『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』佐々木太郎
『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』佐々木太郎、中公新書
『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』は、おそらく、今年一番の読書体験になると思うので、少しずつ書いてきましたが、読了したのでまとめます。
ぼくが中高生の頃、マルエンやレーニン、トロツキーに関する知識は、岩波や角川、国民文庫をガリガリと読むしかなく、マルクスに関しては哲学的なアプローチも後になって可能になる土台はつくることができましたが、レーニンに関しては鮮やかすぎる十月革命の手腕と、ロマノフ朝やスターリンとの対比で「良い人」というイメージが先行し、その後のネップ(新経済政策)に関しても苦渋の決断という印象でした(まわりに「どんな内容だった?」と聞こうとしても、マトモに読んでいる人は少なく、読んでいても基礎的な文献だけでした)。それは池田嘉郎さんの『革命ロシアの共和国とネイション』を読んでも変わらず、マルクスの手紙にコミューン主義の萌芽を感じるような、自分の若い時の間違いに多少の癒しと安らぎを与えてくれる阿片のような効果さえ感じます。
それは当時のヨーロッパの世界史的な動きの全体像を得られるような本もなかったため、断片的な知識の寄せ集めで観念的に構築したイメージだったんだろうな、とこの本を読みながら改めて感じました。特に、1917年10月のロシア革命から21年3月のクロンシュタットでの反乱とドイツでの蜂起失敗まで3年半。あまりにも沢山のことが起き、かつ革命ロシアにとって不都合な事実はレーニンたちによって隠蔽されました。
第1章 孤立のなかで - 「ロシア化」するインターナショナル
不都合な事実の中には根本的な認知不全の可能性さえあります。例えばレーニンは第2インターナショナルを全否定して第3インターナショナル(コミンテルン)の創設と、ロシア共産党支配を受け入れるよう求めますが、それはロシア共産党が革命のあまりにも鮮やかな勝利に酔いしれ、ヨーロッパ的な常識を持っていなかったからかもしれないのです。だいたい欧州のマルクス主義者は、資本主義の発達に対応して各国での議会を通した社会の改良運動になびいていったという流れをマルクス流の考えに染まりすぎていて理解できなかった可能性さえある、と。
こうした西欧の情報格差に加え、革命後の白軍との戦いは、革命の可能性をどんどん狭めていったのかな、と。ボルシェビキは自分たちを支える都市部の労働者への依存を強め、強制的な食糧の徴用に抗議する農民への毒ガス使用まで手を染めていったのかな、とか。
もちろん、ぼくはそんなに偉大ではありえませんが、レーニンと同じ立場だったら、同じような選択をせざるを得なかったかもしれないとも思います。ただ、後になって、それを金科玉条のようなものにしたのは圧倒的な間違いだったな、と。
また、レーニンは国内政治では天才でしたが、すぐにでもドイツで革命が起こって援軍がかけつけるような外交的な判断ミスも犯しています。《そもそもレーニンが党内の反対を抑えて政権の獲得に踏み切ったのは、すぐにドイツでも蜂起が起こって友軍が駆けつけてくれるという期待があったからである。しかし、西からの友は来たらず、交戦諸国に訴えた無併合・無償金の講和の提案も無視され、ロシア領内でドイツ軍の攻勢は続いた。もはやドイツとの休戦交渉に臨むほか手はなくなり、一八年三月のブレスト=リトフスク条約締結に至る。こうして世界革命の展望が大きく揺らいだことで、まずは独力での革命政権の維持が喫緊の課題となった》(k.413)と。
この本からは、時には大きな失敗も犯すレーニンを同時代的にみるという新しい客観的な視点を得られたかな、とも思います。
あと、ソ連軍や中共の軍隊には必ず政治将校が加わるんですが、それは内戦が本格化する中で赤軍に旧帝国軍将校が大量に採用される中、軍を統制するために必要だったんだろうな、なんてことも考えました。
