May 17, 2017

『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎

『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎

 書評というよりロシア革命に関する思い、みたいなところから書きますと、トロツキーの角川文庫の大著を分からないところは飛ばしながらも読んだのは高校生の頃。大学に入ってからは『歴史とは何か』のカーが簡潔にまとめてくれた本を読んだぐらいでしょうか。トロツキーのは当事者が書いたということもあり細かすぎ、カーのは簡略にすぎましたが、どちらもレーニン無謬説が前提だったように思います(ジョン・リードのも、読みかえしてはいませんがボルシェビキ贔屓がすぎるといいますか)。

 レーニンの無謬性は、ロシア革命が最悪の状況となる前に倒れたという、処刑されなかったロベスピエールという感じの生涯の閉じ方も関係していると思います。革命運動、革命後の統治の矛盾をすべて引きうけたスターリンに悪役を押しつけて生けるがごとくクレムリンで眠っているというのがレーニンのイメージでした。

 こうしたイメージは映画でも増幅されます。エイゼンシュテインの『十月』だったと思いますが、ペトログラード・ソヴィエトの労兵の前に姿を現すレーニンに付けられた字幕は「これが、これが、レーニン」だったと思います(『十月』はサイレントにしては字幕が少ない映画でしたので、余計に印象的でした)。

 ロシア革命って最後はレーニンのボルシェビキが勝つわけですけど、いま思えば、ぼくが若い頃に読んで影響を受けた本はいずれも革命を肯定的に描きすぎていた感じがします。

 その点、池田嘉郎『ロシア革命』は二月革命の臨時政府がなぜ失敗したのかを中心に壮大な歴史のIfを提示してくれる感じで、十月革命に対する個人的な見方も随分変わったといいますか、目からウロコが何枚も落ちました。

 一番、変わったのはケレンスキーに対する見方。ケレンスキーは権力のうっちゃり方が情けなかったということも含めて、全体としては心情移入できない悪役で、二月から十月にかけてはダース・ベイダーのような悪の権化のような印象でしたが、2月革命の頃、35歳だったんだなあと。

 子供じゃないですか…。

 読んだ時には凄い大人だと思だだけど、まあ、トロツキーも30代ですし、若いな、と。

 《「街頭の政治」とは噂、とりわけ陰謀に関する噂が人の心をとらえる政治である。そしてまた「敵」を探す政治でもあった》(p.69)というあたりを読むと人間ってのは変わらないな、と。こうした醜い政治の極北はスターリ二ストだけど、爽やかだったのは全共闘など少なかったな、と。

 しかし、それでもレーニンは、もし10年健康なら別の結果を出したんじゃないかと思う凄さはあります。四月テーゼも画期的というより、帝政が終わったばかりの農業国なのに、革命が可能だと宣言するパラダイム転換の勧め、みたいな感じだったのかな、と。

 それにしても、日露戦争の時の、帝国陸軍が防戦するしかなかった野戦のロシア陸軍と、二月革命時のアナーキーな兵士たち、その後のスターリン独裁下の対ドイツ戦で無残に犬死にしていくソ連軍の兵士たちの心象風景の連続性が見えないんですが、どうなっているんですかね。そこだけ不満。

 カー『ロシア革命』はどうだったんだろと改めて読みかえしてみたら教条主義的で読めたもんじゃない。カーの『歴史とは何か』も日本ぐらいでしか評価されてない、というのも分かります。

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May 13, 2017

『ロマン派の音楽家たち: 恋と友情と革命の青春譜』

『ロマン派の音楽家たち: 恋と友情と革命の青春譜』中川右介、ちくま新書

 メンデルスゾーン、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどロマン派の音楽家たちの交流を中心に、19世紀の音楽の発展を紐解く作品。自分が無知だけなのかもしれないけど、彼らは全員1810年前後の生まれだったとは。ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトなど、それまでの作曲家の社会的地位は低く、父子直伝の教育で訓練されたのも、誰もなろうとは思わない職業だったという指摘は目から鱗。そういえば、モーツァルトの葬儀も映画『アマデウス』まではいかないまでも質素に行われただけだった。

 それを劇的に上昇させたベートーヴェンで、彼が音楽家を社会から尊敬される存在にした、と。その流れに乗って一般家庭の子弟からも音楽家が出てきた、というあたりの背景説明は、ここまでクリアカットに書かれると新鮮。

 天才ピアノ少年リストは貴族から奨学金を得てハプスブルグのハンガリー領からウィーンに出てきて師事したのがベートーヴェンの弟子ツェルニーだったとは…。子どもの頃、いやいややらされていたピアノの「ツェルニー」が音楽史の中でやっと位置づけられました。

 いまもツェルニーをやらせるのか知らないけど、ピアノの先生は子どもたちにツェルニーに入らせる時「ベートーヴェンの弟子でリストを教えた人なのよ」ということをぜひ伝えてほしい。そうすれば、あの無味乾燥な練習曲も少しは見方が変わってくると思う。

 1828年までのメンデルスゾーン(19歳~)ショパン(18歳~)シューマン(同)リスト(17歳)作品など、年代ごとに作品が載っていて、こんなに若書きだったのか、と驚く。ショパンがポロネーズ8番をそんなに若い時に書いてるとは…。ショパンはエチュード1-12番を19歳から書き始めているのにも驚く。音楽家は神童が多いから、若書きでも関係ないんだな。

 こうした一年ごとに掲載されている作曲リストを見ると、ショパンはずっとコンスタントに名曲を書いている感じ。その継続性と、逆に爆発力のなさはなんなんだろ。まあ、ピアノ曲ばかりで書きやすかったのかもしれないけど、とにかく自分の強みに特化している。逆ににしてもワーグナーの遅咲きぶり。ベルディにしてもグランドオペラに特化している作曲家は、劇場やオーケストラ、歌手との交渉術なども含めて遅咲きにならざるを得ないのかも。

 クラシックは子どもの頃はいやいや、高校生ぐらいから意識的には聴きはじめたけど、何歳の時の作品とかは意識したことなかった…。ピアノの先生とか優秀な子がいたら「ショパンは17歳の時に葬送行進曲を書いていたのよ」とか教えれば発憤したりするんじゃないかな。

 メンデルスゾーンもショパンもあっけなく死んでしまうし、シューマンは自殺未遂のあと精神病院で死ぬ。いまのリサイタルの原型をつくったのはクララ・シューマンとリストだが、シューマンとクララの結婚生活はたった17年だったというのにも驚く。

 あと、ライプツィヒが音楽史上、こんな重要な都市だったとは。

 ま、それも含めて勝者の歴史なんでしょうが。

 中川さんは、笛とか買わせて業者儲けさせるより、学校で作曲を教えろと書いていたことあったけど、確かに作曲のメソッドとか教えてもらえないから、クラシック音楽の敷居は高く感じるのかもしれない。作曲術が少しでも分かればスコアも、もっとちゃんと読めるだろうし。

