『睡眠の起源』金谷啓之と『知覚の現象学』
『睡眠の起源』金谷啓之、講談社現代新書
ヒドラと人類の分類は6億年も前で、脳を持たないのにヒドラも「眠る」そうです。植物であるオジギソウでも睡眠に似た状態があり、オジギソウに麻酔薬を作用させるとお辞儀をしなくなるように、植物にも麻酔が効くみたいな驚きが本書から得られます。となると、睡眠を司る器官は脳に限定されるものではないという考え方が可能です。睡眠に関与する遺伝子がショウジョウバエや哺乳類でも同様に作用することも証明され、睡眠の仕組みが脳だけでなく、筋肉や腸といった末梢神経にも関わることが示唆されています。
『睡眠の起源』は、睡眠を脳の副産物ではなく、身体そのものの根源的なあり方として捉え直す契機を与えてくれました。ここでは、その視点をメルロ=ポンティの『知覚の現象学』と重ね合わせることで、「睡眠=意識以前の身体的地平」という読みを提示してみしたいと思います。
ちなみにヒドラはマウスなどの哺乳類に求められるような倫理的ケアが必要ないとのこと。なぜなら脳がないから。それでも眠る、と。
睡眠と覚醒は表裏一体にあって、この中の鳥の研究でも示されていたように眠らない個体の方が子孫を守れたり、多く繁栄できたりする、みたいな例もしめされています。ヒドラさえ眠るなら、睡眠が通常で、覚醒が得たものではないかという考えが興味深かったです。あるいは、睡眠とは覚醒時に溜まったものを解消する行為、という考え方も。
そこから睡眠の起源とはなにか、そもそも意識はどこからくるのかという疑問から、実は運動が意識を形成するという哲学的な考え方が再評価されているという流れの中でメルロー=ポンティの『知覚の現象学』が見直されているというところに感動したので、「意識はいつ生まれるのか」という問題を復習してみようと思います。四十年前、『知覚の現象学』竹内芳郎、小木芳孝、みすず書房は学部の頃、ただガリガリと読んだんですが、改めて読んでみました。金谷さんの議論は新書という形態も含めて科学的記述が中心ですが、それは同時に「意識は脳の中に局在するものではない」という哲学的含意を持っていると感じました。そして、この含意を最も鋭く言語化してきたのが、『睡眠の起源』でも言及されているメルロ=ポンティです。
「睡眠こそがデフォルトであり、覚醒(意識)は運動のために獲得された付随的な状態である」という逆転の発想は、メルロ=ポンティの意識とは「われ能う」という命題と共鳴していると感じます。ヒドラのような原始的な生物でも、外界の刺激に対して「逃げる」「捕らえる」という運動を必要とします。運動をするためには、「自分の体」と「それ以外の世界」を区別しなければなりません。メルロ=ポンティが言う「意識とは『われ能う』である」という言葉を、『睡眠の起源』に即して解釈すれば、動く必要が生じた瞬間に、生物は世界を意味ある対象として知覚し、意識が点灯するということになります。つまり、動かない植物には(我々の知るような)意識は不要ですが、動く動物はターゲットへ向かうために「ここではないどこか」を志向しなければならなず、その志向性こそが意識の芽生えなのかな、と。
メルロ=ポンティは『知覚の現象学』で知覚の現象学的構造を明らかにしようとした、と言われています。中心的なテーゼは「知覚の優位性」。彼はデカルトの「我思う、我あり」という心身二元論を否定し、意識の本質が肉体とどのように結びついているかについて、意識の道具的側面と、肉体への内臓的な居住を強調する議論を展開しています。感覚は直接的で自明であるように思えますが、実際には混乱しており、代わりに中心的な位置を占めるのは身体だ、と。ヘーゲルの「主人と奴隷」のように、労働する奴隷が真の主体性を獲得する一方で、享受する主人こそが他者に依存する存在となり、実は身体が意識を決定する、と。つまり、意識(主人)が身体(奴隷)を支配しているようでいて、実は身体がなければ意識は何もできないのかもしれません。
メルロ=ポンティの「運動が意識を生む」あるいは「運動こそが世界の意味を構成する主体である」という考え方は『知覚の現象学』で主に第1部「身体」のIII「自己の身体の空間性、および運動性」の節で展開されています。
最初に強調されるのは身体図式の重要性。
《〈身体図式〉とは、私の身体が世界内存在である〔世界にぞくする〕ことを表現するための一つの仕方》だ、と(p.176)。
《もし身体空間と外面的空間とは一つの実践的体系を形成しており、そのうち前者はわれわれの行動の目的として対象がその上に浮き出して来ることのできるための地、もしくはそれがその前に現出して来ることのできるための空虚だとするならば、あきらかに行動のなかでこそ身体の空間性は完成されるのであり、自己の運動の分析によって、身体の空間性もよりよく了解することができるようになるはずである。身体を運動において考察することによって、身体がどのように空間のなかに(のみならず時間のなかに)住まうかもよりよく解るのであって、それというのも、運動というものは、空間と時間とを単に身に蒙るだけでは満足せず、それらをみずから進んで身に引き受けるものだからであり、空間と時間とを、既成の状況の平板さのなかでは消え失せているその根源的意味のなかで把え直すものだからである。そこでわれわれとしては、身体と空間との根本的諸関係をあらわに見せるような病的な運動性の一症例をつぎにとり上げて、それをじっくり分析してみたいものだと思っている》(p.179)。
