July 14, 2025

『NEXUS 情報の人類史 下: AI革命』ハラリ

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NEXUS 情報の人類史 下: AI革命』ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社

 

 ジムで筋トレ後のエアロバイクで聴く本を探していて、特にみつからなかったので、下巻でも…と思って聴きました。

 

 特に面白いと思ったところはなかったのですが、西側のAIが、プロテスタントのソラ・フィデ (Sola fide、信仰のみ)の考え方を重視し、身体性を軽んじるなら、AIに法人格を与える方向に動くかもというあたりはなるほどな、と。

 

 これまで国家は人間をノード(結節点)にした「情報ネットワーク」によって機能してきました。脳の中であれば、ニューロンのネットワークが記憶情報となり、集団間であれば社会的情報となるわけですが、このノードにAIが入ってきて、選挙などの討論にAIが入ってきたら潰滅的になる、と。

 

 AIの開発は米中で国の将来を賭けた競争となっていて、勝者が獲得するのは「世界制覇」。トランプがブロードコム(シンガポール系)による米クアルコムの買収を阻止したのも、中国の影を感じたからでしょう。

 

 今後、オンライン世界がデカップリングによるシリコン・カーテンで分断される可能性も指摘。お互いのAIがデータを爆食いして賢くなっていくにしても、中華圏メインのデータで形成されたAIと多くの西側諸国のデータで形成されたAIの勝負はみているような

 

 前半ではミャンマーのロヒンギャ虐殺をめぐるFacebookアルゴリズムの件が大きく取り上げられています。企業側は投稿はあくまでユーザーが書いたものと主張しますが、結局、AIがユーザーエンゲージメントを極大化しようと動いた結果、憎悪を煽るコンテンツがどんどん拡散され、虐殺に至ったというのは、AIの自律学習がコントロールできないリスクを意識させます。

 

 こうした中でQアノンも引用されます。2017年に掲示板サイトに現れたQドロップのメッセージは、米国など各国政府内部に「魔王を崇拝する小児性愛者」が潜入しているという過激な世界観を売り込み、活動家たちは21年の米国議会議事堂襲撃も引き起こします。

 

 「情報ネットワーク」はナチス・ドイツやスターリンのように秩序の維持を優先して洗練されていきましたが、こうした悲劇を避けるためには、自らの過ちを正す「自己修正メカニズム」が不可欠であり、AI時代にもそれが必要だ、というあたりが結論でしょうか。

 

 著者はAIの決定に警鐘を鳴らしていますが、現代の生成AI開発では決定をしないようにアライメント(調整)されているんじゃなかったのかな上巻では「情報ネットワーク」「自己修正メカニズム」などのキーワードが説明されているというのですが、聴くか悩み中w

 

 

[目次]

 

II部 非有機的ネットワーク

 

6章 新しいメンバー  コンピューターは印刷機とどう違うのか

連鎖の環

人間文明のオペレーティングシステムをハッキングする

これから何が起こるのか?

誰が責任を取るのか?

右も左も

技術決定論は無用

 

7章 執拗さ  常時オンのネットワーク

眠らない諜報員

皮下監視

プライバシーの終わり

監視は国家がするものとはかぎらない

社会信用システム

常時オン

 

8章 可謬  コンピューターネットワークは間違うことが多い

「いいね!」の独裁

企業は人のせいにする

アラインメント問題

ペーパークリップ・ナポレオン

コルシカ・コネクション

カント主義者のナチ党員

苦痛の計算方法

コンピューターの神話

新しい魔女狩り

コンピューターの偏見

新しい神々?

 

 

III部 コンピューター政治

 

9章 民主社会  私たちは依然として話し合いを行なえるのか?

民主主義の基本原則

民主主義のペース

保守派の自滅

人知を超えたもの

説明を受ける権利

急落の物語

デジタルアナーキー

人間の偽造を禁止する

民主制の未来

 

10章 全体主義  あらゆる権力はアルゴリズムへ?

ボットを投獄することはできない

アルゴリズムによる権力奪取

独裁者のジレンマ

 

11章 シリコンのカーテン  グローバルな帝国か、それともグローバルな分断か?

デジタル帝国の台頭

データ植民地主義

ウェブからコクーンへ

グローバルな心身の分断

コード戦争から「熱戦」へ

グローバルな絆

人間の選択

 

エピローグ

最も賢い者の絶滅

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July 10, 2025

『ゴルフが上達する自律神経72の整え方』小林弘幸

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『ゴルフが上達する自律神経72の整え方』小林弘幸、法研

 プロゴルファーでもある元巨人のデーブ大久保さんのYouTubeを見ていたら、自律神経を整えることの重要性を順天堂大学医学部の小林弘幸教授と語っていたので読んでみました。

 一見、驚くようなことは書かれていないようにも思えるのですが、健康というのはそもそも非日常的なものではありませんし、非現実的な努力の末に達成できるものでもないので、無理のない常識的な努力を積み重ねて得られるものだと思うので、色々な気付きも含めて面白く読ませていただきました。

 前提は
1)体性神経は、自分の意思で動かすことのできる神経で、痛みや熱さなど感覚を脳に伝える知覚神経と、手足など体の各部を動かす運動神経がある
2)自律神経は、自分の意思に関係なく血液の流れや内臓の働きを司る神経で、交感神経と副交感神経の2つがある

 自律神経には4つのパターンがあり
a)交感神経と副交感神経がともに高い 理想的なエリートで1%しかいない
b)交感神経が高く、副交感神経が低い 日本人に一番多いタイプで60%がこのタイプ
c)交感神経が低く、副交感神経が高い おっとりタイプで眠たい感じ
d)交感神経と副交感神経がともに低い 常に疲れていてぐったりしている

 ぼくもb)タイプで、いつもせかせかしていて気持ちが焦った状態で過ごしています。ゴルフでも、良い時はイケイケドンドンですが、一回つまずくとガタガタっと崩れてしまう。

 そんな時の対処法というのは基本、深呼吸しかないんですが、コース上では

・他の人のショットに惑わされる心配がない第1打のオナーが良い
・2打目、3打目も〝お見合い〟になったら、自分から同伴者へ「打ちます」と意思表示をし、確認がとれたら先に打つ
・交感神経が上がると焦燥感が出て筋肉が緊張して血流が悪くなる
・自分の打順が来る前に5回から10回、肩の上げ下げをすると肩、首、アゴに入っていた余計な力が抜けて上半身の緊張が緩む
・バックスイングでは左肩がアゴの下に来るまで回す
・コンペなどでたくさんの人の前で打つときは、ある程度頭が上がってしまうことを想定して、ティーアップをやや高めにセットする
・強いストレスを感じると血管が収縮して血圧が上がってしまう
・プロゴルファーは人が打つところを見ていない
・昼食を食べる前にコップいっぱいの水を飲むと反射的に腸働きだして副交感神経が高まる。消化吸収に血流をたくさん使うことがなくなるよう腹六分目にする
・ため息をつくと深い呼吸となり血流が上る
・スコアカードの余白には各ストロークの評価を◯×でつける。○×○○○と書き込むことで、×のショットをなぜ失敗したのか理由を考える
・「ナイスショット!」の掛け声は自律神経のバランスを乱す
・ショットに入る前などに笑うと首、肩、腕に入っていた無駄な力が抜ける
・青空を見上げると気道が真っすぐになって酸素の摂取量が増える