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May 03, 2017

『ウニはすごい バッタもすごい』

『ウニはすごい バッタもすごい』本川達雄、中公新書

 ゾウの時間 ネズミの時間』の本川先生の近著。

 目からウロコがボロボロ落ちるような話しばかりで、ぼくだけが知らなかったことなんでしょうが、筋肉は引っ張るだけしか出来ないために、伸ばす筋肉と必ずワンセットになっているとか、ヒトデやウニも新口動物で、それは棘皮動物門、半索動物、脊索動物の三つしかなく、我々と近い関係にあるとか、ヒトデがなぜ星形なのは花の多くが5弁であることと関係するなど、ワンダーだらけ。

 筋肉は繊維です。繊維と言えば糸。糸は引っ張れば強く張れますが、押そうとしてもへにゃへにゃになるだけ。このため、お互い引っ張れるよう反対側に縮む筋肉とペアとなって運動ができるようになる、というのはぼくだけが知らないことなんでしょうが、これからも身体を動かす時に意識していこうと思いました(屈筋と伸筋)。

 この本は刺胞動物門、節足動物門、軟体動物門、棘皮動物門、脊索動物門、脊椎動物門と進化の過程をたどって、それぞれの生き物がどういう戦略で生き残ってきたのかを解き明かしてくれます。といいますか、副題に「デザインの生物学」とあるように、各生物がどのように生き残る上での困難に対処するためのデザインを選んできたか、という歴史をビジュアル的に説明してくれます。

 多くある動物門の中で、最も栄えているのは昆虫。昆虫の種は動物の七割、全生物でも半分を占める。これだけ大成功したのは、体が小さいので1)世代交代が早いからどんどん変異を生み出し2)環境変化に弱いので淘汰も早く優れた変異が生じやすく3)行動範囲が狭いので変異が定着しやすい、というまとめはソリッド。

 被子植物(花を付ける植物)も全光合成生物の七割。昆虫との共進化でものすごい多様性が生じた。被子植物は花粉という乾燥に耐えられるものを作って昆虫や風に運んでもらう。めしべに到着したら発芽して、その湿った環境の中で精子がつくられる、というあたりでは植物の世界にも言及していまして、地球は植物と昆虫の世界なのかもしれないと思いました。

 デザインの話しでは、ウニの棘を外して、砂中を移動しやすいように身体を細長くしたのがナマコの先祖だったとは…。動物は胚から原腸が出来る際にそのいり口として原口がつくられるが、ヒトデなど棘皮動物門は成体の口が別の位置に新しくつくられる新口動物で、それは半索動物、脊索動物(我々の仲間)の三つしかなく、親戚関係にあるとか(p.147)。

 ヒトデやウニも我々の仲間なのか、と。道理でんまいわけだ!と膝を打ったわけですが、ナマコを正面から見ると五角形というのは、ウミユリの構成要素と同じ、と。

 ヒトデなど棘皮動物門などが星型をしているのは、働ける腕の数が最も無駄になりにくいのが奇数で五だからなんだそうです。花も五弁花が多いのはハチなどの滑走路となる場合、上下で10方向から花弁に導けるから(四版花は上下四方向から導けないので種が少ない)とか凄いな、としか言いようがありません(p.152-)。

 動物は大別して素早く動くものと、専守防衛のものに分けられ、運動性指向の脊椎動物は感覚と神経器官を発達させるが、筋肉も発達させるので捕食者からは美味しいエサに見える、という言い方もクリアカット。動かぬサンゴ・フジツボは殻で身を守り、その中間がウニやナマコ、ヒトデだ、と(p.211)。

 海底に立っている棘皮動物のウミユリは、姿勢を保つ靭帯と、捕食者に襲われると本体を腕で覆い隠す筋肉の二刀流で動くそうです。靭帯を硬直させる(キャッチ結合)にはあまりエネルギーを使わないが、こうした二刀流は他の棘皮動物にも受け継がれた、と(p.216)。

 第六章から脊椎動物の属する脊索動物門の話しになるのですが、頭索動物亜門はナメクジウオだし、尾索動物亜門はホヤだもんな…。やんなっちゃいましたよwホヤの幼虫は小型のオタマジャクシそっくりで尻尾を振って泳ぐというのは知りませんでした。

 ヒトがバカをやると「元はサルだから」と思うが、これからは「元はといえばホヤやナメクジだからしょうがない」と思うようにします。

 脊椎動物篇では、魚が上陸した際、地上を這う時に、胸ビレと腹ビレを脚として、それぞれ肩帯と腰帯を発達させた、というのがよくわかります。また、運動性能を良くするために、骨同士で結合させるのではなく、骨と骨をまたぐ筋肉によって結ぶように変化させたというあたりもなるほどな、と。腹ビレは大きな役割を果たしていないので、魚では小さいけど、四肢動物になって、初めて腰骨が目立つようになってきた、と。

 また、これだけ植物が繁栄したのは、葉や種が硬くて消化しにくく、大きな腸を持つ大型動物でなければ、特殊な機能を持つ生き物ぐらいにしか食べられなかったから、というあたりも目ウロコでした(p.294)。

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May 02, 2017

『日本の近代とは何であったか』

『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』三谷太一郎、岩波新書

 個人的によかったのは、アジア諸国の人々と一緒に歌える歌がないなど、アジア諸国との文化的断絶を強調したところや(丸山真男的?)、近代日本は機能的ヨーロッパ化を図るも、根源的な原理には想いを致さなかったあたり。田中王道東とか取り上げてるし。

 三谷先生の論旨は明快だが、批判する明治憲法における擬似宗教的な補足は、唐突に提示される東日本大震災における原発事故への過剰反応と似ているのではないかとも感じた。マルクスを最初から引用しているけど、最も大切な合理性の部分を見失っているようで個人的には残念。

 とはいえ、いつものように箇条書きでまとめてみます。

[序]

 バジョットは「議論による統治」を成立させる要因として熟慮を求める受動性を重視。一方、英国の国王権力は宗教勢力などの対抗勢力から不断の挑戦にさらされ、自由の付与と議会政治を回避できなかった。そして一旦、議論の対象となると神聖を汚す討議となる。

 『失敗の本質』以降、前の体制が、今の体制を準備している的な議論をすれば一丁上がりみたいな論議もあるけど、トクヴィル『旧体制と大革命』から、幕藩体制から立憲主義の準備を解き明かすとは思いませんでした(p.42-)。

 ウェーバーは『経済と社会』の中で、合議制は行政任務の専門化が進行し、専門家が不可欠となってきたような状況で、支配者が専門家を利用しつつ、その優勢が増大していく中で、自己の立場を守ることに適合した形式、としている、と(p.44-)。

[第1章]なぜ日本に政党政治が成立したのか

 徳川幕藩体制は権力を抑制する均衡メカニズムを持っていた。また森鴎外の史伝にみられる「公権力の公共性の傘の下で非政治的形態の公共性が形成される。これが政治的機能をもつ公共性の前駆をなす文芸的公共性」(ハーバーマス)も江戸時代にはもあった。

