向一揆は信長と家康を長年手こずらせたほどの戦闘力を発揮した。

 《日本の場合、最底辺の共同体はつねに擬制を含んだ血縁的な結合体であり、ために無限のダイナミズムをもたず、農民がその狭い限界を突破した血縁的結合に踏み出るうえには、普遍者にたいする共通の信仰という精神的契機が少なからぬ役割を果たしていた》(p.311)が、石山戦争と島原の乱でそうした契機は失われ、農民は武装能力を剥奪されただけでなく、江戸時代に幕藩権力の統制に動員された寺に従属した。

 これによって仏教教団は精神的権威を失い、徳川時代に後世に残る高僧は出ません。そして《下層民衆はもはや直接的におのれの上に君臨する世俗的権威を超えた普遍者にアピールする途を閉ざされ》ることになった、と。

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『丸山眞男講義録4』#5

『丸山眞男講義録4』丸山眞男、東京大学出版会

 解題によると、「葦牙(あしかび)の如く萌騰(もえあがる)る物に因りてなれる神」という「成る神」を想定した日本の神概念は化生と生殖を中心に構成され、善悪の区別よりも「勢い」が重視される、ということは丸山眞男が何回も強調するところです。

 そして、集団的功利主義と心情の純粋性が倫理となっていきます。

 こうした現世的なものを肯定する古層を内発的に突破する「超越的普遍者の自覚」は、普遍宗教である仏教との接触の中で深まっていきますが、それはいったん国家仏教=鎮護国家の中で弛緩していきます。

 日本の学識による初めての独自解釈を行ったのは最澄。その高度な主知主義的な形而上学は上層ではエリート主義、底辺では呪術宗教となりますが、やがて内面化された大衆宗教に転化されます。

 そうした親鸞を頂点とする鎌倉仏教における、超越的普遍者の内面化を準備したのが末法思想ということで、この章は古代における仏教受容から『愚管抄』までを扱います。

 「忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執るところあり。彼是とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え」(十七条憲法第十条)など普遍主義としての十七条憲法の清冽な解釈も素晴らしいと感じました。

 また、現世の同じ業が来世を規定するという因果応報観は、インドでも日本でも仏教の大衆化の過程で説かれた、というのも面白かった。

 第5章の鎌倉仏教において、日本で無知・無学の民を布教対象にしたのは法然が最初、ということが強調されますが、それまでの仏教は鎮護国家思想も含めて、国家の上層部のみが対象でした。その流れの中で、浄土真宗の大衆的普及を行った蓮如によって、因果応報律は儒教的な勧善懲悪を媒介に行われ、江戸時代に最も通俗化された、というあたりも。

[第4章 王法と仏法]

[1 十七条憲法における統治の倫理]

 十七条憲法は大化の改新に先行して氏姓制度の変革を方向付けた思想と考えられ、その根底には自然と人間世界を超越した聖なるものとしての「絶対者の自覚」がある。それは、「原型」から儒教的あるいは法家主義的展開からの飛躍でもある、と。

 ここで面白かったのは、丸山眞男 お得意の人類を基盤とした政治は存在せず、逆にいうと所属集団の特殊性を基礎とした普遍主義はない、という説明から、同じ全体主義でありながら、ファシズムとコミュニズムの違いを説明しているところ。

 ヒトラーとムッソリーニが、どちらが真のファシズムに近いかなど、その定義をめぐって論争することはない。一方、コミュニズムは普遍主義的価値に立ち、特定の党に絶対的権威をおくようになったとしても、それは歴史・文化・国際環境が複合した結果であり、内部からのイデオロギー批判は行われる余地がある、と。

 同じように儒教と仏教を比べると、儒教は社会の特殊パターンについての規範にとどまり、その適応範囲は朋友までであり、個体としての人間という発想は乏しい。儒教において個人は世間的秩序に堅く繋縛さけており、そこに日本の「原型」との連続性を内面に持っていた、というわけです。

