March 09, 2025

『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』佐々木太郎

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『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』佐々木太郎、中公新書

 『コミンテルン 国際共産主義運動とは何だったのか』は、おそらく、今年一番の読書体験になると思うので、少しずつ書いてきましたが、読了したのでまとめます。

 ぼくが中高生の頃、マルエンやレーニン、トロツキーに関する知識は、岩波や角川、国民文庫をガリガリと読むしかなく、マルクスに関しては哲学的なアプローチも後になって可能になる土台はつくることができましたが、レーニンに関しては鮮やかすぎる十月革命の手腕と、ロマノフ朝やスターリンとの対比で「良い人」というイメージが先行し、その後のネップ(新経済政策)に関しても苦渋の決断という印象でした(まわりに「どんな内容だった?」と聞こうとしても、マトモに読んでいる人は少なく、読んでいても基礎的な文献だけでした)。それは池田嘉郎さんの『革命ロシアの共和国とネイション』を読んでも変わらず、マルクスの手紙にコミューン主義の萌芽を感じるような、自分の若い時の間違いに多少の癒しと安らぎを与えてくれる阿片のような効果さえ感じます。

 それは当時のヨーロッパの世界史的な動きの全体像を得られるような本もなかったため、断片的な知識の寄せ集めで観念的に構築したイメージだったんだろうな、とこの本を読みながら改めて感じました。特に、1917年10月のロシア革命から21年3月のクロンシュタットでの反乱とドイツでの蜂起失敗まで3年半。あまりにも沢山のことが起き、かつ革命ロシアにとって不都合な事実はレーニンたちによって隠蔽されました。

第1章 孤立のなかで - 「ロシア化」するインターナショナル

 不都合な事実の中には根本的な認知不全の可能性さえあります。例えばレーニンは第2インターナショナルを全否定して第3インターナショナル(コミンテルン)の創設と、ロシア共産党支配を受け入れるよう求めますが、それはロシア共産党が革命のあまりにも鮮やかな勝利に酔いしれ、ヨーロッパ的な常識を持っていなかったからかもしれないのです。だいたい欧州のマルクス主義者は、資本主義の発達に対応して各国での議会を通した社会の改良運動になびいていったという流れをマルクス流の考えに染まりすぎていて理解できなかった可能性さえある、と。
 
 こうした西欧の情報格差に加え、革命後の白軍との戦いは、革命の可能性をどんどん狭めていったのかな、と。ボルシェビキは自分たちを支える都市部の労働者への依存を強め、強制的な食糧の徴用に抗議する農民への毒ガス使用まで手を染めていったのかな、とか。

 もちろん、ぼくはそんなに偉大ではありえませんが、レーニンと同じ立場だったら、同じような選択をせざるを得なかったかもしれないとも思います。ただ、後になって、それを金科玉条のようなものにしたのは圧倒的な間違いだったな、と。

 また、レーニンは国内政治では天才でしたが、すぐにでもドイツで革命が起こって援軍がかけつけるような外交的な判断ミスも犯しています。《そもそもレーニンが党内の反対を抑えて政権の獲得に踏み切ったのは、すぐにドイツでも蜂起が起こって友軍が駆けつけてくれるという期待があったからである。しかし、西からの友は来たらず、交戦諸国に訴えた無併合・無償金の講和の提案も無視され、ロシア領内でドイツ軍の攻勢は続いた。もはやドイツとの休戦交渉に臨むほか手はなくなり、一八年三月のブレスト=リトフスク条約締結に至る。こうして世界革命の展望が大きく揺らいだことで、まずは独力での革命政権の維持が喫緊の課題となった》(k.413)と。

 この本からは、時には大きな失敗も犯すレーニンを同時代的にみるという新しい客観的な視点を得られたかな、とも思います。

 あと、ソ連軍や中共の軍隊には必ず政治将校が加わるんですが、それは内戦が本格化する中で赤軍に旧帝国軍将校が大量に採用される中、軍を統制するために必要だったんだろうな、なんてことも考えました。

第2章 東方へのまなざし - アジア革命の黎明

 ウォーレン・ベイティの映画『REDS』を最初に観た時には見逃していたけど、友人たちの指摘によって再見した時に印象に残ったのは、ロシア革命後の内戦で列車で移動しながら赤軍への参加を呼びかけるジョン・リードに応えるように、ムスリムたちが銃を高々と上げるシーンでした。

 中高生のマルキストにはあまり視野に入らない問題でしたが、当時のPFLPなども過激なゲリラ組織という認識はあったものの、インターナショナリズムには関係づけられませんでした。

 しかし、よく考えるとムスリムはそもそも『コーラン』がインターナショナリズムを志向しています。さらに、トロツキーの亡命を認めたのも最初はトルコでしたし、ソ連の後半にはアンドロポフらが積極的に中東のパレスチナ人勢力を支援していました。

 というかムスリムたちは、『REDS』でも描かれていたように、ロシア革命直後の内戦期、自らの独立を勝ち取るために赤軍と協力してデニーキンら白軍を追い出し、ソヴィエト権力を樹立に力を貸していたのです。

 期待していたドイツやハンガリーでの革命が失敗していく中で、インターナショナリズムを掲げていくには、ヨーロッパ以外にも目を向けていくのは自然な流れでしょう。しかし《階級の分化が未熟な地域では、いくら階級の対立を煽ったところであまり意味がない。しかし、人びとを結集しないことには革命は始まらず、世界共和国の樹立も絵に描いた餅でしかない。このジレンマのなかでレーニンが着目したのが、民族の対立》だった、と(k.942)。おりしも、ウィルソン流の民族自決がヨーロッパだけにとどまったことによる植民地内の失望は、相対的にソヴィエト・ロシアへの期待を高めた、と。

 さらには《ソヴィエト・ロシアの民族政策を司る民族問題人民委員であったスターリンが、自らの部下として抜擢した、ウラル山脈南部地方出身のタタール人スルタンガリエフは、ムスリムによる独自のインターナショナリズムを構想した中心人物》であったほか(k.1046)、トロツキーも失敗に終わったヨーロッパでの革命の後はトルキスタンに目を向けます。レーニン、トロツキー、スターリンという三役そろい踏みでまずは中東に目が向けられた、とうわけで、これには最終的にインドとイギリスの関係を絶つという地政学的な判断もあったのかもしれません。

 おりしも《二〇年五月下旬、カスピ海に展開していた赤軍の艦隊いわゆる赤色海軍がデニーキンの艦隊を掃討する過程で、イギリス軍が駐留するイラン北部の軍港アンザリーを占領したのだ。
 翌月、赤軍はジャンギャリー運動の指導者クーチェク・ハーン率いる現地勢力と合流してギーラーンの州都ラシュトに入り、「イラン・ソヴィエト社会主義共和国」(ギーラーン共和国)の樹立を宣言した。ロシア外のアジアで成立したソヴィエト共和国の嚆矢と言える同国は、クーチェクを首班とし、民族主義勢力とイラン共産党との統一戦線の形をとってスタートする。
 アジアでの最初期の国際革命は、コミンテルンではなく、赤軍の主導による革命戦争によって実現されたのである》とイランにソヴィエト共和国が成立してしまいます(k.1201)。

 もちろん、こんな革命政権は長く続くわけはなく、経済復興のためにイギリスと通商関係を結ぶためには、インド隣国のイランであまりイギリスを刺激しない方がいいというレーニン、トロツキーの判断もあり、1921年11月にはロシア国外でアジア最初期のソヴィエト共和国は潰えました。

 《ポーランドとの戦争に行き詰まったことで西方への出口を失い、それに引き続いて中近東でも大きく躓き、インドには当面手を出せそうにない。そうなると、ロシアに接するアジア地域で突破口となりうる場所は、現実的に見て極東をおいてほかにな》く(k.1343)、モンゴル人民共和国の成立など東に出口を求めていくことになる、と。

 「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちに現れる心理状態、共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である」という大月書店版『スターリン全集』2,1952,p.329というのは、今でも引用に耐えうる文章だと思うのですが、それにしても《グルジア(現ジョージア)生まれのスターリンにとって、ザカフカース三国つまりアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの一体的な再征服を目指すうえで、イラン北部を引き続きロシアの影響下におけるか否かは重大な関心事であった。
 その認識を彼と同郷のオルジョニキッゼやアルメニア出身のミコヤンらも共有していたからこそ、彼らはあれほど執拗にイランに関与したのである。のちのスターリン政権を構成する、こうした「スターリン派」の面々は、カフカースとイランの革命を連続したものとして捉え、その灯火の維持に強く執着したのだった》(k.1244)というのは、なるほどな、と。

3章 革命の終わりと始まり ボルシェヴィズムの深層

 レーニンが革命直後から援軍として期待していた西欧での革命がいっこうに起きない中、社会民主主義に流れる左派をどうやってボルシェビキ流の革命に取り込むか、あるいは突き放すかという路線も迷走します。アジアなど後進国での革命を目指すために、レーニンが考え出したのが、本来は死滅させるべき国家の利用でした。そうした考え方は、先進諸国との外交、社民勢力への浸透などを進める中で諜報的な闇に迷い込んでいくことにもなります。

 こうした迷走あっても、ボルシェビキが権威を保つことが可能だったのは《十月革命の立役者であるボリシェヴィキの絶対的な権威によって、党と国家とプロレタリアートの三者が結びつき完全な一枚岩となっている──この壮大な「フィクション」の受け入れを迫るのがボリシェヴィズムの本質となった。そしてその世界的な旗振り役を担ったのがコミンテルンであったのだ》(k.1689)という図式があったからです。