 実は分権的だった明治憲法には最終的に権力を統合する制度的な主体を欠き、まず薩長藩閥がこれを担った。衆議院を支配する政党もそれだけでは権力が保証されず、双方が接近、複数政党が出現した。これは同じく分権的な米国での二大政党の成立と似ている。

 米国のファウンディング・ファーザーズたちは、政党政治政治は自由の要請に反すると考えていたが、大統領を補佐する非制度的な主体が必要となり、大統領選出母体となる二大政党を自身でつくることに。

 ナチスの出現、英国の挙国一致内閣、米のニューディール政策を見て、蝋山政道はデモクラシーを分離した立憲主義としての立憲独裁を唱えた。現在の日本でも専門家支配が強まっており、立憲デモクラシーが問われている。

 国民国家の形成と自立的資本主義の形成は不可分。その論拠となったのが軍事型社会から産業型社会への図式を示したスペンサー。堕落した宗教しか持たなかった日本ではウェーバー流の精神よりも機能的にうつり、政治リーダーが同時に経済リーダーとなった。

 その最初の例が大久保利通で、松方正義から高橋是清と受け継がれる。官営事業による先端技術導入、地租改正による歳入増、質の高い労働力を生む公教育の確立、資本蓄積を妨げる対外戦争の回避。外債を極力回避したことは経済の尊王攘夷でもあった。

 江戸時代には村単位でしか把握できなかった貢租が農民単位となり、租税収入を確保。外国資本に頼らない資本主義化が可能に。小学校の数は学制導入三年後には現在を上回る数に。女子師範学校も男子の2年後に設立された。

 本格的な対外戦争も日清戦争までは回避され、テロに倒れた大久保に変わって松方正義がデフレ財政による正貨の確保に努めた。日清戦争後は対外信用も高まり、外債も導入。井上準之助は金本位制と軍縮による日本の国際資本主義化を目指すがテロに倒れる。

  政治リーダー=経済リーダーの系譜は大久保利通、松方正義、高橋是清、井上準之助と受け継がれていくが、松方以外は全員、右翼のテロで倒れているというのは、利潤に悪を見る日本的な暗さを感じさせる。

[第2章]なぜ日本に資本主義が形成されたのか

 日本は政治リーダーが同時に経済リーダーとなった。その最初の例が大久保利通で、その役割は同じ薩摩の松方正義に引き継がれ、高橋是清も薩摩系のリーダーたちに薫陶を受けて育った(p.84)。

 大久保は正倉院所蔵の布地を収集させて外国人の嗜好に合う装飾品のデザインを試みさせたりしている(p.94)。

 日清戦争以前に日本には1)官営企業により先進技術の導入2)高い歳入を保証する租税制度3)公教育4)対外戦争を避けたことによる資本蓄積-という条件が揃っていた(p.86)。

 外債の調達は鉄道建設、俸禄処分の費用捻出など限定的に行われ、正貨の流出を防ぐとともに(p.95)、地租改正で直接、農民を把握して租税収入を確保した(p.99)。江戸時代まで「村」単位でしか生産高を把握できていなかった。

 優秀な労働力を確保するための教育にも熱心で、寺社の催しを禁止したり、警官による授業時間帯に徘徊する児童への登校督促なども行われた(p.102)。

 日本に国賓として来日したグラント元米国大統領は、明治天皇に外債の危険を伝えるとともに、事前に清国の李鴻章と会い、沖縄処分に対する不満を聞いている(p.107)。

 大久保に次ぐ経済リーダーとなった松方正義は、政府の準備金を横浜正金銀行で運用することで正貨準備の増大を図った(p.117)。

 日露戦争後に高橋是清から属目され、国際金融家として台頭してきたのが井上準之助。井上は満鉄への米国資本の導入を目指し、ストロングやノーマンのような金本位制という価値体系を共有していた。このため金準備の蓄積のために緊縮財政を志向した(p.137)。

[第3章]日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか

 三国干渉による遼東半島還付が与えた挫折感が、自覚的な植民地帝国の内的動機となった(p.148)。日本が手本とすべきだったのはイギリス流の「自由貿易帝国主義」だったが、高コストの実体的帝国主義の道を選んだのは軍事的安全保障への関心から。このため主権線と経済線という概念が出てくる(p.152)。

 日本の枢密院には、米国の上院のように、政府が批准した国際条約への審議権があったので、この章では、残された枢密院の議論を通じて、植民地形成過程を追う(p.155)。

 伊藤博文が韓国統監となったのは、植民地においてシビリアンとミリタリーを兼併するという例外的存在が元老第一位の座を占める伊藤に相応しかったから(p.159)。三代目から陸軍は韓国統監から軍隊指揮権を回収している(p.161)。

 韓国併合後、植民地の憲法上の位置づけが問われた(p.162)。美濃部達吉は立憲政治が適用される範囲は日本の内地のみとして、台湾や韓国などの植民地は「異法地域」と呼んだ(p.164)。しかし、それは立憲主義の普遍性を信じる立場からの植民地批判であり、天皇機関説にも通じる。

 その後3・1運動への同化策として京城帝国大学が設置される(1924年、p.184)。その際、法学部の設置が望まれ、実際に設置されたが、ナショナリズムは沈静化されなかった。

 国際連盟脱退後の青写真として提案されたのが蝋山政道による「地域主義」。ワシントン条約による普遍主義的国際主義は1930年の1年で終わった(p.192)。地域主義は大東亜新秩序の指導原則となったが、文化的意味はほとんど持たなかった。

[第4章]日本の近代にとって天皇制とは何であったか

 日本の近代は明確な意図と計画を持って歴史を形成してきたが、その前提は資本主義の時代の価値観の受けいれを前提としたもの。また、こうした体系をつくる諸機能は移転可能であるとして、個々の機能を導入した(p.206)。しかし、その前に日本が機能の体系として再組織されなければならなかった。

 こうした機能主義の系譜に福沢諭吉、田口卯吉、長谷川如是閑、田中王堂、石橋湛山がおり、日中戦争以降の笠信太郎などのよるマルクス主義を応用した新体制論議にもなっていくが、そこで叫ばれた「近代の超克」を浅いものとして徳川時代の近代的要素に着目したのが丸山眞男。

 こうした機能主義的なヨーロッパ観の中で、近代に還元されない古いヨーロッパを見たのが永井荷風だが、伊藤博文などの憲法起草者はキリスト教的な機能を日本に導入しようとした。

 グナイストは仏教を勧めたが、伊藤は微弱であるとして皇室をもってくくることにした。

 近代ヨーロッパは宗教改革にょって中世の神を継承したが、日本は廃仏毀釈によって前近代から神は継承しなかった(p.216)。

 伊藤は天皇の神聖不可侵性は法律上の責任が問われないだけでなく、議会の論議にも含まれないようにした。このため、教育勅語には国務大臣の副著がない(p.225)。それは憲法外での神聖不可侵性を高めるためでもあった。