 一方、こうした原型的世界像を徹底的に突破し、新しい精神的次元を日本人に開示したのが世界宗教としての仏教。

 十七条憲法は、こうした思想的可能性を統治理論において明確に提示しており、祖神を崇べとか、天つ神の祭祀を怠るなといった教えは全く見あたらない。

 こうした古神道無視の姿勢は平田篤胤など日本主義者の憤激を買ったが、隋帝国への国書は後生のナショナリストたちがしばしば引用する。しかし、対等主義は、普遍的真理にコミットすれば、巨大な文化的先進国も、その東辺の小島国も、真理の前に平等だという立場から。

 有名な「和を以て貴しと為し」も、礼との関係で和が言われているのではなく、党派的偏執を去れ、という意味。

 「忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執るところあり。彼是とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え」(十七条憲法第十条)は和のイデーが宗教的次元まで深化されて表現されたもの。ここではエゴが相対化され、他のエゴに対する寛容が導きだされている。

 しかし、こうした高度な政治的理念は、現実からは遊離していた。氏姓国家の矛盾と腐敗が深刻化していく中で、晩年の太子は脱政治化する。

 《かくて絶対者と世間との二元的緊張は、一方で、政治的国家の価値を相対化する普遍的規範の制約を高揚し、他方、個人の救済の問題としての宗教を登場させている》《この二つは表裏の関係にある。しかし、この二元的緊張の思想は後の鎮護国家においては弛緩してゆく》が結語。

[2 王法仏法相依と鎮護国家の観念]

 仏教受容に際し、蘇我氏など推進派は日本だけ大勢に従わぬわけにはいかぬという情勢論で、軍事を世襲職とする物部氏、祭祀の特権を持っていた中臣氏は氏神信仰と矛盾するから反対したが、積極採用派も反対派も、仏を外国の神と見たという点で共通している。また、同じ軍事職にあった大伴氏が仏教に接近したのは、おそらく朝鮮出兵による先進文化の影響だろう、と。

 物部氏の滅亡によって、仏教は1)氏族仏教2)国家仏教=天皇皇室仏教3)貴族仏教の三段階で普及していく。

 その際、金色燦然たる仏像や読経に呪術的好奇心が喚起されたが、経典の和訳や注釈には無関心だった。それはキリシタン伝来時に、聖書の日本語訳がただちに出版されたのと著しい対象をなす。

 また、主として行政制度のルートを通じて造寺・造物などが上層から下層へ、中央から地方へ普及していった。

 仏教は魅惑的な外国文明の所産として、社会的適応の手段として受け入れられたので、原始仏教のもと峻厳な普遍主義は弱められ、原型と癒着する傾向を帯びた。

 仏教は日本で天皇、貴族、氏など家的共同体を単位として摂取されたが、経典も『仁王護国般若経』(帝王護持)『金光明教』(呪術的効果)が選択、各地で講じられた。

 聖武天皇は三宝の奴と称したが、同じ鎮護国家でも聖徳太子の精神とは違い、見えざる権威に対する帰依よりも、眼前にあるきらびやかな大仏に呪術的効果を期待し、臣民にはアカキ・キヨキ心で協力するよう呼びかけるなど神仏習合のシンクレティズムが表面化した。

 王法と癒着した仏法が二元的緊張の意識を取り戻すのは平安末期、末法思想の勃興を待たねばならなかった。

[3 (世間の)否定と解脱の論理と感情]

 宗教は一個の人間の永遠の救済の問題であるのに対し、政治は閉じた集団の今ここにある課題の解決。根本的に現世的なものを否定するのが世界主教の持つ意味。

 聖なるものを担う主体のタイプは
1)スタティックな合理主義を特色とした経典の解釈権を独占する僧職官僚制(政治の次元では、権力を握ったマルクス主義政党が似たような様相を呈する)
2)救済のヒエラルヒーを否定し、底辺の平信徒と直結するカリスマ的預言者
3)アメリカ開拓期のような信徒による平等な共和国、自発的に信仰共同体が形成されるタイプ
4)君主的専制主義に対応する一人の聖者によって聖なるものが担われるタイプ

 また、非日常的行動と日常的行動との関係から聖と俗を考えると

a)月曜日から土曜日まで俗人として生活し、日曜日だけ教会に行くような聖と俗を空間的・領域的に隔離する仕方
b)ウェーバーがプロテスタンティズムのエートスとした、ひとつの原理によって生活を統一するタイプ
c)律法主義
d)知識人の支配に結びつく経典学習による区別(ウェーバーのいう達人宗教=Virtuosen-reliositat)。中国の読書人階級の支配や、立身出世の機会が平等に開かれた明治の官僚支配もそれ。広く学習が行われるので、経典の解釈権が僧侶官僚あるいは前衛党が独占するのか否かが問題化する