第2章 東方へのまなざし - アジア革命の黎明
ウォーレン・ベイティの映画『REDS』を最初に観た時には見逃していたけど、友人たちの指摘によって再見した時に印象に残ったのは、ロシア革命後の内戦で列車で移動しながら赤軍への参加を呼びかけるジョン・リードに応えるように、ムスリムたちが銃を高々と上げるシーンでした。
中高生のマルキストにはあまり視野に入らない問題でしたが、当時のPFLPなども過激なゲリラ組織という認識はあったものの、インターナショナリズムには関係づけられませんでした。
しかし、よく考えるとムスリムはそもそも『コーラン』がインターナショナリズムを志向しています。さらに、トロツキーの亡命を認めたのも最初はトルコでしたし、ソ連の後半にはアンドロポフらが積極的に中東のパレスチナ人勢力を支援していました。
というかムスリムたちは、『REDS』でも描かれていたように、ロシア革命直後の内戦期、自らの独立を勝ち取るために赤軍と協力してデニーキンら白軍を追い出し、ソヴィエト権力を樹立に力を貸していたのです。
期待していたドイツやハンガリーでの革命が失敗していく中で、インターナショナリズムを掲げていくには、ヨーロッパ以外にも目を向けていくのは自然な流れでしょう。しかし《階級の分化が未熟な地域では、いくら階級の対立を煽ったところであまり意味がない。しかし、人びとを結集しないことには革命は始まらず、世界共和国の樹立も絵に描いた餅でしかない。このジレンマのなかでレーニンが着目したのが、民族の対立》だった、と(k.942)。おりしも、ウィルソン流の民族自決がヨーロッパだけにとどまったことによる植民地内の失望は、相対的にソヴィエト・ロシアへの期待を高めた、と。
さらには《ソヴィエト・ロシアの民族政策を司る民族問題人民委員であったスターリンが、自らの部下として抜擢した、ウラル山脈南部地方出身のタタール人スルタンガリエフは、ムスリムによる独自のインターナショナリズムを構想した中心人物》であったほか(k.1046)、トロツキーも失敗に終わったヨーロッパでの革命の後はトルキスタンに目を向けます。レーニン、トロツキー、スターリンという三役そろい踏みでまずは中東に目が向けられた、とうわけで、これには最終的にインドとイギリスの関係を絶つという地政学的な判断もあったのかもしれません。
おりしも《二〇年五月下旬、カスピ海に展開していた赤軍の艦隊いわゆる赤色海軍がデニーキンの艦隊を掃討する過程で、イギリス軍が駐留するイラン北部の軍港アンザリーを占領したのだ。
翌月、赤軍はジャンギャリー運動の指導者クーチェク・ハーン率いる現地勢力と合流してギーラーンの州都ラシュトに入り、「イラン・ソヴィエト社会主義共和国」(ギーラーン共和国)の樹立を宣言した。ロシア外のアジアで成立したソヴィエト共和国の嚆矢と言える同国は、クーチェクを首班とし、民族主義勢力とイラン共産党との統一戦線の形をとってスタートする。
アジアでの最初期の国際革命は、コミンテルンではなく、赤軍の主導による革命戦争によって実現されたのである》とイランにソヴィエト共和国が成立してしまいます(k.1201)。
もちろん、こんな革命政権は長く続くわけはなく、経済復興のためにイギリスと通商関係を結ぶためには、インド隣国のイランであまりイギリスを刺激しない方がいいというレーニン、トロツキーの判断もあり、1921年11月にはロシア国外でアジア最初期のソヴィエト共和国は潰えました。
《ポーランドとの戦争に行き詰まったことで西方への出口を失い、それに引き続いて中近東でも大きく躓き、インドには当面手を出せそうにない。そうなると、ロシアに接するアジア地域で突破口となりうる場所は、現実的に見て極東をおいてほかにな》く(k.1343)、モンゴル人民共和国の成立など東に出口を求めていくことになる、と。