《ミスした後「あっ、トップした!」「またダフった!」と、ひとり言を発するようになります。これは完全に自律神経が乱れた症状。ミスをした照れかくしとも言い訳とも違います。淡々とプレーしているようで実は人の目を意識している。集中できていないのです》(k.677、kはkindle番号)というのは図星だな、と。

《交感神経ばかり優位になると、緊張・興奮状態が続いて心身は疲れてしまいます。長時間にわたり血管が収縮して血流が停滞することによって〝血液がドロドロ〟になり、脳や内臓の機能低下が起こりやすくなります。  肩こり、頭痛、便秘、動悸、息切れ、疲労、めまい、冷え、手足のしびれ、不眠、イライラ、集中力低下などの不調が出るのはそのためです》(k.1108)というのはなるほどな、と。

《リカバリーショットを丁寧に行なって成功すると、その後の1打を大事にしようとする気持ちが芽生えます。不運はあったものの1回でフェアウェーへ戻したのだから、これを無駄にすることなくダボ以内で収めようと思えるのです》(k.1336)というアドバイスは次のラウンドで実践しようと思います。

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July 05, 2025

『陸将、海将と振り返る 昭和の大戦』小川清史、伊藤俊幸

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『陸将、海将と振り返る 昭和の大戦』小川清史、伊藤俊幸、桜林美佐、ワニブックス

 「ん?『失敗の本質』は旧軍の組織論的欠陥をメインにとりあげた本で、作戦それ自体に関する評価については専門的ではない部分もあったのか」というのが本書の元になった動画をみた時の驚きでした。

 改めて『失敗の本質』の版元の説明を読んでも《日本軍の戦略、組織面の研究に新しい光を当て、日本の企業組織に貴重な示唆を与える書。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦という大東亜戦争における6つの作戦の失敗の原因を掘り下げ、構造的問題と結びつけた日本の組織論の金字塔》としています。

 これに対してウクライナの戦況解説などでお馴染みの小川清史陸将と伊藤俊幸海将が『失敗の本質』で取り上げられた6戦いについて軍事的な側面から解説したのが本書。

 ノモンハンに関しては《ソ連は五カ年計画を進めて国力を強化しているから、強くなる前に叩くべきという「対ソ予防戦争論」の皇道派と、反日排日で日本を敵視している中国を、ソ連の前に叩けという「中国一撃論」の統制派で》《ノモンハン事件はいわばその統制派が主導権をとった直後のような状況で、人事がきわめてヒューマンネットワーク》でなされており、《北支那方面軍参謀長に就いていた山下奉文以外はみんな統制派》(k.308)という視点はなるほどな、と。

 ノモンハンは双方に大きな損害を出して終わり、日本は真珠湾に向かうのですが、 前提として《真珠湾攻撃は「陸軍の南方攻略に資する」ためなんです。要するに、陸軍が南方を攻略しやすくするために、真珠湾を先に叩いておこうという話》でドイツが強くてヨーロッパで大暴れして《英仏など南方に植民地を持つ国自体がボロボロになっていたという国際情勢があったわけです。だから、「今なら南方を取れるぞ」と南進論の気運が急激に高まっていった》(k.695-)という流れだった、と。


《日露戦争後の両国の関係がいまだ安定していなかったことを考えると、陸軍にとって最大の仮想敵はソ連軍だったはずです。にもかかわらず、鉄道沿線の守備という警戒部隊のような任務から派生したのが関東軍でした。そのため、関東軍は、本格的な軍事作戦を行いうる組織や編制・装備からはほど遠く、かつ満洲が対ソ連軍用の緩衝地帯であるとの認識もなく、ただただ国境防備の任務に終始していたように思えます》(k.4124)という視点も鋭いな、と。

 真珠湾では奇跡的な大戦果を上げたわけですが、それは後の世が思うほど無謀ではなく《山本五十六は「アメリカが 10 と言っても、そのうちの半分は大西洋側、つまりヨーロッパにあるから、太平洋は残り半分の5だ。アメリカが5で日本が6なら勝てる計算になるから、ミッドウェー奇襲攻略作戦は可能である」という発想でした。だから、米軍基地のミッドウェー島を攻略することによって、それに応じて反撃に出てくるであろう米国艦隊、すなわち真珠湾攻撃で撃ち漏らした米海軍の空母機動部隊を誘い出し、一気に撃滅しようとした》という見方もあるのか、と(k.1246)。

 特に出色だったのが《第2章 「陸」から読み解くミッドウェー海戦》でした。
 
 その後、東京が爆撃されたこともあり、ミッドウェー海戦が企図されたのですが、作戦名からしてもミッドウェー島を攻略して、一週間だけ持ちこたて不沈艦空母として運用している間に米空母を撃滅する作戦だったのに、敵艦隊を撃滅するという意識が高すぎて《陣前出撃の最悪手を打ってしまったんです。戦術面や技術面でアメリカ側に負けているところはあったかもしれないけれど、そもそも陣前出撃という一番やってはいけないことをやってしまい、米軍に島を持たせたまま対峙してしまった。根本的に弱い状態のまま出撃》してしまったのが問題だとする小川清史陸将の指摘は凄いと感じました(k.1453)。ミッドウェー「海戦」として、運命の5分など虎の子の空母4隻を失った経緯のみに焦点があてられてきた戦いは、今後、見直されていくかもしれません。

 こうした海軍の気質は「艦隊たるもの敵の主力艦隊を確認したら、それと一戦交えるのは当然じゃないか」と思っていたから。謎でも何でもない」(k.2930)ということで、本来はレイテに上陸した米軍を叩くために行われたレイテ沖海戦も、幻の敵艦隊を目指して謎の反転をしてしまうわけです。

 インパール作戦については、牟田口中将は撤退作戦をある程度成功させて生き残った兵士を帰還させており、証言者がたくさんいるから叩かれるという側面もあるというのもなるほどな、と(k.2591)。

 小川さんは、そもそも太平洋戦争につき進む目的がいまだによくわからないとしていますが《近代戦争に向けて冷静なグランドデザインを描ける状況にないところへ、米国などによる外交的圧力、欧米先進国による民族差別などによって国民感情が爆発したのではないでしょうか》という側面もあったのかな、と(k.4178)。

《ロシアと中国をどうやって日本から遠ざけておくか。この問題は最終的に、第二次世界大戦で負けたことで、すべてアメリカが肩代わりしてくれる状態》で《ある意味で中国を第一列島線以西に封じ込めている状態です。日本の最西端で台湾による中国軍に対する抑止効果の作用が働いているともいえる状態》(k.250-)は続いているわけですが。

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June 20, 2025

『社会学の歴史II』奥村隆

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『社会学の歴史II』奥村隆、有斐閣アルマ

 知り合いの子が大学生になったら、サル学の本か長谷川宏訳の『法の哲学』ヘーゲルを贈っていたんですが、『社会学の歴史I 社会という謎の系譜』奥村隆、有斐閣アルマは「次からはこれにしよう」と思うほど感銘を受けました。そのIIなんですが、積読状態からやっと読み出したものの、なかなか前に進まず、最後まで読んでからまとめたのでは忘れてしまいそうなので少しずつまとめてきたのですが、ようやくひと段落しました。

