May 27, 2012

『首相公選を考える』

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『首相公選を考える』佐々木毅、大石眞、久保文明、山口二郎、中公新書

 佐々木毅先生の本を読んでいるので、共著ながら、これも。

 首相公選には憲法改正が必要だから、現実的な政治課題とは言えないのですが、自民党総裁選で小泉純一郎首相が勝利した後、にわかに、公選の論議が高まり、首相自らが懇談会を設け、検討した内容をまとめたものです。

 途中で、小泉首相も興味を失ったみたいですが、とにかく最後まで思考実験をまとめてみました、みたいな。

 佐々木先生担当の「首相公選制論と現代日本の政治」を要約してみると、副大臣や政務官の設置や国会における政府委員の廃止などは行われたが、政治のリーダーシップは進まなかった、と。

 かえって、政権政党の内閣が統治の任にあたるという基本構造の中に、官僚制が深く交叉していることが浮き彫りになり、無党派層の増加という形で脱政党化が進んだ、と。

 同時に全国の知事たちが政治のスターになりはじめ、地方でできている仕組みを中央で、という論議が高まった、と。

 日本やイタリアはまがりなりにも90年代に政権交代は行われたが、選挙制度上それができなかったイスラエルでは、それを克服する手段として首相公選制が導入された、と(しかし、政党乱立の状況が悪化したため、96、99、01の3回だけで廃止)。

 日本の議会政治には、首相としての不適格者の排除など柔軟性が組み込まれてはいるが、逆に柔軟になりすぎて、入れ替えのための入れ替えが行われすぎた、と。

 具体案として示された2つの案についての論評については省略しますが、最後の、この言葉だけは、今でも有効だな、と思います。

 自己満足型の無邪気な政治の時代が終わることは、冷戦の終焉以後の大きな時代の趨勢や日本の政治の抱える課題の変化と結びついている。それは政治の自己統治能力を内部的に減殺することによってほとんど何もできないようにしておけば全て安心であるという、政治についての見方からの転換を求めるものである。政治的無関心が政治の人畜無害化と結びついていたとすれば、このセットも終わる時期が来たということである。この報告書は全体としてこうした時代の流れを背景にしている。

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May 26, 2012

『財政学から見た日本経済』

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『財政学から見た日本経済』土居丈朗、光文社新書

 もう、この本が出てから10年近くたったのに、まだ、財政再建の緒にもついていないけれど、その日本の状況を追い越すような形で欧米が暴走して金融緩和して、中国も財政政策もやりまくったおかげで、たった今現在は、ドルもユーロも元も対円で全面安という、ちょっと信じられない状況が生まれています。

 考えてみると、日本も消費増税とか抜本的な財政再建には程遠いことしかやっていなかったけど、薄紙一枚の差にも関わらず常に金融緩和には慎重な姿勢だったし、メチャクチャなことはやってこなかったのが、この結果なのかな、と。

 もちろん、家庭や企業と比べれば、平均的には長い寿命をほこる国民国家にせよ、借金がGDPの何倍にもなって、少子高齢化が進んでいれば、深刻な状況になっていることぐらい当たり前だろうし、増税反対派が「増税で税収が増えるわけではなく、まず経済成長を」というけど、経済成長によって債務比率圧縮に成功したのは1985年のスワジランドだけだという現実には、どう答えるんでしょうかね。

もうギリシアみたいな最悪の景気後退局面で緊縮財政をやるか、それとも、少し余裕がある中で、不景気を招いても財政再建やるかという、どちらのダメージが少ないかという問題でしかないと思うのですが…。

 もう10年前になったしまったこの本の後も、土居丈朗さんは、去年6月の日経書評欄で「日本政府は、今や巨額の借金を抱え、今後も増え続けると予想されている。その主因は高齢化による社会保障費の増加で、経済成長のスピードよりも速く増えるので、支出が多すぎるのではなく、収入が足らないから借金が増えるのである」と至極もっともなことを書いて、危機感を訴えています。