 3章では『哲学ノート』に代表される一時期のレーニンのヘーゲル回帰のあたりが面白かったかな。著者によるとレーニンは共産主義に向かう組織の中心はソヴィエトか政党かというマルクスが語りえなかった難問に解答を与えようとし、ヘーゲルに回帰するのですが、それよりも、《資本主義世界内部の矛盾として、資本主義国家同士の対立や分裂を見抜き、それを利用しようとする態度は、レーニンのヘーゲル回帰がコミンテルンの世界革命の遂行にもたらした遺産》となった、と(k.1642)。革命に向かう組織がどうあるべきかという問題としてはとらえられなかったけれども、資本主義はそれ自身の矛盾の中で対立し分裂するから、そこを突いて革命を成し遂げていこうというサジェスチョンを得た、と。

 そこからさらに《資本主義が高度に発達した先進国を対象としたマルクスの革命理論を後進国に適用するために、レーニンが編み出した答えが国家の利用であった》と、本来は死滅するべき国家の依存を強めていった、と(k.1560)。

4章 大衆へ 労働者統一戦線の季節

 こうしたレーニンの志向は《非合法活動委員会の設置を決定したコミンテルン第四回大会の最中に作成された対外諜報部の活動に関する内部文書によると、ソヴィエト・ロシアの利益と国際的な革命運動に対抗して活動する組織をすべての国で残らず「暴露」することを目指す旨が確認されている(Haslam2016)》という方向にコミンテルンを向かわせます(k.1927)

 同時に、社民勢力を排除するのではなく取り込もうとする方向転換は《革命を声高に叫べば叫ぶほど固く閉ざされる資本主義国家の扉が、弱者との「連帯」を唱えると自然と開き、内側から迎え入れてくれる場合があるのであれば、それを煙幕にして諜報網と非合法活動の基盤を整備していくことが得策》という副産物も生みます(k.2015)。

 しかし、コミンテルンやボルシェビキが見落としていた社会勢力がありました。それは先進諸国の中間層です。

 それを最もうまく活用したのはムッソリーニなどファシストたちでした。ムッソリーニは元々、社会主義者でしたが《世界大戦が勃発すると民族主義的な姿勢を強めてイタリアの参戦を支持し社会党から除名されたが、自らも志願兵として戦場に赴いている。
 まさにムッソリーニは、戦場を潜り抜けてきた青年たちの怒りとイタリア国内に充満する政治不信の双方を代弁できる存在》でした(k.2054)。こうした中間層はボルシェビキにとってはブルジョアジーかプロレタリアートのどちらかに吸収されていく存在でした。しかし、実際により革命的で破壊的だったのは怒れる中間層だったのです。

 しかし、公式的見解にあわせてしか世の中を理解できないコミンテルンは、社民勢力と同等の反革命的な存在とみなし、あまつさえ「社会ファシズム」という言葉さえ生み出してしまいます。

 一方、中国では国民党との国共合作が実現し、北伐によって国民党が権力を握ります。しかし、蒋介石はもちろん上海でクーデターを起こし、共産党勢力を一掃。

 スターリンが追求してきた国際的な統一戦線のあり方は西欧でもアジアでも破綻しますが、この間の《ボリシェヴィキの内部抗争はコミンテルンの隊列をまるで安全装置の外れたジェットコースターのごとく右に左に激しく揺さぶり、そのたびに多くの者が振り落とされていった。モスクワでの嵐の行方を見定めるため風見鶏のようになって意識を集中し、己の保身に汲々とする雰囲気がコミンテルン内に横溢するようになる》わけです(k.2211)。

 にしても、情けないのが日本の共産党。ジノヴィエフは資本主義が発達した日本で革命が成功しなければ、中国や朝鮮など他の地域での革命はありえないと考え、日本での革命が「鍵」だと語っていたのですが、当初からの党内のごたごたが常態化していた日本共産党は24年4月にコミンテルンに相談せず勝手に解党、その後も再建はされますが、まったく革命勢力とはなりませんでした。

5章 スターリンのインターナショナル ― 独裁者の革命戦略

 ここの部分は個人的にはわりと馴染みの深い議論でした。

 前に引用した「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちに現れる心理状態、共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である」という大月書店版『スターリン全集』2,1952,p.329をみれば分かる通り、元々スターリンはロシアの中でも辺境のグルジア出身ということで民族問題に興味があり、かつ民族問題の担当となったという背景があります

 民族問題に関して自信があったスターリンは、レーニンの考えたソ連邦の「国のかたち」に反対したりもします。レーニンは「民族・植民地問題に関するテーゼ」の原案のように、連邦的関係には自治に基づくものと条約に基づくものとがあるという構想を示しましたが、スターリンはウクライナなどの独立共和国をロシア・ソヴィエト共和国の自治共和国として吸収することを提案します。

 レーニンはこのスターリンの案に対して強く反対、自案を通すのですが、これが最後の抵抗となり、その違いも《「国際ソヴィエト共和国」の解消が最終的に目指されるべき到達点ならば、その世界国家のひな型たるソヴィエト連邦には同盟関係から離脱する自由を自らが立脚する原則としてあらかじめビルトインしておかなければならな》いという形而上学的なものでした(k.2341)し、実際、ロシア共産党中央の意向を無視して連邦を離れるなど現実的には不可能でした。
 
 もし各共和国が対等な立場でソ連に参加するならば、諸国の共産党も対等でなければなりませんが、実際は、それぞれの共産党はロシア共産党の支部となったわけですから。これは、レーニンの前衛党論への固執が生んだものだ、と言えます。逆に言えば《一国社会主義論はレーニンが示した国家強化の道筋をスターリン流にアレンジしたものであった。ただし、スターリンがレーニンと大きく違うのは、国家の消滅という想定をまったく受け入れなかった点》だけだ、と(k.2409)。

 一方、一番、革命が期待されていたドイツでは経済がさらに悪化、ドイツ共産党は「労働者党ではなく失業者党」だと揶揄されるほどで、こうした失業者たちは共産党とナチスのあいだを揺れ動くことになります。

 面白かったエピソードはスターリンがヘーゲルを理解できなかったという話し。《スターリンは、ヘーゲル哲学を受容することもなかったので、国家の内的な分裂の契機の発動と対立物への転化という危惧をレーニンと深く共有していたとは言えない。実は、彼はヘーゲルを重視するレーニンの影響を受け、一時は家庭教師をつけてまで弁証法を学ぼうとしたが、途中で投げ出し、以後はドイツ観念論哲学に対する強い嫌悪感を隠さなかった》というあたり。民族問題や権力など「目に見える」問題にしか興味のない彼は、自民党の政治家みたいなものだったんだろうな、と(k.2413)。

第6章 「大きな家」の黄昏 ― 赤い時代のコミンテルン

 6~7章は「闇に包まれていない歴史」というか「薄々気がついていた歴史」といいますか「フルシチョフによって暴かれた歴史」が冷戦終結後に明らかにされた資料によってさらに裏付けられた感じでしょうか。スターリンが徹底的にダメだったから、その分、レーニンが救われたというか、せめてレーニンぐらいマトモじゃないと救われないという心証が世界のマルクスに感化された人々に残った、ということにもつながるほどのダメダメさ(よく戦後の日本共産党は無批判にスターリンを礼賛していたな、と)。とはいってもこの本は前半で「良い人レーニン」の伝説を壊してくれたので、後半は流していきます。

 コミンテルには多くの良心的左派も協力しました。それは《実際に共産党に入党する者たちのほか、いわゆる「フェロー・トラベラー」(fellow traveler)──日本語では「同伴者」と訳される──のような、党員ではないもののソ連や共産党に同調する者》(k.2706)でした。

 そのコミンテルの表の顔に指名されたのはブルガリア共産党員ゲオルギ・ディミトロフでした。ディミトロフが注目されたのは1933年。ベルリンで発生したドイツ国会議事堂放火事件に関与した容疑で逮捕されるもゲーリングの証言や検察を論破し、無罪を獲得したことで、反ナチスの民主主義者にとっても英雄となり、それをスターリンが利用します。

 ドイツの侵攻を受ける前にソ連の軍事力と経済力を回復する時間を稼ぐために。スターリンが再び採用したのが人民戦線戦術です。社会ファシズムと蛇蝎のように嫌っていた社会民主主義者と再び組もうというわけですから酷いマキャベリズムですが、共産党を加えた左翼政権をフランスに樹立します。しかし、皮肉なことにスペイン内戦によって仏ソ間の亀裂が深まってしまいます。

 ソ連は共和国を生きながらえさせるために、世界中のコミンテルンの支部を通じ、軍事経験のある労働者を募集してスペインへと派遣、「国際旅団」を設立します。内戦期間中にスペインに送られた外国人志願兵は、53ヵ国・3万人以上にのぼり、その中にはチトーもいました。一方、フランスのブルム内閣は英政府とともにドイツを刺激することを恐れて不干渉政策をとりました。

 ソ連は国際旅団とともに軍事顧問や諜報機関の要員なども多数送り込んだのですが、それはトロツキストや無政府主義者とのイデオロギー闘争も生みます。トロツキスト狩りは1937年のバルセロナで「内戦の中の内戦」を生み、フランコ側を利し、最終的には国際旅団も解散させられます。

