August 15, 2017

『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』

Olympia_nakagawa

『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』中川右介、毎日新聞出版

 宝塚歌劇団星組の次回大劇場作品はワイマール期からナチス政権初期あたりのを舞台にした『ベルリン、わが愛』となりましたが、個人的には理解の浅い当時の背景をよりよく理解するために、未読だった中川右介さんの著書を読んでみました。

 当時のドイツと世界を4人の女優の視点で切り取ってみる、という作品。4人の女優とはレニ・リーフェンシュタール、マルレーネ・ディートリッヒ、オードリー・ヘプバーン、原節子。

 レニはナチスのプロパガンダ資金に乗り『意思の勝利』『民族の祭典/美の祭典』という映画史上に残る傑作をつくりましたが、今や『信念の勝利』(Seig des Glaubens)もYouTubeで見られるようになったんですから、凄い時代です。

 ちなみに、レニは『信念の勝利』について、ニュース映画の寄せ集めであり、自分の映画ではない、としているそうです(p.189)。著者は、『意思の勝利』も誰が見てもナチスのプロパガンダだが、『民族の祭典/美の祭典』はスポーツの記録映画だと思い、ナチスの映画とは見えないという、より高度なゲッペルス的メディア戦略だ、としています。ゲッペルスは『戦艦ポチョムキン』を内容は別として絶賛していたそうで、やはり、そうした目は持っていたんでしょうね。

 レニ・リーフェンシュタールは本当に素晴らしいんですよね…。政治的に問題はあるけど『意思の勝利』の編集のリズムは凄い。そして様々なカメラの改良も行って撮った『オリンピア』の映像は今でもスポーツ動画のクラシック。彼女の編集能力の高さの背景は自伝や『オリンピアと嘆きの天使』で分かります。

 ちなみに『民族の祭典/美の祭典』のプレミアはイギリスでは拒否され、アメリカでも35人しか見に来なかったそうですが、ナチス支持者のヘンリー・フォードは見たそうです。

 マルレーネ・ディートリッヒは『嘆きの天使』で世界のアイコンになった女優ですが、ヒトラーに愛想を尽かして連合国側の象徴になるというレニとは正反対の生き方をします。

 オードリー・ヘプバーンはナチス崇拝者の父を持ち、戦禍のオランダで死にそうになるが、バレエを習い、やがて戦後民主主義のアイコンとなるという人生を歩みます(父とはひっそりと再会)。そして美人女優の代名詞である原節子にも日本の軍事政権とナチスの蜜月時代に、国策映画に出演した過去もあった、というのが『オリンピアと嘆きの天使』の大まかな構成。

 それにしても、ハイパーインフレと賠償で悩んでいたドイツにとって、ハリウッドへの輸出は外貨獲得の有力手段であり、敗戦国とはいえ自国が戦場になってなかったドイツでは才能が集まっていたので、ハリウッドとしても安価に才能を買える市場だった、という指摘にはハッとました。

 それにしても、オードリーが《英国のファシズム運動に参加し、ナチスシンパとしてヒトラーと面会も果たしていた》という両親を持っていたのは知りませんでした。彼女の意思のある向日性はその反動でしょうか?

 ナチスが政権を獲って、すぐに宣伝相ゲッペルスが映画関係者を呼びつけて方針を伝える場面が紹介されてます。星組公演『ベルリン、わが愛』でも出てきそう(p.182)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 14, 2017

『ギリシア人の物語II』

Greek_shiono_2

『ギリシア人の物語II』塩野七生、新潮社

随分、前に読んだんですが、忘れていていました。

 例えば、外国の方が源氏物語が好きだかといって研究していても、和歌の部分とか、その後の文芸への展開、日本語に残る影響や貴族と武家との関係などの理解は、やはり長い間日本で生活し、日本語に接してきた者にはなかなか勝てないのかな、と思うんですよ。ぼくもギリシア語は好きですし、翻訳も含めて一通りのものには接してきたつもりですが、やはり「お勉強」という部分があって、ヨーロッパの子たちがグレコローマンの古典に接してきたり、楽しみとして英雄伝を読んでいるようなのにはかなわないな、と思うんです。

 ですから、「日本人には馴染みがなそうだな」といった部分を、読者のプライドを壊さずに、丁寧に説明してくれる塩野さんの書き方というのは、ありがたいな、と。

 平和を表す言葉のほとんどはラテン語のPAXを語源にしているのは、4年に1度、オリンピックという休戦が必要なほど争いごとの好きなギリシア人が、あらゆる概念を創り出したにもかかわらず、「続くからこそ平和」という概念だけはローマ人を待たねばならなかった、とか(p.29)。

 アイソキュロスはサラミスの海戦に参加していたから第三か第四階級出身、ソフォクレスは「ストラテゴス」に当選したから第一階級とか。アテネ海軍と戦ったサモス海軍を率いたのも哲学者メリトスとか。


 『ギリシア人の物語II』はペルシアという大敵を破にもかかわらず、それ故に陶片追放されたテミストクレスの後を継いだペリクレスによる治世が中心。

 ペリクレスは、それまで父親だけでなく母親もアテネ市民権所持者でなければアテネ市民権を持てない法を可決させて長い治世をスタートをさせた。ペルシャ戦役の勝利によって流入する市民への不満が高まり、それを制限するためだが(p.41)、こうしたところは今も昔も変わらないなと思うと同時に、民主政とは安全保障と表裏一体のもので、アテネの民主政は戦場に連れて行ける兵士の数を増やすという意図がひそんでいたのだろうな、と(p.49)。

 ペリクレス治世の後半、スパルタとのペロポネソス戦争は本当にだらだらと続くが、それでもアテネは安定していた。しかし、ペリクレスの後を継いだアルキビアデスは、デマゴーグたちによって3度も道半ばで失脚させられ、挙句の果てに元は奴隷という司令官に裏切られて全てを失う。

 美しいアルキビアデスと共にペリクレスに館にたむろし、彼を愛していたソクラテスも、その一年後に毒杯をあおぎ、アテネの黄金期=ギリシアの黄金期はあっけなく幕を閉じる。そしてペリクレスの死んだ年に『オイディプス王』が上演された、というのには驚く(p.175)。ペリクレスはギリシアの父だったのだろう。

 シラクサ遠征は、アテネにとってペロポネソス戦争をベトナム戦争みたいなものに変えていくが、プラトンの『饗宴』にも出てくるアルキビアデスというリーダーを追訴して追放し、戦力の逐次投入という負け戦の常套手段をとらせる衆愚政治というのは、いまも昔もニンゲンなんて変わらないな、と思わせる。