 しかし、立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇という立場矛盾は恒常的な不安定要因となっていく。

[終章]近代の歩みから考える日本の将来

 略。

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April 08, 2017

四月大歌舞伎の歌種と米吉

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 四月大歌舞伎を見物してきました。席をとったのは昼の部。演目は『醍醐の花見』『伊勢音頭恋寝刃』『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』。

 『醍醐の花見』はたわいない新作歌舞伎舞踏。見所は大野治長、治房の兄弟を中村歌昇、種之助の兄弟(歌種)が舞うところ。踊りの旨い歌昇が勇ましく舞うところに、女形で出ることが多い種之助が童髪で加わり眼福でした。女形が立役で出るというのは、宝塚だと男役が手足を出してレオタードのような衣装を着て踊る(ダルマ)みたいな感じウキウキしてしまうのはなぜだろうw日本舞踊は偉そうに語れないけど、決まった姿がいじらしくて堪らない。三月大歌舞伎の中村梅丸に続き、種之助の舞台写真も買うか悩むw

 二つ目の狂言は染五郎の『伊勢音頭恋寝刃』。去年ぐらいに海老蔵が『夏祭浪花鑑』を演ったから、対抗上、夏狂言としてかけたんでしょうか。『夏祭浪花鑑』は文楽を歌舞伎にした狂言だけど、『伊勢音頭恋寝刃』は歌舞伎から人形浄瑠璃になっている。染五郎(高麗屋)は御曹司系では大好きな役者なので大許しというか、こういうちょっと情けないけど、切れると暴れるような刹那的な役は似合う。親父の幸四郎はマジメ一方な感じになってしまったけど、染五郎は若い頃のスキャンダルも含めて、ちょっと脇が甘いところが魅力。

 仲居万野の澤瀉屋さんはうまいねぐらいの印象だが、米吉は痩せて綺麗になったかも。米吉は染五郎がラスベガスのベラージオで「鯉つかみ」演った時に連れて行った女形だけど、相性いいのだろうか。

 高麗屋は、先代の幸四郎が東宝歌舞伎に走ったように、團十郎宗家を頂点とした歌舞伎界の秩序を許せないというか、どのみち自分たちの血じゃないか、という気分があると思う。今の幸四郎もいったんは外に出たし、染五郎はアメリカというかベガスのエンターテインメントと組んでいこうという構想があったりして。

 グローバル展開がまったくできてない松竹は自分たちの価値がわかっていなくて、せっかくの歌舞伎という唯一無二の無形文化財を若冲とか北斉という系統でどうにかするという発想がなくて情けない。新しい展開がないままだと、いま染五郎が幸四郎になったとたんに米国資本と組んで…なんてことになったりして。いまの染五郎はなかなかやると個人的には思っているんで。

 それにしても、高麗屋(染五郎)と成田屋(海老蔵)は相手役の女形を育てたがっているのだろうか。現在の最高の女形は菊之助と七之助だけど、もう自分の劇団持っているし、玉さまは孤高だし。

 戦後の歌舞伎は歌右衛門さまも、玉さまも、ドメスティックな市場しか考えていなくて、その中での生き残りを芸の昇華を通じて達成するというスタンスだと思ったんだけど、染五郎や海老蔵は、グローバル経済の中で自分たちの劇団を生き残らせるか、なんてことを考えていたら凄いんだけど。梅丸、種之助は大好きだけど、本人にそれだけの野望がありそうな感じはしないし、当面、立役主導でいくのかな、と思ってます。

 くだらない作品だと思っている熊谷陣屋で、今日初めて「なるほどな」と思ったのは、染五郎の義経が後光を差す位置にいること。『義経千本桜』でも、義経自身は前面に出ないのに、厳しい人の世に差す後光として象徴的に描かれているという橋本さんの文楽論を思い出す染五郎の義経でした。

 にしても時代物の熊谷陣屋、寺子屋なんかは「なんで、こんなにつまらなくて気持ち悪い作品を21世紀の銀座でかけているのか本当に分からない」としか思えない。単に芝居に飽きた江戸時代の客を驚かすために、自分の子供を殺して主君をたてるみたいな気色悪い物語を、人気のなくなった人形浄瑠璃でやる分には「ある異常な人々の普通の行動」として認識されると思うけど、銀座で人間国宝がやると意味が違ってくるんじゃないかな。幹部俳優が口伝で伝えられたとしても、そんな仁は意味がなく、くだらない。

 世話物では魚屋宗五郎も五月にかけられるけど、これも面白くもなんともない作品。談志が死んだ勘九郎に見てくれと言われて「俺が魚屋なら妹を殺した主君を打つという具合に脚本を変える」と言ってた。

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April 07, 2017

『応仁の乱』

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『応仁の乱』呉座勇一、中公新書

 室町時代を現代に通じる日本の歴史の始まり、とする言い方は内藤湖南の「応仁の乱に就いて」で有名だが、丸山眞男も講義録の中で、応仁の乱を生き残った守護大名はほとんどなく、下克上で戦国大名にとって代わられ、それは荘園制に寄生した存在だった武士が、最初はその支配を京都と距離をとって進めるとともに政権運営能力を高め、元はといえば農民だった自分たちの「武士のエートス」を磨きながら、荘園制を最終的に浸食する過程の始まりだ、としている。

 岩波新書のシリーズ日本中世史では「鎌倉時代に耕地開発の飽和期を迎えた」という基本認識が示されており、そうしたゼロサム社会の中で、地方の武士たちの所領確保の欲求が増し、土木技術の未熟さなどから耕地開発も災害への脆弱性をはらんだものとなり、江戸時代に耕地が拡大するまではなかなか人口も増えなかった、という大まかな見取り図を持っていた。

 そうした中、15世紀、中国大陸中央部で目覚ましく経済が拡大し、その結果、周辺のヌルハチの辺境軍事勢力が活性化され、そこには豊臣秀吉も数えられる、というのが室町中後期から戦国時代かな、と思っている。

 呉座勇一『応仁の乱』は、そうした室町幕府が権力を弱体化させていった分水嶺のような大乱だが、何が原因で誰が勝ったか判然としない、という印象だった。それに対して、呉座勇一は応仁の乱は大名連合を束ねる細川勝元も統治に必要としていた家格の高い畠山家の家督争いが原因であり、庶子義就(よしひろ/よしなり)と政久・弟の政長のいつ果てるともわからない戦いが原因だと断じている。

 細川勝元が管領として必要とした畠山の家格は、やがて地元の領地を守る守護代などに応仁の乱に参加した在京守護が屈服することで新しい時代(日本的封建制)を迎える、と。

 鎌倉幕府も内ゲバなど戦いばかりで、足利幕府は大名たちによる得宗家に対する一揆とみることもできるという見方は新鮮。室町幕府は発足当初から兄弟間などの反乱に悩まされていたし、守護大名たちの連合政権だったというわけだ。