 また、この本で書かれている、成長分野にカネが回らない大きな原因として指摘されている定数是正も、まだ手つかずです。

 政権交代の次に目指すべきなのは、展望のない先祖帰りでもなく、地方ポピュリストへの全面委譲でもなく、定数是正を通じた、多くの人々のフツーの考えが反映される、当たり前のシステム構築なのかもしれません。

 横浜に住んでいると、同じ税金を納めていても、衆議院だと山陰の5分の2、参議院選挙だと5分の1というのなら「それなら税金を少なくとも半分以下にしてほしい」と思わず言いたくなる人もそろそろ出てくるんじゃないかと心配になってきます。

 《人口の多い都市部に国会議員が相対的に少なく、人口の少ない地方部に国会議員が相対的に多い状況は、あまりにも筋書きが見え見えで、民主主義のミの字もない》《格差は限りなく完全に是正するのが当然というものである。二倍以内でも不十分である》

 という土居さんの主張は当たり前だと思うんですがね(p.91)。

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May 22, 2012

コジマヤ本店の鰻丼と蓬莱泉

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コジマヤ本店 静岡県浜松市北区細江町三和58-1 053-523-1223

 忘れるところだった…GWは新東名をつかって浜松まで行ったんです。

 新東名は揺れが少ないシルキーライドというか、素晴らしい乗り心地で、橋やトンネルも美しいものが多く、走るだけで楽しかったです。

 途中のネオパーサもまあまあ工夫がこらしてあって、新しいし、清潔だし、しかも風景もいい感じ。

 ということですが、やはり、浜松に行ったら鰻でしょう、ということでコジマヤ本店に行ってみました。

 駅からも遠く、こんな時でもなければ行けないと思ったので。

 いただいたのは3500円の鰻丼上。

 その前につまみとして白焼とう巻きもいただきました。

 ここらあたりでは関東風の焼き方らしいんですが、少し蒸かしを抑え気味にしているというか、ワイルドな手強さも少しだけあって、美味しゅうございました。

 また、日本酒で蓬莱泉が大量においてあるのには個人的に感動しました。

 「空」はちょっと甘口だと思っているので「吟」をいただきましたが、口開けということもあって、香りがフレッシュで飲み心地がよかった(ちゃんとハンドルキーパーの方は飲んでいませんよw)。

 どこか、洗練されきってないところがいい感じのお店でしたね。

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May 19, 2012

『走ることについて語るときに僕の語ること』

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『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹、文春文庫

 実は(とはいっても大したことはないのですが)、最近、走り始めています。しかも、毎日、続けて。これまでも走っていた時はあるのですが、基本、あまり面白くないスポーツはやりたくないタチなので、少し膝が痛いとか、気温が下がると走らなくなっていたし、毎日ずっと走るということもありませんでした。

 で、もっぱら健康管理は会社帰りに近くのジムで身体をほぐしていたんですが、どうしても夜だと、その後、飲んでしまうんですよ。ということで「なんもならんなw」と思っていたんですが、朝ランすれば、もう、その日は一日、スポーツをしなくてはという強迫観念から逃れられるし、すぐ飲まないので、多少、効果もでるだろう、と。なんつうかダブルでストレス解消にもなるんじゃないかということで、しばらく続けようと思っているんです。

 ということで、本屋さんを覗いていたら、目に入ったのが、この本。

 村上さんの本は、あまり熱心な読者ではないので、この本も読まないままでしたが、こうなったからには読んでみようじゃないの、ということで購入しました。さらに、この本を読んだのにはランナー系の雑誌があまりにもつまらなかったということも関係しています。何か新しい趣味を始めた時、雑誌を買って読むというのは、新鮮な喜びを倍増してくれるものだと思うのですが、個人的には初めてですね、こんなにガッカリしたのは。「なんだ、インタビューばっかりじゃない」みたいな感じで、何種類か手にとって呆れてしまいました。