 聖なるものに参与し救済に至る行動のタイプは

イ)プロテスタンティズムと重なる方法的禁欲(世俗内ではカルヴィニズム的な職業倫理、世俗外では修道院での禁欲生活)
ロ)自らを神の器と見る神秘主義のタイプ(世俗内神秘主義と遁世する世俗外神秘主義に別れる)

 また、世界拒否は政治的意味を持つ。

[教理に現れた(否定の論理の)諸範疇]

 奈良時代の仏教教義は隋唐時代の留学生、渡来僧によって伝えられた南都六宗(三論、法相、成実、倶舎、華厳、律)で、日本の学識による独自の解釈は最澄の日本天台宗が最初。

[南都六宗の教学における主要な範疇]

 事物も人間の心理感情も実在ではなく仮相であり、実在と見るから執着が生まれ、そこから苦が生じるのであるから、一切を空と観じる空観を押しだしているのが三論宗。隋の嘉祥太子吉蔵によって大成され、龍樹の『中論』『十二門論』、堤婆の『百論』を基礎とする。一切を空と見るのを真諦とした。

 東大寺を中心とした唯識論と五性格別説の法相は、最澄が挑戦した。三論と逆に、世俗的真理がそのまま不滅の真理であるとして俗諦が空で、真諦が有とした。

 《俗諦が空なのは、すなわちそれが外界に実在しているのでなく、一切下界の本体は心のなかにある種子(一切諸法を生起させる作用の実体化)にあり、この種子が客観世界に顕現したものだ。しかるに迷妄によって、われと客体を区別して実在と見誤る。その迷いを脱した真諦が有(真実在)で、これが悟りの世界である。世俗界の立場に立って、これを全て識の作用に帰するから唯識という。経験的世界の説明に、きわめてスコラ的な精緻な論理を駆使するが、実践的修行の面では、これが五性格別の説となる》

 五性とは声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不定性、無性という修行者の素質の区別。このうち成仏できるのは菩薩定性と不定性だが、仏果を得るには小乗仏教のように想像を絶した時間がかかる。この五性の区別と声聞、縁覚、菩薩の峻別が最澄から挑戦された。

[原始仏教の根本範疇]

 菩薩の概念を理解するために、仏教そのものを説明する。

 釈迦は不死のアートマン(我)を体得しようと出家・苦行したが、アナートマン(無我)の体験を悟って覚者となった。生が快で死が苦ではなく、人生と世界そのものが苦であり、その無常性を認識することが解脱。ただ無常を知ることで涅槃に入るわけで、普遍我の虚妄を悟ることでウパニシャッド哲学のアンチテーゼとなった。菩提(Bodhi)は覚(budh)の名詞化。釈迦の説法は四諦の説→五蘊無我→縁起説と進んだ。無明が苦の根本条件。龍樹は絶対空のみが諸法の実相であるとした。

 乗は悟りに至るプロセス。

 菩薩乗は菩薩(Bodhisattva)は菩提=覚、薩埵=衆生の略で釈迦が仏陀になる以前の段階。菩提を求める(往相)とともに、空即不空として現実世界に還相して衆生を化する利他のために励む者。

 釈迦入滅後百年で教団が分裂した際、阿羅漢を理想とする上座部に対して、大衆部は菩薩の慈悲を強調し、そこから大乗部が起こった。

 法相宗など高度な主知主義的な性格を持つ形而上学は社会的エリート主義と結びつくが、しばしば頂点のスコラ主義は底辺で呪術宗教の形をとる。

 これに対して呪術化しないで内面化された大衆宗教に転化させたのがルターだが、聖俗関係の再定義は鎌倉仏教によっても行われた。

 日本の大乗仏教の展開は平安以降で、最澄の天台宗から始まる。天台宗は元々、隋時代の智顗によって大成され、羅什の訳した法華経『妙法蓮華経』を中核とする。

 最澄は法相の得一との論戦を通じて一切衆生悉有仏性に基づく円頓一乗戒を確立した。道元、日蓮、法然、親鸞によって発展形象されたのは、凡夫の起こす一刹那の心に一切諸法が内在するというアスペクト。