 それにしても、足利幕府の地方の戦乱を収められない具合は情けないほど。鎌倉幕府の場合、北条氏がまだ強かった感じるが、荘園の侵食とそれの武士同士での取り合いで中々、実力主義の戦いが続き、足利幕府時代は荘園が武士に恩賞出しまくっていった中で溶けていった、という感じも。また、分国支配の経験を持たない伊勢氏などの将軍側近と、在京を命じられた大名たちの確執というのも、大きな要因なのかな、と。

 やがて将軍を補佐する旧権威の細川に対して、新興の山名が対抗したのが応仁の乱。

 人物が入り組み、しかも、いずれも大したことのない人物であり、地侍たちに領地を奪われ、やがて真の意味での農民政治(土着の武力勢力)が行われれようになるのは歴史の必然というか、日本の唯物論的な面白さだと思うが、そうした戦いを興福寺のトップである僧侶、経覚と尋尊の日記を中心に描いたのが今回の『応仁の乱』。

 興福寺は藤原氏の氏寺だったということは知っていたけれど、院政によって摂関家の勢力が低下し、興福寺への人事に院が介入するようになったことから、強訴が始まった、という見立てにはなるほどな、と。天皇による王的支配(実子への攘夷)の強化→寺社の強訴→武士の台頭、というテコの支点は摂関家だったのか、と。

 実質的な主人公である畠山義就さえも「よしひろ」なのか「よしなり」なのか読み方が確定しないため、全体的に読み進みにくい印象はあるが、日本史の原点とも言えるような室町時代に関する知見を増やせることになったのは、ありがたい限り。

 それにしても呉座勇一さんは1980年生まれなんですね。日本史にも若い研究者がどんどん出てきているんだな、と実感できました。

 丸山真男が高く評価していた朝倉の活躍が意外と中途半端な感じを受けた。また、義尚が愛人関係にあった結城尚豊を近江守護に任じたりというあたりは、もっと書いてもらえるかと思ったけど、ふれられてもいなかったのは残念。

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October 24, 2016

『「持たざる国」からの脱却』

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『「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか』松元 崇、中公文庫

 元内閣府次官の松元崇さんは鈴木幸一IIJ会長の書評で知ったのですが、これまで『「持たざる国」への道  「あの戦争」と大日本帝国の破綻』(中公文庫) 、『恐慌に立ち向かった男 高橋是清』 (中公文庫) 、『山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革』(日本経済新聞出版社)と読んできて、財務分析から戦前の日本の問題点を明らかにしていく、という切り口が新鮮でした。

 この三冊をサマリーすると、日清戦争は、その償金によって金本位制の基礎をつくることができるなど、資本主義の発展をもたらしましたが、日露戦争は国家予算の7倍にも達する戦費をかけながら賠償が取れませんでした。日本の農村部は豊かで担税余力があったので、軍備を整えることができたわけですが、賠償を元にした農村へのテコ入れもできず、さらには潤った都市の財政を農村に入れる改革もできずに農村の貧窮化を招き、軍部が台頭してしまった、という史観になるでしょうか。

 今回の『「持たざる国」からの脱却』は、そうした財務官として行ってきた過去の分析から、内閣府次官となって以降、現代日本の問題に関する処方箋を示す内容となっています。ただ、内容は働き方に関する「北風の改革」ばかりで「南風の改革」は少なめ。

 とにかく、著者の示す処方箋は働き方改革と生産性向上。

 今の安倍内閣を進めようとしている大きな政策は労働基準法の改正と省庁横断で進めようとしている生産性向上、それに女性・高齢者・障害者の労働参加が三本柱になっていますが、そのうちの前2つを説明しようとした本いうか、元々、松元崇さんたちによる政策提言があったんですしょうかね。

 しかし、改めてみてみると、いずれも働き方に関するものだ、ということに驚きます。

 それもそのはず、松元崇さんによると「失われた20年」による日本の停滞は、労働市場がモジュール化されていないからだといいます。

 IT革命によってグローバルに生産がモジュール化されましたが、アメリカは労働力や経営もモジュール化できていたから、後進国の成長を取り込めた、と。しかし、日本は労働市場がモジュール化されていなかったから、円の独歩高が続くと、産業の空洞化が起こってしまい、結果として高い技術や技術開発力がありながらも、それを成長に結びつけられていない、と。

 日本がIT革命後のこうした生産構造の激変に対処できていないのは、企業は倒産するほどの事態でなければ従業員を解雇できないという慣行を裁判所が判例でつくったからだといいます(1975年の日本食塩製造事件)。

 企業は解雇できない従業員を定年まで手厚く面倒を見て、国は企業が従業員の面倒を見なくなる後半生の社会保障を充実させるという構造でやってきたのが高度成長以降の日本の姿だった、と。

 ところが、「失われた20年」で企業は不採算部門に社内失業者を大量に抱え、しかも、高度成長期のように景気が回復しないため、負担を人件費削減で従業員に求めることになります。

 幸せな人の生産性は37%、クリエティビティは300%高いのに、「失われた20年」の中で日本の正社員は労働密度が上昇し、一方、非正規社員もワークライフバランスの崩れた働き方を強いられて生産性が低下、経済成長も阻まれた、みたいな。

 国は「失われた20年」で雇用調整助成金を出して企業に余剰人員を抱えさせてましたが、これよる賃金抑制がデフレを招きましたが、さらにIT革命による世界の生産構造の激変によって世界中にモノが溢れデフレになってしまった、と。それまで世界の15%の先進国がハイテク製品を生産していたが、IT革命による生産構造の変化によって、残り85%の発展途上国がモノを生産するようになった。

 「デフレは日本の人口減だからやむをえない」という論調がほとんどだが、真の理由は世界の生産構造に対応できなくなったから、というのが著者のモチーフ。

 企業はベアゼロを続ければ、従業員の退職による世代ローテーションで全体の支払い賃金の総額は変わらず、さらに不補充によって正社員のやっていた仕事を非正規にやらせればグロスで人件費を減らすこともできるようになりました。また、個々の正社員は定期昇給があるので年々上昇していたので問題はないように感じていたので、大きな不満も出なかった、と。

 さらなに不採算部門の従業員を抱えるリスクを日本企業が学んだのがリーマンショック後の円の独歩高による空洞化。

 景気後退期には早めにレイオフする代わりに、景気が回復した時に思い切った投資を行えないと、伸ばせたハズの新たな雇用が失われることにもなります。

 世界中の経済関係者や投資家などが、一番注目しているのは、米国で毎月何万人の雇用が増加したかという統計です。毎月第一週金曜日(米国東部時間8:30)に発表されるのでJob Fridayと呼ばれますが、これによって株価、為替、コモディティ価格なども大きく変動します(週休二日制を導入した大統領に感謝状を送ったマルクスが見たら本当に喜ぶんじゃないかと思います)

