October 18, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本 9巻 ジャコバン派の独裁)

 8巻は1793年1月のルイ16世の処刑で終わりますから、もうここまで来ると、『小説フランス革命』のラストであるテルミドール9日のクーデターで倒されたロベスピエールが死ぬまで1年半しかありません。この1年半を4巻で描くわけですが、簡単に概観します。

 1793年前半はフランスにとって苦境の年です。1月に国王を処刑したことで、2月には中立を守っていたイギリスが反フランスに転じて第一次対仏大同盟が結成され、フランスは列強に包囲された形となります。また、リヨン、ヴァンデで叛乱が起こるなど国内も混乱。しかし、ベルサイユの下町となっていたパリでは貧困層のサンキュロットを中心に革命派が強く、政治を動かします。

 日本史に置きかえると平安末期の僧兵のような存在とでもいいましょうか(社会、経済的に違うことは分かっています)、いつ蜂起を起こすか分からないという意味で社会の不安定要素となります。

 パリのサンキュロットの蜂起は5回中3回成功しています。9月虐殺は大騒擾事件なので入れますと、以下のようになります。

1789年7月のバスティーユ
1792年6月のティルリー宮殿襲撃(失敗)
1792年8月のティルリー宮殿襲撃(成功して王制廃止、共和国の樹立)
1792年9月の9月虐殺(逮捕されていた反革命容疑者を牢獄で襲っての大量虐殺)
1793年5月の国民公会包囲によるジロンド派追放
1794年3月の神聖蜂起(失敗)

 このうちバスティーユは自然発生的なものでしたが、2回のティルリー宮殿襲撃はダントン、1793年5月と1794年3月の蜂起はエベールによって組織されました。

 ダントンは蜂起でブルジョワのフイヤン派を追放、エベールはジャコバン派内のブルジョワ派であるジロンド派の追放に成功しますが、共にロベスピエールによって「走狗煮らる」感じで逮捕、処刑されます。

 そして、マラーは暗殺され、1794年3月にダントンとエベールを処刑して唯一の革命の星となったロベスピエールの絶頂期はわずか4ヵ月しか持たず、テルミドールで露と消えることになります。

 9巻はマラーの暗殺とサンキュロットのリーダーとなり、日本史で言えば今太閤のような庶民派の人気者となり、最高権力者の座まで狙えたエベールが絶頂期を迎えるまでを描きます。

 『デュシェーヌ親父』(Le Pere Duchesne)は1790年9月にエベールが創刊した新聞。卑猥で、結辞にfoutre(Merdeより汚い言葉)を使うこの新聞は大衆の支持を受け、革命の混乱の中でちゃっかりパリ市第二助役におさまります。9巻の始まる1793年前半、パリでは不景気による食料暴動が起きていました。まあ、革命、対外戦争、植民地暴動からくる財政難に見舞われていたわけですから。また、激昂派と呼ばれた急進派も現れるなど、混乱は深まります。

 大衆が要求するのは食料品の価格統制。しかし、自由経済こそ、革命が手に入れた最大の果実でもあるわけです。ジャコバン派の中でもボルドーなど地方出身のブルジョワが多かったジロンド派は、対外的には好戦派でしたが、国内経済政策はレッセフォールでした。しかし、対外戦争はうまく行かず、神の見えざる手も働きません。で、激昂派やエベール派が台頭してきた、と。

 戦争を始めたジロンド派はデュムーリエ将軍の頑張りでベルギーからオーストリアを追い出すなど、革命の輸出に成功しますが、タレイランの工作で中立を保っていたイギリスもルイ16世を処刑したことで参戦、ピットは「対フランス大同盟」を成立させます。

 国内では9月虐殺の反省から革命裁判所が設立されます。この悪名高き革命裁判所は、オーストリアがパリに迫った時に「背後を突かれてはたまらない」ということで、自然発生的に起こった住民による9月の虐殺を二度と起こしてはいけない、ということで少しでも正式な手続きをするため設置されたわけですが、まさに地獄の道は善意で舗装されてるという感じの展開をみせます。

 この職員にデムーランの推薦で就任したフーキエ・ターンヴィルは、最初こそデムーランの指示通り動きますが、最後にはデムーランやロペピエールまでもギロチン台に送り、やがて自らも露と消えることになるのは宜なるかな。

 国内政治では政権を握るジロンド派によって攻撃されたダントンが反撃、デュムーリエ将軍はクーデタを起こそうとしますが失敗。いつのまにか「中央で公安委員会、地方で派遣委員、睨まれた者は革命裁判所送り」という体制がジロンド派抜きで進められ、焦ったジロンド派は議会でマラ逮捕を評決します。しかし、なんと革命裁判所に押し掛けた民衆の力によってマラは奪還される始末。ジロンド派は追い詰められていきます。

 サッカーのフランス代表チームを「レ・ブリュ」と言うけど、これはフランス革命当時のヴァンデの叛乱で、王党派が白軍(白服)と称して、共和国側を青軍(青服)と呼んだことにも由来していたりして(p.192)。

 やがて激昂派が蜂起。人数が揃わなかったものの、エベールらがカネをバラ蒔いてサンキュロットを集めて…というところで10巻へ。

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October 17, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本 8巻 共和政の樹立)

 ジロンド派と連携した蜂起に失敗したダントンは再び8/10に蜂起、今度は成功します。今回はバティーユの英雄、デムーランも参加。パリ市庁舎を占拠した後、ルイ16世一家の住むティルリ宮殿を襲い、スイス傭兵たちとの激闘を制し、臨時内閣を組織。ダントンは首相格の法務大臣に就任。ダントンはジロンド派との連携を続け、5閣僚を与えます。しかし、バティーユと違って、諸層の融和と団結は欠けていた、と。

 そうこうしているうちにプロイセンは進撃を続け、ロンウィに続き、ヴェルダンを包囲。パリは浮き足立ち、反革命分子を摘発するため8/30には全戸の家宅捜索を開始、3000人を逮捕します。

 さらに9/1にヴェルダンが陥落すると、マラらにそそのかされたパリの住民らは牢獄を襲撃、逮捕されていた反革命分子を人民裁判の名の下にリンチで処刑。マラはジロンド派の逮捕にまで踏み切ろうと煽りますが、これはダントンが待ったをかけ、粛正の嵐はいったんやみます。

 ダントンらがイギリスの中立を勝ちとっていたこともあり、9/20にはルイ16世の信任も篤かったデュムーリエがヴァルミイの戦いでプロイセン軍に勝利。

 9/21には解散された議会に代わって改めて選挙で選ばれた国民公会が開幕して王制が廃止され、22日には共和制宣言。国民公会には再選禁止で野にくだっていたロベスピエールやマラ、デムーランも当選、議員となります。

 こうした中、元はといえばジャコバン・クラブに属していたジロンド派も右傾化。さらにダントンはカネの使い道が不明朗であるとして大臣を辞任。

 そうこう議会ではルイ16世を裁判にかけるかが議論され、サン・ジュストらは王そのものが反革命である断罪。調停者役であるダントンが不在の中、「鉄箱文書」が決定打となり、ルイ16世は1票差ながら死刑に。