 人間には仏性も地獄性もあるが、衆生は本来仏という本覚観念を橋渡ししたのは華厳宗。華厳宗と天台宗は中国大乗仏教の最高峰。

 最澄は南都諸大寺の反対を押して、戒壇院を独占していた東大寺から独立して大乗戒壇を建てる努力を続け、天台道場は官寺となった。官寺とはいえ、俗権と独立した教権制は、国家的次元に吸収されない文化の自立性が確立されるかのメルクマールとなっており、後の延暦寺の辿った結果だけからは裁断できない可能性も開かれていた。

 平安仏教の特質は、奈良仏教からの公的性格の喪失。密教的な現世福祉の祈祷と結びつくと宗教の最も堕落した存在形態に転落する。

 密教は衆生は本来仏性を具有しているので、真言を誦して、密儀にあずかれば即身成仏すると説き、ここから性交を神秘化する左道密教も生まれた。世俗的欲求の追求とほとんど同一化したのが密教修法だった。空海の真言宗は哲学的教理としてはほとんど天台宗に依存し、その上に仏との神秘的融合の道として密教を置くが、体制権力との直接的抱合と、原型的な呪術的思考の癒着が甚だしい。その時代は摂関貴族が権力層としての政治的自覚を失っていた日々だった。

[仏教的範疇の社会的表現形態]

 無常観と因果応報について

 密教は、その教義をみても、儒教的世界像とは異質な世間的価値の否定と超越の内包がうかがえるが、その教義は極めて少数の知識者に限られていた。平安期には世間を否定するペシミズムが社会に浸透していく。

 万葉詩人の無常観は永遠の来世と対比させられることなく、恋愛感情のせつない苦しさなどの表現となったが、一切はうつろい行き、流転するという考え方は古代日本人の思想にあったて、それがまた原始仏教の無常観を変質させた。一方、法然・親鸞は無常という言葉をほとんど用いなかった。

 応報は、現世の業が来世を規定するというバラモンのカースト制度を合理化する教説で、原始仏教では因果による応報を解脱できない凡夫の免れがたい現実としては認めるが、そうした現実を正当化する教えではなかった。

 本来の仏教思想は、無明を煩悩の根源と観じることで輪廻からの解脱を目指す。

 ただ、仏教哲学の中にカルマ(業)と輪廻(samsara)説が含まれているため、インドで仏教が大衆化する中で、現世での善行をすすめ、悪行をいましめる通俗的教説として説かれた。

 日本でも、真実認識の「諦」を明らめること(無明→明)が、因果連鎖から逃れられないことへの「あきらめ」の意味に転化した。

 日本で因果応報が説かれたのは、儒教的な勧善懲悪倫理を媒介したものが多く、室町末期に浄土真宗の大衆的普及を行った蓮如によってそうした考え方が広まり、江戸時代に最も通俗化された、と。

 また、極楽浄土または西方浄土は、中国の道教思想から来た神仙境の観念と癒着して、日本の思想が知った最初のユートピア概念となった。神仙境は、原型的オプティミズムと接続しやすいため、仏教的無常観より早く受容されていた。

 本来、浄土とは穢土に対立する概念であり、死後に生まれ変わる世界ではない。天台によれば一念三千の法理を観ずれば、現世即浄土だった。しかし、浄土信仰では阿弥陀仏による救済が教えの中心となるから、彼岸の世界という性格を帯びる。

 《死後の安心が仏教の本質とはいえない。仏陀のNirvana(涅槃)の世界は、時間的思考自体を解脱したところに成り立つので、よし「極楽浄土」に生まれ変わったとしても、菩提の悟りが容易になることはあっても、それが究極の目標ではない。しかし、それはどこまでも達人宗教(Virtuosen-reliositat)の立場であって、仏教が大衆的基盤において、現世利益の呪術信仰と結びつかず、むしろそれとの対立において、信仰を内面化し、一切の形での現世主義的オプティミズムの〈根本的な〉価値顚倒を切り開いていく途は、この現世=穢土からの来世における永遠の救済をさし示すような浄土信仰の深化を措いてなかったといえる》(p.202)