[9章 シュッツとガーフィンケル]
 皆さまは哲学の分野で現象学はお得意ですか?勤めていた頃、まだ土曜日は半ドン勤務の後、ランチを一緒に食べて解散みたいなことをやっていた時、学部の卒論で現象学について書いたという後輩と話した時にも、「ひと言ではいい表せない」と逃げられ、まあ、そうだなと思って、ずっと苦手なままですごしていました。
 フッサールの着想は学問の基礎である直接体験が失われつつある中、自然的態度をストップさせる「判断停止(エポケー)」が重要だと説きます。こうした普段は意識されないものを主題化することが現象学なんだ、と。「体験の流れ」の中で素朴に生きていては「意味」は生まれず、そうした純粋持続流から外に出て意味を獲得することが重要だ、と。しかし自己の体験流を自己解釈によって理解した「意味」に他者は接近できません。
 ただし、一緒に年をとることは可能で、それをシュッツは「我々関係(Wirberziehung)」と呼びました。その中で人は類型として他人の行為などを把握する、と(個人的にはヴィトゲンシュタインの言語論にも通じるのかな…)。
 社会は異なる体験流を生きる人間がつくる「複数の体験の空間」ですが、そこで人は「私はいずれ死ぬ」という怖れをいだきつつ「希望と怖れ、欲望と満足、好機と危機」の中で計画を立てたり実現している、と。
 ところが複数の現実を行き来しながら生きている人もいます。例えば同じキリスト教会でも、信仰のリアリティをもっている人もいれば、それは虚構の演技にすぎないと思っている人、儀式を運営する労働の現実しか見えない人もいて、そうした人たちが対立・葛藤してダイナミックに共存している。

 「エスノ」という言葉がある社会のメンバーが「属する社会の常識的知識」をなんらかの仕方で利用できることを指すことから「エスノメソドロジー」という概念を生み出したのがガーファンケル。
 私たちは「言葉を正確に定義した合意」で秩序をつくっているのではなく、気づかれない基盤によって安定させており、家族なども規則によって成り立っているのではなく、「家族をする実践」を一瞬一瞬行っている、と。
 ここから、家族の中で急に堅苦しい受け答えをすると、他の家族が唖然としてショックを受けるという有名なテストが行われます。

[10章 アーヴィング・ゴフマン]

 ゴフマンの自伝を書いたヴァンカンによると、ゴフマンは「社会的上昇の独習者」 だった、と。

 《農村地帯のユダヤ人のプチブル層を帰属集団とする彼が、都会の知的ブルジョワ層を準拠集団にする(さらに、 最上層家庭の女性と結婚する)。このとき「あるべき」自己へと訓練するために手引きが必要となります。彼はゴフマンがつねに「参加する観察者(participant observer)」 だった》と。

 なんか米副大統領のバンスのことを考えてしまいました。《集団の中にはいるが、そこから一歩退いている。しかし自分が必要と決めれば戻ってくる。自分で発言するよりも、観察している」。出身階層や職業や学問分野や伝統の「内と外とにどのようにして同時にい ることができるのか」という問いがゴフマンの軌跡にはつねに存在 したのではないか。社会的上昇者はいつも「居心地の悪さ」を感じ、 彼の目には「日常」が謎として浮かび上がります》というあたりでは、ゼレンスキーとトランプの会話に割って入ったあたりを思い出しました。

 《東欧からのユダヤ系移民の子でありなが ら、アメリカの名家の一員である。大学教授でありながら、株とギャンブルの名手》だったというゴフマンは、貧しいヒルビリーに生まれ、自力でイェールを卒業し、金持ちのインド系の妻と結婚したバンスと重なります。バンスの奥さんは自殺しそうなタイプとは思えないので、そこは違いますが…

 それにしても10章のゴフマン面白いなぁ…ゴフマンの対人関係ごとの演技する自分って、吉本隆明さんの関係の絶対性なのかな、などと思いつつ読み進めました。基本的な社会学の文献が邦訳されていない中で、人間は玉ねぎみたいなもので、本当の自分などはなく、家族、友人、社会との関係ごとの自分がいるだけ、みたいなことをマタイ伝から読みといた吉本さんは凄いな、と改めて思いましたが、同時にこうした社会学的な常識がない中で、日本の言論界はいろいろやってきたんだな、と寂しさも。

 さらに、ある社会の中で求められる「しぐさ」を外した場合、わざと周りが気づかないフリをしつつ、軌道修正を促すなどの高度で稠密なコミュニケーションが存在するみたいなところまで研究しているのが凄いな、と。我々は毎日の日常をショーのように過ごし、そこから逸脱する場合は、ショーを救わなければならないというのは凄いな、などと考える。

 この本の副題は「他者への想像力のために」だけど、SNSをみても「感受性が鈍すぎ、機転に乏しすぎ、自尊心や思慮がなさすぎる者」は「仲間はずれにされてしまう」というのがよくわかる。そうしないと秩序が維持されないからな、などとも考えながら。

[11章 フーコー]

 カトリックが懺悔を年一回の義務としたのは1215年のラテラーノ公会議から。「告白させる権力」によって人は主体となり、服従する,というのはボルシェビキ以降の総括みたいな作風に通じているんだな…

 国家や領土ではなく、人間も統治しようという考え方はギリシア的ではなく、ヘブライ含むキリスト教における東方にある、と。王・神・首長が牧者で、人間たちは群れという喩えは新訳からのもの。しかし、ギリシアの神は人間をどこかに連れて行かず、都市を囲む城壁の上に現れるが、ヘブライの神は移動する神であり、人が城壁を出たところに現れる、と。

 考えてみれば出エジプトだけでなく、パウロも道の途中でイエスに会い、ヤコブたちの原始母教会やユダヤ共同体の外に出て布教して、人々を司牧しようとするもんな、細々と手紙書き送って…と思いつつ、Παρρησία(パレーシア=率直さ)について、p.166に書かれている
《キリスト教以前のユダヤ・ヘレニズム的テクストでは、パレーシアは「大胆さと勇気という形態における(真なることを語ること)」 を意味し、古典期ギリシアの用法と近いものでした。ですが、七十人訳聖書ではこの言葉は「神の視線に自らを差し出す心の開示」、「魂の透明性」といった「神との関係という垂直軸」に位置づけられるようになり、魂は「透明になって神に開かれ」るものとなります。そして新約聖書でパレーシアは「言語を用いた活動」ではなくなり、「言説や発言のなかで自らを表明する必要のない心の態 度」 = 「神への信頼」という意味になっていく。神の意志に適うこと以外を神に願うことのないキリスト教徒に神は耳を傾けてくださるという「神の愛への信頼」、これが新約聖書における「パレーシア」であり、ここには「服従の原則」による「循環」が見られます。
 紀元後最初の数世紀の修徳テキストにおいて、パレーシアは「両義的な価値」をもち始めます。ポジティブな価値を帯びたパレーシアは、キリスト教徒の「人間たちに対する態度」と「神に対する存 在の仕方」のあいだの「蝶番的な徳」として現れます。人間たちに対するパレーシアは「自分が証言したいと望む真理を、あらゆる脅威にもかかわらず主張する勇気」です(迫害の前の「殉教者」のような)。ただしこの対人間パレーシアは「神への信頼」から切り離せない。ソクラテスの勇気は「他の人々に言葉を向ける一人の人間の勇気」でしたが、キリスト教殉教者の勇気は「神への信頼」、「魂と 神との直接のコミュニケーション」をよりどころにするのです。ところがキリスト教のなかで「震えおののく服従の原則」が明確になってくると、「人間の自分自身に対する信頼感」》は曇り、信頼できるのは髪だけになるため、心の開示としてのパレーシアが傲慢なものとみなされてくる、という書き方なんですが、第一感「ちょっと短絡しすぎ」と感じるんですよね…