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October 16, 2017

『小説フランス革命』第2部(単行本7巻 ジロンド派の興亡)

 フランス革命は明治維新と同じようにというか、大国の革命らしく左右にぶれまくりながらジグザグ進みます。バスティーユ陥落、ルイ16世処刑、テルミドール反動、ナポレオンの破竹の進撃という世界史的な事件が続きますが、その間にも議会での論争や、民衆蜂起、対外戦争とよくこんなことが同時期に起こるな、というぐらいの事件続き。

 フランス革命は大きくみれば、イギリスと比べてやや遅れて育ったブルジョワたちが貴族たちの支配する封建制を終わらせ自由経済圏をフランス全土につくったものの、内外の左右の勢力に対抗するため、まずロベスピエールを使って内部の極端な勢力を粛正し、その後、ナポレオンの軍事力に頼って対外戦争に勝利した、という図式だと思います。

 ということで前回は第1部(単行本1~6巻)をダイジェストしたんですが、第2部は話しがさらに複雑になってくるので、忘れないうちにまとめようかな、と。

[7 ジロンド派の興亡]

 描かれているのは1792年1月から8月初旬まで。

 保守的なブルジョアジーは自由主義的貴族と同盟して、立憲王制で革命を終結させようとしたのがフイヤン派で、参政権も収入により、能動的市民と受動的市民に分けて統治しようとしていた、と(1789年から1792年8月までは妥協的な立憲王制で推移していました)。

 これに対して、急進的なブルジョアジーの集まりだったジャコバン・クラブは受動的市民に格下げされた民衆や農民と同盟して王制を廃止し、共和制を確立しようとしていた、と。

 しかし、問題を複雑にしたのは対外戦争をめぐるネジレ現象。

 フイヤン派は反戦、ジャコバンは好戦派なんですね。なぜかというと、フイヤン派はフランス国内を安定的に維持したいから。それに対してジャコバンは党派的に対抗するために主戦論で応じるわけです。

 さらに、実はルイ16世も実は主戦派で、内心ではフランスが負けて、オーストリア軍がパリに迫った段階でマリー・アントワネットの兄弟である皇帝と和議を結び、一気に旧体制を回復しようとしていた、と。このため、ジャコバン・クラブをけしかけて、開戦させるわけです。

 こうした中でロベスピエールは孤立し、納税額による能動的市民と受動的市民の差別と制限選挙法を廃止し、男子だけとはいえ普通選挙の実現に向けて地道に努力を続けます。

 ということで、後は順番に。

 パリでは砂糖の不足が発生しますが、これはカリブ海の植民地、サン・ドマング島で奴隷が叛乱を起こしたため。人権宣言は様々な影響を与えていくわけです(p.46)。また、パンなど他の食品も値上がりしていきます。こうした中で、価格統制を求めてエタンプでは暴動も発生。市長シモノーは惨殺されます。

 このエタンプから暴動参加者への情状酌量を求めて、ジャコバン・クラブにやってきたのがドリヴィエ神父(p.94)。遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ』のもう一人の主人公ですが、やってきたのがジロンド派によるオーストリアへの最後通牒の直後の4/27というのですから。ロベスピエールはジャコバン・クラブの中でも反戦の立場をとっていて、いよいよジロンド派(ワインで有名なボルドー地方などがあるとろこ)との対決姿勢を強め、自由主義に対して社会的な公平さも必要であることを知る、と。

 ルイ16世は開明的な国王で、イギリス海軍に対抗するためシェルブールに海軍基地を建設していましたが、そこで覚えめでたかったデュムーリエを外務大臣に選び(立憲君主制ですから)、対外戦争に向けて着々と準備を進めます(p.72-)。そのデュムーリエの推薦で、なんとフイヤン派ではなくジロンド派が抜擢されるようになります。国王の目的は内閣の暴走による自国の敗北ですから、内政的にはフイヤン派より進歩的なジャコバンのジロンド派でもかまわなかった、と。

 ジャコバン・クラブは僧院を改装して作られましたが、その中でジロンド派はより高級なサロンを好みました。ジロンド派のサロンの女王として有名なのがロラン夫人。

 せっかく自分のサロンに集まるジロンド派で内閣がつくられ、オーストリアに宣戦布告したものの、フランスは連戦連敗。この窮地はマリー・アントワネットらがオーストリアと通じているからではないか、ということで、なんと一時は大臣まで上りつめた夫や、本来は敵対していたダントンを使った市民蜂起を6/20に起こし、拒否権を連発してジロンド派内閣の思い通りに動かないルイ16世を拉致しようとします。

 "Ah, ca ira !"を歌いながらティルリー王宮に侵入したパリの貧民、サンキュロットの暴徒たち。そうした事態に、なんとルイ16世は民衆を諭して失敗に終わらせたのです。

 しかし、一気に回復した王の人気は、フランス国王一家に危害を加える企てがあった場合、同盟諸王は軍事制圧するというブラウンシュヴァイク宣言が出されて急降下。

 蜂起に失敗したダントンらは一時、地下に潜りますが、ふたたび8/10に蜂起を仕掛けます。

 こうした中、ロベスピエールはジロンド派のペティオンの自重を求められ快諾するも、直後に銃による暗殺未遂に見舞われます(p.275)。

 ダントンらはロベスピエールに蜂起への参加を求めるものの、後見のデュプレイに自重を求められ、デュプレイ宅の地下にこもる、というあたりでこの巻は終了。

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October 15, 2017

『小説フランス革命』第1部(単行本1~6巻)

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 『小説フランス革命』佐藤賢一、集英社を読んでいます。全12巻。6巻の「フイヤン派の野望」までが前半ということになっているので、小説とはいえ、あまりにも長いので忘れてしまうので、備忘録的に。

 この『小説フランス革命』の主人公はロベスピエール。世界で初めて王制をひっくり返して共和制を敷き、支持者である指物師の下宿をねぐらとし、最後は自らがギロチンに散った理想主義的な政治家。フランス革命の人類史的な偉大さも、その裏面にある人類史的な悲惨さも体現した人物で、ロベスピエールという存在がいたからこそ、いまだフランス革命は語り継がれ、研究されているんじゃないかと思います。

 研究書のたぐいを広く渉猟しているとはいえないので、間違っているかもしれないのですが、小説ならではの臨場感というのはやはりあります。例えば7巻『ジロンド派の興亡』。

 ロベスピエールがブルジョワ革命としてのフランス革命に疑問を抱くキッカケとなったといわれるのは、穀物価格の高騰によるエタンプ暴動と、暴動の首謀者たちの減刑を求めると同時に穀物価格の統制を訴えたドリヴィエ神父との邂逅です。そのいきさつは遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ フランス革命の世界史的位置』でも描かれていますが、それが対外戦争に突き進む最中だったという緊迫感は感じられませんでした(ぼくの読み方が甘いのかもしれないし、オーストリアへの宣戦布告と同時期だったというの書く必要のないほどの常識だからかもしれませんが)。