 ということで読み始めたんですが、特に気に入ったのは次のフレーズですかね(p.41)。

 レースのタイムが伸びなくなっても、それはまあ仕方あるまい。走りながらふとそう考える。僕はそれなりに年を取ったのだし、時間は取り分をとっていく、誰のせいでもない。それがゲームのルールなのだ。

 村上さんは、ほかのところでも、自分が持っている才能でなんとかやりくりしながら生きていくしかない、みたいなことを書いていて、そこもよかった(p.127)。

 しかし何はともあれ、これが僕の肉体である。限界と傾向を持った、僕の肉体なのだ。顔や才能と同じで、気に入らないところがあっても、ほかに持ち合わせはないから、それで乗り切っていくしかない。(中略)あるだけのもので我慢する。何かがあるだけでもありがたいのだと思う。そんな風に思えるのは、年を取ることの数少ないメリットのひとつだ。

 さらには、知らない情報にも出会えます。

 ウルトラ・マラソン専用シューズというのがあることには本当に驚きました。村上さんもわざわざカッコの中に入れて書いているほど(p.161)。

 (信じていただきたい。そんなものがこの世界にはちゃんと存在するのだ)

 結局、うまくいかないこと、年を取ることは「リアリティー」であって、いかんともしがたい、と。それに対抗するためには、自分の持っているもので、なんとかしなければならない、という諦念は、アンチクライマックスすぎるにせよ、納得いくものだとな、と感じます。

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May 18, 2012

『安藤忠雄 仕事をつくる 私の履歴書』

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『安藤忠雄 仕事をつくる 私の履歴書』安藤忠雄、日本経済新聞出版社

 安藤忠雄さんは大好きな建築家です。

 ということで、これまでもかなり本も読んでいますし、日経に連載していた「私の履歴書」も毎回ではないにしても目は通していたので、この本はわざわざ買うこともないかな…と思っていたんです。

 でも、帰りに読むモノがなくなって、六本木ABCの建築コーナーでパラパラめくっていたら(建築関係の肩の凝らない本を読むことは個人的に大きな喜びとなっています)、光の教会に佇む安藤さんとボノの写真のところに指がとまりました。

 そして、次の文章が目に飛び込んでました(p.100-)。

 2006年冬、ロックグループU2のボノが「光の教会」を見たいと知人と共にアイルランドからやってきた。私はその時、正直ボノという名前は聞いたことがあったぐらいで、彼のことをよく知らなかった。

  光の教会に足を踏み入れ、しずかに腰掛けたボノは「祈ってもいいか?」そして「歌ってもいいか?」とつつましく尋ねた。祈り終えると説教台のほうに歩み、アメージング・グレイスを歌いだした。光の教会の空間はボノの歌声につつみこまれた。居合わせた人たちの目に涙が浮かんだ。私も感動した。(中略)まさに魂に届けられた歌であった。

 ぼくも安藤さんの作品の中で、最高傑作だと思うのは「光の教会」です。

 構想のシンプルさ、そして、光の十字を浮かび上がらせるための構造計算、全体の暗さ、緊張感さえただようインテリアとの統合性。本当に素晴らしいと思います。

 その作品を見に、わざわざアイルランドからやってきたボノも素晴らしいと思うし、いまや親友らしい安藤さんとの出会いの必然性も、なにかに導かれたような感じさえうけます。

 学歴もなく、縁故もないところから、懸命の努力を続けて独学で一級建築士の資格をとって、事務所を立ち上げ、世界でもほぼ最高の建築家となれたのは、必死に生きて、周りの人たちとオープンな関係を築き、その中でチャンスをつかみ取っていったというか「仕事をみずからつくっていった」からに他なりません。

 高度成長期やバブル期には、仕事は湧いてきましたが、もう、そんなことが望めない中で、安藤さんのように、必死に努力して、仕事をつくっていくという姿勢が求められるんだろうな、と思います。