 また、同じ生産性向上でも、ロボットによる置き換えは人と違って消費しないので、人を雇った場合のような消費拡大効果が出てこないので、大切なのは人間の生産性向上というあたりから、生産性の問題をクローズアップしていきます。

 日本ではローカル経済の大半を占めている第3次産業の低い付加価値が日本全体の生産性を引き下げ、好況時にはコストプッシュインフレで内外価格差を生んでいました。

 高度成長期にはトリクルダウンによって、そうした不合理も吸収できていましたが、いまや国内の生産性向上がみられないローカル企業の賃金抑制がグローバル企業の賃上げの足を引っ張っています。

 また、現在のような少子化による人手不足でコスト・プッシュ・インフレになっても高齢者の年金は物価スライドで伸びていくので実質購買力は落ちず、現役世代の可処分所得が減るだけという問題も引き起こしそうです。

 現在の発展途上国の格差拡大は、成金と貧しい工場労働者や農民の格差が拡大した第一次世界大戦後の日本と同じだと松元さんはみています。実は、日本の年功序列型賃金体系が一般化したのは先の大戦の戦時体制下。賃金統制による生活給の考え方は、1960年の所得倍増計画時に克服しようとしたんですが、高度成長が長く続き、企業は労働力の囲い込みを優先したため、制度が生き延びてしまった、と。

 裁判所は企業が解雇できるのは経営危機に陥った時だけという判例を確立すると同時に、残業命令に従わない従業員は懲戒解雇できるとして、こうした制度をより強固なものとします。しかし、これは裁判所によって会社が従業員の生活を保障するかわりに無限定に働かせるという日本独自の雇用慣行を正しいものとした、という問題点もはらみます。

 新規学卒一括採用制度が始まったのも戦時体制下。従来、日本の女性の労働参加率は高く、米国に追い越されるのは戦後の第一次石油危機以降。ただし、寿退社が前提。その後、女性の大卒は増えたが、多くの女性は派遣社員として低賃金で補助的な働き方に甘んじているのが現状です。

 戦前の総動員体制が実は現在の原型となっているのは、官僚たちの実感なんでしょうね。

 とにかくバブル崩壊後の1992年に167万人あった新規高卒求人は01年には1/6の27万人に、大卒も91年の84万人が01年には46万人に半減。いまでは若い男性の非正規問題も出てきました。

 アベノミクスによって、有効求人倍率は1.36と24年ぶりの高水準になりましたが、現在でも正社員は0.87にすぎません。
 
 中途採用の市場が十分機能していない日本では管理職での再就職は至難の業なので会社にしがみつくことになります。しかも、雇用の内容を明確に定めないメンバーシップ制の雇用形態のため、形だけの成果主義の賃金体系も導入され、正社員といっても給与も低く、定期昇給もない「名ばかり正社員」も登場する始末。

 子どもを産んで育てる代わりに、企業での昇進をあきらめるという「マミートラック」を選択した女性や、離婚して子どもを抱えた女性は非正規の職にしかつけない日本の状況は、19世紀の救貧法時代の英国に生まれたようなもの。IT企業でも、ベンチャー経営者のような昼夜を問わない働き方を社員にも押しつけるケースもあるといいます。

 とにかく、日本企業の採用方針は「地頭」さえ良ければいいというものだった。しかし、その後の環境変化で
、非正規社員がOJTをまともに受けられなくなると、教育が学校と職場をつなぐ仕組みとして機能しないことが問題になり、大学の文系不要論につながった、と。

 後半の様々な処方箋に関してはいいとこどりかな、と思いましたが、ドイツで導入しているんだから、日本でもぜひ「労働時間貯蓄制度」なんか導入したらいいんじゃないかと思います。

 これによって不況下でもレイオフを避けながら生産調整もできますし。

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October 23, 2016

『丸山眞男講義録2』#7

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

 征韓論で内乱を収束させた明治政府は国会開設(1890年11月に第1回議会)、日清戦争(1894年7月~1895年3月)を経て、小日本主義は「世界の中の日本」を意識する大日本主義となり、日露戦争(1904年2月~1905年9月)にも勝利します。

 しかし、日露戦争は国家予算の7倍にも達する戦費をかけながら賠償が取れず、財政的には負け戦でした。

 しかし、明治政府はこのことを国民に説明できませんでした。このため、本来ならば日露戦争後に行うべきであった国内改革を行えずに農村部が疲弊。その結果、台頭してきた軍部の誤った政治・経済運営で破綻へと向かう、というのが現代におけるこの時代に対する認識なのではないかと思いますが、丸山眞男のナショナリズムを切り口とした分析はどうなっているでしょうか。

[附論 その後の歴史的概観]

 日露戦争後、資本主義の発展と国家的栄光の発揚は《ナショナリズムのイズムとしての擬集性を解きほぐして、これをいわば気体化せしめた。国家主義はいわば日本帝国の精神的支柱として確立されたので、思想ないし運動としてのナショナリズムは明治四十年以後むしろ退化していった》。

 国会開設後に、地主層の反動化によって自由民権論者は単なる国権論者に転化していき、玄洋社も藩閥政府の吏党となり、政府に暴力を提供するようになります。

 こうした転換は日清戦争がキッカケ。

1)日清戦争の償金は金本位制の基礎となり、資本主義の発展をもたらしたこと
2)日本にとって理想国家の雛形を提供してきたアメリカが帝国主義に転じたこと
3)三国干渉によって民権論者も帝国主義者へと変貌されられたこと

 などがその要因。

 特にアメリカは帝国主義列強としては立ち後れていたので、門戸開放と領土保全を原則として、日本をロシアに対抗させてきたが、中国をもり立てて日本帝国主義を阻止する方向に転じていったことは大きかった、と。こうしたことで日本のセキュリティが動揺しはじめ、再びナショナリズムの擬集現象をもたらしします。

 悪いことは、悪い時期に起こるものですね。

[附論1 草稿断簡]

 ナポレオンによって神聖ローマ帝国は解体されてライン同盟、プロイセン王国、オーストリア帝国に3分割されます。ライン左岸はフランスに組み込まれ、ライン同盟はフランスの衛星国なり、オーストリア帝国の皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズはナポレオンと結婚して同盟国となりました。

 こうした中、反フランス勢力はドイツ解放をプロイセン王国に託し、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を反フランスの中心地となりつつあったベルリンで連続講義という形で行いました。

 この時のドイツを敗戦直後に日本に仮託して、「国家の運命を自らの責任に於いて担ふ能動的主体的精神」の確立を求め、ナショナルなものの積極的意義を説く未完成、未発表の断簡がこれ。

 《われわれは今日、外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかしあてがはれた自由、強制された自由とは本質的な矛盾―contraction in adjecto―である》という書きだしは好きです。

[附論1 雑誌「日本人」及び新聞「日本」グループ]