 89年の革命後、1791年の立憲君主政の憲法が出来ることのフランスは、全てを仕切っていたミラボーが急死したことで政治的リーダーシップが失われ、立憲君主政の要であるルイ16世は国外逃亡を図って逮捕されるという混乱ぶりでした。

 しかも、政権を握っていたブルジョワ中心のジロンド派たちは、より右派であるフイヤン派が反戦を唱える中で、オーストリアなどとの対外戦争に突き進み、ルイ16世もできればフランスが負けることで諸外国の軍隊がパリに迫ったらマリー・アントワネットの兄弟であるオーストリア皇帝と和平交渉に乗り出し、一気に王制に戻そうという様々な思惑が入り乱れた混乱の最中でした。

 そして、なんとこの混乱の最中に、ブルジョワ革命を否定し、財産による投票権の差別廃止などを求めた蜂起をダントンが二度までも起こし、最終的に人民主権の共和制へと導くのですから、その展開のめまぐるしさったらありません。

 世界史的に、これだけ共同体の内外とも混乱した中で内政、外政とも戦争状態の中で改革が進められたのはフラン革命と第二次長州征伐時代の長州藩ぐらいなものではないでしょうか。

 ということで1~6巻まで前半から箇条書きで気になったところを。

[1 革命のライオン]

 全国三部会が招集されたのは、王家を巨悪に仕立て上げた貴族の運動でしたが、第三身分の平民は「我らには王さまがついているのだぞ」と貴族こそ悪とみなしていた、と(p.29)。

 その第三身分の指導者となったのが、自ら貴族の地位を捨てたミラボー(p.48)。

 1788年のフランスは夏の盛りにも雹が降るという典型的な冷害の年(p.55)。

 ロベスピエールは孤児。特待生となってルイ・ル・グラン学院を主席で卒業。地元に戻って弁護士となったが、第三身分代表議員に選出されたのは31歳の時(p.84)。

 ルイ15世は色好みで散財したが、寵姫も置かなかったルイ16世の代わりに散財したのが、マリー・アントワネット(p.91)。

 《ただの勉強家では駄目なのだ。頭で組み立てた理想などとは端から矛盾せざるを得ない、この生々しい現実世界の混沌に直面するや、とたん浮き足立つような輩では使えないのだ》というミラボーのつぶやきは今でも政治家に使えそう(p.186-)。

[2 バスティーユの陥落]

 前世紀に王家がヴェルサイユに移り住むと、貴族たちも大挙してパリを離れ、平民たちが残されたが、王国一の巨大都市になった(p.13)

 カミーユ・デムーランのパレ・ロワイヤルでの「武器を取れ」演説は、劇的な場面を創作した部分が大きいと思っていたんですが、やっぱり本当にあったんだな、と(p.50)。にしてもロベスピエールは親友だったダントン、デムーランも後に粛正してしまうんですよね…。

 ダントンの金回りがいいのは、奥さんが繁盛しているカフェ・ドゥ・レコールの娘さんだったから(p.86)。

 ミラボーはルイ16世のバスティーユ陥落の祝いの席に参加させ、貴族ではなく平民をとった形にさせたりします(p.174)。

[3 聖者の戦い]

 枢機卿だったタレイランは足なえだったが、完璧に近い美男子で、ルイ15世の寵姫とも関係したとか(p.8)。

 人権宣言が採択され、封建制の廃止が決められ、貴族が負け、平民が勝利したので第一身分(聖職者)議員として勝ち馬に乗った(p.13)。

 当時は貴族の所有地よりも、教会や修道院の荘園の方が遥かに広かったといいます。フランス革命の発端は王国財政の再建だったが、革命後には国有化した教会財産を担保に国債を発行するとともに、聖職者の地位を変更する聖職者基本法(Constitution civile du clerge 聖職者は他の官吏と同じ公務員にするという法律)が90年7月に成立。

 カトリックを国教とする法案は思想信条信仰の自由の観点からロベスピエールに否定される(p.107)。

 ジャコバン・クラブを閉め出されたラ・ファイエットはタレイランなどと1789年クラブを結成(p.190)。

[4 議会の迷走]

 7巻あたりではダントンもルイ16世からカネをもらっていたというような話しが出てくるんですが、この巻では、外交委員を務めるタレイランと、首相格のミラボーが、それぞれスペインとロシア、イギリスとプロイセンから賄賂をもらう場面があります。なんでも、ロシアはオスマントルコに攻め入りたかったけど、イギリスにバルト海に船を出されると困るから、そんな場合はフランス艦隊が演習でもしてくれると助かる、というような趣旨で(p.64)。

 ミラボーは王族の亡命を禁止する法案に反対する。王族にも人権はあり、亡命する権利があるためというのがその理由。この一件でジャコバン・クラブはミラボーから、ラ・ファイエットに乗り換えるのですが、当時、ジャコバン派を率いていたのは三頭派(バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派)。しかし、ミラボーは三頭派の政治姿勢は軽く、本命はロベスピエールと見て、死の床に呼びます。

 そして同じピカルディ出身のカルヴァンがジュネーブでやったような専制政治を敷かないようにと忠告する場面は印象的(p.249)。

 「(自分に欲を持たないと)じきに独裁者になるぞ」
 「己が欲を持ち、持つことを自覚して恥じるからこそ、他人にも寛容になれるのだ」
 「人間は君が思うより、ずっと弱くて醜い生き物だからだよ」
 「あとは独りで歩いてゆけ」

 と会話を交わしたあと、ミラボーは何年かぶりに神に祈ることにした、というのは悪文の作者にしては、印象に残るところ(p.258)。

[5 王の逃亡]

 1789年10月5日に女性を中心としたパリの大群衆がルイ16世をヴェルサイユ宮殿からパリへ連行したヴェルサイユ行進以来、王族はティルリ庭園に住むのですが、サン・クルーへの夏の避暑も民衆から止められる始末。

 議会では、一定の所得がないと市民権がないというマルク銀貨法が可決され、それに対抗するため、ロベスピエールは議員の再選禁止を提案し、飲ませることに成功するなど、議会も混乱(p.53)。

 頼りにしていたミラボーの死もあって、ルイ16世は亡命を決意します。

 いよいよ脱出の段になって意外と思ったのがマリー・アントワネットの愛人とも言われたスウェーデン貴族のフェルゼン伯爵がまったく使えない男だったということ。地図は読めない、だんどりは超悪いで、失敗した原因の半分はフェルゼン(1/4はアントワネットのトロさ、1/4はブイエ将軍の胆力のなさ)。ついにはルイ16世からヒマを出される始末。