 特に安藤さんが「1980年以降に生まれた若者はダメだ」と切り捨てている世代に読んでもらいたいと思います(p.31)。

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May 13, 2012

『プラトンの呪縛』

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『プラトンの呪縛』佐々木毅、講談社学術文庫

 20世紀というのは実に国家が重かった時代でしたが、集団的統合機能を凝集させようとするような政治体制は過去のものになりつつあります。しかし、歴史は繰り返すものでもありますから、また、いつ、そういったものがリバイバルするかもしれません。

 ギリシアは今、再選挙でもめていますが、勢力を伸ばしているのは極右と極左のようです。そして、20世紀において、そうした傾向を代表していたのは、ナチスとソ連でした。どれも、民主的な手続きには懐疑的なようですが、実は、そうした人々が遠く仰ぎ見ていたのは西欧哲学の創始者であり、キリスト教神学が手を貸して貰ったプラトンではないか、という問題点から書かれたのが本書。

 確かにプラトンの著作を読むと、子どもの国家管理、民主制への侮蔑、放埒な性倫理など、字面だけを追うと、とてつもない内容が書かれています。しかし、教養課程ぐらいで習うプラトンにはイデア論を中心に形而上学の祖として扱われていて、そうしたトンデモ系の話はカッコに入れられて、考慮はされません(これは聖書と同じですね)。

 しかし、近代の終わりにギリシア哲学史家としてスタートしたニーチェによって、プラトンは意外な評価を受けます。それは貴族的な思考方法(p.102)。公式にはニーチェはプラトンを批判したとなっていますが、実は政治指導者、若者の哲学的指導者としては評価していた、というんです。

 真理の探究としての哲学は、そもそもプラトンからして超自然(メタ・フィシカ=形而上学)の方向に行って間違っているのだから、それを基礎とした西洋哲学、キリスト教神学などは正しいわけがない、と。しかし、超越的な哲学王による支配というのは、ありうる、と。

 ニーチェはさらに苦闘を続けるのですが、それを無視して単純化すれば、超自然的な力を持ったデモーニッシュな存在としての哲学王プラトンを称揚するようなゲオルグ派みたいな動きが出てきてもおかしくないし、無慈悲な絶対的存在による独裁が求められる雰囲気の中で、ナチスなども出てきたのでないか、というのが佐々木先生の問題意識。

 非常に面白かったのですが、まとめようと思い立つまでにもストレスがたまるような有様でして、もしかしたら、何回かにわけて書きますが、とりあえず、自分の中で、いろいろと頑張って理解しようとしていた人たちの考えが、いったんプラトンに還ってから、新たな光を放ちながら収束しているような感じさえ個人的には受けていまして、とりあえずぜひ。

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May 09, 2012

野毛の武蔵屋で三杯

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武蔵屋(むさしや) 横浜市中区野毛町3-133 045-231-0646

 連休中は新東名をつかって浜松に行ったのを除けばゆっくり休んだのですが、嬉しかったのは、あこがれの武蔵屋さんで飲めたこと。

 もちろん夜に行ったんですが、野毛に詳しい方でなければ普通はわからないでしょうね。

 今回は道案内の方がいらしてくれたから、なんとかたどり着くことができました。

 まんま民家の玄関から入ると、三和土にカウンターとテーブル。

 さらに奥には6畳ぐらいの日本間が見えて、そこにも膳が据えてある。

 それだけ。

 でも、いい。

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 映画のロケにも使われたそうですが、小津安二郎さんの作品にも出てきそうな風情がある佇まいです。