 日本語の簡単な新訳ギリシャ語事典を調べただけでもΠαρρησίαで最初に示さ:れるのは古典な1)(話しの)あけっぱなしな事、腹蔵のない事、率直さ=ヨハ7:13、行2:29 2)公然たる事=マコ8:32 ピリ1:20 3)(態度・行動における)率直さ、無遠慮、大胆さ=行4:13、IIコリ7:4 であり、フーコーがキリスト教によって(おそらくパウロ書簡後のことだと思いますが)意味が変わったというほど変わっていないのかな、と(使徒教父文書の使用例までは調べていませんが)。

 プラトンは『国家』(557B)で自由(エレウテリア)を基本とする民主制の特徴として「放任」(エクスーシア)と「言論の自由・率直さ」(パレーシア)をあげています(岩波文庫、下巻、p.204の注から)。しかし、パウロ文書のフィリピ人の手紙1:20《そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています》の「恥をかかず」もΠαρρησίαです。

 恥をかかずは意訳気味ですが、パウロお得意のフレーズである「福音を恥とせず」に合わせて日本語ではそう訳されることが多く、公然たる事である、という意味となります。

 フーコーはパレーシアを意見や考えを公に正直に述べるディスクールの方法として重視したというのはわかりますが、かといってキリスト教のテキストで意味が変わってきたというのはどうなのかな…と思ったのですが、フーコーの『安全・領土・人口』の邦訳はバカ高いから(8万!)、フランス語のKindle版で読むかな…と。

[14章、ブルデュー]

 12章、13章はジェンダーと周辺の社会学。じっくり学ばせていただきたいところですが、飛ばしてブルデューへ。

 そのブルデューも後半の『国家貴族』について重点的に書かことにします。12章から14章前半の『ディスタンクシオン』については各自、お読みくださいませ。

 とは言うものの「知識人は人類の公務員でなければならない」と語っていたあたりはいいな、と。また、『ディスタンクシオン』についても「身体化された階級」という視点が大切だというあたりも、なるほどな、と。庶民階級が力を誇示するボディービルに打ち込みがちになるのに対し、エリートたちは「健康な肉体」ぐらいしか期待せず、それはジスカール・デスタンのスリムな体型と好対照だ、なんてあたりも思い出し、ブルジョワ階級のゆとりについて「ゆとりというには、他者の客観化する視線にたいする一種の無関心であって、その視線の力を骨抜きにしてしまう」なんてところも痺れました。芸術作品の購入は個人趣味の客体化された証拠であり、真似することのできない貯蓄様式だ、というあたりも。

 さて、『国家貴族』では、ブルジョワジーの子息たちに裏口的な学歴保証を与えるような存在だったエナ(国立行政学院)が、その「実家力」を活かしてグランゼコールの〈界〉全体に君臨するようになり、高等師範学校を教授や知識人を再生産するだけの学校に格下げした、なんていうあたりは全く知らなかったので新鮮でした。こうしたエナのエリート主義は批判され、2019年にマクロンはエナを廃止します。

 なぜ、問題かというと、経済資本継承者にも学歴が求められてグランゼコールに入ることが求められるようになり、最初は裏口だったにせよ、そうしたブルジョワ子息のエナ(国立行政学院)卒業者数が増えていくと、家柄の良い既得権者が、国家の枢要な位置にテクノクラートとしてつくようになってしまった、と。

 例えば、テニスをやる姿がエレガントだったジスカールはエナ(国立行政院)出身で、中世以来の貴族エスタン家の出身だそうですが、こうして経済資本と学歴資本の両方を相続した「国家貴族」たちが支配階級の〈界〉を統一した、と。さすがにマクロンもエナを廃止するのも無理はないな、と。

 と、同時にこうしたことって、アメリカでもブッシュ一族やクリントン夫妻が大統領選にでずっぱりになったことに形は少し違えど対応しているのかな、と。そうなると、トランプ支持者は、こうした「国家貴族」への反発なのかも…などと考えてしまいました。

[15章 ルーマン]

 いよいよ最後はニコラス・ルーマンです。個人的なことですが、修論にルーマンの社会学を反映させたいと思ったこともあったものの、歯が立ちませんで、まったく触れることさえできませんでした。難しいんですよね…

 今回も社会学の学説史を読んできて、最後にルーマンでしめくくるという構成でもどこまで理解できたか分かりませんので、そんな時には箇条書きで…カッコ内は個人的な感想です。

・パーソンズが論じた人間と人間の「合意」や「共通価値」が社会を支えるというのではなく、ルーマンは人間を中心としない社会学を試みた(コミュニケーションそのものが支える?)

・コミュニケーションが社会システムで、その外にいる人間は環境

・パーソンズは社会システムにおける相互作用の中で、個人の選択が他者の選択に依存するのをダブルコンティンジェンシーとしていて、そうした自分と相手の行為の選択がお互いに依存し合う状態は「合意」で解決できるとしていますが、ルーマンは互いに時間をかけた手探りの中で収斂していくものだと言います。

・そうしたコミュニケーションでは互いを完全に理解できることは難しく、他者はブラックボックスのままですが、付き合っていくには十分な透明性があればよく、繰り返す時間が秩序を成立させる。しかし「信頼は、過去から入手しうる情報を過剰利用して将来を規定するというリスク」なので、未来は予想できない、と。

・つまり、社会システムはコミュニケーションからなり、それが行為へと単純化して帰属されることで操作可能になる。コミュニケーションは単なる伝達の営みではなく、コミュニケーションそのものが社会システムの要素。個人が行為するのではなくコミュニケーションが接続することで社会システムは生成される(ここでもウィトゲンシュタインの言語論を思い出してしまいます)。

 以下はそうした中でも進行する格差拡大についての説明。

・近代社会では様々な機能が分化され、重要な機能は分化した機能システムの中のみで満たされるようになる。

・例えば環境問題が全ての問題の中で一番の喫緊の課題だとしても、個々の機能システムの中でしか問題は処理されず、社会全体の操舵中枢はない。

・各システムはそれぞれの機能について高度なパフォーマンスを示すように進歩するが、環境問題のように個々のシステムでは統制できない大きな問題による変動が突き付けられると、システム間に過剰共鳴が引き起こされず、小さな刺激によって崩壊するかもしれない。

・キリスト教化されたローマでは、異端者は破門=コミュニケーションから排除され、帝国の外部に広がる居住不可能な荒地に追放されました。今日の社会でも、ひとつの機能システムに関与できないと、他の多くのシステムからは排除される。排除は包摂よりも強い結合をもたらすので下層はより強く統合され、全体としては上層の包摂によって社会は統合されていた。

・包摂領域において人間は人として扱われるが、いったんでも小さな機能システムから排除されると、単なる身体として放置されることになる。全ての人間を人間として包摂していた機能分化した社会において、各機能システムに関与できないと事態が連鎖し、排除されてしまう。