 さらに、ペリクレス時代とそれ以後のちがいの一つは、やたら告訴しては裁きの場に引き出すことの乱発(p.315)。ポピュリズム全盛の今の世にも当てはまるというか、こうしたところはサルが先祖のニンゲンは変わらないのかな、と。

 《残念なことではあるけれど、人類は、戦争そのものが嫌いなのではない。長期戦になり、しかも敗色が濃くなった戦争が嫌いなのである。それゆえ、名将とされる人は全員、一度で勝負が決する会戦に賭ける。それが陸上か海上かは、関係ない》というののは名言(p.371)。真珠湾の高揚とか、どれほどのものだったろうか、と思う。
 
 以下は箇条書きで。
 
 パルテノン神殿をつくったフィディアスは完成後二年後に死に、建設を企画したペリクレスも三年後には世を去る。神殿はこの2人の「作品(オペラ)」だった(p.69)。

 社会生活を満喫できたローマ人の女性と比べて、ギリシア人の女は外出の機会もほとんどなかった(p.96)。

 ペリクレスが同世代のソクラテスに興味を持たなかったのは、《国民は、国政の担当者に、哲学的な深遠な思索は求めてはいない》から(p.99)。プラトンの哲人政治の構想は、その反動?


塩野さんも引用しているあまりにも有名なペリクレスの演説では終わります。

《『BC443年 オリンポスにて ~アテネ民主制の理想~ ペリクレスの演説』

 われらがいかなる理想を追求して今日への道を歩んできたのか、いかなる政治を理想とし、いかなる人間を理想とすることによって今日のアテーナイ(アテネ)の大をなすこととなったのか、これを先ず私は明らかにして戦没将士にささげる讃辞の前置きとしたい。この理念を語ることは今この場にまことにふさわしく、また市民も他国の人々もこの場に集う者すべて、これに耳を傾けるものには益する所があると信ずる。
 われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。
 よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私の生活においてわれらは互いに制肘を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。
 また、戦の訓練に眼をうつせば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。先ず、われらは何人にたいしてもポリスを開放し、決して遠つ国の人々を追うたことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれらは持っていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦の仕掛や虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである。子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。
 これは次の一例をもってしても明らかである。ラケダイモーン人はわが国土を攻めるとき、けっして単独ではなく、全同盟の諸兵を率いてやって来る。しかるにわれらは他国を攻めるに、アテーナイ人だけの力で難なく敵地に入り、己が家財の防禦にいとまない敵勢と戦って、立派にかれらを屈服させることができる。
 われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見做す。そしてわれら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。理をわけた議論を行動の妨げとは考えず、行動にうつる前にことをわけて理解していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。この点についてもわれらの態度は他者の慣習から隔絶している。われらは打たんとする手を理詰めに考えぬいて行動に移るとき、もっとも果敢に行動できる。
 まとめて言えば、われらのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己れの知性の円熟を期することができると思う。そしてこれがたんなるこの場の高言ではなく、事実をふまえた真実である証拠は、かくの如き人間の力によってわれらが築いたポリスの力が遺憾なく示している。なぜならば、列強の中でただわれらのポリスのみが試練に直面して名声を凌ぐ成果をかちえ、ただわれらのポリスに対してのみは敗退した敵すらも畏怖をつよくして恨みをのこさず、従う属国も盟主の徳をみとめて非難をならさない。かくも偉大な証績をもってわが国力を衆目に明らかにしたわれらは、今日の世界のみならず、遠き末世にいたるまで世人の賞嘆のまととなるだろう》
『戦史』トゥーキュディデース著、久保正彰訳、岩波文庫 (抄)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 11, 2017

『中国の近現代史をどう見るか』

China_modern_his_6

『中国の近現代史をどう見るか』岩波新書、西村成雄

 久々に読みにくい文章で辟易したのですが、内容は素晴らしかったのが岩波新書のシリーズ中国近現代史シリーズの掉尾を飾る『中国の近現代史をどう見るか』西村成雄。

 存亡の危機に直面しながらも近代世界のなかで自己変革を遂げていった清朝末期を描く『清朝と近代世界 19世紀』。日清戦争の敗北、辛亥革命、そして中華民国の誕生と様々な近代国家建設の道が構想された30年を描く『近代国家への模索 1894-1925』。国民党と共産党は日本の侵略にどう向き合ったのかをを描く『革命とナショナリズム 1925-1945』。人民共和国の成立から文革の嵐までの混乱と迷走の四半世紀をたどる『社会主義への挑戦 1945-1971』。鄧小平が計画経済から市場経済、改革開放を目指した道程をたどる『開発主義の時代へ 1972-2014』という5巻を受けて、清朝末期から現代までの200年中国を俯瞰したのが『中国の近現代史をどう見るか』。

 これまでのダイジェストではなく、世界システム論からみて、中国の地位が中枢から周辺に下降した後、再びセミ中枢まで上昇する「200年中国」という時間軸を設定して、この間の動きを俯瞰してみせてくれた。

 個人的に蒙を啓かれたのは、東洋的デスポチズムの典型であった清朝が滅んだ後も、中国の権力を担った勢力は通常の意味における民主主義的な政治形態を目指していなかった、ということ。

 袁世凱は皇帝となったほか、孫文も「訓政」という名の国民党による一党独裁を進めようとしたわけで、蒋介石から毛沢東へのメインランドにおける権力移行(国民党→中共)は、ソフトな国家社会主義からハードな一国社会主義への移行と見た方がいいんだな、と感じる。こうした理解の方が東洋的デスポチズムから一党独裁(国民党も中共も)という流れがスムースに行ったことがよく理解できると感じた。

 孫文というと三民主義と脊髄反射になるけれど、いくら最終的には憲治を目指していたとはいえ(マルクスだって最終的にはユートピアを描いているわけで)、旧清朝勢力との権力争いの中で国民党もレーニン主義の影響を受けてるな、と改めて感じた(p.112)。

 国民党の「以党治国」に基づく「訓政体制」は、殷の宰相伊尹 (いいん)が皇帝を諫め「訓」したことが先例とか(p.18)。孫文~蒋介石~毛沢東~鄧小平が採用した党主導=以党治国(党を以って国を治める)は、殷の時代を先例とし、乾隆帝が子の喜慶帝を「訓政」した「訓政体制」に基づいている、と。