「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちに現れる心理状態、共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である」という大月書店版『スターリン全集』2,1952,p.329というのは、今でも引用に耐えうる文章だと思うのですが、それにしても《グルジア(現ジョージア)生まれのスターリンにとって、ザカフカース三国つまりアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの一体的な再征服を目指すうえで、イラン北部を引き続きロシアの影響下におけるか否かは重大な関心事であった。
その認識を彼と同郷のオルジョニキッゼやアルメニア出身のミコヤンらも共有していたからこそ、彼らはあれほど執拗にイランに関与したのである。のちのスターリン政権を構成する、こうした「スターリン派」の面々は、カフカースとイランの革命を連続したものとして捉え、その灯火の維持に強く執着したのだった》(k.1244)というのは、なるほどな、と。
3章 革命の終わりと始まり ボルシェヴィズムの深層
レーニンが革命直後から援軍として期待していた西欧での革命がいっこうに起きない中、社会民主主義に流れる左派をどうやってボルシェビキ流の革命に取り込むか、あるいは突き放すかという路線も迷走します。アジアなど後進国での革命を目指すために、レーニンが考え出したのが、本来は死滅させるべき国家の利用でした。そうした考え方は、先進諸国との外交、社民勢力への浸透などを進める中で諜報的な闇に迷い込んでいくことにもなります。
こうした迷走あっても、ボルシェビキが権威を保つことが可能だったのは《十月革命の立役者であるボリシェヴィキの絶対的な権威によって、党と国家とプロレタリアートの三者が結びつき完全な一枚岩となっている──この壮大な「フィクション」の受け入れを迫るのがボリシェヴィズムの本質となった。そしてその世界的な旗振り役を担ったのがコミンテルンであったのだ》(k.1689)という図式があったからです。
3章では『哲学ノート』に代表される一時期のレーニンのヘーゲル回帰のあたりが面白かったかな。著者によるとレーニンは共産主義に向かう組織の中心はソヴィエトか政党かというマルクスが語りえなかった難問に解答を与えようとし、ヘーゲルに回帰するのですが、それよりも、《資本主義世界内部の矛盾として、資本主義国家同士の対立や分裂を見抜き、それを利用しようとする態度は、レーニンのヘーゲル回帰がコミンテルンの世界革命の遂行にもたらした遺産》となった、と(k.1642)。革命に向かう組織がどうあるべきかという問題としてはとらえられなかったけれども、資本主義はそれ自身の矛盾の中で対立し分裂するから、そこを突いて革命を成し遂げていこうというサジェスチョンを得た、と。
そこからさらに《資本主義が高度に発達した先進国を対象としたマルクスの革命理論を後進国に適用するために、レーニンが編み出した答えが国家の利用であった》と、本来は死滅するべき国家の依存を強めていった、と(k.1560)。
4章 大衆へ 労働者統一戦線の季節
こうしたレーニンの志向は《非合法活動委員会の設置を決定したコミンテルン第四回大会の最中に作成された対外諜報部の活動に関する内部文書によると、ソヴィエト・ロシアの利益と国際的な革命運動に対抗して活動する組織をすべての国で残らず「暴露」することを目指す旨が確認されている(Haslam2016)》という方向にコミンテルンを向かわせます(k.1927)
同時に、社民勢力を排除するのではなく取り込もうとする方向転換は《革命を声高に叫べば叫ぶほど固く閉ざされる資本主義国家の扉が、弱者との「連帯」を唱えると自然と開き、内側から迎え入れてくれる場合があるのであれば、それを煙幕にして諜報網と非合法活動の基盤を整備していくことが得策》という副産物も生みます(k.2015)。
しかし、コミンテルンやボルシェビキが見落としていた社会勢力がありました。それは先進諸国の中間層です。
それを最もうまく活用したのはムッソリーニなどファシストたちでした。ムッソリーニは元々、社会主義者でしたが《世界大戦が勃発すると民族主義的な姿勢を強めてイタリアの参戦を支持し社会党から除名されたが、自らも志願兵として戦場に赴いている。