・王や貴族など少数者の意思で動かされていた社会では、問題を名指し批判できるが、革命と民主化によって市民が個々の意思で行動できる社会になると、それを誰も制御できなくなる。

【目次】
講義再開にあたって――中間考察
第9章 シュッツとガーフィンケル――他者という謎
第10章 アーヴィング・ゴフマン――日常という謎
第11章 ミシェル・フーコー――権力という謎
第12章 ジェンダーと社会学――性という謎
第13章 周辺からの社会学――世界という謎
第14章 ピエール・ブルデュー――階級という謎
第15章 ニクラス・ルーマン――ふたたび,社会という謎

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『社会学の新地平 ウェーバーからルーマンへ』佐藤俊樹

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『社会学の新地平 ウェーバーからルーマンへ』佐藤俊樹、岩波新書

 ジムでエアロバイクを漕ぎながらAudibleで聴きました。『社会学の歴史II』奥村隆、有斐閣アルマが難航していて、特に最後のルーマンは本当に難しいな、と思ったので、その理解の助けになればいいな、と。

 分量的にはウェーバー:ルーマン=8:2ぐらいな感じですかね。あとがきで、ルーマンの社会学についての入門書を、という岩波からの依頼に対して著者がウェーバーからの流れで書きたいと逆提案して書かれたとしていますが、もう少しルーマンの比重を重くしてほしかったと思いますが、それは次のルーマンに関する著書に期待します。

 ぼくも著者が批判する大塚久雄訳で読んだのですが、プロテスタントの禁欲的職業倫理が資本主義のエ-トスとして重要とされてきたものの、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)』でも「資本主義の精神」が何かを明確にはできておらず、資本主義的会社の組織、意志決定システムの重要性を指摘し、その問題意識がルーマンの社会システム論に継承された、みたいな流れでしょうか。

 ウェーバーがプロ倫で参考にしたのは叔父の繊維会社「ウェーバー&カンパニー」で、中興の祖となるカール・D・ウェーバーは大量の外国製品に押され、存亡の危機に陥ったビーレフェルトの繊維産業を守り、発展させた人物であることが強調されています。よく考えてみれば「ウェーバー」という姓もドイツ語で「織り手」を意味しているんすもんね…(にしても、今の米国による中国のデカップリングも同じような洪水的輸出の対抗に起因しているのかも)。

 とにかくウェーバーが資本主義の精神の事例としていた十九世紀半ばのウェーバー&カンパニーの組織形態は個々の労働者が自ら判断していく自律分散型ネットワーク組織で、そこでは信者が行動を自ら決定する自由が義務化されるというプロテスタントの禁欲倫理が自律分散型ネットワーク組織に適合していた、みたいな。

 そこで発揮された資本主義の精神とは「自由な労働の合理的組織」で、それによって産業資本的企業は「水平的協働が可能な自由な労働の合理的組織」になっていった、と。そうやって、生産と流通のプロセスを直接管理することで、より高品質の製品をより安く供給しる仕組みをつくり、「得られた利益の多くを再投資して企業規模を拡大し、さらに厳しい競争にも耐えられるようにした」と。

 「プロテスタンティズムの倫理」はカルヴァン派の予定説を想定していますが、著者が戯画的に書いている「天国株式会社の永久見習い社員」のような生活態度は必ずしも資本主義の精神に不可欠なものではない、とも指摘しています。

 イスラム経済や中国経済が近代資本主義を生み出せなかったのは西欧のように法人組織を生み出せなかったからで「プロテスタンティズムの倫理」がなかったからではない、と(もっともイスラムはそもそも法人を認めませんがw)。

 さて…。

 社会を一定の価値観を共有・内面化した人びとの集まりと考えて、その人びとの行為のネットワークをシステムとして捉えることから社会のメカニズムを分析しようというのがーソンズの社会システム論だと思います。

 ルーマンが自己産出系論(オートポイエティック・システム)の考え方を導入したシステムとは、複数の要素が互いに相手の同一性を保持するための前提を供給し、相互に依存し合うことで形成されるループであり、システムは自己の内と外を区分(境界維持)することで自己を維持する、みたいな。

 個人的にはルーマンは本当に難しく、人間の共通価値が社会を支えるのではなくコミュニケーションが成立することが「社会」であり、そうした機能は代替可能であることだけが求められる、それをとりあえず信頼することで社会は成り立っているみたいなところは凄いな、と思っています。

 著者はAI化も組織無しにはありえないとしていますが、次のルーマンに関する本が楽しみです。

 以下の引用は印象に残りました。

 《優れた社会科学者は経験的な事態を親察するなかで「何か」を見つけ出す。むしろそういう資質と能力をもった人間が、優れた社会科学者になれる。ただ、そこで何を見出したのかは、本人にもはっきりとはわからない。わからないまま、既存の術語や喩えに抗いながら、その「何か」を少しずつ言葉にして論文を書いていく。社会科学というのは、そういう思考と表現の作業である。
ウェーバーもそうやって考えていったのだと思う。亡くなる直前の倫理論文でも、「資本主義の精神」とは何かを明確には示せなかったが、十分な手がかりは残してくれた。その後の経営学や社会学の組織研究、さらにそれらを理論化したルーマンの組織システム論をふまえていえば、「資本主義の精神」とは、決めなければならない自由を生きることであり、それが水平的な協働ができるような形に自分や他人の働き方を組織することにもなった》(p.249)

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『自分を傷つけずにはいられない』と『叫びとささやき』

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『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』松本俊彦、講談社

 『身近な薬物のはなし タバコ・カフェイン・酒・くすり』が面白かったので、松本俊彦さんの『自分を傷つけずにはいられない』をいつものように、ジムの有酸素運動の間にAudibleで聴きました。

 正直、自傷行為はあまり理解できなかったんですが、自傷は「心の痛み」に対する「鎮痛薬」として機能し、安堵感をもたらす、という説明でなるほどな、と。それは脳内麻薬が分泌されるからだ、と。

 あと、自傷は周りをコントロールするためにやる場合もある、みたいなところで、昔観たベルイマンの『叫びとささやき』で同じようなことをする場面の意味が初めて分かったような気がしたので少し書いてみます(念のため言っておきますが、自傷行為をするような人は「かまってちゃん」だと言いたいわけではありません…)。

 『叫びとささやき』は日比谷みゆき座のロードショーで観ました。ベルイマン作品をロードショーで観たのは初めてだったかな。新春第二弾の封切だったらしく、それを考えると中学生の時でした。

 映画の中心はイングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルソン、リヴ・ウルマンが演じる三姉妹のカーリン、アグネス、マリア。

 女中アンナと今も真っ赤な装飾の屋敷に暮らす次女アグネスは未婚で末期ガン。それを看取るために姉カーリンと妹マリアが屋敷を訪れ、アグネスの葬儀が終わり、残ったカーリンとマリアと女中アンナが別れていくまでを描きます。

 で、当時、どうしてもわかんなかった場面があったんですよね(その場面だけじゃなかったけどw)。

 長女カーリンは歳の離れた外交官と結婚していたんですが、食事を終えると夫が口にするのは「もう遅いからベッドに入ろう」という強蔵の台詞。そんな関係に悩んでいたカーリンは割れたグラスの破片で大事なところを傷つけ、夫ににそれを見せるというシーンがありました。で、松本先生によると、自傷は周りをコントロールするためにやる場合もあるという説明で、あれはそうした段階のことだったのかな、と。