 一方、中国では国民党と共産党に国共内戦が勃発し、共産党が長征によって辺境の根拠地にたどり着くまでの間に毛沢東のヘゲモニーが確立され、張学良による蒋介石の逮捕・軟禁から国共合作が実現します。この過程で宋慶齢が活躍しますが、冷戦終結後に解除された資料によって、彼女はなんとコミンテルンのエージェントだったことがわかります。《「エージェント・オブ・インフルエンス」(agentofinfluence)──自らの社会的影響力の行使を通じて標的の国家の政策や世論を秘密裏に誘導するタイプのエージェント──であったことである。こうした存在を使った工作活動は、冷戦期にソ連の諜報機関が多用したことで知られるが、宋慶齢はその先駆けだったと言える》(k.3252)と。

第7章 夢の名残り ― 第二次世界大戦とその後

 スターリンはヨーロッパにおける人民戦線が失敗すると、ただちにヨーロッパ各国の共産党員の粛清を始め、国内の軍事組織とともに大粛清の波となります。

 ここで、現代日本史では、かつては大敗北、現在では互角の戦いだったと言われるようになったノモンハン事件が発生。著者による評価は《極東では、数年来続いていたソ連と満洲との国境紛争が激しくなり、三八年夏には日ソ両軍の大規模な衝突にまで発展した。これによって赤軍は日本軍以上の損害を被っている》(k.3318)というものです。

 これによってスターリンは独ソ不可侵条約に傾きますが、これは国際共産主義運動にとってトドメの一撃となります。スターリンは、第二次世界大戦の勃発と独ソ不可侵条約の取り決めに従ってポーランドに侵攻し、西ウクライナと西ベラルーシを占領。さらに、バルト三国にはソ連の軍事基地を設置する協定を受け入れさせましたが、この侵略は西側諸国から強い非難を受け、国際連盟からも除名されます。

 その後、ヒトラーは独ソ不可侵条約などなかったかのように破り、ソ連に侵攻。一九四一年秋に、ソ連政府はウラルに疎開し、コミンテルン本部もバシキール自治共和国の首都ウファに移転しますが、寸前のところで踏みとどまり、米国の参戦を得ます。スターリンの切り札はなんとコミンテルンの解散でした。大統領特使の派遣に合わせ、その中にコミンテルンの解散を求める事項を事前に掴むと、スターリンは解散に着手する指示を出す、と。

 『コミンテルン』佐々木太郎があまりにも面白かったので、ロシア革命百周年を記念して池田嘉郎先生ほかで岩波から出された『ロシア革命とソ連の世紀』も読んでみるか、と思っています。

 以下は本書の巻末の年表を個人的に勉強のために書き増したものです。

 

1917

10 ロシア十月革命

1918

1 フィンランドでヘルシンキで赤衛軍がクーデター

3 ブレスト=リトフスク条約

5 ドイツ軍の応援を得てマンネハイム(ロシアの力が強かったので最初はロシア軍に入った将校)白衛軍はヘルシンキで勝利パレード

6 マンネハイム、ドイツ色が強くなったのでスウェーデンに亡命

11 ドイツのキール軍港で水兵が反乱。独社会民主党のエーベルトを首相とする臨時政府がドイツ共和国を発足

11/11 ドイツ共和国、パリで休戦協定

12 フィンランドでカールが王位を辞退

1919

1 スパルタクス団蜂起

3 コミンテル創立
ハンガリーでソヴィエト共和国が成立(8月まで)

4 バイエルンでソヴィエト共和国が成立(5月まで)

5 フィンランドで総選挙で共和制に

6 スロヴァキアでソヴィエト共和国が成立(7月まで)

7 フィンランドで白衛軍への参加に積極的な姿勢をみせていたマインハイムが大統領選で敗北

1920

春 白衛軍を指揮していたクリミアのデニーキンはイギリスの戦艦「マールバラ」で国外へ脱出、赤軍が内戦に勝利

6 イランでソヴィエト共和国が成立(11月まで)

7~8 コミンテル第2回大会で規約は21ヵ条の加入条件が採択

8 ポーランド軍がワルシャワを包囲していたソ連軍を撃退

9 バクーで第1回東方諸民族

1921

3 独裁化するボリシェヴィキ政権に対しクロンシュタットで水兵が反乱
ドイツのマンスフェルトでコミンテルンの指示による共産党の蜂起が失敗

5 チェコ共産党結成

6-7 コミンテルンの3回大会で統一戦線路線を採択、プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)が結成される

7 中国共産党が結成

8 ミュンツェンベルクによるロシア飢餓救済運動が始まる

11 イラン・ソヴィエト社会主義共和国崩壊

12 フランス共産党結成

1922

7 日本共産党結成

10 ファシストがローマ進軍

1923

10 ドイツの十月が挫折

1924

1 レーニン死去

11 モンゴル人民共和国の成立

1925

1 トロツキーが軍事人民委員を解任される

【目次】
まえがき
序 章 誕生まで――マルクスからレーニンへ
第1章 孤立のなかで――「ロシア化」するインターナショナル
第2章 東方へのまなざし――アジア革命の黎明
第3章 革命の終わりと始まり――ボリシェヴィズムの深層
第4章 大衆へ――労働者統一戦線の季節
第5章 スターリンのインターナショナル――独裁者の革命戦略
第6章 「大きな家」の黄昏――赤い時代のコミンテルン
第7章 夢の名残り――第二次世界大戦とその後
あとがき

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『がん‐4000年の歴史‐ 下』シッダールタ・ムカジー

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『がん‐4000年の歴史‐ 下』シッダールタ・ムカジー、田中文訳、ハヤカワ

 上下巻を通じて、通奏低音のように流れているのは白血病と乳がんですが、下巻では肺ガンも大きく取り上げられています。

Audibleで筋トレ後に有酸素運動のエアロバイクを漕ぎながら聴きました。

 いまでこそ、タバコと肺ガンの関係性は明白ですが、それを証明するのがいかに困難だったというのが印象的。タバコ業界と患者団体との壮烈な戦いも面白いのですが、その戦いの基礎となったのは発がん性物質というのは本当にあるのか、あるいはがんの発症を促す化学物質やウイルスなど発がん性物質が実際、どのようにしてがんを発症させていくか、という理論の証明でした。タバコが発がん物質であるということは喫煙率と肺がんの患者数の推移をみれば明らかではありますが、直接的な因果関係を証明するのは並大抵のことではありません。

 その中で突破口を切り開いた重要な概念が「コホート」(ヒトの集団)。生物の進化をさぐろうとする中で、蛾の集団が研究者によって観察されていたのですが、1951年にオースティン・ブラッドフォード・ヒルとリチャード・ドールがヒトの集団(コホート)にも同じような研究を行い、36人の肺がん死亡者全員が喫煙者だったことをつきとめます。

 1958年、ウイルス学者のハワード・テミンはラウス肉腫ウイルスをニワトリの正常細胞に移植すると、無制限に増殖するようになることを発見します。ラウス肉腫ウイルスはRNAウイルスであり、RNAからDNAへの逆転写が起こっていると考え、日本人ポスドクの水谷とともに逆転写酵素を発見し、ラウス肉腫ウイルスが通常のウイルスではなく、遺伝情報を逆向きに書くことができるレトロウイルスだと発表。レトロウイルスはRNAの逆転写酵素を持つウイルスで、RNA上の遺伝情報をDNAに作り替え、感染細胞の染色体に組み込むことによって生きた細胞に入り込むことができます。そして、レトロウイルスのDNAへの組み込みは、宿主遺伝子の過剰発現や破壊を通じて発がんや遺伝的疾患の原因となる、と。

 1976年、ハロルド・ヴァーマスとマイケル・ビショップは放射線や煤やたばこの煙がなぜがんを誘発するのかについて、細胞内の原がん遺伝子を変異させ、活性化させることによって誘発することを証明。これは発がんのメカニズムについての初めての説得力ある包括的な理論となりました。二人はレトロウイルスのがん遺伝子が正常細胞に由来することを発見した功績でもノーベル賞を受賞しています。

 しかし、がんは1つの遺伝子の変異で引き起こされるわけではなく、多くの変異が存在します。急性リンパ性白血病のようにゲノム変異が少ないものもありますし、全ての変異ががんに影響しているわけではなく、無害な「パッセンジャー(乗客)」変異と、がん細胞の増殖と生物学的挙動を惹起する「ドライバー」変異もあることが判明。現在、がんへの突然変異をもたらす「ドライバー変異」に照準を定めた分子標的治療薬が開発され、多くの分子標的治療薬が可能になっています。

 さらに、がん細胞の表面にHER2とよばれるタンパク質が過剰に存在すると、悪性度が高くなるといわれています。「乳がん」「治癒切除不能な進行・再発の胃がん」のようにHER2過剰発現が確認された症例に対してはハーセプチンが適応できます。

目次
第4部 予防こそ最善の治療(「まっくろな棺」;皇帝のナイロンストッキング;「夜盗」 ほか)
第5部 「われわれ自身のゆがんだバージョン」(「単一の原因」;ウイルスの明かりの下で;「サーク狩り」 ほか)
第6部 長い努力の成果(「何一つ、無駄な努力はなかった」;古いがんの新しい薬;紐の都市 ほか)
アトッサの闘い