 実際の政治過程でも、中華民国が北京政府の正当性を否定し、打倒を目指した北伐を通じ、国民党の中共弾圧で、蒋介石の南京政府が樹立されたため、孫文の以党治国という、一党支配の正当性が制度化された、と。中共の独裁はある意味、100年の歴史を持つ、と(p.43)。

 戦後、国民党勢力を本土から駆逐した毛沢東は、国民党による官僚独占資本主義の没収を自身の新民主主義経済の政策の一つとしてとらえていたが、それは国民党政府の元での国家資本主義の集積所・集中が基盤となっていたという指摘はうなる。これは、レーニンの言う国家独占資本主義は社会主義の完全な物質的基盤だとも言えるわけで(p.147)。

 旧満洲の工業施設は日本軍、国民党、中共と次々と接収されていったが、その中でも張学良は東北地区で民族主義的経済体系づくりに奮闘し、それが基盤になっていたんだな、と。戦前における企業設立のピークは日露戦争後の数年だったというのも驚き(p.135)。もっとも、こうした先進性は、現在における「東北現象」という国営経済企業の不振を産んでいるというのは面白いな、と(p.152)。

 孫文の以党建国、党国体制は中共や民主諸党派に批判され、聯合政府樹立が求められるようになり、張学良の西安事件はその波頭だった、と。そうした動きを毛沢東が簒奪して、中華人民共和国にもっていった、と(p.48-)。

 この本は図表が多用され、特に60頁の「伝統的政治文化の構造」の図、素晴らしい。辛亥革命で専制的王朝時代の屋根はなくなったが、その柱と土台は残り続けていることがよくわかる。

 中共は社会主義国の一員として自己規定することで、資本主義的ネイション・ステイト圏からの離脱を図ることで、政治経済的「自立性」を獲得し、それが遠回りながらもセミ中枢まで上昇する基盤となった、と(p.15)。そして、日米との国交回復後は、世界のネイション・ステイトとして自己規定することになった、と(p.50)。

 以下は箇条書きで。

 清朝の士大夫に国境が可視化されたのは日清戦争の敗北だった(p.22)。
 
 中国が国際的秩序に埋め込まれたのは義和団鎮圧戦争の結果結ばれた辛丑条約(しんちゅうじょうやく、北京議定書)だった(p.32)。中国を個人にたとえれば義和団が「底付き体験」だったんだな、と。

 清朝衰退期の道光帝の時代、西北辺境(新疆南峰)でジャハーンギールの反乱が起こり鎮圧するのに7年かかったというんですが、このジャハーンギールという名は宝塚の花組公演『金色の砂漠』で描かれていた人物で、そうした名前の実在の人物がいて、張格爾という中国名も持っていた、というのには驚く。

 中共は「人民の敵を打倒する」ことによって政治的委任を受けたと理解できる(p.83)。

 ネイション・ステイツには1)ブルジョワ主導による内的発展をとげたグループ2)フランス、ドイツ、日本のように官僚主導でキャッチアップを目指したグループ3)ロシアと中国のように単一政党主導によるキャッチアップを目指したグループに分類できる、と(p.139)。

 清朝は支配権力内の洋務派権力の形成という部分的変動だったが、日本は江戸幕府の崩壊という政治的転換を行った、と(p.132)。

 マディソン推計で日本のGDPが中国を越えたのは1961年というのは驚き(p.162)。

 現在の中共は政治的エリートと経済的エリートの同盟となっている(p.196)。

 中国の基層は「中華世界層」、中層が「資本主義ネイション・ステイト」、表層が「社会主義ネイション・ステイト層」(p.204)。

 ロシアはメキシコの一党独裁が約70年で崩壊したが、中国ではそれが2020年前後となる(p.208)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 20, 2017

『モラルの起源 実験社会科学からの問い』

Moal_iwanami

『モラルの起源 実験社会科学からの問い』亀田達也、岩波新書

 2012年にNHKで放送された『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』シリーズは印象的でしたが、本書はそこで描かれていた内容を、より学術的にまとめたような印象です。

 紹介したNHKスペシャルは、なんで人間は協力するように心を発達させてきたのかを扱っていいたんですが、協力には直接的に人を助ける直接互恵のほかに間接互恵も重要だそうで、『モラルの起源』では《情に流されて行動してしまう人情家は短期的には損をしても、長期的には人に選ばれていく》とまとめられています。

 ヒトは社会の中でしか生きられないので、その中で安定的な地位を保たねばならないのですが、戦略上、最も有効なのが周りを気遣い、時には自分が損をしてもヒトを助けるような「寅さん」みたいな生き方だそうです。

 若干、ヒトの目を気にしすぎるのでは、と思われるようなこうした生き方は、狩猟社会の時からの平等を気にする性質がさせている、という理由もNHKの『ヒューマン』と一緒だと感じました。

 平等で問題はありませんが、そこからはなかなか発展が生まれません。随分昔に聞いた、「アポロ計画の資金を貧困救済に使っても、あまり意味のある結果はでなかったろう」というような話しを思い出しますが、とにかくアフリカにある狩猟段階の社会で「もっとも嫌われるのは、ケチと自慢」だそうです。とにかく平等であることが原始社会では生き残りの条件だった、と。

 こうした内向きな傾向は現代においても、例えば、社会政策では、思わぬ不合理を生むそうです。どういう分配が好ましいか人々に問う実験では、社会全体の資産総額が小さくなっても格差が少ない社会を求める傾向がハッキリとみてとれるそうです(p.142-)。

 ここで、ハタと思いついたことがありました。

 多くの人々が基本的にはこうした考え方であるとすれば、資本主義社会では逆に大きな勝負に出るような性格のヒトというのが成功するのではないのかな、と。日本でも「今の日本社会にはアニマル・スピリットを持った資本家が少ない」なんてことをよくいいますが、資本主義社会で極く一部の人間が成功して、大多数の人々が平等に貧しくなるというのが、人類の宿命なのかな、みたいな。

 『モラルの起源』の著者は適応は10万年以上の長い進化時間、数百年・数千年の歴史・文化時間の両面から考えるべき、と場合分けをしします。そして、人間の社会行動は複雑で矛盾するように見えるが、全体としては生き残りのためのシステムと考えることができるから分析は可能だ、と。

 霊長類の大脳新皮質は群れのサイズが大きい種ほど大きいそうで、他の霊長類とのサイズ比較で、ヒトにとって本来の社会集団(群れ)の大きさは、だいたい150人と予想され、これは伝統的な部族社会におけるクラン(クラン)の大きさと一致するんだそうです(p.16)。