 《明治20年初頭の日本主義の中核をなす「国民」観念は、一方では外国に対する国民的独立を意味すると同時に、他方では、国内における政治・経済・文化の国民化、即ち民衆化を意味し》ており、それはドイツやイタリアの近代化運動のような外からの独立と内部の解放、ナショナリズムとデモクラシーとの結合として現れた先例を追おうとしたもので、この時点の日本主義は健康性と進歩性があった、と。

 「日本」新聞の陸羯南は「他人に向ひて奴眼する者は必ず家人に向ひて鬼面するものなり」と政府を攻撃します。また、政治を抽象的なイデオロギーとしてではなく、具体的・歴史的な問題と関連させ、経済を重視していた、と。

 さらには前期的な暴利資本主義に対する中産階級的資本主義精神をつくろうとして、下からの殖産興業を目指し、民力休養と租税軽減を主張。政府の軍備拡張と増税政策に対抗します。こうした流れのなかで、三菱の高島炭鉱における坑夫虐待をルポルタージュしたりしますが、それは坑夫虐待が労働力の再生産を不可能にし、殖産興業を阻害するから、という理由でした。

 しかし、こうした先進性にもかかわらず、反動的国粋主義の流入を拒むことはできず、ナショナリズムはロマン主義に流れます。

 ロマン主義は《歴史的形象のなかに直接自己との生命的つながりを認めることによって、対象に対する理性的批判の眼を曇らせてしまう。ロマン主義の国家観たる有機的国家観の弱点もまさにそこにある》と丸山眞男は分析します。

 フィヒテで言及したナポレオン侵攻によって生まれた《ドイツの自由主義運動は、ロマン主義をもってドイツ・ブルジョアジーの革命思想を正当化したが、そのロマン主義がやがて封建的反動の正当化に転化》するなど正反対の政治的意味を持つようになります。

 そして「日本」グループも《反動的・国粋主義的傾向と自由主義ないし社会主義的傾向との二極に分化》していった、というのが結論。

 ということで『講義録2』もこれで終了。

 次からは、逆から読んできたので、最後の「講義録1」となりますが、すでに読了しています。

 とにかく、この後は残る一巻をまとめるだけとなりました。

 フィレンツェから追放されたマキャベリは昼間は、ならず者のような生活を送りながらも夜、執筆活動をするときには、いつも官服に着替えたと伝えられていますが、そんな気持ちで久々に読んでいました。

 一巻の最後は理想社会としての「自然の世」をたったひとりで構想した安藤昌益。

 講義録の最後に「終講に当たり、卒業の諸君に贈る」と語り、付章でも解説していたのも安藤昌益訓でした。
一、人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ
一、世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ
一、朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし

 安藤昌益の思想については素朴な唯物論にともなう運命論的色彩が濃いとはしながらも、「朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし」は親疎の別に基づく朋友観念に対して博愛を説き、「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」「世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ」は後の福沢諭吉の不羈独立の高唱を思わせるとして、孤独な思想家である彼を《日本だけでなく殆ど東洋に比肩する思想家を見出しえない》《封建社会の人間であることを疑う》とまで評価しています。

 とりあえず「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」というのは、いいな、と。

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October 20, 2016

『丸山眞男講義録2』#6

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第4章 自由民権運動におけるナショナリズム]

 幕末から明治維新にかけて、海外の脅威に対応して、海防論や尊皇攘夷が唱えられ、明治維新後も政権のヘゲモニーを巡って征韓論を軸に、対外進出から国権論、帝国主義へと進んでいきました。

 その中で福沢諭吉による古典的なナショリズムも生まれましたが、日本のナショナリズムが、単なる国権論の中に埋没していったのは、カウンターパートであるべき自由民権運動が常に国権論と結びついていたからではないか、というのが4章。

 そうなったのも19世紀のドイツやイタリアに似た環境から生まれた自由主義運動だったからであり、維新当初のナショリズムと何ら変わらず、そうしたものを継承していたからだ、というのが出だし。

 2章でも言及されていましたが、ナポレオンによる征服を経験したドイツなど、歴史的諸条件を忘れて論じることはできない、という言葉を思い出します。

 『丸山眞男話文集』では自由民権運動の活動家たちは集会の後、剣舞を舞った、と語っていました。

 その活動家たちの主張は《もし国民が国内の政治的支配者に対して卑屈な奴隷的服従しか知らないならば、そうした奴隷的屈従は必ずや外国からの支配者に対しても向けられるであろう》というものでした。したがって、政治的自由を国民に与えよ、と。

[1 十年代民権論の三つの国際的背景]

 この時代の民権論が念頭においていたのは1)朝鮮問題2)条約改正問題3)列強のアジア進出、という3つの国際的な要因でした。

 当時は、英国人ハルトレーが阿片を密輸しようとして税関に発見されたが、英国領事はハルトレーの行為を違法としない判決を下すような時代でした。

 また、レーニンが「帝国主義時代開幕の年」としたのも1876年で、アジアやアフリカでの植民地化の動きは明治20年後半から激化します。

[2 自由民権運動のナショナリズム:理論と実践]

イ)自由民権論と朝鮮問題
 1885年に起こった自由民権運動家たちによる大阪事件は、朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結びつけようという発想に基づくもので、これは外に紛争を起こして内を改革するという点で、征韓論の踏襲。

ロ)自由民権論と条約改正問題
 国会を開いて国民の力で外人の邪説を破り、裁判征税の権を回復せよ、というのがその主張。

ハ)自由民権論の国際政治論
 民権論者の多くは、国内の社会関係についてはどこまでも天賦人権論に依拠していたが、国際関係は赤裸々な実力闘争、弱肉強食の関係としてみていた。このため、おのずと国権論の内容も軍事的性格を帯びざるをえなくなり、それは特に自由党系に強く現れていた。

 一方、改進党系はより経済的であり、内治改良と商権の海外発展を強く打ち出していた。

 自由、改進両党とも富国強兵論だが、自由党はより強兵的ナショナリズムで、改進党系は富国的ナショナリズムだった。

 また、自由党系の国際意識は、東洋豪傑的な国権拡張論と、ナイーブなインターナショナリズムという相反した内容を持ち、それを良くあらわしているのが中江兆民の『三酔人経綸問答』。

[3 民権論のナショナリズムにおけるイデオロギー的混乱]

 一般的に改進党系のナショナリズムの方が、不徹底ではあるがより一貫していて動揺が少ない。自由党的ナショナリズムは一極から他極に急転する。

 これは、両者の社会的基盤による。

 改進党は都市ブルジョワや知識階級、殖産興業の担い手、交詢社(福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブ)のナショナル・リベラリズム→犬養の国民党。

 自由党は地主、小市民、貧農、失業士族など。また、自由党系ナショナリズムには他国のナショナリズムへの尊重の契機を欠いており、それが帝国主義への転化の素地となった。

イ)民権的ナショナリズムと前近代的国粋主義との混合
 自由党壮士と玄洋社的浪人は宮崎滔天のようにほとんど見分けがつかない。

ロ)郷土主義とナショナリズムの混合
 本来、国民的統一と独立の経済的条件を政治権力によって造り出していかなければならなかったが、征韓論当時の反政府運動に旧藩的対立感情が作用し、連携が拒まれたように、自由民権運動の国民的な組織化を妨げたのも、郷党的虚栄だった。