 ラッキーなことに待たずに日本間へ上がることができたのですが、頼めるのは飲み物だけ。

 最初からここはコップ酒、瓶ビールなどを含めて、とにかく三杯しか飲ませてもらえない、ということを聞いていました。

 ということで、ある程度、仕込んできたのですが、もちろん「日本酒!」と元気よくオーダー。

 すると、ぬる燗のお酒が薬罐からコップに並々と注がれます。

 これをキューッとやっていると、おつまみが出てきます。

 この日は最初がタマネギのサラダとおから、三杯目を頼むとシラスを乗っけたたらちりが出てくる。

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 これでお仕舞い。

 同行してくれた方によると「後は家で飲んでください、ということ」。

 なんとも人懐っこい猫が、いつの間にか隣の席に座っていたりして、全体としてまるで夢のようなお店でした。

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May 08, 2012

現代詩手帖「吉本隆明追悼総頁特集」

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 現代詩手帖の吉本隆明追悼総頁特集では橋爪大三郎、瀬尾育生、水無田気流の鼎談が面白かった。

 橋爪さんにはいろんなことを整理してもらっていると感謝しているのですが、吉本さんが嫌っていた「党派性」という言葉について「党派というのは、簡単に言うとひとを殺してもかまわないということ」と語っていたのにはなるほどな、と。

 瀬尾さんの、吉本さんは存在倫理という主題を『初期ノート』の頃から書いているけど、存在がそのまま倫理であるという位置から動かなかったというのも、なるほどな、と。

 以下の整理もありがたい。

疎外1は母親から子どもが肉体的に分離して単独の身体になる「原生的疎外」
疎外2は身体が意識を持つことによる「純粋疎外」で個人幻想と対幻想を含んでいる
疎外3は意識がすべて言語に向かって動くこと
疎外4は対幻想を延長した親族共同体

 また、橋爪さんの「福島第一原発の事故はもうちょっと頭が良ければ防げた事故です。それから幸いなことに人口希薄地帯で、日本がそれでだめになるというわけでもない。逆に良かったと思うべきできないか、と。今後は、似た事故が起こらないように、もうちょっと慎重になるから」という意見を聞いたことがないといのは思い切った発言。

 吉本さんが反原発運動をコキ下ろしたのは、日本人が間違うときのパターンは心情的な共振関係によって同調行動が高まるときだと思っていたのではないかというのも同感です。太平洋戦争の時に繰り返し起こった無謀な玉砕突撃のようなことが、日本人最大の問題だ、と。

 吉本さんは、そうした方向に全体が向かないために、冷水をあびせかけるような「多様性の担保として自分が犠牲になる」と考えていたのではないかということは、反核運動の時、オウムのサリン事件の時と同じですね。

 共同幻想論で振り切られ、70年安保の時に行動しなかったことで振り切られ、ハイ・イメージ論で振り切られ、反核異論で振り切られ、オウム・サリン事件で振り切られ、反・反原発で振り切られた人は多かったと思いハズですが「吉本さんはそういった、知識が人間を変な場所に連れだすのではなく、大衆と調和して生きるという方向にいったことへの憧れがあったのではないか」と親鸞に触れて語った橋爪さんの言葉に深く共感します。

 このほか、印象に残った言葉を集めてみます。

「重層的非決定という言葉、私はチャーリー・ブラウンの日常の中でこの言葉が生きているのを感じます」谷川俊太郎

「大衆の原像とは、連続・自発・習慣というパースの世界定義・原理なのかしれない」最首悟

「人の第二十三染色体は、XXならば女、XYならば男と固定してはいないのである。XY女性、XX男性があるだけではなく、XO=ターナー女性、XXY=クラインフェルター男性もある」河野信子

「変ることのない思想は人間の変らない生活に根を下ろすものでなければならない」古橋信孝

「自分の歩みについてたえず疑問と自恃(じじ)とを反復されんことを。吉本拝」佐々木幹郎さんが高校生の頃にもらった手紙

「原発の容認をする吉本隆明がいる(中略)知識を売り買いする知識人でありながら、自分は人を殺すような武器を扱わないクリーンな精神の持ち主だというやつほど嘘つきはいない、というのが反核異論からの彼の主張だった」村瀬学