 なんで、こんなに大脳新皮質を発達させたのかというと、それはヒト付き合いのためだ、とというあたりが導入部。

 2章では極端にヒットする歌や本、映画が出るのは人気が人気を呼ぶプロセスが生じるから、という話しからスタートします。どうしてそうなるかというと、ヒトは他者の意図を敏感に察知し、戦略的に反応する「空気を読む」動物だからだ、と。「自分の目だけを信じて判断を下すことは個体に不利益をもたらす」ということが経験則となり、他者の福利やステイタスに敏感なのもこのためだ、と。付和雷同はヒトの本性なのかもしれません。

 集団のために汗をかくことは「自らの適応度を下げてまで相手の適応度を上げる行動」と定義されますが、こうした利他的行動はハチのような群れ全体での生き残り戦略をとる血縁淘汰なら説明できるが、ヒトを含む強い血縁社会を作らない動物たちは、どのようにして協力して関係を作ることができるのか、が3章のテーマ。著者によると

・「罰に社会的な実効性がないはず」と冷徹に計算したずる賢い掟破りは、人々が、そのように感じてしまうことで実効性を持つ
・こうした行為に罰を与えることは、自分に直接的な見返りがなくても「快」が伴う
・相手との社会関係をうまく築くためには直感、身体感覚が重要なポイント
・道端に倒れている人を助けるなどの間接的互恵行動はヒト以外に観察されない
・その仕組みには、評判の働きがある
・ヒトは毛づくろいに代わって、言葉を使い「今ここにいない誰か」についての噂話をすることが、お互いの絆や連帯感を強めている

 んだそうです。

 ゴシップを通じて他者の本当の利他性についての情報を得ることで、評判の良い人と付き合い、悪い人は避けようとする。付き合う相手として他人から選ばれることは、集団生活を選択したヒトにとって適応条件となり、ツイッターやLINEではその影響が大きくなる、と。

 ということで、情に流されて行動してしまう人情家は短期的には損をしても、長期的には評判が評判を呼んで人に選ばれていく。合理的で冷徹な計算よりも「情に流されること」は適応上の意味を持つんだそうです。

 最期も個人的な感想になるのですが、リベラルであったり左翼的な発言は冷たいイメージを持たれることが多いと思うのですが、これは人々が「合理的で冷徹な計算」を信じていないからなのかな、と。だから、どこでも保守勢力が強いのかな、と。

 大いなる反省とともに。

 あと、人間でもイヌでも、見つめ合うと脳内でオキシトシンの分泌がたかまり、相手への愛着行動が増す、んだそうです。舞台でも贔屓から見つめられとオキシトシンが分泌されて、さらに贔屓度が増すという事もあるけど、その他のリアルな場でもあるかもしれません。

 見つめ合うことは大切なようです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 17, 2017

『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎

『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎

 書評というよりロシア革命に関する思い、みたいなところから書きますと、トロツキーの角川文庫の大著を分からないところは飛ばしながらも読んだのは高校生の頃。大学に入ってからは『歴史とは何か』のカーが簡潔にまとめてくれた本を読んだぐらいでしょうか。トロツキーのは当事者が書いたということもあり細かすぎ、カーのは簡略にすぎましたが、どちらもレーニン無謬説が前提だったように思います(ジョン・リードのも、読みかえしてはいませんがボルシェビキ贔屓がすぎるといいますか)。

 レーニンの無謬性は、ロシア革命が最悪の状況となる前に倒れたという、処刑されなかったロベスピエールという感じの生涯の閉じ方も関係していると思います。革命運動、革命後の統治の矛盾をすべて引きうけたスターリンに悪役を押しつけて生けるがごとくクレムリンで眠っているというのがレーニンのイメージでした。

 こうしたイメージは映画でも増幅されます。エイゼンシュテインの『十月』だったと思いますが、ペトログラード・ソヴィエトの労兵の前に姿を現すレーニンに付けられた字幕は「これが、これが、レーニン」だったと思います(『十月』はサイレントにしては字幕が少ない映画でしたので、余計に印象的でした)。

 ロシア革命って最後はレーニンのボルシェビキが勝つわけですけど、いま思えば、ぼくが若い頃に読んで影響を受けた本はいずれも革命を肯定的に描きすぎていた感じがします。

 その点、池田嘉郎『ロシア革命』は二月革命の臨時政府がなぜ失敗したのかを中心に壮大な歴史のIfを提示してくれる感じで、十月革命に対する個人的な見方も随分変わったといいますか、目からウロコが何枚も落ちました。

 一番、変わったのはケレンスキーに対する見方。ケレンスキーは権力のうっちゃり方が情けなかったということも含めて、全体としては心情移入できない悪役で、二月から十月にかけてはダース・ベイダーのような悪の権化のような印象でしたが、2月革命の頃、35歳だったんだなあと。

 子供じゃないですか…。

 読んだ時には凄い大人だと思だだけど、まあ、トロツキーも30代ですし、若いな、と。

 《「街頭の政治」とは噂、とりわけ陰謀に関する噂が人の心をとらえる政治である。そしてまた「敵」を探す政治でもあった》(p.69)というあたりを読むと人間ってのは変わらないな、と。こうした醜い政治の極北はスターリ二ストだけど、爽やかだったのは全共闘など少なかったな、と。

 しかし、それでもレーニンは、もし10年健康なら別の結果を出したんじゃないかと思う凄さはあります。四月テーゼも画期的というより、帝政が終わったばかりの農業国なのに、革命が可能だと宣言するパラダイム転換の勧め、みたいな感じだったのかな、と。

 それにしても、日露戦争の時の、帝国陸軍が防戦するしかなかった野戦のロシア陸軍と、二月革命時のアナーキーな兵士たち、その後のスターリン独裁下の対ドイツ戦で無残に犬死にしていくソ連軍の兵士たちの心象風景の連続性が見えないんですが、どうなっているんですかね。そこだけ不満。

 カー『ロシア革命』はどうだったんだろと改めて読みかえしてみたら教条主義的で読めたもんじゃない。カーの『歴史とは何か』も日本ぐらいでしか評価されてない、というのも分かります。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 13, 2017

『ロマン派の音楽家たち: 恋と友情と革命の青春譜』

『ロマン派の音楽家たち: 恋と友情と革命の青春譜』中川右介、ちくま新書

 メンデルスゾーン、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどロマン派の音楽家たちの交流を中心に、19世紀の音楽の発展を紐解く作品。自分が無知だけなのかもしれないけど、彼らは全員1810年前後の生まれだったとは。ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトなど、それまでの作曲家の社会的地位は低く、父子直伝の教育で訓練されたのも、誰もなろうとは思わない職業だったという指摘は目から鱗。そういえば、モーツァルトの葬儀も映画『アマデウス』まではいかないまでも質素に行われただけだった。