 こうしてナショナリズム的動向は帝国主義・国粋主義へ、デモクラシー的動向はインターナショナリズムの方向へと分岐していく。

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October 15, 2016

『丸山眞男講義録2』#5

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第3章 征韓論(と征台論)]

 日本のナショナリズムの特徴は、福沢諭吉的な古典的内容を持ち得た期間が短く、すぐに帝国主義へのメタモルフォーゼを開始し、sui generis(独特)な日本的国家主義を生み出したこと。そうした契機となった征韓論は《近代日本思想史の上に人が考える以上に大きな意味をもっている》として一章を割いてます。

[1 維新前後の対韓関係 廟議分裂まで]

 韓国は大院君が極端な排外主義をとり、1867年(慶応3年)に宣教師やカトリックに対する大規模な虐殺を行ったため、フランス東洋艦隊と戦闘。徳川慶喜は使節を朝鮮に送って攘夷の中止を勧告しようとしましたが、その直前に王政復古となってしまいました。

 明治四年にはアメリカ東洋艦隊が米船乗組員虐殺事件の責を問うて陸戦隊を上陸させたが、京城に進撃できずに退去したので、大院君の息はあがっていきます。

 日本政府は明治維新にともない対馬の宋氏の私的貿易を禁止するなどしたため、韓国側は反発。明治六年には日本人を接客した娼妓を罰する法律などをつくり、日本人密貿易の取締を強化したため、廟議で対策を協議することになった、と。

 この際、外務卿の副島種臣は清国と台湾及び韓国との関係について質し、台湾蛮地は化外の地であり、韓国の内治・外交には干渉しないことを報告していた、と。西郷辞職までは省略します。

[2 イデオロギーとしての征韓論]

 征韓論は幕末から唱えられていました。

 勝海舟は反幕的な攘夷の動きを兵庫、対馬、朝鮮、支那に海軍の営所を置いて西洋に対抗するという大陸進出に転じようとしていました。これは欧州帝国主義の圧力を、東洋の弱小国家への帝国主義的進出に転化しようというもの。

 西郷の征韓論にも、対外進出を契機として国内改革を行うという目的が潜在しており《軍部有力者の間にも対韓進出を機会に武断派の革命を行い、政府内部の文治派を一掃しようとする動機があった》(p.131)と。これは大久保が秩禄処分で武士の大リストラを行うと共に大軍縮を断行しようとしていたことに反発したためでしょうか。

 木戸孝允は幕末時代から勝海舟と征韓を策していましたが、維新直後も征韓を利用して天皇直属の兵を徴募して全国の大名などによる内乱を抑圧しようと目論んでいました。しかし、同じく征韓論者である長州の大村益次郎が暗殺されて失望、その主張はしばらく薄らいだ、と。木戸は大久保と感情的に対立していたが、武権派の西郷とはさらに対立していました。また、農民暴動を恐れていたため、西郷の征韓論には反対することになります。しかし、征韓論によって大久保利通が権力を強化したことについて日記で愚痴を吐くなど、木戸はなんともいえない性格をもっていましたよね。

 こうした中で議論をリードしていたのは大久保です。孝明天皇は欧米列強の兵庫沖への艦隊派遣という威嚇を受けて、それまでの鎖国攘夷を投げ捨てた後、大久保に第二次長州征伐への勅命を非義の勅命と非難されて政治生命を失ったんですが、こんなところも含めて大久保は、たいしたものだと思っています。

 大久保の考え方は《英仏の如きは、悍然、護兵を我地に置き、殆ど属国の如し。然るをこれをこれ恥じずして独り朝鮮に咎む、大に忍びて小に忍びず、遠きに察し近きに察せず》というものでした。

 このほか、岩倉は西郷が行けば殺されが、それで兵を挙げたらロシアが黙過しないので、まずロシアに了解を求める工作が必要だ、という立場でした。

 丸山眞男は《面白いと思われることは、不平士族の暴動を恐れた者が征韓論の主張者となり、農民暴動を恐れた者が反征韓論を主張した》としています(p.135)。

[3 征韓論を惹起したリアクション(征韓論が国内問題であっことの証示)]

 征韓論は1)国内テロと暴動叛乱2)自由民権運動(土佐の民権運動と西郷らの動向は初期において一体性を保持していた)3)後の玄洋社に発展していく福岡の結社などによる国権運動―を呼び起こしました。

 この中で頁を割いているのが3)の国権運動。

 佐賀、熊本、秋月、萩、西郷による西南戦争、福岡と続く乱は、旧藩意識が強いというか相互不信が強く、連携がまったく取れていませんでした。板垣は西南戦争後、挙兵をあきらめ民撰議院を目指しますが、萩の乱で逮捕されていた頭山もこれに感じ、向陽社を設立、明治14年には玄洋社に改称します。

 さらに4)政府のリアクションとしては、台湾征討がありますが、これはもちろん征韓論の代用物で、征韓論と台湾征討に一貫して反対したのは木戸のみでした。

 政府は明治6年10月に西郷らが下野した翌7年には台湾出兵を行ういますが、そのイニシアティブをとったのは大久保利通、西郷従道、樺山資紀など薩摩藩出身者。

 大久保は台湾出兵で清から五十万両の賠償金を得て権威を高め、懸案となっていた横浜に駐屯していた英仏の外人部隊の撤退まで実現してしまいます。

 さらにロシアとの樺太千島交換条約では弱腰とされた政府も5)明治8年には江華島事件を機に日韓修好条約まで結びます。

[4 結論]

 丸山眞男は征韓論に、その後の日本の大陸政策が包含した全ての問題が圧縮されて表現されている、として、以下のようにまとめます。

1)内乱を外戦に。内の不満を排外的雰囲気の高揚によってそらす(レーニンは「対外戦争を内乱へ」だったが、日本は「革命よりは常に対外戦争」を選んだ)

2)外戦(国際紛争)を起こすことによって国内改造を行う(満州事変では桜会を中心に国内改造が同時に目論まれ、十月事件も類似した事件)

3)政治の軍事に対する統制の弱さ。西郷隆盛自身が急進論に押されたこと。また西郷従道の征台論における動き(出先軍部の独断専行、強硬論)

4)対外的な国威発揚(なるべく抵抗の少ない海外進出を試みようという考え方が、この後も引き続き、日本の政治支配層には強く流れていた)

5)東アジアをヨーロッパ帝国主義から防止する意味と、日本自身がヨーロッパと互して進出するという意味が重なり合っていること

 こうして膨張主義と平和主義の厳密な区分が溶解していきます。それは征韓論に反対した大久保が台湾出兵を行ったことは、後年の幣原外交と田中外交の「対立」と同じ性格を持っていた、と。

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