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February 19, 2025

『はじめての日本国債』服部孝洋

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『はじめての日本国債』服部孝洋、集英社新書

 国債に関しては個人向けを預金代わりに買っているぐらいで、正直、まったく勉強していなかったので、例えば、債券には中古市場が存在し《日々金利が動いたと報道される場合、この金利は中古市場(流通市場)で形成された価格に立脚している》(k.214、kはkindle番号)、《国債の残高は一貫して増加しており、おそらく今後も増加していくことが見込まれます。日本でこれくらい右肩上がりの産業もなかなかないのではないでしょうか。投資家や証券会社から見ると、国債市場は巨大なマーケットなので、その中でうまく取引ができれば巨大な利益を得られる可能性もあるわけです》(k.339)というあたりでも、なるほどな、と。

《現在の日本国債は80%以上が国内投資家に保有されています》というのも言われてみれば、なるほどな、と思いましたが、外国人投資家の割合は増加傾向にいるとのこと。

 債券の世界では、債券の投資から得られるリターンを「利回り(イールド)」といいますが、長期になればなるほど変動が大きい、というのは意外でした。短期金利のほうが高い「逆イールド」も発生しやすいとのことで、2年債の価格の動きはほとんどありませんが、30年債の価格は数か月で5%くらい価格が上下することもあるとのこと。だから長い年限の国債は価格の変化が大きく利益を上げる機会が多いともいえる、と。でも、銀行は短期から長期債、生命保険会社は超長期債を購入する傾向がある、と。不思議です。

 ここで、「リスク」とは何かという定義がくるのですが、それが見事という目ウロコ。曰く《金融全般において「リスク」とは、価格の変動そのものを指しており、単に損をする可能性を示しているわけではないことです。リスクは、価格が上がることもあれば、下がることもあるという価格の「変動」に立脚した概念です。したがって、リスクが高いというのは、価格の変動は大きく、儲かる可能性も損する可能性も大きいことを意味します。この変動を「ボラティリティ」と表現することもあります》(k.544)。

 『経済評論家の父から息子への手紙』山崎元の《資本主義経済は、リスクを取りたくない人間から、リスクを取ってもいい人間が利益を吸い上げるようにできている。この点がよく分かったことは、今回この本を書いてみたことによる、父の個人的収穫であった。そして、利益を吸い上げる際に介在するのが「資本」であり、資本に参加する手段が現代では「株式」》(k.401)という言葉の「リスク」を『はじめての日本国債』のこの部分を踏まえて読むと、その意味が時空間をともなって立体的になる感じがしました。

 この後は証券会社と国債市場の関係や、日銀の役割とオペレーションなど、リスクヘッジと金融派生商品(デリバティブ)など実務的な話しが続きます。

 また、『ドキュメント 異次元緩和 10年間の全記録』西野智彦を読んでいて、いまひとつ理解できなかった「財政ファイナンス」についても《日銀が流通市場で取引されている国債を購入する理由は、財務省が発行する国債を直接購入することが「財政ファイナンス」と呼ばれ、財政法で禁じられているからです。これを「国債の市中消化の原則」といいます》とわかりやすく解説してくれてありがたかったです。

 「貨幣」とは「現金通貨」に「預金」を加えたものと整理でき、マネタリーベースの定義では、「現金通貨」に加え、日銀が直接コントロールできる民間銀行が日銀に有する口座=日銀当座預金が「狭義」の貨幣という説明によって、『異次元緩和』でマイナス金利には利下げ効果とは別に異次元緩和の「出口への第一歩」となるという説明にも、すごい説得力と効果を感じました。

 伝統的な金融政策とは短期金利の操作だったがYCCは短期金利だけでなくイールドカーブ全体をコントロールする政策であり、日銀は10年国債を無制限に購入するというオペレーションを導入した、という説明でも異次元緩和をより深く理解できねるようになりました。「日銀にとって通貨の価値が下がることほど恥ずかしいことはない」といわれていたそうですが、円安誘導も含めて、凄い政策だったんだな、と。

 《60年償還ルールのような償還ルールを持っている国は、(私の理解では)日本だけであり、その必要性がないのではという指摘があります》(k.2184)というのは知りませんでした。

 あと、恥ずかしながら《担保を出すことで調達コストを下げられることは、私たちが家を買うときに家という不動産を担保とすることでローンの金利を抑えられることと同じです》(k.2533)というのは初めてしりましたし、《そもそも「金融」とは、その名前からイメージされるとおり、「資金の融通」を意味します。すなわち、お金がない人とある人をつなげること、これが金融の機能というわけです》(k.255)あたりも、当たり前ですが整理してもらいました。

 また、財務省があんまり財政均衡とかいうなら、2050年までに毎年20兆円発行する予定のGX国債を取りやめたら?なんてことも考えてしまいました。もう、トランプ政権になってカーボンニュートラルとか見向きもされなくなってるわけですしw

 レポ取引と無担保コール市場、固定金利と変動金利の交換である金利スワップなどの説明は難しいな、と感じましたが市場で取引されるスワップ・レートを観察することにより、投資家がどの程度、将来の決定会合で利上げを見込んでいるかについて予測ができる、というあたりは役立てようかな、と。

 日銀の植田和男総裁が大学の学部生向けに中央銀行の役割を含めて金融の基礎を解説してくれてる本を出しているのを知りました。敬意を表して、Audible版はタダで聴けるので『大学4年間の金融学が10時間でさっと学べる』をゲットしました(あまり敬意を表してないけどw)。

【目次】
第1章 国債がわかれば金融の仕組みがわかる
第2章 国債(債券)に関する基本
第3章 証券会社と国債市場の重要な関係
第4章 日銀の役割と公開市場操作(オペレーション)
第5章 国債からわかる日本の金融政策史:量的・質的金融緩和から量的縮小へ
第6章 銀行や生命保険会社と国債投資の関係
第7章 日本国債はどのように発行されているか
第8章 デリバティブを正しく理解する
第9章 短期金融市場と日銀の金融政策

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February 14, 2025

『ドキュメント 異次元緩和 10年間の全記録』西野智彦

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『ドキュメント 異次元緩和 10年間の全記録』西野智彦、岩波新書

個人的には早期退職する前に、まだ一生懸命取材していた頃の過去を改めて振り返らせてもらったような本でした。

 にしても、黒田総裁が異次元緩和を発表した2013年4月4日、ドル円は92円台後半だったんだな、と。安倍政権だけで、就任前の78円からいったん95円まで戻したわけなんですが。

 著者は時事通信出身のジャーナリストで異次元緩和に関しては批判的な立場のようですが、ぼくは白川総裁時代の小出しの政策に不満を募らせていた企画ラインの方々のように、毒にも薬にもならない政策を続けるよりも、思い切った方向転換を図った異次元緩和は、偉大なアベノミクスを支えた大きな土台だったと思います。

 個人的になるほどな、と思ったのはマイナス金利のあたり。本書は異次元緩和、マイナス金利、YCCと非伝統的金融政策を深掘りしていく過程を描くのですが、個人的にはマイナス金利が一番の衝撃でした。

 長い社会人生活のほとんどの時間、「インフレは悪」だと思っていたのでインフレターゲットなんか危険な火遊びとしか考えられなかったし、ましてやマイナス金利などは想定外のことでした。そうした中で黒田総裁はマイナス金利を打ち出しました。

 その時点では景気動向だけでなく為替にかかっていた圧力も打ち返す凄い戦術だと思ったんですが、あまりうまくいかなかった印象です。異次元緩和、マイナス金利、YCCを勝手に評価すると異次元緩和は良、マイナス金利は可、YCCは優みたいな評価になるのではないかと思っていましたが、この本でよく読むと、マイナス金利には出口戦略開始前に当座預金を減らしておく,という役割もあったんだと理解できました。

 それは以下のような流れだと思います。

・異次元緩和の出口では、まず日銀当座預金に付利している金利水準を引き上げることで短期市場金利を底上げし、長期金利についても「二%水準に見合ったレベル」に誘導するため日銀のバランスシートを適宜圧縮していかねばならない

・当座預金のうち「超過準備」に〇・一%を付利する「補完当座預金制度」が導入されたのは白川方明総裁時代。金融機関にとっては確実に〇・一%の収益を生み、しかもリスクのない運用先は少ないため、実需を伴わない「過剰なマネー」は自動的に当座預金に積み上がっていた

・しかし、当座預金が二〇〇兆円を超えると、〇・一%といえども金融界に年間二〇〇〇億円程度の〝補助金〟を与える計算になる

・マイナス金利には利下げ効果とは別に、当座預金を減らす効果がある。これをうまく使えば「量の正常化」、つまり異次元緩和の「出口への第一歩」に使えるという着想が出てきた

・福井時代に量的緩和解除の実務を担った中曽副総裁は、「リザーブ[当座預金]が大きくなりすぎると出口から出られなくなる」とバランスシート圧縮の必要性を口にしていた

・国債を「もう一単位」売った場合に入手できる当座預金だけにマイナス金利を適用すれば、それを起点に市場金利は形成されるようになる

・一方、大手の証券会社と信託銀行はMRFの元本割れを引き起こす恐れに頭を抱えていたので、MRFをマイナス金利の適用対象から除外する特例措置を決めた

 となります。

 リフレ派の論客は安倍総理に「戦争をしないでデフレをインフレに変えた最初の宰相になれますよ」と異次元緩和の必要性を説きましたが、結局、国内物価を二%レベルに押し上げたのはコロナ禍をへての円安と原油高でした。しかし、企業収益は10年間でほぼ倍増し、日経平均株価は一万二〇〇〇円台から三万円台にまで上昇する一方、失業率は2%台半ばに低下し、新規雇用者は四三〇万人ほど増えたのは事実です。