 フェルゼンのせいによる遅れでルイ16世たちはブイエ将軍と落ち合うこともできず、ヴァレンヌで拘束されることに。

 田舎では相変わらずの人気を持っていると再認識したものの、自分たちはどうなるのか、と思っていたら、なんと三頭派たちは「王家はフェルゼンに誘拐された」として逃亡事件を処理。早く混乱を鎮めたいブルジョワにとっては最善の策である立憲君主政憲法の早期成立を図ります。

 ロペスピエールが、議会の左右から支持を集め、演説の拍手をもらっている描写も印象的。中道のプルジョワはロペスピエールを両派を潰すための猟犬としてつかい、用が済んだら断頭台に送った、という図式がイメージできます。歴史を動かすのは中間派だな、と。

[6 フイヤン派の野望]

 国王の逃亡を〈誘拐〉と主張する三頭派らの議員は、ジャコバン・クラブでの議論を無用として離脱。ラ・ファイエットなどとフイヤン・クラブを設立。一気に主導権を握ります。

 この状況にダントンらは署名運動で対抗しようとするが、それに対してラ・ファイエットらが発砲。いわゆるシャン・ドゥ・マルスの虐殺事件が起こります。

 シャン・ドゥ・マルスの虐殺をやったフイヤン派が、なんで急に衰えて、ジャコバン派に取り残された急進派のロベスピエールが急に勢力を増すのか謎だったんですが、地方組織が虐殺に怒ってフイヤン派を見限ったという部分も多かったのかな、と。

 また、ヴェルサイユ行進も止められず、王の逃亡も防げなかったわりには、丸腰の民衆に発砲したラ・ファイエットの人望が地に落ちたという面もあったんでしょうが。

 この事件の当日、ロベスピエールの身を案じる指物師デュプレイがジャコバン・クラブからほど近い自宅にかくまい、以来、終の住み処となります。

 しかし、三頭派の主導権によって91年憲法は成立、議会は解散。ロベスピエールは二年半ぶりに故郷に帰り、そこでサン=ジュストと出会います。

 終生、浮いた話しのないロベスピエールですが、指物師デュプレイの娘エレオノールと、美男子サン=ジュストとの間にはわけありとなっていく、みたいな。

 なるほどな、と思ったのは1791年憲法当時の軍隊の将校は貴族が占めていて、この層がごっそり外国軍隊に寝返れば指揮系統がなくなり、烏合の衆になるということ。いっそのこと貧乏故に選挙権をももたない受動的市民に武装させた方が…とロベスピエールは考えたんだろうな、と。

 小説フランス革命ではラファイエットが散々な書かれようですが、アメリカ独立戦争でワシントンたちが勝てたのは、散兵戦術によって少ない兵力で相手を包囲殲滅できたから。ただし散兵戦術は兵士たちが逃げずに踏みとどまって戦うことが前提なわけで、独立とか革命で士気が高い部隊だから可能だった、みたいなことになっていくんでしょうか。

 故郷に帰ったロベスピエールが、エリート層はフイヤン派になびき、庶民は亡命貴族や外国嫌いで革命を守ろうとしているけど、バチカンに忠誠を誓う宣誓拒否僧を敬い続けるという、なんともいえない状況=現実に気付くという場面もあります。

 にしても、政治的な改革、革命みたいなのは内ゲバにならざるを得ないなぁと。憲法友の会からスタートして、ラファイエット、フイヤン派、ジロンド派とロベスピエールは次々と袂を分かち、最後はダントンと結託する、みたいな。まるで赤軍派と京浜安保共闘が一緒になった連合赤軍みたい。

 しかし、三頭派の頭目とみなされていたバルナーヴが政治の世界からアデューする場面で1部が終了。

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September 21, 2017

『神々の土地 ロマノフたちの黄昏』

Romanov
 現在、宝塚大劇場で公演中の『神々の土地 ロマノフたちの黄昏』はラスプーチン暗殺を巡るドラマです。

 作家の上田久美子先生は宝塚歌劇団の座付作者で三本の指に入る存在。期待して見に行ったのですが、さすがの出来映えでした。

 『神々の土地』は大劇場の後、東京宝塚劇場でも上演され、これから何回も見ることになるので、作品のことはさておき、背景となるラスプーチン暗殺のことを少し勉強し直しました。

 考えてみれば《1917年の最初の二か月、ロシアはまだロマノフ王国であった。八か月後には、ボルシェビキが国家の枢機をになっていた。この年のはじめめには、彼らは、ほとんどだれにも知られていなかった》のですから。

 これはトロツキーの『ロシア革命史』序文の冒頭の言葉。

 あまりにも急激な転換は、イギリスがロシアを戦線離脱させないようにラスプーチン暗殺を支援する動きをみせていたり、ドイツがレーニンを封印列車でロシアに送り込んだりするような動きにも触発されたのでしょうが、ラスプーチン暗殺の後、10週間しかロマノフ朝がもたなかったということを考えると、小さな猟奇的事件として片づけられないかな、とも思います。

 ニコライとアレクサンドラの全治世をつうじて、卜者やヒステリー患者が宮廷出仕のために招かれたのですが(『ロシア革命史 I』p.91)、農奴を解放したアレクサンドル二世の治世においても魔女などを信じる「ライ病病みの宮廷奸党」(ibid. p.104)などは存在していて、ロマノフ朝の特徴かもしれません。

 また、解放者とも呼ばれたアレクサンドル二世はナロードニキの爆弾で暗殺されたことで、息子のアレクサンドル3世は祖父ニコライ1世のような専制政治を目指すなど反動が進みます。アレクサンドル3世も暗殺されそうになりますが、直前に発覚して逮捕されたメンバーにレーニンの兄ウリヤノフがいたことは有名。

 にしても、ロマノフには暗殺事件がつきまとうんですよね…ニコライII世などは日本でも暗殺されそうになるんですから…(大津事件)。

 ラスプーチン暗殺は、宮廷革命を目指すものだったんですが、暗殺のやり方、その後の権力掌握の段取りも含めて杜撰きわまりないもので、十月革命におけるトロツキーの水際だったやり方とは対照的で、ロマノフには、もはや才能が枯渇していたのかな、と感じます。

 『神々の土地』は一時間半の中で、ラスプーチン暗殺と宮廷クーデターの失敗を見事に描いているんですが、ジプシーたちがボルシェビキというは斬新すぎる設定だし、それがレーニンのために!というのは寡聞にして存じませんでした。クロポトキンなどアナキストたちの群像を重ねすぎていたかな、みたいな。

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September 15, 2017

『自民党』

Ldp

『自民党』中北浩爾、中公新書

 事実上、冷戦終結後に可能となった日本の政権交代は、だいたい15年に一回ぐらいの割合で起きましたが、政権交代が目的のようになってしまい、求心力を失うと、その後は野党の方が再編を強いられるような展開が続いていています。民主党の政権交代は本当に期待したのですが、今回も野党再編に向かう似たような流れになるんでしょうか。