 それを劇的に上昇させたベートーヴェンで、彼が音楽家を社会から尊敬される存在にした、と。その流れに乗って一般家庭の子弟からも音楽家が出てきた、というあたりの背景説明は、ここまでクリアカットに書かれると新鮮。

 天才ピアノ少年リストは貴族から奨学金を得てハプスブルグのハンガリー領からウィーンに出てきて師事したのがベートーヴェンの弟子ツェルニーだったとは…。子どもの頃、いやいややらされていたピアノの「ツェルニー」が音楽史の中でやっと位置づけられました。

 いまもツェルニーをやらせるのか知らないけど、ピアノの先生は子どもたちにツェルニーに入らせる時「ベートーヴェンの弟子でリストを教えた人なのよ」ということをぜひ伝えてほしい。そうすれば、あの無味乾燥な練習曲も少しは見方が変わってくると思う。

 1828年までのメンデルスゾーン(19歳~)ショパン(18歳~)シューマン(同)リスト(17歳)作品など、年代ごとに作品が載っていて、こんなに若書きだったのか、と驚く。ショパンがポロネーズ8番をそんなに若い時に書いてるとは…。ショパンはエチュード1-12番を19歳から書き始めているのにも驚く。音楽家は神童が多いから、若書きでも関係ないんだな。

 こうした一年ごとに掲載されている作曲リストを見ると、ショパンはずっとコンスタントに名曲を書いている感じ。その継続性と、逆に爆発力のなさはなんなんだろ。まあ、ピアノ曲ばかりで書きやすかったのかもしれないけど、とにかく自分の強みに特化している。逆ににしてもワーグナーの遅咲きぶり。ベルディにしてもグランドオペラに特化している作曲家は、劇場やオーケストラ、歌手との交渉術なども含めて遅咲きにならざるを得ないのかも。

 クラシックは子どもの頃はいやいや、高校生ぐらいから意識的には聴きはじめたけど、何歳の時の作品とかは意識したことなかった…。ピアノの先生とか優秀な子がいたら「ショパンは17歳の時に葬送行進曲を書いていたのよ」とか教えれば発憤したりするんじゃないかな。

 メンデルスゾーンもショパンもあっけなく死んでしまうし、シューマンは自殺未遂のあと精神病院で死ぬ。いまのリサイタルの原型をつくったのはクララ・シューマンとリストだが、シューマンとクララの結婚生活はたった17年だったというのにも驚く。

 あと、ライプツィヒが音楽史上、こんな重要な都市だったとは。

 ま、それも含めて勝者の歴史なんでしょうが。

 中川さんは、笛とか買わせて業者儲けさせるより、学校で作曲を教えろと書いていたことあったけど、確かに作曲のメソッドとか教えてもらえないから、クラシック音楽の敷居は高く感じるのかもしれない。作曲術が少しでも分かればスコアも、もっとちゃんと読めるだろうし。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 03, 2017

『ウニはすごい バッタもすごい』

『ウニはすごい バッタもすごい』本川達雄、中公新書

 ゾウの時間 ネズミの時間』の本川先生の近著。

 目からウロコがボロボロ落ちるような話しばかりで、ぼくだけが知らなかったことなんでしょうが、筋肉は引っ張るだけしか出来ないために、伸ばす筋肉と必ずワンセットになっているとか、ヒトデやウニも新口動物で、それは棘皮動物門、半索動物、脊索動物の三つしかなく、我々と近い関係にあるとか、ヒトデがなぜ星形なのは花の多くが5弁であることと関係するなど、ワンダーだらけ。

 筋肉は繊維です。繊維と言えば糸。糸は引っ張れば強く張れますが、押そうとしてもへにゃへにゃになるだけ。このため、お互い引っ張れるよう反対側に縮む筋肉とペアとなって運動ができるようになる、というのはぼくだけが知らないことなんでしょうが、これからも身体を動かす時に意識していこうと思いました(屈筋と伸筋)。

 この本は刺胞動物門、節足動物門、軟体動物門、棘皮動物門、脊索動物門、脊椎動物門と進化の過程をたどって、それぞれの生き物がどういう戦略で生き残ってきたのかを解き明かしてくれます。といいますか、副題に「デザインの生物学」とあるように、各生物がどのように生き残る上での困難に対処するためのデザインを選んできたか、という歴史をビジュアル的に説明してくれます。

 多くある動物門の中で、最も栄えているのは昆虫。昆虫の種は動物の七割、全生物でも半分を占める。これだけ大成功したのは、体が小さいので1)世代交代が早いからどんどん変異を生み出し2)環境変化に弱いので淘汰も早く優れた変異が生じやすく3)行動範囲が狭いので変異が定着しやすい、というまとめはソリッド。

 被子植物(花を付ける植物)も全光合成生物の七割。昆虫との共進化でものすごい多様性が生じた。被子植物は花粉という乾燥に耐えられるものを作って昆虫や風に運んでもらう。めしべに到着したら発芽して、その湿った環境の中で精子がつくられる、というあたりでは植物の世界にも言及していまして、地球は植物と昆虫の世界なのかもしれないと思いました。

 デザインの話しでは、ウニの棘を外して、砂中を移動しやすいように身体を細長くしたのがナマコの先祖だったとは…。動物は胚から原腸が出来る際にそのいり口として原口がつくられるが、ヒトデなど棘皮動物門は成体の口が別の位置に新しくつくられる新口動物で、それは半索動物、脊索動物(我々の仲間)の三つしかなく、親戚関係にあるとか(p.147)。

 ヒトデやウニも我々の仲間なのか、と。道理でんまいわけだ!と膝を打ったわけですが、ナマコを正面から見ると五角形というのは、ウミユリの構成要素と同じ、と。

 ヒトデなど棘皮動物門などが星型をしているのは、働ける腕の数が最も無駄になりにくいのが奇数で五だからなんだそうです。花も五弁花が多いのはハチなどの滑走路となる場合、上下で10方向から花弁に導けるから(四版花は上下四方向から導けないので種が少ない)とか凄いな、としか言いようがありません(p.152-)。

 動物は大別して素早く動くものと、専守防衛のものに分けられ、運動性指向の脊椎動物は感覚と神経器官を発達させるが、筋肉も発達させるので捕食者からは美味しいエサに見える、という言い方もクリアカット。動かぬサンゴ・フジツボは殻で身を守り、その中間がウニやナマコ、ヒトデだ、と(p.211)。