 松本先生によると自傷経験者は、人生の早い時期から問題を抱えている場合が多いそうで、もし自傷を告白された場合は肯定的に評価し、冷静に対応することが重要としていますが、あの外交官の夫にそんなことができるか不安ですし、自傷にはアディクションの側面もあるということなので、イングリッド・チューリンのことが心配になってきます。

『叫びとささやき』はスウェーデン語の原題"Viskninger Och Rop"も「叫びとささやき」なんですが、自傷行為も「叫びとささやき」なのかもしれません。

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April 29, 2025

『舞台が幕を開けるまで 演劇のつくり方、教えます』おーちようこ

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『舞台が幕を開けるまで 演劇のつくり方、教えます』おーちようこ、大修館書店

 読んでいて、本当に楽しかったし、演劇に関する理解がより深まりました。高校時代に文転してヤクザな社会科学の方向なんかに歩まず、もっと文系文系した演劇をやればよかったな…中学で映画を撮ったり、高校一年の前半では脚本・演出で芝居をかけたんだよな、とか詮方ない事を思いながら…まあ、なるようにしかならなかったでしょうがw

 この本を知ったのは著者紹介もかねた日経の書評欄の記事。《劇作家、演出家、プロデューサー、美術、衣裳、ヘアメーク、照明、音響……本書は16人へのインタビューを通じて、企画段階から脚本の決定、チケット販売、演出の具現化、稽古、そして初日の幕が開くまでの、それぞれの役割を紹介する〝舞台づくりの教科書〟》《一般にはイメージのしにくい職種に「制作」がある。取材窓口を担い、チラシや公式サイトの作成、チケット販売実数の管理など職務範囲は広く、責任は重い。本書がスポットライトを当てた女性は「すべて稽古場で起きていることが舞台になっていく」と考え、できるだけ長く稽古場に身を置く。「誰がどんな表情をしているのか? など現場の空気をどれだけ感じ取れているかが非常に大切」との矜持を持つ》なんていうのを読んで、即、購入。

 この制作の部分の話しは関根明日子さんですかね。チケットに関わる業務全般を「票券」といいますが、大きな制作会社は企画、キャスティング、票券、宣伝などの部署に分かれているといいます。そして、芸術とお金をすりあわせることでクオリティや舞台に関わる人の士気に関わるとか、なるほどな、と。

 舞台制作ということとは直接、関係ないけど、人を動かして舞台も含めて何かをつくろうという時の今の世相についての鴻上尚史さんのインタビューが印象的でした。

 《昭和の時代に紅白歌合戦の視聴率が70%を超えている時代は、なんとなくみんな同じだと思われて、言わなくても分かるよねというモラルを守ることで社会が成立していたと思うんです》《でも、今は、モラルではなくルールを学ぶ必要が出てきた。だって、多様性の時代ってことは、みんなが違ってきている》《言わなくてもモラル、分かるよね、っていう時代じゃなくなった》(p.18)

 このほか、知ったことは

・脚本は1分間に300~400文字の台詞量
・舞台監督は建て込みの手順に合わせて大道具の搬入、証明さん、音響さんが機材を入れる時間に合わせて、どこへトラックを向かわせて積み込み作業をすればいいのかも段取りする
・だいたい仕切っているのは舞台監督
・俳優座は閉館したけど、大道具をつくる俳優座舞台は健在というか、第一人者
・商業演劇だと衣装だけで100人が関わる
・衣装の部分がひとつ取れて奈落に落ちても舞台機構がおかしくなることをアタマにいれてつくらなくてはならない
・衣装付稽古という稽古がある
・立ち稽古は「ミザンス」
・男子校は夕暮れ時に静かになる
・BGMは夏と冬で聞こえる音量が違う
・大きくなっていく劇団は、劇団員の将来を考えている

 それにしても小劇場は一週間単位の貸借りとは…。月曜日に大道具を入れて火曜日までに組み立てて、照明の当たり具合を確かめて、水曜にゲネプロと初日、日曜日に千穐楽というスケジュールなのか、と(宝塚は大したもんです)。

 最後に…ぼくは、新しい職種の話しが出ると、よくぺりかん社のシリーズ「なるにはBooks」を読むんです。「なるにはBooks」は中高生向けにゲームやアニメ業界で働くにはどうしたらいいのかを、それぞれの職種のプロの人たちにインタビューしてまとめている本なんですが、舞台を含めてこうしたのは、やっぱインタビューをまとめると分かりやすいな、と改めて思いました。

【目次】

まえがき

絵で見る「舞台が幕を開けるまで」

★インタビュー

鴻上尚史(作家・演出家) 相手の心を想像する心を育てる、それが演劇のすごさ

[1]公演の企画  企画を立案する

★インタビュー

岡村俊一(プロデューサー) 主演は決める、のではなく、決まるもの

早乙女太一(劇団座長) 昔の大衆に向けた演劇を、今の大衆に向けた演劇へ

[2]脚本・演出の決定

オリジナルの脚本を書く、あるいは原作から上演台本を書く

出演者と役を決める

脚本をもとに演出のプランを立てる

★インタビュー

中島かずき(脚本家) 僕は例えるなら「注文住宅」なんです でも予想外の家を建てることが楽しい

石丸さち子(演出家) 演劇とは見知らぬ誰かと出会うこと

[3]公演の宣伝・チケット販売

宣伝材料/パブリシティを作成し、広く告知するために

チケットを販売するために

★インタビュー

関根明日子(制作) 稽古場で起きていることが舞台になる

[4]演出計画の実現

作品世界にそった舞台美術の計画を立て、形にする

衣装を借りる、あるいは作る

作品世界に沿ったヘアメイクを考える

★インタビュー

小林奈月(舞台美術家) 演出家が想像するその先へ

金安凌平(舞台監督) 「それはできない」と言いたくない

藤江修平(大道具製作) 舞台を通して人の心を豊かにする

黒澤花如(大道具製作) ひとつとして同じことがない仕事です

及川千春(舞台衣裳家) 衣裳が彩る世界観で作品によりそいたい

伊藤こず恵(ヘアメイク) このヘアメイクで役になれた、その言葉がうれしい

[5]稽古開始

稽古する

照明プランを考える

音をつくる

★インタビュー

一色洋平(俳優) 舞台と客席にある透明な壁を破る、それが役者のおもしろさ

松本大介(舞台照明家) 照明は角度と高さの芸術です

佐藤こうじ(舞台音響家) その音は、いつ、どこで、誰のために鳴るのか

[6]小屋入りから初日へ

建て込みをする

場当たり・ゲネプロをする

本番中

千穐楽を迎えて

★インタビュー

本多愼一郎(劇場支配人) 劇場は真っ白であるべきです

あとがき

演劇キーワード索引

【Column】

演劇を続けるために、「劇団」という形があります

インティマシー・コーディネーターの導入やハラスメント防止ガイドラインの公開も

制作は公演の最初から最後まですべてを支えるプロフェッショナル

舞台が事故なく怪我なく進むようすべてのチームをつなぐ要、それが舞台監督だ

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『はじめての構造主義』橋爪大三郎

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『はじめての構造主義』橋爪大三郎、講談社新書

 1988年というレヴィ・ストロースの主著もまだ翻訳されていない時期に、レヴィ・ストロースの仕事にフォーカスしながら構造主義を西洋哲学史の中で説明しようとした本です。