まさにムッソリーニは、戦場を潜り抜けてきた青年たちの怒りとイタリア国内に充満する政治不信の双方を代弁できる存在》でした(k.2054)。こうした中間層はボルシェビキにとってはブルジョアジーかプロレタリアートのどちらかに吸収されていく存在でした。しかし、実際により革命的で破壊的だったのは怒れる中間層だったのです。
しかし、公式的見解にあわせてしか世の中を理解できないコミンテルンは、社民勢力と同等の反革命的な存在とみなし、あまつさえ「社会ファシズム」という言葉さえ生み出してしまいます。
一方、中国では国民党との国共合作が実現し、北伐によって国民党が権力を握ります。しかし、蒋介石はもちろん上海でクーデターを起こし、共産党勢力を一掃。
スターリンが追求してきた国際的な統一戦線のあり方は西欧でもアジアでも破綻しますが、この間の《ボリシェヴィキの内部抗争はコミンテルンの隊列をまるで安全装置の外れたジェットコースターのごとく右に左に激しく揺さぶり、そのたびに多くの者が振り落とされていった。モスクワでの嵐の行方を見定めるため風見鶏のようになって意識を集中し、己の保身に汲々とする雰囲気がコミンテルン内に横溢するようになる》わけです(k.2211)。
にしても、情けないのが日本の共産党。ジノヴィエフは資本主義が発達した日本で革命が成功しなければ、中国や朝鮮など他の地域での革命はありえないと考え、日本での革命が「鍵」だと語っていたのですが、当初からの党内のごたごたが常態化していた日本共産党は24年4月にコミンテルンに相談せず勝手に解党、その後も再建はされますが、まったく革命勢力とはなりませんでした。
5章 スターリンのインターナショナル ― 独裁者の革命戦略
ここの部分は個人的にはわりと馴染みの深い議論でした。
前に引用した「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちに現れる心理状態、共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である」という大月書店版『スターリン全集』2,1952,p.329をみれば分かる通り、元々スターリンはロシアの中でも辺境のグルジア出身ということで民族問題に興味があり、かつ民族問題の担当となったという背景があります
民族問題に関して自信があったスターリンは、レーニンの考えたソ連邦の「国のかたち」に反対したりもします。レーニンは「民族・植民地問題に関するテーゼ」の原案のように、連邦的関係には自治に基づくものと条約に基づくものとがあるという構想を示しましたが、スターリンはウクライナなどの独立共和国をロシア・ソヴィエト共和国の自治共和国として吸収することを提案します。
レーニンはこのスターリンの案に対して強く反対、自案を通すのですが、これが最後の抵抗となり、その違いも《「国際ソヴィエト共和国」の解消が最終的に目指されるべき到達点ならば、その世界国家のひな型たるソヴィエト連邦には同盟関係から離脱する自由を自らが立脚する原則としてあらかじめビルトインしておかなければならな》いという形而上学的なものでした(k.2341)し、実際、ロシア共産党中央の意向を無視して連邦を離れるなど現実的には不可能でした。
もし各共和国が対等な立場でソ連に参加するならば、諸国の共産党も対等でなければなりませんが、実際は、それぞれの共産党はロシア共産党の支部となったわけですから。これは、レーニンの前衛党論への固執が生んだものだ、と言えます。逆に言えば《一国社会主義論はレーニンが示した国家強化の道筋をスターリン流にアレンジしたものであった。ただし、スターリンがレーニンと大きく違うのは、国家の消滅という想定をまったく受け入れなかった点》だけだ、と(k.2409)。
一方、一番、革命が期待されていたドイツでは経済がさらに悪化、ドイツ共産党は「労働者党ではなく失業者党」だと揶揄されるほどで、こうした失業者たちは共産党とナチスのあいだを揺れ動くことになります。