 海底に立っている棘皮動物のウミユリは、姿勢を保つ靭帯と、捕食者に襲われると本体を腕で覆い隠す筋肉の二刀流で動くそうです。靭帯を硬直させる(キャッチ結合)にはあまりエネルギーを使わないが、こうした二刀流は他の棘皮動物にも受け継がれた、と(p.216)。

 第六章から脊椎動物の属する脊索動物門の話しになるのですが、頭索動物亜門はナメクジウオだし、尾索動物亜門はホヤだもんな…。やんなっちゃいましたよwホヤの幼虫は小型のオタマジャクシそっくりで尻尾を振って泳ぐというのは知りませんでした。

 ヒトがバカをやると「元はサルだから」と思うが、これからは「元はといえばホヤやナメクジだからしょうがない」と思うようにします。

 脊椎動物篇では、魚が上陸した際、地上を這う時に、胸ビレと腹ビレを脚として、それぞれ肩帯と腰帯を発達させた、というのがよくわかります。また、運動性能を良くするために、骨同士で結合させるのではなく、骨と骨をまたぐ筋肉によって結ぶように変化させたというあたりもなるほどな、と。腹ビレは大きな役割を果たしていないので、魚では小さいけど、四肢動物になって、初めて腰骨が目立つようになってきた、と。

 また、これだけ植物が繁栄したのは、葉や種が硬くて消化しにくく、大きな腸を持つ大型動物でなければ、特殊な機能を持つ生き物ぐらいにしか食べられなかったから、というあたりも目ウロコでした(p.294)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 02, 2017

『日本の近代とは何であったか』

『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』三谷太一郎、岩波新書

 個人的によかったのは、アジア諸国の人々と一緒に歌える歌がないなど、アジア諸国との文化的断絶を強調したところや(丸山真男的?)、近代日本は機能的ヨーロッパ化を図るも、根源的な原理には想いを致さなかったあたり。田中王道東とか取り上げてるし。

 三谷先生の論旨は明快だが、批判する明治憲法における擬似宗教的な補足は、唐突に提示される東日本大震災における原発事故への過剰反応と似ているのではないかとも感じた。マルクスを最初から引用しているけど、最も大切な合理性の部分を見失っているようで個人的には残念。

 とはいえ、いつものように箇条書きでまとめてみます。

[序]

 バジョットは「議論による統治」を成立させる要因として熟慮を求める受動性を重視。一方、英国の国王権力は宗教勢力などの対抗勢力から不断の挑戦にさらされ、自由の付与と議会政治を回避できなかった。そして一旦、議論の対象となると神聖を汚す討議となる。

 『失敗の本質』以降、前の体制が、今の体制を準備している的な議論をすれば一丁上がりみたいな論議もあるけど、トクヴィル『旧体制と大革命』から、幕藩体制から立憲主義の準備を解き明かすとは思いませんでした(p.42-)。

 ウェーバーは『経済と社会』の中で、合議制は行政任務の専門化が進行し、専門家が不可欠となってきたような状況で、支配者が専門家を利用しつつ、その優勢が増大していく中で、自己の立場を守ることに適合した形式、としている、と(p.44-)。

[第1章]なぜ日本に政党政治が成立したのか

 徳川幕藩体制は権力を抑制する均衡メカニズムを持っていた。また森鴎外の史伝にみられる「公権力の公共性の傘の下で非政治的形態の公共性が形成される。これが政治的機能をもつ公共性の前駆をなす文芸的公共性」(ハーバーマス)も江戸時代にはもあった。

 実は分権的だった明治憲法には最終的に権力を統合する制度的な主体を欠き、まず薩長藩閥がこれを担った。衆議院を支配する政党もそれだけでは権力が保証されず、双方が接近、複数政党が出現した。これは同じく分権的な米国での二大政党の成立と似ている。

 米国のファウンディング・ファーザーズたちは、政党政治政治は自由の要請に反すると考えていたが、大統領を補佐する非制度的な主体が必要となり、大統領選出母体となる二大政党を自身でつくることに。

 ナチスの出現、英国の挙国一致内閣、米のニューディール政策を見て、蝋山政道はデモクラシーを分離した立憲主義としての立憲独裁を唱えた。現在の日本でも専門家支配が強まっており、立憲デモクラシーが問われている。

 国民国家の形成と自立的資本主義の形成は不可分。その論拠となったのが軍事型社会から産業型社会への図式を示したスペンサー。堕落した宗教しか持たなかった日本ではウェーバー流の精神よりも機能的にうつり、政治リーダーが同時に経済リーダーとなった。

 その最初の例が大久保利通で、松方正義から高橋是清と受け継がれる。官営事業による先端技術導入、地租改正による歳入増、質の高い労働力を生む公教育の確立、資本蓄積を妨げる対外戦争の回避。外債を極力回避したことは経済の尊王攘夷でもあった。

 江戸時代には村単位でしか把握できなかった貢租が農民単位となり、租税収入を確保。外国資本に頼らない資本主義化が可能に。小学校の数は学制導入三年後には現在を上回る数に。女子師範学校も男子の2年後に設立された。

 本格的な対外戦争も日清戦争までは回避され、テロに倒れた大久保に変わって松方正義がデフレ財政による正貨の確保に努めた。日清戦争後は対外信用も高まり、外債も導入。井上準之助は金本位制と軍縮による日本の国際資本主義化を目指すがテロに倒れる。

  政治リーダー=経済リーダーの系譜は大久保利通、松方正義、高橋是清、井上準之助と受け継がれていくが、松方以外は全員、右翼のテロで倒れているというのは、利潤に悪を見る日本的な暗さを感じさせる。

[第2章]なぜ日本に資本主義が形成されたのか

 日本は政治リーダーが同時に経済リーダーとなった。その最初の例が大久保利通で、その役割は同じ薩摩の松方正義に引き継がれ、高橋是清も薩摩系のリーダーたちに薫陶を受けて育った(p.84)。

 大久保は正倉院所蔵の布地を収集させて外国人の嗜好に合う装飾品のデザインを試みさせたりしている(p.94)。

 日清戦争以前に日本には1)官営企業により先進技術の導入2)高い歳入を保証する租税制度3)公教育4)対外戦争を避けたことによる資本蓄積-という条件が揃っていた(p.86)。