 集団的同一化にもとづく強烈な政治的行動と私的な感情への耽溺という原型の二面性は、明治時代の『明星』の歌にも流れている、というあたりも面白かった。

 平安時代の貴族の精神生活の変化に対応して、解脱宗教から救済宗教への転換にいたる先駆的役割を果たしたのが源信だった、というのが4章の結語。

[4 「末法」思想と歴史哲学]

 11世紀後半から12世紀末までの時代は摂関貴族の支配が武士によって崩れ、政治の中枢も東国へと地理的にも移動した。

 これは自然的生成のオプティミズムが知らなかった歴史意識であり、永遠普遍なるものと時間的・相対的なるものの分裂を自覚化したのが『愚管抄』。

 同時に王法的秩序への帰属意識がなくなることで、鎌倉仏教の「宗教改革」が発展する。

 こうした背景となった末法思想は隋唐時代の仏教学者によるものだったが、「三時観」は奈良時代の南都教団では知られていた。

[『愚管抄』の歴史哲学]

 慈円が実証したかったのは、正法から末法への歴史的下降が、日本歴史を通じていかに貫いているか。

 上古の冥顕和合の素朴さは歴史的発展とともに失われ、そもそも王法が仏法という普遍的超越者の支えなしには存続しえなくなったこと自体が末法的矛盾をはらんでいるとみる。

 『愚管抄』には「道理」という語が139回出てくるほどで道理史観と呼ばれる。

 原型的オプティミズムでは「すべてはなるようになれ」であり、儒教的天道史観では、矛盾している歴史的出来事は、あるべからざるものとして拒否される。矛盾の説明は、儒教的な現世的規範を超越した仏教を媒介として初めて呼び覚まされた。

 例えば、なぜ聖徳太子が蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺を傍観したのか、という矛盾は、もし崇峻天皇が殺されなかったら、いったん仏法が渡来したのに、それに反対する物部守屋の天下となってしまうとして、歴史悪をたじろがずに直視できるようになる。

 また、歴史は全体として興隆と没落の波動を繰り返しながら下降線をたどるものとして描かれておりてい諦観性(歴史の必然性に対する屈服)があり、末法の危機意識を強烈な実践の発動と考えた新仏教や『神皇正統記』の哲学とは違っていた。

[隠遁の思想―「世間」と「王法」からの遁走]

 平安末期からの体制変革期には「すね者」的なdeclasse(自発的落伍者)または隠遁者が出てきて、非社会的な隠遁を美化する思潮が台頭してくる。

 しかし、超越者を志向する動機はいつしか伝統的パターンに回帰し、キタナキ心対アカキ心の対立となる。ここからは伝統的生活様式を変革するダイナミズムは生まれない。隠遁は、絶対者と個人が中間的な媒介なしに向き合うというプレリュードとなった。

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『丸山眞男講義録4』#4

『丸山眞男講義録4』丸山眞男、東京大学出版会

 ヤマト国家は血縁共同体の擬制などによって地方の氏族を統合したが、大化の改新の頃になると、慣習法的儀礼への依存から、命令の一元化を目指すようになってきた、と。

 しかし、天皇親政を意識的につくってみる試みは、初のものではあったものの、国司・郡司は地方豪族が形式的に任命され、系統的一元化は不徹底で、土着的豪族が生きつづけた、というのがサマリーになるでしょうか。

 大化の改新のパターンは日本史を通じて「天に代わって君側の奸をはらう」という発想としてしばしば出てくる、というあたりも面白かった。

 [第3章 統治の倫理]

[序説]
 統治の倫理は1)政治的首長と直属する臣下との相互関係を規律する倫理(たとえ世襲官職であっても、行政幹部として官僚制の内部関係も規律することも含む)2)人民に対する統治行為を制約する倫理(統治層の自己制約) 。

[儒教的政治観の介入]