チャールズ・サンダース・パースの『連続性の哲学』を読んでみようと思いました。

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May 01, 2012

「おにやんま」のヒデコデラックス

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おにやんま 品川区西五反田1-6-3(電話番号非公開)

 以前から気になっていて、その実力はネットからも、周囲からも聞き及んではいたもの、なぜか、行きそびれていた「オニヤンマ」をついに訪問することができました。

 ジャンル的には立ち食いウドン屋。

 食券を外の券売機で買い、2つある扉からオープンキッチンを囲むような感じでコの字型にしつらえられたテーブルに立ち、おもむろにテーブルに食券を置くと「2~3分かかります」と中から声がかかり、大人しく待つ、というシステム。

 オープンキッチンを眺めていると、床のキレイさ、揚げ物用の油の透明感が目に入ります。

 なかなか気合いが入っている感じ。

 つまんないこと言うと思われるかもしれませんが、気合いって大切だと思うんですよ。

 そして気合いっていうのは、店のたたずまいに必ず出ると思うんです。

 注文したのはフラッグシップの「ヒデコデラックス」。

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 冷たいウドンとお汁に暖かい肉が載せられた、冷温タイプともいえるウドンをメインに、天ぷらが3品つきます。

 これで並590円、大盛690円。

 最近では大盛を個人的には禁じているのですが、辛抱たまらずここは大盛を選んでしまいました。

 さっそくウドンを一本いただきますと、角のしっかりした、やや固めなタイプ。お汁も出汁が効いています。

 しかも、天ぷらは熱々。

 都内ウドン店No.1と言われる理由はすぐに分かりました。

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April 24, 2012

絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)

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 久々に歌舞伎を見物に行きました。

 正直、歌舞伎は歌舞伎座で見ないと気分が出ないというか、始まる前のわくわく感がない感じがして、演舞場や国立劇場には、あまりオジャマしなかったんですが、まだ来年のコケラ落としまで時間はあるし、絵本合法衢を通し狂言で仁左衛門さんがアンコール上映みたいな形でやってくださるというので隼町まで行ってきました。開場45周年記念の「歌舞伎を彩る作者たち」シリーズの最後を飾る鶴屋南北の怪作です。

 とにかく、この作品、粗筋を読んでいても、複雑すぎてまったくアタマに入ってきません


 登場人物が多すぎて、しかも捨てキャラのように次々と殺されていってしまう。また、お家騒動モノ特有の縁故関係の複雑さもあって、文字だけ追っていては草臥れてしまうほど。

 この作品は初見なので、スジぐらいあらかじめ確かめておこうと思ったのですが、途中であきらめるほどでした。

 ところが、いざ芝居が始まると、スッと入ってくる。

 左枝大学之助は悪役そのものの出で立ちですし、仁左衛門さんが二役で演じる弟の太平次は愛嬌ある悪、その愛人になりたいうんざりお松はなんともいえない妖艶な悪を感じます。そして、それぞれのキャラが舞台に立つと、それぞれが導音となって必然の物語が紡ぎ出される、みたいな。

 昔、マルクスブラザースの脚本を読んでいて、まったく意味は分からないんだけど、実際にグルーチョ、ハーポが出て動くと意味が生じるみたいなのを思いだしました。

 こういったのは、やはり生身の人間が演じるキャラだからな、と改めてキャラクターの大切さを感じました。しかし、全ての幕で人殺しがあるなんていう脚本を、よくあんな昔に書いていたもんだと感心します。南北は凄い。

 昨年3月、大震災のために公演が中途で打ち切りとなった舞台ですが、こうして、見逃していたのを見物できて、本当にありがたかったです。

 松嶋屋さんばかりなので、大向の会の人たちも、「十五代目!」とか工夫してたけど、孝太郎さんへの「若松嶋!」は自信なさげで、ちと外したかもw

 とにかく、大満足の舞台でした。歌舞伎って素晴らしい!

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