面白かったエピソードはスターリンがヘーゲルを理解できなかったという話し。《スターリンは、ヘーゲル哲学を受容することもなかったので、国家の内的な分裂の契機の発動と対立物への転化という危惧をレーニンと深く共有していたとは言えない。実は、彼はヘーゲルを重視するレーニンの影響を受け、一時は家庭教師をつけてまで弁証法を学ぼうとしたが、途中で投げ出し、以後はドイツ観念論哲学に対する強い嫌悪感を隠さなかった》というあたり。民族問題や権力など「目に見える」問題にしか興味のない彼は、自民党の政治家みたいなものだったんだろうな、と(k.2413)。
第6章 「大きな家」の黄昏 ― 赤い時代のコミンテルン
6~7章は「闇に包まれていない歴史」というか「薄々気がついていた歴史」といいますか「フルシチョフによって暴かれた歴史」が冷戦終結後に明らかにされた資料によってさらに裏付けられた感じでしょうか。スターリンが徹底的にダメだったから、その分、レーニンが救われたというか、せめてレーニンぐらいマトモじゃないと救われないという心証が世界のマルクスに感化された人々に残った、ということにもつながるほどのダメダメさ(よく戦後の日本共産党は無批判にスターリンを礼賛していたな、と)。とはいってもこの本は前半で「良い人レーニン」の伝説を壊してくれたので、後半は流していきます。
コミンテルには多くの良心的左派も協力しました。それは《実際に共産党に入党する者たちのほか、いわゆる「フェロー・トラベラー」(fellow traveler)──日本語では「同伴者」と訳される──のような、党員ではないもののソ連や共産党に同調する者》(k.2706)でした。
そのコミンテルの表の顔に指名されたのはブルガリア共産党員ゲオルギ・ディミトロフでした。ディミトロフが注目されたのは1933年。ベルリンで発生したドイツ国会議事堂放火事件に関与した容疑で逮捕されるもゲーリングの証言や検察を論破し、無罪を獲得したことで、反ナチスの民主主義者にとっても英雄となり、それをスターリンが利用します。
ドイツの侵攻を受ける前にソ連の軍事力と経済力を回復する時間を稼ぐために。スターリンが再び採用したのが人民戦線戦術です。社会ファシズムと蛇蝎のように嫌っていた社会民主主義者と再び組もうというわけですから酷いマキャベリズムですが、共産党を加えた左翼政権をフランスに樹立します。しかし、皮肉なことにスペイン内戦によって仏ソ間の亀裂が深まってしまいます。
ソ連は共和国を生きながらえさせるために、世界中のコミンテルンの支部を通じ、軍事経験のある労働者を募集してスペインへと派遣、「国際旅団」を設立します。内戦期間中にスペインに送られた外国人志願兵は、53ヵ国・3万人以上にのぼり、その中にはチトーもいました。一方、フランスのブルム内閣は英政府とともにドイツを刺激することを恐れて不干渉政策をとりました。
ソ連は国際旅団とともに軍事顧問や諜報機関の要員なども多数送り込んだのですが、それはトロツキストや無政府主義者とのイデオロギー闘争も生みます。トロツキスト狩りは1937年のバルセロナで「内戦の中の内戦」を生み、フランコ側を利し、最終的には国際旅団も解散させられます。
一方、中国では国民党と共産党に国共内戦が勃発し、共産党が長征によって辺境の根拠地にたどり着くまでの間に毛沢東のヘゲモニーが確立され、張学良による蒋介石の逮捕・軟禁から国共合作が実現します。この過程で宋慶齢が活躍しますが、冷戦終結後に解除された資料によって、彼女はなんとコミンテルンのエージェントだったことがわかります。《「エージェント・オブ・インフルエンス」(agentofinfluence)──自らの社会的影響力の行使を通じて標的の国家の政策や世論を秘密裏に誘導するタイプのエージェント──であったことである。こうした存在を使った工作活動は、冷戦期にソ連の諜報機関が多用したことで知られるが、宋慶齢はその先駆けだったと言える》(k.3252)と。
第7章 夢の名残り ― 第二次世界大戦とその後
スターリンはヨーロッパにおける人民戦線が失敗すると、ただちにヨーロッパ各国の共産党員の粛清を始め、国内の軍事組織とともに大粛清の波となります。
ここで、現代日本史では、かつては大敗北、現在では互角の戦いだったと言われるようになったノモンハン事件が発生。著者による評価は《極東では、数年来続いていたソ連と満洲との国境紛争が激しくなり、三八年夏には日ソ両軍の大規模な衝突にまで発展した。これによって赤軍は日本軍以上の損害を被っている》(k.3318)というものです。