 この成果は黒田総裁の「出し惜しみするな」「戦力の逐次投入はしない」「やれることは全部やる」という方向性が経済の期待値に働きかけたものだと思います。しかし、当初五兆円でスタートした量的緩和は、五〇〇兆円超に膨らんだことも事実。植田総裁の「撤退戦」もしっかり見ていこうと思います。

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January 30, 2025

『卑弥呼とヤマト王権』寺沢薫

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『卑弥呼とヤマト王権』寺沢薫、中公選書

 お正月なので肩の凝らない読書をということで読んできた『卑弥呼とヤマト王権』、意外な大著で(Kindleなので厚さ分からず)、やっと読了しました。
 纏向が諸国連合のヤマト王権の王都ではあるけど、卑弥呼は邪馬台国の王女ではなく、倭国の王女みたいな整理はハッとさせられましたが、国家論とかはかなり飛ばしている感じ。

 これまでの理解は、大和にある卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳と纏向古墳群、岡山の楯築古墳、沼津の高尾山古墳は重要な初期巨大古墳で沼津には狗奴国の王が埋葬されている可能性があるのかな、と思っていました(『日本史の内幕』磯田道史、中公新書p.12-)。

 ヤマト以東の前方後方墳が特徴的な狗奴国は伊勢湾あたりが中心というのはなるほどな、と

 この時代は古墳というシンボルをつくることによって、地域の首長を中心とした弥生社会から連合国家のヤマト王権へと列島が変化していく時期でもありました。その後、そうしたローカル感満載の祭祀の場ともなった古墳づくりより、よりグローバル感のある寺院建立で豪族たちはパワーを示していったのかな、とか。

 この本に沿ってシンプルに説明すると、西日本を中心としたヤマト王権が箸墓古墳をモデルとする前方後円墳によって、互いのネットワークを確認したのに対して、伊勢以東では狗奴国が「前方後方墳」によって、互いのネットワークを確認したけど、倭国大乱の後、ヤマト王権に参加していったのかな、と(岡山の楯築古墳は双方中円墳。大和王権は吉備、出雲から嫁取りを盛んに行いますから、国譲り神話などを含めて考えると、それ以前に同化していった、みたいな)。


著者は最後に
《本書で私が第一に強調したかったのは、国家の第二段階である「王国」の誕生は、ヤマト王権の成立そのものであり、その初代大王が卑弥呼だったということだ。つまり新生倭国=ヤマト王権=卑弥呼政権の関係が、私が到達した結論である》。
《本書で第二に強調したかったのは、「倭国乱」を乗り越えるためにとったこの国の歴史的選択が、戦争という外的国家意志の物理的な発動ではなく、また強大な外的国家の一国独走を容認するものでもなく、壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論としての「卑弥呼共立」であったことだ》
《観念上はのちの「天皇」につながると認識されてきた古代の大王系列の初代は女性であり、その女性は会同によって共立されたということになる》
(k.5850-、kはkindle番号)
とまとめてくれます。

 その他、面白かったところを箇条書きにすると以下のようになります。

.............

k.506
纒向型は拡散先の地方でも定形型に先行する。神奈川県海老名市の秋葉山古墳群では纒向型の二・三号墳が定形型の四号墳よりも古いし、千葉県市原市の纒向型の神門三・四号墳は付近のどの定形型よりも古い。これらの地域は律令時代にそれぞれ相模国府と上総国府が置かれた重要地点だ。

k.551
前方後円墳の場合もまた、それまでの弥生的なマツリを払拭し、新たな政治と祭祀のシンボルとなった前方後円形の墳丘をもつ纒向型が政権中枢に出現して、ヤマト王権という一元化された社会にシフトした瞬間こそが重要なのではないか。

k.783
纒向遺跡に全国各地から多数の土器が運ばれたのは、物流と交易のセンターというような経済的理由からだけではなかったことがわかる。纒向に集まった各地の人々のなかには首長層をふくむ集団が存在し、彼らが何世代にもわたって常駐して、その規模を拡大していった可能性がある。ちょうど、のちの藤原京や平城京のなかに各国郡の出張所が設置され、税の徴収や文書の伝達を円滑化するための調整をおこなっていたように、さらに時代を下れば徳川幕藩体制下の諸藩江戸屋敷のように、はたまた現在の霞ヶ関の道府県東京事務所のように、三世紀の纒向には、すでにそうした中央地方の政治・行政を担当する出先機関が組織されはじめていたのではないか。

k.1655
ここで「ナ国」と呼ぶのは、『魏志』倭人伝に現れる奴国の前身であり、『日本書紀』にみえる「儺県」(仲哀紀)、「儺津」(宣化紀)に重なる。のちの律令制下ではほぼ「那珂郡」に相当するけれど、水系ごとの遺跡の密集度を考慮して、私は「儺西」「儺春日」「儺席田」の三つのクニが存在したと考えている。

k.1677
だから遅くとも中期末には、ナ国王やイト国王はそれぞれの国の王であるだけでなく、それぞれの部族的国家連合の盟主、つまり「王のなかの王」でもあったと私は考えている(図9)。

k.1679
それから約半世紀ののち、こうしたナ国連合の成立を背景として、有名な「漢委奴國王」の金印が下賜されたのである。

k.1943
卑弥呼が共立された背景には、おそらく国内事情だけではなく、新しく帯方郡を置いた公孫氏の思惑と働きかけがあった。そして共立は通説の二世紀末ではなく、三世紀のごく早い時期に実現したのである。

k.2169
そもそも巨大墳丘墓の構築は、中国鏡などの威信財の入手がままならない東方の部族的国家の王たちが、イト倭国への対抗上、みずからの力量を視覚的に内外に誇示するために編み出した一つの方策でもあったと私は考えている。

k.3467
『記紀』にみえる多くの聖婚説話や、『延喜掃部寮式』に記載された天皇と中宮の寝具のしつらえは、想像をたくましくすれば、二世紀末の首長霊誕生以来、継承の秘儀に果たした女性最高祭司や王妃の決定的な役割が時間の経過とともに変容して、わずかにその片鱗をとどめたものと解釈することもできよう。

k.4857
箸墓古墳を卑弥呼の墓、奈良県天理市西殿塚古墳を壱与(台与)の墓と想定する白石氏は、別の論考で以下のように推測する。墳丘図をみると西殿塚古墳には、後円部と前方部にほぼ同形同大の方形壇の存在が認められる。したがって、そのいずれか一方に巫女王壱与が、もう一方に執政王であるキョウダイ(兄弟)が埋葬されている蓋然性は低くない。

k.4861
箸墓古墳の場合は、前方部に大きな平坦面の存在が認められないので、後円部の円壇に巫女王卑弥呼と執政王の男弟が並葬されているのではないか。


k.5900
纒向遺跡がヤマト王権の最初の大王宮が置かれた地であるという考えは、ようやく広く認知されるようになった。

k.3293
前方後円墳はただの墓ではない。天に昇るべき亡き王の「魂」を新しい王に引き継がせ、地に帰るべき「魄」は亡き王の遺骸とともに大地に封じ込め、祖霊として後継者たちを未来永劫にわたって守護してもらう。絶えることなき王権の継承と、国家の安寧と繁栄の祈求こそ、前方後円墳祭祀の本質であった。

k.4178
卑弥呼共立は公孫康の帯方郡設置と表裏一体で実現したのであった。新生倭国の王となり、間髪を入れず使者を送って来た卑弥呼に対して、「中平年」銘鉄刀は公孫康から正式に授与されることで、あらためてその価値を発揮する

k.4475
中国に出土例がなく、国内で五〇〇面を超えるともいわれる三角縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡や斜縁神獣鏡群を範型として日本で製作されたとみるほうが合理的だと私は考えている。

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December 30, 2024

2024年の今年の1冊は『わが投資術』清原達郎

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 ずっと細々と選んできた今年の1冊は『わが投資術 市場は誰に微笑むか』清原達郎、講談社とします。

 「最後の長者番付」で1位となった伝説のサラリーマン投資家・清原達郎さんが、咽頭がんで声帯を失い、引退を決め「私には後継者がいない」ということで株式投資のノウハウと、バブル期以降の市場の動きを公開したのが本書。過去に類書がなく、面白さを味わうためには、ある程度の知識と経験は必要ですが、こんな本が読めるとは思いもしませんでした。

 個人的には小型株をやるつもりはないんですけど、「ネットキャッシュ比率」などの考え方は本当に参考になりましたし、ベイズの定理を使った分散投資の仕方などは唸りました。また、野村證券社員による放火殺人、検察の不当逮捕など今年話題になったトピックについて生々しい記録が書かれている点も見逃せません。

 清原さんは過去の野村証券について「準詐欺組織」と書いていて、こんなエピソードを紹介してくれています。
《「素晴らしい。野村證券は人材の宝庫なのかもしれない」と思いましたねえ。
支店長が大損している顧客を見つけて担当セールスを呼びつけ、
「お前の客これだけ損してクレームにならないか?」
「大丈夫ですよ。このババア完全にボケてますから。ほら、私このババアのハンコ持ってるんですよ。手数料足らない時は私に声 かけてください。いつでもペロ切りますから(売買手数料稼ぎま すから)」
「頼もしいなあ。よくぞ言ってくれた! 期待してるぞ!」》(p.91-92)