 五世紀半ばには漢字とともに儒教古典が最高知識層には知られていた。

 記紀のうち、儒教的範疇の意識的使用が明白なのは書紀。

(1)統治の本質は人民の教化にあるという観念
 崇神天皇紀にも「民(おほみたから)を導く本は教化(をしへおもくる)に在り」とあるが、教化とは五倫(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)の倫理を教えること。その中核的地位を占めるのは孝。孝は統治権力への恭順、政治的秩序の維持の基盤となるわけで、民の教化は統治者のインタレストと一致する。

 原型的思惟は統治者の権威に以下のような特徴を付与した。
1)超越的絶対者の不在は、政治的権威に対する抵抗権と革命権の思想的根拠の成立を困難にする
2)「神のもの」と「カイゼルのもの」との二元性がないことは「教会」「宗派」のほか、非政治的な結社(学問・芸術)の自律性、独立性の弱さにつながる
3)絶対唯一の政治決断者の不在は、君主に直属する政治権力に実質的に権力が移行するのを容易にする

(2)民本的徳治主義

 書紀の編者たちは、政治的国家の組織的・体系的な統一性を表現するためには、原型的発想では不十分であることが自覚されており、国家創業時や大化の改新時などに普天率土思想が接ぎ木され、抽象的な政治方針として掲げられる。
 仁徳と武烈の治世が対照的に記述されているのは、堯・舜と桀・紂の対比から連想されたもの。民本的徳治主義が禅譲思想にはねかえってきている。

(3)禅譲思想

 安康天皇、武烈天皇のケースでは、悪徳の皇太子から皇位継承権が失われるという考え方が出てくる。

 また、継体擁立の際には、中国の有徳者思想に加え、群臣合議による満場一致推挙という原始共同体における首長決定方式が橋渡しとなっている。

 その際、中国のような王朝の断絶ではなく、血統の断絶となった。

[大化改心から律令制にいたる規範観念と「原型」との統合]

 暴君や暗君を天下のために追放するという《放伐の思想は天皇そのものにたいして直接に援用されなかったが、天皇を囲繞する重臣・豪族の打倒を正当化するために現実的に動員された》(p.138)。

 この大化の改新のパターンは日本史を通じて「天に代わって君側の奸をはらう」という発想としてしばしば出現している。
 クーデター成功後、孝徳天皇は大樹の下に群臣を集め、入鹿討伐と天皇親政の趣旨を告げた。この儀礼は日本的「原型」にのっとって行われたが、宣誓の言葉は儒教からの直訳だった。

 そこには「諫諍」も取り入れられたが、それが生きた倫理となるのは武士的主従関係の結成以降となる。

 大化の改新は慣習法的儀礼に依存してきたヤマト国家が、命令の一元化など意識的な作為による制度づくりという発想を初めて現実の政治過程のなかに大規模に取り入れた試み。また、武烈天皇への非難にもかかわらず、法治思想も呼び起こされた。

 しかし、一度宣揚された天皇親政はまもなく摂関制に移行し、社会的基盤としては班田収受・公地公民制が荘園制によって腐蝕され、やがて土着的武家勢力の発展によって形骸化する。

 それはタテマエとしての天皇の公的伝統が、現実としての私的な摂関貴族政治に移行したとき、それが、土着的なエネルギーにもとづく、より私的な党(ともがら)的団結としての武士団の台頭には対抗できなかったから。

 中国的概念の「公」は「私」を断つものとして現れるが、日本の場合、公=きみ=天皇となり、オホヤケ(大宅)が天皇の私物であるという原型的価値体系を残存させつづけ、他方では、豪族の私有民である部曲(かきべ)を、国家の非人格的統治機構に組み入れて「公民」化するという、二重の意味を「公」はもった。

 また、国司は五教を人民に教え、礼にもとる者を罰すべく、その管轄する地域を巡行することになったが、それは《倫理の法律化ともいえる外観を呈していた。唐の場合のように、律令と礼の体系が二本立てになっているのではなく、律令そものに儒教的礼が組み入れられ》た。

 また、唐の県令は皇帝の地方官だったのに対し、日本の律令制における国司・郡司は地方豪族が形式的に任命されるのが原則であり、統治体系の系統的一元化は不徹底だった。

 《こうして、地方の氏族を統合したヤマト国家の成立過程の構造がそのまま強固に残存し、地方を基盤とした土着的豪族が依然として生きつづけた》というのが結語。

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