これによってスターリンは独ソ不可侵条約に傾きますが、これは国際共産主義運動にとってトドメの一撃となります。スターリンは、第二次世界大戦の勃発と独ソ不可侵条約の取り決めに従ってポーランドに侵攻し、西ウクライナと西ベラルーシを占領。さらに、バルト三国にはソ連の軍事基地を設置する協定を受け入れさせましたが、この侵略は西側諸国から強い非難を受け、国際連盟からも除名されます。
その後、ヒトラーは独ソ不可侵条約などなかったかのように破り、ソ連に侵攻。一九四一年秋に、ソ連政府はウラルに疎開し、コミンテルン本部もバシキール自治共和国の首都ウファに移転しますが、寸前のところで踏みとどまり、米国の参戦を得ます。スターリンの切り札はなんとコミンテルンの解散でした。大統領特使の派遣に合わせ、その中にコミンテルンの解散を求める事項を事前に掴むと、スターリンは解散に着手する指示を出す、と。
『コミンテルン』佐々木太郎があまりにも面白かったので、ロシア革命百周年を記念して池田嘉郎先生ほかで岩波から出された『ロシア革命とソ連の世紀』も読んでみるか、と思っています。
以下は本書の巻末の年表を個人的に勉強のために書き増したものです。
1917
10 ロシア十月革命
1918
1 フィンランドでヘルシンキで赤衛軍がクーデター
3 ブレスト=リトフスク条約
5 ドイツ軍の応援を得てマンネハイム(ロシアの力が強かったので最初はロシア軍に入った将校)白衛軍はヘルシンキで勝利パレード
6 マンネハイム、ドイツ色が強くなったのでスウェーデンに亡命
11 ドイツのキール軍港で水兵が反乱。独社会民主党のエーベルトを首相とする臨時政府がドイツ共和国を発足
11/11 ドイツ共和国、パリで休戦協定
12 フィンランドでカールが王位を辞退
1919
1 スパルタクス団蜂起
3 コミンテル創立
ハンガリーでソヴィエト共和国が成立(8月まで)
4 バイエルンでソヴィエト共和国が成立(5月まで)
5 フィンランドで総選挙で共和制に
6 スロヴァキアでソヴィエト共和国が成立(7月まで)
7 フィンランドで白衛軍への参加に積極的な姿勢をみせていたマインハイムが大統領選で敗北
1920
春 白衛軍を指揮していたクリミアのデニーキンはイギリスの戦艦「マールバラ」で国外へ脱出、赤軍が内戦に勝利
6 イランでソヴィエト共和国が成立(11月まで)
7~8 コミンテル第2回大会で規約は21ヵ条の加入条件が採択
8 ポーランド軍がワルシャワを包囲していたソ連軍を撃退
9 バクーで第1回東方諸民族
1921
3 独裁化するボリシェヴィキ政権に対しクロンシュタットで水兵が反乱
ドイツのマンスフェルトでコミンテルンの指示による共産党の蜂起が失敗
5 チェコ共産党結成
6-7 コミンテルンの3回大会で統一戦線路線を採択、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)が結成される
7 中国共産党が結成
8 ミュンツェンベルクによるロシア飢餓救済運動が始まる
11 イラン・ソヴィエト社会主義共和国崩壊
12 フランス共産党結成
1922
7 日本共産党結成
10 ファシストがローマ進軍
1923
10 ドイツの十月が挫折
1924
1 レーニン死去
11 モンゴル人民共和国の成立
1925
1 トロツキーが軍事人民委員を解任される
【目次】
まえがき
序 章 誕生まで――マルクスからレーニンへ
第1章 孤立のなかで――「ロシア化」するインターナショナル
第2章 東方へのまなざし――アジア革命の黎明
第3章 革命の終わりと始まり――ボリシェヴィズムの深層
第4章 大衆へ――労働者統一戦線の季節
第5章 スターリンのインターナショナル――独裁者の革命戦略
第6章 「大きな家」の黄昏――赤い時代のコミンテルン
第7章 夢の名残り――第二次世界大戦とその後
あとがき
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