 「検察なめんなよ」と不当逮捕されたプレサンスの山岸忍元社長の件などもどんな報道よりも分かりやすい。さすが、バリバリの経済人だと思いました。

 8月の大暴落の時、800億円の自己資金のうち200億円超で三菱UFJを買われた清原さんに何も差し上げるものなどありませんが、いつものようにパチパチと拍手を。

 今年は清原さんの『わが投資術』の他にも、『経済評論家の父から息子への手紙』山崎元、『100兆円の不良債権をビジネスにした男』川島敦など現役を引いたビジネスマンというか投資家の良書が目立ちました。

 山崎元さんの『経済評論家の父から息子への手紙』の、資本主義とは生産手段(≒資本)の私有が許されることであり、優秀な社員の叡智を集めた企業が利益を上げた株式を買うことで資産を増やすことが新しい時代の稼ぎ方のコツだというのは分かりやすい。

 『100兆円の不良債権をビジネスにした男』川島敦では、バブル期までの自称経営者たちはデューデリジェンスもやらずに不動産取引をし、バリュエーションも分からずに株式投資して大失敗したのは当然で、戦後復興から高度成長時代にかけては朝鮮戦争とベトナム戦争の地政学で儲けていただけなんだな、と改めて実感できましたし、仕事が出来ず威張ってばかりいた長銀がバブル紳士に骨抜きにされたのも頷けます。《東京には違法物件はそれほど多くないが、大阪にはものすごい量がある》なんてあたりも面白かった。

 このほか、経済関係では『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人、ハヤカワ新書も面白かったです。

 残念ながら人類の歴史の中でカネほど平等なものはなかったし、いまのところ自由で恣意的な規制のない社会で資本家たちが利潤を求める中でしか社会の持続的経済的発展は望めそうにありません。吉本隆明さんの言葉を借りれば、資本主義は無意識の最高の発明なのかな、と。

 政治関係では『冷戦後の日本外交』高村正彦が面白かった。石破首相に関して、自衛隊のヘリ部隊をアフガンに出すことは「やれないことはない」と無責任な発言したり、集団的自衛権の問題でも、無理筋な芦田修正を根拠にしようとしたり、自分では専門知識があるように振る舞っているのが危ういな、と感じました。

 『一片冰心 谷垣禎一回顧録』での「安倍派はある意味で、派閥がなくなった自民党の姿の走りだったのかもしれません。それだけ、集団のガバナンスは難しいということです」という言葉は示唆的だな、と。

 『国家はなぜ存在するのか ヘーゲル「法哲学」入門』大河内泰樹、NHKでは《ヘーゲルが生きていたのも感染症の時代であり、彼はその時代にパンデミックを引き起こしたコレラで死んだと考えられています。まさしく、感染症やその予防接種に対して社会がどう向き合うか、その際の国家の役割とは何かが議論されていた時代に、ヘーゲルは自分の社会哲学・国家哲学を練り上げようとしていました》というのが面白かった。

 『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙 あたらしい宇宙138億年の歴史』アンドリュー・ポンチェン、竹内 薫、ダイヤモンド社ではダークマター、ダークエネルギーなど未知の物質がなければ宇宙は現在あるような形にはなっていないし、実は質量の95%を占めているというのがコンピュータによるシミュレーションによって明らかにされてきたということを知りました。

 以上が2023年12月から24年12月の書評年度に出版された新刊書の中でお勧めする本です。冬休みの読書計画の参考にしていただければ幸いです。

 新刊書ではありませんが、『遺伝子 親密なる人類史 上下』シッダールタ・ムカジー、早川書房と『がん 4000年の歴史 上』シッダールタ・ムカジー、『NOISE 組織はなぜ判断を誤るのか? 上下』カーネマンほか、『自由の命運 国家、社会、そして狭い回廊 上下』アセモグルほかも凄かった…。人文書の翻訳はすっかり早川書房が中心となりましたね。

 あと、今年は個人的に『光る君へ』にハマった年となりましたが、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス日本の古典シリーズで『風土記』橋本雅之編、『権記』藤原行成、倉本一宏(編)、『小右記』藤原実資、倉本一宏(編)、『紫式部日記』山本淳子(訳)、『御堂関白記』繁田信一(編)、角川ソフィア文庫を読めたのは感謝でした。

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『がん 4000年の歴史 上』シッダールタ・ムカジー

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『がん 4000年の歴史 上』シッダールタ・ムカジー、早川書房

 『遺伝子』があまりにも面白かったので、ムカジーのデビュー作もジムの有酸素運動の際に「聴く」ことにしました。

 読んでいて圧倒されるのは、がん患者の苦しみ。20世紀後半では不治の病だったと思いますが、治る込みがない絶望に加えて、それでも治癒を目指した研究者が進めた暗中模索のがん治療が、患者の苦しみと犠牲の上に成り立っていること。想像を絶する副作用を予告された上で藁にもすがる気持ちで臨床試験を受けた人々の犠牲的精神の上で現代の医療が成り立っているんだな…と。標準治療の凄さというか、まやかしの多い代替「療法」には怒りさえ感じます。

 個人的な話しですが、数年前、親友をがんで失いました。その友人は再発した後、バカ高いビタミンC療法みたいなものにすがり、亡くなりました。しかも、彼は医者の息子だったんです。もし、この本を読んでいたら説得できたかもしれません。現在、受けられる手術や抗がん剤、放射線による標準治療は「並みの治療」ではなく、チャンピオン中のチャンピオン、パウンドフォーパウンド(PfP)の井上尚弥みたいな治療方法だ、と。

 がんは原題(The Emperor of All Maladies)のように「すべての病気の皇帝」ですが、それを克服しようとする人間の執拗さ、敗北と希望の不安の克服、普遍的な解決策を求める衝動と傲慢さは、人間の本質そのものかもしれません。

 白血病からスタートしたのは、初めて化学物質がいったんは寛解に導いたからなのか…と知らないことばかり。

 抗がん剤は細胞毒性抗がん剤であり、化学療法が転移した固形がんに対して上手く効いたのは1960年ぐらいが初めてというのには驚きました。ガンを殺すか患者を殺すギリギリの攻防で進められた化学療法とはなんと凄惨な歴史なのかと驚かされます。

 しかし、それまで転移したら対処もできなかったわけで、化学療法はありがたい話しなんだな、と。考えてみれば20世紀末ぐらいまでは、ほぼオワと考えられていたわけですから、凄い進歩です。ちゃんと早期発見の健診も受けて、これまでの研究の成果に感謝しなければ、と思います。小児白血病など、かつては致命的だったがんのいくつかは、今ではかなり治癒可能になっていますし。

 また、薬剤投与群とプラセボ投与群とに無作為に分けて、バイアスのない中立な方法で検証できる方法を考案したのはブラッドフォード・ヒルという名のイギリスの統計学者ですが、がん治療には医療関係者だけでなく、人類の叡智を結集したものだな、と。

 麻酔も消毒もない時代から、乳がんの拡大根治手術が必ずしも有効でなかったことにも驚かされます。

 がんの症状について《これは隆起するしこりの病である》と初めて記したのは、紀元前2625年前後に活躍した偉大なエジプト人医師、イムホテブでした。ただし、治療は行われないとも書いています。

 乳がんは割と「見える」がんであったため、ウィリアム・S・ハルステッドによって19世紀後半には根治的乳房切除術が実施されます。しかし、それは乳房だけでなくリンパ節や肩甲骨まで切除するものになっていくというエスカレーションは恐怖でした。

 全ての方に一読をお勧めします。

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『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』平山優

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『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』平山優、角川新書

 小牧・長久手の戦いについては、高校生ぐらいの時から判然としない印象があり、司馬遼太郎の『新史 太閤記』でも、小牧城から出てこない家康に対して怒った秀吉がお尻ペンペンして挑発したなんていうエピソードぐらいしか印象に残っておらず、池田恒興らの発案による尾張中入りは失敗したけど、秀吉による圧倒的なパワーは変わらず、なんとなく和睦した…みたいなイメージでした。対立軸は秀吉vs家康。

 しかし、本当の対立軸は秀吉vs織田信雄であり、織田家の家督を継いだ信雄が秀吉に屈したことで、主従関係が逆転し、秀吉政権の成立につながったというのが歴史の流れだ、と本書は記します。

 そうした認識が広がらないのは一般の読書人が手にすることのできる概説書がほとんどないこと。また、そうした概説書が書かれなかったのは《本能寺の変から家康上洛と秀吉への臣従に至る、およそ四年間の複雑な「織田体制」内部の政治・軍事動向、広域に及ぶ戦国大名との外交や、地域争乱との関わりなどを総括しつつ、合戦の背景、原因、経過、結果を叙述することの困難さにあるだろう》(k.51、kはkindle番号)。

 当時は越後上杉景勝も織田氏に敵対していた時期から時間はたっていませんし、武田勝頼も滅亡したばかりでした。

《本能寺の変により、最も混乱した織田領国は、旧武田領国(甲斐・信濃・上野・駿河)であった。河尻秀隆、毛利長秀、森長可、滝川一益、木曾義昌は、信長横死を知った各地の国衆、一揆の蜂起や、上杉景勝、北条氏直の攻勢に直面した》(k.416)わけです。