 細川連立政権の時は、旧田中派から続いた金権キャンダルに飽き飽きした人々が発作的な投票行動で実現させたような印象で、それと比べると民主党の政権交代は十分な準備が出来ていると思ったにもかかわらず、対米国、中国との安全保障の問題で早々に躓いてしまいました。

 ただ、細川政権で実現した労組代表が省庁の審議会に入ることや、民主党による歳出評価重視という視点はこれからも残っていくと思いますし、可塑的な日本の政治システムにしっかりとした刻印を残したと思います。

 仕事柄、狭い視点からでしたが、二回の政権交代を間近で見られたことは貴重な経験でした。

 今は盤石に見える自民党ですが、このままずっと与党にいると、一人区に候補者がいない空白区がなくなり、二世三世議員ばかりになってしまい、以前、優秀な候補者が皆んな民主党から立候補せざるをえなくなっていたような状況が再びやってきて、新たな展開も生まれるんでしょうか。

 個人的には維新とかみんなに行った候補者は軽蔑していたんですが、単に勝てそうな政党選んだだけかもしれないし、そうした候補を「ゆとり」とか言ってバカにしちゃいけないのかな、なんてことも思いました。

 それにしても、p.158-あたりを読み、自前の勝てる候補を着々と育てている感じのある自民党と比べると、自分の選挙だけは強いけど、渋谷などの地方議員(区議、都議)の面倒も見ずに放ったらかしで先細りさせてるミスター年金あたりを選挙対策委員長に選んだ執行部はちょっと残念ですが。

 本書の分析の白眉は公明党も含めての政府・与党の政策決定プロセスと自民党のリクルート方法の変遷でしょうか。

 まず、前提として1973年の石油危機で高度成長が終わると、複数の政策分野にまたがる課題が生じ、官僚に対する自民党の優位が進んだ、と(p.100)。さらに、第2次小泉内閣では政務官を担当分野の自民党の部会の副会長と兼務させたたのですが(p.112)、軽めのポスト同士とはいえ、それは「内閣・与党の政策決定一元化」を実現するための措置だった、と。

 党議決定された案件は公明党との与党政策責任者会議(与責)にかけられ、これを経なければ閣議決定に進むことができない、というルールが12年の政権復帰の際にも確認されたのは(p.125)、空中分解した新進党の失敗もあり、創価学会を支持母体としている以上は自民党と合併することが難しいため。こうしたルールがつくられたもうひとつの理由は、公明党の政策には民進党に近いものが多く、事前審査の手続きを経て、党議拘束をかけなければ、国会で足並みが乱れるため、必要不可欠のプロセスとなった、と(p.126-)。

 政治主導は元々、21世紀臨調の後押しで進められ、自民党もそうした方向を目指していたが、民主党による「事前審査の廃止による政策決定の内閣一元化」が鳩山政権で失敗したことから、現在では事前審査制が活用されるようになった、と(p.129)。

 鳩山政権の時、年末までほとんど情報が漏れてこなくて、各省庁の三役が何をやろうとしているのか、平場の記者会見ぐらいでしかわからなくなった時期があったんですが、それで出てきた政策が猛反対を産んだ中途半端な高速道路無料化などであったため、優秀な人間でも少人数では間違う、ということになったのかな、みたいなことも思います。

 候補者の公募の目的は1)有権者のアピールできる清新な候補者を自民党外に求めること2)開かれた政党であるというイメージを浸透させることなんですが(p.159)、公募の歴史を簡単に整理すると以下のようになります。

94年の政治改革後に敗れた自民党は地方組織が自主的に公募を開始→
与党復帰で先細り→
小泉総裁が公募と予備選を公約に当選→
空白区と補欠選は原則公募に→
しかし、ウラで事前に決められるなど形骸化→
郵政解散で緊急公募するなど中央主導に→
しかし、あまり党主導でやると杓子定規になりすぎ、実情に合わず再び地方主導に

 こうした優柔不断さというか、すぐにシステムを変えられる柔軟さは凄いと思います。

 こうした結果、自民党代議士は中央官庁の役人、企業経営者、JC役員などが減少。地方政治家や議員秘書は増減なしですが、一般の会社員、弁護士や医師などの専門職、大学教員は増加しています。つまり、自民党は、自身が有する既存のネットワークの外部からスカウトできている、というわけですが、同時に議員は二重構造化しているともいいます(p.170-)。

 以下は面白く感じたところを箇条書きで。

 ノンイデオロギーで《非社会主義勢力をすべて糾合した自民党では、派閥が人事ないし離縁に依拠する度合いが強かった》(p.14)。かくて総裁選によって《八個師団と称された派閥が明確な姿を現した》(p.18)。

 派閥の《事務総長会議は、竹下内閣の発足を受けて1987年12月に「師走会」と名付けられ、毎月一回、ほぼ定期的に開かれることが決まった》(p.23)。それは、総主流派体制となって、派閥間の競争も失われたためだけど、竹下内閣が派閥の時代のピークだったんだな、と。

 2015年に石破茂を領袖とする水月会が結成されたのは、1979年に中川一郎率いる自由革新同友会が結成されて以来のこと(p.26)。

 派閥はすべて木曜日の正午から定例会を開くことで互いにメンバーを囲い込んでいる(p.36)。相互認証によるシステムなので持続性を有している、と。

 若手議員には派閥に所属るメリットがそれなりにあるが、有力・中堅議員となると、政治資金上の負担が重くなり、野党に転落すると脱退するケースが多くなる(p.38)。

 自社さ政権でリベラル色を強めたことを危惧した安倍などは歴史教育の見直しなどを求め、国民的な人気を得て小泉政権で幹事長に就任した時、自主憲法制定を再び掲げた(p.54-)。

 二大政党の一角として台頭した民主党が社会党の流れを引いていたので、自民党は必然的に右傾化していった(p.56)。

 現在、当選五回以下の衆議院議員で大臣・党四役の未経験者は「希望役職に関する自己申告書」を幹事長に提出する(p.75)。

 《政治改革をよそに参議院改革がほとんど進んでこなかったので、依然として参議院は自民党の「党中党」》(p.79)。

 田中内閣までは総裁派閥から幹事長が起用されてきたが、椎名裁定以後、自派からは幹事長を出さない「総幹分離」の慣行が始まった(p.82)。→大平が幹事長就任を談判しに行って、外相でごまかされたという『自民党戦国史』の一節を思い出しました。

 自民党総裁選で無投票が少なくなっているのは、推薦人が50人から順次20人まで減ってきたから(p.89)。

 第2次安倍内閣の経済財政諮問会議はマクロ政策を、日本経済再生本部はミクロ政策という役割分担となった(p.113)。また、14年の内閣人事局の設置によって官邸主導は一層強化された(p.114)。

 小泉内閣の郵政民営化の時と違い、農協改革ではJAグループが割れ、一部が容認にまわった(p.120)。これは農協の金融事業を支えている準組合員の規制強化を阻止することを重視したから(p.120)。