 なんで、今さら「読んだ」のかというと、ジムで聴くAudibleを探していて、面白そうなのがなくて、「ま、橋爪さんの構造主義の本ならいいか」と選んだから。あと、スマホのAudibleの検索では出版年数とか出てこない場合があって…。でも、ま、改めて復習も出来たし、アルチュセール、フーコー、バルトなど、随分この手の本は読んできたな、と懐かしかったです。

 この本の特長といえば、近代西欧哲学の流れの中で、構造主義がどういう意味を持っか、みたいなことを書いているところなんですかね。デカルトは知覚の基礎に自己を置いたのですが、バラバラな近代の個々人が理性的に追求した先にも真理があるとした近代市民社会の価値観に合致したカントの後、モノの見方としての西洋絵画における遠近法、証明の基礎となるユークリッド幾何学が解体されるなかで知への不信感が高まる、と。いったん歴史の進歩というマルクス主義というドグマに収斂されるものの、ソ連などの明らかな失敗からまた不信感が蔓延したところに、将来の歴史は見通せないものの人間は生き方を自分で決める自由と責任があるのだから現存在を歴史に投げだそうと実存主義がすくい上げた、みたいな流れの果てに構造主義を置いたこと。

 レヴィ・ストロースが分析した親族の基本構造や神話の構造、あるいはそもそも言語の構造などに現れる構造に人間は支配されているんだから、価値とかはありないわけで、まず、そうした構造こそを解き明かすことから始めよう、みたいな。だいたい、女系の交差イトコ 婚で一族の輪を広げるなんていう、高等数学がやっと解き明かせるような仕組みを、西洋が「未開」としてきた人たちが「野生の仕事」でやってきたんだし、と。

 面白かったのはジュリア・クリステヴァを含めた構造主義のグループと数学のブルバキ集団とのつながり。どっかの本で(レヴィ=ストロース『遠近の回想』?)シモーヌ・ヴェイユはフランスに亡命していたトロツキーとバカンスに訪れた地で会っているみたいなのを読んだ時「勝てねぇ…」と思ったんですが、構造主義グループとブルバキ集団にもつながりがあるなんて、もっと「勝てねぇな…」と。

 レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』を「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」と締めくくっていますが、そんなのも思い出しました。

【目次】
●『悲しき熱帯』の衝撃
●天才ソシュール
●レヴィ=ストロースのひらめき
●インセスト・タブーの謎
●親族の基本構造
●神話学と、テキストの解体
●構造主義のルーツは数学
●変換群と〈構造〉
●主体が消える
●構造主義に関わる人びと:ブックガイド風に
●これからどうする・傾向と対策

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April 26, 2025

『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』内貴健太

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『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』内貴健太、風媒社

 小牧・長久手の戦いのハイライト、池田恒興、森長可らの三河中入り軍を家康軍が破ったのは4月でしたが、外出するときにカバンに入れて読んでいた『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』をそろそろ紹介します。

 花粉の季節で目が効かず、集中力もない中、移動中の無聊をなぐさめてくれました。いつか、春の季節にこの本を片手に羽黒城から小牧山城、長久手城あたりを歩いてみたいと思います。

 日本史は(も)素人なので羽黒城が梶原景時の孫・影親が、一族を滅ぼされた後、頼朝の愛馬「麿墨(するすみ)」を伴って落ちのびた先に築かれたというのは知らず、本当に驚きました。羽黒城はその子孫の景義が信長に仕えて三千石の領主となった時まで居城だったとのこと。しかも、その景義は本能寺の変で殉死したとは(p.57)。

 大留城もぜひ訪ねてみたい城です。大留城は足利義輝配下の村瀬氏が築城したとされ、合戦当時は信雄・家康側のつくのが筋だったが、池田恒興らの大軍を前に受け入れます。しかし、裏では小牧山にいる家康に三河中入り軍の行軍状況を報告、正確な状況把握に協力したとのこと。城跡碑しかないとのことですが、どこか詰めの甘い池田恒興、大軍相手に玉砕するのではなく、裏で敵方にも通じるという当時の武士のあり方、それを活用する家康の度量とか、いろんなものを感じることができそう(p.91)。

 長久手の戦いで敗走した池田・森軍の兵士が落ちのびたのは大草城。家康は大草城の攻撃を命じますが、秀吉の大軍が接近しているとの報告を受けて攻撃を中断。小幡城に引上げます。家康が攻略できなかったということで、徳川家によって大草城の跡は抹消されたかのように残っていないとのことですが、籠城していた侍大将たちは大草村で帰農したとのことで、なんとなくホッとさせられます(p.103)。

 池田・森軍が敗北したのは信雄に従っていた丹羽氏重が守る岩崎城を攻め落としたものの、首実検をしながら食事をとっていた最中に秀次敗走の知らせを聞き、あわてて長久手へ引き返したことにあるといいます。氏重が池田・森軍による城攻めで時間を稼がなければ、家康はたとえ池田・森軍を打ち負かせたとしても、追ってきた秀吉に追いつかれて粉砕させられていた可能性があり、家康は氏重こそ武功一番であると称えた資料もあるそうです。そうしたことから空堀を含めて良好な状態で残っているとのこと(p.135-)。大草城との対比は、まさに歴史は勝者によって書かれるし、残されるんだな、と。

 長久手の戦いの後、秀吉は信雄の本拠地に近い蟹江城を奪うことで信雄と家康の連絡船を分断しようとします。調略によって蟹江城に入った滝川一益は、家康が総動員した諸将を前に二週間足らずで城を明け渡し、怒った秀吉によって追放されます。江戸前期に書かれた『老人雑話』の《賤ヶ岳の戦いは太閤一代の勝事、蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり》という言葉がうなずけます(p.173)。

 小牧・長久手の戦いは、そのダイナミックさ、残されたエピソードの豊富さを考えると、本当に天下分け目の戦いだったんだな、と改めて感じます。

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April 23, 2025

『身近な薬物のはなし タバコ・カフェイン・酒・くすり』松本俊彦

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『身近な薬物のはなし タバコ・カフェイン・酒・くすり』松本俊彦、岩波書店

 

 松本さんが話題になったのはストロング系のチューハイの危険性とアルコールと自殺の関係性を説いたからではないかと思うのですが、「ほぼ日」で糸井さんが褒めて、シンポジウムなんかも開いたということで、読んでみよう、と思った本です。

 

  目次が素晴らしく、こうした本を読んだことのある方なら、目次だけを読んでも、大まかな流れを掴めると思います。

 

 著者の伝えたい最も重要なメッセージは人類に最も大きな健康被害をもたらしている薬物はアルコール、タバコ、カフェインがビッグスリーで、それほど深刻な問題をもたらしていないにもかかわらず、厳しい規制の対象とされてきたのがアヘン(オピオイド類)、大麻、コカのリトルスリーだ、ということだと思います。

 