 外債の調達は鉄道建設、俸禄処分の費用捻出など限定的に行われ、正貨の流出を防ぐとともに(p.95)、地租改正で直接、農民を把握して租税収入を確保した(p.99)。江戸時代まで「村」単位でしか生産高を把握できていなかった。

 優秀な労働力を確保するための教育にも熱心で、寺社の催しを禁止したり、警官による授業時間帯に徘徊する児童への登校督促なども行われた(p.102)。

 日本に国賓として来日したグラント元米国大統領は、明治天皇に外債の危険を伝えるとともに、事前に清国の李鴻章と会い、沖縄処分に対する不満を聞いている(p.107)。

 大久保に次ぐ経済リーダーとなった松方正義は、政府の準備金を横浜正金銀行で運用することで正貨準備の増大を図った(p.117)。

 日露戦争後に高橋是清から属目され、国際金融家として台頭してきたのが井上準之助。井上は満鉄への米国資本の導入を目指し、ストロングやノーマンのような金本位制という価値体系を共有していた。このため金準備の蓄積のために緊縮財政を志向した(p.137)。

[第3章]日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか

 三国干渉による遼東半島還付が与えた挫折感が、自覚的な植民地帝国の内的動機となった(p.148)。日本が手本とすべきだったのはイギリス流の「自由貿易帝国主義」だったが、高コストの実体的帝国主義の道を選んだのは軍事的安全保障への関心から。このため主権線と経済線という概念が出てくる(p.152)。

 日本の枢密院には、米国の上院のように、政府が批准した国際条約への審議権があったので、この章では、残された枢密院の議論を通じて、植民地形成過程を追う(p.155)。

 伊藤博文が韓国統監となったのは、植民地においてシビリアンとミリタリーを兼併するという例外的存在が元老第一位の座を占める伊藤に相応しかったから(p.159)。三代目から陸軍は韓国統監から軍隊指揮権を回収している(p.161)。

 韓国併合後、植民地の憲法上の位置づけが問われた(p.162)。美濃部達吉は立憲政治が適用される範囲は日本の内地のみとして、台湾や韓国などの植民地は「異法地域」と呼んだ(p.164)。しかし、それは立憲主義の普遍性を信じる立場からの植民地批判であり、天皇機関説にも通じる。

 その後3・1運動への同化策として京城帝国大学が設置される(1924年、p.184)。その際、法学部の設置が望まれ、実際に設置されたが、ナショナリズムは沈静化されなかった。

 国際連盟脱退後の青写真として提案されたのが蝋山政道による「地域主義」。ワシントン条約による普遍主義的国際主義は1930年の1年で終わった(p.192)。地域主義は大東亜新秩序の指導原則となったが、文化的意味はほとんど持たなかった。

[第4章]日本の近代にとって天皇制とは何であったか

 日本の近代は明確な意図と計画を持って歴史を形成してきたが、その前提は資本主義の時代の価値観の受けいれを前提としたもの。また、こうした体系をつくる諸機能は移転可能であるとして、個々の機能を導入した(p.206)。しかし、その前に日本が機能の体系として再組織されなければならなかった。

 こうした機能主義の系譜に福沢諭吉、田口卯吉、長谷川如是閑、田中王堂、石橋湛山がおり、日中戦争以降の笠信太郎などのよるマルクス主義を応用した新体制論議にもなっていくが、そこで叫ばれた「近代の超克」を浅いものとして徳川時代の近代的要素に着目したのが丸山眞男。

 こうした機能主義的なヨーロッパ観の中で、近代に還元されない古いヨーロッパを見たのが永井荷風だが、伊藤博文などの憲法起草者はキリスト教的な機能を日本に導入しようとした。

 グナイストは仏教を勧めたが、伊藤は微弱であるとして皇室をもってくくることにした。

 近代ヨーロッパは宗教改革にょって中世の神を継承したが、日本は廃仏毀釈によって前近代から神は継承しなかった(p.216)。

 伊藤は天皇の神聖不可侵性は法律上の責任が問われないだけでなく、議会の論議にも含まれないようにした。このため、教育勅語には国務大臣の副著がない(p.225)。それは憲法外での神聖不可侵性を高めるためでもあった。

 しかし、立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇という立場矛盾は恒常的な不安定要因となっていく。

[終章]近代の歩みから考える日本の将来

 略。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 08, 2017

四月大歌舞伎の歌種と米吉

Kabukiza_201704

 四月大歌舞伎を見物してきました。席をとったのは昼の部。演目は『醍醐の花見』『伊勢音頭恋寝刃』『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』。

 『醍醐の花見』はたわいない新作歌舞伎舞踏。見所は大野治長、治房の兄弟を中村歌昇、種之助の兄弟(歌種)が舞うところ。踊りの旨い歌昇が勇ましく舞うところに、女形で出ることが多い種之助が童髪で加わり眼福でした。女形が立役で出るというのは、宝塚だと男役が手足を出してレオタードのような衣装を着て踊る(ダルマ)みたいな感じウキウキしてしまうのはなぜだろうw日本舞踊は偉そうに語れないけど、決まった姿がいじらしくて堪らない。三月大歌舞伎の中村梅丸に続き、種之助の舞台写真も買うか悩むw

 二つ目の狂言は染五郎の『伊勢音頭恋寝刃』。去年ぐらいに海老蔵が『夏祭浪花鑑』を演ったから、対抗上、夏狂言としてかけたんでしょうか。『夏祭浪花鑑』は文楽を歌舞伎にした狂言だけど、『伊勢音頭恋寝刃』は歌舞伎から人形浄瑠璃になっている。染五郎(高麗屋)は御曹司系では大好きな役者なので大許しというか、こういうちょっと情けないけど、切れると暴れるような刹那的な役は似合う。親父の幸四郎はマジメ一方な感じになってしまったけど、染五郎は若い頃のスキャンダルも含めて、ちょっと脇が甘いところが魅力。

 仲居万野の澤瀉屋さんはうまいねぐらいの印象だが、米吉は痩せて綺麗になったかも。米吉は染五郎がラスベガスのベラージオで「鯉つかみ」演った時に連れて行った女形だけど、相性いいのだろうか。

 高麗屋は、先代の幸四郎が東宝歌舞伎に走ったように、團十郎宗家を頂点とした歌舞伎界の秩序を許せないというか、どのみち自分たちの血じゃないか、という気分があると思う。今の幸四郎もいったんは外に出たし、染五郎はアメリカというかベガスのエンターテインメントと組んでいこうという構想があったりして。