 小選挙区では、あらゆる要望に対応しなければならず、族議員の底が浅くなった(p.122)。

 自民党の広報改革は小泉政権下の03-05年と野党時代の09-12年に行われたが「悪いものを良く見せる効果はない」と(p.142)。

 自民党と民主党の固定票の差は2倍(p.145)。

 橋本内閣での参院選挙敗北で生じたねじれを解消するため、自民党は公明党との連立に踏み切り、2000年の国政選挙に臨んだ。学会員と友人・知人への依頼によるフレンド票(F票)はかなり細かく把握され、コントロールされており、自民党の固定票と比べても圧倒的に頼りになることがわかっていく(p.147)。一方、自民党との選挙協力で、公明党には比例代表で5議席がもたらされている(p.148)。

 公明党は50-60年代に急激に信者を増やし、70年代以降は、家庭内再生産の段階に入った(p.149)

 公明党の非推薦者は麻生太郎、小泉進次郞、平沢勝英(p.152)。

 創価学会による自民党後援会へのアグレッシブすぎる働きかけは摩擦を生み、地方議員の反撥もある(p.154)。
 自民党の世襲議員は逆風に強い。大敗を喫した09年での選挙では広義の世襲議員の割合は54.7%、狭義の割合は34.4%に達し、55年体制以来の最高となった(p.176)。

 三角大福中は全員世襲議員ではなかったが、麻垣康三は全て世襲議員だった(p.177)。

 自民党は郵政選挙での造反議員を受けて、党本部の権限で支部を解散できるようにして、造反したら政党交付金などを受け取れないようにした(p.178)。

 自民党は日本宗教連盟に加盟している団体のうち、日本キリスト教連合会を除く神道、仏教、新興宗教団体の連合会と協議を行うほか、いずれにも加盟していない霊友会、世界救世教、仏所護念会教団とも話し合いの場を持っている(p.184)。キリスト教団体は政治に弱いな、と思うと同時に、他の新興宗教がいかにキタナイか、という感じを受けます。にしても、政策と票・カネの交換が循環的だな、と。

 自民党で個人後援会が発達した遠因は、政治献金が経済再建懇談会~自民党というルート一本化が中選挙区制の固定→派閥の固定によりできなかったから(p.187)。

 最初の族議員は農政だったが、予算に占める割合は53年度の14.9%から59年度には7.5%まで減少したが、農民からの突き上げで米価は上昇していった。80年に建設業は就業者数で農林業を上回り、選挙マシーンの中枢を担うようになった(p.188-)。92年に米価は引き下げられなかったが、それは財政上可能だったから(p.191)。

 宗教団体は得票数を通じて自らの組織力が明らかになることを避けるため、他の教団と相乗りしたり、著名人を推したりする傾向が強い(p.209)。非拘束名簿式となった2000年以降、宗教票は下り坂(p.211)。

 団体別では世界救世教、全特、建設、賃貸、看護が上位(p.214-)。

 自民党所属の地方議員は1万数千人と推定されるが、立候補の時に党籍を明確にしている議員は1717名にすぎない(p.231)。

 市区町村といった行政単位が重視され、都道府県が自主的に選挙区を設定する余地が少ないため、都道府県議会の選挙制度は、都市部が中・大選挙区制、農村部が小選挙区制の混合になっている(p.233)。

 813市議会ま平均の議員定数は24.1人で、人口50万人以上の市では平均45.8人。船橋市、鹿児島市、東京都の太田、世田谷、練馬も50名(p.235)。

 町村議会の議員報酬は月額21万円で、兼業がかのうな自営業者や会社・団体役員が多くなる(p.238)。

 自民党の東京都連は、区議会選挙で公認候補の擁立を重視し、推薦を認めてこなかった(p.240)。

 自民党は地方議会を民主党政権の反抗拠点とるため、09年には民主党との違いを強調する右寄りの意見書が地方組織から出されるようになった(p.248)。

 自民党の選挙対策本部が編集した『総選挙実戦の手引』では、個人後援会を結成る手順について《世話人会議、事務所開設、準備委員会または拡大世話人会議、ホッ金人・発起人代表委嘱、会員募集、結成大会、選対会議、総決起大会もくしは「励ます会」という一連の流れ》を説明している(p.252)。

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September 13, 2017

『ロベスピエールとドリヴィエ』

Robespierre

『ロベスピエールとドリヴィエ』遅塚忠躬、東京大学出版会

 遅塚忠躬は日本におけるフランス革命史研究の第一人者だった研究者でしたが、門外漢としては『フランス革命 歴史における劇薬』岩波ジュニア新書で知った方でした。功成り名を遂げ、死期を悟った研究者が最後に上梓したのは、高校生などに向けた新書だったというのは感動的な話しですし、内容も素晴らしいものでした。

 今回、『ロベスピエールとドリヴィエ』を再読しようと思ったのは、宝塚歌劇団が11月から『ひかりふる路(みち) 革命家、マクシミリアン・ロベスピエール』を公演するから。ご存じの通り、ロベスピエールは浮いた話しのない人生を送っていて、大して詳しくはないのですが、明治維新の吉田松陰のようなアセクシャル(非性愛者)じゃないかと思っています。佐藤賢一『小説フランス革命』では 美少年で「革命の大天使」と呼ばれたサン=ジュストとの間にはワケがあったように描かれているようです。

 しかし、いくらなんでも、宝塚ではアセクシャルだったりBL的なロベスピエールを描けないだろうな、と思っていたのですが、『ロベスピエールとドリヴィエ』で、女の子っ気のない彼の生涯で唯一、女性の影が薄く差す場面がどっかにあったよな…と思って読み進めていたら、355頁の注にありました。そこでは、熱心な支持者であった指物師デュプレの娘エレオノールがトップ娘役の役になるのかな、なんてことを考えているうちに、読み直してしまいました。

 以前は必要な箇所を探すような読書が多かったけど、純粋読書を満喫する、みたいな。

 再読して革命無罪のゴッドファーザーはロベスピエールだと思うし、造反有理は田舎司祭ドリヴィエかな、と感じます。同時に革命無罪は政治的なものが先行し、造反有理は経済的な問題が契機になっているような気もしました。

 フランス革命は1791年に元貴族の革命派ミラボーが死去した後、ルイ16世一家がパリを脱出しようとして東部国境に近いヴァレンヌで逮捕され、いったんは憲法が制定され立憲君主制への移行始まったんですが、この1791体制はすぐに行き詰まります。

 簡単に整理すると内外の反革命勢力の脅威高まる→ブルジョワジーと民衆、農民の同盟を唱えたロベスピエールが山岳派独裁による徹底路線をとる→旧体制一掃→民衆や農民の要求を飲もうとしたロペピエールはテルミドールで葬られる→資本主義の発展に適合したブルジョワ革命完成、みたいな。

 ロベスピエールは国王派など右派を潰滅させるとともに、農民革命の要素もあったフランス革命の急進派を抑えるという役割を果たしたんですが、反革命の右派の勢力を潰滅すると、今度はやりすぎたロベスピエールが「狡兎死して走狗烹らる」ことになるわけです。