 近代以降の世界では《コーヒーや茶、カカオ(チョコレート) に砂糖を添加することによってカフェインの消費量は増えますし、タバコはカフェインの代謝を早めるので、これもまたカフェインの消費を促進します。そして、カフェインの摂り過ぎで興奮した脳を冷却して眠りにつくには、大量のアルコールが必要となり、さらに翌朝、二日酔いのぼんやりした脳を覚醒させるためにカフェインが必要となる……。まさに「濡れ手に粟」のアディクション・ビジネス》(k.158kkindle番号)が展開されることになった、と。

 

 それにしても思うのは、アメリカはいつも極端から極端に世論が振れるな、ということ。米国民は建国以来、ラム酒やウィスキーで日がな一日酩酊するという自由を謳歌していたのですが、ドイツ憎しの機運が高まった第一次世界大戦では、当初のビール禁止から禁酒法まで行ってしまったそうです。そして、大恐慌に際して政府支出を増やそうにも酒税収入が途切れて有効手段が打てずに、そうした状況はルーズヴェルトがニューディールやるために禁酒法を撤廃するまで続いた、と。

 

 ロシアはイワン雷帝がウォッカの酒税を収入の柱にしたため浴びるように飲む習慣が蔓延。それを嘆いたニコライ二世は禁酒法を施行したが、やはり税収不足に見舞われてロシア革命を引き起こしてしまうあたりは、アルコールと政治の関わりの深さを思い知りました。ちなみに、レーニンは過度な飲酒癖を持つものをボルシェビキに入れなかったが、それを解禁したのはアル中のスターリン、みたいな感じらしいです。

 

 こうしてみると日本の国税庁がビール会社の発泡酒に執拗な攻撃を仕掛けたわけがわかりました。酒税が絶たれると国が揺らぐことを知っているんだな、アイツら、とw

 

 医療用麻薬フェンタニルはヘロインの数十倍も強力なオピオイド(アヘン)で健康被害は爆発的に拡大していますが、米国が最初にオピオイド危機を体験するのは南北戦争。《自身もモルヒネ依存症に陥った元南軍兵士にして薬剤師ジョン・ペンバートン(一八三一~八八) が、自身と人々をモルヒネ漬けの生活から脱却させるべく、様々な香辛料とともにコカインを混ぜて開発した薬用飲料が、コカ・コーラの始まり》(k.211)というのは知らなかったです。

 

 第三章はアルコール禁止の難しさだったんですけど、日本でもコロナ禍で菅政権が飲食店でのアルコール販売自粛を打ち出して、内閣支持率が激減して交代させられたのを思い出します。まさにアルコール規制は為政者の失脚を招くな、とw

 

 市販薬の過剰摂取について書かれた7章は衝撃的でした。

 

なぜ若年層、特に女性に市販薬の過剰摂取が起こっているのか?

ドラッグストアが毎年、10001500軒ずつ増えて市販薬にアクセスしやすくなったから

なぜドラッグストアがこれだけ増えても潰れないのか?

薬九層倍で利益率が高く、コンビニでも売っているような生活用品をより安く販売でき、客を集め、安いコスメも売って若い女性を来店させるようにしているから

さらに政府は医療保険の増加を防ぐため、市販薬の購入を推奨し、ドラッグストアなどで殆どの薬(95%)を薬剤師なしで販売できるようにして、税金も控除するようになったから

 

 という「物語」は怖い。

 

 喫煙者を徹底的に糾弾する正義の禁煙ファシズムは、そもそも健康志向がファシズムなど富国強兵から始まったから、狂気のようになる、みたいなあたりも面白かった。

 

 哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスも政務の苛立ちを日々アヘンによって鎮めていたといわれているそうですが、著者の結論は以下の3点です(k.3897-)。

 

・第一に、 薬物の違法/合法は医学的にではなく、政治的に決定される、ということ

・第二に、「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは「よい使い方」と「悪い使い方」だけ、ということ

k.3911

・最後に、「悪い使い方」をする人は何か別に困りごとを抱えている、ということ

 

[目次]

 

第1章 本当に有害な薬物とは?

 最大規模の害を引き起こす薬物

 嗜好品と文化

 薬物文化のグローバル化と「サイコアクティブ革命」

 米国が体験した二つのオピオイド危機

 わが国の医薬品乱用・依存

 医薬品乱用の背景にあるもの

 

第2章 アルコール(1) ストロング系チューハイというモンスタードリンク

 ストロング系チューハイへの警鐘

 ストロング系とは?

 なぜストロング系は危ないのか?

 なぜストロング系は愛されるのか?

 アルコールによる健康被害

 アルコールによる他者・社会への害

 

第3章 アルコール(2) 人類とアルコールとの戦い

 理性を曇らせる飲み物

 ジンとの戦い――ジン・クレイズとジン規制

 米国におけるアルコール規制

 他の国々におけるアルコール規制

 なぜアルコール規制はむずかしいのか

 

第4章 アルコール(3) 人間はなぜ酒を飲むのか?

 生き延びるためのアルコール

 アルコールのために集い、つながる人々

 なぜ一部の人は飲みすぎるのか?

 アルコール問題の背後にあるもの

 

第5章 カフェイン(1) 毒にして養生薬、そして媚薬

 「不自然」なドラッグ

 不思議と非難されない依存性薬物

 カフェインの薬理学

 エナジードリンクをめぐる問題

 毒にして養生薬

 媚薬としてのカフェイン

 

第6章 カフェイン(2) 人類とカフェインの歴史

 ヨーロッパに「近代」をもたらした薬物

 カフェインの起源と人類との出会い

 カフェインに対する社会の反応

 カフェインが引き起こした悲劇

 人が集える場所をつくる薬物

 

第7章 市販薬 セルフメディケーションは国民の健康を増進したか?

 市販薬乱用・依存の現状

 なぜ若者たちは市販薬にアクセスするようになったのか?

 市販薬は本当に安全なのか?

 「濫用等のおそれのある医薬品」指定をめぐる諸問題

 「モノ」の管理・規制だけでなく、痛みを抱える「ヒト」の支援も!

 「ダメ。ゼッタイ。」はもうおしまいにしよう

 

第8章 処方薬 医療へのアクセス向上が作り出す依存症

 「選択的に」忘れられる薬害

 睡眠薬・抗不安薬依存症とは?

 睡眠薬・抗不安薬依存症の周辺

 なぜベンゾ類はかくも問題となったのか

 対策の功罪と精神科医療の課題

 本当に解決すべきなのは「不安」なのか?

 

第9章 タバコ(1) 二大陸をつないだ異教徒の神器

 近年とみに立場が悪くなっている薬物

 タバコとは――その薬理作用と有害性、依存性

 タバコの起源と文化的意義

 タバコへの弾圧と抵抗

 タバコ嫌悪に底流する差別意識

 

10章 タバコ(2) 社会を分断するドープ・スティック

 人を怠惰な馬鹿にする薬物?

 社会システムによるタバコ依存症の拡大

 タバコの衰退

 健康ファシズムの暴走なのか?

 公衆衛生政策は現代の「異端審問官」なのか?

 

11章 「よい薬物」と「悪い薬物」は何が違うのか?

 「ビッグスリー」と「リトルスリー」

 薬物を使う人類

 「身近な薬物」と「身近ではない薬物」の違いとは?

 なぜ大麻は違法化されたのか?

 国際的潮流の大転換

 「よい薬物」も「悪い薬物」もない

 

 あとがき

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