こうした視点から考えると睡眠は身体図式の再構築の時間と位置づけられるかもしれせん。つまり、日中の運動によって摩耗・混乱した「身体と世界の境界線(身体図式)」を、一度入力を遮断して(睡眠)整え直す作業であり、メルロ=ポンティの考え方からすれば、覚醒(運動/意識)が「図」であり、睡眠がそれを支える「地」となるかもしれません。「地」が安定していなければ、「図」は鮮明に描き出せませんから。
《私の身体全体も、私にとっては、空間中に配置された諸器官の寄せ集めではない。私は私の身体を、分割のきかぬ一つの所有のなかで保有し、私が私の手足の一つ一つの位置を知るのも、それらを全部包み込んでいる一つの身体図式(schema corporel)によってである》(p.172)。
ヒドラには脳がありませんが、網状神経系があります。メルロ=ポンティは身体を「触れるもの」であると同時に「触れられるもの」でもあるという両義性でも語っていると思います。そうなるとヒドラの睡眠は能動的に世界に働きかける運動をやめ、世界の中に完全に浸りきる受動状態として捉え直すことが可能かもしれません。
最初の方にも触れた通り、金谷啓之さんは『睡眠の起源』の中で脳がないからヒドラの実験には倫理的ケアが不要とやや疑問をいだきつつ書いていますが、こう考えると、脳以前の身体そのものが持つ根源的な生という哲学的な深みのある議論をしようとしているのかもしれません。金谷さんが明らかにしたヒドラが眠るという事実は、倫理とは脳を持つ主体にのみ向けられるべきものなのかという問いも、私たちに静かに突きつけているのかもしれません。
身体図式(schema corporel)とは意識せずに身体の各部位の位置や関係性を把握し、無意識下で身体の動きを調整する「身体の内部モデル」のことで、身体のイメージや自己の身体感覚を指し、運動、知覚、自己認識の基盤となる概念です。
さらに付け加えるとメルロ=ポンティは「志向的弧」(仏: arc intentionnel、英: intentional arc)という考えも示しています。これは心身二元論を批判し、身体が世界と関わり、行為し、知覚する能力を説明するための中心的な概念であり、身体図式とも深く関連しています。これによって身体図式が単なる静的な身体の配置図ではなく、世界の中で可能な行為のシステムとして動的に機能することを可能にしています。
具体的には意識的な思考とは異なり、身体レベルでの「機能する志向性」や「潜在的志向性」によって私たちが意識せずとも環境に適応し、効率的に行動できる、と。
《それはもはや経験の経過で確立された諸連合の単なる結果ではなくて、相互感覚的世界における私の姿勢について包括的な意識、ゲシュタルト心理学の意味における一つの〈形態〉だ、ということになろう》(p.174)。
《意識とは一つの投射活動であって、諸対象を自分自身の行為の痕跡として自分のまわりに投下するが、また逆にそれらの諸対象を支えとして他の自発的諸行為と移行してくもの》(p.230)なので《人間は〈精神〉だから物を見るのだとも、人間は物を見るから〈精神〉だとも言うことはできない》のであり《意識が或る物についての意識であるのは己の背後に己れの航跡を残していく》。そして疾病によって分解された場合は《己の上部構造の土台の方は崩壊してしまったのにその上部構造だけをなをも維持しようとする〔病者における〕意識の努力なので》(p.231)あり、《意識とは、原初的には〈われ惟う〉ではなく〈われ能う〉である》(p.232)。
ヒドラは餌を捕らえる運動をすることで初めて、世界は「単なる空間」から「餌がある場所」へと意味化されます。脳のないヒドラにおいて、運動は純粋な反射に見えます。しかし、メルロ=ポンティに従えば、その運動の繰り返しが世界に意味の澱を溜めていくことになります。意識とは、最初からそこにあるスポットライトではなく、運動という船が進んだ後に残る『航跡』のようなものとして、後天的に、かつ身体的に立ち現れるのではないか、と。
金谷さんが指摘するように、筋肉や腸といった末梢が睡眠に関与している事実は、メルロ=ポンティの「身体図式」は脳内に閉じこもった計算機ではなく、全身の肉的なダイナミズムであることを裏付けています。睡眠中、私たちは「われ能う」という志向性を解除し、身体図式をメンテナンスすることで、翌朝再び世界を『意味あるもの』として構築し直す準備をしているのかもしれません。
運動は単なる位置の変化ではなく、身体が環境との間に結ぶ「対話」であり、人間が世界を理解できるのは、身体が運動を通じて常に世界へ自分を投げ出している(投企)からです。つまり、運動が止まれば、世界が持つ「意味」もまた崩壊する、と。
それにしても、かつて難しく抽象的な議論だと思っていたメルロ=ポンティの『知覚の現象学』が、四十年後の今、ヒドラの収縮運動という具体的な生物学として目の前に現れたのですから、本当に素晴らしい読書体験でした。
『睡眠の起源』は、睡眠を説明する本であると同時に、「意識とは何か」「身体とは何か」を問い返してくれます。ヒドラの眠りを通して、メルロ=ポンティが思索した〈われ能う〉以前の生の地平が、思いがけず現代科学の中から立ち上がってくる本書は、その驚きを改めて与えてくれる稀有な新書でした。






























































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