 本書の特徴はこうした地方の戦いとの連動が描かれていることであり、特に信州については中入りの原因にもなっていると深く分析していますが、信雄の領地となった旧伊勢北畠家も信長の粛清などもあって難治の地であり、長久手の敗戦後、秀吉が狙いを定めて攻撃し、信雄は和議を申し出る=主従逆転するしかありませんでした。

[発端]

 小牧・長久手の戦いの対立軸は秀吉vs信雄です。清洲会議の後《信雄と信孝、秀吉と信孝・勝家という対立が始まり、「織田体制」の内部抗争は激しくなった。当時、これは「上方忩劇」と呼ばれ、この結果「織田体制」は、総力を挙げて北条氏と戦う家康に、援軍を送ることが出来なくなった》(k.546)というのが当時の情勢でした。

《織田家家督信雄と宿老秀吉・長秀・恒興により、「織田体制」が再編されたが、結果として、柴田勝家、織田信孝、滝川一益は排除され》(k.606)、賤ヶ岳の戦いなどで柴田勝家は滅びましたが《柴田らの遺跡を接収し、それらを織田家臣に配分(知行宛行、加増)や安堵などをする行為は、主従制の根幹であるので、当然、当主信雄が執行すべきものであった。ところが、これを秀吉が勝手に行ってしまったわけである。当然、両者の関係は、これを契機に冷え込んでいった》(k.714)です。

 さらに秀吉は、将軍足利義昭の帰洛の実現に向けて調整を図り、主家信雄と、将軍義昭を従属させることで秀吉権力を成立させようしますが、ことここに至って信雄は秀吉に融和的な三家老を粛清し、家康とともに織田体制を再構築するため立ち上がるわけです。

[小牧・長久手の戦いの勃発]

 《秀吉は、信雄が、自身との取次役をつとめる岡田・津川らを誅殺したとの情報を、大坂城で知ると、ただちに軍勢の招集と派遣を決断した。秀吉にとって、主君である織田家督信雄が、自身を攻め滅ぼそうと動き出したのであるから、これに対抗することは謀叛ではないと充分に主張できるものであったといえる》(k.1046)ものであり好都合だったかもしれません。《やはり秀吉にも、自身が織田の「天下」の簒奪者とみられている自覚があり、それに対する後ろめたさがあったと思われる。しかし、信雄が先に拳を振り上げてくれたことで、彼は謀叛人の烙印を押される危険性から解放され、自らの身を守るためにやむなく軍勢を尾張・伊勢・伊賀に差し向ける構図を作り上げることに成功した》(k.1091)わけです。

 一方、清須城にいた信雄と家康は小牧山に急行、尾張の要所を確保します。両軍の動きは素早いものがありましたが、これによって、戦いは膠着状態に陥ります。それは両軍を隔てていたのは湿地帯だったから。秀吉が大軍を擁しながら動けなかったのはこうした地理的な要因が大きいと考えられる、と。

[日本全国を巻き込む戦いに]

 両軍がにらみ合いを続けている間に、戦火は全国に波及します。《小牧・長久手合戦が、天下をめぐる「織田体制」と秀吉との抗争であったという事情から、それまで「織田体制」の枠内(和睦、従属、同盟)にいたか、もしくはその枠外(敵対関係)にあった戦国大名や国衆、一揆などは、各自の利害にもとづき、双方に味方して地域での戦いを繰り広げた。その範囲は、東北と九州を除く、本州・四国に及んだ》(k.1231)というのですから驚きです。

 長年、織田は対立してきた上杉が秀吉方となり、同じく家康と対峙してきた北条氏が家康側になっていたのはいかに権力が流動的だったかが実感できます。

 特に複雑で活発な動きを示したのは信州。《遠山一族は、隣接する信濃を支配する武田信玄と、尾張から美濃へ勢力を拡大しつつあった織田信長の両者と友好関係を結び、両属の国衆として生き残りを図っていた》(k.2777)が、森長可(蘭丸の兄)領となり、遠山一族は家康を頼りに落ちます。その後も不安定な情勢が続きますが、小牧・長久手の前哨戦となった羽黒合戦で森長可が敗退したことで遠山方が東美濃で蜂起。《尾張に在陣する森長可は、これに対応できず、座視せざるをえなかった。この地域での劣勢を挽回するためにも、長可は尾張の戦局を優位とし、秀吉の許可を得て、金山城に転じて対応したいと考えていたとしてもおかしくはなかろう。長可の焦りが、長久手合戦の開戦に、大きく影響していたのではないだろうか》(k.2942)というのは納得的です。

[長久手の戦いの敗北後の秀吉の巻き返し]

 尾張中入りは池田恒興らの発案とされていますが《これほどの規模の作戦は、やはり秀吉が発案したと考えたほうが自然であろう。結局それが長久手合戦で失敗したため、敗戦の屈辱を糊塗すべく恒興の献策ということにしたのではないだろうか》(k.3277)というのはなるほどな、と。

 長久手の合戦で敗北した後、秀吉はどうやら体調を崩し、有馬温泉で湯治をします。その後、秀吉は近衛前久の猶子として関白となりますが、「豊臣」改姓を勅許され、五摂家に並ぶ豊臣氏を創設し、権力基盤を圧倒的なものとしていき、信雄領を徐々に浸蝕し、有利な和議に持ち込みます。

[評価]

《小牧・長久手合戦は、「織田体制」の二派それぞれが、関東・北陸・畿内・西国・四国の戦国大名、国衆、一揆などを巻き込みながら展開した抗争であった。そして、その勝者こそが天下を掌握する天下人となることが明確に予想されていた、まさに「天下分け目の戦い」だったといえるだろう》(k.4963)というのが著者の評価です。

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December 19, 2024

『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人

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『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人、ハヤカワ新書

 アメリカ主導のドルの基軸通貨体制がどう構築され、維持されてきたかを、独立直後のアナーキーな通貨システムから説明してくれます。日本の維新政府が藩札の整理をした上で通貨システムを構築するにあたり、米国の各州が勝手に発行していた通貨を統一する過程を参考にしたということも、実感として理解できました。

 「おわりに」で《筆者は1971年のニクソン・ショックで新聞やテレビが大騒ぎしているのを眺め、「何が問題なんだろう?」と理解できなかったことを覚えています。その後大蔵省・財務省、BIS、IMFなどでの職歴を含め、ほぼ40年間にわたり通貨問題や金融危機に向き合って、少しは問題の理解が進んだかな、と願っています》(k.3062、kはkindle番号)と書いていますが、ニクソン・ショックが金というアンカーから通貨が解き放たれたことが、いかに凄いことだったか、ということが改めてよくわかります。

[アナーキーな初期の米国の通貨制度]

 米国の通貨は、こんな風に始まります。

《植民地内で流通する貨幣(コイン)は数が圧倒的に不足していたため、日常の取引は物々交換か、あるいは特定の商品(小麦、タバコ、ビーバーの毛皮等)を通貨のように用いて行われていました。また、現地に先住していた人々(ネイティブ・アメリカン)が用いていた、貝殻を数珠つなぎにしたもの(ワンプン)を、入植者間でも貨幣代用品として活用していました(図1‐2)。当然不便ですし、商品価値が上下すれば通貨の価値も不安定となったでしょう(k.413)》。

 《1775年の大陸会議(コンチネンタル・コングレス Continental Congress:13植民地の代表者が集まる事実上の最高意思決定機関)で、金銀や商品の裏付けのない証券の発行を決定します。第二次世界大戦中に日本軍が占領地域で発行した軍票のようなものですが、最初のドル紙幣と呼んでよいでしょう(k.453)》

 1783年に合衆国の独立が正式に認められると《ドルの価値は当時流通していたスペイン・ドル硬貨と同一と定めます。そのため市場のスペイン・ドル硬貨を無作為抽出して平均を取り、1ドルは銀371グレイン(約24グラム)と決定します。また、当時の金と銀の交換比率(1:15)から、1ドルは金24グレイン(約1・6グラム)とも定められました。つまり、金と銀の双方によってドルの価値を定める「複本位制」を採用したわけです》(k.484)。

 そしてリパブリカンが各州で州法に基づき民間銀行(州法銀行)が設立できるようにしたのですが、当然、不安定。《商店主などが受け取った紙幣を急いで発行元の銀行に持ち込んだことは想像に難くありません。一方銀行の側では、なるべく銀行券の償還に応じないために、わざわざ人里離れた山の中に本店を置くなどしてあえて不便にした》(k.517)というほぼ詐欺的な状況でした。

 この結果《1811年の紙幣発行残高は、第一合衆国銀行と州法銀行を合わせても2810万ドルだったのが、1816年には州法銀行だけで6800万ドルも発行していました。州法銀行が次々と設立され、偽造紙幣や更には全く存在しない銀行の銀行券まで流通しますので、何が何だか分からない、という状態》(k.545)になります。さらに《1860年時点で、州法銀行券は2億700万ドル流通していましたが、銀行数は1572行で、銀行券の種類は7000種に上り、そのうち4000種が偽造ないし変造だった》(k.575)というアナーキーさ。

 その後《信用力のある公認の紙幣を導入できたので、連邦は州法銀行券の排除に乗り出します。1864年の法律で、州法銀行券への税率を10%に引き上げた結果、州法銀行券の残高は1867年に400万ドルまで減少し、ようやく州法銀行券問題が事実上解消するに至りました》(k.594)というあたりは、日本の維新政府が参考にしたハズです。