 グローバル展開がまったくできてない松竹は自分たちの価値がわかっていなくて、せっかくの歌舞伎という唯一無二の無形文化財を若冲とか北斉という系統でどうにかするという発想がなくて情けない。新しい展開がないままだと、いま染五郎が幸四郎になったとたんに米国資本と組んで…なんてことになったりして。いまの染五郎はなかなかやると個人的には思っているんで。

 それにしても、高麗屋(染五郎)と成田屋(海老蔵)は相手役の女形を育てたがっているのだろうか。現在の最高の女形は菊之助と七之助だけど、もう自分の劇団持っているし、玉さまは孤高だし。

 戦後の歌舞伎は歌右衛門さまも、玉さまも、ドメスティックな市場しか考えていなくて、その中での生き残りを芸の昇華を通じて達成するというスタンスだと思ったんだけど、染五郎や海老蔵は、グローバル経済の中で自分たちの劇団を生き残らせるか、なんてことを考えていたら凄いんだけど。梅丸、種之助は大好きだけど、本人にそれだけの野望がありそうな感じはしないし、当面、立役主導でいくのかな、と思ってます。

 くだらない作品だと思っている熊谷陣屋で、今日初めて「なるほどな」と思ったのは、染五郎の義経が後光を差す位置にいること。『義経千本桜』でも、義経自身は前面に出ないのに、厳しい人の世に差す後光として象徴的に描かれているという橋本さんの文楽論を思い出す染五郎の義経でした。

 にしても時代物の熊谷陣屋、寺子屋なんかは「なんで、こんなにつまらなくて気持ち悪い作品を21世紀の銀座でかけているのか本当に分からない」としか思えない。単に芝居に飽きた江戸時代の客を驚かすために、自分の子供を殺して主君をたてるみたいな気色悪い物語を、人気のなくなった人形浄瑠璃でやる分には「ある異常な人々の普通の行動」として認識されると思うけど、銀座で人間国宝がやると意味が違ってくるんじゃないかな。幹部俳優が口伝で伝えられたとしても、そんな仁は意味がなく、くだらない。

 世話物では魚屋宗五郎も五月にかけられるけど、これも面白くもなんともない作品。談志が死んだ勘九郎に見てくれと言われて「俺が魚屋なら妹を殺した主君を打つという具合に脚本を変える」と言ってた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 07, 2017

『応仁の乱』

Ounin_no_ran

『応仁の乱』呉座勇一、中公新書

 室町時代を現代に通じる日本の歴史の始まり、とする言い方は内藤湖南の「応仁の乱に就いて」で有名だが、丸山眞男も講義録の中で、応仁の乱を生き残った守護大名はほとんどなく、下克上で戦国大名にとって代わられ、それは荘園制に寄生した存在だった武士が、最初はその支配を京都と距離をとって進めるとともに政権運営能力を高め、元はといえば農民だった自分たちの「武士のエートス」を磨きながら、荘園制を最終的に浸食する過程の始まりだ、としている。

 岩波新書のシリーズ日本中世史では「鎌倉時代に耕地開発の飽和期を迎えた」という基本認識が示されており、そうしたゼロサム社会の中で、地方の武士たちの所領確保の欲求が増し、土木技術の未熟さなどから耕地開発も災害への脆弱性をはらんだものとなり、江戸時代に耕地が拡大するまではなかなか人口も増えなかった、という大まかな見取り図を持っていた。

 そうした中、15世紀、中国大陸中央部で目覚ましく経済が拡大し、その結果、周辺のヌルハチの辺境軍事勢力が活性化され、そこには豊臣秀吉も数えられる、というのが室町中後期から戦国時代かな、と思っている。

 呉座勇一『応仁の乱』は、そうした室町幕府が権力を弱体化させていった分水嶺のような大乱だが、何が原因で誰が勝ったか判然としない、という印象だった。それに対して、呉座勇一は応仁の乱は大名連合を束ねる細川勝元も統治に必要としていた家格の高い畠山家の家督争いが原因であり、庶子義就(よしひろ/よしなり)と政久・弟の政長のいつ果てるともわからない戦いが原因だと断じている。

 細川勝元が管領として必要とした畠山の家格は、やがて地元の領地を守る守護代などに応仁の乱に参加した在京守護が屈服することで新しい時代(日本的封建制)を迎える、と。

 鎌倉幕府も内ゲバなど戦いばかりで、足利幕府は大名たちによる得宗家に対する一揆とみることもできるという見方は新鮮。室町幕府は発足当初から兄弟間などの反乱に悩まされていたし、守護大名たちの連合政権だったというわけだ。

 それにしても、足利幕府の地方の戦乱を収められない具合は情けないほど。鎌倉幕府の場合、北条氏がまだ強かった感じるが、荘園の侵食とそれの武士同士での取り合いで中々、実力主義の戦いが続き、足利幕府時代は荘園が武士に恩賞出しまくっていった中で溶けていった、という感じも。また、分国支配の経験を持たない伊勢氏などの将軍側近と、在京を命じられた大名たちの確執というのも、大きな要因なのかな、と。

 やがて将軍を補佐する旧権威の細川に対して、新興の山名が対抗したのが応仁の乱。

 人物が入り組み、しかも、いずれも大したことのない人物であり、地侍たちに領地を奪われ、やがて真の意味での農民政治(土着の武力勢力)が行われれようになるのは歴史の必然というか、日本の唯物論的な面白さだと思うが、そうした戦いを興福寺のトップである僧侶、経覚と尋尊の日記を中心に描いたのが今回の『応仁の乱』。

 興福寺は藤原氏の氏寺だったということは知っていたけれど、院政によって摂関家の勢力が低下し、興福寺への人事に院が介入するようになったことから、強訴が始まった、という見立てにはなるほどな、と。天皇による王的支配(実子への攘夷)の強化→寺社の強訴→武士の台頭、というテコの支点は摂関家だったのか、と。

 実質的な主人公である畠山義就さえも「よしひろ」なのか「よしなり」なのか読み方が確定しないため、全体的に読み進みにくい印象はあるが、日本史の原点とも言えるような室町時代に関する知見を増やせることになったのは、ありがたい限り。

 それにしても呉座勇一さんは1980年生まれなんですね。日本史にも若い研究者がどんどん出てきているんだな、と実感できました。

 丸山真男が高く評価していた朝倉の活躍が意外と中途半端な感じを受けた。また、義尚が愛人関係にあった結城尚豊を近江守護に任じたりというあたりは、もっと書いてもらえるかと思ったけど、ふれられてもいなかったのは残念。

» Continue reading

| | Comments (0) | TrackBack (0)

«『「持たざる国」からの脱却』