 フランス革命はこうしたジグザグなコースを取りながら、最終的には「独占禁止・団結禁止型自由主義」のブルジョワ革命を達成したんですが、テルミドール以降も左右両翼からの攻撃に対して身を守るため、ブルジョワジーは結局、ナポレオンの軍事力に依存するほかなくなります。

 『ロベスピエールとドリヴィエ』を読んで、改めて思ったのが、ロベスピエールの山岳派の独裁以後、公教育、言語の統一が強力に進められた、ということ。こうした権力による民衆の世界の革命的解体は、全国的規模の市場に国民を編成するためで、それが後進資本主義国フランスにとって必要だった、と(p.264)。

 フランスやドイツはイギリスと比べて農業国の要素が強かったから、ブルジョワ革命を進めるためには、より中央集権的な政策が必要で、さらに遅れたロシアや日本などでは一党独裁を含めた独裁的な体制が必要だったんだろうな、と。

 あと、ジロンド派(穏健派)憲法も山岳派(急進=ロベスピエール派)憲法も六条の書きだし「自由とは、他人の諸権利を害しないことの一切をなしうる」という処までは一緒なんだわな、というのは意外でした(p.280)。

 人権宣言の第4条も「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。その結果各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法によってのみ、規定することができる」と似たような表現なんですが、日本では戦後にGHQから与えられた人権なので「他人の自由を侵害しない限りの自由」というのは実感できないから、表現の自由なんかを勝手解釈にした反ヘイトスピーチの言い方なんかがはびこるのかな、なんてことも思いました。

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September 12, 2017

ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』: 第一次世界大戦と『論理哲学論考』

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ウィトゲンシュタイン『秘密の日記: 第一次世界大戦と『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、春秋社

 これも読んだだけで放っておいたので、忘れないうちに。

 この本は第一次世界大戦に一人の兵士として参加したウィトゲンシュタインが戦争中に書いた日記というだけでなく、『論理哲学論考』を執筆の舞台裏がどのようなものであったかだけでなく、前線に近い戦場という極限状態の中でウィトゲンシュタインが自分の人間観、宗教観、欲望について、赤裸々に書いています。

 「『人間』ウィトゲンシュタインに対してアンバランスな関心を示すことは、思想家に対するに、彼の書斎を覗くことよりももっぱら御勝手に興味を示すことにも通じかねない」(註、P137 )ですし、ゲイであった彼の官能的生活に重大な要素が隠蔽されているとも思えないのでが、それを本当に赤裸々に書いているのは、ソクラテス以来(もっともプラトンの手によるものですが)なんじゃないでしょうか。

 人間観として面白かったのは、周囲の兵士たちとの断絶。《僕が共にいる人々は、低俗であるというよりは、途方もなく狭量なのだ。このことは、彼らと交際するのをほとんど不可能にする。というのも、彼らは永遠に誤解し続けるのだから》(p.115)。時代も分野も違いますが、こうしたことを正直に告白したのは、丸山眞男もそうだったな、と感じます。

 そして、《よい気分のとき、急に孤独を自覚すると、少し背筋を冷たいものが走る。その心地よさ》(p.77)。などのアフォリズムの切れ味。

 また、《言われないことは、言われえないのだ!》(p.118)という走り書きがあったのには驚きました。『論理哲学論考』の最後の命題の原型が放火の中で思いつかれたとは…

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen

 ということで、秘密の日記の横に書かれていた草稿1914-1916も読みました。それは1916年6月からの、ロシア軍によるプルシーロフ攻勢で死と向き合ったハプスブルク家の二重帝国の軍人としてのウィトゲンシュタインが書き残した『論考』の元原稿。大修館版を読むのも久しぶりでしたが、いいな、と。

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August 15, 2017

『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』

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『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』中川右介、毎日新聞出版

 宝塚歌劇団星組の次回大劇場作品はワイマール期からナチス政権初期あたりのを舞台にした『ベルリン、わが愛』となりましたが、個人的には理解の浅い当時の背景をよりよく理解するために、未読だった中川右介さんの著書を読んでみました。

 当時のドイツと世界を4人の女優の視点で切り取ってみる、という作品。4人の女優とはレニ・リーフェンシュタール、マルレーネ・ディートリッヒ、オードリー・ヘプバーン、原節子。

 レニはナチスのプロパガンダ資金に乗り『意思の勝利』『民族の祭典/美の祭典』という映画史上に残る傑作をつくりましたが、今や『信念の勝利』(Seig des Glaubens)もYouTubeで見られるようになったんですから、凄い時代です。

 ちなみに、レニは『信念の勝利』について、ニュース映画の寄せ集めであり、自分の映画ではない、としているそうです(p.189)。著者は、『意思の勝利』も誰が見てもナチスのプロパガンダだが、『民族の祭典/美の祭典』はスポーツの記録映画だと思い、ナチスの映画とは見えないという、より高度なゲッペルス的メディア戦略だ、としています。ゲッペルスは『戦艦ポチョムキン』を内容は別として絶賛していたそうで、やはり、そうした目は持っていたんでしょうね。

 レニ・リーフェンシュタールは本当に素晴らしいんですよね…。政治的に問題はあるけど『意思の勝利』の編集のリズムは凄い。そして様々なカメラの改良も行って撮った『オリンピア』の映像は今でもスポーツ動画のクラシック。彼女の編集能力の高さの背景は自伝や『オリンピアと嘆きの天使』で分かります。

 ちなみに『民族の祭典/美の祭典』のプレミアはイギリスでは拒否され、アメリカでも35人しか見に来なかったそうですが、ナチス支持者のヘンリー・フォードは見たそうです。

 マルレーネ・ディートリッヒは『嘆きの天使』で世界のアイコンになった女優ですが、ヒトラーに愛想を尽かして連合国側の象徴になるというレニとは正反対の生き方をします。

 オードリー・ヘプバーンはナチス崇拝者の父を持ち、戦禍のオランダで死にそうになるが、バレエを習い、やがて戦後民主主義のアイコンとなるという人生を歩みます(父とはひっそりと再会)。そして美人女優の代名詞である原節子にも日本の軍事政権とナチスの蜜月時代に、国策映画に出演した過去もあった、というのが『オリンピアと嘆きの天使』の大まかな構成。

 それにしても、ハイパーインフレと賠償で悩んでいたドイツにとって、ハリウッドへの輸出は外貨獲得の有力手段であり、敗戦国とはいえ自国が戦場になってなかったドイツでは才能が集まっていたので、ハリウッドとしても安価に才能を買える市場だった、という指摘にはハッとました。

 それにしても、オードリーが《英国のファシズム運動に参加し、ナチスシンパとしてヒトラーと面会も果たしていた》という両親を持っていたのは知りませんでした。彼女の意思のある向日性はその反動でしょうか?