[金本位制からブレトンウッズ体制]

 第一次世界大戦後、疲弊した英国の経済を見た海外投資家は、ポンド資金を金に交換してイギリスから引き揚げました。金の流出に直面したイングランド銀行は、1931年9月21日に金本位制を停止します。一方、アメリカは1900年頃、世界最大の経済国となり、第二次世界大戦前夜には金の保有量は約8000トンと4倍に増加。大戦後には2万トンを超える量まで激増させますが、金本位制はとりませんでした。ブレトン・ウッズ体制は各国通貨を直接金と結びつけるのではなく、ドルを通じて間接的に金と結びつける=各国は自ら金を保有するのではなく、金と結びついたドルを外貨準備として保有するようにしました。

 同時に《アメリカの考えに沿って作られたIMFの枠組みでは、経常赤字国は、外貨準備が不足する場合、一時的に外貨(ドル)をIMFから借り入れて経常赤字を埋め合わせ、同時に輸入縮小・輸出振興のための経済政策を採って、経常収支黒字化を目指すことが求められました。一方の黒字国(アメリカ)は、IMFが他国に貸し出したドルに対する利子を受け取ります》(k.1154)。

 《アメリカは、貿易収支こそまだ小幅の黒字でしたが、多額の民間及び政府資金が国外に流出しており、国際収支は赤字でした。しかし、他国と違って唯一アメリカだけは、外貨獲得の努力をする必要がありません。引締め政策を採ることなく自国通貨(ドル)を刷り増すことで国際収支の赤字を穴埋めできるからです》(k.1251)

[ブレトン・ウッズ体制の崩壊]

 1971年のニクソン・ショックでドルと金とのリンクが断ち切られブレトン・ウッズ体制は創設後25年強で崩壊します。戦後の混乱から回復した主要国通貨が交換可能性回復してブレトン・ウッズ体制が想定通りの機能を果たすようになってからではたった15年も持ちませんでした。これは泥沼化したベトナムで出費がかさみ、金との交換ができなくなったためですが、崩壊したとはいっても、ブレトン・ウッズ体制は金本位制よりも優れていました。金本位制下では、為替レートに下落圧力がかかると国内の景気を無視して金利が引き上げられて恐慌が起こりました。しかし第二次大戦後は、国民生活の向上や完全雇用の実現が民主主義国家の優先事項となったりして、金融政策は国内に目を向けたのになったわけです。

 ブレトン・ウッズ体制崩壊直後、当コナリー財務長官は国際会議で「ドルは我々の通貨だが、お前たちの問題だ」とドルが不安定だと困るのはアメリカ以外の国だと言い放ったそうです(k.1427)。アメリカが経常収支赤字の削減に進んだら世界同時不況に陥ると困るだろう、と。

 《ブレトン・ウッズ体制後の国際通貨秩序が極めて柔軟なもの(変動相場制)だったからです。ポンドは、硬直的な「現場」(金本位制)に斃れましたが、ドルは「現場」を柔軟にすることで生き延びたのです》(k.373)。

 そして《アメリカが規律にとらわれない政策を行い、黒字国にも内需拡大を求めたことが、種々の歪みやバブル(及びその崩壊)を伴いながらも現在の空前の豊かさを生み出す源泉となったという意味で、これはドル秩序の特徴》(k.1567)だと。

[ユーロ、円、元は基軸通貨にはなれない]

 英語で「一世代(onegeneration)」と言うと概ね25年のことを示すそうで、次の25年となる2050年までを想定しても筆者はユーロ、円、元は基軸通貨にはなれないことを説明していきますが、興味のある方はご自身でまとめてください。

[目次]
序章   鷲は舞い降りた 国際通貨覇権の淵源
第1章  幼年期の終り ドルの誕生
第2章  死にゆく者への祈り 最初の基軸通貨英ポンドの凋落
第3章  黄金三角 短命に終わった基軸通貨としてのドル
第4章  ゴッドファーザー 生き延びたドル秩序
第5章  大いなる幻影 ユーロの挑戦
第6章  ¥の悲劇 地盤沈下する円
第7章  レッド・ドラゴン 人民元の興隆
第8章  電気羊の夢 デジタル・カレンシーの登場
第9章  アクロイド殺し ドルを殺す者は誰か?
第10章  そして誰もいなくなった? 国際通貨覇権の行方
おわりに 世界はどこへ向かうのか

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November 26, 2024

『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』

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『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』仁藤敦史、中公新書

 あまり、深くは考えないようにしていたヤマト王権の任那問題ですが、新書でまとまった本が出たという読書界の話しだったので購入、読了しました。これまで、あいまいなままにしていた広開土王碑やいわゆる「任那日本府」の問題について、納得感のある説明の背景を得られたと感じましたし、実は日本国内の磐井の乱が、朝鮮半島情勢を深い関わりを持っていたという視点も得られました。

[広開土王碑と磐井の乱]

 まず広開土王碑に関してですが、旧帝国陸軍による改竄があるのではないかという問題に関しては《石灰塗布以前の「原石拓本」がいくつか中国で発見され、編年研究も深化し、改竄の可能性は低くなった(徐建新二〇〇六、武田幸男一九八八・二〇〇九)》(k.653、kはkindle番号)とのこと。なんで改竄の話しが出てきたかというと、広開土王碑には倭軍が強大な軍だったことが書かれていて、そんなことわざわざ書くか…ということからだと思いますが、広開土王の立場に立てば、そんな強大な軍を打ち破ったんだ、というマウントが取れるわけです。

 《史料批判を行えば「広開土王碑」は客観的な記述ではない。高句麗中心の世界観や守墓役体制(王墓を守る労役を負担させる制度)の維持を主張するための碑である。そこでは倭の活動が誇張されている》(k.624)が、《百済に主導された九州勢力を中心とする出兵の可能性》(k.698)はある、と。

 著者によると1)百済の近肖古王の時代に倭と百済が交渉を開始したという「百済記」の記述2)百済と倭の良好な関係がうかがえる七支刀が存在すること3)「広開土王碑」に記された三九九年、百済が倭と和通しとあり、百済からの働きかけによる出兵が想定されるが、その内実は少数の九州の軍士が中心だったと考えられる、とのこと。

[朝鮮半島の前方後円墳]

 百済への援軍は、筑紫国造を中心とする筑紫の兵で(日本書記の欽明紀一五年一二月条)、馬韓では筑紫の人びとが土着していたであろう、と。統制を強めるヤマト王権は五二八年の国造磐井の乱後、筑紫の軍事拠点としてヤマト王権は那津官家を設置。那津官家は朝鮮半島に対する兵站基地の役割を持っており、これ以降、九州の軍勢のヤマト王権への従属は強くなる、という流れだったろう、と。

 そして百済が加耶諸国この地域を併合しようとしたときに、独立を維持するため倭系の移住民らが反対勢力として百済と敵対した、という事実もあるようです。

 馬韓と称された朝鮮半島南部西端に位置し、百済の領域支配を受けていなかった栄山江流域には五〇〇年前後の一時期だけ造られた倭系の前方後円墳が存在し、その埋葬者たちは筑紫出身の倭系であり、その一部がその後、倭系百済官僚になったと考えられる(k.1983)。しかし、それはヤマト王権による領域支配とは直接の関係がない、と。

[百済三書]

日本書記の朝鮮半島との外交記事には「百済三書」と総称される「百済記」「百済新撰」「百済本記」という百済系史料が多く用いられ、特に本文に付された注(分注)に引用されることが多く《これらは、日本国内にいた百済系の人々によって編纂されたと考えられている》(k.252)とのこと。

 《百済三書の時代順は、まず亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」。つぎに百済と倭の交通および「任那」支配の歴史的正当性を描いた「百済記」。最後に傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめた「百済新撰」となる。ただし、百済三書は順次編纂されたが、共通の目的により統合され、まとめられたと考えられる》(k.713)。

 また、「百済記」には干支を記載した項目があり、このことから《『日本書紀』神功紀は「百済記」記載の干支について、干支の周期六〇年の倍数である一二〇年、場合によっては一八〇年遡らせて、卑弥呼が登場する三世紀の中国史書に合わせようとしている》とのこと(k.1268)。

[任那日本府とは]

 著者によると、任那日本府は百済の加耶侵攻に対して、独立を維持し抵抗する倭系の人々の総称と考えるべきで、その背景には雄略天皇時代に、倭の有力豪族が王権の統率を離れて独自に朝鮮半島南部で活動するようになったことがある、と。たとえば、四六三年に吉備上道臣田狭が「任那国司」に任じられたものの、雄略天皇の意向に背いたとの記載がある、とのこと(k.1879)。

 こうしたことから、当時の半島にはヤマト王権から相対的に独立した旧倭臣勢力と、百済に敵対する在地勢力の連合が存在した。加耶で土着化した旧倭臣は五世紀後半における雄略天皇の時代から連続する勢力であり、先祖が管理した兵馬船を継承し軍事力を持っていた、と。

 《「任那」滅亡後も百済・新羅は「任那」の使者を倭に派遣していた。それは百済・新羅が仕立てた虚構の「任那」の使者である。彼らは倭へ共同入貢していた。倭は定期的に貢納してくれれば満足だった》(k.2685)というあたりも、なるほどな、と。

 そして著者は《両属的、あるいはボーダーレスな立場の人々がいたことを、史料から実証・解釈し強調》しています(k.2910)。

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