 ナチスが政権を獲って、すぐに宣伝相ゲッペルスが映画関係者を呼びつけて方針を伝える場面が紹介されてます。星組公演『ベルリン、わが愛』でも出てきそう(p.182)。

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August 14, 2017

『ギリシア人の物語II』

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『ギリシア人の物語II』塩野七生、新潮社

随分、前に読んだんですが、忘れていていました。

 例えば、外国の方が源氏物語が好きだかといって研究していても、和歌の部分とか、その後の文芸への展開、日本語に残る影響や貴族と武家との関係などの理解は、やはり長い間日本で生活し、日本語に接してきた者にはなかなか勝てないのかな、と思うんですよ。ぼくもギリシア語は好きですし、翻訳も含めて一通りのものには接してきたつもりですが、やはり「お勉強」という部分があって、ヨーロッパの子たちがグレコローマンの古典に接してきたり、楽しみとして英雄伝を読んでいるようなのにはかなわないな、と思うんです。

 ですから、「日本人には馴染みがなそうだな」といった部分を、読者のプライドを壊さずに、丁寧に説明してくれる塩野さんの書き方というのは、ありがたいな、と。

 平和を表す言葉のほとんどはラテン語のPAXを語源にしているのは、4年に1度、オリンピックという休戦が必要なほど争いごとの好きなギリシア人が、あらゆる概念を創り出したにもかかわらず、「続くからこそ平和」という概念だけはローマ人を待たねばならなかった、とか(p.29)。

 アイソキュロスはサラミスの海戦に参加していたから第三か第四階級出身、ソフォクレスは「ストラテゴス」に当選したから第一階級とか。アテネ海軍と戦ったサモス海軍を率いたのも哲学者メリトスとか。


 『ギリシア人の物語II』はペルシアという大敵を破にもかかわらず、それ故に陶片追放されたテミストクレスの後を継いだペリクレスによる治世が中心。

 ペリクレスは、それまで父親だけでなく母親もアテネ市民権所持者でなければアテネ市民権を持てない法を可決させて長い治世をスタートをさせた。ペルシャ戦役の勝利によって流入する市民への不満が高まり、それを制限するためだが(p.41)、こうしたところは今も昔も変わらないなと思うと同時に、民主政とは安全保障と表裏一体のもので、アテネの民主政は戦場に連れて行ける兵士の数を増やすという意図がひそんでいたのだろうな、と(p.49)。

 ペリクレス治世の後半、スパルタとのペロポネソス戦争は本当にだらだらと続くが、それでもアテネは安定していた。しかし、ペリクレスの後を継いだアルキビアデスは、デマゴーグたちによって3度も道半ばで失脚させられ、挙句の果てに元は奴隷という司令官に裏切られて全てを失う。

 美しいアルキビアデスと共にペリクレスに館にたむろし、彼を愛していたソクラテスも、その一年後に毒杯をあおぎ、アテネの黄金期=ギリシアの黄金期はあっけなく幕を閉じる。そしてペリクレスの死んだ年に『オイディプス王』が上演された、というのには驚く(p.175)。ペリクレスはギリシアの父だったのだろう。

 シラクサ遠征は、アテネにとってペロポネソス戦争をベトナム戦争みたいなものに変えていくが、プラトンの『饗宴』にも出てくるアルキビアデスというリーダーを追訴して追放し、戦力の逐次投入という負け戦の常套手段をとらせる衆愚政治というのは、いまも昔もニンゲンなんて変わらないな、と思わせる。

 さらに、ペリクレス時代とそれ以後のちがいの一つは、やたら告訴しては裁きの場に引き出すことの乱発(p.315)。ポピュリズム全盛の今の世にも当てはまるというか、こうしたところはサルが先祖のニンゲンは変わらないのかな、と。

 《残念なことではあるけれど、人類は、戦争そのものが嫌いなのではない。長期戦になり、しかも敗色が濃くなった戦争が嫌いなのである。それゆえ、名将とされる人は全員、一度で勝負が決する会戦に賭ける。それが陸上か海上かは、関係ない》というののは名言(p.371)。真珠湾の高揚とか、どれほどのものだったろうか、と思う。
 
 以下は箇条書きで。
 
 パルテノン神殿をつくったフィディアスは完成後二年後に死に、建設を企画したペリクレスも三年後には世を去る。神殿はこの2人の「作品(オペラ)」だった(p.69)。

 社会生活を満喫できたローマ人の女性と比べて、ギリシア人の女は外出の機会もほとんどなかった(p.96)。

 ペリクレスが同世代のソクラテスに興味を持たなかったのは、《国民は、国政の担当者に、哲学的な深遠な思索は求めてはいない》から(p.99)。プラトンの哲人政治の構想は、その反動?


塩野さんも引用しているあまりにも有名なペリクレスの演説では終わります。

《『BC443年 オリンポスにて ~アテネ民主制の理想~ ペリクレスの演説』

 われらがいかなる理想を追求して今日への道を歩んできたのか、いかなる政治を理想とし、いかなる人間を理想とすることによって今日のアテーナイ(アテネ)の大をなすこととなったのか、これを先ず私は明らかにして戦没将士にささげる讃辞の前置きとしたい。この理念を語ることは今この場にまことにふさわしく、また市民も他国の人々もこの場に集う者すべて、これに耳を傾けるものには益する所があると信ずる。
 われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。
 よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私の生活においてわれらは互いに制肘を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。
 また、戦の訓練に眼をうつせば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。先ず、われらは何人にたいしてもポリスを開放し、決して遠つ国の人々を追うたことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれらは持っていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦の仕掛や虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである。子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。
 これは次の一例をもってしても明らかである。ラケダイモーン人はわが国土を攻めるとき、けっして単独ではなく、全同盟の諸兵を率いてやって来る。しかるにわれらは他国を攻めるに、アテーナイ人だけの力で難なく敵地に入り、己が家財の防禦にいとまない敵勢と戦って、立派にかれらを屈服させることができる。
 われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見做す。そしてわれら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。理をわけた議論を行動の妨げとは考えず、行動にうつる前にことをわけて理解していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。この点についてもわれらの態度は他者の慣習から隔絶している。われらは打たんとする手を理詰めに考えぬいて行動に移るとき、もっとも果敢に行動できる。
 まとめて言えば、われらのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己れの知性の円熟を期することができると思う。そしてこれがたんなるこの場の高言ではなく、事実をふまえた真実である証拠は、かくの如き人間の力によってわれらが築いたポリスの力が遺憾なく示している。なぜならば、列強の中でただわれらのポリスのみが試練に直面して名声を凌ぐ成果をかちえ、ただわれらのポリスに対してのみは敗退した敵すらも畏怖をつよくして恨みをのこさず、従う属国も盟主の徳をみとめて非難をならさない。かくも偉大な証績をもってわが国力を衆目に明らかにしたわれらは、今日の世界のみならず、遠き末世にいたるまで世人の賞嘆のまととなるだろう》
『戦史』トゥーキュディデース著、久保正彰訳、岩波文庫 (抄)

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